2013年2月4日月曜日

第5回「松陰の遺言」

伝馬町牢屋敷に入れられている松陰さんから始まりました、第5回。
一心不乱に何かを書き綴っておりますが、獄中での彼の有名な著書『留魂録』執筆にはまだ早いので、書いてるのは別のものでしょうか。

場面は変わりまして、第1回では漁村でしかなかったこの場所。
しかし今では通りが整備され、店が立ち並んで大勢の人が行き交い、大変なにぎわいを見せております。
何を隠そう、この場所こそ横浜。
戸数100戸にも満たないしがない漁村だった場所のあまりの急な変貌に、尚之助さんが「ここが横浜?」というのも無理ないことだと思います。
私としては、あの太鼓橋が太秦映画村にあったものとそっくりだったので、いやいや横浜じゃなくて映画村でしょうと突っ込んでしまいたくなったのですが(笑)。
勝さんの話ですと、開港してひと月ほどでこの繁盛ぶりのようです。
横浜が開港しているということで、今回は安政6年(1859)からのお話ということになりますね。
これで現在開港しているのは、下田と函館に加え、長崎とこの横浜ということになります。
さて、雑貨屋さんでお土産を買い求める尚之助さんですが、蘭語が通じません。
第2回で黒船に乗り込むと息巻いていた覚馬さんに、「覚馬さんの下手な蘭語」と仰ってたので蘭語にはそこそこの自信がおありだったでしょうに、これは苦笑いもしたくなりましょうね。
それでも即座に「はぁーう、まっち、いず、いっと」とメリケン語(英語)と切り替えられる辺り、流石ですね。
そういえばかの福沢諭吉も、この横浜で自分が必死に学んできたオランダ語が通じず、英語で書かれた看板の文字さえも読めないことにショックを受けたのがきっかけで、独学で英語の勉強を始めたのですっけね。
しかし尚之助さんが値段を聞いていたもの、気のせいでなければビー玉でしょうか。
ビー玉は、当時だとお土産に該当するものなのかな・・・まあガラス細工で色も付いてて綺麗ですから、当時の日本には珍しいものでしたよね。
そんな風に変にビー玉に注目していると、浪士数人が「攘夷」と叫びながら通りにいた異国人を斬りつけます。
(一瞬尚之助さんに向かって来てるのかと思いました)
一刀のもとに、お見事・・・と言いたくなりますが、そんなことは言っては駄目ですね。
勝さんが駆け寄って脈を診ますが、既に事切れた様子。
直弼さんによる弾圧が続く一方で、攘夷熱が変な方向に向かっていることを目の当たりにした尚之助さんでした。

山本家では14歳、数えで15歳になった八重さんが兄嫁のうらさんと畑仕事。
何となく先週は、模範的過ぎて何処か機械のようにも感じられすぎたうらさんですが、今週は少し柔らかくなった気がします。
鉄砲を撃つ「当時の女性」として変わった位置にいる八重さんと、畑仕事が好きな武家のおなごらしからぬうらさんが、「外れ者同士」として心を触れ合わせ始めたからでしょうか。
お互いの存在が黒船に見えていたであろう義理姉妹が打ち解け始めたのですね。
そんな山本家、小豆が用意されているのではてと思いきや、どうやらうらさんが御懐妊のようです。
めでたいです。
そのおめでたモードの中、尚之助さんが横浜から帰宅。
蝙蝠傘やビー玉やハンカチや手鏡など、珍しい横浜土産に皆様の反応もそれぞれ。
枝葉になりますが、うらさんへのお土産のハンカチを今のように正方形にしたのはマリー・アントワネットです。
尚之助さんも無事に戻って、今日は良いこと尽くめだという八重さんの促しに従って、懐妊のことを覚馬さんに切り出そうとするうらさんですが、覚馬さんが別のお話を尚之助さんと始めてしまったので言えず・・・。
うらさん、夫の話を遮ってまで自分の話を出さない辺りは相変わらず模範的な武家の嫁ですね。
でも「後で」と八重さんに口パクで伝えてて、義理姉妹の距離は確実に縮まってるように見受けられて、些細なやり取りなのに何だか微笑ましく思えました。

さて、覚馬さんの懸念事は寅次郎さんのこと。
寅次郎さんが江戸の評定所に送られ、詮議を受けていることは先週の時点で覚馬さんの耳にも入っていましたね。
寅次郎さんが萩の獄舎から江戸の評定所に護送されたのは、安政6年5月25日(1859年6月25日)早朝のこと。
問われた罪は、儒学者である梅田雲浜さんとの密会について。
雲浜さんは元小浜藩士で、尊王攘夷の論を以って幕府を激しく批判したがために安政の大獄逮捕者第一号となった方です。
その雲浜さんとの関係を松陰先生は疑われたのですね。
けれどもその件に関しては松陰さんは潔白でした。
ですがここで松陰さんは、評定所を通じて幕府に自分の意見を届ける絶好の機会だと捉えたのか、老中の間部詮勝さんの襲撃を企てたことを告白します。
詮勝さんは「赤鬼」と畏怖された直弼さんに対して、「青鬼」と呼ばれていました。
安政の大獄は、直弼さんひとりで弾圧していったのではなく、尚之助さんが「走狗」と言っているように、赤鬼に青鬼が合力してなされたことです。
ですが詮勝さんも結局は直弼さんと対立して、この年に老中を免職されてます。
その詮勝さんを襲って、安政の大獄による弾圧の件を諌めるつもりだったという松陰さん。
何故告白したのか、馬鹿正直という言葉だけでは片付けにくいと思いますので、次の松陰さんの言葉をご紹介したいと思います。
人を信ずることは、もちろん、遥かに人を疑うことに勝っている。わたくしは、人を信じ過ぎる欠点があったとしても、絶対に人を疑い過ぎる欠点はないようにしたいと思う。(吉田松陰、近藤啓吾 全訳注、1979、講孟箚記(上)、講談社)

松陰さんには人を信用するという性格が、人よりも色濃かったのですね。
故に、自分の告白は必ず届くと思ったのではないでしょうか。
それは、馬鹿正直というには何だか少し違う気がします。

脅しに屈した開国は、国土を異国に破られたも同然。こげな折に、国を憂う者たちを弾圧しちょっては人心は離反するばかりじゃ

松陰さんが老中襲撃を企ててでも届けたかったのは、この部分。
しかし、幕府の側からすれば老中暗殺を企てたという告白を放っておくわけにはいきません。
ここで、松陰さんと評定所の人達の間に、認識のずれのようなものが生まれました。
この老中襲撃計画について、教え子の久坂玄瑞さん、高杉晋作さん、桂小五郎さん達は反対して同調しませんでした。
久坂さんは松陰先生の妹婿ですが、彼にすら同調を得られなかったのです。
松陰さんが老中と刺し違える覚悟だったということを聞いて、覚馬さんも首を傾げます。
尚之助さんは「人が変わったように」と仰いますが、松陰さんの遺した言葉に触れていると、変わってはおらず、むしろ最初から松陰さんはそういう人だったように思えます。
記憶違いでなければ、倒幕を一番最初に提唱したのも彼ですし。
余話になりますが、松陰さんが第1回で登場したときから使っておられる一人称の「僕」は長州ならではで、二人称の「君」も長州ならでは。
と言いますか、どちらも松陰先生が使い始めたものです。

話の途中で、覚馬さんにお客様。
と思いきや、覚馬さんが玄関に姿を見せた途端、「攘夷!」と斬りかかります。
初太刀は交わしたものを、切っ先が覚馬さんの腕を掠めました。
「夷狄におもねる奸物め」と、もうひとりの男も斬りかかりますが、うらさんがその腰に二度ほど飛びつきます。
が、蹴り飛ばされ植え込み近くに蹲ることに・・・。
外に出ていた三郎さんも、蝙蝠傘の束の曲線に浪士の足を引っ掛けて必死に応戦するも、やはりまだまだ子供なので奮闘空しく・・・とそこへ騒ぎを聞きつけた八重さん参入。
パッと三郎さんを後ろに庇い、三郎さんの手から傘を取って丸腰で浪士と応戦していた覚馬さんにパス。
寸でのところで覚馬さんは凶刃を受け止め、斬撃を捌いて行く一方で八重さんもお土産のビー玉を投げつけて応戦。
八重さん、鉄砲だけでなく、飛び道具なら何でも命中率抜群ですか・・・大の男を怯ませるとは凄いですね。
これから女性は護身のためにビー玉持ってれば良いのではないでしょうか。
そして覚馬さんも、武器が傘でも無双状態にお強い!
そこへ更なる援軍として、鉄砲を携えた尚之助さん。
流石に覚馬さんの首を上げることは出来ないと悟ったか、浪士たちは逃げて行きます。
尚之助さんが後を追いかけますが、見つからなかったようで。
一方、突き飛ばされれて体が大変なことになったうらさん。
直接言葉で触れられることはありませんでしたが、放置された小豆と侍女の啜り泣きから、お腹のややがどうなったのかは一目瞭然。
こんな場面でこんな評価は不謹慎かもしれませんが、「八重の桜」のこういう、無言の表現、好きだなって思います。
この一見に際して、攘夷とは一体何なのかを改めて突き付けられたように考える覚馬さん。

あやづらは、まるで狂犬だ。やづらのいう攘夷どは何だ。俺を斬って攘夷が。異国の水夫を斬って攘夷が。・・・蹶起を煽り、老中を襲い、人の命さ奪って、それが攘夷がっ!

攘夷の根底には、人を殺めることはないと思います。
でも攘夷熱に浮かされた沢山の人が、このときも、この先も、間違った形で刃を振るったのも幕末史の事実です。
本人たちからすれば、人を殺めることすら正しいことをしているという思い込みのようなものがあるのでしょうけどね。
眉は顰めますが、咎めることは出来ません・・・。

うらさんのややは、やはり・・・だったようで。
辛いのは自分でしょうのに、ややこのことを開口一番に謝るうらさんが、本当武家のおなごの律義さを集めたように見えて、こっちが切なくなります。
起きたら起きたで気丈に明るく振る舞ううらさんが、何とも健気で痛ましいです。
そこへ、八重さんが自分がしていたのと同じように豆に話しかけている姿をうらさんは見つけます。
加えて八重さんは、三郎さんと共に手竹を接いでくれたみたいです。
うらさんが気にしてたから、と・・・。
そんなやり取りをしている間に、堪らなくなったのかほろりと涙をこぼしてしまううらさん。
あの涙は八重さんと三郎さんの無垢な優しさが沁みたのか、それとも成長する豆と、成長しない流れてしまったややを自分の中で重ねてしまったのか、どちらなのか。

その年の10月27日(1859年11月21日)、松陰さんに死罪のお裁きが下ります。
最初は島流し的な処分だったと思いますが、自分がしたことは死罪が妥当と言って、直弼さんを激怒させて死罪になったのですよね。
死罪というか、斬刑という方が正しいです。
その死の知らせはほどなく会津の覚馬さんと尚之助さんにも齎され、年明けに勝さんから手紙でその詳細が伝えられます。
手紙を送った軍艦操練所教授方頭取の勝さんはと言えば、通商条約の批准書を交わす使節団に随行し、咸臨丸に乗って太平洋の上におりました。
この船の乗組員の中には福沢諭吉さんもおられました。
もしこのときTwitterがあったら、は勝さん「船酔いなう」、乗組員の皆様は「勝さんが船酔いで役に立たないなう」とつぶやいていたことでしょう。
それぐらい勝さんはこの航海中、船酔いに悩まされて役に立たなかったようで、それを諭吉さんが冷ややかに評していたと思います。

吉田松陰こと寅次郎。公儀をはばからず不敬千万。殊に蟄居中の身で梅田雲浜と一味致し候段、不届きにつき死罪申し付ける

松陰さんへの罪状はこういったものでした。
「松陰」というのは号なので、「吉田松陰こと寅次郎」という言い方は少し違うような気もしますが・・・。
この罪状が下される前々日の25日から、松陰さんは『留魂録』という松下村塾の門弟のために書いた遺書を獄中で認めてます。
有名な「身はたとひ武蔵の野辺にくちぬとも留め置かまし大和魂」の辞世は、この冒頭に書かれています。
二十一回猛士というのは松陰と同じく、彼の号。
最後の一文は「七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや」と締めくくられています。
講談社から全訳注のものが出版されてますので、興味のある方はお手に取ってみて下さい。
・・・枕が長くなりました。

その申し渡し書は偽りだ!僕は、梅田雲浜の一党に与したんじゃない!

読み下された罪状に寅次郎さんは大声で誤りを糺しますが、役人には届かず。
勝さんも仰ってるように、松陰さんは、自分の罪状がそんなちっぽけなものにすり替えられたのが我慢ならなかったのでしょうね。
生きて生きて、それでもまだ数えで30歳ですが、その自分の人生を終わらされる理由がそんなのって、堪ったものじゃないでしょう。
吉田松陰という男が、いまの日本にとってマイナスにしかならない安政の大獄の弾圧を諌めるために老中襲撃を企て、しかし敵わず斬刑に処せられたという風にしてもらわなきゃ、同じ死ぬにしても死に切れないといった心地でしょうか。
しかし噛み付いても無駄だと悟ったのか、松陰さんは言います。
此度の大事は、自分一人が死んで見せれば後に残る者(塾生でしょうね)がこの国を守るために奮い立つ、と。

天朝も、幕府も藩もいらん。ただ身ひとつで立ち上がれば良い!立ち上がれっ!」 

麻の裃が、役人と揉みあう内に引き剥がれてしまってる松陰さん。
それでも眼光未だ鋭いまま、最後にこう叫びます。

至誠にして動かざるものは、未だこれあらざるなり

あまりの気魄に、役人の皆様もたじろぎました。
誠を尽くせば動かせないものなど何もないのだというこの言葉、元々は「至誠にして動かざる者は未だ之れあらざるなり。誠ならずして未だ能く動かす者はあらざるなり」という孟子の言葉です。
そうしてそっと、静かに松陰さんはお白州に向かって行きます。
勝さんからの手紙を通じて松陰さんの最期を知った覚馬さんは、過激攘夷はに対する怒りと、攘夷を提唱する寅次郎さんへの友情の相剋に、整理がついたような顔をしています。
一時は寅次郎さんが変わってしまったのでは、とさえ思っていた覚馬さんですが、やり方とかは違っても、誠を尽くして己の正しいと思うことを行動して行くという「至誠」な生き方のもとで、再び通じ合ったのではないかなと。
最後に覚馬さんが生き生きとしてる松陰さんを脳裏に描いていたのも、そういう心境描写の現れだったのではないでしょうか。

重たく冷たい冬が空け、早春の会津。
彼岸獅子の囃子の方へ駆け寄る八重さんの横顔を見て、ふと気づいたことがひとつ。
気のせいかなとも思いましたが、八重さんと、そして後で追い付いて来た時尾さん、髪型が桃割れから娘島田になってますね。
髪上げ(女性の成年式)が終わってるということでしょうか。
ちなみにこのとき八重さん15歳、数えで16歳になってます。
彼岸獅子というのは会津の春の風物詩です。
家内安全、商売繁盛、作物豊作を願って、三体の獅子が囃子に合わせて踊ります。
詳しくはこちら→【会津彼岸獅子】。
後々のネタバレになりますが、彼岸獅子っていうと与七郎さんだよなー・・・と思ってたら、その与七郎さんが登場したので思わず吹き出しました。
時尾さんの話ですと、お父さんが亡くなって家督を継いで当主となったので、もう与七郎ではなく大蔵様らしいです。
このとき15歳、数えで16歳ですね。
この大蔵さんが、後々にこの時尾さんと新撰組三番隊組長の斎藤さんの下仲人を務めます(上仲人は容保様)。
しかし、時尾さんの大蔵さんを見つめる眼差しが熱いような。
でも大蔵さんは大蔵さんで、八重さんに恋しちゃってる感じですよね。

ほんわかな会津のワンシーンの後ろでも、ばっちり時代は動いております。
安政7年3月3日(1860年3月24日)、桃の節句なのでお祝いを述べるために江戸在住の大名総登城のこの日、江戸は大雪に見舞われました。
直弼さんも登城のため、駕籠に乗って上屋敷を発ちます。

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彦根藩上屋敷は、現在の国会前庭園や憲政記念館の辺り(東京都千代田区永田町)。
元々は江戸初期に加藤清正さんの屋敷用地として幕府から割り当てられたところですが、加藤家改易以降はずっと井伊家の上屋敷がここにありました。
桜田門までの距離は僅か500メートルほど。
その桜田門まであと少し、杵築藩邸横を通り過ぎた辺りで、何やら不審な人物がひとり。
立ち読みしてたのは武鑑でしょうか・・・しかし周りに人がいないので、向こうが気付いてないとはいえ怪しさ際立ってます。
そこへ「訴えの者でござる!お願いの者にござる!」と駕籠訴をする男が転がり込むように行列の先頭の供頭の日下部三郎右衛門さんに駆け寄ります。
その男を取り押さえようとした瞬間、男が抜刀して三郎右衛門さんの鮮血が雪に飛びます。
同時に物陰から、先程の不審人物が短筒を撃ち、弾は駕籠の中の直弼さんに命中。
それを合図に、白鉢巻と襷掛けの水戸脱藩浪士が直弼さんの駕籠を含む行列を襲います。
このとき幕末史が動きました、「桜田門外の変」です。
予期せぬ襲撃に、供侍も応戦しようとしますが、雪の水分で刀身が湿るのを避けて、大刀小刀どちらにも柄袋を着け合羽を着ていたので、咄嗟に抜刀出来ませんでした。
人数は明らかに彦根側の方が多かったのですが、そんな状態でしたので反撃らしい反撃も出来ず、次々と斬り倒されていきます。
やがて浪士たちが直弼さんの駕籠を取り囲み、直弼さんは駕籠から引きずり出されて首を落とされました。
襲撃したのは水戸脱藩浪士17名と、薩摩を脱藩していたと思われる元薩摩藩士の有村次左衛門さんの合計18名。
水戸はとにかく、何故薩摩藩が?と思うやもしれませんが、実はこの桜田門外の変には隠された物語の続きがございまして。
本当ならここで直弼さんの首を上げて、そのまま水戸浪士と薩摩とで京で落ち合ってクーデターをするという後日談計画が存在してました。
しかしそれを水戸との間で計画したときに存命だった薩摩の斉彬さんはもうおらず、変わって薩摩の実権を握ったのはその弟の久光さん。
企画時と桜田門外の変時では、薩摩を取り巻く情勢が変わっていたので、クーデターは実現せず、となった次第です。
多分その余韻というか連係ミスの名残か何かで、薩摩藩士もひとり襲撃側に含まれているんだと思います。
桜田門外の変については、少し筆を割くのでまた新たに記事を設けます。

大老暗殺の知らせは、会津の容保様の元へも届けられます。
報せを受けた容保様は急遽江戸へ。
同じく会津で、武士の走り方じゃない走り方で、西郷さんのおられる詰所に向かう覚馬さん。
武士は膝の上に手を添えて走ります・・・いえ、それほど急いでると言いたいのでしょうけど、ちょっぴり気になりました。
それと気になったのが、西郷さんの羽織紐の色。
やっぱり紺色に見えるんですけど・・・私の見解が間違ってるのかな。
覚馬さんは西郷さんのところへ建白書を持って行ったそうです。

会津は、幕府と水戸の間を取り持ぢ、和平を保つことに尽力すべし

国を開いたばかりで内乱が起こっては、異国に付け入れられてしまいます。
故に水戸と彦根の双方が鉾を収められるように手を打つべきだという覚馬さんの訴えに、西郷さんはうかつに動くなと釘を刺しはするものを、上層部には彼の言うことは尤もだと進言。
本当、覚馬さんにとって良い上司ですね、西郷さん。
しかし幕府上層部では、水戸討伐になりそうだということ。
不穏な空気が会津にも漂い始めます。

江戸城では諸侯を集めて、水戸征伐についての話し合い。
場を仕切るのは、大老の直弼さんに代わって若年寄から老中になったばかりホヤホヤの安藤信正さん。
文政2年11月25日(1820年1月10日)のお生まれですので、このとき40歳、数えで41歳。
この信正さんも、二年後の文久2年1月15日(1862年2月13日)に水戸藩脱藩浪士に襲撃されます。
いわゆるこれが「坂下門外の変」。
直弼さんのときとは違って死者は出ませんでしたが、大老に続いて老中までもが襲われたのですから問題も問題、大問題ですよね。
まだ勃発していないその話はさておきまして、水戸討伐に対して粛々と異を唱えたのは容保様。

大老を害したは脱藩した者ども。これを以って水戸藩を罰しては筋が通りませぬ。また、天下の趨勢を鑑みるに、いま国内にて相争うは慎むべきと存じまする

筋が通りませぬ、と容保様が口にされると何だか重みがありますね。
物事の道理を通す、会津のお殿様が故でしょうか。
そして予告によれば、「京都守護職」という単語がちらほらり・・・。
会津が抜け出せない時代の渦の中心に、少しずつ呑み込まれていく過程を見るのは、これがまたまた辛かったりもします。

ではでは、此度はこのあたりで。


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