2013年2月15日金曜日

第6回「会津の決意」

前回に引き続き、桜田門外の変より起こった水戸討伐評議の場から始まりました第6回。
水戸を討ってはならぬと、ただひとりこの場にて水戸征伐を反対した容保様に、なにゆえかと理由を求めるのは徳川十四代将軍、徳川家茂さん。
弘化3年閏5月24日(1846年7月17日)のお生まれなので、このとき14歳、数えで15歳です。
容保様は、直弼さんを殺めたのは水戸藩を脱藩した浪士達なので、脱藩している以上彼らと水戸に既に繋がりはなく、故に水戸藩を罪に咎めるのは筋が通らない旨を言上します。
更に、今は国内で争っている場合ではないと。
国許で覚馬さんが建白書で提出していたことを、云われるまでもなく容保様もきちんと理解しておられたのですね。
ドラマでは触れられてませんでしたが、容保様はこの後更に、藩士の秋月悌次郎さんに水戸藩の実情を探らせたりもして、幕府と水戸藩の調停に努めています。
これらのことから結果的に水戸藩処断は沙汰止みとなり、これらの働きが家茂さんから高く評価されて同年12月には容保様は左近衛権中将に任ぜられます。
また、幕府内での容保様の発言力も高まったようです。
容保様このとき25歳、数えで26歳。

しかし水戸サイドは水戸を代表するかのように慶喜さんが出てきておりますが、このとき在府だったであろう水戸藩主の慶篤さんの反応も知りたいところです。
これじゃあまるで、慶喜さんが水戸藩主みたいです(慶喜さんはとっくに一橋家に養子入りしてます)。
そしてもうひとり、こちらは慶喜さんと同じく謹慎に処せられていた春嶽さん。

一大名の進言で台慮が覆るとは、幕府の屋台骨も緩んだものよ

このお二人が、容保様のことを政治的な意味で認識し直したのと、緩んだ幕府の屋台骨が、今後会津を僻地へと追いやっていくことになります・・・。
何だか、そろそろ会津の行く先を思って心が痛む展開が増えてきました。

安政7年3月18日(1860年4月8日)、災異のために元号が「安政」から「万延」に改元されます。
その万延も、万延2年2月19日(1861年3月29日)に 「文久」へと改元されます。
いくらなんでも改元が慌ただしすぎるでしょうと思うのですが・・・。
ということで、この勇ましいおなごの薙刀稽古の場面は文久元年(1861)の夏。
今までおなごのたしなみと言えば裁縫裁縫裁縫でしたので、何だか新鮮です。
八重さんの薙刀捌きのお見事なこと。
普通のおなごよりも膂力があるので(何たって米俵持ち上げますから)、一撃一撃が重いのでしょうね。
第3回でも出てきた兼規さんがおられたということは、あの場所は黒河内道場なのでしょう。
八重さん16歳、数えで17歳。
対する二葉さんは17歳、数えで18歳。
年頃の女の子が集まれば、自然と華やぎますね。
そして今回初登場のお雪さんこと井上雪子さんは、会津藩士井上丘隅さんの三女です。
井上家は家禄600石で、丘隅さんの御役職は大組物頭。
どうやら時尾さんによると、二葉さんとこのお雪さん、それぞれ縁談がまとまったようです。
当時としては、そういう嫁入り話が出てきても何ら不思議ではないお年頃ですもんね。
二葉さんは、後の会津主席家老となる梶原平馬さんに嫁ぎます。
平馬さんは会津三家のひとつ、内藤家の生まれですが、次男だったので家督は継げず、梶原家に養子入りしました。
この梶原家も名門でして、遠祖はあの梶原景時さんです。
対してお雪さんが嫁ぐのは神保修理さん。
神保家も家中の名門で、修理さんは神保内蔵助利孝さんの長子の長男に当たります。
ふたりとも将来の会津を担う、優秀な若者です。
・・・ただ、先々の展開を知っていると、ちょっと切なくなってしまう部分もありますが(特に修理さん&お雪さん夫婦)。
さて、次は嬢様の番では?とお吉さん。
全く考えたことがないと肩を竦める八重さんに、今に振るほど縁談が来るとお吉さんは言いますが、やっぱり気のなさそうな様子の八重さん。
でも佐久さんから「高木様のおばんつぁまがら、良いお話があったげんじょ」と言われて動じる辺り、やっぱり八重さんも年頃のお嬢さんですね。
しかしながら、八重さんのところへ来たのは縁談話ではなくお針の稽古のお手伝いの依頼。
ついこの間までは、縫い上げた足袋の左右の大きさが違うなどして、裁縫の腕前がイマイチだった八重さんですが、どうやら数年の内に袷を一晩で縫い上げてしまうほどにまで上達したようです。
その腕を見込んで、お針教室の弟子を一緒に見て欲しいとの依頼でしたが、その時間を八重さんは鉄砲の稽古の時間に充てたいからと、お断りして退座。
肩を落とす佐久さんに、うらさんが「嫌なものをやらせねぇでも。八重さんもじき嫁に行ぐんだし」ととりなすように言います。
本当、この義理姉妹の距離縮まりましたよね。

縁談はまだひとつも来ねぇ。鉄砲撃づ娘を嫁に欲しがる家があんべか?

佐久さんは長い溜息を吐きます。
ドラマの世界だけでものを言わせて頂くと、大蔵さんは八重さんに淡い恋心を抱いてる感じですので、打診すれば貰ってくれるんじゃないかな(笑)。
お母さんにそんな濃い溜息を吐かれているなど露も知らない当の八重さんは、いつものように角場で鉄砲の手入れ。

お針より、もっと鉄砲のごどがやりでぇのにな。おなごでも砲術師範になれる国、どっかにねぇもんんだべか・・・

溜息は溜息でも、佐久さんの溜息とは方向性が全く違っていますね(笑)。
17歳の年頃になっても、相変わらずな八重さんです。

一方、山川家。
第5回より家長となった15歳数え16歳の大蔵さん、帰宅早々自分の母親と平馬さんが薙刀の稽古をしているのに目を丸くします。
二葉さんは平馬さんの許嫁ですので、云わばこのふたりはゆくゆく義兄弟となる間柄。
そんな御仁が、帰宅してみれば自分の母親と薙刀の刃突き合わせてたら流石の大蔵さんも草履持ったまま血相を変えますよね。
二葉さんは照れていたのかなんなのか、なかなか平馬さんの前に現れず・・・でも飾り櫛を艶さんに直してもらった時に少しだけ表情が綻んだので、緊張と「許嫁にどう接して良いのか分からない」的なものがあったんだろうなぁ、と。
さて、この山川家。
大蔵さん、二葉さんに続いて本日ご紹介に上がったのは、弟の健次郎さん。
「青びょうたんなどと呼ばれでおってな」や「学問が良ぐできる」などと言われてますが、青びょうたんは兎に角、後々の経歴を見れば武よりは文な気もしますが、ちゃんと文武揃った人物になりますよ。
嘉永7年閏7月17日(1854年9月9日)のお生まれなので、このとき6歳、数えで7歳。
大蔵さん、健次郎さん、二葉さんに操さん、そして今はまだ赤子のさきさん(後の鹿鳴館の花こと大山捨松さん)ら山川兄弟は、それぞれ物凄く逞しい生き方をしていきますので、大河ドラマではそちらにも注目したいところです。
(常盤さんは、徳力徳治さんを婿養子に取りまして、常盤さんよりはむしろ旦那様の方が活躍されます)
うらさんとは違った意味で、「武家の妻のお手本」オーラが出てるお堅い二葉さんに、平馬さんは朗らかに言います。

二葉どの、これがら仲良ぐやっていぎやしょう

平馬さんが嫌いなわけでは決してないのですが、後の展開を知っている身からすれば何とも空々しく聞こえてしまうこの一言・・・。
いえ、この話は今後の物語の展開に譲ることにしましょう。

山本家角場での銃の改良はまだまだ続いている様子。
照門の位置が良くない、と前から仰ってますが、そもそも照門ってどの部分なのだろうかと調べてみたのですが、分かったような分からないようなで・・・。
取り敢えず銃の手前部分にあって、標準を合わせるのに使う部分だと理解してます(違ったらごめんなさい)。
そこへ訪ねてきたのが、未来の会津を担う人材である平馬さん&大蔵さん。
平馬さんは天保13年10月10日(1842年11月12日)のお生まれですので、このとき18歳、数えで19歳ですね。
八重さん、平馬さんに「鉄砲担いだ巴御前」と笑われてしまいます。
(いつも思うのですが、「八重の桜」って悉く「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」を平気で破ってますよね。ドラマなので仕方がないことだとは思いますが)
台の上に置いてあった鉄砲を何気なく手に取ろうとした平馬さんに、八重さんは「勝手に触らねぇでくなんしょ!」と怒鳴ります。
このとき平馬さんの顔が強張ったのは、言ってしまえば男尊女卑的なものもあったのでしょうね。
でも八重さんは別に怒鳴りたくて怒鳴ったわけじゃなくて、角場にある道具は危ないから、という理由で、平馬さんの軽率さを諌めたのです。
やがて覚馬さんが帰宅して、このことを話すと、「梶原殿は御用人だぞ」と覚馬さん。
平馬さんの紐の色は黒でしたので、身分は第二級。
第四級の覚馬さんよりも目上の方なので、八重さんの振る舞いは、言ってしまえば無礼に当たるわけです。
しかし八重さんは「御用人でも殿様でも、危ねぇもんは危ねぇ」と言います。
筋は八重さんの方が通ってますよね。
この八重さんの発言等は、差し詰め会津籠城戦の容保様の前で敵の砲弾を分解して説明したという、あのエピソードと後々絡めてくるのでしょうかね。
平馬さんと大蔵さんが訪ねてきたのは、新式の銃に入れ替えたときの出費についてどれくらいになりそうかということ。
幕府や幕政や・・・という単語が出てくる会話に興味津々な八重さんを、覚馬さんはあっちに行ってろ、と追いやり、尚之助さんには同席を許します。
流石の覚馬さんと雖も、おなごが政に口突っ込むな、という概念があったからなのでしょうが、しょんぼりした八重さんが何とも寂しそうで。
そして尚之助さんが、平馬さん達との話の内容よりも、そんな八重さんの方に視線をやってたのが印象的でした。
佐久さん、ここにいますよ!八重さん貰ってくれそうな人!!
・・・と、話を真面目路線に戻しまして。
平馬さんは、この度容保様が幕政に加わるように加盟されたのだと話します。
徳川幕府開闢以来、いわゆる会津藩ら「親藩大名」は幕政に参加することは出来ませんでした。
では何故いま会津がそれを許されたのかと言えば、要は鎖国が終わりを迎えたこの状況下で、今までの政治体制では完全にスペック不足になったからです。
幕末の四賢侯(斉彬さんは既に故人ですが)などと呼ばれる方が幕政に参与出来るようになったのも、こういった背景事情からでしょう。
しかし安政の大獄、桜田門外の変、朝廷への攘夷実行の約束・・・という今は、平馬さんが言うように正しく「何が起ぎるがわがんねぇどき」でもあります。
なので、これを機に鉄砲組改革のことを推し進めてはどうかと平馬さんは覚馬さんに言いに来たようです。
ですが、上に願い出てはいるものをなかなかすんなりと通るものでもないようです。
そして覚馬さんの目指し続けている兵制改革は、時代の横槍で遅れることになるのです・・・。

季節は流れて、秋。
あの狆と戯れていた敏姫さんが、疱瘡を患って亡くなります。
元々敏姫さんは病弱でして、風邪を拗らせたとも伝わってます。
「だから種痘をせよとあれほど私が言ったのに」とぼやく大蔵さんのおじいさんの声が聞こえてきそうです。
以前の記事でも触れましたが、照姫様は「明くれなつかしく、むつまじくうちかたらひたる君のはかなくならせ給へるに、ただ夢とのみ思はれていと哀しさのままに」という詞書と共に、敏姫さんへの哀悼の歌を、次の様に詠んでいます。

千とせとも 祈れる人の はかなくも さらぬ別れに なるぞ哀しき

敏姫さん亡き後、会津松平家の奥向きは照姫様が担うことになります。

私が戻ってきたばかりに辛い思いをしておいでだったとは・・・。お気持ちに気付かず・・・私の科にござります

容保様の継室に照姫様をと望まれる声もあったそうですが、これについては完全にこの一言で釘を刺してますね。
敏姫の気持ちを踏みにじってまでも、容保様とそうなるつもりはないと。
史実は如何か分かりませんが、少なくともこのドラマではそういう形で照姫様、容保様、敏姫さんの関係に取り敢えずの線を引き終えて幕を引いたのだなという印象を受けました。

文久2年4月16日(1862年5月14日)、斉彬さんの異母弟、島津久光さんが千人の軍勢と大砲を率いて上洛します。
久光さんは文化14年10月24日(1817年12月2日)のお生まれですので、このとき45歳、数えで46歳。
斉彬さん亡き後、斉彬さんの養嗣子として島津家を継いだのは久光さんの嫡男、忠義さんなのですが、その後見人として実父の久光さんが置かれていました。
忠義さんは若年ということもあって藩政に主体性がなく、実質はこの久光さんが幕末の島津の殿様状態になってます。
しかし軍勢と大砲を率いて帝のいる京へ入るとは、なかなか穏やかなことではありません。
久光さんには、京で幕政改革の勅諚を得た後、江戸に上るという計画がありました。
ドラマでは触れられませんでしたが、これに対して「無謀のことと思いますので中止されたが宜しかろう」として、西郷さんが久光さんを「御前ニハ恐レナガラ地ゴロ」だから公武周旋は無理と言った話は有名ですよね。
(地ゴロ=田舎者)
この一件で、西郷さんは久光さんの不興を買います。
以後、何となくずっとこの二人ってしっくりこないんですけど、その原因の始まりは絶対にここにあると思ってます(笑)。
そんな薩摩が蠢く京に、たまたま居合わせたのが冒頭で名前だけ触れました秋月悌次郎さん。
文政7年7月2日(1824年7月27日)のお生まれですので、このとき38歳、数えで39歳。
禄高150の中士で、外様として追鳥狩の目付け役を務める丸山四郎右衛門胤道さんの次男として生まれました。
丸山家は会津藩の中でも高遠以来の家筋です。
高遠以来というのは会津ならではの称し方で、高遠保科家に仕えて保科正之さんと一緒に山形→会津に引き移った最古参の家臣は誇りを込めてそう自称しました。
悌次郎さんは日新館の素読所で飛び級を続け、講釈所の全課程を天保13年19歳の時に修了しています。
これは普通の人より2年早い繰上げ卒業になります。
抜群に成績優秀だった悌次郎さんには、江戸遊学が認められます。
そこで、これを機に分家してはどうかと父親から切り出され、「秋月」の家を興します。
「秋月」の姓を考えたのは悌次郎さん自身だったようです。
江戸へ出た悌次郎さんは昌平坂学問所へ留学します。
といっても満員状態だったため、4年待たされて弘化3年(1846)にようやく昌平坂へ入学。
やはりそこでも成績は抜群で、おまけに人物も出来ていたので昌平坂の学生らは悌次郎さんのことを「日本一の学生」と呼びました。
その悌次郎さん、安政6年(1859)には藩命により、諸国の視察を命じられます。
この昌平坂学問所に在籍していたことと、藩命による諸国歩きが、悌次郎さんの人脈パイプを培う土壌となります。
ずいぶんと枕が長くなりましたが、悌次郎さんが京にいるのは、そういう背景事情からです。
悌次郎さんは、大名が朝廷に近付くことなんて幕府始まって以来なかったことなのに・・・と、この現状に驚きます。
幕府は朝廷と大名が仲良くするのを警戒していまして、これは江戸時代を通じて都に屋敷を持っている大名が少なかったことからも伺えます。
このとき攘夷派が勢い付いていたのには、理由があります。
この年の2月11日(1862年3月11日)、孝明天皇の異母妹の和宮親子内親王と十四代将軍家茂さんの婚儀が行われています。
この婚儀は、公武合体(「朝廷=公」と「幕府=武」が手を取り合ってやって行きましょう的なもの)を目指したものですが、実は幕府は帝の妹を降嫁させるのに色々と骨を折ってましてね。
ざっくり端折って説明しますと、「和宮様を将軍のお嫁に下さい!それで公武合体、日本も落ち着きます!見返りとして我々は攘夷頑張りますから!」という感じでしょうか。
しかしいざ和宮様が降嫁しても、依然攘夷実行の気配はなく、これは一体どういうことなのか、約束が違うじゃないかと攘夷派の人々が苛立ちと不満を募らせるわけです。
そこに自藩の政治的発言を高めようとする薩摩藩が、遥か南国からしゃしゃり出てくるわけです。
有名な寺田屋事件(坂本龍馬さんが絡んでない方)はこのときに起きたものですね。

場所は変わって、長崎海軍伝習所でしょうか。
アメリカから帰国していた勝さんを訪ねてきたのは榎本武揚さん。
天保7年8月25日(1836年10月5日)のお生まれですので、このとき26歳、数えで27歳。
安政3年(1856年)からこの伝習所に入所してますので、同じ江戸出身ということも相俟って、勝さんとはそこそこ打ち解けているご様子。
榎本さんも仰ってますが、勝さんは帰国後の文久2年7月4日(1862年7月30日)、軍艦操練所頭取になってます。
そんなことより、と勝さんは、榎本さんの留学先が、メリケンからオランダに変わったことを指摘します。
理由は、メリケンで1861年から起こった南北戦争。
「八重の桜」の第1回冒頭でも言われてましたよね、「南北戦争で使われていた銃が、その後日本にやってきた」って。

他国の騒ぎと、呑気に構えてもいられねぇな。外様大名の薩摩が朝廷使って幕政動かすなんざぁ、前代未聞よ。幕府の威信も落ちた

今の幕政のままじゃ、到底国として成り立っていかないことが勝さんにはとっくに分かってるのですよね。
しかし憂える勝さんに、榎本さんは幕府も変わろうとしてるので、何とかなるのではないかというようなことを言います。
と言いますのも、先程触れた、上洛した久光さん。
実はその後、久光さんが朝廷に働きかけたことによって、朝廷から幕政改革を要求するために勅使が江戸へ派遣されます。
その勅使随従という形で江戸入りした久光さんは、幕閣との交渉の結果、謹慎にあった慶喜さんを将軍後見職、同じく謹慎にあった春嶽さんを政事総裁職へ就任させています。
日本史の教科書ですと、これらを「文久の改革」として習うと思います。
その後で久光さんが江戸から京へ戻る途上、武蔵国橘樹郡生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)で起こったのが生麦事件です。
しかし勝さん、これら久光さんが作り出した流れに、ぽんと皮肉を投じます。

サテ、あのお二方、どれほどの器かね。周旋した久光公は、オレの見立てじゃただの田舎モンよ。薩摩が江戸に下った隙に、都じゃ長州や土佐が金使って公家達を抱き込んじまった。これからの政は京で決まるぜ

久光さん田舎者呼ばわりは、西郷さんに代わって勝さんがしてますね。
「これからの政は京で決まる」は、まさしくその通りです。
またまた範囲が広がって、ブログが追い付くのかどうか、そっちも少し心配です(笑)。

一方、こちらは江戸の一橋邸。
久光さんの周旋で将軍後見職となった慶喜さんと、政事総裁職となった春嶽さん。
これでふたりは再び政治の表舞台に立てるようになったわけですが、どうやらお二方ともこの就任を有難く思っていないご様子。

政事総裁職など名前ばかりで、然したる力も御座いません
それどころか朝廷と幕府の板挟みとなり、双方から憎まれる損な役目よ。さりとて何もせぬというわけにもいかぬ。・・・実に、迷惑千万

春嶽さんの就いた政事総裁職というのは、実質大老のようなものです。
親藩大名である越前松平家は大老になれないということで、それに同格の役職を設けたのでしょう。
将軍後見職に至っては、春嶽さんが嘆いてる政事総裁職以上に名ばかりの名誉職で、実権は無きに等しいものでした。
そんなお二人が話し合っているのは、「上様ご上洛」前の京の治安について。
上様こと家茂さんは、近々朝廷の攘夷実施の求めに応じて上洛するという、三代将軍家光以来となる一大イベントを控えていました。
けれども現在京には攘夷熱に浮かされた不逞浪士達が跋扈してます。
平たく言えば、治安が最悪なわけでして、そんな危険地帯に将軍を行かせるわけにもいかないので、幕府としてはまずはその問題を解決する必要に迫られるわけです。
そこで京都守護職という、都の治安維持と二条城・御所近辺の警護のための役職を新設します。
朝廷はその京都守護職を、是非とも薩摩藩にと言っているそうです。
先程朝廷の意に沿った行動をしたのが、良いポイント稼ぎになったようですね。
しかしあまり薩摩に京でポイントを稼がれては(=力を持たれては)困ると慶喜さんは言います。
とうわけで、薩摩は選択肢から外れます。
次に白羽の矢が立ったのは、「血筋、家格共に申し分なく、兵力とご公議への忠誠心を併せ持つもの」・・・つまりは容保様です。
しかし京都守護職が百害あって一利なしの貧乏籤になることが目に見えている慶喜さんは、会津がこれを受けるかどうか訝しみます。
それを「受けて頂かねばなりますまい」と春嶽さん。
水面下で何かがゆっくりと会津に忍び寄っています。

ひとり目の子供は残念でしたが、覚馬さんとの間にふたり目を授かったうらさん。
この女の子の名前はみねで、この年の夏に生まれました。
そんな山本家では、八重さんが弟の三郎さん相手に薙刀の稽古に励みます。
妙に熱が入ってるかと思いきや、二葉さんとの薙刀の紅白戦を控えているようです。
もう三郎さんでは全く相手にならない八重さんは、丁度覚馬さんの姿を見かけて、手合わせを願い出ますが「今それどごろでねえ!」と厳しく跳ね除けられてしまいます。
覚馬さんはそのまま足早に何処かに出かけて行きます。
夫のただならぬ様子に、八重さんだけでなくうらさんまで何かあったのかと心配顔。
そんな八重さんの耳に、家の中からの権八さんと佐久さんの会話が聞こえてきます。
そこで八重さんは、「京都守護職」という単語を拾います。
部屋を出てきた二人に立ち聞きが見つかって、咎められる八重さんですが、聞き慣れない単語に京都守護職とは何か、権八さんに問います。

では、おめでてぇごどですね。都さお守りすんのは、武門の誉れにごぜいやす。きっと会津の名も上がって・・・

京都守護職が都をお守りする役目だと教えてもらった八重さんは、そんな反応を見せます。
まあ、政治も何も詳しく分かっていない人の普通の反応でしょう。
八重さんはきっと都がどれくらい離れているのかとかも、ちゃんと想像出来ていないでしょうし。
そんな八重さんに、権八さんは「浅はかなごどさ言うな!お国の大事に、おなごが口出すものでねえ」と厳しい声を浴びせます。
先程の角場でのシーンと言い、何となく今回の八重さんは「おなごだから」という理由で物事の中心から遠ざけられてますよね。
その男女差別的な壁を持ち出される度にしゅんとする八重さんが、何とも言えないです。

血相を変えて家を飛び出した覚馬さんが向かったのは鶴ヶ城。
・・・の、西郷さんのところ。
基本、何かあれば覚馬さんはすぐに、まずは西郷さんですね。
ちなみにこの西郷さん、前までは身分が御番頭でしたが、万延元年(1860年)に家老になってます。
西郷さんのところには、先客として官兵衛さんがいました。
官兵衛さんは、自分も容保様と共に都に上りたい、と懇願しているところでした。
ところが実はこの官兵衛さん、第1回以降姿が見えないと思いきや、実は謹慎中の身だったのですね。
と言いますのも、安政4年(1857)江戸詰の折に、火消しと刃傷沙汰を起こしてしまいまして、それで国許で謹慎を命じられていたのです。
謹慎中は、許しがない限り登城は出来ません。
西郷さんはそれを理由に官兵衛さんには取り合わず、官兵衛さんも食い下がりましたが、覚馬さんの姿を認めると、出直してくると退出していきました。
官兵衛さんと西郷さんのやり取りを見ていた覚馬さんは、まさか京都守護職を既に拝命したのではと、顔を青くします。
ですが、実際の返事はまだのようで、容保様も国許に諮った上で返事をするのだろうと西郷さん。

ご家老、そのお役目、お断りすることは出来ぬものでしょうか。二百里も離れだ都に出兵しては、人も金もかがり、肝心の兵制改革が遅れやす

断るべき役目なこと、受け入れたとしても到底割に合わぬ役目なことは、覚馬さんに言われずとも西郷さんも重々承知。
何せお役目を引き受けたら、「会津は死ぬ」とまで仰ってますからね。
また覚馬さんが出過ぎたことをして禁足などにならないように、控えておれときっちり釘を刺して、西郷さんはこの後早馬で土佐さんと共に江戸へ向かいます。

同じ頃、江戸の会津上屋敷と思しき場所で、容保様は春嶽さんを迎えていました。
春嶽さんの用件は勿論、京都守護職の件を引き受けて頂けないかというもの。
史実ですと、春嶽さんは病弱で寝込んでる容保様を無理に起こして来てでも頼みに来たこともあったようです。
ともあれ、容保様は京都守護職を固辞します。
説明がかなりドラマでは端折られてますが、京には京都所司代と京都奉行所という役職が既に置かれていました。
この京都所司代として、都に行ってくれないかと言うのが最初に会津に来たオファーだったのですが、会津はこれを断ります。
何故なら京都所司代は徳川家臣下の家が就く役職で、親藩である会津は決して臣下ではないと拒絶したからです。
しかし幕府は余程会津に京へ行って貰いたかったのでしょうね。
それならばと、新たに京都所司代・京都奉行所よりも格上の「京都守護職」というポストを新設します。
この流れから見ても分かるように、もう会津を都へ行かせるためだけに作られたような役職なんですよね、京都守護職って。

公方様には会津殿へのご信任篤く、この役目を果たせるものは他にないとの思し召しにござりまするぞ
会津は奥州の田舎にて、都とは風俗、気質、あまりに異なります故、そのような大役とても勤まりませぬ
しかし都が荒れていては公方様のご上洛もままならず、幕府と朝廷が結ぶ公武一和も調いませぬ

それでも固辞し続ける容保様を、ちょっと別室へ誘って、ふたりきりになったところで春嶽さんは囁くように言います。

のう肥後守殿。会津松平家には藩祖保科正之公が定められた、土津公御家訓なるものがあると聞き及びまする。御家訓には、徳川宗家に忠勤を尽くすべし、との一条があるとか・・・。御下命に従わぬは御家訓に背くこと・・・では御座りませぬか?」

ここで春嶽さんが引用したのは、家訓十五箇条第一条の「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」。
大君というのは正之公の異母弟にあたる三代将軍家光のことで、よって公議的な意味で徳川将軍家ということになります。
正之公は二代将軍秀忠に我が子として認知されず、それを兄弟と認知して立ててくれたのが家光さんです。
故に正之さんの家光さんへの恩は、海より深く山より高いのです。
その恩を、会津は生涯何があっても忘れるな、と正之公は遺しているわけです。
春嶽さん、上手いこと言ったなぁ、と思います。

数日後、江戸に到着した西郷さんと土佐さん。
早速容保様と面会し、守護職拝命の儀を断るように進言します。
まず財政的に見て、蝦夷地の敬語、房総の守備、品川砲台の守り・・・というお役目をこなしてきた会津の財政は既に大赤字です。
加えて百害あって一利なしのお役目。
ですが、容保様は静かに口を開いて言いました。

守護職の儀・・・お受けする

控えていた悌次郎さんが、そこで京の情況を、自分に目で見てきたままに話します。
しかし西郷さんは、だからこそ京都守護職を務めたら、会津にその火の粉が降りかかって政争の渦中に巻き込まれるのだと声を荒げます。

なれど、会津は強い。公武一和のため、都を守護し奉ることが出来るのは我が藩をおいてない
薪を背負って火を消しに行ぐも同然の、危ういお役目にごぜりまするぞ

そんな西郷さんを、江戸家老の横山常徳主税さんが、殿は何度も固く断ったのだと制します。
しかししかし、ならば断固として辞退するようにと西郷さんは更に詰め寄ります。

井伊掃部守様の悲運を、何と思し召される。 御公儀は尊王攘夷派の威勢に推され、彦根藩を10万石の減俸に処されだ。掃部守様は死に損でごぜいまする。いざどなれば御公儀は、蜥蜴の尾のように我らを切り捨てまする。 殿は会津に、彦根ど同じ道を辿らせるおづもりか
大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし。二心を懐かば、我が子孫にあらず。徳川御宗家と存亡を共にするのが会津の務め! 是非に及ばぬ! この上は、都を死に場所と心得、 お役目を全うするより他はない。 皆、覚悟を定め、わしに力を貸してくれ・・・

悲痛な声と共に、深々と頭を下げる容保様。
その場に連なる家臣の誰にもの眼にも涙が浮かびます。
そんな中でひとり、得心が行かないというのが西郷さん。

此度のごどは、会津の命運を左右する二股道。 畏れながら殿は、会津を滅ぼす道に踏み出されてしまわれた
頼母!・・・・・・・・・言うな

容保様の目から涙が零れ落ち、西郷さんも、家臣たちも、その場にいる誰もが声を上げて泣き崩れます。
この瞬間から、会津の終わりが始まりました。
こうして文久2年閏8月1日(1862年9月24日)、容保様は正式に京都守護職を拝命しました。

余談ながら、この西郷さんと容保様の関係に補足説明を加えさせて頂きますと、言葉を飾らずに言えば、西郷さんの方が保科の血筋に近くて、容保様は尾張からの養子。
つまり容保様は会津人ではないわけです。
藩主と家老という主従関係以前に、このふたりの背景にはそう言ったものが背負い込まれてるのですよ。
故に、容保様も西郷さんに会津のことを言われるのが一番耳が痛いのでしょうね。
でも、だからこそ容保様は誰よりも深く忠実に御家訓を守ることで、自分を会津人たらしめようとしていたんじゃないのかなとも思います。
脚本の山本むつみさんは、この「会津人ではない会津のお殿様」という辺りをちゃんと酌んで下さっているようで、だから第1回に容保様の「この身に、会津の血は流れておらぬ」の台詞があって、それでも諌めつつも支えて行きますよという西郷さんのやり取りがあったのでしょう。

八重さんは薙刀の紅白試合で、覚悟の気組みを変えた二葉さんに負け、覚馬さんは官兵衛さんに「わしの分まで働いてこい。都で命捨ててこい」と頭を下げられます。
うらさんは、容保様のお供を自分の夫が命じられるのは名誉だと分かっていても、子供も生まれたばかりなこともあって、複雑な気持ちになります。
上は容保様から、下は山本家の人間まで。
大小様々な波紋を生みながら、容保様の上洛はこの年の12月と決まります。

西郷さんの言葉を借りるなら、「会津の命運を左右する二股道」の決定打と結果的にはなってしまった「家訓十五箇条」。
ですが、個人的にはこの御家訓が会津を縛ってた、と考えるのは完全に現代に視点を置いたものの考え方だと思います。
変な言い方すれば、御家訓は200年近く会津人と共にあって、会津人を形成してきたわけですから。
御家訓は会津人のアイデンティティーとまでは言いませんが、それに近いものはやっぱりあったと思うのです。
・・・うまくは言えませんが。


ではでは、此度はこのあたりで。


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