2013年2月28日木曜日

第8回「ままならぬ思い」

文久3年3月4日(1863年4月21日)に家茂さんが将軍としては229年ぶりとなる上洛をし、7日(4月24日)に参内するところから始まりました、第8回。
家茂さんの正室は、孝明天皇の妹の和宮さんなので、つまり家茂さんと孝明天皇は義理の兄弟となるわけですね。
この婚姻関係こそ、まさしく「公武一和」。
それはさておき、攘夷の話はどうなっているのかと後見職の慶喜さんを婉曲的に詰るのが、国事御用掛のひとり、三条実美さん。
天保8年2月7日(1837年3月13日) のお生まれですので、このとき26歳、数えで27歳。
前回忠煕さんが「お腹のお黒々なお方」と仰ってましたが、どうやらその通りみたいですね。

さて、将軍が上洛したにも拘らず、一向に京の治安は良くならず、相変わらず血の雨が降る毎日です。
この事態に容保様は眉根を寄せますが、町奉行所は不逞浪士に怯えて探索と捕縛に身が入らず、かといって会津藩自らが先頭に立って浪士を捕縛するのも憚れる・・・という事態に陥ります。
この状況の打開策として、土佐さんが思い出したように言います。

その儀、うってづけの者だぢがおりまする。幕府が集めた浪士の一党が、守護職のご差配を受げだいど願い出て参りました

実は将軍上洛に際し、治安の不安定な都でその警護を仕るという使命を負って、清河八郎さんという方の発案の下に江戸で集められた組織がありました。
「浪士組」というのですが、それが234名いまして、入京したのは前回の梟首事件が起こったのと同日です。
しかし将軍警護の下に集められたはずなのですが、都に到着するや否やどうもその清河さんという方が尊王攘夷色の強いことを提唱し始め、浪士組をそっちの方向に使おうとしたので、幕府もこれは見過ごせないと急遽浪士組に江戸への帰還命令が出されました。
これが3月13日(1863年4月30日)のことです。
この江戸へ戻った浪士組が江戸で再編成されたのが、新徴組ですね。
肝心の清河さんは江戸に戻って暫くしてから、佐々木只三郎さんらに殺されてます。
しかし234名全員がぞろぞろと江戸へ帰って行ったわけではなく、将軍警護を目的として上洛したのだから、その初志を果たしたいと残った人たちがいました。
それが芹沢鴨さんや近藤勇さん達です。
その彼らが駐屯している洛西の壬生村に、覚馬さんと秋月さんが訪ねて行きます。
案内役として応対したのが言わずとしれた、後の新選組副長の土方歳三さん。
天保6年5月5日のお生まれですので、このとき28歳、数えで29歳ですね。
ちなみに覚馬さん、現在35歳、数えで36歳。
悌次郎さん現在39歳、数えで40歳。
土方さんに案内されるまま、浪士達の様子を見て回る覚馬さんに、妙に鋭い視線を射かける男がひとり。
斎藤一さん、後に藤田五郎と名乗って明治の世で時尾さんの旦那様になるお方ですね。
天保15年1月1日(1844年2月18日)のお生まれなので、このとき19歳、数えで20歳。
この斎藤さんの視線に剣呑なものを感じた覚馬さんは、素性も知れない浪士らを預かって大丈夫なのだろうかと危ぶみますが、悌次郎さんは「今は手勢が欲しい」ということで、彼らを会津藩で預かることになります。
壬生浪士組がここに誕生しました。

その壬生浪士組の斎藤さんの、未来の奥様となる時尾さんはと言えば、故郷の会津で絶賛失恋中でした(苦笑)。
どうやら時尾さんは大蔵さんに淡い想いを寄せていたようですが、大蔵さんはこの度北原匡さんの娘・登勢さんと祝言を挙げることになったようで。
おふたりのご縁がなかったのは、家が釣り合わない、というのもあったのでしょうね。
何せ大蔵さんの家は家禄1000石、時尾さんの家は300石。
分かってはいたのでしょうが、それでもという想いも当然時尾さんにはあるわけで。

話しても、仕方ねぇがら。・・・んだげんじょ、やっぱり切ねえ

なので一生嫁には行かないという時尾さん。
他の誰のところにも行きたくない、お針や手習いを教えてずっとひとりで生きていく・・・と宣言。
すると八重さんも、鉄砲を捨てられないから自分も嫁には行かないと宣言。
後に、しかしこの宣言を翻すことになるこのお二方、その時が来たらどうするのでしょうなと、今から少し楽しみですね。

なあ、仕方のねえごどって、いっぺいあんな

後になって思えば、今回はこの時尾さんのひと言が、色んなところにかかってきたお話だったように思えます。

さて、正式に会津藩お預かりとなった壬生浪士達。
彼らと容保様とが初めて対面したのは3月16日(1863年5月3日)です。
壬生浪士達が京に留まったのは、先程も触れましたように飽く迄当初の目的だった将軍警護を務めんがため。
じゃあ家茂さん帰ったらこの人達の目的達成だったんじゃないの?じゃあ後の新選組はどういうこと?と思われるかもしれませんが、更なる滞在理由がこの会津藩お預かりになったことです。
そんな彼らの最初の任務は、4月21日に行われる家茂さんの摂海(現在の大阪湾)巡検の警固でした。
その日、駕籠に乗った家茂さんの列の後方で、有名な浅葱色のだんだら模様の羽織を着た集団・・・何と言いますか、浅葱色のせいもあってか異彩を放ってますね(笑)。
ちなみにこのだんだらの羽織を発注したのは、大丸呉服松原店。
今の大丸百貨店の前進です。
大坂今橋の平野屋五兵衛方さんから、4月2日(1863年5月19日)に100両借金した元手で造られたものです。
とはいっても、隊士の増加に伴って羽織が全員に行き渡らなくなり、且つ麻の安手の羽織であったため、次第に誰も着なくなってそのまま自然消滅・・・というのがあの有名な羽織の真実です。
折角の特注品なのに勿体無いな、という気もしますけどね。
しかしデザイン性が気に入らなかったのか、土方さんなんかはほとんど袖を通したことなかったみたいですね。
更に余談になりますが、後に出てくるであろう誠の一文字の隊旗は高島屋発注です。
良いところで仕立ててますね~。

さて、お久しぶりの再会となった覚馬さんと勝さん。
勝さんこのとき40歳、数えで41歳。
文久2年閏8月17日(1862年10月10日)に軍艦奉行並になってます。
有名な坂本龍馬さんとは、この時点で既に会ってますね。
しかし御出世なさっても、べらんめぇの江戸弁は相変わらず。

そんなに攘夷がしたけりゃ、エゲレスとでもメリケンとでも戦を始めりゃいいのさ

その江戸弁で、サラッと凄いことを言ってしまう辺りも相変わらずな勝さんです。
しかし今異国を戦をすれば、負けるのではという覚馬さんに、勝さんは負けて初めて己(日本)の弱さに気付くのだと言います。

戦はしねぇがいい。だが攘夷も出来ず、開国もせず、その場しのぎの言い逃ればかりしてちゃどうにもならねぇわさ。一敗地に塗れ、叩き潰されて、そこから這い上がりゃ・・・十年後、百年後、この国もちっとはましになるだろうよ

ドラマでは触れられませんでしたが、勝さんがこう言うよりも前に、既に春嶽さんが出来もしない攘夷の約束をして幕府政権の延命を図るより、将軍辞職と政権返上くらい覚悟の上で朝廷に開国を奏上して、難局に当たれと言っています。
その春嶽さんが、絶賛辞表提出中なのはさておき・・・。
勝さんは遠い先の日本の話を覚馬さんにします。
そして、そのために会津はいま都で何をしようとしているのかと。
浪人抱え込んで、人斬りに人斬りぶつけるような形で治安を守って、それが何の先に繋がるのだと。
そう婉曲的に問われて、しかし他にやりようがあるのかという覚馬さんに、それを考えるのがおぬしの役目だと勝さんはきっぱり言います。

考えて考えて、考え抜いてみろ。象山先生や死んだ寅次郎さんは・・・遠い先の日本まで、思い描いていたぜ

遠い日本のことを覚馬さんに考えさせる。
これは、後に覚馬さんが口述筆記させた建白書『菅見』への伏線でしょうね。

攘夷も出来ず、と勝さんは仰ってましたが、攘夷の期限の5月10日(1863年6月25日)に唯一攘夷実行をした藩がありました。
長州藩です。
馬関海峡(現在の関門海峡)を通過するアメリカ商船ペンブローク号へ、砲撃したのです。
朝廷からもよくぞ攘夷実行してくれたと褒勅があり、それに勢いを得たのかさ更に5月23日にはフランスの通報艦キャンシャン号を、26日にはオランダ東洋艦隊所属のメデューサ号を、それぞれ砲撃しています。
しかし後にこれが四国連合艦隊による報復へと繋がっていくわけです。
また都では、文久3年5月20日(1863年7月5日)、長州派の公家、姉小路公知さんが刺客に襲われ、命を落とします。
朔平門外の変と呼ばれるものです。
何でも公知さんが退朝して朔平門の外に出たとき、刀を持った賊三人に襲われ、顔と胸に重傷を受けて屋敷の門前で亡くなったとか。
賊は刀と木履を現場に捨て去ってまして、その刀を検分すると薩州鍛冶であり、木履も薩摩製だったことからこの事件への関与を疑われた薩摩藩は、御所から遠ざけられることになります。
元々公知さんは実美さんと並んで、尊攘急進派公卿の中心的存在でした。
しかし勝さんと接点を持つことで、開国論にも理解を示すようになり、幕府側としては有難い存在になろうとしていた矢先にこの事件です。
公知さんが亡くなって、誰が一番得をするのか・・・そう考えたら下手人のバックが自ずと分かるのですが、ともあれ薩摩藩が遠ざけられたことで朝廷の実権は長州藩が握ることになります。
その長州と繋がる公家の実美さんのところへ集まったのが、桂小五郎さん、久坂玄瑞さん、真木和泉さんの御三方。
桂小五郎さんは…後々での会津への仕打ちを鑑みて、どうしても好きになれない…。あ、天保4年6月26日(1833年8月 11日)のお生まれですので、このとき30歳、数えで31歳ですね。
久坂玄瑞さんは天保11年(1840年)のお生まれですので、このとき23歳、数えで24歳。
真木保臣さん、通称真木和泉さんは文化10年3月7日(1813年4月7日)のお生まれですので、このとき50歳、数えで51歳。
三人と実美さんは、やっと薩摩が御所からいなくなったのに、また厄介な連中が現れたと苦々しく言います。
壬生浪士組こと壬生狼と、その後ろにいる会津です。
長州の攘夷のためには、どうしてもこの会津が邪魔だと見た彼らは、それを排除する動きを見せます。
そうやらその策が、真木さんにあるようです。
さてさて、一体何を仕掛けるおつもりやら・・・。

一方の会津。
夏の終わりの頃でしょうか、十日後に京へ出発することが決まったという大蔵さんが、八重さんのところへ挨拶に来ます。
そのまま立ち去ろうとする彼を尚之助さんが「返す本があったから」と呼び止めて、気を利かせたのか大蔵さんと八重さんをふたりきりにしてあげます。
尚之助さんの素敵な気遣いですね、と言いたいところですが、当の大蔵さんは祝言を別の女性と控えた身ですので、微妙な気遣いだなとも思えます。
八重さんは覚馬さんもいる京へ上る大蔵さんに、あんつぁまに宜しく伝えて欲しいと託します。
そしてふと羨ましそうな表情を浮かべて、自分は生まれ損なったのだと言います。

こった時に何もできねぇのは、じれってぇ。・・・もし男に生まっちゃてだら都に馳せ参じて、あんつぁまと一緒に働ぐのに
・・・俺も、そう思う。八重さんが男ならば・・・子供の頃のように競い合う仲でいらっちゃ。共に銃を取って、戦うごども出来た。・・・決められた縁組に、心が迷うごとはながった

意外な展開の意外なタイミングでの大蔵さんの告白でした。
でも、悲しいかな八重さんには届いていないようで・・・でも、大蔵さんはそれでも良いのでしょうね。
仮に届いたって、大蔵さんには祝言が控えていてどうしようもないのですから。
時尾さんとはまた違う形で、ここに大蔵さんの「ままならぬ」があるような気がします。
その「ままならぬ」を如何にか呑み込もうとして、大蔵さんが八重さんに意味深い言葉を言います。

京で会津を思うときには、きっと、真っ先に八重さんの顔が浮かぶ。あなだは・・・会津そのものだから

八重さんは会津そのもの。
これにはちょっと理解に苦しみましたが、ドラマのタイトル「八重の桜」になぞらえて考えますと、あの八重さんがしょっちゅう登ってる桜の樹が八重さんそのものを表していて、大地にしっかり根を張って咲く。
これが大蔵さんの言葉の「会津」のニュアンスなんだろうなと。
上手くまとまりませんが・・・うーん、この言葉、深いというか難しいですね。
しかしそんな深い大蔵さんの言葉も八重さんには届いておらず、「おがしなごど言って」で終わらされてしまってます。
まあ、それでこそ八重さんと言いますか(笑)。
そんな八重さんが大蔵さんの祝言当日、いつもの桜の樹の上で砲術の書物を広げていると、官兵衛さんが馬に乗って疾駆し、それを追い駆ける西郷さんの姿がありました。
謹慎を命じられている官兵衛さんは、京の様子を聞いていてもたってもいられず、脱藩覚悟で容保様のところへ向かうつもりだったようです。
しかし脱藩してしまっては、容保様の前に出ることすら許されなくなります。
それじゃあ元も子もないではないかと、そんな西郷さんの口から飛び出したのはお久しぶりな気がする「ならぬことはならぬ!」。
しかしそれに反発するように、官兵衛さんの中で「ままならぬ思い」が悲鳴を上げます。
この有事に容保様の力になれないのなら、問題を起こした時に死罪になってた方が良かったとまで言って去っていく官兵衛さん。
その姿を見送った西郷さんが、樹の上の八重さんに気付きます。
会話から察するに、両者10年近く会ってなかったはずなのに、何故か西郷さんは一目で八重さんが覚馬さんの妹の八重さんだと分かるのですね(笑)。
それはさておき、八重さんが砲術の書物を読んでいることに、こんなの学んでどうするのだと西郷さんは尋ねます。
もうすっかり八重さんの周りは理解者だらけで、ついうっかり忘れそうになりますが、これが普通の反応なのですよね。
八重さんは、自分が男なら官兵衛さんのように馳せ参じたいのだと言いますが、西郷さんは言います。

切腹仰せづけられるどごろを、殿のご温情にて一命を救われだ。今ごそ、ご恩に報いる時だど勇み立っているが・・・あの燃えるような忠義心、裏目に出るやもしれぬ

しかし勇み立つ官兵衛さんの行動には、八重さんは理解を示します。
八重さんもまた、第1回の追鳥狩の時に容保様のかけて下さった言葉に心を揺さぶられていたからです。

お殿様のお情け深さ、武士らしいど言わっちゃ時の嬉しさ。心に沁みで今も忘れられねえだし。私のような者でさえ、お殿様のために働ぎでぇど思うのです。佐川様はどれほどかど・・・
そうよのう。人の心を動がすものは、罰の恐ろしさより温がい情けがもしれぬ。なれば、寛容な心こそが憎しみがら身を守る盾どなるはず。良い話を聞いだ

しみじみと八重さんの言葉を聞いて、胸の内に色々あったであろう思いが纏まったのか、西郷さんは都へ行くことを決心します。

そんな中、御所内では実美さんが我が物顔で朝議を取り仕切り、挙句の果てには会津に関東へ下らせる勅命までさっさと決めてしまいます。
要は都に軍勢率いて居座る会津が、実美さん達急進派の公家にとっては邪魔な存在でしかなかったのですね。
朝廷内でも公武合体派と、そうでない急進派(こっちが長州とかとリンク)とに分かれてたわけですよ。
守護職が都を空ければ、都を守るものがいなくなるではないかと待ったをかけた孝明天皇すらあっさりと退ける始末。
この実美さんの孝明天皇への振る舞いって、不忠というか、無礼にならないのかな・・・という気もしなくもないですが、どうなのでしょうね。
しかし、武士は会津だけでないという実美さんの言葉は尤もですが、孝明天皇的には純粋な意味で自分を想ってくれてる武士は会津というか、容保様だけなんですね。
他は何かを腹に含んでるように見えるのでしょう。
自分を取り巻く公家衆も然り。
たとえばこの実美さんとか実美さんとか実美さんとか実美さんね。
会津本陣の容保様の元へ、武家伝奏を通じて関東下向の勅命が届けられます。
これが6月25日(1863年8月9日)のことです。
しかしそれを受け取った容保様は、勿論はいそうですかとすぐには従いません。
その上守護職という任に就いている以上、そう簡単に都を離れられるはずもなく、一体絶対これはどういうことなのかと容保様は考え込みます。
同じ頃、孝明天皇が御所で密かに実美さん達に気付かれないように忠煕さんを呼ぶように命じます。
そこから孝明天皇→忠煕さん→忠煕さんに呼び出された会津藩士の小野権之丞さんへと孝明天皇の勅書が渡され、容保様のところへ「勅書」が再び届きます。
ドラマでは権之丞さんは出ず、修理さんがその役を担っていましたね。
しかし25日に来たのも勅書、今回もまた勅書?と思われるかもしれませんが、要は前者は孝明天皇の意に添わない形で実美さん達が勝手に出した「偽勅」ということです。
修理さんが携えてきたものこそが、孝明天皇の考え、思いが反映された本当の「勅書」。
やや混乱したような面立ちのまま、書状を開く容保様。
そこには「守護職を関東に帰すことは、朕の望むところではない。なれど堂上達申し条を言い張る上は、愚昧の朕が何を申すも詮無きこと」とあります。
好き放題偽勅を発せられ、自分の本当の言葉が届かない状況に追いやられている孝明天皇の苦境が、滲んでいます。

江戸へ下れとの御下命は、御叡慮ではない。・・・公家たちが勝手に決めたものとある
では、先に届いた偽勅は、一体・・・
偽勅の話、やはりまことであった・・・。会津を都から追い出し、朝廷を意のままに操ろうとする者の企み故、決して従うなとの仰せじゃ

偽勅の件が明らかになり、憤りに震える容保様ですが、勅書を読み進めた先で息を呑んで瞳を涙で湿らせます。
ちなみに勅書の内容は以下。
イマ会津ヲ東下セシムル者ハ、過グル日申セシ如ク、勇威ノ藩ナルニ因ッテ、ココニ居レバ奸人ノ計策行ナワレ難キガ故ニ、コレヲ他ニ移シ、事ニ托シテ守護職ヲ免ゼントスルナリ。関白モマタ、コレヲ疑エリ。コレ則チ、朕ガ尤モ会津ヲ頼ミトシ、遣ワスヲ欲セザルトコロニシテ、事アルニ臨ミテ、ソノ力ヲ得ントスルナリ。今偽勅甚ダ行ナワルルガ故ニ、コノ後何等ノ暴勅ノ下ルモ測リガタシ。真偽ノ間、会津ヨク察識スルヲ要ス。(山川浩、1965、『京都守護職始末』平凡社)
コレ即チ、以下の文章が容保様の感涙の理由ですね。

尤も会津を・・・主上は、それほどに我らを頼りにしておられるのか・・・

これが6月27日(1863年8月11日)のことです。
偽勅に心を痛めつつも憤りを感じていた孝明天皇からすれば、ようやく自分の言葉を伝えられる相手が現れたのでしょうし、容保様は容保様で、貧乏籤を引かされて薪背負って遥々都まで火を消しに来た先で、帝という尊い存在に頼られて、凄く嬉しかったのだと思います。
幕府は会津にやるだけやらせて、何も報いませんから・・・。
そういった意味では、孝明天皇から絶大なる信頼を得たというのは、容保様にとって何物にも代え難いものだったでしょう。
そのタイミングで、数日後に西郷さんが黒谷までやってきます。
西郷さんが何かを容保様に話す前から、もう話し合いの結果は見えていた気がします。
勿論西郷さんは視聴者みたいにそんなこと知らないのですが、あの宸筆の後に容保様は動かせるわけないんですよね。
さて、そんな状態での西郷さんと容保様です。

ご就任当初、殿は対話の道こそ第一とされておいででした。それでごそ、公武一和は無事に調うものど、頼母、感服仕っておりました。なれど只今は、素性怪しき浪士組をお抱えになり、不逞の者はこどごどく処断するご方針に変わられだ
最早厳罰を以って処するより都を守る術はないのだ
今一度、言路洞開のお立場にお戻り頂くごどは出来ませぬが?
出来ぬ。既にその時ではない

人の心を動かすのは確かに温かい情だったのかもしれないけど、容保様は前回その手段を手放したんですよね。
それは、でも容保様の選択が決して間違ってるわけではないのです。
西郷さんは、その手段を容保様が手放した瞬間や経過の時に都に居なかったから言えちゃうわけで。
でも西郷さんだって、完全に外部から物を言ってるわけではないのです。
容保様たちが都に留まることで、その影響は国許の会津にまで及び、その影響を食らう位置にいるわけですから(分かりやすい例を挙げれば財政赤字とか)。
西郷さんは容保様に、京都守護職の退任を迫ります。
このまま守護職の役目を続けても会津の手と名前が血に塗れ、最初は守り神として重宝されるかもしれないがやがて恐れられるようになり、果ては憎しみの対象になると。
そうなる前に、と詰め寄る西郷さん。
先の歴史を知る身から彼の言葉を見つめますと、壬生浪士組(新選組)を起用して市中の取り締まりにそれなりに効果があったことが、「恨みを買う」という意味で会津の不幸にもなってるんですよね。
純粋な容保様がその先の展開まで理解していたかどうかは分かりかねますが、頼みにしてくれる孝明天皇を振り切って守護職の役目を放り出すことは出来なかったのです。
そんな容保様に、しかし西郷さんも一歩も譲りません。
他のどの家臣も言わないことを、西郷さんのみは飾ることなくはっきりと真っ直ぐに言います。

既に春嶽公は政治総裁職を放り出し、公武合体派の諸侯も京を去られだ。今はただ会津の身みが都で孤立しておりまする
損な役回り故、放り出せと言うのか?それは卑怯であろう。会津には御家訓がある。他藩とはひとつにならぬ
ではそのために会津が滅んでも良いど思し召すか!

先程もちらりと触れましたが、春嶽さんは文久3年3月26日(1863年5月13日)に幕府によって政治総裁職を罷免させられ、逼塞処分となっています。
そんなこんなで、今や幕府サイドで都に留まっているのは最早会津のみと言っても過言ではない状態です。
必然的に都での幕府へのあれこれの矛先は、幕府代表のような形で都に留まっている会津に全て向けられるわけでして。
それこそ先程西郷さんの言葉にあった、恨みや憎しみも。
幕府側からしたら会津はスケープゴートみたいな感じでしょうか。
そうは思ってないでしょうが、結果的に立ち位置からしてもそうなってるわけでして。
西郷さんは容保様が都に行く前から、そのことに気付いてましたよね。
だから京都守護職拝命の話が出たとき、「薪を背負って火を消しに行ぐも同然」と言って思い留まるように言った。
西郷さんは容保様が何故そこまで守護職の役目に固執し、全うしようとするのか、痛いところをズバリと突きます。
容保様は、二心を抱くものは我が子孫にあらずという、御家訓の一条に囚われているのだと。
更に重ねられた次の言葉は、本当は西郷さんは言いたくなかったんだろうなという気もします。
でも言わなきゃ届かないから、口に出した。
同時に、会津外から来た容保様と、保科所縁の血筋を持つ西郷さんの立ち位置図が明確になったような気もします。

なれど、そうまで拘れるのは・・・殿が他国より御養子に入られだ御方故。会津は、潰させませぬ!

容保様は御家訓を捨てられないし、他国から来たからか御家訓を誰よりも守ることで会津人になろうとしているというのは過去の記事でも散々触れてきました。
西郷さんは保科に血筋が近いせいもあってか、常に会津優先なんですね。
その会津が、スケープゴートのような扱いを受けて潰れるかも知れないという現状に、西郷さんが我慢ならないのも無理からぬ話です。
しかし諄いほど触れてきたように、容保様と西郷さんでは最優先順位が違ってるのです。
だから、すれ違ってしまいます。

主上はただひとりで国を担う重さに耐えておいでだ。一藩を賭けてでもお守りする。・・・それが、会津の義だ

容保様は西郷さんに国許に戻って沙汰を待つように告げます。
西郷さんに下ったのは蟄居の命でした。
しかし、京都守護職に終わりはあるのでしょうかね。
やり通すと容保様仰ってますが、彼は何を以ってこの役目が終わりとなるのか考えておられたのでしょうか。

天正9年2月28日(1581年4月1日)に織田信長さんが都で馬揃えをしたのは有名ですが、それから282年経たこのとき、会津藩は御所で馬揃えを披露することになりました。
因幡藩藩主、池田慶徳さんの進言によるものです。
最初は因幡、備前、会津の内の二藩が馬揃えする予定でしたが、二藩による調練は大がかり且つ大人数となり混雑するとの理由で、会津だけがやることになりました。
その名誉に沸き返る会津ですが、雨、雨、雨・・・で日延べ続きになります。
馬揃えが本来予定されてたのは7月28日(1863年9月10日)。
延期の延期で、ようやく行われたのは30日(1863年9月12日)の、しかし雨の日です。
最初、この30日も雨なので延期と伝えられていたのですが、急に馬揃えを始めよという達しが下ります。
出陣の折りに雨や雪など関係なかろう、というのが理由らしいですが、悌次郎さんは謀られたのだと言います。
不意打ちで満足に支度が整わないようにして、会津に恥をかかせようとしているのではと・・・。
勿論その通りで、これは実美さんらの仕業でした。
そんなこんなで行われた馬揃え。
参内傘はかつて保科正之公が明正天皇の即位を祝って上洛したときに授けられた、会津藩伝統の尊皇佐幕の象徴ともいえるものです。
騎乗の容保様がお召しになっているのは、緋色の陣羽織。
言わずもがな、孝明天皇から授けられた衣で仕立てたものです。
馬揃えをご覧になられていた孝明天皇もすぐにそのことに気付いたようで、嬉しそうに微笑みます。
孝明天皇はこの馬揃えをいたくお気に召したようで、大和錦二巻と白銀200枚を容保様に下賜しています。
更には孝明天皇はもう一度馬揃えを見たいと所望され、8月5日(1863年9月16日)朝七つ半からもう一度馬揃えが行われたのですが、そちらはスルーされたようですね。

一方、国許で蟄居を命じられた西郷さんは、八重さんがいつも登っている桜の樹の下で、黙々と毛虫除去作業をしていました。
こうは言っては何ですが、とってもお似合いです・・・(笑)。
八重さんの鉄砲の腕前は西郷さんの耳にも入っているようです。
しかしおなごの身では鉄砲足軽にもなれない。
八重さんはそれが口惜しいと言います。

ままならぬものよ。・・・誰も、望み通りには生ぎられんか

謹慎の身となった今、桜守りの爺にでもなろうかと笑う西郷さん。
ですが、一拍して寂しげな表情を浮かべ、言います。

桜が枯れぬように、せめでも災いの元を取り除きたかったのだが・・・

説明するまでもなく、桜は会津のことですね。
そんな西郷さんに八重さんは、樹が枯れると自分も困るから手伝いをさせて欲しいと申し出て、西郷さんにも笑顔が戻ります。
話は逸れますが、この回を見終わって、初回の冒頭の西郷さんと容保様のシーンを観ると、一層あのシーンに重みが出て、胸に込みあがるものがあります。
あそこへどう繋がっていくのか、楽しみですね。
そこまでの過程は、やはり切ないのでしょうが・・・。


ではでは、此度はこのあたりで。


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