2013年2月28日木曜日

第8回「ままならぬ思い」

文久3年3月4日(1863年4月21日)に家茂さんが将軍としては229年ぶりとなる上洛をし、7日(4月24日)に参内するところから始まりました、第8回。
家茂さんの正室は、孝明天皇の妹の和宮さんなので、つまり家茂さんと孝明天皇は義理の兄弟となるわけですね。
この婚姻関係こそ、まさしく「公武一和」。
それはさておき、攘夷の話はどうなっているのかと後見職の慶喜さんを婉曲的に詰るのが、国事御用掛のひとり、三条実美さん。
天保8年2月7日(1837年3月13日) のお生まれですので、このとき26歳、数えで27歳。
前回忠煕さんが「お腹のお黒々なお方」と仰ってましたが、どうやらその通りみたいですね。

さて、将軍が上洛したにも拘らず、一向に京の治安は良くならず、相変わらず血の雨が降る毎日です。
この事態に容保様は眉根を寄せますが、町奉行所は不逞浪士に怯えて探索と捕縛に身が入らず、かといって会津藩自らが先頭に立って浪士を捕縛するのも憚れる・・・という事態に陥ります。
この状況の打開策として、土佐さんが思い出したように言います。

その儀、うってづけの者だぢがおりまする。幕府が集めた浪士の一党が、守護職のご差配を受げだいど願い出て参りました

実は将軍上洛に際し、治安の不安定な都でその警護を仕るという使命を負って、清河八郎さんという方の発案の下に江戸で集められた組織がありました。
「浪士組」というのですが、それが234名いまして、入京したのは前回の梟首事件が起こったのと同日です。
しかし将軍警護の下に集められたはずなのですが、都に到着するや否やどうもその清河さんという方が尊王攘夷色の強いことを提唱し始め、浪士組をそっちの方向に使おうとしたので、幕府もこれは見過ごせないと急遽浪士組に江戸への帰還命令が出されました。
これが3月13日(1863年4月30日)のことです。
この江戸へ戻った浪士組が江戸で再編成されたのが、新徴組ですね。
肝心の清河さんは江戸に戻って暫くしてから、佐々木只三郎さんらに殺されてます。
しかし234名全員がぞろぞろと江戸へ帰って行ったわけではなく、将軍警護を目的として上洛したのだから、その初志を果たしたいと残った人たちがいました。
それが芹沢鴨さんや近藤勇さん達です。
その彼らが駐屯している洛西の壬生村に、覚馬さんと秋月さんが訪ねて行きます。
案内役として応対したのが言わずとしれた、後の新選組副長の土方歳三さん。
天保6年5月5日のお生まれですので、このとき28歳、数えで29歳ですね。
ちなみに覚馬さん、現在35歳、数えで36歳。
悌次郎さん現在39歳、数えで40歳。
土方さんに案内されるまま、浪士達の様子を見て回る覚馬さんに、妙に鋭い視線を射かける男がひとり。
斎藤一さん、後に藤田五郎と名乗って明治の世で時尾さんの旦那様になるお方ですね。
天保15年1月1日(1844年2月18日)のお生まれなので、このとき19歳、数えで20歳。
この斎藤さんの視線に剣呑なものを感じた覚馬さんは、素性も知れない浪士らを預かって大丈夫なのだろうかと危ぶみますが、悌次郎さんは「今は手勢が欲しい」ということで、彼らを会津藩で預かることになります。
壬生浪士組がここに誕生しました。

その壬生浪士組の斎藤さんの、未来の奥様となる時尾さんはと言えば、故郷の会津で絶賛失恋中でした(苦笑)。
どうやら時尾さんは大蔵さんに淡い想いを寄せていたようですが、大蔵さんはこの度北原匡さんの娘・登勢さんと祝言を挙げることになったようで。
おふたりのご縁がなかったのは、家が釣り合わない、というのもあったのでしょうね。
何せ大蔵さんの家は家禄1000石、時尾さんの家は300石。
分かってはいたのでしょうが、それでもという想いも当然時尾さんにはあるわけで。

話しても、仕方ねぇがら。・・・んだげんじょ、やっぱり切ねえ

なので一生嫁には行かないという時尾さん。
他の誰のところにも行きたくない、お針や手習いを教えてずっとひとりで生きていく・・・と宣言。
すると八重さんも、鉄砲を捨てられないから自分も嫁には行かないと宣言。
後に、しかしこの宣言を翻すことになるこのお二方、その時が来たらどうするのでしょうなと、今から少し楽しみですね。

なあ、仕方のねえごどって、いっぺいあんな

後になって思えば、今回はこの時尾さんのひと言が、色んなところにかかってきたお話だったように思えます。

さて、正式に会津藩お預かりとなった壬生浪士達。
彼らと容保様とが初めて対面したのは3月16日(1863年5月3日)です。
壬生浪士達が京に留まったのは、先程も触れましたように飽く迄当初の目的だった将軍警護を務めんがため。
じゃあ家茂さん帰ったらこの人達の目的達成だったんじゃないの?じゃあ後の新選組はどういうこと?と思われるかもしれませんが、更なる滞在理由がこの会津藩お預かりになったことです。
そんな彼らの最初の任務は、4月21日に行われる家茂さんの摂海(現在の大阪湾)巡検の警固でした。
その日、駕籠に乗った家茂さんの列の後方で、有名な浅葱色のだんだら模様の羽織を着た集団・・・何と言いますか、浅葱色のせいもあってか異彩を放ってますね(笑)。
ちなみにこのだんだらの羽織を発注したのは、大丸呉服松原店。
今の大丸百貨店の前進です。
大坂今橋の平野屋五兵衛方さんから、4月2日(1863年5月19日)に100両借金した元手で造られたものです。
とはいっても、隊士の増加に伴って羽織が全員に行き渡らなくなり、且つ麻の安手の羽織であったため、次第に誰も着なくなってそのまま自然消滅・・・というのがあの有名な羽織の真実です。
折角の特注品なのに勿体無いな、という気もしますけどね。
しかしデザイン性が気に入らなかったのか、土方さんなんかはほとんど袖を通したことなかったみたいですね。
更に余談になりますが、後に出てくるであろう誠の一文字の隊旗は高島屋発注です。
良いところで仕立ててますね~。

さて、お久しぶりの再会となった覚馬さんと勝さん。
勝さんこのとき40歳、数えで41歳。
文久2年閏8月17日(1862年10月10日)に軍艦奉行並になってます。
有名な坂本龍馬さんとは、この時点で既に会ってますね。
しかし御出世なさっても、べらんめぇの江戸弁は相変わらず。

そんなに攘夷がしたけりゃ、エゲレスとでもメリケンとでも戦を始めりゃいいのさ

その江戸弁で、サラッと凄いことを言ってしまう辺りも相変わらずな勝さんです。
しかし今異国を戦をすれば、負けるのではという覚馬さんに、勝さんは負けて初めて己(日本)の弱さに気付くのだと言います。

戦はしねぇがいい。だが攘夷も出来ず、開国もせず、その場しのぎの言い逃ればかりしてちゃどうにもならねぇわさ。一敗地に塗れ、叩き潰されて、そこから這い上がりゃ・・・十年後、百年後、この国もちっとはましになるだろうよ

ドラマでは触れられませんでしたが、勝さんがこう言うよりも前に、既に春嶽さんが出来もしない攘夷の約束をして幕府政権の延命を図るより、将軍辞職と政権返上くらい覚悟の上で朝廷に開国を奏上して、難局に当たれと言っています。
その春嶽さんが、絶賛辞表提出中なのはさておき・・・。
勝さんは遠い先の日本の話を覚馬さんにします。
そして、そのために会津はいま都で何をしようとしているのかと。
浪人抱え込んで、人斬りに人斬りぶつけるような形で治安を守って、それが何の先に繋がるのだと。
そう婉曲的に問われて、しかし他にやりようがあるのかという覚馬さんに、それを考えるのがおぬしの役目だと勝さんはきっぱり言います。

考えて考えて、考え抜いてみろ。象山先生や死んだ寅次郎さんは・・・遠い先の日本まで、思い描いていたぜ

遠い日本のことを覚馬さんに考えさせる。
これは、後に覚馬さんが口述筆記させた建白書『菅見』への伏線でしょうね。

攘夷も出来ず、と勝さんは仰ってましたが、攘夷の期限の5月10日(1863年6月25日)に唯一攘夷実行をした藩がありました。
長州藩です。
馬関海峡(現在の関門海峡)を通過するアメリカ商船ペンブローク号へ、砲撃したのです。
朝廷からもよくぞ攘夷実行してくれたと褒勅があり、それに勢いを得たのかさ更に5月23日にはフランスの通報艦キャンシャン号を、26日にはオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号を、それぞれ砲撃しています。
しかし後にこれが四国連合艦隊による報復へと繋がっていくわけです。
また都では、文久3年5月20日(1863年7月5日)、長州派の公家、姉小路公知さんが刺客に襲われ、命を落とします。
朔平門外の変と呼ばれるものです。
何でも公知さんが退朝して朔平門の外に出たとき、刀を持った賊三人に襲われ、顔と胸に重傷を受けて屋敷の門前で亡くなったとか。
賊は刀と木履を現場に捨て去ってまして、その刀を検分すると薩州鍛冶であり、木履も薩摩製だったことからこの事件への関与を疑われた薩摩藩は、御所から遠ざけられることになります。
元々公知さんは実美さんと並んで、尊攘急進派公卿の中心的存在でした。
しかし勝さんと接点を持つことで、開国論にも理解を示すようになり、幕府側としては有難い存在になろうとしていた矢先にこの事件です。
公知さんが亡くなって、誰が一番得をするのか・・・そう考えたら下手人のバックが自ずと分かるのですが、ともあれ薩摩藩が遠ざけられたことで朝廷の実権は長州藩が握ることになります。
その長州と繋がる公家の実美さんのところへ集まったのが、桂小五郎さん、久坂玄瑞さん、真木和泉さんの御三方。
桂小五郎さんは…後々での会津への仕打ちを鑑みて、どうしても好きになれない…。あ、天保4年6月26日(1833年8月 11日)のお生まれですので、このとき30歳、数えで31歳ですね。
久坂玄瑞さんは天保11年(1840年)のお生まれですので、このとき23歳、数えで24歳。
真木保臣さん、通称真木和泉さんは文化10年3月7日(1813年4月7日)のお生まれですので、このとき50歳、数えで51歳。
三人と実美さんは、やっと薩摩が御所からいなくなったのに、また厄介な連中が現れたと苦々しく言います。
壬生浪士組こと壬生狼と、その後ろにいる会津です。
長州の攘夷のためには、どうしてもこの会津が邪魔だと見た彼らは、それを排除する動きを見せます。
そうやらその策が、真木さんにあるようです。
さてさて、一体何を仕掛けるおつもりやら・・・。

一方の会津。
夏の終わりの頃でしょうか、十日後に京へ出発することが決まったという大蔵さんが、八重さんのところへ挨拶に来ます。
そのまま立ち去ろうとする彼を尚之助さんが「返す本があったから」と呼び止めて、気を利かせたのか大蔵さんと八重さんをふたりきりにしてあげます。
尚之助さんの素敵な気遣いですね、と言いたいところですが、当の大蔵さんは祝言を別の女性と控えた身ですので、微妙な気遣いだなとも思えます。
八重さんは覚馬さんもいる京へ上る大蔵さんに、あんつぁまに宜しく伝えて欲しいと託します。
そしてふと羨ましそうな表情を浮かべて、自分は生まれ損なったのだと言います。

こった時に何もできねぇのは、じれってぇ。・・・もし男に生まっちゃてだら都に馳せ参じて、あんつぁまと一緒に働ぐのに
・・・俺も、そう思う。八重さんが男ならば・・・子供の頃のように競い合う仲でいらっちゃ。共に銃を取って、戦うごども出来た。・・・決められた縁組に、心が迷うごとはながった

意外な展開の意外なタイミングでの大蔵さんの告白でした。
でも、悲しいかな八重さんには届いていないようで・・・でも、大蔵さんはそれでも良いのでしょうね。
仮に届いたって、大蔵さんには祝言が控えていてどうしようもないのですから。
時尾さんとはまた違う形で、ここに大蔵さんの「ままならぬ」があるような気がします。
その「ままならぬ」を如何にか呑み込もうとして、大蔵さんが八重さんに意味深い言葉を言います。

京で会津を思うときには、きっと、真っ先に八重さんの顔が浮かぶ。あなだは・・・会津そのものだから

八重さんは会津そのもの。
これにはちょっと理解に苦しみましたが、ドラマのタイトル「八重の桜」になぞらえて考えますと、あの八重さんがしょっちゅう登ってる桜の樹が八重さんそのものを表していて、大地にしっかり根を張って咲く。
これが大蔵さんの言葉の「会津」のニュアンスなんだろうなと。
上手くまとまりませんが・・・うーん、この言葉、深いというか難しいですね。
しかしそんな深い大蔵さんの言葉も八重さんには届いておらず、「おがしなごど言って」で終わらされてしまってます。
まあ、それでこそ八重さんと言いますか(笑)。
そんな八重さんが大蔵さんの祝言当日、いつもの桜の樹の上で砲術の書物を広げていると、官兵衛さんが馬に乗って疾駆し、それを追い駆ける西郷さんの姿がありました。
謹慎を命じられている官兵衛さんは、京の様子を聞いていてもたってもいられず、脱藩覚悟で容保様のところへ向かうつもりだったようです。
しかし脱藩してしまっては、容保様の前に出ることすら許されなくなります。
それじゃあ元も子もないではないかと、そんな西郷さんの口から飛び出したのはお久しぶりな気がする「ならぬことはならぬ!」。
しかしそれに反発するように、官兵衛さんの中で「ままならぬ思い」が悲鳴を上げます。
この有事に容保様の力になれないのなら、問題を起こした時に死罪になってた方が良かったとまで言って去っていく官兵衛さん。
その姿を見送った西郷さんが、樹の上の八重さんに気付きます。
会話から察するに、両者10年近く会ってなかったはずなのに、何故か西郷さんは一目で八重さんが覚馬さんの妹の八重さんだと分かるのですね(笑)。
それはさておき、八重さんが砲術の書物を読んでいることに、こんなの学んでどうするのだと西郷さんは尋ねます。
もうすっかり八重さんの周りは理解者だらけで、ついうっかり忘れそうになりますが、これが普通の反応なのですよね。
八重さんは、自分が男なら官兵衛さんのように馳せ参じたいのだと言いますが、西郷さんは言います。

切腹仰せづけられるどごろを、殿のご温情にて一命を救われだ。今ごそ、ご恩に報いる時だど勇み立っているが・・・あの燃えるような忠義心、裏目に出るやもしれぬ

しかし勇み立つ官兵衛さんの行動には、八重さんは理解を示します。
八重さんもまた、第1回の追鳥狩の時に容保様のかけて下さった言葉に心を揺さぶられていたからです。

お殿様のお情け深さ、武士らしいど言わっちゃ時の嬉しさ。心に沁みで今も忘れられねえだし。私のような者でさえ、お殿様のために働ぎでぇど思うのです。佐川様はどれほどかど・・・
そうよのう。人の心を動がすものは、罰の恐ろしさより温がい情けがもしれぬ。なれば、寛容な心こそが憎しみがら身を守る盾どなるはず。良い話を聞いだ

しみじみと八重さんの言葉を聞いて、胸の内に色々あったであろう思いが纏まったのか、西郷さんは都へ行くことを決心します。

そんな中、御所内では実美さんが我が物顔で朝議を取り仕切り、挙句の果てには会津に関東へ下らせる勅命までさっさと決めてしまいます。
要は都に軍勢率いて居座る会津が、実美さん達急進派の公家にとっては邪魔な存在でしかなかったのですね。
朝廷内でも公武合体派と、そうでない急進派(こっちが長州とかとリンク)とに分かれてたわけですよ。
守護職が都を空ければ、都を守るものがいなくなるではないかと待ったをかけた孝明天皇すらあっさりと退ける始末。
この実美さんの孝明天皇への振る舞いって、不忠というか、無礼にならないのかな・・・という気もしなくもないですが、どうなのでしょうね。
しかし、武士は会津だけでないという実美さんの言葉は尤もですが、孝明天皇的には純粋な意味で自分を想ってくれてる武士は会津というか、容保様だけなんですね。
他は何かを腹に含んでるように見えるのでしょう。
自分を取り巻く公家衆も然り。
たとえばこの実美さんとか実美さんとか実美さんとか実美さんね。
会津本陣の容保様の元へ、武家伝奏を通じて関東下向の勅命が届けられます。
これが6月25日(1863年8月9日)のことです。
しかしそれを受け取った容保様は、勿論はいそうですかとすぐには従いません。
その上守護職という任に就いている以上、そう簡単に都を離れられるはずもなく、一体絶対これはどういうことなのかと容保様は考え込みます。
同じ頃、孝明天皇が御所で密かに実美さん達に気付かれないように忠煕さんを呼ぶように命じます。
そこから孝明天皇→忠煕さん→忠煕さんに呼び出された会津藩士の小野権之丞さんへと孝明天皇の勅書が渡され、容保様のところへ「勅書」が再び届きます。
ドラマでは権之丞さんは出ず、修理さんがその役を担っていましたね。
しかし25日に来たのも勅書、今回もまた勅書?と思われるかもしれませんが、要は前者は孝明天皇の意に添わない形で実美さん達が勝手に出した「偽勅」ということです。
修理さんが携えてきたものこそが、孝明天皇の考え、思いが反映された本当の「勅書」。
やや混乱したような面立ちのまま、書状を開く容保様。
そこには「守護職を関東に帰すことは、朕の望むところではない。なれど堂上達申し条を言い張る上は、愚昧の朕が何を申すも詮無きこと」とあります。
好き放題偽勅を発せられ、自分の本当の言葉が届かない状況に追いやられている孝明天皇の苦境が、滲んでいます。

江戸へ下れとの御下命は、御叡慮ではない。・・・公家たちが勝手に決めたものとある
では、先に届いた偽勅は、一体・・・
偽勅の話、やはりまことであった・・・。会津を都から追い出し、朝廷を意のままに操ろうとする者の企み故、決して従うなとの仰せじゃ

偽勅の件が明らかになり、憤りに震える容保様ですが、勅書を読み進めた先で息を呑んで瞳を涙で湿らせます。
ちなみに勅書の内容は以下。
イマ会津ヲ東下セシムル者ハ、過グル日申セシ如ク、勇威ノ藩ナルニ因ッテ、ココニ居レバ奸人ノ計策行ナワレ難キガ故ニ、コレヲ他ニ移シ、事ニ托シテ守護職ヲ免ゼントスルナリ。関白モマタ、コレヲ疑エリ。コレ則チ、朕ガ尤モ会津ヲ頼ミトシ、遣ワスヲ欲セザルトコロニシテ、事アルニ臨ミテ、ソノ力ヲ得ントスルナリ。今偽勅甚ダ行ナワルルガ故ニ、コノ後何等ノ暴勅ノ下ルモ測リガタシ。真偽ノ間、会津ヨク察識スルヲ要ス。(山川浩、1965、『京都守護職始末』平凡社)
コレ即チ、以下の文章が容保様の感涙の理由ですね。

尤も会津を・・・主上は、それほどに我らを頼りにしておられるのか・・・

これが6月27日(1863年8月11日)のことです。
偽勅に心を痛めつつも憤りを感じていた孝明天皇からすれば、ようやく自分の言葉を伝えられる相手が現れたのでしょうし、容保様は容保様で、貧乏籤を引かされて薪背負って遥々都まで火を消しに来た先で、帝という尊い存在に頼られて、凄く嬉しかったのだと思います。
幕府は会津にやるだけやらせて、何も報いませんから・・・。
そういった意味では、孝明天皇から絶大なる信頼を得たというのは、容保様にとって何物にも代え難いものだったでしょう。
そのタイミングで、数日後に西郷さんが黒谷までやってきます。
西郷さんが何かを容保様に話す前から、もう話し合いの結果は見えていた気がします。
勿論西郷さんは視聴者みたいにそんなこと知らないのですが、あの宸筆の後に容保様は動かせるわけないんですよね。
さて、そんな状態での西郷さんと容保様です。

ご就任当初、殿は対話の道こそ第一とされておいででした。それでごそ、公武一和は無事に調うものど、頼母、感服仕っておりました。なれど只今は、素性怪しき浪士組をお抱えになり、不逞の者はこどごどく処断するご方針に変わられだ
最早厳罰を以って処するより都を守る術はないのだ
今一度、言路洞開のお立場にお戻り頂くごどは出来ませぬが?
出来ぬ。既にその時ではない

人の心を動かすのは確かに温かい情だったのかもしれないけど、容保様は前回その手段を手放したんですよね。
それは、でも容保様の選択が決して間違ってるわけではないのです。
西郷さんは、その手段を容保様が手放した瞬間や経過の時に都に居なかったから言えちゃうわけで。
でも西郷さんだって、完全に外部から物を言ってるわけではないのです。
容保様たちが都に留まることで、その影響は国許の会津にまで及び、その影響を食らう位置にいるわけですから(分かりやすい例を挙げれば財政赤字とか)。
西郷さんは容保様に、京都守護職の退任を迫ります。
このまま守護職の役目を続けても会津の手と名前が血に塗れ、最初は守り神として重宝されるかもしれないがやがて恐れられるようになり、果ては憎しみの対象になると。
そうなる前に、と詰め寄る西郷さん。
先の歴史を知る身から彼の言葉を見つめますと、壬生浪士組(新選組)を起用して市中の取り締まりにそれなりに効果があったことが、「恨みを買う」という意味で会津の不幸にもなってるんですよね。
純粋な容保様がその先の展開まで理解していたかどうかは分かりかねますが、頼みにしてくれる孝明天皇を振り切って守護職の役目を放り出すことは出来なかったのです。
そんな容保様に、しかし西郷さんも一歩も譲りません。
他のどの家臣も言わないことを、西郷さんのみは飾ることなくはっきりと真っ直ぐに言います。

既に春嶽公は政治総裁職を放り出し、公武合体派の諸侯も京を去られだ。今はただ会津の身みが都で孤立しておりまする
損な役回り故、放り出せと言うのか?それは卑怯であろう。会津には御家訓がある。他藩とはひとつにならぬ
ではそのために会津が滅んでも良いど思し召すか!

先程もちらりと触れましたが、春嶽さんは文久3年3月26日(1863年5月13日)に幕府によって政治総裁職を罷免させられ、逼塞処分となっています。
そんなこんなで、今や幕府サイドで都に留まっているのは最早会津のみと言っても過言ではない状態です。
必然的に都での幕府へのあれこれの矛先は、幕府代表のような形で都に留まっている会津に全て向けられるわけでして。
それこそ先程西郷さんの言葉にあった、恨みや憎しみも。
幕府側からしたら会津はスケープゴートみたいな感じでしょうか。
そうは思ってないでしょうが、結果的に立ち位置からしてもそうなってるわけでして。
西郷さんは容保様が都に行く前から、そのことに気付いてましたよね。
だから京都守護職拝命の話が出たとき、「薪を背負って火を消しに行ぐも同然」と言って思い留まるように言った。
西郷さんは容保様が何故そこまで守護職の役目に固執し、全うしようとするのか、痛いところをズバリと突きます。
容保様は、二心を抱くものは我が子孫にあらずという、御家訓の一条に囚われているのだと。
更に重ねられた次の言葉は、本当は西郷さんは言いたくなかったんだろうなという気もします。
でも言わなきゃ届かないから、口に出した。
同時に、会津外から来た容保様と、保科所縁の血筋を持つ西郷さんの立ち位置図が明確になったような気もします。

なれど、そうまで拘れるのは・・・殿が他国より御養子に入られだ御方故。会津は、潰させませぬ!

容保様は御家訓を捨てられないし、他国から来たからか御家訓を誰よりも守ることで会津人になろうとしているというのは過去の記事でも散々触れてきました。
西郷さんは保科に血筋が近いせいもあってか、常に会津優先なんですね。
その会津が、スケープゴートのような扱いを受けて潰れるかも知れないという現状に、西郷さんが我慢ならないのも無理からぬ話です。
しかし諄いほど触れてきたように、容保様と西郷さんでは最優先順位が違ってるのです。
だから、すれ違ってしまいます。

主上はただひとりで国を担う重さに耐えておいでだ。一藩を賭けてでもお守りする。・・・それが、会津の義だ

容保様は西郷さんに国許に戻って沙汰を待つように告げます。
西郷さんに下ったのは蟄居の命でした。
しかし、京都守護職に終わりはあるのでしょうかね。
やり通すと容保様仰ってますが、彼は何を以ってこの役目が終わりとなるのか考えておられたのでしょうか。

天正9年2月28日(1581年4月1日)に織田信長さんが都で馬揃えをしたのは有名ですが、それから282年経たこのとき、会津藩は御所で馬揃えを披露することになりました。
因幡藩藩主、池田慶徳さんの進言によるものです。
最初は因幡、備前、会津の内の二藩が馬揃えする予定でしたが、二藩による調練は大がかり且つ大人数となり混雑するとの理由で、会津だけがやることになりました。
その名誉に沸き返る会津ですが、雨、雨、雨・・・で日延べ続きになります。
馬揃えが本来予定されてたのは7月28日(1863年9月10日)。
延期の延期で、ようやく行われたのは30日(1863年9月12日)の、しかし雨の日です。
最初、この30日も雨なので延期と伝えられていたのですが、急に馬揃えを始めよという達しが下ります。
出陣の折りに雨や雪など関係なかろう、というのが理由らしいですが、悌次郎さんは謀られたのだと言います。
不意打ちで満足に支度が整わないようにして、会津に恥をかかせようとしているのではと・・・。
勿論その通りで、これは実美さんらの仕業でした。
そんなこんなで行われた馬揃え。
参内傘はかつて保科正之公が明正天皇の即位を祝って上洛したときに授けられた、会津藩伝統の尊皇佐幕の象徴ともいえるものです。
騎乗の容保様がお召しになっているのは、緋色の陣羽織。
言わずもがな、孝明天皇から授けられた衣で仕立てたものです。
馬揃えをご覧になられていた孝明天皇もすぐにそのことに気付いたようで、嬉しそうに微笑みます。
孝明天皇はこの馬揃えをいたくお気に召したようで、大和錦二巻と白銀200枚を容保様に下賜しています。
更には孝明天皇はもう一度馬揃えを見たいと所望され、8月5日(1863年9月16日)朝七つ半からもう一度馬揃えが行われたのですが、そちらはスルーされたようですね。

一方、国許で蟄居を命じられた西郷さんは、八重さんがいつも登っている桜の樹の下で、黙々と毛虫除去作業をしていました。
こうは言っては何ですが、とってもお似合いです・・・(笑)。
八重さんの鉄砲の腕前は西郷さんの耳にも入っているようです。
しかしおなごの身では鉄砲足軽にもなれない。
八重さんはそれが口惜しいと言います。

ままならぬものよ。・・・誰も、望み通りには生ぎられんか

謹慎の身となった今、桜守りの爺にでもなろうかと笑う西郷さん。
ですが、一拍して寂しげな表情を浮かべ、言います。

桜が枯れぬように、せめでも災いの元を取り除きたかったのだが・・・

説明するまでもなく、桜は会津のことですね。
そんな西郷さんに八重さんは、樹が枯れると自分も困るから手伝いをさせて欲しいと申し出て、西郷さんにも笑顔が戻ります。
話は逸れますが、この回を見終わって、初回の冒頭の西郷さんと容保様のシーンを観ると、一層あのシーンに重みが出て、胸に込みあがるものがあります。
あそこへどう繋がっていくのか、楽しみですね。
そこまでの過程は、やはり切ないのでしょうが・・・。


ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年2月21日木曜日

第7回「将軍の首」

容保様運命の上洛の時が刻一刻と迫る文久2年(1862年)、始まりました第7回。
謹慎中のために容保様の上洛にお供出来ない官兵衛さんは、大蔵さん達に稽古を付けることでそのやりきれなさを消化しつつ、「わしに代わって殿をお守りせいよ!」と己の気持ちを託します。
実は官兵衛さん、後を追って上洛出来ることになるのですが、そんなこと本人すら知らない現時点では触れないことにしましょう。

さて、容保様が向かわれることになった京はといえば、その頃天誅という過激なテロ行為にも似たものが頻発してました。
過激攘夷派の不逞浪士が、公家の家臣や町奉行の与力などを斬っては、我が物顔で街中を歩いていたのです。
九条関白の家臣、島田正辰さんや宇郷重国さんが殺されたのもこの流れによるものです。
ドラマでは目明かしの文吉さんも天誅を受けておりましたが、彼の下手人は岡田以蔵さんです。
繰り返されるこの天誅を、京都所司代は黙ってみていたのかと思われるかもしれませんが、実はその通りで、所司代はあまり天誅行為を取り締まりませんでした。
天誅の下手人を捕縛すれば、過激攘夷派の浪士を刺激し、より大規模なことが起こってしまうかもしれないと危惧していたからです。
故に幕府側は天誅行為は私怨によるものと見做し、手を出さないでいたのです。
しかし取締られることのない天誅により、今日は文字通り無法地帯と化しました。
要は帝のお膝元でありながら、治安が最悪だったのですね。

前回めでたく縁談がまとまり、夫婦となった修理さんとお雪さん。
史実通り仲睦まじいようで、見ている此方の頬まで綻びます。
そこへ東山温泉に向かう山本家三兄弟と遭遇し、ふたりも温泉に行くのかなんなのか、同行することに。
道中、男性陣の話題は専ら京について。

奉行所や所司代では最早手に負えず、会津の武力を頼みどする声が日に日に高まっているどうです。んだげんじょ、先乗りした公用方の報せでは、不逞浪士の中には堂上公家ど密かに通じ、策謀を巡らす者だぢもいるどか

修理さんの台詞にある堂上(とうしょう、と読みます)公家とは、ほぼ確実に公卿に昇れる家柄の公家のことです。
公卿になれるということは昇殿が出来るということなので、そんな彼らと繋がりを持つということは、朝廷の上層部に近い位置で工作が出来るパイプを持っていることにもなります。
「先乗りした公用方」というのは、容保様より前に物見という役割で、先に田中土佐さん、野村左兵衛さん、小室金吾さん、外島機兵衛さん、河原善左衛門さん、柴秀治さん、宗像直太郎さん、広沢富次郎さん、大庭恭平さん、そして悌次郎さんなどが京に送られてました。
物見も勿論ですが、この先発隊、特に悌次郎さんが何をしていたのかは後々で少し触れさせて頂きます。
修理さんの話を聞いていた尚之助さんは、公家か、とつぶやきます。
ただでさえ都に不案内な会津。
しかもそう言った浪士達を相手にするには、会津としてもそれなりの策を施さねば到底太刀打ち出来るものではありません。
いわゆる、権謀術数・・・覚馬さんも仰ってますが、武骨な会津が最も不得手とすることでしょうね。
そんな風に歩いていると、三郎さんが鳥居に向かって石を放り投げ、乗ったら願い事が叶う、という里の者がやるという運試しをしてました。
三郎さんの願いは「あんつぁまど一緒に京でお勤めがでぎるように」。
八重さんの願いは「あんつぁまが京で手柄を立てるように」。
ネタバレになってしまいますが、このふたつの願いは外れることなく叶います。
さて次はお雪さん・・・と、石を投げますが、八重さん達のようには行かず、転げ落ちます。
もう一度試みようとするところを、修理さんが「幾度も試すものではねえ」と言います。

運試しなど無用だ。必ず戻ってくる。案ずるな、信じで待ってろ

この修理さんの言葉から察するに、お雪さんは修理さんのご無事を願ったのでしょう。
ほんわかしたシーンのハズなのに、どうしてもふたりを待ち受ける悲しい展開の伏線が透けて見えてしまいます。

さて、東山温泉。
後に宇都宮の戦い(慶応4年/1868年)で足の指を怪我した土方歳三さんも療養に来ることになるこの場所ですが、どうにもこの入浴シーンはファンサービスにしか見えないです(笑)。

上洛前に尚さんを仕官させたかったが、まだ駄目だった。会津はこったとこが古ぐて良ぐねぇ

そう愚痴る覚馬さんに、構いませんよ、と尚之助さんはさらりとしてます。
あんまり察するに、あまり欲がない人なのでしょうね。
確か藩士に取り立てられるまで、ほぼ無給で日新館の教授してくれてたというのも、何かの本で読んだ気がします。
覚馬さん、背炙山に反射炉を作ることを考えてたと尚之助さんに打ち明けます。
反射炉といえば佐賀藩のものが有名ですが、金属を精錬する反射炉があれば、大砲の砲身を鋳造することが出来るんですね。
いざというときは、お寺の鐘を鋳潰して大砲を作る事を、不在の自分に変わって上に進言して欲しいということ、蘭学所のこと、家のこと、会津のこと・・・覚馬さんが尚之助さんに託すものはたくさんあります。
それだけの信頼関係がふたりにはあるということでしょうし、覚馬さんも故郷を離れるのは何かと不安なのでしょう。
それらを全て受け止めて承諾した尚之助さんですが、家のことについては自分よりも適役がいるとのこと。
覚馬さんもまんざらではないようで、思わず苦笑いを浮かべます。
語るまでもなく、これは八重さんのことですね。
覚馬さん留守の間は自分が家を守り、覚馬さんが戻るまでは嫁にも行かないとさえ言い切った八重さん。
重いお役目を背負っての上洛な分、八重さんのこの明るい声が何だか救いのように思えます。

覚馬さんの上洛の日を控え、山本家の皆様も何処か落ち着きがありません。
うらさんは出立前に新しい着物を仕立ててあげたい一心で、機を織続け、権八さんは小刀で耳かきを何本も作る始末。
挙句の果てには佐久さんまで、足袋を幾つも拵える始末。
「御所に上がった時に足袋が襤褸だと覚馬の恥になる」とのことですが、御所では足袋は帝の許しなしでは履けません。
会津が如何に都文化に馴染みがないかというのと、そんな遠地へ覚馬さんが旅立つという言いようのない落ち着きない気持ちが、よく表れていますね。

粉雪がちらつき始めた砌、覚馬さん達は会津を出立しました。
見送るうらさんの手には、昨晩覚馬さんから贈られた赤い櫛がしっかりと握られています。
お雪さんもじっと、修理さんの姿を見送ります。
八重さんはいつもの桜の木の下で、隊列を見送ります。

あんつぁま、行ってきらんしょう!ご無事で戻って来てくなんしょ!

冷静に考えれば、覚馬さんとうらさん、修理さんとお雪さんはこれが今生の別れになったのですよね。
でもそうなってしまった人は、この二組に限らず、もっと大勢いたはずです。
覚馬さんも覚馬さんで、まさかこれが故郷会津との今生の別れになるだ何て思ってもみなかったでしょう。
そしてあの場にいた誰もが、約6年後にはこの会津が地獄のような戦場になるだ何て考えなかったはずです。
況してや、再び国に戻ってきた殿様に「朝敵」のレッテルが貼られてるだ何て・・・。
鶴ヶ城から隊列を見送る西郷さんが、「とうとう動き出したか」とひとりごちってましたが、勿論西郷さんにも先の歴史が分かっていたはずありませんが、それを仄めかすようにも聞こえました。
先の展開を知っていれば、八重さんの「ご無事で」の見送りでさえ、切ない台詞に聞こえてしまいます。

閑話休題として、飛ばされた比較的有名な史実の出来事に少し触れさせて頂きますと、この年の8月21日(1862年9月14日)に生麦事件が起こっています。
また、12月12日( 1863年1月31日)には高杉晋作さんらが英国公使館焼き討ち事件を起こし、その後で松陰さんの骨を掘り返して改葬してます。
この改装された場所が、現在の松陰神社の場所に当たります。

さて、そうこうしている間に覚馬さん達は江戸藩邸に到着し、容保様から振る舞いの餅と酒と、慈しみにあふれた言葉を頂戴します。
翌日の12月9日(1863年1月28日)江戸を出立、陸路を経て12月24日(1863年2月12日)に入京しました。
會と染め抜かれた旗と、会津葵の旗を翻し、組頭は黒染めの羽織に漆塗りふたつ折の韮山笠、組士は黒木綿無紋の羽織に、同じ質の脛巾を身に付けた藩士が整然と続きます。
騎乗の容保様は、烏帽子白鉢巻に錦の鎧直垂という、いつでも鎧をつけることの出来るお姿。
「きれえなお殿様や」と都の方に言われてますが、この容保様の儚げな美しさと言ったらもう・・・!
ちなみに都の人は会津を「かいづ」と読むのかと言っていたほどに会津のことを知らなかったようで・・・都から奥州は遠いですし、地域同士の行き来がほとんどない時代(言ってしまえば生まれた場所近辺で人生過ごして終えて行く、が基本パターン)ですので、仕方がないと言えばそうなのですけどね・・・。
容保様の一行は、そのまま金戒光明寺に入ります。
最初京都守護職を拝命したとき、会津は二条城に本陣を置いてそこに入ろうとしたのですが、それだと二条城在番と同じことになるからと、当分の間は所司代千本屋敷を宛がわれていました。
しかし所司代屋敷は100人の足軽とその家族のために営まれたものなので、会津の隊列1000人を収容出来るわけもなく。
そこで幕府が、人が入らないなら御所近くに土地を買えば良いと言って急遽都に会津藩邸を建てることになったのですが、まず容保様らの入京までの日数がなくて、そういうわけでそれが建つまでは金戒光明寺が本陣となったのです。
その金戒光明寺の畳の張替えやら1000人の藩士の食事の賄いやらなにやらの受け入れ準備に、土佐さんと一緒に奔走したのが、悌次郎さんです。
容保様のお出迎えに並んでいたのは、その悌次郎さんをはじめとする、先程も触れました先発隊の公用方の人たちですね。
余談ですが、京都守護職を拝命した会津は、御役料5万石と、金3万両が下されました。
新たな5万石は、近江に1万5000、和泉に1万、越後に2万5000の内訳です。
勿論、そんな程度じゃ真っ赤な会津財政にとって焼け石に水状態なのですが・・・。
そして容保様はそのまま関白・近衛忠煕さんを訪ねます。
忠煕さんの出で立ちは、立烏帽子に縫腋位袍、指貫姿。
薩摩藩先々代藩主島津斉興さんの娘、興姫さんを娶ったので、薩摩とは関係深いお公家さんです。
「篤姫」の幾島さんが篤姫さんよりもまえに仕えていたのが、この興姫さん(=郁姫さん)になります。

都のことは少しも存じ上げませぬ。何卒お引き回しのほどお願い申し上げます

そういいながら容保様側から献上物の目録が差し出されると、忠煕さんはにんまりお公家スマイル。
献上物に喜ぶ公家の事情は、次の場面で悌次郎さんが解説して下さってます。
いま都で力を持っているのは薩摩、長州、土佐なわけで、それぞれにバックとして公家がついてるわけですが、その関係を結びつけるのがお金です。
悌次郎さんもはっきりとそう断言されてましたね。
以前の記事でも既に触れた通り、この頃の公家の暮らしは貧しかったのです。
先頃家茂さんに嫁いだ和宮さんだって、皇女の身分でありながら都におられる頃は衣装が新品ではなく必ず仕立て直しのものだった程。
皇女でそれですから、他がどんなものなのか、少なくとも『源氏物語』のような世界からは遠く離れているのは察して頂けるかと。

そこで自分の金元が損せぬように、競い合って策略を巡らすわけだ

大名と公家との間に、完全な需要と供給の関係が生まれているのですね。
対して会津には、そういった公家が今のところいません。
そんな会津のお殿様に、忠煕さんは言います。

長州派の公家は、それは酷いもんや。まことに畏れ多いことやが、主上のお名前騙ろうて勅書まで出しよる

帝の名前を騙って勅書というのは、つまりは偽勅のことです。
そういったことをする公家の筆頭が、国事御用掛のひとり、三条実美さんのようです。
忠煕さん曰く「お腹のお黒々なお方」。
飽く迄私の勝手なイメージですが、お公家さんは皆一様にお腹に何か黒いものを隠している気が・・・(笑)

年が明けまして、文久3年(1868年)正月。
雪降る会津では、山本家に集って皆様でカルタ取りに熱中。
新しい顔ぶれとしましては、今回初登場の日向ユキさん。
嘉永4年(1851年)のお生まれですので、このとき17歳、数えで18歳。
御旗奉行、日向佐衛門さんの次女で、家は禄高400石。
お母さん(ちかさん)の実姉が西郷さんに嫁いだ千重子さんなので、ユキさんにとって西郷さんは義理の伯父に当たります。
後に薩摩の方と結婚するのですが、敵味方の怨讐を超えた結婚第1号がそれになります。
家が八重さんの家とは垣根を隔てた距離の近さということから、言ってしまえば時尾さんと同じく、ユキさんも八重さんの幼馴染ということですね。
ちなみに八重さんはこのとき17歳、数えで19歳。
皆様夢中で何をやっているのかと思いきや、「下の句カルタ」ですね。
普通、カルタ(ここで言うカルタは小倉百人一首のことです)は上の句を読んで、取札には下の句が書かれていますよね。
「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ」と読まれたら、「わかころもては露にぬれつつ」の札を取るのが私たちも良く知るカルタのルールだと思うのですが、下の句カルタはこれとは全く逆です。
つまり、読み上げられるのが下の句で、取札に書かれているのが上の句です。
たとえば「わびぬれば いまはたおなじ なにはなる 身をつくしても あはむとぞ思ふ」という歌、ドラマでは「身をつくしても~」と下の句から読まれてます。
下の句カルタは、今は北海道で遊ばれていますが、発祥そのものは会津でして、それが後に北海道へ会津藩士の手によって持ち込まれ現在に至るというわけです。

視点は再び容保様サイドへ。
容保様が御所へ参内しているということは、これは1月2日(1863年2月19日)のことですね。
帝が登場するとき、「おしー、おしー」と言う声がしてましたが、あれは警蹕と言いまして、要は「帝が来ましたよ」という合図のようなものです。
他にも「しし」「おお」などがあります。
平伏する容保様と応対するのは、帝ではなく、議奏と呼ばれる人です。
容保様がこの時献上したのは、天皇と親王にら会津名産の蝋燭一箱、太刀一振り、黄金馬代十枚ずつ。
天皇家の女性と公家には、紅白の縮緬十巻を身分に応じて贈答しました。
そんな容保様を御簾の中から見ていた孝明天皇が、笏でトントンと合図を送ります。
そして「主上からの格別のお志」として、広蓋に緋色の衣が乗せられて容保様に下賜されます。
そのまま御簾が静かに上がり、現れた孝明天皇の御尊顔に容保様も感極まって言葉も出ないご様子。
一拍ほど視線を交えるふたりですが、帝にとっても容保様にとっても、このお二方は互いが互いに今後がかけがえのない存在になっていきます。

我が衣じゃ。直して陣羽織にでもせよ

史実では衣だけでなく、天盃も与えられています。
武家の人間に御衣が下賜されたのは異例のことで、徳川幕府開闢よりこっち、初めてのことでした。
だから公家はあんなにざわめき、容保様もどうしてよいのか分からないと言った風に固まっていたのでしょう。
容保様の受けた名誉に、会津藩士一同は喜びに沸き上がります。
公用方付御庭番の大庭恭平さんなどは、皆にそのことを触れ回る始末。
吉報を聞いた藩士たちは歓声を上げますが、それを聞きながら容保様は修理さんへ尋ねます。

なにゆえであろうの。初めて参内したわしに、主上は御衣ばかりかお言葉まで下された

修理さんは、誠を尽くす容保様の想いが帝にも伝わったのでは、と言います。
確かにそれもありましょうが、少し補足させて頂くとすれば、前年の勅使東下の際(久光さんが都に行って出させたあの勅使です)、幕府の勅使待遇の礼を改めることに尽力した功に報いてというのもあったと思います。
あまり知られていないことらしいのですが、実はこの翌日、長州藩世子の毛利定広が参内した折、帝は同様に天盃と、白地の御衣を与えてます。
空前絶後のことが、この幕末の二日間で連続して行われていたのです。
このことを知らずにいると、この時点では「会津だけが特別だったわけじゃない(特別になるのは今しばらく時が経ってから)」というのが分かるのですが、やはり飛ばされてしまいましたか・・・。

さてさて、尊王を唱えるものが偽勅を出しているという現状を知り、都を血で穢すのは畏れ多いことなので何とか穏やかに治める道を探る容保様。
この年の1月1日(1863年2月18日)には将軍後見職の慶喜が入京しており、2月4日(1863年3月22日)に政事総裁職の春嶽さんが海路から大坂に入り、入京しました。
そのお二方に、容保様は「言路洞開」の案を提示します。

下の者の意見を聞く、ということか。それが何故、不逞の浪士を取り締まる策となるのだ
浪士達の話をよく聞いてやり、その上で公武一和こそ勤王の道であることを、誠を尽くして説き聞かせまする
いや、手ぬるい!公方様ご上洛までに、不逞の輩を一掃せねばならぬのだぞ
無闇に捕縛などしては、却って騒乱を招きまする。我らが率先して融和を図るべきかと存じますが

既に会津本陣ではその試みを行い、容保様もまた浪士達の話を聞いているということに春嶽さんは「それはご立派な」と、どう考えても皮肉な称賛・・・。
慶喜さんは慶喜さんで、その路線で行くのならどうぞご勝手にと言わんばかりの態度・・・。
容保様の言路洞開案に、賛同していないのは何もこのおふたりに限ったことではありません。
会津本陣内でも、「言路洞開だけで事が済むとは思えませぬ」という意見があります。

誠を尽くして動かぬものはない。百の策略より、ひとつの誠が人を動かすごどもありやす。浪士や攘夷派諸藩の中にも、人物はきっといる。情理を尽くして説けば、事態も変わるのでは?

赤誠を推して至公を存するのみ、ですね。
でも覚馬さんの言葉はご尤もに聞こえますが、誰も頷き返しません。
正直者、誠実者が馬鹿を見る・・・ということになるのでしょうか・・・なるのでしょうね、やっぱり・・・。

少し間を挟んで、再び会津サイド。
春英さんがユキさん達に種痘を施してくれてます。
種痘というのは、平たく言えば疱瘡の予防接種です。
ここで注目したいのは、佐久さんが種痘の接種推薦に回っていることです。
これは史実でして、また前回亡くなられた敏姫さんにも「種痘を」という声があったという細かな事実までさり気無く触れられていましたので、相変わらずの脚本の緻密さに感心します。
何気ない集団予防接種のシーンに見えますが、この頃種痘は一般的ではなくて、明治期の『相川県史』第十一条にはこんな記述がみられます。
附けて、種痘については兼ねてから言い聞かせ、医者を出向かせ勧誘させたといっても、頑固な人はひとり疑って躊躇い、競って種苗を必要としない。これは甚だしい事だと言える。天然痘はことごとく生死の際に関係する事であり、これが為に夭折する者も少なくはない。幸い死を免れたとしても、難痘になって盲となり、或いは生まれつきの顔立ちが悪くなる。父兄が気に留めずに放って置く事がないように、医者は出向く時に互いに勧誘し、幼児がいる人は遺漏なく種痘をするように(相川町史編纂委員会、1975、『佐渡相川の歴史 資料集6』、新潟県佐渡郡相川町)

種痘を受ければ牛になると考えられていたので(牛痘法の影響)、普及が進まなかったのもありますが、こういった歴史的背景事情を踏まえてこの場面をみますと、このシーンが如何に開明的かつ先進的かが良く分かります。
ちなみに春英さんがしているのは牛痘法ではなく人痘です。
物凄く雑談ですが、種痘の予防接種を試みたのは松本良順さんのお父さん、佐藤泰然さんで、江戸で最初に種痘を受けた女性は後に良順さんの奥さんになっています。
本格的に普及するのは明治の終わり頃まで待たなければなりません。

重要なことなのに飛ばされていたので、またまた補足させて頂きますと・・・。
文久3年2月11日(1863年3月29日)、攘夷期限決定を迫る勅使に対し、慶喜さん、容保様、容堂さんらは、「将軍滞京は10日限りで攘夷は将軍帰府後20日以内の見込」と上答しました。
春嶽さんだけが、攘夷期限設定に反対の意を示したようですが、どうやら残り3人に押し切られる形になったようです。
この内容は、家茂さん上洛の時にまた絡んできますので、一応ここでも時系列としてここでこんなことがあったんだよ、という程度にで触れておきます。

文久3年2月22日(1863年4月9日)の夜、等持院にあった足利三代将軍の木像の首が、三条大橋に梟首されます。
翌23日、夜が明けるとこの一大事は日の本にさらされることになり、野次馬がこれを取り囲みます。
覚馬さんと悌次郎さんも騒ぎを聞きつけてやってきます。

捨て札を見ろ。足利将軍は朝廷を軽んじた逆臣とある
将軍が逆賊・・・では、これは徳川への当で付けが・・・?

後々で会津とも深く関わって来ることになるので触れておきますと・・・。
かの有名な新選組の、前身ともいえる「浪士組」がこの23日、三条大橋を渡って入京して来ています。
後の新選組として名を馳せることになるあの方この方も、この異様とも取れる光景を目にしていたのでしょうね。
逆に浪士組は234名いたので、それを攘夷派が警戒してのことかもしれません。
事件の次第を、容保様は密偵として攘夷派に紛れ込ませていた大庭恭平さんに問います。

尊氏公は朝廷から官位を賜ったお方。その首を辱めるは、朝廷を貶めるも同じことだ。尊王を唱える浪士達が、何のために左様な真似をするのか

言葉を返すよりも前に、恭平さんは脇差を抜いて腹を斬ろうとします。
空かさず修理さんと土佐さんが取り押さえますが、恭平さんはそこで、晒し台に首を並べたのは自分であると告白します。
密偵である恭平さんが交わっていた浪士達が梟首の犯人であり、彼も計画から実行まで参画していたのです。

足利将軍の首は、即ち公方様のお首!攘夷をやらぬ将軍は逆臣ゆえ、いずれ首を討づどの脅しにごぜいまする

つまりあの梟首の意味は、足利幕府をかりて徳川幕府を非難し、尊氏さんの首級を現将軍家茂さんに擬したものだったのですね。
腹を斬らせてくれと懇願する恭平さん。
彼はこの後、信州上田藩に流罪となります。
そんな恭平さんや、その恭平さんを浮かした熱、背後にあるもの、それらすべてを差して「狂っている」と容保様は言います。

尊王攘夷とはなんだ?それではまるで、幕府を倒す口実ではないか
殿、仰せの通りやもしれませぬ。尊王攘夷は、最早表看板にすぎず。真の狙いは、幕府を倒すごどにあんのでは
倒幕・・・。なれば、言路洞開など何の役にも立たぬ・・・。幕府打倒を狙う輩に、融和策など通じぬわ

出来れば都を地で穢したくないという優しさから出た、容保様の融和策。
それが結果的に攘夷急進派の浪士に隙を与えるような結果になってしまったのですね。
一生懸命話を聞こうとして、耳を傾けて、話し合えるのならそうして・・・でもそれが「甘い」のだということを、目に見える形で突き付けられて容保様が納得させられたのが、この梟首事件だったように感じます。
激怒した容保様は、所司代と町奉行所に賊を捕らえるように命じます。
このとき、春嶽さんや慶喜さんが慎重論を唱えたらしいのですが、それを振り切っての捕縛と処断に踏み切ったのです。
この事件を契機に、会津藩と尊王攘夷の急進派浪士は、急速に対立を深めていくことになります。
その過程の中で、先程名前を触れさせて頂いた新選組が出てくるわけですが、それは次週の登場の時にでもまた。

しかし、会津と攘夷浪士とではやって、やられて、またやり返されて・・・というのが続くと思います。
容保様が厳しい取り締まりを決意したと、大蔵さんから聞いた尚之助さんは、やはり、と溜息を吐きながら、それが会津の仇にならなければ良いと言います。

仇って?何のごどです?
強い力を持つ者は、初めは称えられ、次に恐れられ、末は憎しみの的となる。・・・覚馬さんも、それを恐れていました
憎まれる?幕府のお指図で朝廷さお守りしていんのに。遥々都まで行って、働いでおられんのに。そったごど、あるはずがねえ。会津が憎まれる何て・・・

確かにこれで憎まれたら、何処までも救いようのない貧乏籤ですよね、京都守護職って。
・・・と、言いたいのですが、後の展開ではこの尚之助さんの懸念こそが現実となります。
神様というのは、時々凄く残酷なことを平気でなさるのですね。


ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年2月15日金曜日

第6回「会津の決意」

前回に引き続き、桜田門外の変より起こった水戸討伐評議の場から始まりました第6回。
水戸を討ってはならぬと、ただひとりこの場にて水戸征伐を反対した容保様に、なにゆえかと理由を求めるのは徳川十四代将軍、徳川家茂さん。
弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)のお生まれなので、このとき14歳、数えで15歳です。
容保様は、直弼さんを殺めたのは水戸藩を脱藩した浪士達なので、脱藩している以上彼らと水戸に既に繋がりはなく、故に水戸藩を罪に咎めるのは筋が通らない旨を言上します。
更に、今は国内で争っている場合ではないと。
国許で覚馬さんが建白書で提出していたことを、云われるまでもなく容保様もきちんと理解しておられたのですね。
ドラマでは触れられてませんでしたが、容保様はこの後更に、藩士の秋月悌次郎さんに水戸藩の実情を探らせたりもして、幕府と水戸藩の調停に努めています。
これらのことから結果的に水戸藩処断は沙汰止みとなり、これらの働きが家茂さんから高く評価されて同年12月には容保様は左近衛権中将に任ぜられます。
また、幕府内での容保様の発言力も高まったようです。
容保様このとき25歳、数えで26歳。

しかし水戸サイドは水戸を代表するかのように慶喜さんが出てきておりますが、このとき在府だったであろう水戸藩主の慶篤さんの反応も知りたいところです。
これじゃあまるで、慶喜さんが水戸藩主みたいです(慶喜さんはとっくに一橋家に養子入りしてます)。
そしてもうひとり、こちらは慶喜さんと同じく謹慎に処せられていた春嶽さん。

一大名の進言で台慮が覆るとは、幕府の屋台骨も緩んだものよ

このお二人が、容保様のことを政治的な意味で認識し直したのと、緩んだ幕府の屋台骨が、今後会津を僻地へと追いやっていくことになります・・・。
何だか、そろそろ会津の行く先を思って心が痛む展開が増えてきました。

安政7年3月18日(1860年4月8日)、災異のために元号が「安政」から「万延」に改元されます。
その万延も、万延2年2月19日(1861年3月29日)に 「文久」へと改元されます。
いくらなんでも改元が慌ただしすぎるでしょうと思うのですが・・・。
ということで、この勇ましいおなごの薙刀稽古の場面は文久元年(1861)の夏。
今までおなごのたしなみと言えば裁縫裁縫裁縫でしたので、何だか新鮮です。
八重さんの薙刀捌きのお見事なこと。
普通のおなごよりも膂力があるので(何たって米俵持ち上げますから)、一撃一撃が重いのでしょうね。
第3回でも出てきた兼規さんがおられたということは、あの場所は黒河内道場なのでしょう。
八重さん16歳、数えで17歳。
対する二葉さんは17歳、数えで18歳。
年頃の女の子が集まれば、自然と華やぎますね。
そして今回初登場のお雪さんこと井上雪子さんは、会津藩士井上丘隅さんの三女です。
井上家は家禄600石で、丘隅さんの御役職は大組物頭。
どうやら時尾さんによると、二葉さんとこのお雪さん、それぞれ縁談がまとまったようです。
当時としては、そういう嫁入り話が出てきても何ら不思議ではないお年頃ですもんね。
二葉さんは、後の会津主席家老となる梶原平馬さんに嫁ぎます。
平馬さんは会津三家のひとつ、内藤家の生まれですが、次男だったので家督は継げず、梶原家に養子入りしました。
この梶原家も名門でして、遠祖はあの梶原景時さんです。
対してお雪さんが嫁ぐのは神保修理さん。
神保家も家中の名門で、修理さんは神保内蔵助利孝さんの長子の長男に当たります。
ふたりとも将来の会津を担う、優秀な若者です。
・・・ただ、先々の展開を知っていると、ちょっと切なくなってしまう部分もありますが(特に修理さん&お雪さん夫婦)。
さて、次は嬢様の番では?とお吉さん。
全く考えたことがないと肩を竦める八重さんに、今に振るほど縁談が来るとお吉さんは言いますが、やっぱり気のなさそうな様子の八重さん。
でも佐久さんから「高木様のおばんつぁまがら、良いお話があったげんじょ」と言われて動じる辺り、やっぱり八重さんも年頃のお嬢さんですね。
しかしながら、八重さんのところへ来たのは縁談話ではなくお針の稽古のお手伝いの依頼。
ついこの間までは、縫い上げた足袋の左右の大きさが違うなどして、裁縫の腕前がイマイチだった八重さんですが、どうやら数年の内に袷を一晩で縫い上げてしまうほどにまで上達したようです。
その腕を見込んで、お針教室の弟子を一緒に見て欲しいとの依頼でしたが、その時間を八重さんは鉄砲の稽古の時間に充てたいからと、お断りして退座。
肩を落とす佐久さんに、うらさんが「嫌なものをやらせねぇでも。八重さんもじき嫁に行ぐんだし」ととりなすように言います。
本当、この義理姉妹の距離縮まりましたよね。

縁談はまだひとつも来ねぇ。鉄砲撃づ娘を嫁に欲しがる家があんべか?

佐久さんは長い溜息を吐きます。
ドラマの世界だけでものを言わせて頂くと、大蔵さんは八重さんに淡い恋心を抱いてる感じですので、打診すれば貰ってくれるんじゃないかな(笑)。
お母さんにそんな濃い溜息を吐かれているなど露も知らない当の八重さんは、いつものように角場で鉄砲の手入れ。

お針より、もっと鉄砲のごどがやりでぇのにな。おなごでも砲術師範になれる国、どっかにねぇもんんだべか・・・

溜息は溜息でも、佐久さんの溜息とは方向性が全く違っていますね(笑)。
17歳の年頃になっても、相変わらずな八重さんです。

一方、山川家。
第5回より家長となった15歳数え16歳の大蔵さん、帰宅早々自分の母親と平馬さんが薙刀の稽古をしているのに目を丸くします。
二葉さんは平馬さんの許嫁ですので、云わばこのふたりはゆくゆく義兄弟となる間柄。
そんな御仁が、帰宅してみれば自分の母親と薙刀の刃突き合わせてたら流石の大蔵さんも草履持ったまま血相を変えますよね。
二葉さんは照れていたのかなんなのか、なかなか平馬さんの前に現れず・・・でも飾り櫛を艶さんに直してもらった時に少しだけ表情が綻んだので、緊張と「許嫁にどう接して良いのか分からない」的なものがあったんだろうなぁ、と。
さて、この山川家。
大蔵さん、二葉さんに続いて本日ご紹介に上がったのは、弟の健次郎さん。
「青びょうたんなどと呼ばれでおってな」や「学問が良ぐできる」などと言われてますが、青びょうたんは兎に角、後々の経歴を見れば武よりは文な気もしますが、ちゃんと文武揃った人物になりますよ。
嘉永7年閏7月17日(1854年9月9日)のお生まれなので、このとき6歳、数えで7歳。
大蔵さん、健次郎さん、二葉さんに操さん、そして今はまだ赤子のさきさん(後の鹿鳴館の花こと大山捨松さん)ら山川兄弟は、それぞれ物凄く逞しい生き方をしていきますので、大河ドラマではそちらにも注目したいところです。
(常盤さんは、徳力徳治さんを婿養子に取りまして、常盤さんよりはむしろ旦那様の方が活躍されます)
うらさんとは違った意味で、「武家の妻のお手本」オーラが出てるお堅い二葉さんに、平馬さんは朗らかに言います。

二葉どの、これがら仲良ぐやっていぎやしょう

平馬さんが嫌いなわけでは決してないのですが、後の展開を知っている身からすれば何とも空々しく聞こえてしまうこの一言・・・。
いえ、この話は今後の物語の展開に譲ることにしましょう。

山本家角場での銃の改良はまだまだ続いている様子。
照門の位置が良くない、と前から仰ってますが、そもそも照門ってどの部分なのだろうかと調べてみたのですが、分かったような分からないようなで・・・。
取り敢えず銃の手前部分にあって、標準を合わせるのに使う部分だと理解してます(違ったらごめんなさい)。
そこへ訪ねてきたのが、未来の会津を担う人材である平馬さん&大蔵さん。
平馬さんは天保13年10月10日(1842年11月12日)のお生まれですので、このとき18歳、数えで19歳ですね。
八重さん、平馬さんに「鉄砲担いだ巴御前」と笑われてしまいます。
(いつも思うのですが、「八重の桜」って悉く「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」を平気で破ってますよね。ドラマなので仕方がないことだとは思いますが)
台の上に置いてあった鉄砲を何気なく手に取ろうとした平馬さんに、八重さんは「勝手に触らねぇでくなんしょ!」と怒鳴ります。
このとき平馬さんの顔が強張ったのは、言ってしまえば男尊女卑的なものもあったのでしょうね。
でも八重さんは別に怒鳴りたくて怒鳴ったわけじゃなくて、角場にある道具は危ないから、という理由で、平馬さんの軽率さを諌めたのです。
やがて覚馬さんが帰宅して、このことを話すと、「梶原殿は御用人だぞ」と覚馬さん。
平馬さんの紐の色は黒でしたので、身分は第二級。
第四級の覚馬さんよりも目上の方なので、八重さんの振る舞いは、言ってしまえば無礼に当たるわけです。
しかし八重さんは「御用人でも殿様でも、危ねぇもんは危ねぇ」と言います。
筋は八重さんの方が通ってますよね。
この八重さんの発言等は、差し詰め会津籠城戦の容保様の前で敵の砲弾を分解して説明したという、あのエピソードと後々絡めてくるのでしょうかね。
平馬さんと大蔵さんが訪ねてきたのは、新式の銃に入れ替えたときの出費についてどれくらいになりそうかということ。
幕府や幕政や・・・という単語が出てくる会話に興味津々な八重さんを、覚馬さんはあっちに行ってろ、と追いやり、尚之助さんには同席を許します。
流石の覚馬さんと雖も、おなごが政に口突っ込むな、という概念があったからなのでしょうが、しょんぼりした八重さんが何とも寂しそうで。
そして尚之助さんが、平馬さん達との話の内容よりも、そんな八重さんの方に視線をやってたのが印象的でした。
佐久さん、ここにいますよ!八重さん貰ってくれそうな人!!
・・・と、話を真面目路線に戻しまして。
平馬さんは、この度容保様が幕政に加わるように加盟されたのだと話します。
徳川幕府開闢以来、いわゆる会津藩ら「親藩大名」は幕政に参加することは出来ませんでした。
では何故いま会津がそれを許されたのかと言えば、要は鎖国が終わりを迎えたこの状況下で、今までの政治体制では完全にスペック不足になったからです。
幕末の四賢侯(斉彬さんは既に故人ですが)などと呼ばれる方が幕政に参与出来るようになったのも、こういった背景事情からでしょう。
しかし安政の大獄、桜田門外の変、朝廷への攘夷実行の約束・・・という今は、平馬さんが言うように正しく「何が起ぎるがわがんねぇどき」でもあります。
なので、これを機に鉄砲組改革のことを推し進めてはどうかと平馬さんは覚馬さんに言いに来たようです。
ですが、上に願い出てはいるものをなかなかすんなりと通るものでもないようです。
そして覚馬さんの目指し続けている兵制改革は、時代の横槍で遅れることになるのです・・・。

季節は流れて、秋。
あの狆と戯れていた敏姫さんが、疱瘡を患って亡くなります。
元々敏姫さんは病弱でして、風邪を拗らせたとも伝わってます。
「だから種痘をせよとあれほど私が言ったのに」とぼやく大蔵さんのおじいさんの声が聞こえてきそうです。
以前の記事でも触れましたが、照姫様は「明くれなつかしく、むつまじくうちかたらひたる君のはかなくならせ給へるに、ただ夢とのみ思はれていと哀しさのままに」という詞書と共に、敏姫さんへの哀悼の歌を、次の様に詠んでいます。

千とせとも 祈れる人の はかなくも さらぬ別れに なるぞ哀しき

敏姫さん亡き後、会津松平家の奥向きは照姫様が担うことになります。

私が戻ってきたばかりに辛い思いをしておいでだったとは・・・。お気持ちに気付かず・・・私の科にござります

容保様の継室に照姫様をと望まれる声もあったそうですが、これについては完全にこの一言で釘を刺してますね。
敏姫の気持ちを踏みにじってまでも、容保様とそうなるつもりはないと。
史実は如何か分かりませんが、少なくともこのドラマではそういう形で照姫様、容保様、敏姫さんの関係に取り敢えずの線を引き終えて幕を引いたのだなという印象を受けました。

文久2年4月16日(1862年5月14日)、斉彬さんの異母弟、島津久光さんが千人の軍勢と大砲を率いて上洛します。
久光さんは文化14年10月24日(1817年12月2日)のお生まれですので、このとき45歳、数えで46歳。
斉彬さん亡き後、斉彬さんの養嗣子として島津家を継いだのは久光さんの嫡男、忠義さんなのですが、その後見人として実父の久光さんが置かれていました。
忠義さんは若年ということもあって藩政に主体性がなく、実質はこの久光さんが幕末の島津の殿様状態になってます。
しかし軍勢と大砲を率いて帝のいる京へ入るとは、なかなか穏やかなことではありません。
久光さんには、京で幕政改革の勅諚を得た後、江戸に上るという計画がありました。
ドラマでは触れられませんでしたが、これに対して「無謀のことと思いますので中止されたが宜しかろう」として、西郷さんが久光さんを「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ」だから公武周旋は無理と言った話は有名ですよね。
(地ゴロ=田舎者)
この一件で、西郷さんは久光さんの不興を買います。
以後、何となくずっとこの二人ってしっくりこないんですけど、その原因の始まりは絶対にここにあると思ってます(笑)。
そんな薩摩が蠢く京に、たまたま居合わせたのが冒頭で名前だけ触れました秋月悌次郎さん。
文政7年7月2日(1824年7月27日)のお生まれですので、このとき38歳、数えで39歳。
禄高150の中士で、外様として追鳥狩の目付け役を務める丸山四郎右衛門胤道さんの次男として生まれました。
丸山家は会津藩の中でも高遠以来の家筋です。
高遠以来というのは会津ならではの称し方で、高遠保科家に仕えて保科正之さんと一緒に山形→会津に引き移った最古参の家臣は誇りを込めてそう自称しました。
悌次郎さんは日新館の素読所で飛び級を続け、講釈所の全課程を天保13年19歳の時に修了しています。
これは普通の人より2年早い繰上げ卒業になります。
抜群に成績優秀だった悌次郎さんには、江戸遊学が認められます。
そこで、これを機に分家してはどうかと父親から切り出され、「秋月」の家を興します。
「秋月」の姓を考えたのは悌次郎さん自身だったようです。
江戸へ出た悌次郎さんは昌平坂学問所へ留学します。
といっても満員状態だったため、4年待たされて弘化3年(1846)にようやく昌平坂へ入学。
やはりそこでも成績は抜群で、おまけに人物も出来ていたので昌平坂の学生らは悌次郎さんのことを「日本一の学生」と呼びました。
その悌次郎さん、安政6年(1859)には藩命により、諸国の視察を命じられます。
この昌平坂学問所に在籍していたことと、藩命による諸国歩きが、悌次郎さんの人脈パイプを培う土壌となります。
ずいぶんと枕が長くなりましたが、悌次郎さんが京にいるのは、そういう背景事情からです。
悌次郎さんは、大名が朝廷に近付くことなんて幕府始まって以来なかったことなのに・・・と、この現状に驚きます。
幕府は朝廷と大名が仲良くするのを警戒していまして、これは江戸時代を通じて都に屋敷を持っている大名が少なかったことからも伺えます。
このとき攘夷派が勢い付いていたのには、理由があります。
この年の2月11日(1862年3月11日)、孝明天皇の異母妹の和宮親子内親王と十四代将軍家茂さんの婚儀が行われています。
この婚儀は、公武合体(「朝廷=公」と「幕府=武」が手を取り合ってやって行きましょう的なもの)を目指したものですが、実は幕府は帝の妹を降嫁させるのに色々と骨を折ってましてね。
ざっくり端折って説明しますと、「和宮様を将軍のお嫁に下さい!それで公武合体、日本も落ち着きます!見返りとして我々は攘夷頑張りますから!」という感じでしょうか。
しかしいざ和宮様が降嫁しても、依然攘夷実行の気配はなく、これは一体どういうことなのか、約束が違うじゃないかと攘夷派の人々が苛立ちと不満を募らせるわけです。
そこに自藩の政治的発言を高めようとする薩摩藩が、遥か南国からしゃしゃり出てくるわけです。
有名な寺田屋事件(坂本龍馬さんが絡んでない方)はこのときに起きたものですね。

場所は変わって、長崎海軍伝習所でしょうか。
アメリカから帰国していた勝さんを訪ねてきたのは榎本武揚さん。
天保7年8月25日(1836年10月5日)のお生まれですので、このとき26歳、数えで27歳。
安政3年(1856年)からこの伝習所に入所してますので、同じ江戸出身ということも相俟って、勝さんとはそこそこ打ち解けているご様子。
榎本さんも仰ってますが、勝さんは帰国後の文久2年7月4日(1862年7月30日)、軍艦操練所頭取になってます。
そんなことより、と勝さんは、榎本さんの留学先が、メリケンからオランダに変わったことを指摘します。
理由は、メリケンで1861年から起こった南北戦争。
「八重の桜」の第1回冒頭でも言われてましたよね、「南北戦争で使われていた銃が、その後日本にやってきた」って。

他国の騒ぎと、呑気に構えてもいられねぇな。外様大名の薩摩が朝廷使って幕政動かすなんざぁ、前代未聞よ。幕府の威信も落ちた

今の幕政のままじゃ、到底国として成り立っていかないことが勝さんにはとっくに分かってるのですよね。
しかし憂える勝さんに、榎本さんは幕府も変わろうとしてるので、何とかなるのではないかというようなことを言います。
と言いますのも、先程触れた、上洛した久光さん。
実はその後、久光さんが朝廷に働きかけたことによって、朝廷から幕政改革を要求するために勅使が江戸へ派遣されます。
その勅使随従という形で江戸入りした久光さんは、幕閣との交渉の結果、謹慎にあった慶喜さんを将軍後見職、同じく謹慎にあった春嶽さんを政事総裁職へ就任させています。
日本史の教科書ですと、これらを「文久の改革」として習うと思います。
その後で久光さんが江戸から京へ戻る途上、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)で起こったのが生麦事件です。
しかし勝さん、これら久光さんが作り出した流れに、ぽんと皮肉を投じます。

サテ、あのお二方、どれほどの器かね。周旋した久光公は、オレの見立てじゃただの田舎モンよ。薩摩が江戸に下った隙に、都じゃ長州や土佐が金使って公家達を抱き込んじまった。これからの政は京で決まるぜ

久光さん田舎者呼ばわりは、西郷さんに代わって勝さんがしてますね。
「これからの政は京で決まる」は、まさしくその通りです。
またまた範囲が広がって、ブログが追い付くのかどうか、そっちも少し心配です(笑)。

一方、こちらは江戸の一橋邸。
久光さんの周旋で将軍後見職となった慶喜さんと、政事総裁職となった春嶽さん。
これでふたりは再び政治の表舞台に立てるようになったわけですが、どうやらお二方ともこの就任を有難く思っていないご様子。

政事総裁職など名前ばかりで、然したる力も御座いません
それどころか朝廷と幕府の板挟みとなり、双方から憎まれる損な役目よ。さりとて何もせぬというわけにもいかぬ。・・・実に、迷惑千万

春嶽さんの就いた政事総裁職というのは、実質大老のようなものです。
親藩大名である越前松平家は大老になれないということで、それに同格の役職を設けたのでしょう。
将軍後見職に至っては、春嶽さんが嘆いてる政事総裁職以上に名ばかりの名誉職で、実権は無きに等しいものでした。
そんなお二人が話し合っているのは、「上様ご上洛」前の京の治安について。
上様こと家茂さんは、近々朝廷の攘夷実施の求めに応じて上洛するという、三代将軍家光以来となる一大イベントを控えていました。
けれども現在京には攘夷熱に浮かされた不逞浪士達が跋扈してます。
平たく言えば、治安が最悪なわけでして、そんな危険地帯に将軍を行かせるわけにもいかないので、幕府としてはまずはその問題を解決する必要に迫られるわけです。
そこで京都守護職という、都の治安維持と二条城・御所近辺の警護のための役職を新設します。
朝廷はその京都守護職を、是非とも薩摩藩にと言っているそうです。
先程朝廷の意に沿った行動をしたのが、良いポイント稼ぎになったようですね。
しかしあまり薩摩に京でポイントを稼がれては(=力を持たれては)困ると慶喜さんは言います。
とうわけで、薩摩は選択肢から外れます。
次に白羽の矢が立ったのは、「血筋、家格共に申し分なく、兵力とご公議への忠誠心を併せ持つもの」・・・つまりは容保様です。
しかし京都守護職が百害あって一利なしの貧乏籤になることが目に見えている慶喜さんは、会津がこれを受けるかどうか訝しみます。
それを「受けて頂かねばなりますまい」と春嶽さん。
水面下で何かがゆっくりと会津に忍び寄っています。

ひとり目の子供は残念でしたが、覚馬さんとの間にふたり目を授かったうらさん。
この女の子の名前はみねで、この年の夏に生まれました。
そんな山本家では、八重さんが弟の三郎さん相手に薙刀の稽古に励みます。
妙に熱が入ってるかと思いきや、二葉さんとの薙刀の紅白戦を控えているようです。
もう三郎さんでは全く相手にならない八重さんは、丁度覚馬さんの姿を見かけて、手合わせを願い出ますが「今それどごろでねえ!」と厳しく跳ね除けられてしまいます。
覚馬さんはそのまま足早に何処かに出かけて行きます。
夫のただならぬ様子に、八重さんだけでなくうらさんまで何かあったのかと心配顔。
そんな八重さんの耳に、家の中からの権八さんと佐久さんの会話が聞こえてきます。
そこで八重さんは、「京都守護職」という単語を拾います。
部屋を出てきた二人に立ち聞きが見つかって、咎められる八重さんですが、聞き慣れない単語に京都守護職とは何か、権八さんに問います。

では、おめでてぇごどですね。都さお守りすんのは、武門の誉れにごぜいやす。きっと会津の名も上がって・・・

京都守護職が都をお守りする役目だと教えてもらった八重さんは、そんな反応を見せます。
まあ、政治も何も詳しく分かっていない人の普通の反応でしょう。
八重さんはきっと都がどれくらい離れているのかとかも、ちゃんと想像出来ていないでしょうし。
そんな八重さんに、権八さんは「浅はかなごどさ言うな!お国の大事に、おなごが口出すものでねえ」と厳しい声を浴びせます。
先程の角場でのシーンと言い、何となく今回の八重さんは「おなごだから」という理由で物事の中心から遠ざけられてますよね。
その男女差別的な壁を持ち出される度にしゅんとする八重さんが、何とも言えないです。

血相を変えて家を飛び出した覚馬さんが向かったのは鶴ヶ城。
・・・の、西郷さんのところ。
基本、何かあれば覚馬さんはすぐに、まずは西郷さんですね。
ちなみにこの西郷さん、前までは身分が御番頭でしたが、万延元年(1860年)に家老になってます。
西郷さんのところには、先客として官兵衛さんがいました。
官兵衛さんは、自分も容保様と共に都に上りたい、と懇願しているところでした。
ところが実はこの官兵衛さん、第1回以降姿が見えないと思いきや、実は謹慎中の身だったのですね。
と言いますのも、安政4年(1857)江戸詰の折に、火消しと刃傷沙汰を起こしてしまいまして、それで国許で謹慎を命じられていたのです。
謹慎中は、許しがない限り登城は出来ません。
西郷さんはそれを理由に官兵衛さんには取り合わず、官兵衛さんも食い下がりましたが、覚馬さんの姿を認めると、出直してくると退出していきました。
官兵衛さんと西郷さんのやり取りを見ていた覚馬さんは、まさか京都守護職を既に拝命したのではと、顔を青くします。
ですが、実際の返事はまだのようで、容保様も国許に諮った上で返事をするのだろうと西郷さん。

ご家老、そのお役目、お断りすることは出来ぬものでしょうか。二百里も離れだ都に出兵しては、人も金もかがり、肝心の兵制改革が遅れやす

断るべき役目なこと、受け入れたとしても到底割に合わぬ役目なことは、覚馬さんに言われずとも西郷さんも重々承知。
何せお役目を引き受けたら、「会津は死ぬ」とまで仰ってますからね。
また覚馬さんが出過ぎたことをして禁足などにならないように、控えておれときっちり釘を刺して、西郷さんはこの後早馬で土佐さんと共に江戸へ向かいます。

同じ頃、江戸の会津上屋敷と思しき場所で、容保様は春嶽さんを迎えていました。
春嶽さんの用件は勿論、京都守護職の件を引き受けて頂けないかというもの。
史実ですと、春嶽さんは病弱で寝込んでる容保様を無理に起こして来てでも頼みに来たこともあったようです。
ともあれ、容保様は京都守護職を固辞します。
説明がかなりドラマでは端折られてますが、京には京都所司代と京都奉行所という役職が既に置かれていました。
この京都所司代として、都に行ってくれないかと言うのが最初に会津に来たオファーだったのですが、会津はこれを断ります。
何故なら京都所司代は徳川家臣下の家が就く役職で、親藩である会津は決して臣下ではないと拒絶したからです。
しかし幕府は余程会津に京へ行って貰いたかったのでしょうね。
それならばと、新たに京都所司代・京都奉行所よりも格上の「京都守護職」というポストを新設します。
この流れから見ても分かるように、もう会津を都へ行かせるためだけに作られたような役職なんですよね、京都守護職って。

公方様には会津殿へのご信任篤く、この役目を果たせるものは他にないとの思し召しにござりまするぞ
会津は奥州の田舎にて、都とは風俗、気質、あまりに異なります故、そのような大役とても勤まりませぬ
しかし都が荒れていては公方様のご上洛もままならず、幕府と朝廷が結ぶ公武一和も調いませぬ

それでも固辞し続ける容保様を、ちょっと別室へ誘って、ふたりきりになったところで春嶽さんは囁くように言います。

のう肥後守殿。会津松平家には藩祖保科正之公が定められた、土津公御家訓なるものがあると聞き及びまする。御家訓には、徳川宗家に忠勤を尽くすべし、との一条があるとか・・・。御下命に従わぬは御家訓に背くこと・・・では御座りませぬか?」

ここで春嶽さんが引用したのは、家訓十五箇条第一条の「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」。
大君というのは正之公の異母弟にあたる三代将軍家光のことで、よって公議的な意味で徳川将軍家ということになります。
正之公は二代将軍秀忠に我が子として認知されず、それを兄弟と認知して立ててくれたのが家光さんです。
故に正之さんの家光さんへの恩は、海より深く山より高いのです。
その恩を、会津は生涯何があっても忘れるな、と正之公は遺しているわけです。
春嶽さん、上手いこと言ったなぁ、と思います。

数日後、江戸に到着した西郷さんと土佐さん。
早速容保様と面会し、守護職拝命の儀を断るように進言します。
まず財政的に見て、蝦夷地の敬語、房総の守備、品川砲台の守り・・・というお役目をこなしてきた会津の財政は既に大赤字です。
加えて百害あって一利なしのお役目。
ですが、容保様は静かに口を開いて言いました。

守護職の儀・・・お受けする

控えていた悌次郎さんが、そこで京の情況を、自分に目で見てきたままに話します。
しかし西郷さんは、だからこそ京都守護職を務めたら、会津にその火の粉が降りかかって政争の渦中に巻き込まれるのだと声を荒げます。

なれど、会津は強い。公武一和のため、都を守護し奉ることが出来るのは我が藩をおいてない
薪を背負って火を消しに行ぐも同然の、危ういお役目にごぜりまするぞ

そんな西郷さんを、江戸家老の横山常徳主税さんが、殿は何度も固く断ったのだと制します。
しかししかし、ならば断固として辞退するようにと西郷さんは更に詰め寄ります。

井伊掃部守様の悲運を、何と思し召される。 御公儀は尊王攘夷派の威勢に推され、彦根藩を10万石の減俸に処されだ。掃部守様は死に損でごぜいまする。いざどなれば御公儀は、蜥蜴の尾のように我らを切り捨てまする。 殿は会津に、彦根ど同じ道を辿らせるおづもりか
大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし。二心を懐かば、我が子孫にあらず。徳川御宗家と存亡を共にするのが会津の務め! 是非に及ばぬ! この上は、都を死に場所と心得、 お役目を全うするより他はない。 皆、覚悟を定め、わしに力を貸してくれ・・・

悲痛な声と共に、深々と頭を下げる容保様。
その場に連なる家臣の誰にもの眼にも涙が浮かびます。
そんな中でひとり、得心が行かないというのが西郷さん。

此度のごどは、会津の命運を左右する二股道。 畏れながら殿は、会津を滅ぼす道に踏み出されてしまわれた
頼母!・・・・・・・・・言うな

容保様の目から涙が零れ落ち、西郷さんも、家臣たちも、その場にいる誰もが声を上げて泣き崩れます。
この瞬間から、会津の終わりが始まりました。
こうして文久2年閏8月1日(1862年9月24日)、容保様は正式に京都守護職を拝命しました。

余談ながら、この西郷さんと容保様の関係に補足説明を加えさせて頂きますと、言葉を飾らずに言えば、西郷さんの方が保科の血筋に近くて、容保様は尾張からの養子。
つまり容保様は会津人ではないわけです。
藩主と家老という主従関係以前に、このふたりの背景にはそう言ったものが背負い込まれてるのですよ。
故に、容保様も西郷さんに会津のことを言われるのが一番耳が痛いのでしょうね。
でも、だからこそ容保様は誰よりも深く忠実に御家訓を守ることで、自分を会津人たらしめようとしていたんじゃないのかなとも思います。
脚本の山本むつみさんは、この「会津人ではない会津のお殿様」という辺りをちゃんと酌んで下さっているようで、だから第1回に容保様の「この身に、会津の血は流れておらぬ」の台詞があって、それでも諌めつつも支えて行きますよという西郷さんのやり取りがあったのでしょう。

八重さんは薙刀の紅白試合で、覚悟の気組みを変えた二葉さんに負け、覚馬さんは官兵衛さんに「わしの分まで働いてこい。都で命捨ててこい」と頭を下げられます。
うらさんは、容保様のお供を自分の夫が命じられるのは名誉だと分かっていても、子供も生まれたばかりなこともあって、複雑な気持ちになります。
上は容保様から、下は山本家の人間まで。
大小様々な波紋を生みながら、容保様の上洛はこの年の12月と決まります。

西郷さんの言葉を借りるなら、「会津の命運を左右する二股道」の決定打と結果的にはなってしまった「家訓十五箇条」。
ですが、個人的にはこの御家訓が会津を縛ってた、と考えるのは完全に現代に視点を置いたものの考え方だと思います。
変な言い方すれば、御家訓は200年近く会津人と共にあって、会津人を形成してきたわけですから。
御家訓は会津人のアイデンティティーとまでは言いませんが、それに近いものはやっぱりあったと思うのです。
・・・うまくは言えませんが。


ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年2月11日月曜日

留め置かれた大和魂

先週の八重の桜で、お白洲に散った松陰さん。
小栗さんの熱演もあって、その最期は私にとっては肌の粟立つ非常に印象深いシーンでした。
今日はその松陰さんが小伝馬町の牢獄にいる間のことを、いつのもように「ドラマでは描かれてませんでしたが~」という風に語りたいと思います。

松陰さんは萩の獄舎、野山獄から安政6年5月25日(1859年6月25日)早朝、江戸に向けて護送されます。

大きな地図で見る
(A地点が野山獄のあった付近)
2010年に放送されたドラマ「JIN-仁-(完結編)」をご覧になってた方は想像してもらいやすいと思うのですが、当時の牢獄というものは囚人による完全自治制が敷かれてました。
且つ、牢内で牢名主を頂点とした身分制度が存在しました。
要は牢獄は簡単に言えば猿山みたいなもので、ボス猿格が君臨統治してる小世界だったと考えて頂ければ宜しいと思います。
ボス猿を頂点に、幹部猿がいて、下っ端がいて・・・と。
そんな世界でものをいうのが、俗っぽい言い方をすれば袖の下です。
これがなくちゃ、牢で酷い仕打ちを受けます(それこそJINの南方先生が遭ってたような)。
大体は牢に入れられる前に、囚人自らがこっそり小判を持ち込んで、それをボス猿にせっせと献上するのですが、松陰さんもボス猿に貢いでいたのでしょうか?
とこの松陰さんの伝馬町牢屋敷収容ライフを調べた時に、ひとりの人物の名前と必ず出会います。
その人こそ、その時江戸にいた高杉晋作さん。
天保10年8月20日(1839年9月27日)のお生まれですので、松陰さん護送時は20歳、数えで21歳。
この高杉さんが伝馬町牢屋敷に足繁く通い、松陰さんに袖の下を健気に差し入れていました。
高杉さんは云わずと知れた松下村塾の生徒なので、何とも美しい師弟愛ですね。
しかしこの美しい師弟愛も、長くは続きませんでした。
・・・と書けば、何やら両者の間で何かあったような雰囲気になりますが、実際長続きしなかった原因は第三者の介入です。
このときの松陰さんは、まあ獄に入ってるので言うまでもなく罪人です。
対してこのときの高杉さんといえば、お父さんの小忠太さんは次期長州藩主の毛利定広さんの奥番頭。
要はこの小忠太さんが、自分の息子と罪人が美しかろうが師弟愛だろうが何だろうが、密な関係を持っていることを厭うたんですね。
まあ、息子が罪人と仲良くしていて気分の良い親というのはいないでしょうので、この小忠太さんの考えは間違ってないですね。
自分の立場というのもありますし。
そういうわけで、小忠太さんは江戸にいる高杉さんを萩に呼び戻します。
松陰さんと引き離そうとしたわけです。
そんな父親の画策があるとも知らず、高杉さんは萩へと帰ります。
・・・が、その道中に実は松陰さんの斬刑は実行されていて、萩で高杉さんを待っていたのは松陰さんの訃報でした。
この衝撃、いかばかりであったか想像もつきません。
もし自分が萩に戻らずに、あのまま江戸にいて付き添っていたら別の結果があったのかもしれない、何てことをひょっとすると思ったかも知れませんね。
「身はたとひ武蔵の野辺にくちぬとも留め置かまし大和魂」が松陰さんの辞世ですが、大和魂はきちんと弟子の高杉さんへと受け継がれ、彼が車輪の一部となって長州という藩を動かしていくことになります。
「八重の桜」ではまだキャスティングも明かされていない高杉さんですが、あの小栗さんの熱演を受け継げるようないいキャスティングであることを切に願います。
余談ですが、斬刑に処せられた松陰さんの骨を、英国公使館焼き討ちをしたに掘り返して洗って、現在の松陰神社(東京都世田谷区若林)に再度供養したのはこの高杉さんです。
(松陰神社となったのは明治15年)
それまで松陰さんの骨は回向院(現在の東京都荒川区)にありました。
回向院は刑死者を供養するためのお寺だったので、そんなところに松陰さんを埋めておくのは高杉さん我慢がならなかったのでしょうね。
この辺りのくだりがドラマで出てくるかは謎ですが・・・会津サイドではない歴史の一頁として添えさせて頂きます。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年2月5日火曜日

白鳥と梅と

桜田門外の変というのは、歴史を大きく変えたクーデターのひとつですね。
個人的に、日本史上初のクーデターは乙巳の変だと思ってます。

さてこの桜田門外の変。
そもそも、襲撃浪士18人が近くにいて、直弼さんの行列は不審に思わなかったの?という疑問があると思います。
しかし当時は田舎から出てきた武士が武鑑を見ながら、大名の登城光景を見物することは別段珍しくなく、故に彼らは怪しまれませんでした。
・・・あんな雪の日にそんなことしてたら、怪しいような気もしますが、怪しまれなかったみたいです(見物に天候関係なかったのかな?)。
しかし浪士が白鉢巻きと白襷姿だったのは、同士討ちを避けるための目印なのですが、そんな集団が雪の中にいたら、やっぱり不審そのものだと思うのですけどねぇ(笑)。

ドラマでは静々と行列が進んでましたが、実際の行列は駆け足で進んでいたはずです。
もし何か変事があった時に駆け足で登城すると、周りに「何かあったのか!?」と気付かれてしまうため、幕府高官は日頃から駆け足登城が常識だったのです。
その行列の先頭の供頭の日下部三郎右衛門さんに、駕籠訴を装って近付いたのは森五六郎さん。
轟いた銃声を放ったのは黒沢忠三郎さん。
何故銃で撃ったのかというところ辺り、不勉強ゆえ詳しく分からないのですが、仮に銃で撃ってなかったら駕籠の中の直弼さんもなかなかの剣豪ですから、仕留めるのに苦労しますよね。
下手をすれば仕留め損ねるかも知れない。
そのために、一定のダメージを与えておく必要があった=銃の発砲、という繋がりになってるのではないでしょうか。
創作ものでは見かけますが、一次資料で発砲の記述は見かけたことがないので、以上は私の憶測にすぎませんけど。

「八重の桜」ではスルーされてしまいましたが、彦根随一の剣豪の河西忠左衛門さんという方がこの行列にはおられまして、二刀で奮戦して駕籠に突進した稲田重蔵さんを斬り倒すなどして、最後の最後まで直弼さんの乗っている駕籠を守っていました。
その忠左衛門さんが倒れて、直弼さんの駕籠を守る者がいなくなり、駕籠から引きずり出されて・・・というのが史実の展開です。
銃声が聞こえてから直弼さんの首が切り落とされるまで、当時の記録で「喫烟ニ服」。
今の感覚で言いますと、3分から10分くらい。
驚くべき速さですが、時間をかけてたら人が駆け付けてきますのでね。
変な評価になりますが、実に手際の良いクーデターだったと言えるのではないでしょうか。

彦根藩邸にはすぐにこのことが伝えられますが、現場に駆け付けた時には浪士たちの姿は既にありませんでした。
彦根藩士たちは現場の処理を行い、1時間後には後片付けが終わっていたそうです。
その時、六之丞さんが首のない直弼さんの着物から辞世を見つけます。
曰く、「さきがけし猛き心の花ふさは散りてぞいとど香に匂ひける」。
直弼さんには安政の大獄の前に、「あふみ海磯うつ浪のいく度か御世に心をくだきぬるかな」と書き残した和歌もありますことから、己の死を覚悟してたのではとも読み取れます。

当たり前のことですが、彦根側はこのことに大激怒しました。
自分達のお殿様を殺されたのですから、その怒りも当然ですね。
水戸屋敷に討入りなどが企てられたようですが、幕府と藩の上層部の説得で取り敢えず抑えられ、その代わりに井伊家の跡目相続の便宜を図りました。
直弼さんには七人男の子がいたのですが、まだ後継ぎは決まっていなかったままこの事件が起きたようで、本来ならばこの場合、家名断絶は免れません。
ですが幕府は、「大老は襲われたが重傷で生存している」として、その間に跡目相続をさせて井伊家を取り潰しませんでした。
結果、幕府の公的記録の上では直弼さんが没したのは2か月くらい後の話で、その間に便宜上の見舞いの使者も訪れていたとか。
結果的に井伊家は取り潰しを免れましたが、家中の皆々様はさぞややりきれない思いがあったでしょうね。
ちなみに彦根藩では、この一件から上巳の節句(桃の節句=事件が起こった3月3日)を祝うことがなくなり、現在に至るまで彦根の一部の御家ではその風習が残っているそうです。

幕末に起こったこの一件により始まった水戸と彦根の不仲は、明治維新を経た後も続きました。
双方が和解し、親善都市協定を結んだのは桜田門外の変から110年後の1970年。
当時の彦根市長は、直弼さんの曾孫に当たる方だったそうです。
協定の証として、彦根城の堀に棲む白鳥が水戸市に贈られ、偕楽園の梅の苗木が彦根市に贈られました。
歴史の溝を埋めるには、たくさんたくさんの時間が必要なのだなと、改めて考えさせられる一件ですね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年2月4日月曜日

第5回「松陰の遺言」

伝馬町牢屋敷に入れられている松陰さんから始まりました、第5回。
一心不乱に何かを書き綴っておりますが、獄中での彼の有名な著書『留魂録』執筆にはまだ早いので、書いてるのは別のものでしょうか。

場面は変わりまして、第1回では漁村でしかなかったこの場所。
しかし今では通りが整備され、店が立ち並んで大勢の人が行き交い、大変なにぎわいを見せております。
何を隠そう、この場所こそ横浜。
戸数100戸にも満たないしがない漁村だった場所のあまりの急な変貌に、尚之助さんが「ここが横浜?」というのも無理ないことだと思います。
私としては、あの太鼓橋が太秦映画村にあったものとそっくりだったので、いやいや横浜じゃなくて映画村でしょうと突っ込んでしまいたくなったのですが(笑)。
勝さんの話ですと、開港してひと月ほどでこの繁盛ぶりのようです。
横浜が開港しているということで、今回は安政6年(1859)からのお話ということになりますね。
これで現在開港しているのは、下田と函館に加え、長崎とこの横浜ということになります。
さて、雑貨屋さんでお土産を買い求める尚之助さんですが、蘭語が通じません。
第2回で黒船に乗り込むと息巻いていた覚馬さんに、「覚馬さんの下手な蘭語」と仰ってたので蘭語にはそこそこの自信がおありだったでしょうに、これは苦笑いもしたくなりましょうね。
それでも即座に「はぁーう、まっち、いず、いっと」とメリケン語(英語)と切り替えられる辺り、流石ですね。
そういえばかの福沢諭吉も、この横浜で自分が必死に学んできたオランダ語が通じず、英語で書かれた看板の文字さえも読めないことにショックを受けたのがきっかけで、独学で英語の勉強を始めたのですっけね。
しかし尚之助さんが値段を聞いていたもの、気のせいでなければビー玉でしょうか。
ビー玉は、当時だとお土産に該当するものなのかな・・・まあガラス細工で色も付いてて綺麗ですから、当時の日本には珍しいものでしたよね。
そんな風に変にビー玉に注目していると、浪士数人が「攘夷」と叫びながら通りにいた異国人を斬りつけます。
(一瞬尚之助さんに向かって来てるのかと思いました)
一刀のもとに、お見事・・・と言いたくなりますが、そんなことは言っては駄目ですね。
勝さんが駆け寄って脈を診ますが、既に事切れた様子。
直弼さんによる弾圧が続く一方で、攘夷熱が変な方向に向かっていることを目の当たりにした尚之助さんでした。

山本家では14歳、数えで15歳になった八重さんが兄嫁のうらさんと畑仕事。
何となく先週は、模範的過ぎて何処か機械のようにも感じられすぎたうらさんですが、今週は少し柔らかくなった気がします。
鉄砲を撃つ「当時の女性」として変わった位置にいる八重さんと、畑仕事が好きな武家のおなごらしからぬうらさんが、「外れ者同士」として心を触れ合わせ始めたからでしょうか。
お互いの存在が黒船に見えていたであろう義理姉妹が打ち解け始めたのですね。
そんな山本家、小豆が用意されているのではてと思いきや、どうやらうらさんが御懐妊のようです。
めでたいです。
そのおめでたモードの中、尚之助さんが横浜から帰宅。
蝙蝠傘やビー玉やハンカチや手鏡など、珍しい横浜土産に皆様の反応もそれぞれ。
枝葉になりますが、うらさんへのお土産のハンカチを今のように正方形にしたのはマリー・アントワネットです。
尚之助さんも無事に戻って、今日は良いこと尽くめだという八重さんの促しに従って、懐妊のことを覚馬さんに切り出そうとするうらさんですが、覚馬さんが別のお話を尚之助さんと始めてしまったので言えず・・・。
うらさん、夫の話を遮ってまで自分の話を出さない辺りは相変わらず模範的な武家の嫁ですね。
でも「後で」と八重さんに口パクで伝えてて、義理姉妹の距離は確実に縮まってるように見受けられて、些細なやり取りなのに何だか微笑ましく思えました。

さて、覚馬さんの懸念事は寅次郎さんのこと。
寅次郎さんが江戸の評定所に送られ、詮議を受けていることは先週の時点で覚馬さんの耳にも入っていましたね。
寅次郎さんが萩の獄舎から江戸の評定所に護送されたのは、安政6年5月25日(1859年6月25日)早朝のこと。
問われた罪は、儒学者である梅田雲浜さんとの密会について。
雲浜さんは元小浜藩士で、尊王攘夷の論を以って幕府を激しく批判したがために安政の大獄逮捕者第一号となった方です。
その雲浜さんとの関係を松陰先生は疑われたのですね。
けれどもその件に関しては松陰さんは潔白でした。
ですがここで松陰さんは、評定所を通じて幕府に自分の意見を届ける絶好の機会だと捉えたのか、老中の間部詮勝さんの襲撃を企てたことを告白します。
詮勝さんは「赤鬼」と畏怖された直弼さんに対して、「青鬼」と呼ばれていました。
安政の大獄は、直弼さんひとりで弾圧していったのではなく、尚之助さんが「走狗」と言っているように、赤鬼に青鬼が合力してなされたことです。
ですが詮勝さんも結局は直弼さんと対立して、この年に老中を免職されてます。
その詮勝さんを襲って、安政の大獄による弾圧の件を諌めるつもりだったという松陰さん。
何故告白したのか、馬鹿正直という言葉だけでは片付けにくいと思いますので、次の松陰さんの言葉をご紹介したいと思います。
人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う。(吉田松陰、近藤啓吾 全訳注、1979、講孟箚記(上)、講談社)

松陰さんには人を信用するという性格が、人よりも色濃かったのですね。
故に、自分の告白は必ず届くと思ったのではないでしょうか。
それは、馬鹿正直というには何だか少し違う気がします。

脅しに屈した開国は、国土を異国に破られたも同然。こげな折に、国を憂う者たちを弾圧しちょっては人心は離反するばかりじゃ

松陰さんが老中襲撃を企ててでも届けたかったのは、この部分。
しかし、幕府の側からすれば老中暗殺を企てたという告白を放っておくわけにはいきません。
ここで、松陰さんと評定所の人達の間に、認識のずれのようなものが生まれました。
この老中襲撃計画について、教え子の久坂玄瑞さん、高杉晋作さん、桂小五郎さん達は反対して同調しませんでした。
久坂さんは松陰先生の妹婿ですが、彼にすら同調を得られなかったのです。
松陰さんが老中と刺し違える覚悟だったということを聞いて、覚馬さんも首を傾げます。
尚之助さんは「人が変わったように」と仰いますが、松陰さんの遺した言葉に触れていると、変わってはおらず、むしろ最初から松陰さんはそういう人だったように思えます。
記憶違いでなければ、倒幕を一番最初に提唱したのも彼ですし。
余話になりますが、松陰さんが第1回で登場したときから使っておられる一人称の「僕」は長州ならではで、二人称の「君」も長州ならでは。
と言いますか、どちらも松陰先生が使い始めたものです。

話の途中で、覚馬さんにお客様。
と思いきや、覚馬さんが玄関に姿を見せた途端、「攘夷!」と斬りかかります。
初太刀は交わしたものを、切っ先が覚馬さんの腕を掠めました。
「夷狄におもねる奸物め」と、もうひとりの男も斬りかかりますが、うらさんがその腰に二度ほど飛びつきます。
が、蹴り飛ばされ植え込み近くに蹲ることに・・・。
外に出ていた三郎さんも、蝙蝠傘の束の曲線に浪士の足を引っ掛けて必死に応戦するも、やはりまだまだ子供なので奮闘空しく・・・とそこへ騒ぎを聞きつけた八重さん参入。
パッと三郎さんを後ろに庇い、三郎さんの手から傘を取って丸腰で浪士と応戦していた覚馬さんにパス。
寸でのところで覚馬さんは凶刃を受け止め、斬撃を捌いて行く一方で八重さんもお土産のビー玉を投げつけて応戦。
八重さん、鉄砲だけでなく、飛び道具なら何でも命中率抜群ですか・・・大の男を怯ませるとは凄いですね。
これから女性は護身のためにビー玉持ってれば良いのではないでしょうか。
そして覚馬さんも、武器が傘でも無双状態にお強い!
そこへ更なる援軍として、鉄砲を携えた尚之助さん。
流石に覚馬さんの首を上げることは出来ないと悟ったか、浪士たちは逃げて行きます。
尚之助さんが後を追いかけますが、見つからなかったようで。
一方、突き飛ばされれて体が大変なことになったうらさん。
直接言葉で触れられることはありませんでしたが、放置された小豆と侍女の啜り泣きから、お腹のややがどうなったのかは一目瞭然。
こんな場面でこんな評価は不謹慎かもしれませんが、「八重の桜」のこういう、無言の表現、好きだなって思います。
この一見に際して、攘夷とは一体何なのかを改めて突き付けられたように考える覚馬さん。

あやづらは、まるで狂犬だ。やづらのいう攘夷どは何だ。俺を斬って攘夷が。異国の水夫を斬って攘夷が。・・・蹶起を煽り、老中を襲い、人の命さ奪って、それが攘夷がっ!

攘夷の根底には、人を殺めることはないと思います。
でも攘夷熱に浮かされた沢山の人が、このときも、この先も、間違った形で刃を振るったのも幕末史の事実です。
本人たちからすれば、人を殺めることすら正しいことをしているという思い込みのようなものがあるのでしょうけどね。
眉は顰めますが、咎めることは出来ません・・・。

うらさんのややは、やはり・・・だったようで。
辛いのは自分でしょうのに、ややこのことを開口一番に謝るうらさんが、本当武家のおなごの律義さを集めたように見えて、こっちが切なくなります。
起きたら起きたで気丈に明るく振る舞ううらさんが、何とも健気で痛ましいです。
そこへ、八重さんが自分がしていたのと同じように豆に話しかけている姿をうらさんは見つけます。
加えて八重さんは、三郎さんと共に手竹を接いでくれたみたいです。
うらさんが気にしてたから、と・・・。
そんなやり取りをしている間に、堪らなくなったのかほろりと涙をこぼしてしまううらさん。
あの涙は八重さんと三郎さんの無垢な優しさが沁みたのか、それとも成長する豆と、成長しない流れてしまったややを自分の中で重ねてしまったのか、どちらなのか。

その年の10月27日(1859年11月21日)、松陰さんに死罪のお裁きが下ります。
最初は島流し的な処分だったと思いますが、自分がしたことは死罪が妥当と言って、直弼さんを激怒させて死罪になったのですよね。
死罪というか、斬刑という方が正しいです。
その死の知らせはほどなく会津の覚馬さんと尚之助さんにも齎され、年明けに勝さんから手紙でその詳細が伝えられます。
手紙を送った軍艦操練所教授方頭取の勝さんはと言えば、通商条約の批准書を交わす使節団に随行し、咸臨丸に乗って太平洋の上におりました。
この船の乗組員の中には福沢諭吉さんもおられました。
もしこのときTwitterがあったら、は勝さん「船酔いなう」、乗組員の皆様は「勝さんが船酔いで役に立たないなう」とつぶやいていたことでしょう。
それぐらい勝さんはこの航海中、船酔いに悩まされて役に立たなかったようで、それを諭吉さんが冷ややかに評していたと思います。

吉田松陰こと寅次郎。公儀をはばからず不敬千万。殊に蟄居中の身で梅田雲浜と一味致し候段、不届きにつき死罪申し付ける

松陰さんへの罪状はこういったものでした。
「松陰」というのは号なので、「吉田松陰こと寅次郎」という言い方は少し違うような気もしますが・・・。
この罪状が下される前々日の25日から、松陰さんは『留魂録』という松下村塾の門弟のために書いた遺書を獄中で認めてます。
有名な「身はたとひ武蔵の野辺にくちぬとも留め置かまし大和魂」の辞世は、この冒頭に書かれています。
二十一回猛士というのは松陰と同じく、彼の号。
最後の一文は「七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや」と締めくくられています。
講談社から全訳注のものが出版されてますので、興味のある方はお手に取ってみて下さい。
・・・枕が長くなりました。

その申し渡し書は偽りだ!僕は、梅田雲浜の一党に与したんじゃない!

読み下された罪状に寅次郎さんは大声で誤りを糺しますが、役人には届かず。
勝さんも仰ってるように、松陰さんは、自分の罪状がそんなちっぽけなものにすり替えられたのが我慢ならなかったのでしょうね。
生きて生きて、それでもまだ数えで30歳ですが、その自分の人生を終わらされる理由がそんなのって、堪ったものじゃないでしょう。
吉田松陰という男が、いまの日本にとってマイナスにしかならない安政の大獄の弾圧を諌めるために老中襲撃を企て、しかし敵わず斬刑に処せられたという風にしてもらわなきゃ、同じ死ぬにしても死に切れないといった心地でしょうか。
しかし噛み付いても無駄だと悟ったのか、松陰さんは言います。
此度の大事は、自分一人が死んで見せれば後に残る者(塾生でしょうね)がこの国を守るために奮い立つ、と。

天朝も、幕府も藩もいらん。ただ身ひとつで立ち上がれば良い!立ち上がれっ!」 

麻の裃が、役人と揉みあう内に引き剥がれてしまってる松陰さん。
それでも眼光未だ鋭いまま、最後にこう叫びます。

至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり

あまりの気魄に、役人の皆様もたじろぎました。
誠を尽くせば動かせないものなど何もないのだというこの言葉、元々は「至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなり。誠ならずして未だ能く動かす者はあらざるなり」という孟子の言葉です。
そうしてそっと、静かに松陰さんはお白州に向かって行きます。
勝さんからの手紙を通じて松陰さんの最期を知った覚馬さんは、過激攘夷はに対する怒りと、攘夷を提唱する寅次郎さんへの友情の相剋に、整理がついたような顔をしています。
一時は寅次郎さんが変わってしまったのでは、とさえ思っていた覚馬さんですが、やり方とかは違っても、誠を尽くして己の正しいと思うことを行動して行くという「至誠」な生き方のもとで、再び通じ合ったのではないかなと。
最後に覚馬さんが生き生きとしてる松陰さんを脳裏に描いていたのも、そういう心境描写の現れだったのではないでしょうか。

重たく冷たい冬が空け、早春の会津。
彼岸獅子の囃子の方へ駆け寄る八重さんの横顔を見て、ふと気づいたことがひとつ。
気のせいかなとも思いましたが、八重さんと、そして後で追い付いて来た時尾さん、髪型が桃割れから娘島田になってますね。
髪上げ(女性の成年式)が終わってるということでしょうか。
ちなみにこのとき八重さん15歳、数えで16歳になってます。
彼岸獅子というのは会津の春の風物詩です。
家内安全、商売繁盛、作物豊作を願って、三体の獅子が囃子に合わせて踊ります。
詳しくはこちら→【会津彼岸獅子】。
後々のネタバレになりますが、彼岸獅子っていうと与七郎さんだよなー・・・と思ってたら、その与七郎さんが登場したので思わず吹き出しました。
時尾さんの話ですと、お父さんが亡くなって家督を継いで当主となったので、もう与七郎ではなく大蔵様らしいです。
このとき15歳、数えで16歳ですね。
この大蔵さんが、後々にこの時尾さんと新撰組三番隊組長の斎藤さんの下仲人を務めます(上仲人は容保様)。
しかし、時尾さんの大蔵さんを見つめる眼差しが熱いような。
でも大蔵さんは大蔵さんで、八重さんに恋しちゃってる感じですよね。

ほんわかな会津のワンシーンの後ろでも、ばっちり時代は動いております。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、桃の節句なのでお祝いを述べるために江戸在住の大名総登城のこの日、江戸は大雪に見舞われました。
直弼さんも登城のため、駕籠に乗って上屋敷を発ちます。

大きな地図で見る
彦根藩上屋敷は、現在の国会前庭園や憲政記念館の辺り(東京都千代田区永田町)。
元々は江戸初期に加藤清正さんの屋敷用地として幕府から割り当てられたところですが、加藤家改易以降はずっと井伊家の上屋敷がここにありました。
桜田門までの距離は僅か500メートルほど。
その桜田門まであと少し、杵築藩邸横を通り過ぎた辺りで、何やら不審な人物がひとり。
立ち読みしてたのは武鑑でしょうか・・・しかし周りに人がいないので、向こうが気付いてないとはいえ怪しさ際立ってます。
そこへ「訴えの者でござる!お願いの者にござる!」と駕籠訴をする男が転がり込むように行列の先頭の供頭の日下部三郎右衛門さんに駆け寄ります。
その男を取り押さえようとした瞬間、男が抜刀して三郎右衛門さんの鮮血が雪に飛びます。
同時に物陰から、先程の不審人物が短筒を撃ち、弾は駕籠の中の直弼さんに命中。
それを合図に、白鉢巻と襷掛けの水戸脱藩浪士が直弼さんの駕籠を含む行列を襲います。
このとき幕末史が動きました、「桜田門外の変」です。
予期せぬ襲撃に、供侍も応戦しようとしますが、雪の水分で刀身が湿るのを避けて、大刀小刀どちらにも柄袋を着け合羽を着ていたので、咄嗟に抜刀出来ませんでした。
人数は明らかに彦根側の方が多かったのですが、そんな状態でしたので反撃らしい反撃も出来ず、次々と斬り倒されていきます。
やがて浪士たちが直弼さんの駕籠を取り囲み、直弼さんは駕籠から引きずり出されて首を落とされました。
襲撃したのは水戸脱藩浪士17名と、薩摩を脱藩していたと思われる元薩摩藩士の有村次左衛門さんの合計18名。
水戸はとにかく、何故薩摩藩が?と思うやもしれませんが、実はこの桜田門外の変には隠された物語の続きがございまして。
本当ならここで直弼さんの首を上げて、そのまま水戸浪士と薩摩とで京で落ち合ってクーデターをするという後日談計画が存在してました。
しかしそれを水戸との間で計画したときに存命だった薩摩の斉彬さんはもうおらず、変わって薩摩の実権を握ったのはその弟の久光さん。
企画時と桜田門外の変時では、薩摩を取り巻く情勢が変わっていたので、クーデターは実現せず、となった次第です。
多分その余韻というか連係ミスの名残か何かで、薩摩藩士もひとり襲撃側に含まれているんだと思います。
桜田門外の変については、少し筆を割くのでまた新たに記事を設けます。

大老暗殺の知らせは、会津の容保様の元へも届けられます。
報せを受けた容保様は急遽江戸へ。
同じく会津で、武士の走り方じゃない走り方で、西郷さんのおられる詰所に向かう覚馬さん。
武士は膝の上に手を添えて走ります・・・いえ、それほど急いでると言いたいのでしょうけど、ちょっぴり気になりました。
それと気になったのが、西郷さんの羽織紐の色。
やっぱり紺色に見えるんですけど・・・私の見解が間違ってるのかな。
覚馬さんは西郷さんのところへ建白書を持って行ったそうです。

会津は、幕府と水戸の間を取り持ぢ、和平を保つことに尽力すべし

国を開いたばかりで内乱が起こっては、異国に付け入れられてしまいます。
故に水戸と彦根の双方が鉾を収められるように手を打つべきだという覚馬さんの訴えに、西郷さんはうかつに動くなと釘を刺しはするものを、上層部には彼の言うことは尤もだと進言。
本当、覚馬さんにとって良い上司ですね、西郷さん。
しかし幕府上層部では、水戸討伐になりそうだということ。
不穏な空気が会津にも漂い始めます。

江戸城では諸侯を集めて、水戸征伐についての話し合い。
場を仕切るのは、大老の直弼さんに代わって若年寄から老中になったばかりホヤホヤの安藤信正さん。
文政2年11月25日(1820年1月10日)のお生まれですので、このとき40歳、数えで41歳。
この信正さんも、二年後の文久2年1月15日(1862年2月13日)に水戸藩脱藩浪士に襲撃されます。
いわゆるこれが「坂下門外の変」。
直弼さんのときとは違って死者は出ませんでしたが、大老に続いて老中までもが襲われたのですから問題も問題、大問題ですよね。
まだ勃発していないその話はさておきまして、水戸討伐に対して粛々と異を唱えたのは容保様。

大老を害したは脱藩した者ども。これを以って水戸藩を罰しては筋が通りませぬ。また、天下の趨勢を鑑みるに、いま国内にて相争うは慎むべきと存じまする

筋が通りませぬ、と容保様が口にされると何だか重みがありますね。
物事の道理を通す、会津のお殿様が故でしょうか。
そして予告によれば、「京都守護職」という単語がちらほらり・・・。
会津が抜け出せない時代の渦の中心に、少しずつ呑み込まれていく過程を見るのは、これがまたまた辛かったりもします。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年2月2日土曜日

埋もれておらむ心なき身は

第4回で遺憾なくその大物っぷりを発揮して下さった井伊直弼さん。
今日はその直弼さんの人生の前半について触れさせて頂きます。
ドラマで登場してきたときには既に彦根藩主の座に就いておられた直弼さんですが、実は普通に考えれば藩主にはなれない生まれでした。
と言いますのも、直弼さんのお父さんは井伊家13代藩主・井伊直中さんなのですが、直弼さんはその十四男なのです。
つまり自分の前には十三人男兄弟がいるわけですから、普通に考えて家督が回ってくる筈がないですよね。
実際直弼さんが生まれた時には、藩政は直弼さんより20歳年上の直亮さんが執っていました。
家督が継げないのなら、養子はとも思いますが、不幸なことに直弼さんの養子話は全くまとまりませんでした。
そういうわけですので、直弼さんは直中さんが亡くなった後、三の丸尾末町の屋敷へ弟の直恭さんと一緒に移り住むことにします。
そこを、直弼さんは「埋木舍」と名付けました。

(実は第4回放映日の朝に、この埋木屋の前を通りました・・・何だか不思議な気持ちです)

17歳から32歳まで、彼はここで過ごします。
「埋木」というのは、自分のことを花開くことない存在と自虐したものでしょうね。
何かここだけ聞くと、直弼さんって卑屈な人だったの?とも思っちゃいそうですが、彼は卑屈どころか、一度やり始めると途中で諦めず、納得するまで徹底してやり遂げなければ、気のすまない性格だったと云われています。
ちなみに埋木舎で生活していたころ、直弼さんは「睡眠時間は4時間で足りる」と言っていたそうでして。
あまり寝ないのも、良くないんだけどなぁ・・・というツッコミは現代科学を知っている身ならではですね。
さて、睡眠時間を4時間にまで直弼さんが惜しんで何をしていたのかと言いますと、勉学と趣味へ没頭してたのですね。
それだけ聞くと、悠々自適ライフに聞こえますが、前述したとおり直弼さんは「一度やり始めると途中で諦めず、納得するまで徹底してやり遂げなければ、気のすまない」性格。
凝り性と完璧主義が混ざったような感じでしょうか?
大工仕事すら本腰入れてやっちゃって、机や小箪笥なども作ってたどころか名前入り工具一式があったとか。
更には、
居合術:新心流(永禄年間に関口弥伍右衛門氏成に始まったもの)から新心新流という流派を興す
和歌:勅撰和歌集の形式に倣い、自作の和歌集『柳廼四附』を編纂
:『筑摩江』を著す
狂言:『狸腹鼓』、『鬼ケ宿』を著す
茶道:奥義を極め、石州流を経て一派を確立。「一期一会」の言葉は彼が生んだとも
学問:国学・洋学等を究める
この他、禅にも真摯に取り組むなど、正しく文武両道と言いますか、始めたことは徹底的に極めて行ってますね。
大河ドラマでも見事な茶筅捌きで容保様にお茶を点ててるシーンがありましたが、あの洗練された直弼さんには、実はこういう経歴があったのです。

しかし時代が彼を呼んだのか何なのか。
直弼さんの趣味没頭悠々自適ライフは、弘化3年(1846)に思いもよらぬ藩主の座が転がって来たことにより幕を閉じます。
埋木舍を出た直弼さんは彦根藩主となり、江戸に出、幕末のうねりの中に身を投じて行きました。
後に大老として権威を振るうことになる直弼さんですが、権謀術数は蔓延り、政務に忙殺される日々の中で、埋木舍での生活を振り返ったりすることはあったのでしょうか。
それとも、花が咲けたことを嬉しく思い、振り返ることなんてなかったのでしょうか。
さてさて、どっちだったのでしょうね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年2月1日金曜日

第4回「妖霊星」

このドラマのもうひとりの主人公ともいえる覚馬さん。
先週に禁足処分を受けましたが、その禁足を解くようにと容保様に働きかける西郷さんから始まりました、第4回。
「ごめんなんしょ、殿」というのが、何となく堅苦しくなくて良いなぁ、と思いました。
西郷さん演じる西田さんは福島県出身なので、会津弁はお手の物のようですね。
ちなみに会津藩家老という認識が強い西郷さんですが、このときはまだ家老職継いでません。
家老になるのはこの二年後の話です。
現在28歳、数えで29歳。
容保様に意見する西郷さんを諌めたのは、家老の簗瀬三左衛門さん。
簗瀬家は北原家、内藤家とあわせて会津三家と称されました。
石高2200石。
藩内で知行1000石を超えるのは全体の5%にも満たなかった会津で、これはかなりの高禄組です(比較としまして、時尾さんの高木家は300石)。
さて、異国と戦になるかもしれないこのときに、覚馬さんが兵制改革を申し出たのは武人として正しい振る舞いではないかと容保様に訴える西郷さん。
筋は良く通っています。
今のまま(旧制)では駄目だ、変わらなければならない。
その必要性に気付いていた容保様は、西郷さんの言葉を受け容れ、覚馬さんの禁足を解きました。

一旦場所は会津から離れて、江戸へ。
当ブログではじっくりのご紹介がまだだった彦根藩十五代藩主、井伊直弼さん。
文化12年10月29日(1815年11月29日)のお生まれですので、このとき43歳、数えで44歳。
一緒にいるのはその右腕の宇津木景福さんかと思われます。
枝葉になりますが、井伊直弼さんのお父さんの直中さんは、佐和山に石田群霊碑を建立して石田三成さんの慰霊をした人です。
この直中さんの49歳、数えで50歳の時の子供が直弼さん。
「将軍後継」「紀州の慶福様」・・・などなど、数年前の大河ドラマ「篤姫」でよく出てきたキーワードが飛び交ってますね。
視点違えども「篤姫」と同じく舞台は幕末ですので、14代将軍の座を巡って一橋派と紀州派の争いを再び視聴者は追うことになりそうです。
これについては、少し後でまた触れることにします。

さて、そこから六十五里離れた山本家。
襟巻にもこもこ着物にと、防寒対策ばっちりの八重さんが、お客様である権助さんのお話を廊下で聞き耳立てます。
どうやら覚馬さんの禁足が一両日中にも解けることを知らせに来てくれたようで、ほっと嬉しさをにじませた八重さんの顔が何とも眩しいです。
しかも覚馬さん、禁足が解けただけでなく、軍事取調役と大砲頭取に抜擢されました。
この抜擢が、ゆくゆくは覚馬さんを歴史の渦の中心に否応なく巻き込んでいくことになるのですが、それはまた先の話。
今は覚馬さんの復帰を喜ぶことに致しましょう。
そういえば覚馬さんは子供のころから気性が激しかったそうです。
それも踏まえてか、「以後は軽々しぐ喧嘩沙汰など起ごしてはならぬぞ」と権助さん。
そして、そんな覚馬さんに嫁を取って身を固めろと、何と縁談にまで話が飛びました。
とはいっても覚馬さんこのとき30歳、数えで31歳。
身を固めても全くおかしくないどころか、今まで話がなかったのも少し不思議な年頃です(江戸に行ったりしてたからでしょうかね)。
大好きなお兄さんの縁談話に、思わず「縁談!?」と叫んでしまった八重さんは、聞き耳を立てていたことがすっかりばれてしまいます。
そんな八重さんに、権助さんは丁度いいから「にしの腕前、見せてもらうべ」とな。
前に二葉さんの侍女の方も八重さんが鉄砲撃ってることは知ってましたが、ご城下ではみんな知ってます、状態なのでしょうかね。

ご指名を受けた八重さんは、ゲーベル銃に手際よく弾込めをしていきます。
このとき八重さん13歳、数えで14歳、鉄砲を本格的に覚馬さんから仕込みが始まったあの日からは2年が経過しております。
もともと鉄砲の勘とセンスは天性のものを持っていた感のある八重さんですが、覚馬さんからの仕込みもあって、見事弾は的に命中。

見事なもんだ。おなごでも、鍛練次第であれほどの腕となっか
武術の心得の浅い者でも、洋式銃が使えれば十分に戦の役に立づな

こんな言葉を漏らしていることから、権助さんが八重さんに鉄砲を撃たせたのは、八重さんの腕前見るというよりはむしろ洋式銃の性能の高さ的なものを確認したように思えます。
年月をかけない兵力の確保。
しかし、銃を兵力とするなら銃をたくさん仕入れる必要があります。
会津の財政を考えると・・・と渋い顔の権助さんに、覚馬さんは策がある、といって尚之助さんを紹介します。
尚之助さんは、領内の鉄砲鍛冶の手を借りて、何とか安上がりで銃を作ってもらえるように模索中だそうで。
しかもその道に長けていて、新式銃の工夫をしているところとな。
つまりは銃の地産地消ですね。
権助さんもその策を頼もしく思い、兵制改革と、それと縁談話も急ぎ進めると言います。
権助さんが持ってきた話だと、覚馬さんのお相手は御勘定方の樋口家の娘さん。

西向いでろど言われだら一年でも西向いでいるようなおなごだ

忘れたころに、何処かで再びひょっこり聞くことになりますこの言葉。
ちょっと記憶の片隅に置いておいて下さい(笑)。

晴れて禁足が解けた覚馬さんは、西郷さんのいる番頭詰所へ。
西郷さんは番頭なので、羽織紐の色が納戸色ですね。
ちょっと、紺色に見えなくもないですが(苦笑)。
覚馬さんは花色
何度も言いますように、西郷さんの方が覚馬さんより2つ年下なのですが、この両者の間には第一級と第四級という決定的な身分の壁が存在します。
でも俳優さんのせいか、どうしても西郷さんの方が年長者に見えてしまいますよね。
そんなおふたりのところへ、春英と呼ばれる人物がやってきます。
古川春英さん、文政11年(1828)のお生まれですから、覚馬さんと同じくこのとき30歳、数えで31歳。
駒板村(現在の福島県郡山市)の農家に生まれた春英さんは、御番医師の山内春瓏さん(彼の奥さんの姪が瓜生岩子さんです)の家弟となって医術を学びますが、漢方医学の限界を悟って会津を出奔、緒方洪庵さんの適塾に入門しました。
その後長崎に渡ってアントニウス・ボードウィンさんに師事し、そこで松本良順さんとも出会ってます。
後々の話になりますが、会津戦争中、会津で戦傷者の治療に当たっていた良順さんは、「古川春英はどこにいるのか。会津藩には古川春英がいるではないか。早く彼を呼びなさい」と言ったそうです。
話が逸れましたが、要は春英さんは長崎仕込みの蘭学者かつ適塾仕込みの医者というわけですね。
藩を出奔した春英さんの帰藩には、若年寄の田中玄清さん(通称田中土佐)と神保内蔵助さんが周旋して下さったようです。
この両人は後に、西郷さんと同じく会津の家老になります。
そして更に嬉しいことに、尚之助さんの教授方就任にもお許しが出たようです。

もはや古き良きものを守るだけでは立ぢゆがぬ。藩を守るため、変えるべきごどは変えでいがねばな

覚馬さん達の芽が、ようやく芽吹ける環境が整ったといったところでしょうか。
視聴者として、その芽がどうなるのか、成長の行方をそっと見守っていくことにしたいと思います。

変わると言えば、覚馬さんの環境。
白無垢に綿帽子を被った彼女こそ、覚馬さんのお嫁さんのうらさんです。
髪型は文金高島田でしょうか、それにしては少し飾りが少ないかな。
現代では違いますが、婚の字に「昏」の字が含まれている通り、昔は花嫁は黄昏に出立して婚家にやって来ました。
大河ドラマをはじめ、時代劇の結婚式シーンが夜に行われてるのはそのためです。
余談ですが、ヴィクトリア朝時代の結婚式は午前中に、という決まりごとがあったそうです。
国によって、結婚式もそれぞれだったのですね。
さて、その親友の結婚式の宴を、少し離れて見守るような位置にいる尚之助さん。
居候の身なので、座敷に加わることは気が引けているようです。
八重さんの話ですと、どうやら尚之助さんは、教授方には就任出来ても仕官は叶わず(=藩士にはなれず)なご様子。
当の尚之助さんは、身分や立場に対する拘りが薄いのか、淡々と現状を受け容れておられます。
でも先のことを考えると、会津藩士の娘である八重さんと結婚するには、やっぱり会津藩士じゃないと駄目なのではないでしょうか。
ということは、尚之助さんが藩士身分になるのはもう少し先かなぁ。

ほんの少しばかりお久しぶりな気がしなくもない勝さん、何やら大物と思しき御仁と面談中。
薩摩藩第十一代藩主、島津斉彬さんです。
文化6年3月14日(1809年4月28日)のお生まれですのでこのとき49歳、数えで50歳。
道理で薩摩切子と葡萄酒が似合うはずです。
斉彬さんが、藩主になるや否や藩の富国強兵に努め、洋式の船を造らせたり、反射炉や溶鉱炉の建設をしたりしたことは大河ドラマ「篤姫」にもよく描かれていましたよね。

異国と渡り合うには日本はもっと強くならねばならぬ。わしが軍艦や大筒を造らせているのは薩摩一国を守るためではない。幕府と手を携え、国難に当たる覚悟でいるのだ

そのために、今までのような旧弊の政では対応出来ないので体制を変える必要があるのに、現在の幕府の役職は譜代門閥に占められていることを斉彬さんは嘆きます。
譜代門閥というのは、譜代大名ということで捉えて問題ないと思います。
ですが斉彬さんの薩摩藩は外様大名であるので、政治には参加出来ないという立場にありました。
それが、徳川幕府開闢以来の「慣例」だったのです。
二百年以上に亘って守られ続けてきたその慣例に対して、斉彬さんは次のように言います。

門閥に囚われず、有為の人材を登用してこそ国は強くなる。その望みを、わしは一橋慶喜公に託している

葡萄酒をはじめ、何やら室内に洋風なものが目立つ斉彬さんは、蘭癖と称されています。
蘭はオランダのことです(要は西洋かぶれ)。
そんな斉彬さんが、天皇が!攘夷を!夷狄を打ち払え!と鼻息を荒くしていた斉昭さんの息子、慶喜さんを何故推すのだろうか?
と思った方に見て頂きたいのが、以下の家系図(敬称略)。

例によってお手製ですので拙くて申し訳ないです。
何だか八代将軍の吉宗さんから始まってますが、平たく言えば斉彬さんのご正室、英姫さんのご実家が一橋家なのです。
かつ英姫さんと、斉彬さんの曾御祖父さんの島津重豪さんを辿っていくと、徳川将軍家にもかかわりがあることが分かります。
それでも外様な島津家。
篤姫さんを将軍御台所に送り込んで大奥工作をし、一橋慶喜さんを将軍にして幕政改革(外様譜代など関係なく、優れた者の登用と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵を奨励し諸外国に対抗するというもの)を進める、という壮大な斉彬さんの計画は「篤姫」の世界で散々語られたことですよね。
そういう現状もあったようですが、こういう関係もあったのも、一橋派だった理由のひとつじゃないのかなと、未熟ながら思っております。

さてその斉彬さん。
実は叔母の郁姫さんが近衛忠煕さんの正室となっていた関係で、京の有力公家ともパイプを持っています。
この郁姫さんについては、「篤姫」のときに幾島さんが篤姫さんの前に仕えていた女性というのは皆様の記憶に新しいかと思います。
そのパイプを利用して、斉彬さんは西郷どんを京に向かわせていたようです。
少し話が逸れますが、西郷どんな斉彬さんに直接教えを受けた人物として知られています。
斉彬さんの言葉に、「十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない」というのがあるのですが、ということは西郷どんは「十人が十人とも好」まない人材ということになるのでしょうか(笑)。
まあその西郷どんが何をしているかと言えば、時代劇の定番の黄金饅頭攻撃です。
おぬしもワルよの~、のお決まり台詞が聞こえてきそうな気がしなくもないですが、冗談抜きにこの頃のお公家さんの生活は困窮したものでした。
天皇のおられる御所も例外ではなく、築地塀が崩れてるのが三条大橋から見えたとか見えなかったとか。
また、商人はお公家さんから借金申し込まれるから、お公家さんの家の前通るときは声をひそめたとか。
そんな話が残っておりますので、黄金饅頭の効果はさぞや絶大だったことと思われます。
京での話はすぐに江戸に伝わるものらしく、慶喜さんと一緒におられるのは越前福井藩十六代藩主、松平春嶽さん(春嶽というのは雅号です)。
文政11年9月2日(1828年10月10日)のお生まれですので、このとき30歳、数えで31歳。
慶喜さんとの会話の内容からも察せる通り、春嶽さんも斉彬さんと同じく一橋派です。
そもそもこの春嶽さん、嘉永6年(1853)にペリーさんが来航したときには、開国と通商条約締結の要求を蹴って直ちに戦をするべし、という意見でした。
それを安政3年から改め、積極的開国と日本の防衛策に建議を重ねるようになります。
将軍後継問題で一橋派なのは、幕閣諸大名を指揮出来る英明な人物こそいま必要である、という考えからです。
対抗馬の紀州派が推している徳川慶福さんは弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)のお生まれなので、この時点でまだ12歳、数えで13歳なのです。
混迷としてる世情と今の幕府のかじ取りには、少し心もとない、言ってしまえば未熟な年齢です。
対してこの慶喜さんは天保8年9月29日(1837年10月28日)のお生まれなので、このとき21歳、数えで22歳。
今の世情なども考えて、誰がリーダーに立つべきか。
そう考えれば、春嶽さん達の意見に分があるように見えますが、そんなときに紀州派の筆頭である井伊直弼さんが大老に就任しました。
安政5年4月23日(1858年6月4日)のことです。
大老は非常置の職ですが、大名家・執政機関の最高責任者で老中よりも格上です。
これで一気に一橋派の旗色は悪くなります。
・・・世の中、そう甘くはないようですね。
ちなみに、水戸藩の斉昭さんの息子の派閥なのに「水戸派」ではなく「一橋派」なのかと言いますと、慶喜さん自体は弘化4年9月1日(1847年10月9日)に水戸徳川家から一橋家に養子に入ってるからです。

幕府上層部の曇天から一転、会津の美しい自然に場面移動。
今年の大河は「画面の美しさにこだわった」というようなことを小耳に挟んでましたが、本当折々映し出される自然風景は美しいですね。
その大自然の中で、川魚を獲るべく奮闘しているのは覚馬さん、尚之助さん、八重さん、三郎さん、そして土手の上からそれを観賞する時尾さん。
そこへ弁当を持って、うらさんと下男の徳造さんがやってきます。
八重さんにとってうらさんは義理とはいえお姉さんですから、やっぱり仲良くなりたいのか、八重さんは一緒に魚獲りをしないかとうらさんを誘います。

そったらごど、おなごのするごどでねぇがら

うらさんに悪気はなかったのでしょうが、そういわれたときの八重さんのしゅんとした顔が、何とも可哀想といいますか・・・。
八重さんの姿ばかりを追っていると、特に違和感は感じませんが、当時の女性の普通且つ模範はこのうらさんですよね。
夫を立てて、黙って家事をこなし、夫のすることに一切口出しをしない。
今なら「昔ながらの女性」と言われそうですが、その昔がこのときです。
史実はどうかは伝わっていませんが、ドラマのうらさんは正しく絵に描いたような武家の嫁です。
第1回から第2回を通じて、当時のおなごがするべきではない鉄砲を「ならぬことはならぬ」と分かりながらも、「やむにやまれぬ思い」から手にした八重さんの過程を視聴者の皆様は見て来ました。
その八重さんの隣に、ここで「当時の一般女性」であるうらさんを持ってくることで、八重さんがどれだけ当時の女性として奇妙なのかが良く浮き出ていると思います。
八重さんはうらさんを「異国がら来た黒船みでぇ」と譬えますが、その他大勢の会津女性からすれば、八重さんの方が「異国から来た黒船」のように見えているはず。
覚馬さんや尚之助さんにくっ付いて、鉄砲の構造も良く理解している八重さんは開明的なのでしょうが、開明的が当時の普通には結び付かない。
時尾さんが「八重さんの家は余所とは違うから」と言葉に出して言うよりも、優等生嫁のうらさんがただ横にいるだけの方が、八重さんの異質っぷりが良く分かりますね。

この回は安政5年(1858)のお話なのですが、この年の6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約が結ばれます。
しかしこの条約は勅許(天皇の許可)のないまま直弼さんが結んだものでした。
これに青筋立てて激怒しているのは、慶喜さん。

勅許を得ずに条約を結ぶとは何事か!帝に対し不埒千万!

何故こんなにも彼が怒髪天衝いているのかと言いますと、慶喜さんはお母さんが有栖川宮織仁親王の娘さんなのですね。
要は母方に宮家の血筋を持ち、且つお里の水戸藩は勤王思想の非常に強いお国柄です。
先程慶喜さんが一橋家に養子入りしていることには触れましたが、それでも養子入りまではその水戸藩の思想にどっぷり浸かった教育、いわゆる「水戸学」を施されていたわけです。
勤王思想?水戸学?と、またややこしそうな単語が出てきましたね。
詳しくはまた別に記事を設けて触れようと思いますが、水戸家には「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」と、幕府よりも朝廷を、将軍よりも天皇を重んじる家風があったのです。
つまり天皇を敬う=尊王思想が根付いていたのです。
ですので、その教育のもとで育った慶喜さんからすれば、天皇の存在を無視して幕府(正確には直弼さん)の独断で異国と条約を結んだことに憤りを感じるのです。

怒っているのは慶喜さんだけではありません。
6月24日(1858年8月3日)、慶喜さんの実父の斉昭さん、慶喜さんのお兄さんに当たる水戸藩主の徳川慶篤さん、容保様のお兄さんに当たる尾張藩主の徳川慶恕さんの三名が、肩を怒らせて江戸城に登城します。
直弼さんのことを「井伊の赤鬼め」と斉昭さんは仰ってましたが、この渾名はもう少し後の出来事からつけられたものと考えられますので、ちょっとこのときに出てくるのはおかしいかなという気もしました。
さてこのご三方、直弼さんに面会を求めて大廊下の間で待たされますが、史実では五時間も待たされたそうです。
当時大名は登城の際、弁当を持参してましたので、勿論昼食も出ずです。
お茶は出たみたいですけどね。
そのお茶ももういらない!と斉昭さんが茶坊主に怒鳴ったその時、ようやく直弼さんのご登場です。
ちなみに待ってる五時間の間、三人は「今日は直弼に腹を切らさなくては退出しない」と大声で直弼さんを罵ってたそうです。
穏やかではありませんね・・・斉昭さん、早速直弼さんに噛み付きます。
直弼さんは無断調印せざるを得ない事情を説明しつつも、後は只管に神妙に神妙に頭を下げ・・・と、これには三人も些か出鼻を挫かれたというか、肩透かしを食らったご様子。
代わって話題に出たのが、将軍後継者の件。
まさか慶福さんではないかと慶篤さんが訝しむも、直弼さんは「全て調ってござる」の一点張り。
 ここでは触れられませんでしたが、十二代将軍の家慶さんが、家定さん(十三代将軍)に何かあったときは、慶喜さんを後継にするという話はあったらしいですね。
公式確定されてなかっただけで。
それと、本当ならここで斉昭さんが春嶽さんの同席を求めて、直弼さんが拒否しているのですが、それも触れられていないご様子。
さて、「ところで」と、今度は直弼さんのターンです。

本日は御三家のご登城日では御座りませぬぞ。押しかけ登城がご法度であること、よもやお忘れではござりますまい

押しかけ登城と言っておりますが、当時の言葉で正しく言うなら「不時登城」です。
御三家の登城日がいつなのかは、ちょっと調べがついてないのですが、御三方は見事に揚げ足を取られた形になります。

重いご処分覚悟でご登城された割には・・・さしたるお話でも、ござりませんでしたな

そう言い放つ直弼さんが物凄く腹黒いというか、やり手に見えますね(笑)。
御三家相手にも臆さない・・・これが大老の格というものでしょうか。
そして翌日の25日、将軍の後継者は紀州藩第13代藩主、徳川慶福さんに定められます。
大奥のご意向や、慶喜さんよりも慶福さんの方が家定さんの従兄弟だから血筋が近い、という様々な理由がありますが・・・さてさて。
そして7月5日(1858年8月13日)、斉昭さんに謹慎、慶篤さんと慶喜さんは登城停止、慶恕さんと春嶽さんには隠居・謹慎の処分が下されます。
これによって一橋派は政治の表舞台から消えることになります。
しかし私個人的に奇妙なのが、不時登城の処罰ならもっと早くに下っても良かったはず。
なのに何故翌月の7月5日まで待ったのだろうか、と・・・そこでふと目についたのが、翌日の7月6日に十三代将軍家定さんが亡くなっていること。
ちなみにこの一橋派一掃処分、さも直弼さんがやったように見えますが、処分を発表したのは家定さんということになっています。
要は一橋派一掃処分=将軍の命令、なのですね。
しかし翌日に儚くなるような人が、そんな命令出せるのかを考えたら、甚だ疑問です。
この両日の近さは偶然なのでしょうか?
拙い我が身では、それ以上のことは分かりません・・・。

物凄く腹黒く見えた直弼さんですが、それは斉昭さん達サイドから見たからでしょう。
次の場面では、視点は直弼さんサイドに置かれています。
どうやら直弼さんは容保様を茶室に招いたようです。
このおふたりは、直接的な関係はありませんが、彦根藩十二代藩主直幸の娘が、会津藩六代藩主松平容住さんの御正室となっているので、遠い遠い親戚ですね。
折角ですから直弼さんのことにも触れたいのですが、また長くなりそうですので自重するとして、容保様は御三家の処分が過酷ではないかと直弼さんに言います。

物事の筋目は通さねばなりませぬ

どんな身分や立場であれ、法に背けば処罰を受ける。
その秩序こそが国を治める。
この直弼さんの言葉を、「ならぬことはならぬ」を掲げてる会津のお殿様にいうというのがまた深いですね。
無断調印したことについては、「天下の政は幕府が執り行うものと、朝廷より一任されてる」というのが直弼さんの言い分。
要は日本という国の政は幕府が請け負ってるんだから、朝廷が口出しするのがそもそも直弼さんからすればおかしな話に写るのでしょう。
斉昭さん達と意見は完全に対称的ですが、筋は通ってますよね。
1615年に公布された禁中並公家諸法度、および11代将軍家斉の頃に主張された大政委任論がそれを裏付けています。
しかし秩序を守るがために厳しく出ては、却って敵を作り、果ては身の危険に繋がるという容保様に、直弼さんはふっと微笑みます。

宗観院柳暁覚翁大居士、と授かりました。我が戒名でござる。大老職を拝受した折、菩提寺に託しました。命を捨てる覚悟なくては国事には当たれませぬ

いやはや、今の政治家に聞かせてやりたい台詞ですな。
大老としての責任感・・・というのは何か少し違う気がしますが、「今どうするべきか」というのを考え抜いた結果が、無断調印という結果だったんだろうなと。
もし調印しないという選択肢を選んでいたら(直弼さんの言葉を借りるなら「臨機応変の判断を誤る」)、国が滅んでいたことだって冗談抜きにあり得たのです。
国が滅んでしまっては元も子もありません。
朝廷が、鎖国が、と騒いでた御三家の方よりも、もう一段高いところから日本の置かれてる立場というものを見れていたのかもしれませんね。
と考えるのは、いささか井伊直弼という人物を美化しすぎでしょうか。

容保様が彦根藩上屋敷を後にされる直前に見上げた星と同じ星を、八重さんも覚馬さんと尚之助さんと一緒に会津で見上げてました。
この星はドナティ彗星ですね。
脚本の方、よくご存知だったな~と、そっちの方向でも感心しきりです。
八重さんはそれを見て、何かの前触れかと案じます。
対して尚之助さんは、そんなのは迷信で、あれは天体の働きのひとつに過ぎないと断言。
でも迷信と言い切ってしまえるのは、尚之助さんが蘭学に馴染んでるからでして、あの時代の普通の感覚だと八重さんの反応が正しいです。
彗星は、あまりよくないことの前触れだとされていました。
当時は「箒星」と読ばれていた彗星ですが、では覚馬さんの口からぽろっとでた「妖霊星」とは?
覚馬さんの話ですと、鎌倉幕府が滅んだ時にも出現したようですが・・・。
というわけで、『太平記』を開いてみたところ、どうやら「相模入道田楽を弄ぶ竝闘犬の事」がその該当箇所のようです。
そこに「天王寺のえうれいぼしを見ばや」という一文が見られます(えうれいぼし=ようれいぼし=妖霊星)。
内容はまた興味ある人に読んで頂くことにして、江戸時代の人は日常的に『太平記』に親しんでたので、覚馬さんの口からすぐに「妖霊星」の単語が出てくるのは、全く不自然でも何でもないのです。
この妖霊星が招いたわけではありませんが、この年から三年間に亘って、コロリ(コレラ)が大流行します。
死因の諸説はありますが、斉彬さんも7月16日(1858年8月24日)にコレラで亡くなったとされています。

ドナティ彗星こと妖霊星がもたらした不幸は、それだけではありませんでした。
戊午の密勅、というのがあります。
孝明天皇が水戸藩に勅許を下賜したもので 、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令や、無断調印の呵責と詳細な説明の要求などなどがその内容でした。
更には直弼さんの排斥まで。
そもそも水戸藩は、幕府の臣下のひとつに過ぎないわけです。
その水戸藩へ、朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府が蔑ろにされたことになり、これを見過ごしては幕府の権威は失墜したも同然、面目が立ちません。
これが引き金となり、かの有名な「安政の大獄」の幕が9月から切って落とされます。
安政の大獄って、歴史用語としての知名度は高いですが、直弼さんが何であんな事やったのかまではあんまり知られてないですよね。
つまりはこの戊午の密勅に関わった人たちを片っ端から検挙していったのです。
斉昭さんは国許で永蟄居、慶篤さんと慶喜さん、慶恕さんは隠居謹慎。
幕末の四賢侯と謳われた春嶽さん、伊達宗城さん、山内容堂さん(斉彬さんは亡くなってるので除く)も隠居謹慎に追いやられます。
公家は右大臣左大臣、前関白に前内大臣が辞任して落飾させられました。
検挙の範囲は大名や公家だけに留まりません。

寅次郎さんが捕まった

覚馬さんがそういったように、寅次郎さんこと吉田松陰さんも捕縛されました。
あるいは、松陰さんが安政の大獄の受刑者の中で一番有名かもしれませんね。
幕末の大きな厄災の火種もこんなところに芽吹いてます・・・。


ではでは、此度はこのあたりで。


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