2013年2月1日金曜日

第4回「妖霊星」

このドラマのもうひとりの主人公ともいえる覚馬さん。
先週に禁足処分を受けましたが、その禁足を解くようにと容保様に働きかける西郷さんから始まりました、第4回。
「ごめんなんしょ、殿」というのが、何となく堅苦しくなくて良いなぁ、と思いました。
西郷さん演じる西田さんは福島県出身なので、会津弁はお手の物のようですね。
ちなみに会津藩家老という認識が強い西郷さんですが、このときはまだ家老職継いでません。
家老になるのはこの二年後の話です。
現在28歳、数えで29歳。
容保様に意見する西郷さんを諌めたのは、家老の簗瀬三左衛門さん。
簗瀬家は北原家、内藤家とあわせて会津三家と称されました。
石高2200石。
藩内で知行1000石を超えるのは全体の5%にも満たなかった会津で、これはかなりの高禄組です(比較としまして、時尾さんの高木家は300石)。
さて、異国と戦になるかもしれないこのときに、覚馬さんが兵制改革を申し出たのは武人として正しい振る舞いではないかと容保様に訴える西郷さん。
筋は良く通っています。
今のまま(旧制)では駄目だ、変わらなければならない。
その必要性に気付いていた容保様は、西郷さんの言葉を受け容れ、覚馬さんの禁足を解きました。

一旦場所は会津から離れて、江戸へ。
当ブログではじっくりのご紹介がまだだった彦根藩十五代藩主、井伊直弼さん。
文化12年10月29日(1815年11月29日)のお生まれですので、このとき43歳、数えで44歳。
一緒にいるのはその右腕の宇津木景福さんかと思われます。
枝葉になりますが、井伊直弼さんのお父さんの直中さんは、佐和山に石田群霊碑を建立して石田三成さんの慰霊をした人です。
この直中さんの49歳、数えで50歳の時の子供が直弼さん。
「将軍後継」「紀州の慶福様」・・・などなど、数年前の大河ドラマ「篤姫」でよく出てきたキーワードが飛び交ってますね。
視点違えども「篤姫」と同じく舞台は幕末ですので、14代将軍の座を巡って一橋派と紀州派の争いを再び視聴者は追うことになりそうです。
これについては、少し後でまた触れることにします。

さて、そこから六十五里離れた山本家。
襟巻にもこもこ着物にと、防寒対策ばっちりの八重さんが、お客様である権助さんのお話を廊下で聞き耳立てます。
どうやら覚馬さんの禁足が一両日中にも解けることを知らせに来てくれたようで、ほっと嬉しさをにじませた八重さんの顔が何とも眩しいです。
しかも覚馬さん、禁足が解けただけでなく、軍事取調役と大砲頭取に抜擢されました。
この抜擢が、ゆくゆくは覚馬さんを歴史の渦の中心に否応なく巻き込んでいくことになるのですが、それはまた先の話。
今は覚馬さんの復帰を喜ぶことに致しましょう。
そういえば覚馬さんは子供のころから気性が激しかったそうです。
それも踏まえてか、「以後は軽々しぐ喧嘩沙汰など起ごしてはならぬぞ」と権助さん。
そして、そんな覚馬さんに嫁を取って身を固めろと、何と縁談にまで話が飛びました。
とはいっても覚馬さんこのとき30歳、数えで31歳。
身を固めても全くおかしくないどころか、今まで話がなかったのも少し不思議な年頃です(江戸に行ったりしてたからでしょうかね)。
大好きなお兄さんの縁談話に、思わず「縁談!?」と叫んでしまった八重さんは、聞き耳を立てていたことがすっかりばれてしまいます。
そんな八重さんに、権助さんは丁度いいから「にしの腕前、見せてもらうべ」とな。
前に二葉さんの侍女の方も八重さんが鉄砲撃ってることは知ってましたが、ご城下ではみんな知ってます、状態なのでしょうかね。

ご指名を受けた八重さんは、ゲーベル銃に手際よく弾込めをしていきます。
このとき八重さん13歳、数えで14歳、鉄砲を本格的に覚馬さんから仕込みが始まったあの日からは2年が経過しております。
もともと鉄砲の勘とセンスは天性のものを持っていた感のある八重さんですが、覚馬さんからの仕込みもあって、見事弾は的に命中。

見事なもんだ。おなごでも、鍛練次第であれほどの腕となっか
武術の心得の浅い者でも、洋式銃が使えれば十分に戦の役に立づな

こんな言葉を漏らしていることから、権助さんが八重さんに鉄砲を撃たせたのは、八重さんの腕前見るというよりはむしろ洋式銃の性能の高さ的なものを確認したように思えます。
年月をかけない兵力の確保。
しかし、銃を兵力とするなら銃をたくさん仕入れる必要があります。
会津の財政を考えると・・・と渋い顔の権助さんに、覚馬さんは策がある、といって尚之助さんを紹介します。
尚之助さんは、領内の鉄砲鍛冶の手を借りて、何とか安上がりで銃を作ってもらえるように模索中だそうで。
しかもその道に長けていて、新式銃の工夫をしているところとな。
つまりは銃の地産地消ですね。
権助さんもその策を頼もしく思い、兵制改革と、それと縁談話も急ぎ進めると言います。
権助さんが持ってきた話だと、覚馬さんのお相手は御勘定方の樋口家の娘さん。

西向いでろど言われだら一年でも西向いでいるようなおなごだ

忘れたころに、何処かで再びひょっこり聞くことになりますこの言葉。
ちょっと記憶の片隅に置いておいて下さい(笑)。

晴れて禁足が解けた覚馬さんは、西郷さんのいる番頭詰所へ。
西郷さんは番頭なので、羽織紐の色が納戸色ですね。
ちょっと、紺色に見えなくもないですが(苦笑)。
覚馬さんは花色
何度も言いますように、西郷さんの方が覚馬さんより2つ年下なのですが、この両者の間には第一級と第四級という決定的な身分の壁が存在します。
でも俳優さんのせいか、どうしても西郷さんの方が年長者に見えてしまいますよね。
そんなおふたりのところへ、春英と呼ばれる人物がやってきます。
古川春英さん、文政11年(1828)のお生まれですから、覚馬さんと同じくこのとき30歳、数えで31歳。
駒板村(現在の福島県郡山市)の農家に生まれた春英さんは、御番医師の山内春瓏さん(彼の奥さんの姪が瓜生岩子さんです)の家弟となって医術を学びますが、漢方医学の限界を悟って会津を出奔、緒方洪庵さんの適塾に入門しました。
その後長崎に渡ってアントニウス・ボードウィンさんに師事し、そこで松本良順さんとも出会ってます。
後々の話になりますが、会津戦争中、会津で戦傷者の治療に当たっていた良順さんは、「古川春英はどこにいるのか。会津藩には古川春英がいるではないか。早く彼を呼びなさい」と言ったそうです。
話が逸れましたが、要は春英さんは長崎仕込みの蘭学者かつ適塾仕込みの医者というわけですね。
藩を出奔した春英さんの帰藩には、若年寄の田中玄清さん(通称田中土佐)と神保内蔵助さんが周旋して下さったようです。
この両人は後に、西郷さんと同じく会津の家老になります。
そして更に嬉しいことに、尚之助さんの教授方就任にもお許しが出たようです。

もはや古き良きものを守るだけでは立ぢゆがぬ。藩を守るため、変えるべきごどは変えでいがねばな

覚馬さん達の芽が、ようやく芽吹ける環境が整ったといったところでしょうか。
視聴者として、その芽がどうなるのか、成長の行方をそっと見守っていくことにしたいと思います。

変わると言えば、覚馬さんの環境。
白無垢に綿帽子を被った彼女こそ、覚馬さんのお嫁さんのうらさんです。
髪型は文金高島田でしょうか、それにしては少し飾りが少ないかな。
現代では違いますが、婚の字に「昏」の字が含まれている通り、昔は花嫁は黄昏に出立して婚家にやって来ました。
大河ドラマをはじめ、時代劇の結婚式シーンが夜に行われてるのはそのためです。
余談ですが、ヴィクトリア朝時代の結婚式は午前中に、という決まりごとがあったそうです。
国によって、結婚式もそれぞれだったのですね。
さて、その親友の結婚式の宴を、少し離れて見守るような位置にいる尚之助さん。
居候の身なので、座敷に加わることは気が引けているようです。
八重さんの話ですと、どうやら尚之助さんは、教授方には就任出来ても仕官は叶わず(=藩士にはなれず)なご様子。
当の尚之助さんは、身分や立場に対する拘りが薄いのか、淡々と現状を受け容れておられます。
でも先のことを考えると、会津藩士の娘である八重さんと結婚するには、やっぱり会津藩士じゃないと駄目なのではないでしょうか。
ということは、尚之助さんが藩士身分になるのはもう少し先かなぁ。

ほんの少しばかりお久しぶりな気がしなくもない勝さん、何やら大物と思しき御仁と面談中。
薩摩藩第十一代藩主、島津斉彬さんです。
文化6年3月14日(1809年4月28日)のお生まれですのでこのとき49歳、数えで50歳。
道理で薩摩切子と葡萄酒が似合うはずです。
斉彬さんが、藩主になるや否や藩の富国強兵に努め、洋式の船を造らせたり、反射炉や溶鉱炉の建設をしたりしたことは大河ドラマ「篤姫」にもよく描かれていましたよね。

異国と渡り合うには日本はもっと強くならねばならぬ。わしが軍艦や大筒を造らせているのは薩摩一国を守るためではない。幕府と手を携え、国難に当たる覚悟でいるのだ

そのために、今までのような旧弊の政では対応出来ないので体制を変える必要があるのに、現在の幕府の役職は譜代門閥に占められていることを斉彬さんは嘆きます。
譜代門閥というのは、譜代大名ということで捉えて問題ないと思います。
ですが斉彬さんの薩摩藩は外様大名であるので、政治には参加出来ないという立場にありました。
それが、徳川幕府開闢以来の「慣例」だったのです。
二百年以上に亘って守られ続けてきたその慣例に対して、斉彬さんは次のように言います。

門閥に囚われず、有為の人材を登用してこそ国は強くなる。その望みを、わしは一橋慶喜公に託している

葡萄酒をはじめ、何やら室内に洋風なものが目立つ斉彬さんは、蘭癖と称されています。
蘭はオランダのことです(要は西洋かぶれ)。
そんな斉彬さんが、天皇が!攘夷を!夷狄を打ち払え!と鼻息を荒くしていた斉昭さんの息子、慶喜さんを何故推すのだろうか?
と思った方に見て頂きたいのが、以下の家系図(敬称略)。

例によってお手製ですので拙くて申し訳ないです。
何だか八代将軍の吉宗さんから始まってますが、平たく言えば斉彬さんのご正室、英姫さんのご実家が一橋家なのです。
かつ英姫さんと、斉彬さんの曾御祖父さんの島津重豪さんを辿っていくと、徳川将軍家にもかかわりがあることが分かります。
それでも外様な島津家。
篤姫さんを将軍御台所に送り込んで大奥工作をし、一橋慶喜さんを将軍にして幕政改革(外様譜代など関係なく、優れた者の登用と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵を奨励し諸外国に対抗するというもの)を進める、という壮大な斉彬さんの計画は「篤姫」の世界で散々語られたことですよね。
そういう現状もあったようですが、こういう関係もあったのも、一橋派だった理由のひとつじゃないのかなと、未熟ながら思っております。

さてその斉彬さん。
実は叔母の郁姫さんが近衛忠煕さんの正室となっていた関係で、京の有力公家ともパイプを持っています。
この郁姫さんについては、「篤姫」のときに幾島さんが篤姫さんの前に仕えていた女性というのは皆様の記憶に新しいかと思います。
そのパイプを利用して、斉彬さんは西郷どんを京に向かわせていたようです。
少し話が逸れますが、西郷どんな斉彬さんに直接教えを受けた人物として知られています。
斉彬さんの言葉に、「十人が十人とも好む人材は非常事態に対応できないので登用しない」というのがあるのですが、ということは西郷どんは「十人が十人とも好」まない人材ということになるのでしょうか(笑)。
まあその西郷どんが何をしているかと言えば、時代劇の定番の黄金饅頭攻撃です。
おぬしもワルよの~、のお決まり台詞が聞こえてきそうな気がしなくもないですが、冗談抜きにこの頃のお公家さんの生活は困窮したものでした。
天皇のおられる御所も例外ではなく、築地塀が崩れてるのが三条大橋から見えたとか見えなかったとか。
また、商人はお公家さんから借金申し込まれるから、お公家さんの家の前通るときは声をひそめたとか。
そんな話が残っておりますので、黄金饅頭の効果はさぞや絶大だったことと思われます。
京での話はすぐに江戸に伝わるものらしく、慶喜さんと一緒におられるのは越前福井藩十六代藩主、松平春嶽さん(春嶽というのは雅号です)。
文政11年9月2日(1828年10月10日)のお生まれですので、このとき30歳、数えで31歳。
慶喜さんとの会話の内容からも察せる通り、春嶽さんも斉彬さんと同じく一橋派です。
そもそもこの春嶽さん、嘉永6年(1853)にペリーさんが来航したときには、開国と通商条約締結の要求を蹴って直ちに戦をするべし、という意見でした。
それを安政3年から改め、積極的開国と日本の防衛策に建議を重ねるようになります。
将軍後継問題で一橋派なのは、幕閣諸大名を指揮出来る英明な人物こそいま必要である、という考えからです。
対抗馬の紀州派が推している徳川慶福さんは弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)のお生まれなので、この時点でまだ12歳、数えで13歳なのです。
混迷としてる世情と今の幕府のかじ取りには、少し心もとない、言ってしまえば未熟な年齢です。
対してこの慶喜さんは天保8年9月29日(1837年10月28日)のお生まれなので、このとき21歳、数えで22歳。
今の世情なども考えて、誰がリーダーに立つべきか。
そう考えれば、春嶽さん達の意見に分があるように見えますが、そんなときに紀州派の筆頭である井伊直弼さんが大老に就任しました。
安政5年4月23日(1858年6月4日)のことです。
大老は非常置の職ですが、大名家・執政機関の最高責任者で老中よりも格上です。
これで一気に一橋派の旗色は悪くなります。
・・・世の中、そう甘くはないようですね。
ちなみに、水戸藩の斉昭さんの息子の派閥なのに「水戸派」ではなく「一橋派」なのかと言いますと、慶喜さん自体は弘化4年9月1日(1847年10月9日)に水戸徳川家から一橋家に養子に入ってるからです。

幕府上層部の曇天から一転、会津の美しい自然に場面移動。
今年の大河は「画面の美しさにこだわった」というようなことを小耳に挟んでましたが、本当折々映し出される自然風景は美しいですね。
その大自然の中で、川魚を獲るべく奮闘しているのは覚馬さん、尚之助さん、八重さん、三郎さん、そして土手の上からそれを観賞する時尾さん。
そこへ弁当を持って、うらさんと下男の徳造さんがやってきます。
八重さんにとってうらさんは義理とはいえお姉さんですから、やっぱり仲良くなりたいのか、八重さんは一緒に魚獲りをしないかとうらさんを誘います。

そったらごど、おなごのするごどでねぇがら

うらさんに悪気はなかったのでしょうが、そういわれたときの八重さんのしゅんとした顔が、何とも可哀想といいますか・・・。
八重さんの姿ばかりを追っていると、特に違和感は感じませんが、当時の女性の普通且つ模範はこのうらさんですよね。
夫を立てて、黙って家事をこなし、夫のすることに一切口出しをしない。
今なら「昔ながらの女性」と言われそうですが、その昔がこのときです。
史実はどうかは伝わっていませんが、ドラマのうらさんは正しく絵に描いたような武家の嫁です。
第1回から第2回を通じて、当時のおなごがするべきではない鉄砲を「ならぬことはならぬ」と分かりながらも、「やむにやまれぬ思い」から手にした八重さんの過程を視聴者の皆様は見て来ました。
その八重さんの隣に、ここで「当時の一般女性」であるうらさんを持ってくることで、八重さんがどれだけ当時の女性として奇妙なのかが良く浮き出ていると思います。
八重さんはうらさんを「異国がら来た黒船みでぇ」と譬えますが、その他大勢の会津女性からすれば、八重さんの方が「異国から来た黒船」のように見えているはず。
覚馬さんや尚之助さんにくっ付いて、鉄砲の構造も良く理解している八重さんは開明的なのでしょうが、開明的が当時の普通には結び付かない。
時尾さんが「八重さんの家は余所とは違うから」と言葉に出して言うよりも、優等生嫁のうらさんがただ横にいるだけの方が、八重さんの異質っぷりが良く分かりますね。

この回は安政5年(1858)のお話なのですが、この年の6月19日(1858年7月29日)に日米修好通商条約が結ばれます。
しかしこの条約は勅許(天皇の許可)のないまま直弼さんが結んだものでした。
これに青筋立てて激怒しているのは、慶喜さん。

勅許を得ずに条約を結ぶとは何事か!帝に対し不埒千万!

何故こんなにも彼が怒髪天衝いているのかと言いますと、慶喜さんはお母さんが有栖川宮織仁親王の娘さんなのですね。
要は母方に宮家の血筋を持ち、且つお里の水戸藩は勤王思想の非常に強いお国柄です。
先程慶喜さんが一橋家に養子入りしていることには触れましたが、それでも養子入りまではその水戸藩の思想にどっぷり浸かった教育、いわゆる「水戸学」を施されていたわけです。
勤王思想?水戸学?と、またややこしそうな単語が出てきましたね。
詳しくはまた別に記事を設けて触れようと思いますが、水戸家には「もし徳川宗家と朝廷との間に戦が起きたならば躊躇うことなく帝を奉ぜよ」と、幕府よりも朝廷を、将軍よりも天皇を重んじる家風があったのです。
つまり天皇を敬う=尊王思想が根付いていたのです。
ですので、その教育のもとで育った慶喜さんからすれば、天皇の存在を無視して幕府(正確には直弼さん)の独断で異国と条約を結んだことに憤りを感じるのです。

怒っているのは慶喜さんだけではありません。
6月24日(1858年8月3日)、慶喜さんの実父の斉昭さん、慶喜さんのお兄さんに当たる水戸藩主の徳川慶篤さん、容保様のお兄さんに当たる尾張藩主の徳川慶恕さんの三名が、肩を怒らせて江戸城に登城します。
直弼さんのことを「井伊の赤鬼め」と斉昭さんは仰ってましたが、この渾名はもう少し後の出来事からつけられたものと考えられますので、ちょっとこのときに出てくるのはおかしいかなという気もしました。
さてこのご三方、直弼さんに面会を求めて大廊下の間で待たされますが、史実では五時間も待たされたそうです。
当時大名は登城の際、弁当を持参してましたので、勿論昼食も出ずです。
お茶は出たみたいですけどね。
そのお茶ももういらない!と斉昭さんが茶坊主に怒鳴ったその時、ようやく直弼さんのご登場です。
ちなみに待ってる五時間の間、三人は「今日は直弼に腹を切らさなくては退出しない」と大声で直弼さんを罵ってたそうです。
穏やかではありませんね・・・斉昭さん、早速直弼さんに噛み付きます。
直弼さんは無断調印せざるを得ない事情を説明しつつも、後は只管に神妙に神妙に頭を下げ・・・と、これには三人も些か出鼻を挫かれたというか、肩透かしを食らったご様子。
代わって話題に出たのが、将軍後継者の件。
まさか慶福さんではないかと慶篤さんが訝しむも、直弼さんは「全て調ってござる」の一点張り。
 ここでは触れられませんでしたが、十二代将軍の家慶さんが、家定さん(十三代将軍)に何かあったときは、慶喜さんを後継にするという話はあったらしいですね。
公式確定されてなかっただけで。
それと、本当ならここで斉昭さんが春嶽さんの同席を求めて、直弼さんが拒否しているのですが、それも触れられていないご様子。
さて、「ところで」と、今度は直弼さんのターンです。

本日は御三家のご登城日では御座りませぬぞ。押しかけ登城がご法度であること、よもやお忘れではござりますまい

押しかけ登城と言っておりますが、当時の言葉で正しく言うなら「不時登城」です。
御三家の登城日がいつなのかは、ちょっと調べがついてないのですが、御三方は見事に揚げ足を取られた形になります。

重いご処分覚悟でご登城された割には・・・さしたるお話でも、ござりませんでしたな

そう言い放つ直弼さんが物凄く腹黒いというか、やり手に見えますね(笑)。
御三家相手にも臆さない・・・これが大老の格というものでしょうか。
そして翌日の25日、将軍の後継者は紀州藩第13代藩主、徳川慶福さんに定められます。
大奥のご意向や、慶喜さんよりも慶福さんの方が家定さんの従兄弟だから血筋が近い、という様々な理由がありますが・・・さてさて。
そして7月5日(1858年8月13日)、斉昭さんに謹慎、慶篤さんと慶喜さんは登城停止、慶恕さんと春嶽さんには隠居・謹慎の処分が下されます。
これによって一橋派は政治の表舞台から消えることになります。
しかし私個人的に奇妙なのが、不時登城の処罰ならもっと早くに下っても良かったはず。
なのに何故翌月の7月5日まで待ったのだろうか、と・・・そこでふと目についたのが、翌日の7月6日に十三代将軍家定さんが亡くなっていること。
ちなみにこの一橋派一掃処分、さも直弼さんがやったように見えますが、処分を発表したのは家定さんということになっています。
要は一橋派一掃処分=将軍の命令、なのですね。
しかし翌日に儚くなるような人が、そんな命令出せるのかを考えたら、甚だ疑問です。
この両日の近さは偶然なのでしょうか?
拙い我が身では、それ以上のことは分かりません・・・。

物凄く腹黒く見えた直弼さんですが、それは斉昭さん達サイドから見たからでしょう。
次の場面では、視点は直弼さんサイドに置かれています。
どうやら直弼さんは容保様を茶室に招いたようです。
このおふたりは、直接的な関係はありませんが、彦根藩十二代藩主直幸の娘が、会津藩六代藩主松平容住さんの御正室となっているので、遠い遠い親戚ですね。
折角ですから直弼さんのことにも触れたいのですが、また長くなりそうですので自重するとして、容保様は御三家の処分が過酷ではないかと直弼さんに言います。

物事の筋目は通さねばなりませぬ

どんな身分や立場であれ、法に背けば処罰を受ける。
その秩序こそが国を治める。
この直弼さんの言葉を、「ならぬことはならぬ」を掲げてる会津のお殿様にいうというのがまた深いですね。
無断調印したことについては、「天下の政は幕府が執り行うものと、朝廷より一任されてる」というのが直弼さんの言い分。
要は日本という国の政は幕府が請け負ってるんだから、朝廷が口出しするのがそもそも直弼さんからすればおかしな話に写るのでしょう。
斉昭さん達と意見は完全に対称的ですが、筋は通ってますよね。
1615年に公布された禁中並公家諸法度、および11代将軍家斉の頃に主張された大政委任論がそれを裏付けています。
しかし秩序を守るがために厳しく出ては、却って敵を作り、果ては身の危険に繋がるという容保様に、直弼さんはふっと微笑みます。

宗観院柳暁覚翁大居士、と授かりました。我が戒名でござる。大老職を拝受した折、菩提寺に託しました。命を捨てる覚悟なくては国事には当たれませぬ

いやはや、今の政治家に聞かせてやりたい台詞ですな。
大老としての責任感・・・というのは何か少し違う気がしますが、「今どうするべきか」というのを考え抜いた結果が、無断調印という結果だったんだろうなと。
もし調印しないという選択肢を選んでいたら(直弼さんの言葉を借りるなら「臨機応変の判断を誤る」)、国が滅んでいたことだって冗談抜きにあり得たのです。
国が滅んでしまっては元も子もありません。
朝廷が、鎖国が、と騒いでた御三家の方よりも、もう一段高いところから日本の置かれてる立場というものを見れていたのかもしれませんね。
と考えるのは、いささか井伊直弼という人物を美化しすぎでしょうか。

容保様が彦根藩上屋敷を後にされる直前に見上げた星と同じ星を、八重さんも覚馬さんと尚之助さんと一緒に会津で見上げてました。
この星はドナティ彗星ですね。
脚本の方、よくご存知だったな~と、そっちの方向でも感心しきりです。
八重さんはそれを見て、何かの前触れかと案じます。
対して尚之助さんは、そんなのは迷信で、あれは天体の働きのひとつに過ぎないと断言。
でも迷信と言い切ってしまえるのは、尚之助さんが蘭学に馴染んでるからでして、あの時代の普通の感覚だと八重さんの反応が正しいです。
彗星は、あまりよくないことの前触れだとされていました。
当時は「箒星」と読ばれていた彗星ですが、では覚馬さんの口からぽろっとでた「妖霊星」とは?
覚馬さんの話ですと、鎌倉幕府が滅んだ時にも出現したようですが・・・。
というわけで、『太平記』を開いてみたところ、どうやら「相模入道田楽を弄ぶ竝闘犬の事」がその該当箇所のようです。
そこに「天王寺のえうれいぼしを見ばや」という一文が見られます(えうれいぼし=ようれいぼし=妖霊星)。
内容はまた興味ある人に読んで頂くことにして、江戸時代の人は日常的に『太平記』に親しんでたので、覚馬さんの口からすぐに「妖霊星」の単語が出てくるのは、全く不自然でも何でもないのです。
この妖霊星が招いたわけではありませんが、この年から三年間に亘って、コロリ(コレラ)が大流行します。
死因の諸説はありますが、斉彬さんも7月16日(1858年8月24日)にコレラで亡くなったとされています。

ドナティ彗星こと妖霊星がもたらした不幸は、それだけではありませんでした。
戊午の密勅、というのがあります。
孝明天皇が水戸藩に勅許を下賜したもので 、幕府は攘夷推進の幕政改革を遂行せよとの命令や、無断調印の呵責と詳細な説明の要求などなどがその内容でした。
更には直弼さんの排斥まで。
そもそも水戸藩は、幕府の臣下のひとつに過ぎないわけです。
その水戸藩へ、朝廷から直接勅書が渡されたということは、幕府が蔑ろにされたことになり、これを見過ごしては幕府の権威は失墜したも同然、面目が立ちません。
これが引き金となり、かの有名な「安政の大獄」の幕が9月から切って落とされます。
安政の大獄って、歴史用語としての知名度は高いですが、直弼さんが何であんな事やったのかまではあんまり知られてないですよね。
つまりはこの戊午の密勅に関わった人たちを片っ端から検挙していったのです。
斉昭さんは国許で永蟄居、慶篤さんと慶喜さん、慶恕さんは隠居謹慎。
幕末の四賢侯と謳われた春嶽さん、伊達宗城さん、山内容堂さん(斉彬さんは亡くなってるので除く)も隠居謹慎に追いやられます。
公家は右大臣左大臣、前関白に前内大臣が辞任して落飾させられました。
検挙の範囲は大名や公家だけに留まりません。

寅次郎さんが捕まった

覚馬さんがそういったように、寅次郎さんこと吉田松陰さんも捕縛されました。
あるいは、松陰さんが安政の大獄の受刑者の中で一番有名かもしれませんね。
幕末の大きな厄災の火種もこんなところに芽吹いてます・・・。


ではでは、此度はこのあたりで。


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