2013年2月11日月曜日

留め置かれた大和魂

先週の八重の桜で、お白洲に散った松陰さん。
小栗さんの熱演もあって、その最期は私にとっては肌の粟立つ非常に印象深いシーンでした。
今日はその松陰さんが小伝馬町の牢獄にいる間のことを、いつのもように「ドラマでは描かれてませんでしたが~」という風に語りたいと思います。

松陰さんは萩の獄舎、野山獄から安政6年5月25日(1859年6月25日)早朝、江戸に向けて護送されます。

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(A地点が野山獄のあった付近)
2010年に放送されたドラマ「JIN-仁-(完結編)」をご覧になってた方は想像してもらいやすいと思うのですが、当時の牢獄というものは囚人による完全自治制が敷かれてました。
且つ、牢内で牢名主を頂点とした身分制度が存在しました。
要は牢獄は簡単に言えば猿山みたいなもので、ボス猿格が君臨統治してる小世界だったと考えて頂ければ宜しいと思います。
ボス猿を頂点に、幹部猿がいて、下っ端がいて・・・と。
そんな世界でものをいうのが、俗っぽい言い方をすれば袖の下です。
これがなくちゃ、牢で酷い仕打ちを受けます(それこそJINの南方先生が遭ってたような)。
大体は牢に入れられる前に、囚人自らがこっそり小判を持ち込んで、それをボス猿にせっせと献上するのですが、松陰さんもボス猿に貢いでいたのでしょうか?
とこの松陰さんの伝馬町牢屋敷収容ライフを調べた時に、ひとりの人物の名前と必ず出会います。
その人こそ、その時江戸にいた高杉晋作さん。
天保10年8月20日(1839年9月27日)のお生まれですので、松陰さん護送時は20歳、数えで21歳。
この高杉さんが伝馬町牢屋敷に足繁く通い、松陰さんに袖の下を健気に差し入れていました。
高杉さんは云わずと知れた松下村塾の生徒なので、何とも美しい師弟愛ですね。
しかしこの美しい師弟愛も、長くは続きませんでした。
・・・と書けば、何やら両者の間で何かあったような雰囲気になりますが、実際長続きしなかった原因は第三者の介入です。
このときの松陰さんは、まあ獄に入ってるので言うまでもなく罪人です。
対してこのときの高杉さんといえば、お父さんの小忠太さんは次期長州藩主の毛利定広さんの奥番頭。
要はこの小忠太さんが、自分の息子と罪人が美しかろうが師弟愛だろうが何だろうが、密な関係を持っていることを厭うたんですね。
まあ、息子が罪人と仲良くしていて気分の良い親というのはいないでしょうので、この小忠太さんの考えは間違ってないですね。
自分の立場というのもありますし。
そういうわけで、小忠太さんは江戸にいる高杉さんを萩に呼び戻します。
松陰さんと引き離そうとしたわけです。
そんな父親の画策があるとも知らず、高杉さんは萩へと帰ります。
・・・が、その道中に実は松陰さんの斬刑は実行されていて、萩で高杉さんを待っていたのは松陰さんの訃報でした。
この衝撃、いかばかりであったか想像もつきません。
もし自分が萩に戻らずに、あのまま江戸にいて付き添っていたら別の結果があったのかもしれない、何てことをひょっとすると思ったかも知れませんね。
「身はたとひ武蔵の野辺にくちぬとも留め置かまし大和魂」が松陰さんの辞世ですが、大和魂はきちんと弟子の高杉さんへと受け継がれ、彼が車輪の一部となって長州という藩を動かしていくことになります。
「八重の桜」ではまだキャスティングも明かされていない高杉さんですが、あの小栗さんの熱演を受け継げるようないいキャスティングであることを切に願います。
余談ですが、斬刑に処せられた松陰さんの骨を、英国公使館焼き討ちをしたに掘り返して洗って、現在の松陰神社(東京都世田谷区若林)に再度供養したのはこの高杉さんです。
(松陰神社となったのは明治15年)
それまで松陰さんの骨は回向院(現在の東京都荒川区)にありました。
回向院は刑死者を供養するためのお寺だったので、そんなところに松陰さんを埋めておくのは高杉さん我慢がならなかったのでしょうね。
この辺りのくだりがドラマで出てくるかは謎ですが・・・会津サイドではない歴史の一頁として添えさせて頂きます。

ではでは、此度はこのあたりで。


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