2013年12月24日火曜日

おわりに

この記事を以って当ブログ「大河逍遥」の幕引きとさせて頂くつもりなのですが、いざ跋文をと思いましても、如何文章を展開させていこうかまるで閃かず・・・。
とは言っても気の利いた文章が書けるわけでもありませんので、気取らず気張らず、このブログを1年近く続けてきた自分を振り返った今の心境から綴っていくことにします。
冒頭の記事でも告白した通り、私ことみかんは三日坊主ならぬ三分坊主で、しかも極度の面倒くさがりでして。
正直大河ドラマ50回分の記事は続かない、絶対に途中で投げ出すと確信していたのですが、いい方向にその確信が裏切られました。
何より、こんなにも多くの方にこのブログが目に留まり、記事を読んで頂けるとは夢にも思ってませんでした。
根性のない私が、何だかんだ言いつつ毎週更新を続けられたのも、ひとえにここを訪れて下さる皆様のお蔭です。
やはり「読み手」なくして「書き手」は成立しませんから。

連載中、Twitterやメール、直接お会いした方々からは、色んな声を頂きました。
(アドレス表記のないお便りへのお返事は、返せないので返していません)
温かい声援だけでなく、貴重なご意見、ご指摘、頂いたお声の中に厳しいものがなかったと言えば嘘になります。
的外れなものは気にしないことにして、そのひとつひとつを心に留め、私なりに出来る範囲で、私のモットーを崩さずに50週ひたすら手を動かし続けたのが今の到着点です。
素人ですので、いつも勉強しながら記事を書いていた状態で、それ故に未熟な点や考察が浅かった部分はたくさんあったかと思います。
毎回脳髄をこれでもかと振り絞って記事を書き起こしていましたが、途中で自分でも何を言っているのか分からなくなったり、もやもやしたものを上手く言葉に表現出来ないことが多々あって、お世辞にも読みやすい記事ばかりではなかったかと思います。
実際自分でも納得のいく出来の記事は、片手の数ほどもありません。
それでもお付き合い下さった方には本当頭の上がらぬ心地です、ありがとうございます。

素人視線からぼちぼちまったり追っていたつもりではありますが、流石に大河50週続けるとなるとなかなか心身共々負担が大きく、次作以降の大河ドラマはブログに興す予定はありません。
こうしてみると、「八重の桜」でやってこれたのは、私が愛してやまない幕末の、しかも思い入れ一入の会津が舞台だったからというのは、やはり大きかったのだと思います。
何はともあれ、歴史学のれの字も知らぬ素人が、50週積み重ねて来た月日の結晶がこの「大河逍遥」というブログです。
総じて冗長傾向の強い連載ではありましたが、その中で読み手の皆様に一つでも思うところを残せられたら、また何かを与えられたのなら、これ以上ない喜びです。

これをもちまして、当ブログはこれで終わりとさせて頂きます。
ブログは終わりですが、Twitterでふよふよ漂っておりますので、また何処かでひょっこりお会いすることもあるかもしれません。
その際には、宜しくお願いします。
そして、何卒お手柔らかに。
最後にもう一度、お世話になった方々、ご愛読下さった皆様、応援して下さった人々に心からの感謝の気持ちを込めて。


 平成二十五年師走二十四日
 京都守護職を拝命した容保様が入京された日から150年が経過した夜に


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2013年12月22日日曜日

参考文献

[参考文献]

・「戦争の日本史18 戊辰戦争」保谷徹(吉川弘文館)
・「京都時代MAP 幕末維新編」新創社編(光村推古書院)
・「図説で迫る西郷隆盛」木村武仁(淡交社)
・「会津藩」野口信一(現代書館)
・「新島八重を歩く」星亮一、戊辰戦争研究会(潮書房光人社)
・「山本覚馬」安藤優一郎(PHP文庫)
・「新島八重の維新」安藤優一郎(青春新書)
・「保科正之 -徳川将軍家を支えた会津藩主-」中村彰彦(中公新書)
・「会津藩はなぜ「朝敵」か -幕末維新史最大の謎-」星亮一(ベスト新書)
・「幕末の会津藩 -運命を決めた上洛-」星亮一(中公新書)
・「新・歴史群像シリーズ 14 幕末諸隊録」(学研マーケティング)
・「新選組戦場日記―永倉新八「浪士文久報国記事」を読む」木村幸比古(PHP研究所)
・「川崎尚之助と八重 一途に生きた男の生涯」あさくらゆう(知道出版)
・「池田屋事件の研究」中村武生(講談社)
・「女たちの会津戦争」星亮一(平凡社新書)
・「奥羽越列藩同盟」星亮一 (中公新書)
・「山本覚馬傳」青山霞村(京都ライトハウス)
・「明治思想史の一断面-新島襄・徳富蘆花そして蘇峰」伊藤彌彦(晃洋書房)
・「新島襄自伝」同志社編(岩波文庫)
・「新島襄書簡集」同志社編(岩波文庫)
・「慶喜のカリスマ」野口武彦(講談社)
・「二〇一三年NHK大河ドラマ特別展八重の桜 図録」NHK編(NHKプロモーション)
・「京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記- 1」山川浩(平凡社)
・「京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記- 2」山川浩(平凡社)
・「幕末史」半藤一利(平凡社)
・高橋正則(1982)「議会政治へ の軌道を敷いた大隈の入閣」駒澤大学法学部政治学論集15(未公刊)
・迫田千加子他(2007)「戦前の広島県における看護婦養成の足跡-94歳の元看護婦が受けた教育を手がかりに-」看護学統合研究8巻2号
・「新島襄全集1~10」新島襄全集編集委員会編(同朋舎出版)
・「世界史のなかの明治維新」明治維新史学会編(有志舎)
・「明治維新とナショナリズム-幕末の外交と政治変動-」三谷博(山川出版社)
・近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)


その他、同志社社史資料センター、及び私の出身大学図書館には、資料の面で大変お世話になりましたことを、心から感謝の気持ちを表し篤くお礼申し上げます。

2013年12月18日水曜日

「八重の桜」総評 -桜は咲いたか-

2013年の大河ドラマ「八重の桜」の制作発表が行われたのは、2011年6月22日のことだったでしょうか。
「日本を元気に」という目標を掲げ、八重さんの生き方を通して東日本大震災を受けた東北に向け「力強いメッセージ」として描いていく、という目標の様なものが第一にあったことは、皆様ご承知の通りです。
「八重の桜」が「復興大河」と言われるのは、そういった背景からです。
桜、とあるのも、また咲いて春を迎えるという意味を込めてでしょうね。
NHKに展示されていたドラマのポスターにも書いてあった、「また咲こう、福島」のキャッチフレーズは、大好きでした。

さて、ではここで作麼生。
それほどまでに想いが込められた八重の「桜」は、咲いたのか?
すぐに説破、とは行かないでしょうから、私なりに感じたことを、やっぱりいつものようにタラタラと書かせて頂きます。

大河ドラマというのは、ご当地の観光誘致という面でも非常な効果を発揮するものでして、観光客が来たらお金が地元に落ちて、地元の経済がぐるぐる回ります。
経済学が苦手な私でも分かる、いわゆるこの「大河ドラマ効果」の面に於いては、「八重の桜」は大盛況だったと言ってまず間違いないでしょう。
会津に足を運んだ人は多いと聞きますし、旅行会社でツアーもたくさん組まれていました。
私などは、会津への思いは募ってもなかなか遠い地ですので、仕事の休みの確保もままならないことも相俟って未だに会津未踏なのですが、それでも今年は会津の方から何かと私の傍にやって来てくれました。
つまりは会津(福島)の物産展ですね。
八重さんが人生の半分以上を過ごした京都は近いこともあってか、今までほとんど行われていなかったように思う会津の物産展が、私の周りでは何度も催されていました。
そこを通じて、私の部屋には赤べこ三つに起き上がり小法師も三つやって来て・・・。
また友人から会津土産として頂いた会津木綿は、カーテンやランチョンマットに姿を変えておりますし、会津漆器の小物整理箱は品よく茶箪笥の中に収まっております。
気付けば、会津未踏の身ながら、部屋の中はすっかり会津の民芸品で埋め尽くされております。
私のように遠隔地ながら民芸品ナドナドを買うということから、会津まで赴いてその地に泊まって旅する・・・というところも含め、やっぱりこれもまるっと「大河ドラマ効果」と言えるのではと思います。
何より福島県の風評被害払拭に、「八重の桜」が効果を発揮したのは事実でしょう。
人が赴けば町も活気づく。
そういった現代と直結する面で見ますと、「桜」は満開に咲き誇ったと思います。

ではドラマに込められた、もうひとつのコンセプトの方の咲き具合は如何だったか。
言わずもがなそのコンセプトは、「薩長史観ではない会津から見た幕末史」。
これについては当ブログで散々申し上げているので、ブログを読んで下さってる方はもうお分かりかと思いますが、こちらの「桜」は咲かず、蕾程度で留まったと感じています。
いえ、途中までは順調でしたので、あの調子で行ってくれれば蕾も綻んだでしょう。
しかし前半(会津編)で積み重ねてきたものを、後半(京都編)で一気に崩して自滅したと言いますか・・・「悪かったのは会津です」と容保様や覚馬さんの口から言わせてしまったのがとどめでした。
以前の記事でも口うるさく書かせて頂きましたが、単純な二元論は歴史には通用しないんです。
そこを、単純な二元論を持ち込んで善悪つけてしまうような真似をしてしまったから、結局は「会津が悪い」といういつもの薩長史観幕末と何ら変わらないものに成り下がってしまった。
最初コンセプト通りの良い作品になりそうだっただけに、この着地点は物凄く惜しいことだと思います。
惜しいからこそ、薩長史観の幕末史ばかりが必ずしも歴史だとは思ってなかったからこそ、口うるさく騒いでいたのです。
この気持ち、少しでも酌んでお分かり頂けたら幸いです。

もうひとつおまけで、ドラマとしての出来の「桜」の咲き具合を検討したいと思います。
いわゆる「八重の桜」が、ドラマ(物語)としてどうだったのか、ということですね。
これに関しては完全に個人評価ですので、飽く迄私はこう思ったんだよ、という程度に受け止めておいて下さい。
自分が思ってることと違うかもしれませんが、あなたにはあなたの評価が、私には私の評価がある、それで良いじゃありませんか。
で、物語としての「八重の桜」は、登場人物の書き込みの粗さ、話の中で登場人物を成長させられなかった積み重ねの下手さが、非常に良く目立ったと思います。
ドラマの中の登場人物だって人なわけですから、感情もあるし、考えもする。
それが行動や発言となって表れてくる。
そういうのを見て、視聴者は「ああ、この人はこういうキャラなんだな」と認識していくのですが、それがほとんど出来なくてですね。
いつか私がブログの記事で零した、「八重さんから会津を感じられない」というのも、そういう描写の甘さが引き起こしたものだと思います。
特に後半は、奥行きのない紙芝居か何かを見せられているような感じになることもしばしば。
映像としては、会津の自然も、籠城戦の戦闘風景も、明治期の八重さんの洋装も、その他諸々素晴らしかったのですが、視覚的な美しさを並べるのなら写真集でも出来ます。
でもドラマなのですから、その視覚的な美しさが動いているわけですよ。
そこに温度を授けられなかったのは、完全に制作側の至らなさでしょう。
ドラマとしてだけの点数をつけるなら、65点でしょうかね。
70点はあげられないです、残念ながら。
それと後は、物語に史実を加える、その匙加減・・・とでも言いましょうか。
ドラマなんですから脚色創作部分あって当然ですし、史実に絶対忠実であれ、と、そんな元を求める気は毛頭御座いません。
いつも、史実では~史実では~というせいか、何だか私は史実絶対主義者のように思われているかもしれません。
ですが、「面白くて、歴史に対して敬意を忘れてない」創作であれば、出されても私は何も文句言いません。
何かにつけて不満があったのは、過去の記事でも何度か触れてきましたが、それを創作するにあたって歴史への敬意が感じられないことがあったからです。
歴史を題材にしたものを脚色する、あるいは創作を挿むということは、「何してもいい」とイコールではありません。
それは『不如帰』という小説を書いて、捨松さんに精神的大ダメージ与えた蘆花さんのしたことと同じです。
だからと言って、先ほど申し上げたように史実に絶対であれ、というわけでもない。
要はバランスの問題なのですが、そのバランスが恐ろしいほど宜しくなかったかと。
(このバランス、歴史を扱うドラマでは欠かせないのに・・・)

と、まあ色々言いましたが、全体で言いますと五分咲きではないので七分咲き辺りでしょうかね。
満開の評は差し上げられません。
何はともあれ「八重の桜」に携わったスタッフ、出演者、関係者の皆々様、大変お疲れ様でした。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年12月17日火曜日

みねにかかれるむら雲のはれる時

幕末、「朝敵」の汚名を着せられ、会津戦争で鶴ヶ城を開城・降伏し敗者となった会津。
その汚名返上と名誉挽回までの道のりは並大抵のものではなく、長い長い歳月がかかりました。
容保様と同じく「朝敵」となった慶喜さんは、明治31年(1898)3月2日に明治天皇に拝謁を許されていますが、容保様はその機会に恵まれないまま、その生を終えられました。
つまり容保様存命中には、会津の汚名返上も名誉回復も、叶わなかったということです。
さぞやご無念だったと存じます。
その辺りの心中は、私なんぞの筆では到底書き尽くせません。
けれどもその容保様のご無念は、彼の後に続いた会津の人々が晴らしたのでした。
まずその第一として挙げられるのが、何を差し置いても浩さんと健次郎さんのご兄弟による『京都守護職始末』。
「八重の桜」の視聴を続けていた方はご存知のこの『京都守護職始末』、現在は平凡社さんから出版されていて、我々は普通に買うことも読むことも出来ます。
ですが出版に至るまで、それこそ紆余曲折を経たのもまた、「八重の桜」の視聴を続けていた方にはご存知の通りです。
ここでちょっと、『京都守護職始末』の刊行に至るまでのアレコレを、年表にしてみましょうか。

明治26年(1893):松平容保没する
明治30年(1897):山川浩、執筆着手
明治31年(1898):浩没する
同年:山川健次郎、宸翰と『京都守護職始末』草稿を貴族院勅選議員の三浦梧楼に見せる
明治35年(1892):健次郎、会津松平家に三万円の下賜金を得ることと交換条件に、『京都守護職始末』の出版を見合わせることを受け容れる
明治37年(1904):北原雅長、『七年史』発刊
明治44年(1911):元会津藩士とその関係者のみ、という限定範囲で『京都守護職始末』の出版が許される
大正11年(1922):健次郎、『會津戊辰戦史』の編纂に着手
昭和6年(1931):『『會津戊辰戦史』』完成、健次郎没する
昭和8年(1933):『會津戊辰戦史』発刊

『會津戊辰戦史』とは何ぞやと思うかもしれませんが、『京都守護職始末』の続編だと捉えて頂いて問題ないと思います。
『七年史』は神保修理さんの弟、北原雅長さんによって書かれたもので、文久2年(1862)から明治元年(1868)までの7年間の会津の歴史が綴られています。
これを出版したことにより、雅長さんは不敬罪で投獄されてしまいました。
会津藩の誠忠を披瀝しようとしたのが、政府に睨まれたのでしょうね。
そういう空気だった中、よくまあ出版したものだ・・・と思いますが、「正したい」「汚名を雪ぎたい」と言う気持ちがそれだけ強かったということの表れでもありますよね。

ですが個人的に、会津の汚名返上の決定打は『京都守護職始末』の出版から更に17年後の出来事だと思います。
つまり昭和3年(1928)9月28日、松平節子さんが秩父宮雍仁親王と結婚し、秩父宮勢津子妃となった件です。
節子さん(成婚にあたり勢津子と改名)は容保様の六男・恒雄さんの長女で、秩父宮雍仁親王は昭和天皇の実弟です(=今上天皇の叔父)。
朝敵の汚名を背負わされ続けていた会津藩の血を引く節子さんが、皇室に輿入れをしたことによって、その汚名の返上が叶った瞬間です。
当時まだ存命だった八重さんはこの輿入れを大変喜び、「萬歳々々萬ゝ歳」と喜び溢れる書を残しています(福島県立葵高等学校にあります)。
嗚呼本当に嬉しいとき、人は嬉しいという言葉しか使えないのだろうなと、そう強く思わされますね。
ちなみに八重さん、この喜びに居てもたってもいられず、京都から東京まで御婚儀奉祝のために列車で向かいました。
八重さんに限らず、このご成婚は会津の人々にとっては最上級の慶事でした。
聞いた話ですが、故郷から勢津子妃のお車を見送る会津の人々の列が延々だったとか、その他にも色々とお話が残っているようです。
このとき八重さんは、こんな歌を詠んでいます。

いくとせかみねにかかれるむら雲のはれて嬉しきひかりをそ見る

歌意は説明するだけ野暮なので控えますね。
勢津子妃の婚礼と同年、昭和天皇の即位が行われました。
奇しくもその年は戊辰戦争から60年ということで、鶴ヶ城を開城した日に程なく近い11月17日、会津所縁の人たちで構成されている京都会津会は、金戒光明寺塔頭の西雲院に集まり、境内にある会津藩殉難者墓地の墓前で秋季例会を開きました。
その時の集合写真が、八重の桜紀行にも出ていた以下のものです。

中央には容保様の子、保男さんと恒雄さんが座っており、前列左から3人目が八重さんで、前列の中央寄りに帽子を手に持っているのが健次郎さんです。
八重さんは、会津所縁の人々との再会を喜んだようで、この写真の裏に「千代経ともいろも変わらぬ若松の木のしたかげに遊ぶむれつる」 という歌を書き残していました。

会津に着せられた朝敵の汚名は、それこそじわじわと雪が解けて春が近付くような速度で、長い時間と段階を経て、60年かけてようやく晴れたのです。
60年の中で、それに立ち会えずに亡くなった方の方が多いと思います。
それでも誰かがバトンを繋いでいくように・・・そして「その日」が来た。
新時代を、旧会津藩士たちがどれだけ懸命に生きてそこにたどり着いたのか。
会津が大河ドラマの題材になったのを機に、知って欲しい、忘れないで欲しいと思いました。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年12月16日月曜日

第50回「いつの日も花は咲く」

泣いても笑っても最終回、というようなフレーズはよく耳にしますが、いっそ泣くか笑うかくらい出来たらどれだけ良いだろうかと思う最終回というのは、近年の大河最終回のお決まりパターンになりつつあるようで。
その例に漏れず、「八重の桜」の最終回も、ぽかーん、とした幕の下ろし方でした。
ドラマの総評はまた別に記事を設けるとして、まずは第50回の記事に取り掛かりたいところなのですが、やっぱりと言いますか、最後の最後まで取り立てて触れる点がなかったですね・・・(苦笑)。

日清戦争の下りに関しては、もう触れないことにします。
「坂の上の雲」観ましょう、の一言に尽きない杜撰さでしたし、大山さんひとりで全軍の指揮を執っているようにしか見えない奥行きのなさでしたので(笑)。
外地の遼東半島で頑張っていた大山さんら日本軍に対して、内地の広島陸軍予備病院で頑張っていたのが八重さんを始めとする、20人ほどの従軍看護婦達でした。
日清戦争の死傷者の内、療養を必要とする傷病者は本国に護送され、その看護に多くの従軍看護婦が動員されていました。
国からの要請を受けた日本赤十字社は、ただちに各病院に本支部より多くの従軍看護婦を派遣し、八重さんの所属していた京都支部の派遣先は広島だったのです。
広島と言えば、日清戦争の大本営は広島の第五師団司令部でした。
これは、明治天皇は前線の将兵に少しでも近い所でと望まれたことが関係しています。
八重さんが派遣された広島の陸軍予備病院は、患者の数が多くて病棟が足りず、バラック建ての病室を作って分院としてました。
日本赤十字社京都支部の担当はこのバラック建ての第三分院で、八重さんが担当してたのもそこです。
現在の国泰寺村にあったそうです。
看護婦らの置かれた環境は恵まれたものではなく、与えられた生活空間は八畳四間。
着の身着のまま、食事も看護衣のまま、明治27年11月4日から明治28年6月18日に亘って八重さん達は傷病者を介抱し、看護を続けていました。
ちなみに日清戦争での戦傷病者数トータルの、約5分の1がこの広島に運ばれてます
特に第三分院は低湿地にあって排水が宜しくないという立地条件だったこともあり、伝染病が発生します。
日清戦争ではコレラによる全国の患者数は約55000人、死者は4万人ほどでした。
広島に範囲を限りますと、感染者数の一番少なかったのが赤痢、続いてチフスで、コレラはこの二つの10倍以上もの感染者を出していました。
けれどもその三つの患者数よりも多かったのが、脚気患者です。
海軍は麦やパンを投入するなどして、ぼんやりとですが脚気予防に取り組んでいたのに対し、陸軍はその認識が遅れていましたからね(そして読んでお分かり頂ける通り、八重さんのいたのは陸軍の病院)。
ところでところでこの従軍看護師の条件として、「年寄りであること(40歳以上)」かつ「美人でないこと」というのがありました。
陸軍の見解として、「日本と欧米とでは風俗習慣が異なり、立派な戦功をたてた名誉の傷病者が、女性の看護を受け、万一、何か風紀上の悪評でも立ったら、折角の名誉を傷つけるおそれがある」という強い主張があったからです(江川義夫さんの『広島県医人伝』より)。
つまり、男性ばかりの中に年若い女性が介抱やら看護で付き添ってくれて、うっかり・・・なことになったら、風紀の上でも困る、というわけです。
実際、この頃は40歳以下の女性は病院への立入は禁止されていました。
・・・まあ、ドラマでは映像的な配慮もあってか、明らかに40歳に見えない看護婦さんばかりが立ち回っていましたが。
ちなみに八重さん、あの時点で49歳、数えで50歳です。
女優さんに老けメイクを施さないから、どうもその辺りの時代感というのでしょうか、そういうものが伝わって来にくいですね。
ついでながら、野戦病院があんなに長閑なわけないだろうとか、何で看護師さんたちの服あんなに綺麗なままなのとか、映像的な部分で突っ込みどころ満載です。
そんな従軍看護婦も、ものの数分で纏められるという駆け足っぷり。
八重さんの人生に於ける重要要素なので、今までのワッフルやクッキー焼くシーンを全部カットしてでもここにもう少し時間を割くべきだったのではなかろうかと、主人公という人間を描くために割り振られている時間の配分は最終回に至っても微妙なままのご様子。

日清戦争の頃、各新聞社からは戦地に「従軍記者」というものが派遣されていました。
「坂の上の雲」でも、子規さんがこれに赴いてたのは(そして喀血していた)皆様の記憶に新しいんじゃないかと思います。
蘇峰さんの国民新聞社もその例に漏れず、リアルタイムに近い新鮮な情報を齎すと共に、勇ましい戦地の話の記事で国内の士気を鼓舞するという意味で、新聞というメディア媒体の効力が発揮されました。
これがうっかりすると、とんでもない方へ人の意思を導いてしまいかねないことにはなるのですが、今はその話はしないことにして。
相変わらず戦争の二文字に対して眉を顰め、反戦意識の高い現代人のような八重さんですが、当時の日本国民が清国との戦争に熱狂してたのは紛れもない事実でして。
それを八重さんの口を通してあーだのこーだと言わせる前に、脚本はそれを「歴史の事実」として受け止めましょうよ。
そんな戦争万歳空気は駄目、って、現代人の物差し突っ込まないで欲しいです。
ちなみに日清戦争は最初、諸外国から見ても日本は負けるだろうな、と思われていたそうです。
が、いざ開戦して蓋を開けてみれば、近代化の歯車ぐるぐると急いで回して軍隊作った日本と、そういう体制がまだしっかりしてなかった清国との戦だったので、日本は勝てたんですよね。
逆に、数年後に起こる日露戦争は、物資も規模も何もかもが遥かに上回ってる上に、戦後革命が起こったとはいえ体制は整った国が相手でしたから、大苦戦したのも辛勝となったのも当然の成り行きと言えばそうなのですが、やっぱりその辺りは「坂の上の雲」が詳しいので、そちらを。

時に、新聞を通じて世の中に一言物申す蘇峰さんの姿に、「所詮兄貴は、大勢に流されて酔い痴れとるだけたい」と言い、自分は小説、と意気込む蘆花さん。
その彼が書いていた作品が『不如帰』という題名でしたが、これ、捨松さんと思しき女性を継子苛めする悪女のように描いた作品です(苦笑)。
当然捨松さんにとっては許しがたい、かつ大きな心の傷となった作品でした。
そんな作品の、一体どの辺りが「本当の人間」なのでしょうか・・・それともこれは、「創作物では何をしても良い」という、歴史を歪曲したり好き放題した本大河ドラマの裏メッセージか何かなのでしょうかね。
口で言ってることと、手で書いてることがまるで違うという、何とも皮肉な冗談のワンシーンでした。
そんな『不如帰』は、現在青空文庫で読むことが出来ますので、興味がある方は此方からどうぞ。

従軍看護師として広島に赴く前の明治27年(1894)、八重さんは裏千家道の茶人となります。
明治の女子教育と茶道というのは実は関係がありまして、平たくいえば茶道を通じて精神の鍛練、礼儀作法、洗練された端正な佇まい・・・などなど、日本女性の目指すべき要素を全て兼ね備えた茶道を学校教育に導入してたのですね。
物凄く砕いていえば、大和撫子の養成には茶道は打って付けですね、ということです。
裏千家としても、新局面を開発していくためには女子教育の一翼を担う必要があるということで、そこで新英女学校女紅場に裏千家茶道を中心とする茶道教育が導入されるに至ったのです。
そこで八重さんと裏千家が繋がる・・・という流れが出来るのですが、思いっきりスルーされて、まるで八重さんがある日急に思いつきの趣味でお茶を始めたように見えましたね(苦笑)。
八重さんは後に新島邸の一室を改造して茶室を作っており、「寂中庵」と名付けて毎月三回の月釜を懸けて茶会を開いていたそうです。
ただその茶道への没頭ぶり(茶道具や茶器代)が、八重さんの借金を益々増やしていくことになるのですが、そこはもう敢えて触れまい。
逸話はたくさんあるのに、触れられないことだらけのドラマの八重さんですが、雨の日に傘がなくてずぶ濡れになって歩いている生徒に傘を貸してあげた優しい逸話は史実です。
こういう部分をきちんと積み重ねて描いて、ドラマの中で「ハンサムウーマン」像を確立させて欲しかったのですが、最終回でそんなこと言っても詮無いですね。

明治29年(1896)5月20日、偉大なるおっかさまであった佐久さんが逝きます。
(さも八重さんひとりが残されたような描写でしたが、実際は養女の初子さんという存在がありましてですね・・・以前の記事でも触れましたが)
同年12月25日、八重さんは勲七等宝冠章を受勲しました。
この受勲は赤十字社京都支部の活動で受勲した初めての人であり、平民で初の女性勲章者でした。
しかもそれが会津の女性ということで(同年に瓜生岩子さんが藍綬褒章を賜っていますが)、察するにこの報はドラマの時尾さんのように、会津の人にとってはこの上なく嬉しく、誇らしいことだったかと存じます。
受勲されたのは八重さんだけでなく、合計16名がこのとき一緒に受勲されました。
しかし広島陸軍予備病院にいた従軍看護婦33名の内、受勲されたのは八重さんただひとりです。
その後八重さんは日本赤十字京都支部で新たに創設された篤志看護会の幹事に嘱託され、赤十字京都支部の幹部となりました。
明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると、京都駅構内に患者休養所が設置され、ここの担当を請け負った京都支部からは八重さんが行って藩護符と指揮監督し、翌年には篤志看護婦幹事として約2か月大阪で看護活動をしています。
こうした功績から、明治39年(1906)4月1日、八重さんは勲六等へ昇叙することとなりました。
平民で勲六等を自力で拝受したのは八重さんが最初ということで、個人的には勲七等宝冠章の時よりもこっちに重きを置いてドラマで描いて欲しかったなぁ・・・と。
いえ勲七等宝冠章でも十分喜ばしいことなんですけどね、昇叙にも大きな意味と価値があったんですよ。

明治31年(1898)3月2日、慶喜さんは有栖川宮威仁親王の仲介を経て、皇居参内、明治天皇に拝謁しました。
対面後、明治天皇は「やっと罪滅ぼしが出来た」と語った逸話は有名ですが、本音で言えば慶喜さんじゃなくて容保様を・・・と考えてしまいます。
既に容保様逝去されてるので無理なのですが、存命中に明治天皇に拝謁が叶って、慶喜さんが貰った言葉を貰えていたらどんなにか、と思わずにはいられません。
その慶喜さん、既に還暦も過ぎた61歳での再登場ですが、趣味に没頭した気まま生活を送っておられた点、容保様とは大違いですね。

あの時江戸が戦場となり、焼け野原になっていたら、この国は如何なっていたであろう
内戦が続き、国は弱り、果ては列強の属国となっていたかもしれません。江戸城の引き渡しを、無血開城という者もいます。なれど、血を流さずに維新がなったわけでは御座いません。上野の彰義隊、そして会津を始めとする奥州諸藩・・・

函館戦争も視野に入れてあげて欲しいところですが、この「もし~だったら、どうなっていたか」なやり取りは典型的ですね。
維新なんて言葉は何となく格好よく聞こえますが、要はお国のてっぺんに君臨してた政権引き摺り下ろした革命ですから、血が流れてないわけないんですよ。
でもその血を何故流してまで革命したのか、その血を流してまで作った新しい政府で、この先の日本を如何していきたいのか、その辺りのことが「八重の桜」では全く触れられないので、明治政府組が悉く小者に見えてしまうという(苦笑)。
ともあれ、時代を変えるって、ささやかなことじゃないと思うんですよ。
旧時代を守ろうとする人も、新時代を打ち建てようとする人も、それぞれの想いというのはある筈なんですよ、歴史は人間が紡いでるんですから。
なので前回の記事で散々書きましたが、どっちが悪い、どっちが正しい、何て単純な二元論は通用しないのね。
ただ、もし「悪い」を慶喜さんに見出すとすれば、いつだって良心的でいてくれた容保様を見捨てたことでしょうか(そしてそれを勝さんが引き継いで、会津をスケープゴートにしたという・・・)。
慶喜さんからの理不尽なこの仕打ちに、容保様はこんな詩を残しています。
古来より英雄数寄多し
なんすれぞ大樹 連枝をなげうつ
断腸す 三顧身を持するの日
涙をふるう 南柯夢に入るとき
万死報国の志 いまだとげず
半途にして逆行  恨みなんぞ果てん
暗に知る 地運の推移し去るを
目黒橋頭 杜鵑啼く
詩や和歌というものは、総じて解釈が人によって分かれる、文学的に難しいものではありますが、これが「どうして慶喜公は(=なんすれぞ大樹)、我ら会津を見捨てられたのか(=連枝をなげうつ)」、という恨み辛みが込められた詩であることはまず間違いのないことだと思います。
しかし皮肉なことと言いましょうか、容保様、慶喜さんそれぞれのお孫さん同士はやがて夫婦になり、その子供が徳川慶朝さんなのですね。
どれだけ恨み辛みを吐いても、会津松平家と徳川家は切れぬ関係のようです。

さて、容保様が生涯秘密にしていた(ドラマでは安売りのようにバンバン出てましたが)ご宸翰の存在が、明治政府に知られてしまいます。
先週も書きましたし、ご宸翰については以前の記事で書かせて頂いてますので改めて筆は割きませんが、「国家の安寧のためじゃ」とはまたまた大山さん、笑わせてくれる爆弾発言ですねぇ
いや、間違っても大山さんが悪いんじゃないですよ。
こんな台詞を書く脚本が拙い。
前回の茶番劇に続いて、今回は狂言回しか何かですか?
ご宸翰が世に出ては、あなた方が築いた藩閥政府の大義が失われでしまうからですか」っていう健次郎さんの発言が真実じゃないですか。
それをどうして変なテコ入れして、綺麗事で纏めようとしますかね。
国家の安寧だとか言ってますけど、山縣さんがご宸翰5万円買収しようとしたのは事実ですし、それって都合悪いから歴史の闇に葬ろうとしたってことでしょう?
それを危惧したから、会津松平家は安全な東京銀行の金庫に預けたんでしょう?
危険を察知しなかったら、わざわざ金庫に預けるようなことしませんよ。
歪曲させすぎでしょう・・・。
どこで道が別れたとか、考えてみたか」って大山さん言うけど、完全に空中に浮いてる意味不明な台詞です。
『京都守護職始末』が刊行されるまで、紆余曲折、ないしは妨害のようなものがあったのは紛れもない事実です。
その度ごとに、浩さんからこれの出版の遺志を継いだ健次郎さんはあの手この手を使って上手く立ち回ります。
このときも、実際は金銭的に困窮していた松平家救済のために、伊藤さんの口添えで3万円を下賜する代わりに出版見合わせを受け入れます、という流れだったようです。
限定範囲の出版が許された明治44年までは、まだまだ遠い道のりです。
『京都守護職始末』についてはまた別記事を設けようと思います。

幕末時には人口6万人ほどの奥州屈指の城下町だった会津ですが、明治のこの頃は戊辰戦争の爪痕もあってその半分くらいに激減していました。
それでも八重さんが再び故郷を訪れると、変わらずあの桜の樹は花を咲かせていました。
そこで再会した懐かしい顔、頼母さん。
彼が会津を終の棲家として戻って来たのは明治32年4月7日のことでした。
このとき70歳になっていた頼母さんは、身の丈5尺足らずなのに帯まで届く白髭を蓄え、足の大きさは9文半だったようです。
沼沢出雲邸跡に建てられた五軒続き二棟、トタン屋根の長屋(十軒長屋)の西棟の真ん中に「保科近悳」と表札を掲げてお住まいだったようで。
いわばかつてご城下の中だったところに再び居を構えられていたのですが、そんな頼母さんの長屋から、城下を出たところにあったはずのあの桜があんなに近くに見えるのは明らかに地理的な距離感が狂っているのですが、ここまで来たらもう突っ込む気も失せました(笑)。
何しに会津に戻って来たのか、と問う頼母さんに、八重さんは戦争があったから活躍して、勲章をもらったことが胸に痞えていると話します。

また戦の足音が近付いでいる。今度は満州に進んで来たロシアが相手です・・・剣に鋤に打ち変え国は国に向かって剣を上げない。そんな時は来ねぇのか、会津で考えたくなったのです

八重さんはこう申していますが、ロシアと戦争やって勝たないと、日本の国土がロシアにほぼ占領される形になります。
現代人の価値観を十二分に擦り込んで八重さんの口から非戦を語らせると、この時代人としては非常に異質なものになるという論理は、とうとう最後まで脚本にはご理解頂けなかったのですね。
相変わらず現代人と化してて気味が悪い八重さんはさて置き、色んなものを抜きにして頼母さんのこの台詞だけを見ると、西田さんの熱演と限りなくネイティブに近い会津弁も相俟って、良かったです。

わしはな、新政府がなじょな国つくんのが、見届げんべど、生ぎ抜ぐつもりであった。んだげんじょ、戊辰以来、わしの眼に焼ぎ付いたのは、なんぼ苦しい時も懸命に生きようとする人の姿。笑おうとする人の健気さ。そればっかりが、わしの心を胸を揺さぶんだ。八重、にしゃもそうだぞ。あの戦からすっくと立ち上がって、勲章まで頂くどは・・・立派な会津の女子だ。わしゃ嬉しくて嬉しくて・・・

復興大河と銘打たれた「八重の桜」でしたが、それがちょっと台詞にも滲んでましたね。
とはいえ、変に復興大河と意識しなくても良かったと思うんです。
頼母さんの言葉にもあるように、「あの戦からすっくと立ち上がって、勲章まで頂くどは」な八重さんの人生を追って行く形でドラマを作って行けば、「春が来たらまた桜が咲くように、頑張って行ける」と勇気づけてくれるものにになったと思うんですよね。
八重さんの人生を見て、そこに元気や勇気や強さや、前向きな気持ちを分けて貰える貰えないは、見る人の取り用ですよ。
そういうのって、押しつけがましく与えて貰うものじゃないですよね。
そういう意味では、復興大河なんて掲げていること自体が烏滸がましいと言えるかもしれません。
それを無理に復興とシンクロさせようとしたからか、話は迷走して、登場人物の価値観は現代人のそれになって・・・とぐちゃぐちゃなった。

最後、蘇峰さんと茶室で向き合った八重さんが、もしも今、自分が最後の一発の銃弾を撃つとしたら・・・と、その銃口を空に向けて引き金を引きます。
(余談ですが、このときの話し相手が蘇峰さんなのは、登場人物が少なすぎて他に選択肢がなかったのと、やっぱり現代人と化した八重さんが、後に第二次世界大戦後A級戦犯容疑をかけられることになる蘇峰さんに非戦を説くという絵図が欲しかったから・・・ですかね)
そして物語の〆の一言。

私は諦めねぇ

うん、だから何を?と言いたくなりました、はい。
いえ、色んな解釈はあるでしょうが、少なくとも「何を諦めないのか」の「何」の部分が分からなさすぎて・・・。
理解力の低い人間で申し訳ないです。
普通に、このドラマの八重さんの思考回路で行くと、剣に鋤に打ち変え国は国に向かって剣を上げない、そんな時が来ることを「諦めない」んだろうな~という気はします。
でも実際の八重さんって、非戦どころか軍国主義者ですし、戦は面白い物でしたと回想しちゃってるくらいですし。
なまじっかそういう史実の八重さんを齧っているだけに、私は最後の最後までドラマの八重さんとは相容れることが出来なかったなぁ、という後味が残りました。
何だか大半の視聴者を置いてけぼりにした感の拭えない幕の下ろし方でしたので、私のこの記事の〆も変な感じになっていますが、ご容赦願います。

ではでは、此度はこのあたりで。

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2013年12月10日火曜日

第49回「再び戦を学ばず」

八重の桜も、次でもう最終回。
たとえば最終回がクリスマスなら、差し詰め今回はクリスマスイブでしょうか。
そう考えたら盛り上がる回なはずなのですが、蓋を開ければ何のその、色々と酷過ぎて「ひと言物申す」じゃとても足りないです。
それでも敢えてひと言でお願いしますと言われたら、「いい加減にしろ!」ですかね。
そんな、クリスマスイブにもなれなんだ最終回一歩手前の49話の感想というか、うん、取り敢えず思ってることと感じたことをいつものようにつらつら書きますよ。
本当は呆れすぎて、第39回の時みたいに切り捨ててしまおうかとも思ったのですが、49週「八重の桜」を見続けて来た立場としては、やっぱり色々吐露したいものがありまして。
前回は口を噤みましたが、今回は敢えて吐き出す選択をしました。

明治23年(1890)10月30日、教育ニ関スル勅語(教育勅語)が発布されました。
教育勅語って、日本史の授業で単語としては覚えたと思うんですが、その中身まではあんまり触れられないと思うので、この機会に以下に内容を掲載してみます。
お世辞にも読みやすいとは言えないので、こういうのが苦手な方は読み飛ばして下さっても構いませんよ。
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽

えーまあ何が書いてあるかと言いますと、親孝行しなさい、兄弟仲良くしなさい、夫婦仲良くしなさい、友達と仲良くしなさい、行動は慎み深くなさい、他人に博愛の手を差し伸べなさい、学問を修めなさい、仕事を習いなさい・・・と書いて、それをやって「永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい」という部分に導いてるんですね(ざっくり言えば)。
まあそういう風な内容なのですが、覚馬さんの表情はやや険しく、 「日本はたった二十年余りで文明国家の枠組みを作ってのけた。その揺り戻しが始まった。教育勅語か。教育の名の下に、人を縛るようなごどはあってはなんねえが・・・」 とぼやく始末。
教育勅語に於ける「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と、帝への忠義を謳った部分が、ちょっと間違った方向に行って戦後に問題視されるようになったのですが、この時代を生きている覚馬さんが教育勅語に批判的な理由は?と、その辺りは相変わらず不透明なままだったような(私の理解力の低さもあるでしょうが)。
「教育勅語=軍国主義」という図式は、戦後以降の人間の考え方でしょうに。
何より「人を縛るようなごどはあってはなんねえ」とは言いますが、遠回しに会津の日新館での教育や什の掟も否定している発言になってます。
いえね、会津の教育にかつて縛られ過ぎた身の上だからこそ、次世代は自分のように縛られるようなことがあってはならん、という意味を込めての発言ならまだ一応筋は通ってます(一応ね)。
或いは、会津松平家に受け継がれてきた御家訓の縛りと、教育勅語の縛りを重ねて言ってるのか・・・。
どちらにせよ、何となく「ん?」と靄を抱かせる話の運び方だな~と思っていたら、これはほんのジャブにしか過ぎなかったということを、後々で痛感させられました。

さて、赤十字社で正社員として働いている八重さんですが、私最近八重さんのこと完全に見失ってしまってるんですよね、掴み切れないという意味で。
会津戦争で戦ったことを誇ったかと思えば、籠城戦の時に人を殺したことを悔いているようなニュアンスを含んだ発言をしたり、結局どっち付かずの八重さん。
武勇伝なんだけど罪の意識はある、と相反する感情に苛まされている感じでもありませんし。
薩長は会津に攻めて来た!じゃあ武器を手に戦うしかないじゃないの!私はそこで戦功をあげたのよ!戦場じゃ殺さなきゃこっちが殺されるのよ!とまで吹っ切れとは流石に言いませんが、もう少しあの一カ月に亘った籠城戦が、今の八重さんにとって何なのか、明確な位置づけをしても良いのではないでしょうか。
仮にも人を殺したことのある女性が、今度はその手で人を癒す道に進むんですから。
そもそも八重さんが人を殺したという点について、会津戦争でスペンサー銃バンバン撃ってる時からちょっともやっとしたモノを抱えていたんですよ。
ええ、人を殺す覚悟はちゃんと決めたのか、いつ決めたのか、と。
権八さんに厳しく言われてましたよね、「鉄砲は人を殺す道具だ」って。
殺した命の重みは自分や覚馬さんが背負う、八重さんは背負う必要ない、って興味本位で鉄砲習いたいっていう八重さんにちゃんと予防線張ってくれてましたよね。
それでも、やむにやまれぬ気持があって、覚馬さんに「覚悟は出来てるのか」と最後の確認をされて銃を教わったのが八重さんです。
その前置きがキチンとあったのに、籠城戦で人を殺したことにチラチラ罪の意識を臭わせる八重さんが、私の目には非常に気持ち悪く映るのですよね。
だからちゃんと、権八さん言ってくれていたのに、やっぱり覚悟も決めずに鉄砲撃ってたの?と殴りたくなります。

手厳しい言葉が自重しませんが、次に行きましょう。
お兄さんの浩さんと一緒に、京都守護職時代の会津で何があったのかを書き残そうとしている健次郎さんが、取材として覚馬さんに話を聞きにやって来ました。
そこで覚馬さんが、在京時代の会津のことをつらつらと語り始めます。
視聴者としても、嗚呼こんなシーンあった、あんなシーンあった、と懐かしさを誘う回想シーンの羅列ではありました。


勤王の志は、薩長も持っていだ。薩摩の西郷、長州の木戸。彼らにも、思い描く日本の見取り図はあった。会津には戦をせず、国を滅ぼさぬ道もあったはずなのだ!
あんつぁまは、会津が間違っていたど言うのがし!?望んで戦をした訳でねえ!私達のご城下に、敵が土足で踏み込んで来たのだし!
大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし。御家訓のこの一条に、会津は縛られでしまった。・・・いくつもの不運があった。謀に乗せられもした。それでもまだ、引き返す道はあったはずだ
覚馬先生!あなたは、忠勤を尽くした大殿と会津の人々を貶めるのか!?会津には、義がありました!
向ごうも同じように思っていただろう。誠意を尽くす事は尊い。んだげんじょ、それだけでは人を押し潰す力をはね返す事は出来ねえ!
繰り言など、聞きたぐない!覚馬先生は、長ぐ京都にいる間に会津魂を忘れてしまったのではありませんか!?
健次郎さんは、長州の人達の助けで学問を修めた。捨松さんは、薩摩の大山様に嫁いだ。 皆恨みばっかり抱いでる訳でねえ。・・・んだげんじょ、亡ぐなった仲間達を思ったら・・・会津が間違っていだどは、・・・決して言えねえ!これは、理屈ではねぇんだし!

幕末史で忘れちゃいけないのは、基本勤王の志は誰もが持っているということです。
帝を蔑ろにしたいわけじゃないけど、ただそれぞれの人が各々思う、あるいは信じる道を選んで進んだ、そんな時代なんです。
ずっと前にも言いましたけど、幕末は思想が交錯する時代なんですよ。
幕末はイマイチ苦手、と言われる理由には、もしかしたらこういう時代の性格があるのかもしれませんね。
はい、ところですみません、この応酬は一体何の茶番劇ですか?
私の記憶が正しければ、「八重の桜」 のコンセプトのひとつに、薩長史観ではない会津から見た幕末史を描く、というのがあったように思います。
そうして描かれ続けて来た会津を通しての幕末は、会津は誠実だけど愚直で、それ故にああなりました、と、大筋はそんなもので、

私は、何度考えても分がらねぇ。天子様のため、公方様のため尽くして来た会津が、なじょして逆賊と言われねばならねぇのが。会津の者なら皆知ってる!悔しくて堪んねぇ・・・。死んだ皆様は、会津の誇りを守るために、命を使っだのです。どうか、それを無駄にしねぇで下さい!本当は日本中に言いてぇ!会津は逆賊ではねぇ!

と、開城のときの八重さんの台詞に全部集約された、と思っていました。
勝ち負け、何が正しい何が正しくない、とか白黒はっきりつけるのではなくてね。
だって、戦争における間違ってる、正しい、何て延々と続く水かけ試合なんですよ。
なのにそこに「正しい」「間違ってる」の色を置いて無理に分けようとするから、変なことになる。
それを悟ったのか、健次郎さんがもう少し後の場面で「どちらにも義はあった」って言ってましたが、普通に考えてあの時代の人間が「薩長も会津もどっちも正しかったんですね」という考えに間違っても至れるはずがない。
ああいう歴史の出来事の全体図を上から見下ろして物事を論じらえる立場には、後世を生きる現代人にしか立てません。
だから、現代人の会話を聞いているように感じたんですよね。
紛れもなく明治時代なのに、何故か現代人がいませんか~、という払拭しようにも出来ない違和感。
義が~義が~と、義という便利な言葉が飛び交っていましたが、自分側ではない人の義が、自分の義と相交えないのはいつの時代だってそうなんですよ。
でも自分の義が絶対正しくて、他の義は全部間違っていると全否定の姿勢は、柔軟性に大きく欠けます。
視聴者側としても考え方や捉え方のバランスが難しいところではありますが、しかしその判断っていうんですかね、それは視聴者に放り投げておけば良いところだと思うんですね。
薩長側と会津側、どっちが「正しかったか」なんて安直な二元論で振り分けられるほど、幕末(というか歴史)は簡単なものじゃない。
何でもかんでもドラマの中で善悪決めて、色分けして纏めようとするから、おかしなことになる。
余剰があって、そこをどう感じるのかは視聴者に委ねます、っていうのがどうして出来ないんでしょうねぇ。

そしてやっぱり、『教育勅語』にしっくりと来ない覚馬さん。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の部分がどうにも小骨のように引っかかっているご様子です。

国を失う痛みは、誰よりも俺達が知ってる。人を戦に駆り立でる力を、止めねばなんねぇ・・・。だが、俺は今も無力だ。人間の知恵や知識で戦を避けるごどが出来ねぇのなら・・・学問など、無駄なのか・・・

また突っ込みどころ満載な発言ですね。
ちょっと話を幕末の頃に戻して、そもそもどうして徳川幕府が倒されたのか、という明治維新の核の部分に触れてみましょう。
触れる、といっても黒船来航からの約15年間の出来事全部をなぞっていたらキリがないので、細かいところは割愛させて頂きますね。
「何故諸藩の中に幕府を倒そうという声が上がり始めたのか」、この問いの答えは至って簡単、「徳川幕府に任せてちゃ駄目だ」と思ったからです。
現代人の我々が、この政権には任せてちゃこの国は駄目になる・・・と思うのと通じるものがこの辺りはあると思います。
で、今まで300年近くパックス・トクガワーナに浸ってたのに、何でいきなり幕府を「駄目だ」って思うようになったのかというと、植民地化への危惧があったからです。
300年近く日本が鎖国してる間に海の向こうでは産業革命が興って、列強なんて言葉で飾られるお国達が植民地行為の触手をアジアにまで伸ばして来てて、アメリカでは南北戦争が起こって・・・と、世界史の渦の中に否応なく日本史が組み込まれていくことになってしまったのですよ。
幕末が日本国内だけの視点じゃなくて、世界の諸国にも視点向けなきゃ全貌掴めなのはそういう事情からです。
国を閉ざしている状態では、この渦に巻き込まれるのをやり過ごすことは出来なかったのです。
でも「開国?いやいや、朕は異人が嫌いです」という孝明天皇を筆頭に、鎖国保持派がその辺りの事情をどうもうまく呑み込んでくれなかったんですよね。
で、開国を迫ってくる諸外国とその派閥との間に立った幕府も頑張るんですが、その舵取りがもうグダグダ過ぎて、「徳川幕府ってもう駄目じゃん。こんなのに国の舵取り任せてたら、日本は外国の言いなりに成り下がる」という危機感を持った人たちがいたわけです。
幕末は思想の時代、と言いましたが、そんな状況に置かれて「じゃあどうすれば良いのか」と各々が考えてそれぞれ行動したから、思想の時代なのです。
内に目を向ければやれ佐幕、やれ攘夷、やれ開港などの議論が飛び交ってるわ、外からは西洋諸国の圧迫があり、内外多事多難な時だったんですよ。
勿論幕府も、公武合体とか手段をあれこれ講じて、この難局を乗り切って行きましょう、とか無策だったわけではありませんよ。
でも植民地にされるかもしれない、という危機感からお尻に火が付いていたのでしょう、明治維新の原動力ってそこにあると思うんですよね。
彼らだって、何も「幕府憎し」で倒幕を掲げたわけじゃないんです。
そうじゃなくて、任せておけない幕府を国のてっぺんから排除して近代化装備しなきゃ、植民地化ロードまっしぐら、阿片戦争後の清の二の舞、という絵図が頭の中にあったんですよ。
要は、国のてっぺんに居座るものを「駄目じゃないもの」に挿げ替えたのです。
倒幕したらしたで、明治に入ってやれ近代化近代化って忙しなくしていたのも、おそらくそういう背景事情があるからだと思うんですよね。
覚馬さんもそういう見通しが出来ていた人なので、『管見』では植民地化を防ぐために軍力を上げる富国強兵を唱えてるし、国力を上げるために殖産興業を掲げてます。
(今ふとこのブログ書いてて、脚本家は『管見』に目を通してないんじゃないかなと思いました)
でも今回の覚馬さんや健次郎さんや八重さんの言動は、仮に植民地にされそうになったとしても話し合えば何とかなる、という何とも生ぬるいお花畑政策を論じているようにしか聞こえないんです。
「繰り言など、聞きたぐない!」を通り越して、戯言言うな、という感さえします。
国(会津)を失ったって言うのでしたら、植民地への危惧は他の人より濃くても良いのではなかろうか。
挙句の果てに、同志社の卒業演説で「二度と再び、戦うごどを学ばない」と壇上で覚馬さんにスピーチをさせる脚本。
本当にいい加減にしてくれと思いました。
いえ、戦争万歳って言ってるわけじゃなくてですよ。
「戦は駄目」的なオーラを振りまく覚馬さん(八重さんもですが)の姿に、この人は文政11年に生まれて幕末生きて来たのよね?明治になってから、現代からタイムスリップしてきたんじゃないですよね?とな、感じずにはいられなかったのです。
つまり、覚馬さんの口を借りて現代人の価値観で考えたことを言わせてるよね、と。
史実の山本覚馬という御仁を眺めて、あるいはその彼が書いた『管見』に目を通して、まかり間違っても「非戦」の言葉は出て来ないと思うのですよ。
若かりしき頃の覚馬さんが、象山さんに「先生、攘夷というのは夷狄がら国を守るごとですね」というと、象山さんは

敵を知ろうとせぬのを愚かというのだ。目と耳を塞いで戦が出来るか。まことの攘夷とは、夷の術を以って夷を防ぐことにある

と返しました。
そのために西洋式の海軍が必要、そのために西洋式の歩兵隊の訓練が必要。
つまり、従来の侍の仕組みのままじゃ駄目なんだ、阿片戦争に敗れた清と同じ轍を踏まないためにも、と目を開いた覚馬さんが、かつてこのドラマには存在しました。
ちゃんと、近代化武装しなきゃ清の二の舞になるって分かってる覚馬さんが、このドラマにはいたのですよ。
このときの覚馬さんは一体何処へ行ったのでしょう。
二度と再び、戦うごどを学ばない」って良いじゃない、素敵じゃない、と受け取られる方もおられるでしょうが、それは私たちが「現代」から「歴史」を「眺められる」立場にいるからです。
当時(歴史の当事者)の色んな感覚をね、後世から歴史を見物するように眺められる私達がどう評しようが、それはまあ一種の現代人の特権みたいなものですし、勝手にすればいいと思います。
でもね、視点の置き場所を間違えてはいけません(前にも全く同じことを言いましたが)。
現代を生きる私達を構築してる世界観があるように、歴史にもその時代その時代を構築して来た世界観というのがあって、その中で生きてた人がいる。
全部現代人の物差しで測ったら、そりゃ誤差やおかしな部分も続出しますよ、測る対象が「現代のもの」でないんだから。
現代人の物差し使っていいのは、現代ドラマ作る時だけですよ。
これは大河ドラマです、時代相応の物差し持って来て下さい。

明治25年(1892)12月28日、覚馬さんが自宅で64年の生涯を閉じます。
同月30日に同志社のチャペルで葬儀が執り行われ、襄さんと同じ若王子へ埋葬されました。
大正14年(1925)11月9日、その生前の功労を嘉して従五位を朝廷から贈られました。
惜しむらくは、その「生前の功労」がこの大河ではほとんど触れられなかったことでしょうか(苦笑)。
逸話らしい逸話も何ひとつとして満足に触れられず、悔やまれることだらけです・・・。

そろそろ筆も疲れてきたところ何で穏やかに行きたいのですが、それを許してくれないのが今週の「八重の桜」でした。
山川兄弟から覚馬さんの訃報を届けられた容保様は、「二人に託したいことがあっての」といってご宸翰を出します。

会津が逆賊でないことの、ただ一つの証ゆえ
では何故、秘しておいでだったのですか?これを世に出せば、殿の御名は雪がれたはずにございます
開城の日、生きよと言われた・・・。八重の言葉を考え続けた・・・皆のためにも、ご宸翰を世に出すべきかと。なれど・・・都での争いとは即ち、勅の奪い合いであった。勅を得た者が、正義となった。・・・世が鎮まらぬ内は、ご宸翰が再び戦の火種となるやもしれぬ。・・・それだけは避けねばならぬと

良いシーンなのでしょうがご宸翰の扱われ方が不満というただ一点のために、物語に入っていけない・・・。
ご宸翰、だから何でこんなに気安いアイテムとして使っちゃうかなぁ。
うん、あのね、ですからこのご宸翰はそんなに気軽にホイホイ人目に晒して良いものじゃいあと言いますか、容保様存命時は秘された存在だったのですよ。
存在が公になったのは容保様没後のことで、そこがあのご宸翰の貴さではないのかなぁ。
まあ大方、『京都守護職始末』刊行の経緯で、山川兄弟が土方さんとか谷さんにこのご宸翰見せたので、そのエピソードからここでバトンのように山川兄弟にあれが渡されたという演出になったのでしょうが。

いつか・・・ご宸翰を世に出してくれ。わしが、死して後に・・・会津が如何に誇り高く戦ったかを訴え、死んでいった者達の名誉を回復せよ。・・・ただし、一国を滅ぼしたわしの過ちは、再び同じ道を辿らぬための戒めとなせ

ただし以下の台詞、何故作ったのでしょうか?
事ここに及んで「会津が間違っていました」的な発言を、他でもない容保様にさせる意味が解らない
解りたくもない。
ご宸翰のこともそうだけど、会津松平家に土下座しなきゃレベル再びですよね、これ。
ここからは飽く迄私見になるので、ちょっと美化しすぎじゃない?妄想入りすぎじゃない?と思われるかもしれませんが、まあ私見なので重く捉えないで下さいね。
ご宸翰を出せば汚名は雪げた、という浩さんの意見はご尤もです。
でもじゃあ容保様が、何故そうしなかったか、ですよね。
それに対する答えとして、「都での争いとは即ち、勅の奪い合いであった。勅を得た者が、正義となった。世が鎮まらぬ内は、ご宸翰が再び戦の火種となるやもしれぬ」という容保様の言葉が、非常に的を射ているなと。
それに、孝明天皇からの純粋な信頼の証であるご宸翰を、そんな陰謀塗れた世界で掲げて汚したくなったというのもあるんじゃないかなと。
でもそれじゃあ、浮かばれない会津藩士たちもいるわけです。
ご宸翰出せば、彼らに乗っかった汚名の二文字を消してやることだって出来るのに、そうせず、ただじっと、何も語らず誰にも言わず、ただご宸翰を身に着けていた容保様。
お優しい方ですから、ご宸翰を表に出して会津に日を当ててやれないことに、ずっと心を痛めてたことかと存じますが、その一方で、世間にどれだけ「逆賊の殿様」と言われようが、真実を証明するご宸翰を身に着けていることで、一人ひっそり慰められていた部分もあるのではないかなと。
とまあ、この辺りは飽く迄私の妄想にも似た私見ですが、しかしやっぱり「ただし」以下の台詞が要らない。
「会津は逆賊ではねぇ!」ではなかったのですか?
それを「会津が間違っていました」ってしたら、結局いつもの薩長史観の幕末じゃないですか!
コンセプトに反しているじゃないですか!
これでは一体何のための京都編だったのか、何のための守護職時代の場面の数々だったのか、分からなくなってしまいます。

容保様が亡くなられたのは、明治26年(1893)12月5日午前10時。
59年の、筆舌に尽くしがたい生涯でした。
新聞に掲載されたその訃報に接し、八重さんは色んな人に置いて行かれる寂しさに涙します。
そんな八重さんの背中に置かれる襄さんの手と、

亡くなった人はもうどこにも行きません。あなたの傍にいて、あなたを支えてくれます。あなたが幸せであるように。強くなるように

といういつかの襄さんの言葉。
手を重ねはしますが、敢えて振り返らないのがこのシーンで表したい「前に進む」という演出でしょうね。
ここだけは唯一今回良いシーンにも見えました・・・もうちょっと色んな積み重ねや、登場人物の書き込みが出来た骨太大河になってたら、このシーンは号泣シーンになっていただろうと思うと、惜しいですね。
そして「前に進む」八重さんは、日清戦争が勃発した明治27年(1894)、看護婦取締に命じられ、看護婦20人を選抜して広島陸軍予備病院へと向かうのでした。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年12月7日土曜日

求めているものと求められているもの

さて、大河ドラマ「八重の桜」も残すところ僅か2回となりました。
三日坊主ならぬ三分坊主なワタクシが、会津戦争終わった後でもこのブログ書き続けられるか?という懸念は開設当初からあったものの、ナントカ最後までお付き合い出来そう・・・です(多分)。
ドラマとしては、このままあと2回分だと尺が足りないのは明らかなので、一体どうまとめて何処へ着地させて、どう終わらせるつもりなのだろうかと、怖さ半分、諦め半分と言った心地です。
振り返るような記事を書くには今しばらく時期尚早ですが、いつか書こうと思っていた、大河ドラマに於ける時代考証のことについて、自分なりに思っていることを書きたいと思います。

テレビで放送されている歴史ドラマといえば、大河ドラマの他には木曜時代劇ですとか、TBSの正月時代劇ですとか、まあそういったものですよね。
何となく大河ドラマは「時代劇」の括りにはしっくりこず、「歴史ドラマ」の括りの方がしっくり来るのは、「大河」という大仰な名詞を含んでいるからでしょうか。
当ブログでは、その「大河ドラマ」こと「八重の桜」を毎週毎週拙いながらも追って行かせて頂きましたが、その際「あそこが違う」「ここが違う」「あの時代にはこれはなかった」「時代的におかしい」などなどと、文句をぶーたれた回数は決して少なくありません。
むしろ物語が後半部分に差し掛かるにつれ、その数は増えて行ったように思います。
史実的にあそこが違う~ここが違う~と喚くのは、史実に固執しすぎだという謗りも受けましょうが、それでもあまりにおかしなことをされたりすっ飛ばされたりし過ぎると、何か言いたくなってしまうのが歴史好きの性でもあったりします。

たとえば第45回で「大判焼き」という言葉がひょっこり出てきた時、「大判焼きというものは1950年代に出来た言葉だから、明治のあの頃に存在しない」、と指摘する声をいくつも見かけました。
私も勿論しっかりここで指摘させて頂きましたが、逆に大判焼きだろうが何と呼ばれようが、そんなに騒ぐことはないのではないかと思われた方もいるでしょう。
そもそも大河ドラマも「ドラマ」なんですから、完璧に一分もずれることなく史実のレールの上をなぞって行って欲しい、と願うことの方が間違ってます。
それを分かっていながらも、「大判焼き」の呼称ひとつで指摘の声が上がってしまう。
先に挙げた木曜時代劇やTBSの正月時代劇には左程手厳しい指摘はされないのに、「大河ドラマ」が対象になると、どうも手厳しくなってしまう。
この「大河ドラマ」と「その他時代劇」の間に生じる差は一体何なのだろうかと考えて、「大河ドラマ」という50年続くシリーズに抱いている期待値のようなものだろうな、という漠然とした答えにたどり着きました。

私の好きな時代考証家に、稲垣史生さんという方がおられます。
その稲垣先生の著書『歴史考証事典 第二集』に、こんなことが書いてありましたので、少し長くなりますが引用させて頂きます。
(前略)ドラマであるかぎり、面白おかしい娯楽性は無視できないであろう。が、それ一点張りのいわゆる時代劇なら、『銭形平次』や『旗本退屈男』、さては『必殺仕置人』など興味だけの創作に徹すればよい。少なくとも「歴史ドラマ」と銘を打ち、何と、数億円もかける大作に、それ以外の高次元のモチーフがなくてすむか。
 ドラマの課題は常に人間性の剔抉で、その効果的な方法として過去の人間を対象とする。われら、先人の人間性を、容赦なく分析し、えぐり出すのだ。するとどんな英傑・聖人も、どろどろした醜悪面を持っていることを見出す。
 「なあーんだ。われらの先祖もそうだったのか。人間は本来そういう穢いものなのか。では現代の人間と変わらぬではないか」
 と、そう気付くことで、そこに人間生存の原理を見、各自の人生に役立てるためではないか。小説やドラマが、好んで悖徳や不倫をとりあげるのではなく、人間の陰の部分にも隈なく光をあてるためである。
 まさにその目的で、かつてありしままの人間生活を再現させねばならない。そうでなければ、高次元の目標は達せられず、NHKがえんえん一年もやる意味はない。(前掲、昭和52年、新人物往来社)
自分の言葉ではっきり言い表すことが出来なくて大変お恥ずかしいのですが、この文章に触れた時に、自分の中の言葉に纏まらない気持ちが綺麗にまとめられているなと感じました。
つまり大河ドラマは「一年を通じて」放送する、「多額の予算を投じ」た「大作」なわけですよ。
 しかもそれが先程触れたように、50年続いたシリーズである、と。
だから何さ、と思うかもしれませんが、指摘の声の多さは、そのまま大河ドラマというものに寄せられている無言の期待値の現れでもあると思うのですよね。
だから「ドラマ」ということに胡坐をかかずに、稲垣先生のお言葉を借りるならば「高次元」を目指して欲しい。
やっつけ感しか感じられない最近の「八重の桜」は、そういう意味でもう本当の意味での「大河ドラマ」ではないと思うんですよね(というか、「大河ドラマ」何て言っちゃ駄目だ)。
来年からはどうなることでしょうか、はてさて。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年12月4日水曜日

第48回「グッバイ、また会わん」

伊藤さんの説得の元、政界に戻った大隈さんでしたが、明治22年(1889年)に国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜さんから爆弾テロに遭い、右脚を切断しなければいけないほどの傷と共に再び辞職します。
といっても数年後にはまた復帰しますし、右脚切断となりましたが何だかんだで83歳まで生きておられます。
ちなみにこの襲撃犯である来島さんは、馬車に投げた爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害したそうです。
襲撃の理由はドラマでも触れられていたように、大隈さんの条約改正案が外国に対して弱腰だったからと憤ったから。
これだけだと大隈さんの外交能力が低いように思えますが、パークスさんとのやり取りなどを見るに、大隈さんの外交力の問題ではなく、そんな大隈さんを以ってでしても条約改正は難しかった、と捉えた方が誤解が少ないと思います。
この事件を聞いて、襄さんが「愛国心とはそんなものではない」と憤ってましたが、その通りです。
蛮行ともいえる事件が勃発するということは、国内の不安定さを露呈したも同然で、且つ「先進国らしからぬ振る舞い」の烙印を押され、条約改正は遠退いて行きます。
これは現代にも同じことが言えまして、今でも蛮行紛いの行為に訴えて愛国心を叫ぶ人がおられますけど、愛国心は暴力じゃないんですよ。

理性を取り戻させるのは教育の使命です

この襄さんの言葉は、ドラマの中の台詞のひとつとしてではなく、現代を生きる我々も考え直さなくてはいけないのではないかなぁ、と個人的にぼんやりと考えておりました。

さて、話ここに至って何故か再登場された秋月さん。
今更感がぬぐえないのはいつものことですが、再登場に至るまでの秋月さん履歴をざっとご紹介しますと、まず彼が手代木直右衛門さんと共に永預けを免じられ、青天白日の身になったのが明治5年(1872)1月6日のこと。
そこから明治5年左院小議生、明治7年五等官の少議官に昇進し、明治8年若松県に官を辞して帰国以後農耕に従事します。
そして明治13年上京して四谷大番町に私塾を開いた後、教部省出仕、明治17年文部省御用掛、明治18年東京大学予備門教諭として漢文学で教鞭を取ります。
その東京大学予備門が東京大学から分離独立して第一高等中学になるのに伴って、秋月さんもそこの教諭になります。
明治22年までそこで教鞭を取り続け、明治24年、熊本第五高等中学校の教諭に就任します。
ドラマではこの熊本で再び教壇に立つことを決めたのは、襄さんの「同志社設立の旨意」に影響されたから、という風な流れになっていましたが、実際のところは少し違います。
熊本第五高等中学校の出来がった背景は割愛しますが、そこの教員の資質として、文部大臣であった森有礼さんは「高等中学校ハ青年師弟ヲ教育スルノ所ナルヲ以テ、教員ノ推薦ノ上、自今一層注意ヲ加ヘ、主トシテ其人物威アリヲ重ク正直ニシテ教養方ニ親切ナル者ヲ取ルベシ」という内訓を出していました。
秋月さんは東京大学予備門、及び第一高等中学校教諭時代生徒たちに大変評判が良かったので、この内訓に適った人物ということで推薦を受けたのです。
彼を「神のような人」と評したことでも有名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と秋月さんが出会うのは、この熊本第五高等中学校時代のことです。
しかし先程秋月さんの再登場を「今更」と言いましたが、明治の教育改革とかちゃんとなぞって行って、明治期の秋月さんももっと出てくると思ってたのですが、どうやらこれが最後の出番の予感・・・。

今回の襄さんの関東への募金活動の旅に八重さんが同行出来なかった最大の理由が、病に臥せる襄さんのお母さんの登美さんの存在でした。
手紙でもあったように、自分のことより年老いた母を優先して下さい、という襄さんの意思に従って、八重さんは同行しなかったのです。
「私達は日本人だから(孝行を忘れてはならない)」という日本の家の観念が襄さんにはあったようです。
ドラマではなかなか八重さんに病状を知らせない襄さんでしたが、実際は明治22年12月14日付の手紙で、八重さんには病状が知らされています。
案じた八重さんは看病に駆け付けます、と返事を書きますが、それに対する返事が、八重さんが登美さんと読んでいたものですね。
部屋を暖かくして、葛湯や水飴を、と事細かなことまでの書いてある襄さんからの手紙は現存していて、その長さ約224cm。
襄さんは手紙魔ですが、それでも些か長文に過ぎるような・・・(苦笑)。
彼がこの長すぎる手紙を送ったのは、彼の永眠の17日前ですから明治23年1月6日ということになるのでしょうか。
これが現在史料上確認出来る、襄さんから八重さんへ宛てた最後の手紙ということになると思います。
無理を押す襄さんには、「國の一大事の爲、斯くの如くも関東に止まり、身も度々病に伏し、種々の不自由を感じ申候へ共、私は元より覚悟の上の事、男子の戦場に出ると同様なりと存じ候」という思いがあります。
襄さんの国家観、またその熱意については、いまいちドラマでは踏み込まれていないのですが、襄さんにとっては今は戦場に出ているのと同じなのですね。
八重さんの「これは襄の戦い」などという軽々しい台詞で片付けてしまえる戦場ではなくて、もっと本質的な意味での戦場。
覚馬さんが襄さんのことを八重さんに伝えないのも、きっと同じ男としてこの「戦場」の意味を理解しているからだろうなと感じました。
男の意地、という言葉に置き換えても良いかもしれません。

その頃山川家は、ひとりの客人を迎えていました。
覚えている人、もしかしたら少ないでしょうが、第20回の時に出て来た水野貞さんです。
貞さんは平馬さんの訃報と共に、「鳳樹院泰庵霊明居士」という戒名の書かれた紙を、健次郎さんと浩さんに差し出します。

誰にも知らせるなと言われました。会津の梶原平馬は、戦の時に死んだのだから、と。近所の子供達に書や絵を教えて、何ひとつ欲もなく、ひっそりと暮らしておりました

斗南藩の後、北海道へ渡った平馬さんは、そこで塾を開いた貞さんと共に教育の道を歩みます。
彼女とは再婚して、ふたりの間には子供もありました。
会津藩最後の家老の平馬さんのお墓が根室で発見されたのは昭和63年(1988)のことで、それまでずっと彼が戊辰戦争後どうしたのか、いつどこで亡くなったのかは詳細不明とされていました。
詳しくは、ご子孫に当たられる長谷川つとむさん著『会津藩最後の主席家老』を一読頂ければと思います。
絶版本ですが、希少というわけではないので図書館や古書店で見つけることは難しくないと思います。

義兄上が拓いて下さった道・・・無駄には出来ん

そう呟く健次郎さん。
これが山川兄弟による「京都守護職始末」に繋がって行くのでしょうね。
(正直、尚之助さんの『会津戦記』なんてもの捏造しなくても、十分ここでバトンが繋げて行けたんですよ・・・)

さて、そうこうしている内に年が明けて明治23年、襄さんの病はますます篤くなるばかり。
お医者の樫村清徳さんに「呼びたい方がいたら、今の内に」と告げられ、周りが八重さんに電報を打とうとするのを襄さんが制したそうです。
でも1月9日に永岡喜八さんが、とうとう八重さんに新島襄の危篤を知らせます。
報せを受けた八重さんが駆け付けたのは20日深夜のことでした。
ドラマはその前に、八重さんが飛び出して駆け付けてしまった感があるので、襄さんとの三か月ぶりの再会の時にあった有名な 「これほど八重さんに会いたいと思ったことは無かった」 「何という暖かいお言葉。私は死んでも、来世でも忘れません」 のやりとりは省かれてましたね。
ちと残念。
明治23年(1890)1月21日午前5時半から、襄さんは遺言を述べます。
衰弱して書くことの出来ない襄さんは、これを蘇峰さんに口述筆記させました。

新島八重子、小崎弘道、徳富猪一郎立会
二十一日午前五時半遺言の条々

同志社の前途は、基督教の徳化、文学、政治等の興隆、学芸の進歩、三者相伴い、相俟ちて行うべき事。
同志社教育の目的は、その神学、政治、文学、科学等に従事するにかかわらず、皆、精神、活力あり、真誠の自由を愛し、もって邦家に尽すべき人物を養成するを努むべき事。
社員たるものは生徒を鄭重に取り扱うべき事。
同志社においては、 てき(漢字が出て来ません:人+周)儻不羈なる書生を圧束せず、努めてその本性に従い、これを順導し、もって天下の人物を養成すべき事。
同志社は隆なるに従い、機械的に流るるの恐れあり。切にこれを戒慎すべき事。
金森通倫氏をもって余の後任となす、差支えなし。氏は事務に幹練し、才鋒当るべからざるの勢いあり、しかれどもその教育家として人を順育し、これを誘掖するの徳に欠け、あるいは小刀細工に陥るの弊なしとせず。これ余の窃かに遺憾とする所なり。
東京に政法理財学部を措くは、目今の事情、到底避くべからざるかと信ず。
日本教師と外国教師の関係に就いては努めて調停の労を取り、もってその円滑を維持すべき事。余はこれまで幾度かこの中間に立ちて苦心あり。将来といえども、社員諸君が日本教師に示すにこの事をもってせんことを望む。
余は平生敵を作らざるを期す。もし諸君中、あるいは余に対して釈然たらざる人あらば、幸いにこれを恕せよ。余の胸中、一点の芥弗あらず。
従来の事業、人あるいはこれを目して余の功とす。しかれども、これ皆、同志諸君の翼賛によりて出来たるところにして、余は毫も自己の功と信ぜず。唯諸君の厚情に完佩す。

右筆記の上、これを朗読す。先生一々これを聞き、首肯す。
時に午前七時十分前
始まったのが朝5時半で、終わったのが朝の6時50分ですから、1時間以上遺言の時間が続いていたのですね。
一読して頂ければお分かりかと思いますが、遺言内容の半分以上が同志社の学生に関することで占められています。
遺言でよくある遺産のことなどには一切触れられていません。
ですが、金遣いの荒かった八重さんを残して行くのは本当に気がかりだったでしょうね・・・(苦笑)。
そういう八重さんのマイナス面は、これまでも、そしてこの先も触れられることのないままなのでしょうね。
更に襄さんは大隈さん、伊藤さん、勝さんなどにも個人宛ての遺言を残しています。
最期の言葉は「吉野山花待つころの朝な朝な心にかかる峰の白雲。同志社に対する私の感情は、いつもこの詩の通りである」。
キリスト教だったのに、論語の一節なのが深いです。
ちなみにこの佐川田昌俊さんの和歌は、自責の杖事件の時にも襄さんが生徒の前で前置きしたものです。
歌意は以前の記事でも触れましたが、「吉野山に桜が咲くのを待つ頃になると、毎朝毎朝、桜ではないかと気に掛かる、峰に掛かっている白雲であることよ」というものです。
桜は言わずもがな、同志社の生徒達のこと。
結果論になりますが、彼の一生は同志社に捧げられ、同志社のためにあったのだなというのがよく伝わります。
その辺りは、触れられてなくてもオダギリさんの熱演のお蔭で空気のように見ている側にも伝わっていたかと。
そして明治23年1月23日午後2時20分、襄さんは息を引き取りました。享年46歳。
臨終の際、八重さんに頭を抱えられていて、「狼狽するなかれ。グッドバイ、また会わん」と言い残して目を閉じたそうです。

(画像は久保田米僊氏の新島襄臨終場景画四葉)
襄さんが没した時、しっくりいってなかった八重さんと蘇峰さんは和解したそうです。
曰く、「新島先生が逝かれたからには、貴女を新島先生の形見として接します」と。
一方で襄さんの棺を大磯から京都に運び出す時に、八重さんが自分の頭とか身だしなみを気にしてばかりいたので、「今後は誰も貴女の頭には注意しません。貴女の足にも注意しません」と言って蘇峰さんが激怒したそうです。
これも有名な話なのですが、やはり八重さんのマイナスイメージに繋がるからでしょうか、ドラマでは触れられず・・・。
葬儀は1月27日に同志社で行われ、4000人の弔問客が訪れました。
「葬儀は質素に。墓標は一本の木に新島襄とだけ書く」という襄さんの遺言を忠実に守られた葬儀でした。
襄さんは当初南禅寺に葬られる予定だったのですが、キリスト教だったのでお寺の側が拒否し、急遽若王子の共同墓地に埋葬されることになりました。
ちなみに土葬で、今も同志社墓地となった同じ場所に襄さんは眠っておられます。

襄さんが亡くなったのが1月23日、その後八重さんが「日本のナイチンゲール」とも称されるようになる看護の道に進む(赤十字の正社員になった)のが4月22日(26日説もあり)で、その約三か月の間、八重さんが何を思い考えていたのかは歴史の謎です。
夫を亡くした身として、次への行動が早すぎるという人もいれば、哀しみを振り払って前に進んで行く強い人だと捉える人もいます。
その辺りには正解はないので、それぞれで良いと思います。
ドラマの覚馬さんが、看護の道を八重さんの前に差し出したというのも、もしかしたらあったかもしれません。
仮にそうだとしても、流石にドラマのような寡婦に対する思いやりの欠片もない言い方はしなかったでしょうが。
ちなみに日本赤十字社の発端は西南戦争の際、佐野常民さんと大給恒さんが設立した博愛社にあります。
この博愛社が建ったのは、熊本バンドが去った後の熊本洋学校で、明治20年に日本赤十字社と改名しました。
当初は敵味方関係なく救護活動を行うので誤解を受けることもあったそうです。
何より、捨松さんがさり気無く「看護を卑しい仕事だと思っている人たちもいます」と言っていたように、当時看護婦という職業は、その立場が確立されていませんでした。
単なる召使いに近い身分であり、売春婦まがいの仕事を兼ねる場合さえあったので、卑しい、と思われていたのです。
この看護婦の地位確立と、「看護師とは何か」というものに一生を捧げたのが、ご存知フローレンス・ナイチンゲールさんですね。
まあしかし、東京の大山邸に通い詰めている八重さんではありますが、日本赤十字社の京都支部が明治22年2月14に設置されてるので、多分八重さんが通うなりなんなりしてたのは、東京じゃなくてそっちの方じゃないのかなとも思います。
あとご婦人方の間で会津戦争のことが茶飲み話みたいな軽さで扱われてましたが、捨松さんそれで良いのか・・・(苦笑)。
そんなこんなで、寧ろこれから「新島八重」という人のエピソードが始まるのですが、残り2週間という余裕のなさです。
呑気にワッフル振る舞ってる場合じゃない!

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年11月25日月曜日

第47回「残された時間」

明治政府にとって、不平等条約の改正は「早急に何とかしなければいけない」問題として、常に纏わりついているものでした。
そのためには、諸外国と「平等」な立場に立たなければいけない=そういったような国に作り変えて行かねばならない、というので国会議会を開設し、憲法を設けるなどして、先進国らしい国に一歩一歩近付こうと歩んで来たのが明治時代の半分といっても過言ではないと思います。
鹿鳴館などはその計画の一環として建てられたものですが、これは皆様歴史の教科書でもお馴染みのビゴーの風刺絵(「鹿鳴館の月曜日 ダンスの練習」)でも分かるように、諸外国からは喜劇としか映ってなかったようです。
そうして、条約改正に向けての外交の場として設けたはずの鹿鳴館は、猿真似と嘲られて成果を上げず。
さて、明治20年(1887)7月、条約改正案が挫折したことによって、外務大臣であった井上馨さんが辞任に追い込まれました。
そこで伊藤さんと井上さんは、黒田さんと謀って大隈さんに外務大臣就任を要請します。
ですが北海道の官有物払下げ事件の件で、大隈さんを政府から追った伊藤さんからのこの要請を、大隈さんは受け入れられなかったのか何なのか(まあそうでしょうね)、また伊藤内閣内でも大隈さん入閣を反対する声があり、この打診は不調に終わります。
しかしこの年の暮れに保安条例発布後の内閣強化策のため、再び大隈さんのところへ伊藤内閣への入閣打診が来ます。
とうとう折れた大隈さんは、明治21年(1888)2月1日、伊藤内閣に外務大臣として入閣します。
前置きが随分と長くなりましたが、それが今回のドラマの冒頭シーンです。

・・・あんたとは、政策が違っとるばい

という大隈さんですが、それでも伊藤内閣入閣を決めたのは、お互い潰し合ったり「嫌いだから協力しません」と言ってたりしては、何も出来ないし何も進まないって分かってたからでしょうね。
死ぬ程嫌いだけど、政策も違うけど、向いてる方角は一緒だから協力しましょう、っていう姿勢は幕末の薩長とかと似た感じだと思います。
ちなみに政策が違う、というのはお互いの憲法観ですとか、大隈さんは英国式の政党内閣制を主張していたのに対して、伊藤さんは天皇の大権に仕える内閣制を推した、とものとかの事でしょうか。
その辺り、勉強不足なので曖昧なのですが・・・。
何はともあれ、大隈さんも入閣して不平等条約改正の交渉に向けてまだまだ頑張る明治政府ですが、残念なことに(?)不平等条約を改正するのは、乞われて入閣した大隈さんではなく、剃刀大臣こと陸奥宗光さんなんですよね。
この陸奥さんが尽力した「日米通商航海条約」(明治27年調印、明治32年発行)では、領事裁判権は撤廃されたものの、関税自主権は一部しか回復しておらず、条約完全改正の余地がありました。
陸奥さんの後にそれを頑張ったのが小村寿太郎さんで、彼の尽力によって明治44年(1911)2月21日、日米通商航海条約が調印され、4月4日に発効されました。
これにより、関税自主権も完全に回復しました。
明治は45年までですから、ほぼ明治丸々の時間が費やされたということですか。
条約改正の道はかくも長き、です。

山本家では、先頃生まれた平馬君が覚馬さんの養嗣子となり、79歳、数えで80歳の佐久さんは初孫の相手に・・・と、久し振りに山本家に和やかな時間が流れているように見えました。
憑き物が取れたように晴れやかな顔をされている久栄さんも、神戸英和女学校(現在の神戸女学院大学)への進学を決めているようで。
久栄さんはそこを卒業後、京都にある傍仏語英学校(現在の京都府中学校のことでしょうか?詳細不明)で働きます。
色んな事が起こった山本家だけど、これでようやく落ち着くのか・・・と思いきや、襄さんの体の調子が宜しく無いようで。
自分を労わらずに無理をする襄さんに、八重さんの心配は尽きませんが

今は立ち止まっている時ではありません。来年は、いよいよ憲法が発布されます。立憲国家が道を誤らないためには、それを支える人材が必要だ・・・。国会が始まるまでに大学を作らなければ・・・

という襄さんを止めることが出来ません。
使命感に駆られる姿は、さながら尚之助さんを彷彿させるのですが、やはり意図的でしょうか。
そんな新島邸に、ある日猪一郎改め蘇峰さんと、市原さんが訪ねて来ます。
蘇峰さんの民友社が作っている「国民之友」は売れ行き好調のため、この頃毎月2回、第一第三金曜日定期刊行になりました。
ちなみに定価は1冊金8銭、半年12冊前金90銭、全国無逓送料で広告料は一行金10銭。
その「国民之友」に、襄さんと諭吉さんの記事が掲載されたのは、明治21年3月2日号。
曰く、「何となれば二君は実に明治年間教育の二大主義を代表する人たればなり、即ち物質的智識の教育は、福沢君に依つて代表せられ、精神的道徳の教育は、新島君に依つて代表せらる」。
他にも「福沢君の事業は噴水の如し」に対して、襄さんを「宛も木の葉を潜る精水の如し」と書いていたりと、この記事は評判を呼んだようで、「国民之友」というメディア媒介を通じて襄さんは有名になります。
寧ろ無名でありたい、と襄さんは功名心が低いのですが、

ばってん、名声が高まれば、大学設立に力ば貸してくれる人が増えっとです

という蘇峰さんの指摘はまさにその通りですね。
後ろ盾らしい後ろ盾がない独立状態なので、使えるコネクションは最大限に活用していきましょうということですよ、要は。
この蘆花さんの記事によって、大隈さんがいたく共感を覚えて募金を呼びかける集会を開いては、というとろこまで話が発展したようですが、ここで懸念されるのはやっぱり襄さんの身体の具合。
八重さんが「大警視」と呼ばれていましたが、実際に彼女が過度な心配性みたいなのになったのは、襄さんの余命宣告を受けてから以降だそうですね。
しかしまあ、大隈さんも大臣就任でまだばたばたしてるだろうからと、襄さんの上京は気候が良くなったら、と繰り越されます。
4月、上京した襄さんと八重さんは、九段にある大隈さんのお邸にて募金集めの会を開きます。

大学設立の目的は、一国の精神となり、柱となる人々を育成することにあります。まず文学専門部を創設し、歴史、哲学、経済学などを教え、更に理学部、医学部と広げる計画です。しかしながら後者の建築や教員の招聘には、莫大な金がかかります。どうか、援助をお願い致します!

錚々たるメンバーの前でそう演説する襄さんですが、正直なところ、もっとこの演説内容濃くして欲しかったなと(苦笑)。
現代では大学がポコポコ出来てますが、この時代で大学作るのって簡単じゃないんです。
それをこんな風に演出されたら、その重みが全く感じられないものになってしまうだけでなく、この程度で多額貰えるの?という印象を抱いてしまいます。
大切なところなので、頑張って欲しかった・・・。
まあドラマでの演説内容はさて置き、この集会は大変手ごたえがあったようで、襄さんは「大いにその賛成を得たり」と「同志社大学設立の旨意」で書いています。
ちなみに寄付金額は、青木周蔵さん500円、大隈さんと井上さんが1000円、益田孝さん、大倉喜八郎さん、田中平八さんが2000円、平沼八太郎さんが2500円、岩崎久弥さんが3000円、岩崎弥之助さんが5000円、 渋沢栄一さんと原六郎さんが6000円、と「同志社大学設立の旨意」には書かれています。
他にも勝さんですとか、榎本さん、後藤象二郎さん、あと福沢諭吉さんも寄付してくれたみたいですね。
因みに気になるのが、この頃の金額を今の価値に直すとどのくらいになるのか、ということでして。
これはこの時代に限ったことではないんですが、当時の金額を今の金額に改めるのって、実はすごく難しいことなんです。
いえね、大体この頃の1円=現在の1万円って考えればいいんですが、物の価値が違うので同じ1万円だと考えない方が良いんです。
例えば、100円で鉛筆1本買える時代と、100円で鉛筆10本帰る時代だと、文字の上では同じ100円なのに、そこで意味されてる100円の価値って同じじゃないですよね?
分かり易い比較対象として、明治23年時の伊藤さんの年棒が5000円ということから見て行けば、皆様ぽーんと凄い額を寄付したんだなぁ・・・ということを漠然と掴んで頂けるかと。

集会を終えた襄さんが次に向かったのは、赤坂の氷川にある勝さんのお宅。

今まで会った人間で、本当に恐ろしいと思ったのはふたりだ。一人は薩摩の西郷、もう一人は横井小楠先生・・・

と、ここでようやく小楠さんがご登場です(名前だけですけどね)。
満を持して何てもうすっかり通り越して、何で今更出すんだ、という突っ込みを思わずしてしまいたくなりました。
勝さんのこの言葉は有名ですが、横井小楠という人にことごとく触れて来なかったので、「誰それ?恐ろしい人なんだ」程度の認識しか与えられないのが非常に惜しい。
積み重ねの甘さのつけが、こんなところにも回って来てしまっているようです。
(ちなみに小楠さんのことについては、此方の記事で既に書いております)
勝さんは襄さんの大学設立について、お金が必要なのも分かるし、そのために寄付を募ったというのも理解した上で、でも彼らが同志社に投資するのは「キリスト教の大学は、西欧化の象徴に使えると踏んだんだ」と鋭い指摘をします。

折角の大学を、紐付きにする気かい?官からの独立、自由教育を謳っている新島さんが・・・。政府のためでなく、人民のために作る大学だろう?だったら、その志を全国に訴え、国民の力を借りて作っちゃどうだい。一人から貰う千円も、千人から一円集めるのも、同じ千円だ
でも襄の体は一づです。日本中を説いで回ることは出来ません
徳富がいるじゃねぇか。国民之友には数万人の読者がいる。これを載せて読んでもらえば、数万人相手に集会を開くようなもんだ

ここで物を言うのが、ペンの力ですね。
ペンは剣よりも強し、とはよく言ったもの。
最後の方でも描かれましたが、襄さんはこの「国民之友」を始め、全国二十あまりの主要新聞に「同志社大学設立の旨意」を掲載して貰いました。
(因みに該当文書はこちらで読むことが出来ます)
こういうスタイルは明治時代ですよね、やっぱり。
先程の「国民之友」の号でも、襄さんと福沢さんは「二君素より其志す所に於て一も同じき所あらず、然れども独立独行、政府の力を假らず、身に燦爛たる勲章を佩びず、純乎たる日本の一市民を以て、斯の如き絶大の事業を為し、且つ為さんとするに至つては、則ち其揆を一にせずんばあらず」と、はっきりと「独立独行」の仁だと書かれていることですし、紐付きにならないよう襄さんには頑張って貰わねばなりませんね。
それに体の方が付いて行かないのが、襄さんの切ないところではあるのですが・・・。
そんな襄さんのために、勝さんが鎌倉の静養所を紹介しれました。
(鎌倉って大磯のすぐ近くじゃないかと、不覚にもどきりとしてしまいましたが・・・これも狙っての事なのでしょうか)
町の射的で遊んだ八重さんの腕は今も劣らず、襄さんは駄目駄目で・・・。
このやり取りも良いですが、個人的には襄さんの猟銃のエピソードが見たかったなぁ、と。
「あなたは鳥を打ちに行くのではなくて、鳥を追いに行くんだ」って八重さんに言って欲しかったですし、「もしもし、うちの鳩を打ってはいけませんよ」って注意される襄さんが見たかった(笑)。

良いものですね、こんな風に二人だけでゆっくり過ごすのは

というのも束の間、宿の部屋には何故か槇村さんが我が物顔で寛いでいて、これには襄さんも八重さんも吃驚です。
「いわば同志社の生みの親」と自負しているらしい彼は、募金集会のことを聞いて襄さんに寄付してくれるのですが、生みの親は飛躍して物事考えすぎでしょうに(笑)。
しかしながら一切問題、槇村さんも寄付していたという話はあるのでしょうかね?
手元の資料を探る限りでは、彼の名前は見当たらないのですが。
でなければここでの彼の再登場は、視聴者へのサービスとしか考えられないのですが、兎にも角にも相変わらずでしたね(男爵になっているはずなのに)。

京都に戻った八重さんは、明石さん(京都舎密局に出仕していたあの明石さんです。覚えておられる方少ないのでは・・・)から襄さんの病気は治る見込みがないことを告げられます。
心臓が偉く弱っていて、次に発作が起きたら破れるかもしれないと。
実際にはドクターは明石さんではなく、ベルツさんと難波一両さんの合診だったように記憶していますが、さしもの八重さんも襄さんの余命宣告に平静ではいられません。
そのまま真っ直ぐに家には帰らず、買い物をして気を落ち着けて帰宅した姿がドラマで描かれていましたが、実際の八重さんもそうしたそうです。
襄さんの書いた『漫遊記』には、夫の余命を知った八重さんを「八重ノ愁歎一片ナラス、大ニ予ノ心ヲ痛メシメタリ」と記されています。
余命宣告のことを本人には隠そうとする八重さんでしたが、

私には、やることがあるんです!その日が近いなら、準備をしなければならない!死を恐れるような男だと思っているのですか!怖いのは死ぬことではない、覚悟を決めず、支度も出来ぬままに突然命を断たれることです

と言われ、心臓がいつ破れてもおかしくない状態にあることを告白します。
自分の体がそんな状態だというのに、襄さんときたら「可哀想に・・・驚いたでしょうね。一人で、そんな話を聞いて」とか、本当に泣きそうになりましたよ。
聖人君子過ぎる・・・と思ったら、そうでもないという部分がこの後描かれていて、今回のこの演出は好きだなと思いました。
寝ている襄さんの口元に、心配した八重さんが手を持って行って呼吸を確認したのは、八重さんの手記『亡愛夫襄発病の覚』で触れられているエピソードですね。
妾は、日夜の看病に疲労し、或時は亡夫の目覚め居れるを知らずして、寝息を伺はんと手を出せば、其手を捕へ八重さん未だ死なぬよ、安心して寝よ。余りに心配をなして寝ないと、我より先に汝が死すかも知れず。左様なれば我が大困りだから安眠せよ。と度々申したり。

襄さんは自分の死後の八重さんを殊の外案じていたようで、明治22年5月には「大和の山林王」と呼ばれる吉野の土倉庄三郎さんに手紙を書き、300円を預けるから、「マッチ樹木植付のコンバネーとなし下され(マッチ棒用の植林の共同出資)」と依頼しています。
まあこの背景には、お金遣いの荒い八重さんの、自分の死後の身持ちを案じて・・・というのも大いに含まれているのですが。
で、ここで初登場時から視聴者に「天使」とあだ名され、さながら聖人君子を絵に描いたような人であった襄さんの、人間らしい心中吐露が見られます。

何一つ、容易く出来たことはない・・・邪魔され、罵られ・・・全ては主の思し召しだと思えば、試練も喜びに変えられた。でも・・・耐えられない!ここまで来て、大学が出来るのを見届けられない何て・・・こんなところで死ぬ何て。・・・主は何故、もう少し時を与えて下さらないのだ!・・・死が、私に追い付いてしまう・・・

要は言葉の装飾全部取っ払ってストレートに言うと、「死にたくない」んですね。
死ぬことを恐れてるわけじゃない人間の「死にたくない」。
何故か、それはここで逝ってしまったら、未練が残るからです。
その未練とは言わずもがな、大学を作ること。
うんうん、と頷きながらそんな襄さんを見守っていたのですが、その後八重さんの口からとんでもない台詞が飛び出て、一視聴者としても目玉が飛び出そうになりました。

もういい!もうやめでくなんしょ!ジョーの心臓が破れてしまう!大学なんかいらねぇ!襄が命を削るぐらいなら、大学なんか出来なくていい!

この嫁は夫の夢を全否定した挙句、「大学は他の人でも作れる。ジョーでなくても」とトドメの言葉までご丁寧に・・・。
いえね、八重さんの夫を失いたくないっていう気持ちは分かるんですよ。
襄さんの夢は知ってるけど、それと命とを天秤にかけたら、やっぱり命の方に傾いたからもっと我が身を大事にして欲しい、って気持ちから飛び出た言葉なんだろうなというのも分かるんですよ。
でもそう思わせるだけの夫婦描写が、果たして今までありましたか?
小楠さんの時と同じく、積み重ねの甘さのつけが、ここでも回って来てしまっていますね。
「ジョーのライフは私のライフ」の一言で全部集約出来てたと思ったら大間違いですよ。
しかしまあ、嫁に面と向かって今までやって来たことを全否定されたのに、襄さんは怒りもせずに言います。

私がいなくなっても、きっと後に続く人たちが自由の砦を作り上げてくれる。私もそう信じます。・・・けれど、そのためにはまず誰かが種を蒔かなければならない・・・一粒の麦が、地に落ちなければ・・・

これは新約聖書『ヨハネによる福音書』第12章24節「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」ですね。
襄さんの使命感とか、国家に対する思いというのはドラマでは最低限にしか触れられていないので、この台詞も最低限の規模でしか響きませんが、それでも良い台詞だと思いました。
ただやっぱりというか、その言葉を受けた八重さんが、「そうでした、これはジョーの戦でした」と納得する思考回路が、少し謎でして。
そんなに簡単に納得出来るなら、最初から全否定してあげなさんなや、って思わずにはいられない。
まあ全ての原因は、積み重ねの浅さでしょうけどね。
だから台詞同士が全く共鳴し合わず、中身の詰まってないものに聞こえてしまう。
ともあれ次回で襄さんご退場ですね。
脚本は相変わらずですが、今回の心中吐露の場面と言い、部分部分はオダギリさんの熱演ぶりが光っているので、臨終の場面も期待したいと思います。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年11月20日水曜日

第46回「駆け落ち」

今回のタイトル、当初は「明治の青春」だったのが変更されたそうで・・・しかしドラマを見てみると、どうも変更前のタイトルの方が良かったような気がしてなりません。
まま、そんなボヤキはさて置き、本編の内容に早速踏み込みましょう。
明治20年(1887)1月、みねさんは長男、平馬さんを出産します。
父方の横井平四郎(小楠)さんから「平」を、母方の覚馬さんから「馬」を取った名前です。
作中では第一子出産後の数日、産後の容態芳しからず、儚くなってしまった・・・とありまして、実際もその通りなのですが、実は平馬さんの前に悦子という女児をみねさんが時雄さんとの間に儲けていたという話もありまして。
しかしこの、みねさんから見れば長女に当たる悦子さんのことはあまりよく分かっていません。
ともあれ平馬さんは後に山本家の養嗣子となり、昭和19年(1944年)57歳で没します。
25歳の若さでこの世を去ったみねさんは、覚馬さん達とは違って南禅寺の天授庵に眠っています。
みねさんには舅にあたる横井小楠さんと同じ場所に埋葬されたのですね。
また今回亡くなられた襄さんのお父さん、民治さんも改葬されるまで天授庵に埋葬されていたようで、襄さんも葬儀の直前まではここに埋葬される予定だったそうです。

さて、最終回まであと少しということろで、またもや新しい登場人物、猪一郎さんの弟の健次郎さんの参入です。
・・・とは言っても、ずっと前から同志社の生徒でしたので、今になってやっと出して貰えるのか・・・という感が拭えませんが(苦笑)。
ちなみに健次郎さんは同志社を再入学してこの場にいます。
一時は熊本の実家に帰っていたのですが、猪一郎さんが実家に戻って来て且つ結婚したものだから居辛くなり、家を離れます。
その後今治で牧師活動をしていた時雄さんを頼り(親戚関係なので)、そこで教会活動を手伝って、明治19年(1886)6月に京都へ移って同年秋に編入試験を受けて同志社に再入学したのです。
再入学した同志社で、彼が出会ったのは久栄さん。
このふたりのことは、先週の記事でもご紹介しました健次郎さんの自伝的小説『黒い眼と茶色の目』で有名ですが、まあ折角ですので内容に沿った形で筆を進めていくことにしましょう。
何やら本の貸し借りを通じて親交を深めている様子の二人ですが、そんな健次郎さんが次に久栄さんに勧めたのが坪内逍遥さんの『当世書生気質』。
近代デジタルライブラリーでも読むことの出来るこの作品、平たく言えば当時好評を得ていた小説です。
以前放映されていた「坂の上の雲」でも、確か正岡子規さんが読んでいたように記憶しています。

帝大生が小説など!こんな低俗な娯楽にうつつを抜かしている場合が!東京大学は今や帝国大学となった!お前達には日本を正しぐ導く重責があるごどを忘れるな!

と、山川さん家の方の健次郎さんが帝大生に怒鳴り散らしておりましたが、明治のこの時期、小説がどういう物だったのかについて少し補足したいと思います。
言わずもがな、現代の我々が捉えている「小説」とは、物は一緒でも社会的捉えられ方が全く違います。
あんまり深くメスを入れ過ぎると文学史の話になってしまうので極力避けますが、そもそも「小説」という言葉は「小人(つまらない人のこと)の説」という意味でして、お隣の中国では賤民的な存在であって、伝統的な観念では文学以外のものと考えられていました。
ええ、そうです、かの有名な『三国志演義』も『水滸伝』も『西遊記』も、小説であるが故に文学だとは見做されてなかったのです!
これは儒教的な観念なのですが、転じて、日本にもそういった傾向がありまして、要は健次郎さんの台詞にあるように「小説は低俗な娯楽」と位置付けられていたのですね。
へーそうなんですか~という感じでしょうが、儒学を尊しとした江戸時代の武家の人間として、少なからずその価値観が植え付けられてる健次郎さんからすれば、小説なんてものは差別の対象になってしまうわけですよ。
逆に生徒諸君は、きっと江戸時代が瓦解した明治のお生まれでしょうから、そういった価値観ががっつり植えられてないので、健次郎さんとの間には温度差が生じてる。
きっと彼らは、小説の何が駄目なんですか?という感じだと思います。
それはそっくり八重さんと健次郎さん(以下、ややこしいので蘆花さんと表記します)にも当てはまることでして。
八重さんも江戸期の人間だから小説は差別の対象(=「小説何て絵空事の話」発言)、対して蘆花さん(=「小説は絵空事じゃなか。小説には人間の本当が書いてあっと」と八重さんに反論)は明治の生まれだから小説を差別するだけの価値観を持ち合わせていない。
価値観の違う者同士が言い合っても、平行線を辿るのはいつの時代も同じこと。
近頃の若い者は」と八重さんがぼやいておられましたが、ここに明治という時代の区切りを境にして、前に生まれたか後に生まれたかの温度差のようなものがくっきり浮かび上がっていますね。
ちなみに「帝大生が小説など!」と健次郎さんに言われていましたが、ご存知明治を代表する小説家、夏目漱石やその他文学士を彩る数々の文豪も帝大卒、或いは帝大中退です。
しかしまあ、漱石からして生まれたのが江戸時代が間もなく幕を閉じようとしている慶応3年(1867)ですから、彼にもきっと小説に対する儒教の先入観はなかったのでしょう。
そう考えたら、安政6年(1859)というがっつり江戸時代生まれの坪内逍遥さんが小説に取り組んでいたのは、なかなか開明的というか、先進的というか、価値観に捕らわれない人だったのかなと。
小説というものが、人間の内側に向き合うルーツとして出て来たのは、封建制の時代が壊れた明治という時代ならではの新風。
封建制が終わったということで、「身分や家柄も構いなしになった」一方、「己の才覚だげで生ぎで行ぐ自由もまた、恐ろしかろう」というように、明治という新時代を生きる若者には、明治という新しい時代を生きるための生き方みたいなのがあるのです。
江戸と明治は全く違いますから、それこそ江戸の生き方が明治でそのまま通じるはずもなく。
そう言った意味での生き方の模索の中に、「個人」や「人間の内面」というのが登場してくるのですが、江戸時代という旧時代の人間からすればそんなものが「軟弱」に見えるのですね、八重さんみたいに。
覚馬さんのように開明的だと、明治という新し次代を生きることの難しさに理解を示せるのですが。

話を戻しましょう、覚馬さんの言葉を借りるなら「明治の生まれか」な蘆花さんと久栄さん。
『当世書生気質』の次に蘆花さんが彼女に貸したのは『レ・ミゼラブル』。
曰く「ある罪深い男が娼婦の娘のために一生ば捧げる話たい。何が罪で、何が愛か・・・」というこのお話、現代の我々の知るあの『レ・ミゼラブル』なのですが、この頃既に日本でも読まれていました。
正岡子規さんがこれを読んで感動した、という逸話は有名です。
ここで蘆花さんは、小説家を目指す抱負を久栄さんに打ち明けます。

ペンで人間ば解剖するように、人間の本当を書きたか

とはいうものを、その解剖の犠牲になるのが目の前の久栄さんであり、後年ですと捨松さん(『不如帰』にて大迷惑を被りました)なのですね。
小説を馬鹿にするわけでは決してありませんが、小説は飽く迄小説であって、それ以上のものにはなれない。
神様でもない人間が書いたものなので、絶対に視点や考えに偏りが生じますので、そう言った意味では「本当」何てものは誰にも書けないのです。
そんな蘆花さんのペンネームの由来がここで紹介されます。

徳富蘆花。蘆の花は見どころとてもなく
清少納言?
兄に比べれば俺は取るに足らん蘆の花たい。ばってん、俺はそぎゃん花の方がよか

蘆花、という号は久栄さんが指摘した通り、清少納言の『枕草子』(能因本)七十段に由来するもののようです。

ちょっと話を蘆花さんから、お兄さんの猪一郎さんに映しまして、同志社を中退した彼は、押しも押されぬ新進言論人として全国にその名を知られていました。
そのきっかけとなったのが『新日本之青年』であり、襄さんが第三版の序文を寄せていた『将来之日本』です。
襄さんはこの『将来之日本』の最も優れた理解者で、「御近著之将来之日本御送付被下鳴謝之至ニ不堪候」と、子弟でもある猪一郎さんの開花を喜んでいます。
猪一郎さんは自伝で、「予は当時専らスペンサーの進化説や、ミルの功利説や、抑々又たコブデン、ブライト等のマンチエスター派の非干渉主義や、自由放任主義や、若しくは横井小楠の世界平和思想や、それ等のものに依って、予一個の見識を打ち建てるものであった」と書いています。
自由時間を使って自分の勉強を積みつつ(インプット)、自分の塾で学んだことを講義してアウトプットする傍ら、鋭い現実政治批判の論評を磨いて行ったのでしょう。
そういう背景から『将来之日本』や、あるいは『新日本之青年』が生み出された。
仮に猪一郎さんが上京後に東京の新聞社への就職が成功していて、新聞作りに追われる日々を過ごしていたら、これらの作品は生まれて来なかったとも言えるかもしれません。
襄さんは「同志社大学設立の旨意」を猪一郎さんに委託しますが、その背景理由として、襄さんの持つ文明論的国家観と蘇峰さんが意気投合していたから、というのもあると思います。

話を再び弟の方に戻しまして・・・。

叔母様の力を借りるつもりはありません。母を追い出した人に頼るわけにはいかへん

と、久栄さんの母親代わりになろうと努めるのに、全身拒絶を食らう八重さん。
親ならば子は思う通りには行かぬと心得ておくと良い、と民治さんは言いましたが、母親追い出しておいて母親面するのは流石にどうかと思うという点で、この態度は全面的に久栄さんに賛成です。
それはさておき、ふたりの交際が噂になり、八重さんが真偽を質したところ、久栄さんは寧ろ開き直って噂を肯定します。
そこで読み上げたのは、蘆花さんから送られた恋文。
全能至大ノ父、十字架ニ鮮血ヲ流シ玉ヘル子、永久ニ生キテ働ク聖霊、三位ニシテ一体ナル神ノ御前ニ於テ、肯テ御身ト将来偕老ノ約ヲ結バンコトヲ誓ヒ、未来永劫或ハ渝ルコトナカランコトヲ跪イテ神ノ御前ニ祈ル。艱難の山、苦痛の谷も手を挈えて渡らん。
君が将来の夫
吾が未来の妻
これは『黒い眼と茶色の目』の中にある恋文の全文なので、実際蘆花さんがどんな恋文を送っていたのかは知りませんが、とにかく送ってくれた本人を前にして恋文を音読するとか、久栄さんは八重さんに反抗的なのは判りますが、余りにあれじゃあ蘆花さんが不憫です(苦笑)。

うちら、今から結婚するつもりや
何を馬鹿なごどを
健次郎さんは、同志社辞めて東京で小説家になるというてます。うちも東京に着いて行く
学生の身で結婚など許せるはずがねぇ!
山本家から追い出した女の娘や。厄介払い出来てええやないの。うちも追い出して下さい
厄介者な訳ねえ!家族だがら反対すんだ。そんな結婚、久栄のためにならねえ
叔母様にうちの結婚を反対される謂れはないわ。母親にでもなったつもり何か!レ・ミゼラブルいう小説。ここには我が子のために命をかける母の愛が書いてあります。いっぺん読んでみたら叔母さんにも分かるやろ

個人的に、この発言をしている久栄さんが『レ・ミゼラブル』の内容をちゃんと汲み取れてないような気がしてならない・・・。
コゼットのことを自分に都合よく解釈しちゃっただけなんですかね。
・・・あれ、自己の都合よく何かを解釈するそういうところ、蘆花さんと似てますね。
もしかしてそういうさり気無い演出をにおわせてるのですか?(そんな訳ない)
小説で食べて行けるのか、いうことについて、この頃の日本で小説だけで食べて行こうとして失敗した例が樋口一葉さん。
その失敗を繰り返さないように、小説家をサラリーマン的にして、小説家を食べて行ける職業にしたのが夏目漱石さんです。
きっとこのまま蘆花さんが上京しても、小説家として一本立ちになれず、樋口さんルートを辿ってただろうなぁ、と感じずにはいられませんが、どうなってたでしょうね。

明治19年(1886)6月、襄さんと八重さんは仙台の東華学校開校式の出席を経て、函館から札幌に避暑に向かいます。
冒頭のみねさんの出産が明治20年なので、また時系列がおかしなことになっていますが、もうあまり深く考えないことにしましょう。
個人的には、北の大地に渡った八重さんが、斗南のこととかは脳裏を掠めもしないのね・・・と・・・(苦笑)。
このとき八重さんと再会したユキさんの、薩摩藩士との結婚のことは、このブログでも何度も触れてきたことですので、もう書かないでおきます。

気になる久栄さんと健次郎さんの恋路の行方ですが、結果論から言ってしまうと成就しません。
ただその結果に至るまで、一体どんな道程を辿ったのかについては、やっぱりよく分かっていないのです。
前回の時栄さんの時と同様、『黒い眼と茶色の目』に書かれていることが事実のように捉えている人もいますが、繰り返します、『黒い眼と茶色の目』は小説です
なのでそれを鵜呑みにするのはかなり危険なことですので、少し違った角度から蘆花さんと久栄さんを見て行きましょう。
ドラマでは一方的に、蘆花さんが久栄さんを捨てて上京した形になっていました。
ところがところが、『黒い眼と茶色の目』では寄って集って自分の恋を諦めさせに掛かった挙句、黒い眼(=襄さん)が恋愛というプライバシー問題に介入して自分達の関係にとどめを刺した、と、まるで蘆花さんが被害者のように描かれています(まあ一度読んでみて下さいませ)。
実際に分かっている情報を辿ると、蘆花さんは明治20年12月17日に襄さん宛てに決別の書簡を出して同志社を飛び出して失踪、その後翌年2月に水俣に現れるまでの二か月間については何も書き残していません。
この空白の時間、蘆花さんが久栄さんとのことで心が荒れていたのは想像に難くありません。
気になるのが、後年(大正3年)『蘆花日記』にて、蘆花さんが

久栄は余が離縁した妻ではない、皆が離縁さした妻である。
細君は余が親迎した妻ではない、皆が結婚さした妻である。
故に余は満足しなかった。
と書いていること。
ここから読み取れる蘆花さんの言い分は、久栄さんとのことも奥さんとのことも、自分ではなく外から不本意な決定を迫られた、ということです。
女性が見たら激怒しそうな、自分のことを棚に上げた無責任発言ですね(笑)。
まあ、蘆花さんは「自分の書いた痕跡で見れば、余は従来常に他動的で、自発的に動いたことはない」と自分で言ってしまってるので、こういう風な言い方をするのはよくあったのでしょう。
しかしこう言っておきながら、蘆花さんは久栄さんとの出来事を実に三度も叙述します。
言わずもがな、それが『黒い眼と茶色の目』という作品です。
一回目の起稿は、久栄さんと別れてから日の浅い明治21年(1888)~明治22年春頃、日久奈温泉の泉屋で書き上げました。
二回目の執筆は上京後、兄の猪一郎さんの民友社で翻訳の仕事に従事していた明治25年(1892)頃。
そして明治26年(1893)7月20日に久栄さんが亡くなり、三回目は大正3年(1914)9月~10月17日に綴られました。
このとき蘆花さん、妻の愛子さんと結婚して二十一年目です。
何故三度も綴ったのか、ということについては、年月の段階を踏んで自分の中にあるものを「書く」ことによって昇華させていっているように私には見えます。
第一回目は、久栄さんとのことがあってからまだ日も浅かったので、久栄さんへの復讐などの気持ち、遣る瀬無い鬱憤の放出などの意味合いが強く(愛憎)、第二回目もそういった感じで筆を動かし、第三回目には今いる自分の妻と、後遺症として残る久栄さんと、そして自分の関係や距離感の整理、という意味合いがあったのではないかな~、と私などは捉えています。
その証拠に・・・というには少しおかしな表現ですが、大正3年の日記で、蘆花さんは「余は『茶色』で潔く彼女を永久に葬る」と言っています。
これは書くことによって、自分の中にいる久栄さんとのようやくの決別が出来たと取っても良いのではないでしょうか。
第一回と第二回の原稿が残っているわけではないので、比較も出来ないままの推論で大変申し訳ないのですが。
勿論過去の記録文学として仕上がっているこの小説が、ふしだらな女(=久栄さん)に弄ばれた被害者(=蘆花さん)、ということで、蘆花さんの自己を正当化し、合理化するために書かれた作品とも受け取ることも出来ます。
もう少し興味深い記述を、同じく大正3年に蘆花さんが残しているので、如何に引用させて頂きますね。
十月三日
何故に「茶色の」を書く乎。要するに自己肯定の結果である。真実の自己を押し出す勇気がやっと出たからである。斯くて久栄は大ぴらに世の肉縁薄かった先妻となり、細君は後妻となるのである。久栄が隠し妻である間は、細君は世の真の妻ではない。余が久栄を公表し、細君が久栄を包容するに至って、余と細君の結婚は成立するのだ。「茶色の」表面に細君の片影もないが、背景には確固とした根強い細君が居る。細君が十分に入って来たから、久栄は出るのだ。
十月六日
「久栄さんは十六七の子供なのに、あなたが今日まで引っ張って育てゝ居なさる」と細君曰ふ。
十月十日
余は細君を自分流儀に愛した。然し過去の幽霊に対する愛も終始動いた。二つの愛は終始絶間ない葛藤を起こした。細君が来て今日に到るまでの廿一年間は其二つの勢力の消長史である。・・・・・・余は長い長い内諍の後やっと細君を専愛する心になった。ついに此三週間以内の事と云ってもよい。父の死が余を解放したとも云へる。最後の試験に細君が及第したからとも云へる。・・・・・・過去一切を久栄にやって、はじめて余と細君の真の結婚は成就するのだ。
十一月一日
細君曰く、久栄さんがあなたの心の最奥を占め、私が其外を占めていたと。厳密な定義に於いて、最奥が細君で、中層が久栄で、上層がまた細君だったのだ。余曰く、実は今日まで久栄を愛して居た、「黒い眼」を出すのも一は久栄の心の最後の在処を探らん為であった、久栄が余を捨てたや否やまだ余の安心はついていなかったのだ。
(徳富蘆花1928、蘆花全集10、蘆花全集刊行会)
以上の抜粋部分を読んで汲み取れるのが、『黒い眼と茶色の目』は蘆花さんの中で久栄さんという存在をぐるぐる回して、それを昇華ないしは決別させるための作品だったということで。
なのでただの「久栄への復讐作品」と終わらせるのも、「蘆花の被害妄想小説」という言葉で片付けてしまうのも、間違いではないのですが、それだけじゃ片付けられないものが含まれていると思うのですよね。
故に軽々しく、あの二人の間に起きたことは『黒い眼と茶色の目』に書かれていることが全てです、とも言って欲しくないなと。
何だかまとまりのない記事になっていますが、結局のところ、歴史の真実や当人同士が何をどう思ってただ何て、当人ら以外の誰にも分からないんですよねぇ・・・と、無理矢理まとめさせて頂きます(着地点見失った!)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年11月12日火曜日

第45回「不義の噂」

琵琶湖疏水、と言われてピンと来る方は少ないと思いますが、南禅寺にある水路閣(写真)は見たことのある方が多いのではないでしょうか。

これは明治18年(1885)に、当時の京都府年間予算の十数倍の額を投入して行われた事業で、この事業があったからこそ、京都の人は今でも清浄水を絶やすことなく使うことが出来ているのです。
更にこれは明治28年(1895)~大正15年(1928)には疎水から引いた水で、蹴上に日本初の営業用水力発電が設置され、伝記による機械製工業の発展など、京都の近代化をますます担うことになります。
覚馬さんは京都商工会議所の会長としてこれにも関わっており、ここにも京都の近代化と復興を担った山本覚馬という人物の功績が見られます。
覚馬さんこのとき57歳、数えで58歳なのですが、まだまだ現役を退く気配はない様子です。

一方、舅の民治さんと姑の登美さんにワッフルを振るう八重さん。
「西洋の大判焼きか?」と民治さんは言ってましたが、この時代の言葉に「大判焼き」は存在しません(1950年代に出来た名称ですので)。
いうのなら「今川焼き」が一番妥当な表現です、時代考証さん今週もしっかりしましょう。
まあ、突っ込みはこのくらいにしておいて、ワッフルが「ジョーの大好物で、棚に隠してもすぐに見つけんですよ」というのは有名な逸話ですよね。
食べられないように、八重さんは棚に鍵まで付けたのですが、何処で覚えたのか襄さんはそれをピッキングして食べていたようです(笑)。
逸話を見るに、襄さんは甘いものを沢山食べているように見受けられるのですが、残っている写真を見ると襄さんってスマートなんですよね。
一体カロリー何処に吸収されて行ったのでしょうか・・・謎です。
それはさておき、呑気にワッフル作ってる状況ではなくなった同志社女学校。
以前から雲行きの怪しかった宣教師との対立が表面化し、日本宣教団体(ジャパン・ミッション)と女子宣教師が同志社女学校から撤退し、運営の後ろ盾のなくなった女学校は廃校の危機に立たされます。
そこで、宣教師らの影響力を受けない学校に女学校を作り変えようと画策する八重さんですが、言うのは簡単、でもそのためには多額の資金が必要になります。
何と言っても、宣教師達と手を切るということは、大学運用の資金源とも手を切るということと同意ですから。
そういうわけで八重さんは覚馬さんに、商工会議所の人たちを紹介して貰って資金繰りに奔走します。
しかし商工会議所の人たちは、冒頭の琵琶湖疏水に出費したばかりで、そう易々と女学校の方にまでまたお金を出すのは出来ないというタイミングの悪さで、それでも女学校で参観日を開いて「出資する価値はある」とアピールするなど、なかなかの手際の良さを見せる八重さん。
結局これらが効を成し、大垣屋さんの養子、大沢善助さん達の支援によって同志社女学校は廃校を免れます。
同志社英学校の時もそうでしたが、要は他人(明治政府なり宣教師達)に頼らず自分でやれ、という雰囲気が明治編にはありますよね。

さて、今週の見どころは、初代伊藤内閣設立をさらっと流してまで描いた時栄さんの不義騒動ですね。
蘆花さんの自伝的小説『黒い眼と茶色の目』にも、この一件のことは描写されています。
蘆花さんというのは猪一郎さん(蘇峰さん)の弟で、どうやら来週本編に登場するようです。
彼についてはまたその時に触れるとして、小説での該当箇所を引用してみましょうか。
時代さんはもともと鴨東に撥をとって媚を賣つて居た女の一人であった。幕末から明治にかけて、政治運動の中心であった京都に続出した悲劇喜劇に、地方出の名士に絡むで京美人はさまざまの色彩を添へた。其あつ者は、契つた男の立身につれて眼ざましい光を放つた。眼こそ潰れたれ、新政府にときめく薩長土肥の出でこそなけれ、人々の尊敬も浅からぬ山下さんを、時代さんは一心にかしづいて、二十一の年壽代さんを生むだ。壽代さんが生まれた翌年山下さんは跛になつた。時代さんはますます貢意を見せて、寝起きも不自由の夫によく仕へた。總領のお稻さんが叉雄さんに嫁いで、家督ときまった壽代さんが十四の年、山下家では養嗣子にするつもりで會津の士人の家から秋月隆四郎と云ふ十八になる青年を迎へた。青年は協志社に寄宿して、時々山下家に寝泊りした。時代さんはまだ三十五で、山下さんは最早六十が近かつた。時代さんはわたしが十七の年生むだ子に當ると云つて、養子の隆四郎さんを可愛がつた。其内時代さんは病氣になつた。ドクトル・ペリーの來診を受けたら、思ひがけなく姙娠であつた。一旦歸りかけたペリーさんは、中途で引かへして來て、上り框から聲高に、おめでたう、最早五月です、と云つた。聲が山下さんの耳に入つて、山下さんは覺えがない、と言ひ出した。山下家は大騒ぎになつた。飯島家と能勢家は其虜分に苦心した。相手は直直養子の青年と知れた。時代さんは最初養子を庇つて中々自白しなかつた。鴨の夕涼にうたゝ寝して、見も知らぬ男に犯されたと云つた。其口責が立たなくなると、今度は非を養子に投げかけた。最後に自身養子を誘惑した一切の始末を自白して、涙と共に宥免を乞ふた。永年の介抱をしみじみ嬉しく思つた山下さんは、宥して問はぬ心ではあつたが、飯島のお多恵さんと伊豫から駈けつけたお稻さんとで否慮なしに宥免を追出してしまつた。時代さんは離別となつて山下家を去つた。養子は協志社を退學して郷里に歸つた。離別ときまると、時代さんは自分のものはもとより壽代さんの衣服まで目ぼしいものは皆持て出た。金盥、洗濯盥の様なものまで持て出て往つた。
ちなみにこの小説、全文は近代デジタルライブラリーで読むことが出来ます。
(※山下家=山本家、山下=覚馬さん、時代=時栄さん、協志社=同志社、稻=峰さん、飯島=新島、多恵=八重さん、壽代=久栄さん)
未読の方は、来週の予習として目を通しておくと、来週の話が一層楽しめるかと思います。
話を戻しまして、引用箇所を読まれた方、ドラマの内容と比べて「あれ?」と感じた方もおられるやもしれません。
ですが、飽く迄『黒い眼と茶色の目』は「小説」ですので、ここに書かれていることを史実と捉えることは出来ませんし、そうするのは非常に危険だと思います。
実際問題時栄さんと青木さんの間に何があったのか、間違いはあったのか、時栄さんは妊娠していたのか・・・などなど、真相は全て歴史の中に埋もれております。
分かっているのは、時栄さんが何か間違いを起こし、覚馬さんはそれを許したが八重さんが「臭いものには蓋をしてはなりません」と「ならぬことはならぬ」でそれを譲らず、時栄さんを家から追い出した、という流れのみ。
ただ、火のないところに噂は立たないとも言いますので、『黒い眼と茶色の目』という創作物の中に、もしかしたら真実の欠片が紛れ込んでいるとも言えます。
しかしこの事件を大河ドラマで描くとき、一体何処まで突っ込んでやる気だろうかと(一歩間違えれば大河史上に名を刻む昼ドラシーンになりかねないので)思っていたのですが、その辺りは当たり障りなく描けていましたね。
ただ気になったのが、今に始まったことではありませんが、登場人物の心境の演出が杜撰。
台詞と、それを口にしてる役者さんたちのさり気無い演技で持っていたような部分が見受けられまして、たとえば今回のことですと時栄さんが結局覚馬さんをどう思っていたのか、覚馬さんが時栄さんをどう思っていたのか、その辺りは結局触れないままふたりの関係が終了しましたよね。
登場人物を丁寧に話の中で創って来なかったツケが積もりに積もって、やっつけ感が漂ってたなと。
何より気になるのが、現在45話目ですが、残り5話しかないのにこれに1話丸々割いて良いのかということでして。
特に今回は顕著でしたが、全く「歴史ドラマ」じゃないんですよ。
時間軸がほとんど動いてなくて、しかも空間的距離が山本家の屋根の下のみになってるので、奥行きが全く感じられない。
これじゃあ「朝ドラ」と言われても、反論出来ないでしょう。
否、作品にもよるけど、朝ドラよりも酷いかも知れないです。
何だか、回を重ねるごとに最終回が不安になるこの頃でした。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年11月11日月曜日

会津藩最後の姫

「八重の桜」第44回での照姫様の描かれ方が、私的にかなり釈然としないものでしたので、これを機にあまり知られていない「鶴ヶ城開城後の照姫様」について、私の知る限りをご紹介したいと思います。
鶴ヶ城を出た照姫様は、妙国寺で謹慎し始めて間もなく髪を下ろし、照桂院と名を改められました。
あれはてし 野寺のかねも つくづくと 身にしみ増る よあらしのこゑ
と詠んだのは、自身の儚い境涯を哀傷していたからでしょうか。
その後容保様には東京への出頭命令が下され、10月17日に照姫様はそれを見送りました。
容保様は芝赤羽橋の久留米藩邸に永預けとされ、12月7日には詔によって死一等を宥されたものを、この容保の代わりに旧会津藩は誰かを罪に服すべき叛逆首謀の臣三名を差し出さなくてはいけませんでした。
旧会津藩は、やむなく家老職の田中土佐さん、神保内蔵助さん、萱野権兵衛さんら三人を出したのですが、この内田中・神保の二人は籠城戦で既に命を落としており、実の所は萱野さん一人が一身に罪を背負うことになったのは、既にドラマで描かれた通りです。
照姫様は明治2年(1869)3月に東京に護送されており、青山の紀州藩邸に預けられていました。
そこで一死を以て容保の罪を贖ってくれる萱野さんの事を聞き、彼に
夢うつつ 思ひも分かず 惜むぞよ まことある名は 世に残れども
と言う歌を寄せ、切なくも苦しい胸の内を伝えました。
皮肉なことに、執行を言い渡されたのが飯野藩主、保科正益さん、つまり照姫様の血の繋がった実の弟でもあったので、彼女の悲しみは一入だったことでしょう。
萱野さんが麻布広尾の保科家別邸にて死を賜ったのは、同年5月18日。
表向きは斬首ながら密かに切腹の形を取ることを許され、萱野さんは武士としての対面を全う出来ました。
その翌月、容保様側室の佐久さん(田代孫兵衛さんの娘)が容保様の嫡男、容大さんを出産し、11月にはその容大さんに旧会津松平家の家督相続が認められ、旧会津藩は下北斗南三万石として再興されました。
それに伴い照姫様も、12月の内には紀州藩から飯野藩へ預け替えとなり、27年ぶりに生家へ戻ることが出来ました。
明治5年(1872)には容保様も漸くお預け御免となり、その時に喜びの歌として照姫様は
いくかへり むすべる霜の うちとけし うたげうれしき けふにも有哉
と詠んでいます。
照姫様は以後、保科家からの援助で暮らすことになります。
明治12年(1879)には、旅先の東山温泉で
岩くだく 滝のひびきに 哀その むかしの事も おもひ出つつ
との歌を詠んでいます。
「むかしの事」とは一体如何なることかは、照姫様自身が語っていないので、謎のままです。
照姫様は明治17年(1884)2月28日、東京小石川の保科邸でその生涯を閉じました。
享年55歳。
同年の3月15日付の読売新聞では、
奇特 此のほど旧會津藩主松平容大君の伯母君照桂院殿が卒去せられ内藤新宿の正受院へ葬送せられし時在京の旧藩士は勿論郷里の人々も数名出京して会葬せられしが葬式は旧格に依旧臣の頃の順序に一同行列せし中にも当今在京にて顕職に在る人々も旧例に依りて自身に□れしは奇特の至りと会葬者一同感服せしといふ

と報道しました。
照姫様が旧藩士達に慕われ、大切にされていたと言うことが窺える記事ですね。
現在、照姫様は会津若松の松平家の墓所に眠っておられます。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年11月6日水曜日

第44回「襄の遺言」

孝明天皇から容保様に遣わされた御宸翰(と御製)を、容保様が竹筒の中に入れ、生涯誰にも見せることなく、また入浴時以外は肌身離さなかった・・・云々の話については、3月に書いた記事で既に触れた通りです。
夏に京都文化博物館で催されていた「2013年NHK大河ドラマ 特別展 八重の桜」にて、この御宸翰の実物を拝見して来たのですが(既に催しは終了しております)、この御宸翰、私が想像しているものよりずっと大きかったです。
いえ、容保様が「肌身離さなかった」というので、アクセサリー以上の大きさではあろうとは思ってましたが、まさか縦47cm×横7cm(錦袋の大きさ)だとは思いませんでした。
正直申し上げるに、あんなものを肌身離さず持っていたら日常生活に於いて邪魔で仕方がないと思うのですが、そこには敢えて触れないことにして・・・。
あの御宸翰は会津が決して逆賊ではなかったと証明する物品であり、だからこそ山縣さんなどはその存在を知った時にそれを買収して、それを闇に葬ろうと(おそらく)したのですよ。
それほどのものなので、会津(というより容保様)にとってはこれは決して軽いものではなく、また軽々しく扱ってはいけないものだと思うのですよ、ええ。
罷り間違っても、今回のドラマのように、たとえ相手が照姫様であっても容保様がそれを余人に見せるようなことは、断じてなかったと思うんですよ
家族でさえ竹筒の存在は知っていても、中には何が入ってるのか知らなかった程ですから、容保様は生涯それを秘して来られたはず。
いえね、ドラマですから、ええそうですこれはドラマですから、今にも儚くなりそうな義姉上に、亡くなる前に彼女には真実(御宸翰)を知っておいて欲しかった、というのがあったんでしょうね。
容保様にとっては照姫様は精神的支柱だったのは、「八重の桜」冒頭から描かれてきた紛れもない事実です。
しかも、かつては夫婦になる予定があったふたりですから(そのことについては此方の記事で)、淡い感情のようなものが通っていなかったとは断言しませんよ、実際どうだったのか分からないのですから。
でも、あの抱擁はないでしょう、あの抱擁は。
「あったかもしれないこと」を創作するのと、「絶対なかったであろうこと」を創作するのとじゃあ、創作物として出された時の意味合いが全然違いますよね?
容保様と照姫様を、プラトニックラブ的に描くのならまだ許容の範囲内でしょうが、あれは完全にアウトでしょう。
何よりあんな陳腐な抱擁のシーンに繋げるために、御宸翰を出汁のように使ったことに(少なくとも私の目にはそう映りました)怒りを覚えます。
以前の記事で「歴史上の人物や出来事への敬意や思いやりというのはあって欲しい」と書きましたが、本当いい加減にして下さい、ここ数週間の大河ドラマ。
ドラマだからって、やって良いことと悪いことがある。
況してや歴史を題材にした大河ドラマが、歴史を蔑ろにして如何するって話ですよね。
で、容保様のお子様群と側室方の存在は一体何処へ行ったのでしょうかね?
そこ出さないと、勢津子妃にまで繋がらないんですよ。
勢津子妃まで繋がらないと、本当の意味で「会津は逆賊ではねぇ」が果たせないというのに・・・。
そもそも「八重の桜」って、薩長史観ではなく、朝敵逆賊扱いされた会津の立場から幕末を描くのもコンセプトのひとつではなかったですっけ?
幕末が終わって時代が明治になったらそれで全部終了ですか?
違いますよ、勢津子妃のことがあるまで、少なくとも朝廷賊軍扱いされてきた会津の中ではずっと幕末って続いてたんですよ。

・・・と、今回の記事も冒頭からそこそこ荒れていますが、ぼちぼち次の場面に着手しましょうか(既に意欲低迷してますのでさらっと行きます)。
話の主軸としてあったのは、同志社英学校を同志社大学にするための奔走と、私学の学校から徴兵令免除が撤廃されたことについてですね。
後はアメリカンボードとの確執もでしょうが、当ブログでも折に触れて補足してきた通り、正直これって今に始まったことじゃないんですよね。
アメリカンボード側としては、自分達が資金を提供するスポンサーなのだから、襄さんは所詮雇われ校長にしか過ぎない。
でも八重さんは違う、八重さんは襄さんが作った学校だから、同志社の権利の全ては校長の彼にあると主張。
どう考えたって噛み合うわけがないのですが、今更この問題に八重さんが直面してるってことは、八重さんはにこにこ笑って綺麗なお洋服着て、紅茶を淹れることしかしてなくて、夫の立場や苦境何て全然理解してなかったってことになりませんか?
それが、アメリカンボードとの現状を知った途端に、変な使命感に駆られつつも「ジョーのライフは私のライフ」なんて言われても、この八重さん説得力皆無ですよ。
で、この噛み合うわけないのを理解していないのか、宣教師の教師陣と真っ向からぶつかり合う八重さん。
襄の留守に勝手なごどはさせねぇ」と本人言い張りますが、平行線をたどる事が見えている両者に折り合いをつけたのは佐久さん。
敵を作る方法でしか喚けない八重さんに対し、佐久さんの我が身を切ってでも一歩退くお裁き加減は本当にお見事でした。
ハンサムウーマンって、こういうことを言うんじゃないでしょうかね。
ドラマの八重さんもいい加減佐久さんからこの辺りのノウハウ学びましょうよ(苦笑)。

順番が前後しました。
明治17年4月、襄さんはイタリア・スイスなどを巡ってアメリカへ行く旅に出ます。
大学設立資金集めのためとドラマでは銘打たれていましたが、実際の旅の目的は激務からの解放という目的の方が色濃かったようです(事実上不可能に終わりますが)。
襄さんは外遊に出て日本を離れる前に、同志社大学設立のための発起人会を発足させます。
京都商工会議所にて二日間に亘り発起人会を設立させた後、彼は京都を発ち(4月5日午前9時半発)、大阪を経て神戸から船に乗ります(4月6日発)。
まずそこから長崎に行って(4月8日着)、香港(4月12日着)、シンガポール(4月20日着)、コロンボ、スエズ(5月13日着)、ブリンディージ(5月17日着)、ナポリ(5月18日着)、ローマ(5月23日着)、トリノを経てワルデンシアン渓谷(6月21日着)でひと夏を過ごします。
8月5日にアイロロに着いた襄さんは、ホテル・オーベルアルプに部屋を確保し、翌6日の午後にアンデルマットからホスペンタールの方へ散歩に出掛けます。
マックス・カメラーさんというドイツの紳士がこの時一緒だったようで、サン・ゴタール峠を目指したのですが、次第に襄さんは呼吸困難になり、50メートル歩いては休み・・・と言うのを繰り返し、とうとう砦には辿り着けなかったようです。
その後ホテル・プローザにて夕食を終わらせた襄さんは益々気分が悪くなり、その翌日の午後、画用紙に英文で遺書を認めました。
ドラマでもその様子は描かれていましたね。
折角なのでその遺書の内容の日本語訳を、ブログの参考文献としても挙げている岩波文庫『新島襄自伝』から引用してみようと思います。
 一枚目 私は日本人で、母国に派遣された宣教師である。健康を損ねたので、やむを得ず、健康を求めて国から離れた。昨日ミラノからアンデルマットに到着し、ホテル・オーベルアルプに宿泊した。今朝ドイツの紳士と一緒にサンゴタール峠へと旅立った。私の容態が悪くなったので、彼は私をここに残してアイロロへ進んでいった。呼吸が苦しい。これは心臓の故障に違いない。
 私の所持品は僅かなお金とともにホテル・オーベルアルプに預けてある。私がここで死んだ場合には、どうかミラノ市トリノ通り五十一のチュリーノ牧師あてに電報を打ち、私の遺体の処置をお願いして頂きたい。どうか天の御父が私の魂をみ胸に受け入れてくださいますように!
 一八八四年八月六日 ジョゼフ H・ニイジマ
 これを読んだ人は誰でも、私の愛する祖国日本のために祈って下さい!

 二枚目 私はチュリーノ牧師に対し、遺体をミラノに葬って頂くようお願いする。そしてこの文書を、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市ジョイ通り四のアルフィーアス・ハーディー氏あてに送って頂きたい。同氏とその夫人は、ここ二十年にわたり私の恩人であった。主がお二人に、十分な酬いをお与え下さいますように。同氏にあてて直ちに電報を打って下さい。
 どうか私の頭髪を少し切り取り、それを日本の京都にいる愛する妻あてに、キリストにあって分かちがたく結ばれているしるしとして送って下さい。日本に対する私の計画は挫折するであろう。しかし有難いことに、主はすでに私たちのためにこれだけ多くのことを成し遂げて下さった。主が日本において、引き続きさらに素晴らしいことをして下さると私は信じている。願わくは主がわが愛する祖国のために、数多くの真のキリスト者と気高い愛国者を生みだして下さいますように!アーメン、アーメン。
この後続く自伝によれば、襄さんは胸の圧迫感を抑えるために胸に芥子を貼り付けたんだとか。
と、一時は遺書を綴るほどだった襄さんの容体ですが、夕方になると多少楽になり始め、翌日には馬車でアンデルマットに移動しています。
10日にルツェルンのワイセン・クロイツ・ホテルに到着した襄さんは、翌11日にようやく医師の診察を受け、心臓の左の部分が悪く、弁膜がきちんと閉まらなくなっていることを教えられます
しかし一命を取り留めた襄さんは、そのまま帰国せず、体調が良好なのを良いことに更に旅を継続、イングランドを経てアメリカに向かいます。
当時7歳のヘルマン・ヘッセと会ったり、クラーク博士と接点持ったりなどしているのですが、その話はさて置き、9月23日にニューヨーク港に着いた襄さんは、翌年の12月に帰国するまでアメリカに滞在します。

さて、もう順番かなりごちゃごちゃになってますが、今週の新たな登場人物で特記すべきは青木栄次郎さんでしょうか。
先の展開を知る人からすれば、広沢さん何て人間を連れ込んでくれたんだ!と突っ込みたくなりますが、まあ青木さんだって最初から問題抱えた人だったわけじゃないですからね。
・・・演出は全開でそう言う感じになってましたが(苦笑)。
まあ青木さんのことは次回に取り上げられるので、その時に触れるとして、今回はお久し振りの再登場となった広沢さんについて触れることにしましょう。
(ちなみに青木さんは広沢さんの縁戚ということにされてましたが、それについてはドラマの創作だと思います)
廃藩置県後の明治5年5月27日、広沢さんはイギリス人二人を雇って「開牧社」という牧場を拓いており、現在でいう青森県三沢市に昭和の終わりまで存続していたそうです。
洋式農法による未墾地開拓、洋種を基とした日本家畜の品種改良、肉食と牛乳による日本人の食生活を改善を掲げた牧場は、スタートは八戸藩大参事の太田広城さんとの共同経営でした。
一頭の西洋馬から始まったともいえるこの牧場なのですが、覚馬さんも指摘していた通り、開牧社のお蔭で暮らしが立った会津人も大勢いまして、広沢さんを買った大久保さんが政府要職にスカウトしても、首を縦に振らなかったそうです。
本人からすれば、政府に仕えない位置からお国を支える、という意思があったからでしょうが、政府の人間になると、自分の牧場があることによって日々生活出来ている会津人はどうなるのか、というのもやっぱりあったと思います。
少しでも世の中の役に立たねば、死んだ者だぢに叱られっつまう」というのは、本当にそんな広沢さんらしい台詞だなと。
そんな立派な広沢さんが、青木さんの縁戚という位置に勝手にされて、青木さんを登場させるための出汁に使われていたように見えたのも、これまた眉を顰めたくなる作り方なのですが・・・。
駄目ですね、最早何処を突いても、文句しか出なくなってきてます(苦笑)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年10月29日火曜日

第43回「鹿鳴館の華」

明治14年の政変によって政界からの追放を余儀なくされた大隈さんですが、明治15年(1882)、東京専門学校を開設します。
今の早稲田大学の前身です。
ちなみに政界にもこれより16年後に返り咲いて、薩長出身以外の初めての内閣総理大臣になります。
しかし、相変わらずこのドラマは立憲改進党やら尾崎紅葉やら犬養毅に、単語ですら触れない・・・(苦笑)。
いやでも触れ出してしまったら、それこそ話の大筋逸れてドラマの行く先が昏迷まっしぐらになりますか。

大隈さんの学校開設を追い駆けるように、襄さんも同志社大学設立に向け、準備をしていました。
襄さんが書いてたのは、おそらく蘇峰さんの協力もあって完成した「同志社大学設立の旨意」だと思いますが、これが完成するのはまだまだ先の明治21年です。
これには、同志社英学校設立や私立大学設立運動の経緯を時間順に整理し、何故、どのような私立大学を設立しようとしているのかの目的が謳い上げられています。
以前の記事でも書きましたが、もう一度書きます。
襄さんは教育を通じて国家秩序を回転させ、新しい日本を創出することを目論む、国家論的視野に立つスケール雄大な教育事業家なのです。
ドラマではそう言う風に見えませんが、その辺りは頭の中で補足しましょう。
そんな襄さん、蒲柳の質なのに蕎麦の大食い対決なんてするからなのか何なのか、体調が優れないご様子。
アメリカから帰ったデイヴィスさんも襄さんの体調を慮りますが、襄さんはそんなデイヴィスさんから、捨松さんが彼と一緒の船で帰国したことを知ります。
その頃当の捨松さんと言えば、津田梅子さんと一緒に文部省を訪ね、自分達の働き口を求めますが、10年の留学期間を経て日本語の読み書きがかなり危うくなってる二人に、お役人の態度は冷たく、そして硬いものでした。
まあ確かに、「日本語の読み書きが出来なくて、誰に何を教えると言うのだ」というお役人の言い分は筋が通ってます。
いくら生物学や物理が得意と言っても、フランス語やドイツ語が出来るバイリンガルでも、それを教える相手(日本人)はそれらのこと何にも知らないのですから、仮に教壇に立てたとしても、生徒とやりとり出来ないのですよ。
が、しかし「女は嫁に行って男子を産むのが国家への最上のご奉公」というのは、先進国を目指していながら、それらしからぬ発言です。
前回の記事でも触れましたが、捨松さんはヴァッサー大学を大学を3番目の成績で卒業してる才女です。
その才女を受け入れる体制が整っていなかったのが、この頃の明治日本というのを良く表している遣り取りではありますが、しかし日露戦争ではこの捨松さんがアメリカの大学を卒業しているという経歴が、大いに光ることになります。
先の話はさて置き、国費で留学させておきながら自分に仕事をさせないなんて、文部省は馬鹿、と家族の前でストレートな発言をしてしまう捨松さん。
ストレートすぎる発言は日本では疎まれるから、と健次郎さんから窘められてますが、文部省うんぬんより、帰国後の捨松さんや梅子さんの受け皿がないのは、捨松さんらを留学させた黒田清隆さんが、2週間くらい前にドラマで触れられた開拓使官有物払下げ事件で政界去ってるからというのが一番の原因です。
しょんぼりする妹に、日本では女が身を立てるのは難しい、と操さん。
ちなみにモクスワに留学した経験のある操さんは、後にこの経歴を活かして昭憲皇太后(明治天皇の皇后)付きの女官になります。
二葉さんは今や東京女子師範学校の寄宿舎長ですし、健次郎さんは東京大学教授、浩さんは陸軍少将ですから、山川家の皆様は本当凄い御方ばかりです。
そんな兄姉に囲まれたら、捨松さんじゃなくても肩身狭く感じるんじゃないかと(苦笑)。
妹のことを案じた浩さんは、京都の八重さんを訪ね、捨松さんを同志社女学校で教員として雇って欲しいと願い出ます。
襄さんも八重さんもそれを快く承諾しますが、先ほど役人が指摘してた部分についてはこのふたりはどう考えていたのでしょうか(汗)。
そんな浩さん、覚馬さんとも15年ぶりの再会を果たし、その覚馬さんから尚之助さんの遺した『会津戦記』を手渡されます・・・やっぱりここに繋げて来ましたか・・・。
大方今度はこれを、『京都守護職始末』執筆動機にまで繋げるんでしょうが、正直『会津戦記』が完全架空の産物なので、そこまでしゃしゃり出て欲しくないなあ、と複雑な心地がします。

さてここから先は、後に鹿鳴館の華と呼ばれる開花を見せる捨松さんと、その伴侶となった大山さんの結婚までの経緯が描かれるわけですが・・・。
正直茶番以外の何物でもない締め括り方や浅い心中の描き方に、感想や考察というよりは、最近すっかり定番と化してしまった文句つらつらな文章が以下は続きます。
捨松さんと大山さんとのことを詳しく知りたい方は、捨松さんの曾孫に当たる方が書かれたこちらの書物(amazonさんへ飛びます)をお手に取ってみて下さい。
ちなみに捨松さんと大山さんのことは有名ですが、実はそれよりずっと前の明治5年に、ユキさんは薩摩藩士の内藤兼備さんと結婚しています。
津村節子さんの『流星雨』は、そんなユキさんがモデルの小説です。
明治期に八重さんとユキさんは再会してるので、その辺りのことは(ドラマで描かれるのであれば)その時に触れることにしましょう。
話を捨松さん達に戻して、ふたりが最初に出逢ったのは、永井繁子さんと瓜生外吉さんの結婚パーティーで、「ベニスの商人」を演じた時のようです。
捨松さんは大山さんの薩摩弁が分からなかったらしく(同じ日本人でも分からないですよね)、捨松さんは「あなたの日本語はよく理解できないので、フランス語か英語でお話し下さい」と申し出たそうです。
これにさらっと対応して、流暢な英語で捨松さんと会話出来るのが大山さんの凄いところです。
で、これってさり気無いことですが、物凄く重要なことなんですよ。
捨松さんが日本語に不自由してると言うことは、日本人同士でコミュニケーションが取れないと言うこと=集団では孤立する、ということになります。
でもそこで、捨松さんとコミュニケーションを取る手段を持ってる人間(=英語が分かる・喋れる)が現れると言うのは、孤独からの解放ですよね。
大山さんって、捨松さんとの年齢差が18ですし、男やもめで先妻との間には4人の娘がいて、ガマとあだ名されるほど恰幅良くて・・・と、外見だけで見ると捨松さんも魅力を見つけるのが苦しい男性だったでしょうが、そういうところ(外見だけではなく中の部分)に惹かれて・・・となったのではないでしょうか。
実際捨松さんは、「閣下のお人柄を知らない内は(求婚の)お返事も出来ません」と言って大山さんとデートしていたみたいですし。
そういうところ、如何して描いて行けないのだろうか・・・このドラマは本当に人の心の動きっていうのが描けなくなってますね。
ドラマでは捨松さんに大山さんがアプローチしていましたが、実際は間に西郷従道さんが入ってます。
と言いますのも、山川家側が「自分達は賊軍の一族ですから」と大山さんをお断りしたのを、「それなら西郷隆盛を身内に持つ自分達も賊軍です」と切り返したのが従道さんなんですよ。
なので薩摩と会津という、怨恨関係の深い立場の人間同士の大山さんと捨松さんではありますが、そういった立場で考えたら似通ってる部分もある。
脚本的には「海外に出れば同じ日本人」と言う言葉で、薩摩も会津も関係ないよ、と表したかったのでしょうが、あんな言葉にすり替えないで欲しかった。
恨み辛みを越えた関係、と綺麗事で飾って締め括ってしまうのではなく、そういう風なところを丁寧に描いてくれた方が、人間の心情をドラマの展開として視聴者も追って行きやすかったんじゃないかなと。
どうにも見ていて、捨松さんが大山さんとの結婚に応じたきっかけといますか、惹かれた理由が全く見えてこない。
そして挙句の果てには、別に登場しなくても話の進行上全く問題のない八重さんがしゃしゃり出て、大山さんと腕相撲して話を纏めようじゃないかという、場の空気をややごり押しで持っていくと言う、面白くも何ともない展開。
あらゆることの主導権は常に主人公である八重さんになかったら駄目なんですか?
八重さんって、そんな無理矢理創作を付属させなきゃネタがいないような人生歩んでましたっけ?
ああいう風な八重さん、ハンサムウーマンでしょう?って制作者側からすればしたいのでしょうが、ハンサムどころか鬱陶しい女に成り下がってるだけですよ、あれじゃあ。
別に大河ドラマに創作要素は一切禁止!何事も史実に忠実に!と言いたいわけでも、それを求めてるわけでもありません。
「ドラマ」と銘打ってる以上、創作要素は寧ろ入っていて当然だと思います。
でも、その根底に歴史上の人物や出来事への敬意や思いやりというのはあって欲しいと思います。
実際に生きていた人を、題材という形でお借りしているわけですから。
そう考えた時に、今のドラマの八重さん像を見ているとハンサムウーマンと呼ばれた八重さんに対する敬意というのが欠片も感じられないのです。
(これは八重さんに限らず、作中のほぼ全員の登場人物にも言えることですが)
折角「新島八重」という、どういう風にも面白く描ける人物を主人公に据えたのですから、それを活かした良い作品を作って欲しいのですけどね・・・。
というより、作ってくれると最初の方は期待していたのですけどね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年10月23日水曜日

第42回「襄と行く会津」

結構多くの人が、板垣さんは明治15年に起きた岐阜事件で、「吾死スルトモ自由ハ死セン」といって亡くなった、と勘違いしているようです。
が、実際はその後も彼は生きております。
いつまで生きたのかというと、事件の37年後までご存命でした。
ちなみに岐阜事件の際に、板垣さんを刺した犯人は後日板垣さんに謝罪していますし、板垣さんも板垣さんで、それを笑って許した、などというエピソードなんかも残っております。
教科書的な歴史の流れで捉えるなら、板垣さんといえば自由民権運動と自由党、というキーワードに連結させるのですが、「八重の桜」で言いますと、板垣さんは会津攻めの総司令官なのですよね。

日本で初めての、私立大学です。官立の大学は、ともすれば国の都合で人を型に嵌め込みます。人民の力を育てるには、民間の大学が必要なんです

大学設立の協力を得るために板垣さんの静養所を訪ねた襄さんは、そう話します。
民の力、というのは、会津攻めで総司令の立場にあった板垣さんも重々承知です。

会津の武士はよう戦うた。けんど、領民の多くは戦を傍観するばっかりで、なんちゃあらんかった。これを日本という国に置き換えてみたとき、わしはぞっとしたがやき。・・・武士だけが戦うても、人民がそっぽ向いちょったら、国は亡びるろう。人民に上下の区別があっては、日本は強い国になれんがやき。領民挙って力を合わせちょったら、会津も焦土にならんかったかもしれん

会津戦争の折、会津の領民らが薩長連合軍の道案内を買って出たりした・・・などなどというのは、会津戦争の部分も記事で既に触れました。
その彼らが、しかし合力したところで会津の焦土化が防げたのかと言われれば、非常に微妙なところですが(苦笑)。
しかし何だかんだ言っても、江戸期を通じて日本の人口の割合で一番を置くを占めているのは武士階級ではなく、農工商などの民階級ですからね。
何たって国を作っているのは民ですから、そこにそっぽを向かれたら日本という国が立ち行かなくなる。
会津の時は敵方の問題だったそれを、今度は日本という枠組みに当て嵌めて考えるこの流れ、良いなと思いました。

さて、今回のタイトルにもなっている、襄さんと八重さんの会津紀行。
ドラマでは8月となっていましたが、正確には明治15年(1882)7月27日に安中を経てふたりは会津に来ています。
新婚のみねさんがこれに付いて行ったのかどうか、確かなところは知りませんが、時雄さんが同行したのは間違いないので、もしかするとドラマのような四人旅だったのかもしれませんね。
先に八重さんが海路を使って横浜から安中に着いており、7月3日に京都を出た襄さんが中山海道を経て安中に着いたのは7月11日。
その道中の7月7日、襄さんは信州にあった「寝覚の床」と言う蕎麦屋で、猪一郎さんと蕎麦の大食い対決をしました。
実は蕎麦は襄さんの大大大好物で、「先生は食物には頗る趣味があった。特に蕎麦となれば命さへ打込む程であった」と後に猪一郎さんが『蘇峰自伝』に記すほどですから、相当なものです。
気になる勝敗の結果と言えば、ドラマでは襄さんが12杯に対し、猪一郎さん11杯なので襄さんの勝ちとなっていました。
ところが猪一郎さんは、後に回顧の中で「先生が九杯の時に、更に半杯を加へた為に予の勝となって、蕎麦代を先生に払はしめた」と書いています。
どっちが本当なのでしょうかね(笑)。
ともあれ、猪一郎さんは自分で新聞社を作る抱負を襄さん達に打ち明けます。

誰からも縛られんと、自由に記事の書ける新聞ば、この手で作りたか

これは襄さんの大学設立の抱負に通じるものがありますね。
猪一郎さんはキリスト教を異教してしまっていますが、流石「自分はずっと新島先生の信者たい」と公言しただけあって、向いている方向は同じなようです。

会津の鶴ヶ城は、籠城戦での破損が酷かったこともあり、保存の動きがありましたが福島県側が取り壊しを上申、明治7年(1874)に取り壊されました。
現存する八重さんの持ち物の中に、名刺サイズの鶴ヶ城の古写真を始めとする会津の風景が写されたものがあるのですが、それはまだ取り壊される前の鶴ヶ城が写っていたので、土産か何かとして売られていたものだったのでしょうか。
まあ、それで、ひょっとしたらうらさんに会えるかもしれないという淡い希望も抱きつつ、かつての城下を訪れた八重さん達。
八重さん、みねさんにしてみれば、約13年ぶりの故郷の土です。
当然ながら色々去来する思いもあるでしょうし、実際回想シーンが続き、嗚呼史実の八重さんもこんな気持ちで襄さんと会津に来たのだろうな・・・というのは伝わりました。
が、です。
いえ、たまには文句を言わずに大人しくドラマ観ましょうよって話ですが、やっぱり感じたことを素直に綴らせて頂きたいと思います。
正直、会津編以降の京都編で、しっかり重みをつけて、きっちりきっちり八重さんのことを描けてたら・・・つまり薩長への憎悪や尚之助さんのことなどなど、丁寧に追って描写していってくれて、それでこの会津時代回想があるのなら、嗚呼って見ている此方の心にも響くものがあると思うんですよ。
でも八重さんをはじめ、登場人物の心情とか全く掘り下げて来なかった状態でいきなり会津時代の回想を出されたので、正直萎えてしまいました。
以前の記事で私は、八重さんから「会津」を感じられない、と書きました。
あれ以降の話でも、八重さんは会津を感じさせるどころか什の掟は平気で破るわ、薩摩藩士の娘に土下座して聖人君子化してるわ、優雅にジンジャークッキー焼いてお金持ち校長夫人として何不自由なく暮らしてるわ・・・で、八重さんの中にはひと欠片も会津を見出せる要素はなかった。
なのに今回いきなり会津にやって来た八重さんが「変わっつまった」と呆然と呟いてても、視聴者からすれば回想の中に出てくる八重さんと現在の八重さんの変化ぶりに、正に「変わっつまった」なと突っ込みたくなるのですよ(勿論悪い方向に)。
一番変わったのはあなたですよ、と言いたい。
もっと言うのなら、山本八重と新島八重の別人説が浮上しても良いくらいです。
更に捻くれたものの見方をさせて頂くのなら、「私は故郷会津を忘れてません」という無言のアピールにも見えたんですよね。
いや、違いますやん、すっかり忘れてましたやん八重さん。
よしんばそうなら、第一話から見てる視聴者から「八重さんから「会津」を感じられない」何て感想飛び出てくるはずないじゃないですか。
いつそんなに変わってしまったの?どうしてそんなに変わってしまったの?脚本や制作陣は八重さんを如何したいわけ?と、もやっとしたものばかりが胸中に広がりまして・・・。
そしてそんなところへ、うらさん再登場ですよ。
尚之助さんの時に続く、綺麗に終わったと思ったものを蛇足としてまた持って来たわけですね。
実際のうらさんは、山本家と別れた後に仙台に行ったとも言われていて、その後どう暮らしたのか、再婚はしたのか、詳しいことは分かっていません。
が、山本家も山本家で離縁した彼女のことを特に探したということも伝わってはおらず・・・資料を見る限りではうらさんは離縁したので赤の他人です、な状態でして。
しかし伝わっていないだけで、実際は探したりもしたのかもしれませんし、うらさんは仙台ではなく会津にいたのかもしれない、八重さん達が会津に来たときに再会したのかもしれない。
なのでドラマでの再会を、全否定するわけではありません。
「あったかもしれない」範囲の創作は、大河ドラマの常套手段です。
ただし、「それが上手く作れていたら」の大前提がつきますけれど!
で、今回それが上手く作れていたらの大前提をクリアしてたのかというと、クリアどころか掠りもしていなかった。
うらさんを探して、うらさんに会って、その次どうしたいのか、全員子供じゃないんですからちゃんと考えておきましょうよ。
同居申し出るとか、それを断られたらせめて支援だけでもとか、本当にうらさんのことを考えて心配してたのなら、もっとあるでしょう。
それを、その場で思いついたように同居を申し出、断られたらすごすご引き下がるって、それって如何なんですか。
余計なことをしたんだべか」ってしょげるんじゃなくて、考えなしの行動すぎるよ八重さん。
その辺り、お涙頂戴シーンなのに何にも伝わってこない。
離縁は自分で決めたこと、という台詞をうらさんの口から引っ張り出して、覚馬さんとうらさんとのことは双方納得した上でのことだったんですよ、と無駄な念押しをされたようにも映る。
総じて言わせて頂いて、このシーンはやっぱり要らなかったです。
強いてこのシーンの意味(うらさん再登場)を見出すのなら、八重さん達がうらさんと会津で再会したと手紙を通じて知った覚馬さんと、それを聞かせる佐久さんの会話を聞いていた時栄さんが、「山本家」の輪の中に入って行けない疎外感のようなものを感じていた、ということでしょうか。
以前から薄らとそう言う描写はあって、それが積み重なって時栄さんの今後の展開に繋げられていくのだろうなとは思います。
でも、それならうらさんのこと抜きに、純粋に故郷トークで盛り上がる山本家に入って行けない時栄さん、の図式でも良かった。
もし覚馬さんの心にまだうらさんの存在が色濃く残っている、という風に描いて、時栄さんの寂しさに繋げて行きたいのであれば、ここはもう少し覚馬さんの心中を掘り下げるか何かするべきですよね。
そういう描写や演出が、相も変わらず悉く足りてないです。

この会津紀行の後日談と言いますか、8月1日に襄さんは時雄さんを連れて山形に行き、八重さんは彼らとは別れて会津に残ります。
山形に行った襄さん達は、甘粕三郎さんと言う人を訪ねているのですが、この三郎さんの姪の甘粕初子さんは、襄さんの死後、八重さんに養女として迎えられています。
八重さんに繋がる重要なエピソードの欠片ですので、少しは触れられると思ったのですが・・・見事にスルーでした。
ちなみにこの初子さんの母方の祖父は、会津藩公用方の手代木直右衛門さんですから、初子さんは会津藩士の血を引いているのですね。

さて、北海道開拓使次官だった黒田さんの肝煎りで始まった女子留学の企画の元に、アメリカ留学をしていた捨松さんが、十年を超える年月を経て無事に日本に帰国しました。
彼女と共にアメリカに渡った女子学生は五名でしたが、内年長者の二人は馴染めずに帰国、永井しげさん、津田梅子さん、そして捨松さんの三人が異文化圏に順応し、特に捨松さんはヴァッサー大学を三番目の優秀な成績で卒業し、卒業論文(『英国の対日外交政策』)の講演は地元の新聞に掲載されて称賛されるほどだったと言います。
そうした輝かしい実績を修めた捨松さんが、11年ぶりに家族と再会しましたが、日本の風習や日本語は忘れてしまったようで、土足で家に上がってしまうわ、自分が話しているのが英語なことにも気付いていない様子。
捨松さんとの再会を心待ちにしてた山川家の皆様も、これには吃驚です。
史実でも帰国した捨松さんは、日本語の読み書き会話がすっかり怪しくなってしまっていたようです。
それだけならまだしも、この他にも沢山の試練が帰国した彼女の前に立ちはだかるのですが・・・その辺りは次回に筆を譲ることにしましょう。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年10月15日火曜日

第41回「覚馬の娘」

有名な「吾死スルトモ自由ハ死セン(板垣死すとも自由は死せず)」は明治15年の出来事なので(そう言って息絶えたわけじゃないけど・・・)、時間軸としてはもう少し先の話ですが、この頃日本で自由民権運動の熱がうねりを上げていました。
要は民の声を政に反映させようという動きです。
二十歳になれば当たり前のように男女に平等に選挙権というものが与えられている時代に生まれた我々からすれば、民権獲得のための時代というのは少し想像しにくいかもしれません。
国会と議会の開設が明治政府の急ぐべき課題としてある、というのは以前の記事で触れた通りです。
それをしなければ、先進国として諸外国から認めて貰えない、つまりそんな状態では不平等条約解消何て叶いっこない、という事情が背景にあるのも、同じく前回の記事で触れた通りです。
そうでありながら、何故政府はいつまで経ってもそうしないのか、ということについて、少し触れたいと思います。
まず単純な構図から行くと、選挙をする=人気のない者は当選しない、ということですので、今のポストから自分が蹴落とされるかもしれない、というしがみ付きが挙げられます。
が、まあしがみ付く彼らにも彼らなりの正当な理由(?)がありまして、選挙で素人が政界に出て来ちゃったら、日本のかじ取りが危うくなるという心配があったからなんですね。
政治のせの字もよく分からない人が、でも選挙で当選してしまいました、でもやっぱり何して良いのか分かりません、な描写は、先週の京都府会の選挙で描かれていた通りです。
京都の場合は、議長の座に就いた覚馬さんが指導係のような形で彼らを教え導いていましたが、あれがそのまんま日本という国のトップで行われるとなると、確かにちょっと問題ですよね。
覚馬さんみたいな人がいっぱい政府にいるのならまだしも、ですが、そんな都合の良いようには世の中出来てません(笑)。
と、いうのが政府が国会の開設にすぐに踏み切れないざっくりとした事情のようなものです。
ただ、民衆にはやっぱり藩閥による専制政治に見えたんでしょうね。
徳川幕府が、戊辰戦争勝ち組の藩に変わっただけで、これじゃあ何も変わってないじゃないか、と。
民権派と政府との対立は、色んな事情も相俟って複雑な様相となっているのですが・・・ドラマの描かれ方ですと、完全に明治政府側が悪者みたいでしたね。
悪者にも悪者なりの事情というのは、いつの時代もちゃんとあるとは思うのですけどね~。
何だかんだ言って国会の開設は、明治14年に明治天皇が国会開設の詔を発して、それからまだ10年ほど待たなくちゃいけないのですが、それでも「早すぎた」と批判していた人とかもいますからね(某べらんめえ口調の方とか)。
まあ日本の上がそんな感じで、その縮小版と言わんばかりに地方(京都)も覚馬さん率いる議会と、槇村知事が衝突します。
国庫の引き継ぎをうっかり忘れていた明治政府は、始まったその瞬間から財政的に苦しい政府でしたが、それに加えて西南戦争の大動員もあったので、非常にお金に困っていました。
予算が足りないのなら、他から搾り取ればいいと考えるのはいつの時代も発想が同じなのでしょうか、このときは地方の負担を増やすことになります。
そういうわけで京都では、税の追加徴収が槇村さん(知事)から通達されます。
が、それがすんなり通る筈もなく、それを通さぬために覚馬さん達議会が壁となってそれを阻みます。

府の予算はまず議会で審議する決まりです。税の追加徴収を独断で決められでは困る
知事が足らん金を集めて、何が悪い
知事と言えど、人民の財産を勝手に奪うごどは許されません

ご尤もな正論です。
ちなみに府会(覚馬さん達)には、議案の提案権や決算の審査権はありませんでした。
逆に知事には議事の停止権がありましたが、府会は地方税の審議権は持っていたので、槇村さんの独断に掣肘を食らわす権利を彼らはちゃんと有しています。
知事の独断を防ぐための府会で、知事が独断で何もかもしてしまったら、府会の存在意味ってなくなりますよね。
知事には府会に反対されても議案を通せる権利は持ってはいますが、府会は府会で審議権を持っていますから。
この槇村さんの横暴を弾劾する上申書を覚馬さんは政府に送りますが、返事はありません。
知事独断による府民への増税を暗黙の了解として捉えている、とありますが、政府側としては「それしか方法がない」「むしろ文句があるのなら他の方法教えてよ、そっち採用するから」という状態なのでしょう。
明治13年度(第二回)通常府会が行われたのは、5月7日でした。
知事である槇村さんも出席し、会期は85日、7月30日の閉会でしたが、この最中に地方税追徴布達について審議され、この件は同年10月6日開会の臨時府会まで持ち越すことになります。
この臨時府会は10月16日に閉会し、この増税についてを討議可決して槇村さんを屈服させる・・・というのが今回のこの事件の顛末になるのですが、その過程をドラマの内容を突きつつ追って行きましょう。
まず開会中に、槇村さんは地租と戸数割について各12銭1厘7毛の追徴を布達し、府会(覚馬さん達)に事後承諾を求めますが、府会は審議の結果、これを不当とします。
覚馬さんは議長として、追徴の旨を取り消すよう伺書を槇村さんに提出しますが、槇村さんの回答は「施行候儀と可心得事」と高圧的です。
これが6月10日時点。
そこで覚馬さんら府会は槇村さんを非難し、内務卿の松方正義さんに実情を具申、伺書を提出します。
作中の上申書はこれのことですね。
これが6月14日の出来事ですが、これに返事が来たのが6月30日と、かなりの時間を経過してのことでした。
しかも回答電報の内容は、「地方税追徴の儀には、差出したる伺書は建議と認め、其侭留置き指令に及ばず」というもの。
覚馬さんは、自分達が出した伺書を建議というのなら理由を示すよう(法律上の明文がなかったので)に内務省に要求します。
対して内務省は沈黙を貫き、そうこうしている内に府会は閉会してしまいます。
けれどもこのまま押し切られて増税になるかと思いきや、覚馬さんが「知事よりもっと大きな力を味方につける」と、新聞という媒介を通じて世論に槇村さんのやり口を訴え、世論を味方に付ける、と言った方法を取ったのが効を成したのか、10月16日に開かれた臨時府会で「詮議の次第有之、本年当府第二百十一号布達(註:地方税追徴布達のこと)は一旦取消候事」という旨を発表し、府会は主張を貫き、槇村さんは屈服させられたことになります。
槇村さんは改めて府会に地方税追徴の議案を提出し、府会は原案を可決、執行となります。
つまり府会を無視せず、議会の審議権を尊重した正式な手順を踏んでの、改めての増税案を提出し直したわけですね。

私は、本日を以って職を辞します。戦いに負げで、私は議会を去る。あなたは勝って、知事の面目を保った。勇退なされば、元老院に迎えられるでしょう。・・・よい花道ではありませんか?

と、こんな具合にドラマでは覚馬さんが刺し違える形で、槇村政権の幕を下ろさせていました。
実際の覚馬さんはこれらの事の顛末を見届けた後、議長と議員を辞職して府会を去り、しかしご隠居になったわけではなく、京都商工会議所会頭に就任して、経済面で京都をサポートする立場に転じます。
槇村さんはその責任を問われる形で、翌明治14年に元老院議官へ転出しました。
刺し違えではなかったような気がするのですが・・・まあ個々の捉え方がありますよね。

色々順番が前後してますが、京都の自由自治攻防戦はさておき、今週のタイトルにも掲げられているメインの部分に触れましょう。
文久2年(1862)の生まれですので、今は18歳、数えで19歳になるみねさん。
来年には女学校の卒業を控えているらしいのですが、そのみねさんに婿取りの話が持ち上がります。

何と言っても、みねは山本家の跡取りだから。みねにはしっかりした婿を取って、家を継がせねばなんねぇよ。うらがみねを手放した気持ぢ・・・忘れだらなんねぇがら

まあ山本家を継ぐ男児がいないので、みねさんが必然的に嫡子にはなりますからね。
八重さんと襄さんの間に男児が、あるいは尚之助さんとの間に男児がいたら事情は変わって来ていたでしょうが、生憎と八重さんに御子はいません。
うらさんも、直接口に出したことこそなかったけれど、そういう方針で(つまり嫡子として)みねさんを育ててたんだろうな、と思います。
しかし冒頭で初子さんとみや子さんと叫びながら、「結婚のけの字は汚れのけ」と言っていた辺り、彼女には結婚に対して抵抗があるのでしょうか。
けれども今治にいる時雄さんに手編みの靴下を送ったり、文通をしたり・・・と淡い思いを抱いているのも確か。
そんな折、京都で同志社演説会が開かれることになり、卒業後各地に散っていた金森さんや海老名さん、時雄さん達が京都に集まります。
新島邸でその準備に励む最中、覚馬さんも襄さんも八重さんも全員揃っているからということで、時雄さんはみねさんを伴侶にしたい旨を告白します。
取り敢えず時雄さんのその一世一代の決心の下の告白は、一旦保留にされたらしく、覚馬さんと八重さんはみねさんの気持ちの確認をします。

いい青年だ。悪ぐねぇ縁だど思うげんじょな

覚馬さんが時雄さんを「いい青年」という背景理由の一つに、以前の記事でも触れた、尊敬していた横井小楠さんの息子だから、という理由も大いにあると思います。
ですが、小楠さんの存在をスルーし続けて来たこの大河ですので、今更その事実にも触れるわけにはいかないとでも思ったのでしょうか。
何処までもスルーされ続ける小楠さんの存在です。
まあ、今はそれはさて置き。
覚馬さんからのOKサインが出て、みねさん自身も時雄さんのことを憎からず思っているのに、どどーんと時雄さんの胸に飛び込んでいけないのは、伊勢さんが長男だから山本家の婿にはなれないという問題があるからなんですね。
得に覚馬さんはその辺り気にしている節がないのですが、みねさんは目茶苦茶気にしていました。
寧ろ、あっさりOKサインを出す父親に、それで良いのか、と逆に問い掛けるほど。

子供の頃がら、ずっと言われでだ。・・・みねは山本覚馬の娘だ。おとっつぁまの名を汚してはなんねぇ。婿を取って家を継がねばなんねぇど・・・いづも、おっかさまに言われでだ。顔も知らないおとっつぁまの話、毎日聞かされでだ。・・・おっかさまは、おとっつぁまのごどをずっと思っていだんです。それなのに・・・おとっつぁまは、おっかさまを捨てだ!・・・うぢには久栄がいっから、もう私がいなくでもいいんだべ!おとっつぁまは、今度は私を放り出すのがし!?

嫡子としての立場に縛られ、母親を捨てた前科のある父親だから、今度は自分を捨てるのか!?という娘としての複雑な気持ちもあり・・・と、みねさんの中はもうぐっちゃぐちゃだったかと思います。
その葛藤描写がもう少し欲しかったところですが。
八重さんに「姉様は家のためにみねを手放したのではなく、どうしたらみねが幸せになれるのかを考えてた」と、つまり嫡子としての考えに縛られず、自分の幸せの方向に歩いて行けば、それがうらさんの願いだったと言われます。
でもそれならみねさんは家族三人で一緒に暮らしたかったんですよね。
それに、戦で家族が別れ別れになって・・・、と八重さんは言いますが、うらさんと覚馬さんのことに関しては戦はほぼ関係ない。
更に、みねさんの説得役は、八重さんでなかったら駄目か?という疑問も浮かびました。
いえ、こうしなければ、今回も主人公でありながら蚊帳の外に置かれてる感になってしまうかと思いますので、そうしないための措置なのでしょうが・・・。
個人的には覚馬さんがみねさんに、「お前の思う道を行け。跡取りのことを気にしてるんだったら、気にするな。お前が産んだ子を一人、山本家の跡取りとして迎えればいい」くらい言うのが、一番綺麗にまとまる(実際みねさんの子供がそうなるわけですし)形だったのではと。
何だかこう、いまいちタイトルに「父娘」を漂わせているにしては、父娘が強く感じられないなと。
そもそもこのみねさんの結婚も、大切でないとまでは言いませんが、それは覚馬さんと小楠さんの関係をちゃんと描けた上で「意味」が浮き出てくるものでありまして、そこがごっそりないのに、話の半分くらい使ってやられてもなぁ、と。
それよりも、東京や薩長中心の明治ではなく、京都という一地方(京都を地方とするのには違和感がありますが、中央ではないという意味で)の一府会の出来事にちゃんを腰を据えて描いたら、ホームドラマの嘲笑を受けずにいいドラマになると思うのですが。
これはまあ、あくまで私の主観と好みの問題ですので、余りお気になさらず(ただのぼやきです)。

明治14年(1881)、北海道開拓使を巡る汚職疑惑、いわゆる開拓使官有物払下げ事件が起こります。
北海道開拓使長官の黒田清隆さんは、明治4年から10年間の開拓計画の満期を終えた後、つまりこの明治14年、開拓使を廃止する方針を固めました。
でも開拓使は廃止しても、開拓事業ははいそこでおしまい、ということにはなりませんよね。
というわけで、開拓事業そのものは今後も継続という方向になりますが、そのために黒田さんは部下の官吏を退職させて起業させ(関西貿易商会)、自分達が使っていた施設や設備を、これに安価(当時の38万円)で払い下げることにしたのです。
黒田さん達が使っていた施設や設備、たとえば船を停めるところや倉庫、炭鉱、工場、農園もろもろは、民間のものではなく国有物です。
これらを作るのには勿論大金(当時の1400万円)がかかってますし、その大金はといえば国民の税も含まれているわけですよ。
黒田さんはこれらが「赤字だったから」という理由でそうしたのですが、これに政府内部からも、そしてこれを報じた東京日日新聞によって民衆からも非難が浴びせられます。
特に政府内では、この民間への払い下げを認める規約を作った大隈重信さんがこれを非難しますが、これが巡りに巡って大隈さんが仕掛けたことでは?とう疑惑が生じ、明治14年の政変へと発展して行くことになります。
薩摩出身の黒田さんに対して大隈さんは非薩長の方ですので、陥れられたのか何なのか、東京を離れた隙に伊藤さんらによって政界を追われることになります。
それが明治14年10月12日の出来事。
ですがその一方で、民衆から政府に向けられる非難への収拾策として、明治天皇の勅許を頂き、国会開設の勅諭が出され、事の発端となった払い下げは中止と発表しました。
しかし昨日の今日で選挙を行ってすぐに国会を開設したら、折角政界から追放した大隈さん(薩長閥で凝り固まった明治政府を非難したので、民衆からの支持があった)が復活してきて政権を奪われかねません。
なので、国会開設の勅諭は出されましたが、実際に開設されるのはこれより九年後の明治23年(1890)と定められました。

世論を抑えるには、国会の開設を進めるしかありません

という伊藤さんの言葉の通りに事は進んでいるように見えて、本当の開設まで年月を設ける辺り、本当民権って難しいのだなと思います。
ドラマの流れですと、岩倉さんや伊藤さんが物凄く今の地位に執着してる悪者に見えますが、悪者にも悪者なりの事情があるというのは、既に今回の記事の冒頭あたりで触れた通りです。

何はともあれ、明治政府は国会開設と議会制度の確立を国民に約束しました。
新聞記事でそのことを知り、世の中とともに国が変わって行くことを確かに実感する八重さんに、襄さんは同志社英学校を大学に作り変えると言います。

人民が国の舵取りをする時代が来るのです。一国の良心となる人物を大勢育てねばなりません。そのためには大学が必要です。国の権力に左右されずに、自由自治の精神を貫く私立の大学が

私立の大学と言えば、同志社大学もそうですが、政界を追われた大隈さんも東京専門学校(現在の早稲田大学)を明治15年に作りますよね。
明治14年の政変後、明治政府は天皇制国家・天皇制教育の形成に向かって行ってしまいました。
そんな中、襄さんは大学設立のために明治政府要人らを利用しつつ、教育を通じて国家秩序を回転させ、新しい日本を創出することを目論んでいました。
あまりドラマではそう言う風に描かれませんが、襄さんは国家論的視野に立つスケール雄大な教育事業家(何と言っても明治六大教育家に名を連ねてますので)なのです。
覚馬さんの設定も大概削られてますが、襄さんの国家観や政府観もごっそり削られてますよね、このドラマ。
何と言いましょうか、一つ一つの出来事の掘り下げが浅く、登場人物の心情に踏み込まず、エピソードだけをぼんぼんぼん、と進めて行くので、歴史版サザエさんを見させられているような気にならなくもないです。
今回でいうと、「みね、嫁ぐ」「知事VS議長」「明治14年の政変」の三本立てで!という感じで。
そして次回はうらさんが出てくるようで・・・どうして尚之助さんの時と言い、綺麗に終わらせたエピソードを蛇足的にまた持ってくるのか・・・(謎)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年10月8日火曜日

第40回「妻のはったり」

ドラマの年代的には、自由民権運動の動きが活発になり始めた砌ですが、相変わらずその辺りはソフトタッチで行くようなので、私もいちいち解説は加えません。
前回ドラマの感想・考察を、呆れ返って(あるいは大きく失望して)白紙で更新するということをしましたが、正直ごり押しと、過程を書き込まないスタイルと、「適当に察して下さい」と視聴者に放り投げるような作りの浅さと、詰め込みすぎて毎回ダイジェストを見せられているような話の展開には、ほとほと嫌気がさしております。
なので、解説いちいち加えたり・・・という姿勢にも、正直疲れて来たというのが私の本音です。
それでもまあ、あと残すところ10回を考えたら、適当でも良いから頑張るかという気もしなくもないです。
そういう気分を漂わせながら書いているので、以降に更新される記事にも行間からそう言う感じがにおって来てしまうやもしれません。
要らない、と思った場面・部分も容赦なくすっ飛ばして行きます。
ただ、このブログを読む読まないは皆様の自己判断ですので、読後の責任諸々は負いかねます。
ここのブログは私のブログですし、私は私が思うこと、感じたことを吐き出しているまでです。

前置きが長くなりました。
まずは府県会の設立やら何やらの話ですね。
京都ではなく、日本全体を見るに、このころ日本は「我国は西欧諸国に並ぶ先進国です」とアピールするために、国会・議会の設立を必死に目指してました。
一刻も早く先進国になりたい理由は色々あったでしょうが、第一として考えられるのが幕末にじゃんじゃん結ばれた不平等条約を解消し、平等条約を締結し直したかったからでしょう。
非先進国のままだと、西欧諸国と並んだ時にやはり格下扱いされ、いつまで経っても「平等」にはなれないのです。
では、その先進国とは何ぞやというので、出てくるのが「民権」です。
まあつまり、かなりざっくり申し上げますと、アメリカの南北戦争後、リンカーンさんのゲティスバーグ演説で出て来た「人民の、人民による、人民のための政府」が行われている国、とでも申しましょうか。
伊藤さんら国のトップ層は、外交では「日本は封建制を脱却し、民権を遵守する先進的な国になりつつあります」とはアピールしていたものの、実際には槇村さんに言っていたように、選挙で民衆の代表を選ぶような真似はさせるまい、という姿勢はありましたが。
まあ、そんな具合で、明治11年に国は府県会を設立します。
今の地方議会ですね。
その流れで、明治12年3月25日に京都府会が開設され、第一回府会議員選挙が行われます。
これの当選の報せを受けた覚馬さんが、まるで身に覚えのないような顔をしていましたが、当時の選挙は立候補制ではなかったので、無理もありません。
選挙候補者は、高額納税者の25歳以上の男子、有権者は高額納税者の内20歳以上の男子に制限されていました。
明治22年に行われた衆議院議員選挙のときに、高額納税というのは15円以上を納めている人をと定められていましたが、この時の高額納税者は一体いくらくらい納税してる人だったのでしょうか。
ともあれはっきりと分かるのが、覚馬さんが高額納税者だったということですが、まあ彼の顧問時代の月給が抜群に高かったのは以前触れた通りですからね。
さて、「目も見えぬ、足も立たぬ俺に、まだ働けと京都の人たちは言ってくれた」と言った覚馬さんと同時期に選出されたのが、上京組ですと山鹿九郎兵衛さん、吉田安寧さん、山中平兵衛さん、山中小兵衛さん。
下京組は杉本新右衛門さん、田中善八さん、柴田彌兵衛さん、井上治郎兵衛さん、安村吉兵衛さん。
その中で覚馬さんは初代議長となりますが、まあまあ、槇村さんの慌てぶりと言ったら・・・多少、やりすぎかもしれません(苦笑)。
ところで、京都府会というと、かつて京都守護職上屋敷があった京都府庁旧本館を思い浮かべる人も多いかもし入れませんが、覚馬さんが当選した時点であの建物はまだ存在しませんので、府会は中学校の講堂で開かれていました。
なので容保桜の咲くあの場所に、覚馬さんが勤めていたということはありません。
ちなみに覚馬さん、ご存知足が不自由なので、議会の彼の席には巨大座布団が敷かれていたそうです。
そしてご存知、覚馬さんは両目も不自由なされてるので、今回は時栄さんが寄り添ってましたが、以降は府会の書記に任命された丹羽圭介さんが介助を務めます。

これまで日本では、世の中の仕組みを変えるために人を殺め、町を焼き戦が繰り返されて来ました。だが、今日がらは違う。武器を持だぬ者が議論によって政治に関われる場所が、この府会なのです!議員諸君にはm府民の代表としてお覚悟を持ってお勤め頂く事を、切にお願い申し上げます

と覚馬さんは第一声を発しますが、肝心の議員の皆様は、自覚と覚悟があっても何をして良いのか分からないご様子。
そこで覚馬さんが「予算を審議すれば、府がどのような事業をするのか自ずど見えで来ます。これによって府政を監視するごどが出来ます」と、さながら教師のように議員を先導していきます。
第一回府会は、開会日数が37日で、その時に副議長選挙と、経営費としての警察費支出の件、その他徴税の件を議決し、5月5日に閉会となったそうです。
覚馬さんが議長となって動き始めた京都府議会ですが、その先には覚馬さんを徐々に煙たがるようになりつつあった槇村さんとの衝突が待っていました。
それは次回触れられるようですね。

さて、何だかんだで開校四年目を迎えた同志社英学校ですが、相変わらず問題は山積みでした。
秘密結社「同心交社」などは、それとなく匂わすだけで触れられてなかったので、私も割愛しますが、表立っての一番の問題はアメリカンボードとの確執でしょうか。
否、正確に言えばアメリカンボードと政府との間に板挟みになってた、という方が日本語表現正しいかもしれません。
冒頭で、外務省の寺島さんから襄さんにお手紙が来ていましたが、このとき政府側から見た同志社英学校の問題点としては、アメリカンボードからの多額の資金援助の下に成り立っているということで、「経済的植民地化」とも取れない状態になるんじゃないのか、という部分。
逆に、アメリカンボード側からの同志社英学校の問題点としては、多額の資金援助をしているにも拘らず、そこで育成された生徒が牧師にならないという現状についてです。
実際同志社英学校第一期卒業生の15人の内、牧師の道を志したのは6人だけです。
アメリカンボード的には、15人全員が、とまでは言わないでしょうが、それでもやはり支援してる以上10人以上は牧師の道を志して欲しかったと思うんですよね。
しかし襄さんが「生徒が医者、商人、政治家、いかなる道を選ぼうと自由です」と仰ってたように、人の行く道を強要する権利何てその人以外の誰にもないんですよ。
この場合、襄さんの言い分が一番正論ですが、でも金銭的な援助を受けてる以上、少なくともアメリカンボードに対してその正論は通りませんし、金銭的な援助を受けてる事実が無くならない限り、同志社英学校は政府から睨まれ続けることになります。
まあ、先に将来的な結論から言いますと、同志社英学校は襄さんの次の代の時に、アメリカンボードから金銭的に手を切って独立します。
でなければ廃校は目に見えていたので、これは賢明な判断だったと思います。
が、それは先の話で、現時点での襄さんはまだそこまで決断を踏み切れなかったんですね。
そのせいか、校長に向いてないだの何だの、散々に言われてしまう襄さん。
何と言うか、胃が擦り切れそうな毎日を送っておられるなぁ・・・と、同情を禁じ得ません。

何はともあれその年の6月12日、同志社英学校から一期卒業生が巣立っていくことになりました。
以前の記事でも触れましたが、第一期卒業生15人には、熊本バンド以外は存在しません。
転入当初はあれだけ学校内を引っ掻き回した彼らですが(いえ在校生の中にも熊本バンドはまだ残ってますが)、それも今はいい思い出なのか何なのか、襄さんは彼らへの餞にこんな言葉を差し出しました。

皆さんにとって、私がよい教師であったのか分かりません。10年後20年後の皆さんの生きる姿が、私がどのような教師であったのかを教えてくれるのだろうと思っています。この国は多くの尊い命を犠牲にして、今まさに生まれ変わろうとする道の半ばです。この先もきっと予想もつかない困難が皆さんを待ち受けているでしょう。Go,Go,Go in peace.同志諸君!己の信じる道を歩んで行きましょう

校長辞めろとまで言ってきた生徒に対して、こう言える襄さん本当人格者ですな。
そして・・・覚馬さんが尊敬してやまない横井小楠さんの息子、伊勢時雄さんもまた、同志社英学校を卒業して伝道者として今治に行きます。
そんな時雄さんにみねさんが贈ったのは・・・何故か靴下。
プレゼントのチョイスはさて置き、初々しい二人ですが、ゆくゆくは夫婦になる二人だからな~と思ってたらどうやらその様子はもう来週に描かれるようです(苦笑)。

さて、ドラマでは「この頃」と実しやかにナレーションがかかっていたのに驚きのあまり目を剥きましたが、ここで襄さんのご両親のご登場です。
上洛して来たのはお父さんの民治さんと、お母さんの登美さんだけのように描かれてましたが、実際は襄さんのお姉さんの美代さんなども一緒に来てるはずです。
新島一家の上洛は、「この頃」ではなくもっと以前の話で、襄さんと八重さんが結婚した明治9年の春にはもう京都に来られてたかと思います。
ちなみに民治さんは安中藩のご祐筆でした。
つまり襄さんの育った新島家は下士ですが、、限りなく上士に近い下士という、経済的に裕福なお家だったのです。
そういう家庭なので、襄さんも本来ならば松籟祐筆になる道が敷かれていましたが、皆様も知っての通り襄さんは国禁を犯してアメリカに密航して現在に至っております。
民治さんはそんな襄さんを「あれの考えることはよく分からん」と言いますが、これ、少しおかしな発言だなと思いました。
民治さんって上洛後の明治10年3月4日に受洗してるんですよ。
おそらく洗礼を授けたのは襄さんでしょうが、まだキリスト教の風当たりが強い時代に洗礼を受けるということは、民治さん自身がキリスト教に理解を示したわけで。
で、安中藩のご祐筆だった彼が何を通じてキリスト教を知ったかといえば、襄さんだろうなと考えるのが一番自然なルートなわけですよ。
なので、そういった経緯を考えると、民治さんが襄さんのことを「考えてることはよく分からない」というのは、何かがおかしいと感じるのです。
「まさか学校を作るとはな」くらいで良かったのではないでしょうか。
ところで、この襄さんのご両親もあの新島邸に住まわれていたのかというと、そうであるような、ないような、というのが本当のところです。
現在も残る新島邸に行くと、大体皆様あの洋風な建物にしか目を向けませんが、附属家という名で同敷地内(入ってすぐ左)にある日本家屋は、襄さんが呼び寄せたご両親の隠居のために建てたものです。
洋風だと落ち着かないからだろうと、江戸藩邸にあった住居を模して作られています。

さて、民治さんの口から明らかになった、襄さんの額の傷の歴史。
と言っても、木から落ちて出来たものらしいですが(笑)。
実はこの話には続きがあって、この傷を恥じた襄さんは、その後2か月間部屋に引きこもって、引き籠りを辞めた時には勉学に打ち込むようになったんだとか。
というのが新島襄額の傷の歴史なのですが、八重さんは「新島先生も情けなか」と言った生徒に、「あれは箱館がらアメリカの船で密航するとぎに、役人と戦って出来だ傷だ!」と口走ってしまいます。
とどのつまりは、「襄は信念のためなら断固として戦う強い人」と言いたかったようなのですが、そのためにとんでもないはったり・・・といいますか、嘘ですね、これ。
会津の什の掟に、「虚言を言ふ事はなりませぬ」というのがありますが、見事に破っていますね。
後々の展開を見るに、このはったり、本当に必要だったか?とかなり疑問に思いましたし、タイトルに仕立て上げるほどのものでもない。
こうでもしなきゃ、今回の話に八重さんが入って行けなかったのでしょうが、会津人に什の掟破らせるようなことしてまで話に突っ込むなよと言いたくなります。
前回の土下座も酷かったですが、今回のこれも酷かったかと思います。
このドラマは史実の新島八重という女性に対する敬意が、本当に欠けていますね・・・。

まあ今回の話の趣旨として押さえておくべきは、八重さんのはったりどうこうよりも、襄さんがアメリカンボードと政府との板挟みになっているということです。
この件について襄さんは物凄く思い悩んでおり、同志社英学校の校長の座を捨てて、北海道で農業を始めようかと考えていたほどだったそうで。
もしこれが実現(?)すれば、今頃北海道には新島農場とか新島牧場なるものが存在していたのかもなんですね。
まあそれで、そこでゴードンさん達は伝道師育成クラスを設けることにし、そのために上級クラスと下級クラスを合併させて伝道師育成クラスの枠を作ることにしました。
が、これを話し合っている最中に肝心の襄さんは愛媛に宣教活動に行っていて不在、彼が戻って来たときには、もう合併は決定事項となっていました。
けれどもこの決定事項は完全にアメリカンボード都合、教師陣(宣教師陣)都合の考え方で、生徒のことなんてまるで置いてけぼりです。
だから、生徒らは反発します。
当たり前です、学校の主役は先生たちではなくそこで学ぶ生徒なのですから、主役の意向を無視して主役が黙っているはずがない。
この決定に、襄さんは最後まで意思を通す(=牧師は強要されてなるものではない)と思っていた生徒らは、授業を放棄して寮に立て籠もります。
猪一郎さんは自作の新聞で生徒たちの不満を煽る煽る・・・将来の片鱗が既にこんなところに見え隠れしていますが、生徒たちの心境をもう少し深く突っ込ませて頂きましょうか。
上級クラスと下級クラスを合併させるということは、上級生からすれば試験などもせずにいきなりレベル↓の下級生と一緒になって授業しましょう、ということです。
物凄く簡単なたとえをしますと、掛け算を習ってる小学校2年生(=上級クラス)が、簡単な足し算引き算しか出来ない小学校1年生(=下級クラス)と一緒に勉強することになりました、1年生はまだ掛け算習ってないから、授業は1年生のレベルに合わせたもので進めて行く形になります、と言われることのようなものでして。
何故学校側の大人の事情で自分達の授業の質が落とされなくてはならないのか、何故自分達が下級生に合わせなくならないのか、勉学欲の人一倍強かった熊本バンドたちがそう思うのも無理のない話です。
欲を言えば、あれだけ勉強欲丸出しで熊本バンドを登場させたのだから、その辺りの心の機微もちゃんと描いてあげて欲しかったなと。
あの演出じゃ、何故生徒が不満を抱いているのか、いまいち視聴者には伝わらないです。

生徒たちのストライキに対して、襄さんを除く教師陣は授業を無断欠席することは重大な罪だと、罰則を与えるべきと進言します。
明治13年4月13日、襄さんは生徒を講堂に集め、学校存続のためにクラスの合併はやむを得ない旨を言います。
しかしそれに伴っての生徒への説明が不十分だったことを詫び、「過ちを犯した罰は受けねばなりません。全ての過ちの責任は校長の私にあります。よって、私が罰を受けます」と右手に持っていた杖で、自らの左手を杖が折れるまで何度も激しく打ち付けました。
所謂「自責の杖」事件と呼ばれるもので、本来は「吉野山花待つころの朝な朝な心にかかる峰の白雲」という、佐川田昌俊さんの和歌が前置きがあって、杖の打ち付け、という流れでした。
この和歌は襄さんの特にお気に入りで、死の間際にも何度も何度も詠んでいます。
歌意は「吉野山に桜が咲くのを待つ頃になると、毎朝毎朝、桜ではないかと気に掛かる、峰に掛かっている白雲であることよ」というので、「自責の杖」の際にこれを出して来たときの襄さんの心境としては、いつも同志社(含むそこで学ぶ生徒)のことを気にかけています、ということだったのではないかなと。
しかし生徒ではなく自分を罰したのも、他者の罪は自分が背負う、という襄さんは、生徒の声に耳をまるで傾けないあの場にいた宣教師ズよりも、よっぽどキリスト教信者だよなと思いました。
余談ですがこのときの杖、八重の桜紀行でも映ってましたが、現存してます。
同志社大学が所有しているのですが、同志社大学の新島襄遺品庫からの検索で、現物の写真を見ることが出来ます。
本物見たことありますが、最初見た時は「何でこれを捨てなかったのだろう?」とはてなマークを浮かべたものですが、自戒か何かの意味を込めて置いておいたのでしょうか。
それはさておき、事情は如何あれ自分の杖で自分の手を打ち付けるほどに夫が追い詰められていたというのに(ドラマの流れだと、原因の一端は八重さんのはったりにもある)、襄さんの手を手当てする八重さんの態度がちょっとなぁ・・・と感じました(苦笑)。
何だか今回は、八重さんはどの場面にいても、何をしていても、違和感と異物感がない雑じったような感じになるというか、はっきり言って八重さんいなくても良いんじゃない?とう感じがして。
もう少し彼女に対して、どうにか上手いことならないものですかね。

さて、それから約ひと月経った5月24日、猪一郎さんが同志社英学校を卒業目前にして中退します。
「自責の杖」事件の後遺症(責任をとって)というのが理由ですが、猪一郎さんの中でキリスト教への関心が薄れたのに反比例して新聞への関心が高まったことも大きな理由でしょう。
西南戦争を報道した諸新聞の影響も大きく作用してたと思います。
後の自伝で、猪一郎さんは学校の読書室にあった『日日新聞』『報知新聞』『朝野新聞』『大阪日報』などを読んで新聞への興味を高め、ジャーナリストという人生目標を見出したと綴っています。
襄さんは猪一郎さんを、新日本という国家を支える活躍を期待していたほどに彼の才能を認めていましたが、同時にその才能が暴走しないかの危惧もしていました。
送別の辞の「大人とならんと欲すれば、自ら大人と思ふ勿れ」というのには、そういったものも含んでのものかと。
そう言ったわけで同志社英学校を中退した猪一郎さんでしたが、実は1875年~1891年前の同志社の退学率は83.3%でした。
脱落という意味での退学もこの数字には含まれているでしょうが、彼の他にも卒業を目前にしてアクションを起こして行った生徒がいたとも捉えられます。
しかし上京を目指した猪一郎さんでしたが、その前途はなかなかに多難で、まず書籍諸々を処分しても旅費の工面が出来ないので、襄さんにそれを無心したら「私の学校辞めるとか言っておきながら、何を虫のいいこと言ってるんですか?」と断られ。
上京出来たら出来た出で、東京日日新聞社に就職活動しますが、福地さんへ17回訪問して全部門前払い食らったり・・・と。
その後も他の名士を当たりましたが全滅し、故郷熊本に引き上げて行きます。
ですが、これでじゃあ猪一郎さんさようなら、では決してありません。
折に触れて、この方は八重さんの人生に関わってくるのですが・・・そのあたりドラマが触れるのかどうかは、現時点では望み薄です(汗)。
そもそも彼の弟が、とっくに同志社英学校に入学しているはずなのに見当たらないのも気になります・・・こちらもなかなか重要人物(久栄さんに関わってくる人物なので)だとは思うのですが・・・。

ではでは、此度はこのあたりで。


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