2013年12月24日火曜日

おわりに

この記事を以って当ブログ「大河逍遥」の幕引きとさせて頂くつもりなのですが、いざ跋文をと思いましても、如何文章を展開させていこうかまるで閃かず・・・。
とは言っても気の利いた文章が書けるわけでもありませんので、気取らず気張らず、このブログを1年近く続けてきた自分を振り返った今の心境から綴っていくことにします。
冒頭の記事でも告白した通り、私ことみかんは三日坊主ならぬ三分坊主で、しかも極度の面倒くさがりでして。
正直大河ドラマ50回分の記事は続かない、絶対に途中で投げ出すと確信していたのですが、いい方向にその確信が裏切られました。
何より、こんなにも多くの方にこのブログが目に留まり、記事を読んで頂けるとは夢にも思ってませんでした。
根性のない私が、何だかんだ言いつつ毎週更新を続けられたのも、ひとえにここを訪れて下さる皆様のお蔭です。
やはり「読み手」なくして「書き手」は成立しませんから。

連載中、Twitterやメール、直接お会いした方々からは、色んな声を頂きました。
(アドレス表記のないお便りへのお返事は、返せないので返していません)
温かい声援だけでなく、貴重なご意見、ご指摘、頂いたお声の中に厳しいものがなかったと言えば嘘になります。
的外れなものは気にしないことにして、そのひとつひとつを心に留め、私なりに出来る範囲で、私のモットーを崩さずに50週ひたすら手を動かし続けたのが今の到着点です。
素人ですので、いつも勉強しながら記事を書いていた状態で、それ故に未熟な点や考察が浅かった部分はたくさんあったかと思います。
毎回脳髄をこれでもかと振り絞って記事を書き起こしていましたが、途中で自分でも何を言っているのか分からなくなったり、もやもやしたものを上手く言葉に表現出来ないことが多々あって、お世辞にも読みやすい記事ばかりではなかったかと思います。
実際自分でも納得のいく出来の記事は、片手の数ほどもありません。
それでもお付き合い下さった方には本当頭の上がらぬ心地です、ありがとうございます。

素人視線からぼちぼちまったり追っていたつもりではありますが、流石に大河50週続けるとなるとなかなか心身共々負担が大きく、次作以降の大河ドラマはブログに興す予定はありません。
こうしてみると、「八重の桜」でやってこれたのは、私が愛してやまない幕末の、しかも思い入れ一入の会津が舞台だったからというのは、やはり大きかったのだと思います。
何はともあれ、歴史学のれの字も知らぬ素人が、50週積み重ねて来た月日の結晶がこの「大河逍遥」というブログです。
総じて冗長傾向の強い連載ではありましたが、その中で読み手の皆様に一つでも思うところを残せられたら、また何かを与えられたのなら、これ以上ない喜びです。

これをもちまして、当ブログはこれで終わりとさせて頂きます。
ブログは終わりですが、Twitterでふよふよ漂っておりますので、また何処かでひょっこりお会いすることもあるかもしれません。
その際には、宜しくお願いします。
そして、何卒お手柔らかに。
最後にもう一度、お世話になった方々、ご愛読下さった皆様、応援して下さった人々に心からの感謝の気持ちを込めて。


 平成二十五年師走二十四日
 京都守護職を拝命した容保様が入京された日から150年が経過した夜に


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2013年12月22日日曜日

参考文献

[参考文献]

・「戦争の日本史18 戊辰戦争」保谷徹(吉川弘文館)
・「京都時代MAP 幕末維新編」新創社編(光村推古書院)
・「図説で迫る西郷隆盛」木村武仁(淡交社)
・「会津藩」野口信一(現代書館)
・「新島八重を歩く」星亮一、戊辰戦争研究会(潮書房光人社)
・「山本覚馬」安藤優一郎(PHP文庫)
・「新島八重の維新」安藤優一郎(青春新書)
・「保科正之 -徳川将軍家を支えた会津藩主-」中村彰彦(中公新書)
・「会津藩はなぜ「朝敵」か -幕末維新史最大の謎-」星亮一(ベスト新書)
・「幕末の会津藩 -運命を決めた上洛-」星亮一(中公新書)
・「新・歴史群像シリーズ 14 幕末諸隊録」(学研マーケティング)
・「新選組戦場日記―永倉新八「浪士文久報国記事」を読む」木村幸比古(PHP研究所)
・「川崎尚之助と八重 一途に生きた男の生涯」あさくらゆう(知道出版)
・「池田屋事件の研究」中村武生(講談社)
・「女たちの会津戦争」星亮一(平凡社新書)
・「奥羽越列藩同盟」星亮一 (中公新書)
・「山本覚馬傳」青山霞村(京都ライトハウス)
・「明治思想史の一断面-新島襄・徳富蘆花そして蘇峰」伊藤彌彦(晃洋書房)
・「新島襄自伝」同志社編(岩波文庫)
・「新島襄書簡集」同志社編(岩波文庫)
・「慶喜のカリスマ」野口武彦(講談社)
・「二〇一三年NHK大河ドラマ特別展八重の桜 図録」NHK編(NHKプロモーション)
・「京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記- 1」山川浩(平凡社)
・「京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記- 2」山川浩(平凡社)
・「幕末史」半藤一利(平凡社)
・高橋正則(1982)「議会政治へ の軌道を敷いた大隈の入閣」駒澤大学法学部政治学論集15(未公刊)
・迫田千加子他(2007)「戦前の広島県における看護婦養成の足跡-94歳の元看護婦が受けた教育を手がかりに-」看護学統合研究8巻2号
・「新島襄全集1~10」新島襄全集編集委員会編(同朋舎出版)
・「世界史のなかの明治維新」明治維新史学会編(有志舎)
・「明治維新とナショナリズム-幕末の外交と政治変動-」三谷博(山川出版社)
・近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)


その他、同志社社史資料センター、及び私の出身大学図書館には、資料の面で大変お世話になりましたことを、心から感謝の気持ちを表し篤くお礼申し上げます。

2013年12月18日水曜日

「八重の桜」総評 -桜は咲いたか-

2013年の大河ドラマ「八重の桜」の制作発表が行われたのは、2011年6月22日のことだったでしょうか。
「日本を元気に」という目標を掲げ、八重さんの生き方を通して東日本大震災を受けた東北に向け「力強いメッセージ」として描いていく、という目標の様なものが第一にあったことは、皆様ご承知の通りです。
「八重の桜」が「復興大河」と言われるのは、そういった背景からです。
桜、とあるのも、また咲いて春を迎えるという意味を込めてでしょうね。
NHKに展示されていたドラマのポスターにも書いてあった、「また咲こう、福島」のキャッチフレーズは、大好きでした。

さて、ではここで作麼生。
それほどまでに想いが込められた八重の「桜」は、咲いたのか?
すぐに説破、とは行かないでしょうから、私なりに感じたことを、やっぱりいつものようにタラタラと書かせて頂きます。

大河ドラマというのは、ご当地の観光誘致という面でも非常な効果を発揮するものでして、観光客が来たらお金が地元に落ちて、地元の経済がぐるぐる回ります。
経済学が苦手な私でも分かる、いわゆるこの「大河ドラマ効果」の面に於いては、「八重の桜」は大盛況だったと言ってまず間違いないでしょう。
会津に足を運んだ人は多いと聞きますし、旅行会社でツアーもたくさん組まれていました。
私などは、会津への思いは募ってもなかなか遠い地ですので、仕事の休みの確保もままならないことも相俟って未だに会津未踏なのですが、それでも今年は会津の方から何かと私の傍にやって来てくれました。
つまりは会津(福島)の物産展ですね。
八重さんが人生の半分以上を過ごした京都は近いこともあってか、今までほとんど行われていなかったように思う会津の物産展が、私の周りでは何度も催されていました。
そこを通じて、私の部屋には赤べこ三つに起き上がり小法師も三つやって来て・・・。
また友人から会津土産として頂いた会津木綿は、カーテンやランチョンマットに姿を変えておりますし、会津漆器の小物整理箱は品よく茶箪笥の中に収まっております。
気付けば、会津未踏の身ながら、部屋の中はすっかり会津の民芸品で埋め尽くされております。
私のように遠隔地ながら民芸品ナドナドを買うということから、会津まで赴いてその地に泊まって旅する・・・というところも含め、やっぱりこれもまるっと「大河ドラマ効果」と言えるのではと思います。
何より福島県の風評被害払拭に、「八重の桜」が効果を発揮したのは事実でしょう。
人が赴けば町も活気づく。
そういった現代と直結する面で見ますと、「桜」は満開に咲き誇ったと思います。

ではドラマに込められた、もうひとつのコンセプトの方の咲き具合は如何だったか。
言わずもがなそのコンセプトは、「薩長史観ではない会津から見た幕末史」。
これについては当ブログで散々申し上げているので、ブログを読んで下さってる方はもうお分かりかと思いますが、こちらの「桜」は咲かず、蕾程度で留まったと感じています。
いえ、途中までは順調でしたので、あの調子で行ってくれれば蕾も綻んだでしょう。
しかし前半(会津編)で積み重ねてきたものを、後半(京都編)で一気に崩して自滅したと言いますか・・・「悪かったのは会津です」と容保様や覚馬さんの口から言わせてしまったのがとどめでした。
以前の記事でも口うるさく書かせて頂きましたが、単純な二元論は歴史には通用しないんです。
そこを、単純な二元論を持ち込んで善悪つけてしまうような真似をしてしまったから、結局は「会津が悪い」といういつもの薩長史観幕末と何ら変わらないものに成り下がってしまった。
最初コンセプト通りの良い作品になりそうだっただけに、この着地点は物凄く惜しいことだと思います。
惜しいからこそ、薩長史観の幕末史ばかりが必ずしも歴史だとは思ってなかったからこそ、口うるさく騒いでいたのです。
この気持ち、少しでも酌んでお分かり頂けたら幸いです。

もうひとつおまけで、ドラマとしての出来の「桜」の咲き具合を検討したいと思います。
いわゆる「八重の桜」が、ドラマ(物語)としてどうだったのか、ということですね。
これに関しては完全に個人評価ですので、飽く迄私はこう思ったんだよ、という程度に受け止めておいて下さい。
自分が思ってることと違うかもしれませんが、あなたにはあなたの評価が、私には私の評価がある、それで良いじゃありませんか。
で、物語としての「八重の桜」は、登場人物の書き込みの粗さ、話の中で登場人物を成長させられなかった積み重ねの下手さが、非常に良く目立ったと思います。
ドラマの中の登場人物だって人なわけですから、感情もあるし、考えもする。
それが行動や発言となって表れてくる。
そういうのを見て、視聴者は「ああ、この人はこういうキャラなんだな」と認識していくのですが、それがほとんど出来なくてですね。
いつか私がブログの記事で零した、「八重さんから会津を感じられない」というのも、そういう描写の甘さが引き起こしたものだと思います。
特に後半は、奥行きのない紙芝居か何かを見せられているような感じになることもしばしば。
映像としては、会津の自然も、籠城戦の戦闘風景も、明治期の八重さんの洋装も、その他諸々素晴らしかったのですが、視覚的な美しさを並べるのなら写真集でも出来ます。
でもドラマなのですから、その視覚的な美しさが動いているわけですよ。
そこに温度を授けられなかったのは、完全に制作側の至らなさでしょう。
ドラマとしてだけの点数をつけるなら、65点でしょうかね。
70点はあげられないです、残念ながら。
それと後は、物語に史実を加える、その匙加減・・・とでも言いましょうか。
ドラマなんですから脚色創作部分あって当然ですし、史実に絶対忠実であれ、と、そんな元を求める気は毛頭御座いません。
いつも、史実では~史実では~というせいか、何だか私は史実絶対主義者のように思われているかもしれません。
ですが、「面白くて、歴史に対して敬意を忘れてない」創作であれば、出されても私は何も文句言いません。
何かにつけて不満があったのは、過去の記事でも何度か触れてきましたが、それを創作するにあたって歴史への敬意が感じられないことがあったからです。
歴史を題材にしたものを脚色する、あるいは創作を挿むということは、「何してもいい」とイコールではありません。
それは『不如帰』という小説を書いて、捨松さんに精神的大ダメージ与えた蘆花さんのしたことと同じです。
だからと言って、先ほど申し上げたように史実に絶対であれ、というわけでもない。
要はバランスの問題なのですが、そのバランスが恐ろしいほど宜しくなかったかと。
(このバランス、歴史を扱うドラマでは欠かせないのに・・・)

と、まあ色々言いましたが、全体で言いますと五分咲きではないので七分咲き辺りでしょうかね。
満開の評は差し上げられません。
何はともあれ「八重の桜」に携わったスタッフ、出演者、関係者の皆々様、大変お疲れ様でした。

ではでは、此度はこのあたりで。


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