2013年1月21日月曜日

第3回「蹴散らして前へ」

ひとりで講義の練習をしてる覚馬さんから始まりました、第3回。
どうやら日新館で教えることが決まった様子。
・・・ですが、その様子をひょっこり覗いていた与七郎さん(もう少年と呼べる恰好ではありませんね)とその友人達がこんなことを言います。

夷狄の鉄砲なんか、習うもんがいんだべが
んだな。武士の本分は弓、槍、刀だ
んだんだ

何気ない発言ですが、今話のあれこれの根本は全てここに通じます。
それはもう少し筆が進んでから触れるとして、「八重ちゃん」から「八重さん」となった八重さん。
当たり前ですが、それに合わせて時尾ちゃんも貫地谷しほりさん演じる「時尾さん」になってます。
やっぱり綾瀬はるかさんの外見に騙されてしまいそうになりますが、この時八重さんは12歳、数えで13歳です。
八重さんは、どうやらお裁縫が物凄く苦手なご様子で、出来栄えを見たお師匠さんに盛大に溜息を吐かれてました。
あの時代の鉄砲って、手先が器用じゃなきゃ扱い難いというイメージがあるのですが、必ずしもそうじゃないのかな。
それとも、八重さんにとってそれとお針は全く別の話?(笑)
八つ(午後2時頃)になって、お裁縫の稽古が終わると鉄砲玉のように飛び出して行く辺りは、年相応の女の子の行動だな~と、ちょっぴり微笑ましいです。
飛び出した八重さんがぶつかりそうになった女の人は、山川二葉さん。
1844年9月30日(弘化元年8月19日)のお生まれなので、このとき13歳、数えで14歳。
八重さんよりひとつお姉さんということですね。
二葉さんは、第1回で八重ちゃんと木登り競争や、第2回で火蓋の読み方を教えてあげたりしていた与七郎少年のお姉さんに当たります。
二葉さんのお供の女中さんが、「おなごが供も連れねぇで」と眉を顰めていましたが、この時代は現代とは違って、武家女性の一人歩きははしたないこととされていました。
こういった諸々の、武家女性の日常生活のあれこれにもし興味を持たれた方がおられましたら、岩波文庫から『武家の女性』という本が出てますので、読んでみて下さい。
(ただし、『武家の女性』の舞台は会津藩じゃなくて水戸藩ですが。)

しかし、八重さんの歴史を知っている人ならよくご存知でしょうが、彼女は明治期に女紅場(華族や士族のお嬢さん方に裁縫や読み書き算盤を教えた教育機関)に勤めることになります。
お針が下手なまま権舎長となるのか、この後ぐんと上達するのか・・・。
まあ針の上手い下手はあんまり権舎長とは関係ないのかも。
そういえば八重さんと襄さんとの出会いも、井戸でのお裁縫でしたね。
武家女性ならたしなみは裁縫だけではないでしょうに、裁縫裁縫と裁縫が全面押しされてる感があるのは、そういう経緯が後々にあるからでしょうかと、変に勘繰ってしまいます。

鉄砲玉のように裁縫教室から飛び出した八重さんが向かったのは、大きな桜の樹の上。
熱心に読んでいるのはやはりといいますか、砲術の本。
この本は『砲術言葉図説』らしいのですが、『砲術言葉図説』は自信はありませんが高島流砲術でしたっけ。
軍隊の号令や用語のいくつかは、ここ由来です。
冒頭で覚馬さんがひとり講義で「これがパトロン」と仰ってましたが、あのパトロンもそのひとつです。
ちなみにここでのパトロンはオランダ語で、フランス語のパトロンとは意味が全く違います。
さて、その八重さんが毛虫に吃驚して本を落っことした先に現れたのが、尚之介さん。
語るまでもない、八重さんの未来の旦那様ですね。
まるで少女漫画のごとき出会いです。
ふたりが結婚するのは慶応元年(1865)の話ですので、これより八年後のお話。

江戸から遥々覚馬さんを訪ねて来た尚之介さんは、覚馬さんが会津で蘭学所を開くと聞いて、会津で働くために来たそうです。
しかも出石藩にお暇頂いた、浪人身分となって、ですからやる気満々。
しかし覚馬さんの蘭学所はまだ開設の許しも下りてない状態なので、ひとまず山本家にご厄介(居候)という形で逗留する感じですね。
尚之介さんがやって来たことにより、ますます蘭学所開設に胸を膨らませる覚馬さん。
西洋砲術の指南も始めて、語学や舎密術や医術、西洋式の訓練もして・・・そうだ無断で藩を飛び出した古川春英さんも呼び寄せよう、と目をキラキラさせる覚馬さんと、それに膝を打って同意する尚之介さんに対して、話を聞いていた権八さんの表情は飽く迄険しい。

覚馬、そう急ぐな。こごは会津だ。江戸ど同じに考えだらうまぐいがねえぞ

仰る通りですが、覚馬さんには分かってるけど分かっていない感じでしょうか。
覚馬さんが悪いわけじゃ勿論ないです。
ただ、会津の人全員が全員覚馬さんのように江戸へ遊学して、視界が啓けたわけじゃない。
逸るばかりに、覚馬さんはその認識を置いてきぼりにしてる・・・そんな印象を受けました。

ドラマでは触れられていませんが、権八さんもまた覚馬さん同様、若い頃に藩を代表して江戸遊学をしてます。
つまりはそれだけ優秀だったということです。
そして江戸で洋式の高島流砲術を学んでます。
権八さんが江戸遊学したときに、江戸には象山塾も何も勿論なかったでしょうが、それでも砲術を通じて「西洋のもの」には存分に触れたはずです。
その権八さんが江戸遊学を終えたとき、覚馬さんのようにならなかったのは、会津がどういうところか(つまりは保守的)分かっていたからでしょうか。
その経験みたいなのを踏まえての、「ここは会津」「江戸と同じではない」という言葉なのかなと、ひとり考えておりました。

覚馬さんが視界を啓けるきっかけをもたらしてくれた象山先生は、松代謹慎蟄居中。
松代藩重役江戸詰家老、望月貫恕さんの下屋敷を借りて住んでおりました。
屋敷は三千坪ほどあったようで、象山先生はその庭園を高義園、家を聚遠楼と命名し、そこで以前と変わりなく学問を続けておられるご様子。
「いずれ天下が私を呼び戻すときが来る」と仰る象山先生。
それは五年後のお話になるのですが・・・いえ、先のことは時が来たら触れることにしましょう。

何かを始めようとすれば、何もしない奴らが必ず邪魔をする。蹴散らして前へ進め

象山先生から、尚之介さんを通じて覚馬さんへの伝言です。
非常に良いことを言っているように聞こえますが、逆にこれが変に覚馬さんの背中を押してしまったような気もしたのですが、如何でしょうか。

それから程なくして、覚馬さん待望の蘭学所開設の許可が下ります。
ですが、尚之介さんの教授方就任は認められず。
「財政が逼迫しているから余所者を雇う余裕がない」みたいなことをご尤もな理由らしく言われますが、ただ単にそれだけではないことは、覚馬さんの苛立つ表情からも察せますね。
胸を膨らませていた分、会津上層部の実態の壁にドンとぶつかって、「何で」という思いが胸中を過ったことでしょう。
その覚馬さんを案じているのが、林安定さん、通称林権助さん。
文化3年(1806年)のお生まれですから、このとき51歳、数えで52歳。
このときは砲兵隊長、後に大砲奉行となります。
砲術師範の権八さんとは、云わば同じ部署の同僚、という感じでしょうか。
第1回の追鳥狩で、「負けんなよ、覚馬」と言っていたのはこの権助さんだったか、隣にいた権八さんだったか。
権助さんがいうに、覚馬さんはゲーベル銃の試射で100発中85発命中させたそうで。
枝葉になりますが、かの明智光秀さんは、火縄銃100発撃って68発命中させたそうです。
ですが光秀さん時代の銃とゲーベル銃は性能がまるで違うでしょうから、光秀さんにゲーベル銃持たせたら覚馬さんレベルなのかなと謎の解釈とひとり納得をしておりました。
話を戻して・・・。
権助さんは、覚馬さんの鉄砲の腕を絶賛しに来たのではなく(それもあったかもしれませんが)、覚馬さんの先走った行動を案じて、釘を刺しに来られたご様子。

程っつーもんも弁えねえどな。蘭学所を開ぐのも、余所がら人さ連れで来んのも、会津のためになんべ。そんじも、あんまり急ぐど上がつむじ曲げる。天狗になったと叩かれる

だからちょっと手綱を引いてやれという権助さん。
釘を刺されて、ああやっぱりそうなったか、という感じの権八さん。
どうやら覚馬さんの先行きは、前途多難の模様。

さて、こちら裁縫教室の帰りと思しき八重さん。
ばったり会ったのでしょうか、尚之介さんと仲良く雨宿り。
やっぱりというか、何か少女漫画的です(笑)。
笑われた、とムスッとしてたのに、「良い腕をしている」と言われたら途端に嬉しそうな顔をして、尚之介さんに打ち解ける八重さん、年相応の女の子ですね。
多分今まで八重さんは、「笑われた」というのと、「大好きなあんつぁま」を取られたという年頃の女の子にありがちな焼きもちみたいなのを尚之介さんに抱いてたんでしょうねぇ。
そこへ登場するのが、与七郎さん。
八重さんと同い年なので、このとき12歳、数えで13歳。
冒頭に登場した時点で既に玉山鉄二さんになってましたが、前髪落としてたので元服は終わってるんでしょうか。
与七郎さんは、尚之介さんが八重さんの家に厄介になってることを知って、「え」という表情。
何と言いますか、物凄く分かりやすいです。
八重さんが傘がなくて難儀しているところに気付き、番傘を置いて行ったのは物凄く某ジブリシリーズ某作品の某場面を彷彿させるシーンでした。
八重さん、この歳にして罪なおなごですね。

同じく雨の中、ほのぼの少女漫画モードな妹とはぐるりと変わって、険しい顔の覚馬さん。
相変わらず尚之介さんの仕官の話は通らず、古川春英さんの帰藩の件については取り下げどころか戻ってきたら脱藩の科で捕縛すると言われ、トドメは蘭学所開設を許可したのは早計だったと言われる始末。
「分からず屋ども」と吐き捨てたくもなるでしょう。
まあ、先程も触れましたが、言ってしまえば会津は保守的なんですよね。
だから、一介の藩士でしかない覚馬さんがいくら声高に騒ぎ叫んだところで、会津藩の本体部分にまではなかなか響かない。
島津斉彬さんの治める薩摩藩など、例外はいくつかありますが、この時期はまだほとんどの藩がそんな感じだったと思います。
そんな覚馬さん、道ですれ違った藩士と肩がぶつかり、番傘を落としてしまいます。
番傘を拾いもせず、謝りもしない藩士に「西洋かぶれの足軽」「飛び道具何て刀も槍もまともに使えない腰抜け武士の使うものだ」とせせら笑いされ、あわや一触即発。
抜くか・・・と固唾を飲みましたが、斬り合いは御法度ですから黒河内道場で槍の稽古として決着をつけることになります。
ちなみにこの道場の正面に座っておられた黒河内兼規さんは、幕末最強の剣客としても有名です。
そういえば、第一回から稽古といえば剣ではなく槍でのシーンが多いのは、会津には宝蔵院流槍術が盛んで、東の会津・西の柳川と言われていたからでしょうか。
そんなこんなで、鮮やかな槍捌きで無礼を働いた藩士ふたりを完膚なきまでにやり込めた覚馬さん。
実は覚馬さん、銃の腕前が抜群なのは言うまでもなく、馬も弓も刀も槍も、全て師範級の腕前でした。
おまけに5歳の頃には五言絶句を暗唱していたというのですから、まさしく文武両道のひと言に尽きません。
しかし、試合の様子を見ていた西郷さんが、後で覚馬さんを「遺恨を含んで槍を振るうな」と叱ります。
実は西郷さんの方が覚馬さんよりふたつ年下なのですが(これまた演じてる方に騙されそうになりますね)、身分は西郷さんの方が上なのでこの形式が成り立つわけです。

ご先祖代々、弓、槍、刀でご奉公に励んできたのだ。鉄砲の方が強いとど言われれば、腹が立づのも道理であろう

ここは西郷さんの言うことがご尤もです。
覚馬さんには、今のままだと乗り切れない時代がやって来てるのに周りが現実を見ようとしない(分かろうとしない)のが不思議だし、焦燥に駆られるものがある。
「あの西洋の技術の結晶というべき黒船を見たか?あんなもの作り出す異国に、弓や刀や槍で太刀打ち出来ると本当に思ってるのか?そんなわけないだろ!武士の沽券だ何だでは日本を異国から守れない!」
・・・と、心中を代弁させて頂くならそんな感じですかね。
蹴散らせと言った象山先生に対して、西郷さんや権八さんや権助さんは、どちらかと言えば覚馬さんい「急がば回れ」を促してる。
いはやは、実に対称的ですね。

場所は移りまして、品川の台場。
ここには黒船来航以降、海防強化のために第一から第十一まで台場があり(ただし四と七は工事の途中で中止、八から十一は未着工)、幕命を受けた藩がそこを守備してました。
会津が任されていたのはその内の第二台場(現在の台場公園)。
しかしこの第二台場は、これより2年前の安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時頃に安政江戸地震(安政大地震)が発生し、大被害を受けました。
特にこの第二台場が酷かったようで、火災発生、建物は倒壊。
50人いた藩士の内の半数はその下敷きとなって、焼け死ぬよりはと切腹し、故郷へ刀を届けるように難を逃れた藩士に手渡したそうです。
このとき第二台場には4トンの火薬があったらしいので、引火すれば大爆発じゃすみません。
おまけに地面が割れて水が噴き出してるわ何だで、第五台場にいた庄内藩が救援に駆け付けたものの、手が付けられない惨状だったとか。
容保様の「砲台を守って命を落とした者たち」の言葉には、そういった被害事情があります。
加えて会津はこの地震で中屋敷も倒壊しており、160名以上の藩士が命を落としてます。
これら中屋敷、台場の再建費用諸々が、藩の財政を逼迫させたこと間違いありません。
尚之介さんを取り立てる余裕がない、というのは、蘭学的なものを疎んじてたのもあったでしょうが、本当に余裕がなかったのも事実でしょう。
今後この財政の逼迫は、折に触れて会津に付き纏う問題となります。

ここで新鮮な風を吹き込ませてくれるのは、やっぱり江戸会津藩上屋敷の女性陣。
敏姫さんは既に容保様と婚儀を済まされているご様子です。
その辺りの詳しい状況は、前回の記事で触れさせて頂いた通りです。
敏姫さんと戯れているのは狆でして、犬とはまた少し違います。
いえ、動物学的に言えば犬なのですが、屋内で飼う愛玩犬(特に小型のもの)のことを特に「狆」と呼びました。
狆は、照姫様も飼われて大切にされていたようで、会津籠城の際にも傍らには狆がいたそうです。
いやはや、しかし敏姫さんと容保様夫婦の初々しさときたら、鮮度100%ですね。
ですが敏姫さん、やはり14歳、数え15歳のおなご。
照姫様と容保様の間に漂う空気に、何かを感じてしまったご様子。
素朴な疑問なのですが、自分が生まれなかったら容保様と照姫様は夫婦になってたんだな、ってことを敏姫さんはご存知なのでしょうか。
それでなくても自分の夫に、義理とはいえあんな才色兼備の姉上様がいるのは気後れするでしょうに・・・。
・・・あれ、何だか新鮮な風じゃない雰囲気に・・・。

季節は流れて、夏。
藩庁に呼び出された覚馬さんは、鉄砲の入れ替えの件の却下、洋式調練採用の取り下げなどを言い渡されます。
軍制改革を進めようとしない会津藩家老達に、それでもと覚馬さんは引き下がりませんが、「御家の軍制に、砲術指南風情が口を挟むな」と一喝されます。
堪えて、堪えて、平伏して・・・だった覚馬さんですが、遂には目上の家老方に向かって「古い」とぼやいてしまい、挙句の果てには「井の中の蛙だ!」と言い放ってしまう始末。
ここで少し話を整理しましょう。
まずこの時会津が採用していたのは長沼流兵法。
覚馬さんが訴えてる西洋式軍制改革が、ようやく会津藩本体にまで響くのは鳥羽伏見の戦いの敗戦(慶応4年/1868年)まで待たなければいけません。
またこの鳥羽伏見の戦いで、先程の権助さんの隊の死傷率は約80%、大砲隊隊長白井五郎太夫さんの隊は約85%。
このとき覚馬さんの申し出を受け入れ、会津の軍制改革が進んでいたのならこの結果は違っていたものになっていたはずです。
では覚馬さんの申し出を聞かなかった御家老衆が悪いのでしょうか。
覚馬さんが言うように、「井の中の蛙」なのでしょうか。
・・・と云われれば、一概にはそう断じることも出来ません。
覚馬さんの言ってることは正しく聞こえますが、それは私たちが「現代」から「歴史」を「眺められる」立場にいるからです。
視点の置き場所を間違えてはいけません。
視界が啓けている覚馬さんは「例外的立場」で、御家老衆をはじめ皆様は身分社会という枠組みの中で生きてるんですよ。
その彼らに、いきなりプライド傷付けるようなこと言ったら拒絶反応起こされて当たり前。
正しい、自分は間違ってない、変わるのはお前たちの方だ、とどれだけ正論振り翳しても、彼らからすれば覚馬さんの方が「例外」なんです。
旧弊に思えるかもしれませんが、それが「江戸時代」だし、300年近く戦のない世が続いた平和国家である「パックス・トクガワーナ」。
幕末のこの状態を、新しいものをなるべく受け入れずに排除してきた泰平の負の遺産、と切り捨てるように言い放つ人もおられますが、当時の方々からすればそれが彼らの世界を構築してたものなのでして。
覚馬さんが会津藩を「井の中の蛙だ」というのなら、差し詰め会津藩から覚馬さんは「井戸という空間に300年近く守られている自分達の井戸を壊そうとしてる存在」という風に見えるのかと。
これについては色々と各個人の意見もあると思いますので、とりあえず一旦議論終了。

覚馬さんはその翌日、禁足の処分を受けます。
無期限の外出禁止ということです。
権八さんは、処分が解けるのは一年後か十年後か分からないと仰ってましたが、禁足が解けるのは一年後になります。
助力してくれたのは権助さんです。
しかしそんな未来のことなど、山本家の皆様が知るはずもなく。
禁足を受けた覚馬さんの姿を見て、八重さんは辛そうに顔を歪めます。
そんな八重さんが、目に涙を浮かべて心中を吐き出した相手は尚之介さん。

私にはわがんねえ。あんつぁまも尚之介様も、何も間違ってねぇのになして・・・なして罰を受げんのがなし
八重さん、ままならぬこともあるのですよ、世の中には

そういって長い間を置いた後、尚之介さんは言葉を付け足します。

頑固ですからね、会津は

何となくその言葉に、ハッとさせられたような、納得したような、我が身にも覚えがある、というような八重さんの表情。
尚之介さんの言葉を受け取った八重さんは、自分が作ったパトロンを覚馬さんに差し出して、「この弾、撃ってみでくなんしょ」と言いますが、覚馬さんの返事は「後にすんべ」。
では、と八重さんはすっくと立ち上がり、ひとり角場へ。
数拍後に、覚馬さんが慌てて追いかけますが、既に八重さんは発射体制を整えてました。
人に笑われても、覚馬さんが諦めると言っても、鉄砲を極めるまでひとりでも自分は諦めないで続ける。
そう言い放った後、八重さんが引き金を引きます。
射撃音の響いた後に判明したことですが、八重さんは実弾撃つのが初めてだったようです。
つまりこれは、「幕末のジャンヌダルク」の記念すべき一発目というわけですね。
その一発目は、的に綺麗な穴をぶち抜いてました。命中です。
それに何か吹っ切れたのか、「蹴散らして前に進むが!」と覚馬さんが生気を取り戻します。
いや、ですから蹴散らすんじゃなくて・・・とも思わなくもなかったですが、まあ展開を見守ることにしましょうか。

安政4年10月21日(1857年12月7日)、徳川十三代将軍家定さんが、米国総領事タウンゼント・ハリスさんと江戸城で引見します。
このとき家定さんが足をだんだんさせてるのは史実です。
家定さんは体が弱かったそうですが、暗愚だったかどうかは噂の域を出ません。
しかしそのために将軍後継に一橋慶喜さんを据え、政務代行の話が持ち上がってました。
一橋慶喜さんというのは徳川斉昭さんの七男で、その英邁さから養子に出さずに斉昭さんがずっと手許に置いておいたほど。
この慶喜さんが、巡りに巡って徳川家最後の将軍となりますが、それはまた後日談。

ではでは、此度はこのあたりで。


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