2013年2月21日木曜日

第7回「将軍の首」

容保様運命の上洛の時が刻一刻と迫る文久2年(1862年)、始まりました第7回。
謹慎中のために容保様の上洛にお供出来ない官兵衛さんは、大蔵さん達に稽古を付けることでそのやりきれなさを消化しつつ、「わしに代わって殿をお守りせいよ!」と己の気持ちを託します。
実は官兵衛さん、後を追って上洛出来ることになるのですが、そんなこと本人すら知らない現時点では触れないことにしましょう。

さて、容保様が向かわれることになった京はといえば、その頃天誅という過激なテロ行為にも似たものが頻発してました。
過激攘夷派の不逞浪士が、公家の家臣や町奉行の与力などを斬っては、我が物顔で街中を歩いていたのです。
九条関白の家臣、島田正辰さんや宇郷重国さんが殺されたのもこの流れによるものです。
ドラマでは目明かしの文吉さんも天誅を受けておりましたが、彼の下手人は岡田以蔵さんです。
繰り返されるこの天誅を、京都所司代は黙ってみていたのかと思われるかもしれませんが、実はその通りで、所司代はあまり天誅行為を取り締まりませんでした。
天誅の下手人を捕縛すれば、過激攘夷派の浪士を刺激し、より大規模なことが起こってしまうかもしれないと危惧していたからです。
故に幕府側は天誅行為は私怨によるものと見做し、手を出さないでいたのです。
しかし取締られることのない天誅により、今日は文字通り無法地帯と化しました。
要は帝のお膝元でありながら、治安が最悪だったのですね。

前回めでたく縁談がまとまり、夫婦となった修理さんとお雪さん。
史実通り仲睦まじいようで、見ている此方の頬まで綻びます。
そこへ東山温泉に向かう山本家三兄弟と遭遇し、ふたりも温泉に行くのかなんなのか、同行することに。
道中、男性陣の話題は専ら京について。

奉行所や所司代では最早手に負えず、会津の武力を頼みどする声が日に日に高まっているどうです。んだげんじょ、先乗りした公用方の報せでは、不逞浪士の中には堂上公家ど密かに通じ、策謀を巡らす者だぢもいるどか

修理さんの台詞にある堂上(とうしょう、と読みます)公家とは、ほぼ確実に公卿に昇れる家柄の公家のことです。
公卿になれるということは昇殿が出来るということなので、そんな彼らと繋がりを持つということは、朝廷の上層部に近い位置で工作が出来るパイプを持っていることにもなります。
「先乗りした公用方」というのは、容保様より前に物見という役割で、先に田中土佐さん、野村左兵衛さん、小室金吾さん、外島機兵衛さん、河原善左衛門さん、柴秀治さん、宗像直太郎さん、広沢富次郎さん、大庭恭平さん、そして悌次郎さんなどが京に送られてました。
物見も勿論ですが、この先発隊、特に悌次郎さんが何をしていたのかは後々で少し触れさせて頂きます。
修理さんの話を聞いていた尚之助さんは、公家か、とつぶやきます。
ただでさえ都に不案内な会津。
しかもそう言った浪士達を相手にするには、会津としてもそれなりの策を施さねば到底太刀打ち出来るものではありません。
いわゆる、権謀術数・・・覚馬さんも仰ってますが、武骨な会津が最も不得手とすることでしょうね。
そんな風に歩いていると、三郎さんが鳥居に向かって石を放り投げ、乗ったら願い事が叶う、という里の者がやるという運試しをしてました。
三郎さんの願いは「あんつぁまど一緒に京でお勤めがでぎるように」。
八重さんの願いは「あんつぁまが京で手柄を立てるように」。
ネタバレになってしまいますが、このふたつの願いは外れることなく叶います。
さて次はお雪さん・・・と、石を投げますが、八重さん達のようには行かず、転げ落ちます。
もう一度試みようとするところを、修理さんが「幾度も試すものではねえ」と言います。

運試しなど無用だ。必ず戻ってくる。案ずるな、信じで待ってろ

この修理さんの言葉から察するに、お雪さんは修理さんのご無事を願ったのでしょう。
ほんわかしたシーンのハズなのに、どうしてもふたりを待ち受ける悲しい展開の伏線が透けて見えてしまいます。

さて、東山温泉。
後に宇都宮の戦い(慶応4年/1868年)で足の指を怪我した土方歳三さんも療養に来ることになるこの場所ですが、どうにもこの入浴シーンはファンサービスにしか見えないです(笑)。

上洛前に尚さんを仕官させたかったが、まだ駄目だった。会津はこったとこが古ぐて良ぐねぇ

そう愚痴る覚馬さんに、構いませんよ、と尚之助さんはさらりとしてます。
あんまり察するに、あまり欲がない人なのでしょうね。
確か藩士に取り立てられるまで、ほぼ無給で日新館の教授してくれてたというのも、何かの本で読んだ気がします。
覚馬さん、背炙山に反射炉を作ることを考えてたと尚之助さんに打ち明けます。
反射炉といえば佐賀藩のものが有名ですが、金属を精錬する反射炉があれば、大砲の砲身を鋳造することが出来るんですね。
いざというときは、お寺の鐘を鋳潰して大砲を作る事を、不在の自分に変わって上に進言して欲しいということ、蘭学所のこと、家のこと、会津のこと・・・覚馬さんが尚之助さんに託すものはたくさんあります。
それだけの信頼関係がふたりにはあるということでしょうし、覚馬さんも故郷を離れるのは何かと不安なのでしょう。
それらを全て受け止めて承諾した尚之助さんですが、家のことについては自分よりも適役がいるとのこと。
覚馬さんもまんざらではないようで、思わず苦笑いを浮かべます。
語るまでもなく、これは八重さんのことですね。
覚馬さん留守の間は自分が家を守り、覚馬さんが戻るまでは嫁にも行かないとさえ言い切った八重さん。
重いお役目を背負っての上洛な分、八重さんのこの明るい声が何だか救いのように思えます。

覚馬さんの上洛の日を控え、山本家の皆様も何処か落ち着きがありません。
うらさんは出立前に新しい着物を仕立ててあげたい一心で、機を織続け、権八さんは小刀で耳かきを何本も作る始末。
挙句の果てには佐久さんまで、足袋を幾つも拵える始末。
「御所に上がった時に足袋が襤褸だと覚馬の恥になる」とのことですが、御所では足袋は帝の許しなしでは履けません。
会津が如何に都文化に馴染みがないかというのと、そんな遠地へ覚馬さんが旅立つという言いようのない落ち着きない気持ちが、よく表れていますね。

粉雪がちらつき始めた砌、覚馬さん達は会津を出立しました。
見送るうらさんの手には、昨晩覚馬さんから贈られた赤い櫛がしっかりと握られています。
お雪さんもじっと、修理さんの姿を見送ります。
八重さんはいつもの桜の木の下で、隊列を見送ります。

あんつぁま、行ってきらんしょう!ご無事で戻って来てくなんしょ!

冷静に考えれば、覚馬さんとうらさん、修理さんとお雪さんはこれが今生の別れになったのですよね。
でもそうなってしまった人は、この二組に限らず、もっと大勢いたはずです。
覚馬さんも覚馬さんで、まさかこれが故郷会津との今生の別れになるだ何て思ってもみなかったでしょう。
そしてあの場にいた誰もが、約6年後にはこの会津が地獄のような戦場になるだ何て考えなかったはずです。
況してや、再び国に戻ってきた殿様に「朝敵」のレッテルが貼られてるだ何て・・・。
鶴ヶ城から隊列を見送る西郷さんが、「とうとう動き出したか」とひとりごちってましたが、勿論西郷さんにも先の歴史が分かっていたはずありませんが、それを仄めかすようにも聞こえました。
先の展開を知っていれば、八重さんの「ご無事で」の見送りでさえ、切ない台詞に聞こえてしまいます。

閑話休題として、飛ばされた比較的有名な史実の出来事に少し触れさせて頂きますと、この年の8月21日(1862年9月14日)に生麦事件が起こっています。
また、12月12日( 1863年1月31日)には高杉晋作さんらが英国公使館焼き討ち事件を起こし、その後で松陰さんの骨を掘り返して改葬してます。
この改装された場所が、現在の松陰神社の場所に当たります。

さて、そうこうしている間に覚馬さん達は江戸藩邸に到着し、容保様から振る舞いの餅と酒と、慈しみにあふれた言葉を頂戴します。
翌日の12月9日(1863年1月28日)江戸を出立、陸路を経て12月24日(1863年2月12日)に入京しました。
會と染め抜かれた旗と、会津葵の旗を翻し、組頭は黒染めの羽織に漆塗りふたつ折の韮山笠、組士は黒木綿無紋の羽織に、同じ質の脛巾を身に付けた藩士が整然と続きます。
騎乗の容保様は、烏帽子白鉢巻に錦の鎧直垂という、いつでも鎧をつけることの出来るお姿。
「きれえなお殿様や」と都の方に言われてますが、この容保様の儚げな美しさと言ったらもう・・・!
ちなみに都の人は会津を「かいづ」と読むのかと言っていたほどに会津のことを知らなかったようで・・・都から奥州は遠いですし、地域同士の行き来がほとんどない時代(言ってしまえば生まれた場所近辺で人生過ごして終えて行く、が基本パターン)ですので、仕方がないと言えばそうなのですけどね・・・。
容保様の一行は、そのまま金戒光明寺に入ります。
最初京都守護職を拝命したとき、会津は二条城に本陣を置いてそこに入ろうとしたのですが、それだと二条城在番と同じことになるからと、当分の間は所司代千本屋敷を宛がわれていました。
しかし所司代屋敷は100人の足軽とその家族のために営まれたものなので、会津の隊列1000人を収容出来るわけもなく。
そこで幕府が、人が入らないなら御所近くに土地を買えば良いと言って急遽都に会津藩邸を建てることになったのですが、まず容保様らの入京までの日数がなくて、そういうわけでそれが建つまでは金戒光明寺が本陣となったのです。
その金戒光明寺の畳の張替えやら1000人の藩士の食事の賄いやらなにやらの受け入れ準備に、土佐さんと一緒に奔走したのが、悌次郎さんです。
容保様のお出迎えに並んでいたのは、その悌次郎さんをはじめとする、先程も触れました先発隊の公用方の人たちですね。
余談ですが、京都守護職を拝命した会津は、御役料5万石と、金3万両が下されました。
新たな5万石は、近江に1万5000、和泉に1万、越後に2万5000の内訳です。
勿論、そんな程度じゃ真っ赤な会津財政にとって焼け石に水状態なのですが・・・。
そして容保様はそのまま関白・近衛忠煕さんを訪ねます。
忠煕さんの出で立ちは、立烏帽子に縫腋位袍、指貫姿。
薩摩藩先々代藩主島津斉興さんの娘、興姫さんを娶ったので、薩摩とは関係深いお公家さんです。
「篤姫」の幾島さんが篤姫さんよりもまえに仕えていたのが、この興姫さん(=郁姫さん)になります。

都のことは少しも存じ上げませぬ。何卒お引き回しのほどお願い申し上げます

そういいながら容保様側から献上物の目録が差し出されると、忠煕さんはにんまりお公家スマイル。
献上物に喜ぶ公家の事情は、次の場面で悌次郎さんが解説して下さってます。
いま都で力を持っているのは薩摩、長州、土佐なわけで、それぞれにバックとして公家がついてるわけですが、その関係を結びつけるのがお金です。
悌次郎さんもはっきりとそう断言されてましたね。
以前の記事でも既に触れた通り、この頃の公家の暮らしは貧しかったのです。
先頃家茂さんに嫁いだ和宮さんだって、皇女の身分でありながら都におられる頃は衣装が新品ではなく必ず仕立て直しのものだった程。
皇女でそれですから、他がどんなものなのか、少なくとも『源氏物語』のような世界からは遠く離れているのは察して頂けるかと。

そこで自分の金元が損せぬように、競い合って策略を巡らすわけだ

大名と公家との間に、完全な需要と供給の関係が生まれているのですね。
対して会津には、そういった公家が今のところいません。
そんな会津のお殿様に、忠煕さんは言います。

長州派の公家は、それは酷いもんや。まことに畏れ多いことやが、主上のお名前騙ろうて勅書まで出しよる

帝の名前を騙って勅書というのは、つまりは偽勅のことです。
そういったことをする公家の筆頭が、国事御用掛のひとり、三条実美さんのようです。
忠煕さん曰く「お腹のお黒々なお方」。
飽く迄私の勝手なイメージですが、お公家さんは皆一様にお腹に何か黒いものを隠している気が・・・(笑)

年が明けまして、文久3年(1868年)正月。
雪降る会津では、山本家に集って皆様でカルタ取りに熱中。
新しい顔ぶれとしましては、今回初登場の日向ユキさん。
嘉永4年(1851年)のお生まれですので、このとき17歳、数えで18歳。
御旗奉行、日向佐衛門さんの次女で、家は禄高400石。
お母さん(ちかさん)の実姉が西郷さんに嫁いだ千重子さんなので、ユキさんにとって西郷さんは義理の伯父に当たります。
後に薩摩の方と結婚するのですが、敵味方の怨讐を超えた結婚第1号がそれになります。
家が八重さんの家とは垣根を隔てた距離の近さということから、言ってしまえば時尾さんと同じく、ユキさんも八重さんの幼馴染ということですね。
ちなみに八重さんはこのとき17歳、数えで19歳。
皆様夢中で何をやっているのかと思いきや、「下の句カルタ」ですね。
普通、カルタ(ここで言うカルタは小倉百人一首のことです)は上の句を読んで、取札には下の句が書かれていますよね。
「秋の田のかりほの庵のとまをあらみ」と読まれたら、「わかころもては露にぬれつつ」の札を取るのが私たちも良く知るカルタのルールだと思うのですが、下の句カルタはこれとは全く逆です。
つまり、読み上げられるのが下の句で、取札に書かれているのが上の句です。
たとえば「わびぬれば いまはたおなじ なにはなる 身をつくしても あはむとぞ思ふ」という歌、ドラマでは「身をつくしても~」と下の句から読まれてます。
下の句カルタは、今は北海道で遊ばれていますが、発祥そのものは会津でして、それが後に北海道へ会津藩士の手によって持ち込まれ現在に至るというわけです。

視点は再び容保様サイドへ。
容保様が御所へ参内しているということは、これは1月2日(1863年2月19日)のことですね。
帝が登場するとき、「おしー、おしー」と言う声がしてましたが、あれは警蹕と言いまして、要は「帝が来ましたよ」という合図のようなものです。
他にも「しし」「おお」などがあります。
平伏する容保様と応対するのは、帝ではなく、議奏と呼ばれる人です。
容保様がこの時献上したのは、天皇と親王にら会津名産の蝋燭一箱、太刀一振り、黄金馬代十枚ずつ。
天皇家の女性と公家には、紅白の縮緬十巻を身分に応じて贈答しました。
そんな容保様を御簾の中から見ていた孝明天皇が、笏でトントンと合図を送ります。
そして「主上からの格別のお志」として、広蓋に緋色の衣が乗せられて容保様に下賜されます。
そのまま御簾が静かに上がり、現れた孝明天皇の御尊顔に容保様も感極まって言葉も出ないご様子。
一拍ほど視線を交えるふたりですが、帝にとっても容保様にとっても、このお二方は互いが互いに今後がかけがえのない存在になっていきます。

我が衣じゃ。直して陣羽織にでもせよ

史実では衣だけでなく、天盃も与えられています。
武家の人間に御衣が下賜されたのは異例のことで、徳川幕府開闢よりこっち、初めてのことでした。
だから公家はあんなにざわめき、容保様もどうしてよいのか分からないと言った風に固まっていたのでしょう。
容保様の受けた名誉に、会津藩士一同は喜びに沸き上がります。
公用方付御庭番の大庭恭平さんなどは、皆にそのことを触れ回る始末。
吉報を聞いた藩士たちは歓声を上げますが、それを聞きながら容保様は修理さんへ尋ねます。

なにゆえであろうの。初めて参内したわしに、主上は御衣ばかりかお言葉まで下された

修理さんは、誠を尽くす容保様の想いが帝にも伝わったのでは、と言います。
確かにそれもありましょうが、少し補足させて頂くとすれば、前年の勅使東下の際(久光さんが都に行って出させたあの勅使です)、幕府の勅使待遇の礼を改めることに尽力した功に報いてというのもあったと思います。
あまり知られていないことらしいのですが、実はこの翌日、長州藩世子の毛利定広が参内した折、帝は同様に天盃と、白地の御衣を与えてます。
空前絶後のことが、この幕末の二日間で連続して行われていたのです。
このことを知らずにいると、この時点では「会津だけが特別だったわけじゃない(特別になるのは今しばらく時が経ってから)」というのが分かるのですが、やはり飛ばされてしまいましたか・・・。

さてさて、尊王を唱えるものが偽勅を出しているという現状を知り、都を血で穢すのは畏れ多いことなので何とか穏やかに治める道を探る容保様。
この年の1月1日(1863年2月18日)には将軍後見職の慶喜が入京しており、2月4日(1863年3月22日)に政事総裁職の春嶽さんが海路から大坂に入り、入京しました。
そのお二方に、容保様は「言路洞開」の案を提示します。

下の者の意見を聞く、ということか。それが何故、不逞の浪士を取り締まる策となるのだ
浪士達の話をよく聞いてやり、その上で公武一和こそ勤王の道であることを、誠を尽くして説き聞かせまする
いや、手ぬるい!公方様ご上洛までに、不逞の輩を一掃せねばならぬのだぞ
無闇に捕縛などしては、却って騒乱を招きまする。我らが率先して融和を図るべきかと存じますが

既に会津本陣ではその試みを行い、容保様もまた浪士達の話を聞いているということに春嶽さんは「それはご立派な」と、どう考えても皮肉な称賛・・・。
慶喜さんは慶喜さんで、その路線で行くのならどうぞご勝手にと言わんばかりの態度・・・。
容保様の言路洞開案に、賛同していないのは何もこのおふたりに限ったことではありません。
会津本陣内でも、「言路洞開だけで事が済むとは思えませぬ」という意見があります。

誠を尽くして動かぬものはない。百の策略より、ひとつの誠が人を動かすごどもありやす。浪士や攘夷派諸藩の中にも、人物はきっといる。情理を尽くして説けば、事態も変わるのでは?

赤誠を推して至公を存するのみ、ですね。
でも覚馬さんの言葉はご尤もに聞こえますが、誰も頷き返しません。
正直者、誠実者が馬鹿を見る・・・ということになるのでしょうか・・・なるのでしょうね、やっぱり・・・。

少し間を挟んで、再び会津サイド。
春英さんがユキさん達に種痘を施してくれてます。
種痘というのは、平たく言えば疱瘡の予防接種です。
ここで注目したいのは、佐久さんが種痘の接種推薦に回っていることです。
これは史実でして、また前回亡くなられた敏姫さんにも「種痘を」という声があったという細かな事実までさり気無く触れられていましたので、相変わらずの脚本の緻密さに感心します。
何気ない集団予防接種のシーンに見えますが、この頃種痘は一般的ではなくて、明治期の『相川県史』第十一条にはこんな記述がみられます。
附けて、種痘については兼ねてから言い聞かせ、医者を出向かせ勧誘させたといっても、頑固な人はひとり疑って躊躇い、競って種苗を必要としない。これは甚だしい事だと言える。天然痘はことごとく生死の際に関係する事であり、これが為に夭折する者も少なくはない。幸い死を免れたとしても、難痘になって盲となり、或いは生まれつきの顔立ちが悪くなる。父兄が気に留めずに放って置く事がないように、医者は出向く時に互いに勧誘し、幼児がいる人は遺漏なく種痘をするように(相川町史編纂委員会、1975、『佐渡相川の歴史 資料集6』、新潟県佐渡郡相川町)

種痘を受ければ牛になると考えられていたので(牛痘法の影響)、普及が進まなかったのもありますが、こういった歴史的背景事情を踏まえてこの場面をみますと、このシーンが如何に開明的かつ先進的かが良く分かります。
ちなみに春英さんがしているのは牛痘法ではなく人痘です。
物凄く雑談ですが、種痘の予防接種を試みたのは松本良順さんのお父さん、佐藤泰然さんで、江戸で最初に種痘を受けた女性は後に良順さんの奥さんになっています。
本格的に普及するのは明治の終わり頃まで待たなければなりません。

重要なことなのに飛ばされていたので、またまた補足させて頂きますと・・・。
文久3年2月11日(1863年3月29日)、攘夷期限決定を迫る勅使に対し、慶喜さん、容保様、容堂さんらは、「将軍滞京は10日限りで攘夷は将軍帰府後20日以内の見込」と上答しました。
春嶽さんだけが、攘夷期限設定に反対の意を示したようですが、どうやら残り3人に押し切られる形になったようです。
この内容は、家茂さん上洛の時にまた絡んできますので、一応ここでも時系列としてここでこんなことがあったんだよ、という程度にで触れておきます。

文久3年2月22日(1863年4月9日)の夜、等持院にあった足利三代将軍の木像の首が、三条大橋に梟首されます。
翌23日、夜が明けるとこの一大事は日の本にさらされることになり、野次馬がこれを取り囲みます。
覚馬さんと悌次郎さんも騒ぎを聞きつけてやってきます。

捨て札を見ろ。足利将軍は朝廷を軽んじた逆臣とある
将軍が逆賊・・・では、これは徳川への当で付けが・・・?

後々で会津とも深く関わって来ることになるので触れておきますと・・・。
かの有名な新選組の、前身ともいえる「浪士組」がこの23日、三条大橋を渡って入京して来ています。
後の新選組として名を馳せることになるあの方この方も、この異様とも取れる光景を目にしていたのでしょうね。
逆に浪士組は234名いたので、それを攘夷派が警戒してのことかもしれません。
事件の次第を、容保様は密偵として攘夷派に紛れ込ませていた大庭恭平さんに問います。

尊氏公は朝廷から官位を賜ったお方。その首を辱めるは、朝廷を貶めるも同じことだ。尊王を唱える浪士達が、何のために左様な真似をするのか

言葉を返すよりも前に、恭平さんは脇差を抜いて腹を斬ろうとします。
空かさず修理さんと土佐さんが取り押さえますが、恭平さんはそこで、晒し台に首を並べたのは自分であると告白します。
密偵である恭平さんが交わっていた浪士達が梟首の犯人であり、彼も計画から実行まで参画していたのです。

足利将軍の首は、即ち公方様のお首!攘夷をやらぬ将軍は逆臣ゆえ、いずれ首を討づどの脅しにごぜいまする

つまりあの梟首の意味は、足利幕府をかりて徳川幕府を非難し、尊氏さんの首級を現将軍家茂さんに擬したものだったのですね。
腹を斬らせてくれと懇願する恭平さん。
彼はこの後、信州上田藩に流罪となります。
そんな恭平さんや、その恭平さんを浮かした熱、背後にあるもの、それらすべてを差して「狂っている」と容保様は言います。

尊王攘夷とはなんだ?それではまるで、幕府を倒す口実ではないか
殿、仰せの通りやもしれませぬ。尊王攘夷は、最早表看板にすぎず。真の狙いは、幕府を倒すごどにあんのでは
倒幕・・・。なれば、言路洞開など何の役にも立たぬ・・・。幕府打倒を狙う輩に、融和策など通じぬわ

出来れば都を地で穢したくないという優しさから出た、容保様の融和策。
それが結果的に攘夷急進派の浪士に隙を与えるような結果になってしまったのですね。
一生懸命話を聞こうとして、耳を傾けて、話し合えるのならそうして・・・でもそれが「甘い」のだということを、目に見える形で突き付けられて容保様が納得させられたのが、この梟首事件だったように感じます。
激怒した容保様は、所司代と町奉行所に賊を捕らえるように命じます。
このとき、春嶽さんや慶喜さんが慎重論を唱えたらしいのですが、それを振り切っての捕縛と処断に踏み切ったのです。
この事件を契機に、会津藩と尊王攘夷の急進派浪士は、急速に対立を深めていくことになります。
その過程の中で、先程名前を触れさせて頂いた新選組が出てくるわけですが、それは次週の登場の時にでもまた。

しかし、会津と攘夷浪士とではやって、やられて、またやり返されて・・・というのが続くと思います。
容保様が厳しい取り締まりを決意したと、大蔵さんから聞いた尚之助さんは、やはり、と溜息を吐きながら、それが会津の仇にならなければ良いと言います。

仇って?何のごどです?
強い力を持つ者は、初めは称えられ、次に恐れられ、末は憎しみの的となる。・・・覚馬さんも、それを恐れていました
憎まれる?幕府のお指図で朝廷さお守りしていんのに。遥々都まで行って、働いでおられんのに。そったごど、あるはずがねえ。会津が憎まれる何て・・・

確かにこれで憎まれたら、何処までも救いようのない貧乏籤ですよね、京都守護職って。
・・・と、言いたいのですが、後の展開ではこの尚之助さんの懸念こそが現実となります。
神様というのは、時々凄く残酷なことを平気でなさるのですね。


ではでは、此度はこのあたりで。


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