2013年2月5日火曜日

白鳥と梅と

桜田門外の変というのは、歴史を大きく変えたクーデターのひとつですね。
個人的に、日本史上初のクーデターは乙巳の変だと思ってます。

さてこの桜田門外の変。
そもそも、襲撃浪士18人が近くにいて、直弼さんの行列は不審に思わなかったの?という疑問があると思います。
しかし当時は田舎から出てきた武士が武鑑を見ながら、大名の登城光景を見物することは別段珍しくなく、故に彼らは怪しまれませんでした。
・・・あんな雪の日にそんなことしてたら、怪しいような気もしますが、怪しまれなかったみたいです(見物に天候関係なかったのかな?)。
しかし浪士が白鉢巻きと白襷姿だったのは、同士討ちを避けるための目印なのですが、そんな集団が雪の中にいたら、やっぱり不審そのものだと思うのですけどねぇ(笑)。

ドラマでは静々と行列が進んでましたが、実際の行列は駆け足で進んでいたはずです。
もし何か変事があった時に駆け足で登城すると、周りに「何かあったのか!?」と気付かれてしまうため、幕府高官は日頃から駆け足登城が常識だったのです。
その行列の先頭の供頭の日下部三郎右衛門さんに、駕籠訴を装って近付いたのは森五六郎さん。
轟いた銃声を放ったのは黒沢忠三郎さん。
何故銃で撃ったのかというところ辺り、不勉強ゆえ詳しく分からないのですが、仮に銃で撃ってなかったら駕籠の中の直弼さんもなかなかの剣豪ですから、仕留めるのに苦労しますよね。
下手をすれば仕留め損ねるかも知れない。
そのために、一定のダメージを与えておく必要があった=銃の発砲、という繋がりになってるのではないでしょうか。
創作ものでは見かけますが、一次資料で発砲の記述は見かけたことがないので、以上は私の憶測にすぎませんけど。

「八重の桜」ではスルーされてしまいましたが、彦根随一の剣豪の河西忠左衛門さんという方がこの行列にはおられまして、二刀で奮戦して駕籠に突進した稲田重蔵さんを斬り倒すなどして、最後の最後まで直弼さんの乗っている駕籠を守っていました。
その忠左衛門さんが倒れて、直弼さんの駕籠を守る者がいなくなり、駕籠から引きずり出されて・・・というのが史実の展開です。
銃声が聞こえてから直弼さんの首が切り落とされるまで、当時の記録で「喫烟ニ服」。
今の感覚で言いますと、3分から10分くらい。
驚くべき速さですが、時間をかけてたら人が駆け付けてきますのでね。
変な評価になりますが、実に手際の良いクーデターだったと言えるのではないでしょうか。

彦根藩邸にはすぐにこのことが伝えられますが、現場に駆け付けた時には浪士たちの姿は既にありませんでした。
彦根藩士たちは現場の処理を行い、1時間後には後片付けが終わっていたそうです。
その時、六之丞さんが首のない直弼さんの着物から辞世を見つけます。
曰く、「さきがけし猛き心の花ふさは散りてぞいとど香に匂ひける」。
直弼さんには安政の大獄の前に、「あふみ海磯うつ浪のいく度か御世に心をくだきぬるかな」と書き残した和歌もありますことから、己の死を覚悟してたのではとも読み取れます。

当たり前のことですが、彦根側はこのことに大激怒しました。
自分達のお殿様を殺されたのですから、その怒りも当然ですね。
水戸屋敷に討入りなどが企てられたようですが、幕府と藩の上層部の説得で取り敢えず抑えられ、その代わりに井伊家の跡目相続の便宜を図りました。
直弼さんには七人男の子がいたのですが、まだ後継ぎは決まっていなかったままこの事件が起きたようで、本来ならばこの場合、家名断絶は免れません。
ですが幕府は、「大老は襲われたが重傷で生存している」として、その間に跡目相続をさせて井伊家を取り潰しませんでした。
結果、幕府の公的記録の上では直弼さんが没したのは2か月くらい後の話で、その間に便宜上の見舞いの使者も訪れていたとか。
結果的に井伊家は取り潰しを免れましたが、家中の皆々様はさぞややりきれない思いがあったでしょうね。
ちなみに彦根藩では、この一件から上巳の節句(桃の節句=事件が起こった3月3日)を祝うことがなくなり、現在に至るまで彦根の一部の御家ではその風習が残っているそうです。

幕末に起こったこの一件により始まった水戸と彦根の不仲は、明治維新を経た後も続きました。
双方が和解し、親善都市協定を結んだのは桜田門外の変から110年後の1970年。
当時の彦根市長は、直弼さんの曾孫に当たる方だったそうです。
協定の証として、彦根城の堀に棲む白鳥が水戸市に贈られ、偕楽園の梅の苗木が彦根市に贈られました。
歴史の溝を埋めるには、たくさんたくさんの時間が必要なのだなと、改めて考えさせられる一件ですね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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