2013年3月8日金曜日

第9回「八月の動乱」

偽勅の件が明らかになり、孝明天皇の会津への信頼が一層篤くなった前回の回想から始まりました、第9回。
孝明天皇は近々大和行幸されるご予定みたいですが、会津の武を頼もしく思った帝は、会津にもそれに付いて来て貰ってはどうかと実美さんに言います。
しかし実美さんは、会津がいなくなっては都を守る者がいなくなる、とこの意見を却下。
孝明天皇の言うことやることを片っ端からばっさばっさと切り捨てて行くこの実美さんが、今週の見どころ(?)です。

秋月さんがおられるのは多分公用方の宿舎として使われていた三本木にある三本木屋敷ですね。
三本木は東に鴨川、西に河原町通りを隔てたところにありました。
最初は戸数45軒の、店と仕舞屋や並んでいたのですが、会津はその仕舞屋の何軒かを借り受けていたのです。
エリアとしては下記の地図のAのあたりでしょうか。

大きな地図で見る
そこを訪ねた覚馬さんが、洋学所を作ることを悌次郎さんに打ち明けます。
それは良いと、秋月さんもその案に賛成の様子です。
洋学を志す者は誰でも受け入れるつもりという覚馬さんに、それでは上がまた反発するのでは、と危ぶむ悌次郎さん。

会津だけが利口になっても、世の中は変わらねぇ。誰もが学び、世界を見る目を養ってこそ、十年後、百年後、この国はもっと良ぐなる

この間勝さんに言われた言葉が、覚馬さんの中でまた新しいものを喚起させたのですね。
象山先生の時と言い、第1回から見るに受動して能動的になる、という感じが覚馬さんですが、覚馬さんの生涯を見つめると後にこれが自発的一本になっていく風に思えるのですよね。
その辺りの変化も、今後見て行きたいなと思います。
さて、そんなとき、悌次郎さんにお客様です。
こんなんお持ちしやした、と町屋の女房が差し出した紙には、「薩摩藩高崎佐太郎」の字が。
これはいわゆる名刺です。
名刺を日本人が用いるようになったのは開国以降ですが、史実でもこのとき高崎さんは悌次郎さんを訪ね、名刺を差し出しました。
このネタ拾うとは流石、今回も脚本が冴え渡ってます。
ちなみに高崎さんが悌次郎さんを訪ねて来たのは、文久3年8月13日(1863年9月25日)のことです。

某、密命を帯びて参りました

ぬっと現れた高崎さんの発した言葉は、何やら尋常ではない事情を含んでいる様子。
刀を右に置いていたので、すぐに敵意や害意がないことは分かるのですけどね。
このふたりの接点が、幕末史に名を残す政変の波紋の始まりとなります。
ちなみに悌次郎さんと高崎さんは初対面ですが、悌次郎さんは昌平坂学問所留学時代に重野厚之丞さんや大山正阿弥さんといった薩摩藩士と知り合いになってるので、薩摩と付き合いがあったんです。
その後諸国回ってるから、会津藩士で一番諸藩に人脈持っているのはこの悌次郎さんですよ。
公用方として超優秀ですね。
だからこそ、高崎さんも訪ねてきたのでしょう。

一方会津の山本家では、照姫様の会津入りの話でもちきりでした。
美しくて歌も茶も書も良くなさる、まだ会わぬ照姫様を、かぐや姫みたいとユキさんが目を輝かせます。
美しくて、は分かりますけど・・・かぐや姫?とちょっとこの譬えは微妙だなと感じました(笑)。
その照姫様の会津入りに際して、もしかしたら誰かが奉公に上がるかもしれないという話に盛り上がる女性陣。
時尾さんに至っては、前回の失恋をかなり引きずっているようで、お城に上がれば嫁に行かなくても生きていけるとまでいう始末。
早く斎藤さんと時尾さん、出会わないかな~とやきもきしていると、角場で何やら銃声が。
行ってみると、三郎さんが時尾さんの弟、盛之輔さんと、藩の儒学者、伊藤佐太夫さんの次男、伊藤悌次郎さん。
ふたりとも安政元年(1854年)のお生まれですので、このとき9歳、数えで10歳。
悌次郎さんは後の白虎隊のひとりですね。
その幼い少年たちに、三郎さんが鉄砲の撃ち方を教えていたようです。
しかし目を離した隙に盛之輔さんが銃に触れようとして、八重さんの叱責が飛びます。
子ども扱いされたのだと思った悌次郎さんは、自分たちは日新館に通っているし、もう子供ではないと言いますが、学ぶには順序というものがあると八重さん。
確かに銃の扱い方も知らないまま、いきなり銃を構えたら危ないですよね。
ということで、三郎さんに代わって八重さんが火縄銃とゲベール銃の違いなどを教授。
真剣な目をして聞き入るふたりの少年に八重さんはどうして鉄砲を覚えたいのか尋ねます。

鉄砲が一番強えがらです。鉄砲や西洋式の調練やんねど、他藩に後れを取りやす
良いお心掛けだなし。世の中は動いでいやす。これがらは鉄砲の時代だなし

既成概念がまだ身に沁みついてない分、幼い彼らは鉄砲を受け入れやすいのでしょうかね。
良い兆候だと思います。
ところで八重さんが、この悌次郎さんの前髪を鉄砲の狙いをつけるのに邪魔だからとあちらの両親に断りも入れずに切ってしまうエピソードは、触れられるのでしょうか。


場面は再び都。
高崎さんは悌次郎さんに、驚愕の事実を伝えました。

行幸は帝のご本意ではなく、畏れ多いことながら三条実美らがご叡慮を歪めて決したことに御座いまする

補足説明させて頂きますと、実美さんたちは孝明天皇を神武天皇陵と春日大社に連れて行って、伊勢神宮にもお出で頂くという計画を立ててました。
詔勅の内容は、「為今度攘夷御祈願大和国行幸神武帝山稜春日社等御拝暫御逗留御親征軍議被為在其上神宮行幸事(訳:こたび攘夷御祈願の為、孝明天皇には大和国へ行幸、神武帝山陵・春日社等に参られて、しばらく御逗留御親征の軍議あらせられ、そのうえ伊勢神宮行幸の事)」というもの。
孝明天皇はこれより少し前に石清水八幡宮などへ行幸されてますので、行幸自体はそれほど騒ぐことでもありません。
だから孝明天皇も、冒頭で容保様に「同行してもらえないかな?」的な気分だったのです。
しかしそんな孝明天皇とは裏腹に、実美さん達にとって今回の行幸と、石清水八幡宮への行幸は性質が全く異なってます。
石清水八幡宮への方は、攘夷の成功を祈願=征夷大将軍(家茂さん)がちゃんと攘夷出来ますように、というものだったのに対して、今回は祈願の上で親征の軍議を練るというものがくっついてました。
親征というのは帝が自ら軍を率いて戦に赴くことです。
ということは、今回の祈願はその親征の戦勝祈願のような性質にもなってくるのですね。
その帝が軍を率いて一体何をするのかと言えば、語るまでもなく幕府討伐です。
つまりまとめますと、帝が自ら軍を率いて幕府討伐に乗り出すための戦勝祈願の行幸であり、親征であるということです。
多少語弊のある表現をすれば、孝明天皇は大和行幸は遠足だと思っていました。
しかし帝が遠足だと思って出かけた隙に、都を焼いて御所に戻れなくし、そのまま身柄を関東へ送還して討伐挙兵の渦中に放り込み、旗頭にしよう、というのが実美さん達の計画。
遠足は遠足でも、裏では戦要素満載の遠足だった、ということでしょうか。
もしそれを孝明天皇が知っていたのなら、「会津に大和行幸付いて来て貰おうよ」何て発言は冒頭では出なかったはず。
あるいは、あの発言を退けられたことから、大和行幸は何かあるな、とお思いになられたかもしれません。
個人的に、ですが、急進派には急進派なりの言い分があるでしょうが、どうも見てる限り彼らにとっては帝はただの旗印でありアイコンであり、それ以上でもそれ以下でもないでしょ?と感じてしまう節があります。
悌次郎さんから、長州派は箱根にて幕府討伐の兵を挙げるのでは、と聞いた容保様は、驚きを隠せません。
同時に、それは帝の望まれることではないと言います。
当たり前です、前回を通じてあれだけ自分に信頼を寄せてくれた孝明天皇が、容保様に何も言わずにそんなことをするはずはありません。
偽勅の時と同様、これは孝明天皇の意に添わぬ行幸で、実美さん達がまたも企てたものです。

長州派の企みにごぜいます。この上は兵力を以って君側の奸を一掃する他御座いませぬ
都で戦をするというのか
戦にならぬよう会津と薩摩が手を組み、武力を以って圧倒するのです
手を組むといっても、在京の薩摩兵は僅か三百しかおらぬが・・・

前置きが非常に長くなりましたが、要は会津と薩摩で手を結びませんか、というのが高崎さんが悌次郎さんの元へやってきた、最大の理由です。
しかし朔平門外の変のこともあって、薩摩が信用ならないと会津側が思うのも無理からぬ話。
御所から遠ざけられた薩摩の巻き返したための策略ではと警戒して当然です。
加えて悌次郎さんは、話を持ってきた高崎さんとは懇意ではなく初対面だったのですからなおさら。
けれども高崎さんと悌次郎さんの密談の席に同座していた覚馬さんは、全てが信用ならないわけでもないのでは、と言います。

中川宮様に御助力を賜りたいど申しておりやした。既にご内諾を得ているものがど

中川宮は先代天皇(孝明天皇のお父さん、仁孝天皇)の養子になってますので、孝明天皇とは系図でいえば義理の兄弟ですね。
後の明治天皇のことも任されてるほどに孝明天皇から深く信頼されていた人物です。
ちなみに今上天皇のお母様は中川宮のお孫さんなので、つまり今上天皇は中川宮のひ孫に当たります。
現在の皇學館大学の創始者でもあります。
中川宮の名前を聞いて、少し考えた容保様は悌次郎さんに高崎さんと共に中川宮を訪ね、長州を除く勅旨を賜るよう命じます。

薩摩ど手を無ずぶのですか?
ひとつ間違えば、我らが朝敵となりまするぞ!
会津は都を守るのが役目。この暴挙、見過ごしには出来ぬ。秋月、行け

会津が薩摩と連携する、すなわち有名な会薩同盟ですね。
薩会同盟という方もおられますが、私はこの同盟の主体は会津だと思ってますので、会薩同盟の呼び方で通させて頂きます。
都で大事が起こるかもしれないとなれば、必要なのは兵力です。
鉄砲隊の働きを頼りにしている、と容保様から言われた覚馬さん、物凄く嬉しそうでしたね。
それから容保様は土佐さんへ、京詰めの新兵が来ているかどうか確認。
京都守護職は1000人の藩兵を時期ごとに交替させ、入れ替わった1000人は、帰国がかなうというシステムでした。
勿論、例外で都にとどめ置かれる藩士もいますけどね。
丁度この頃がその入れ替わりの時期で、いま京都に会津兵は1000人いることになります。
交代した1000人は二日前に国許に向け出立したとのことで、容保様は彼らを呼び戻し、合計2000の兵を以って都を守るように下知を飛ばします。
その日の内に高崎さんと共に中川宮に拝謁した悌次郎さんは、勅旨が下り次第全軍を率いて参内するようにとの指示を受けます。
ここから孝明天皇が長州派を除く勅旨を下されるまで、ドラマではじりじりと待つ覚馬さん達が描写されていましたが、実は色々とありました。
先述した通り、高崎さんが悌次郎さんに会いに来たのは13日。
実は孝明天皇は、翌14日まで神事のため手が離せない状態でした。
何より、孝明天皇に話を持っていく中川宮は、誰にも見られず且つ悟られずに帝に拝謁しなきゃいけないという難易度の高いミッションが課せられているのですよ。
でないと、人から人の口を経てすぐに密議が外部に露見してしまいますから。
そういうこともあって、孝明天皇と中川宮の都合がなかなか合わず・・・。
それがクリアしたと思えば、今度は孝明天皇の腰が重いのです。
容保様への信頼は厚いし、目に余る三条さん達の動きには辟易していたでしょうが、下手に先進派を刺激したら後々で怖いことにならない?という思いがおそらくあったのでしょう、孝明天皇も人の子ですから。
そこで、急進派の公家を脅威と感じるならば、それに対抗し得るだけのものを帝側に構えれば良いと、注目を集めたのが二条斉敬さんです。
藤原北家嫡流の大物公卿で、彼に話を持ちかけたところ、中川宮サイドに付いてくれるとのこと。
そんなこんなで孝明天皇が覚悟を決め、まず帝から皇女に宸翰が下賜されました。
また偽勅ではと警戒されましたが、皇女を使者に立てることが出来るのは天皇だけですので、それが偽勅ではない何よりの証拠でした。
容保様や会津にそれが届いたのは、17日の夜です。
翌18日の深夜、容保様は全軍に長州らに気取られぬよう、粛々と御所へ向かうように命じます。
八月十八日の政変、と呼ばれるものがここから始まるのですが、13日に高崎さんと悌次郎さんが会った時から僅か5日後の出来事ということで、どれだけ急ごしらえだったのかは日数の間隔から察して頂けるかと。
御所へと到着した会津は、蛤御門と堺町御門の守りに、薩摩は乾御門に兵を構えます。
御所の各門の場所などは、環境省が配布している此方の地図を参考にしていただければ分かりやすいかと思います(リンク先でPDFファイル開きます)。
そこへ浅葱色の隊服に袖を通した、壬生浪士組が赤字に白く「誠」と染め抜いた隊旗を掲げてやって来ます。
以前の記事でも触れた、高島屋で発注した隊旗がこれです。
しかし彼らが御所に馳せ参じたのは、もう少し後だった気もするのですが・・・まあ気にしないことにしましょう。
門を押し通る形で壬生浪士組が御所に入った彼らが警備を担当したのは御花畠、正式名称は凝華洞。
建礼門の南に当たります。
お花が咲いてるのではなくて、御所に容保様が参内された時の宿所です。
覚馬さんは大蔵さんと一緒に、堺町御門の守りにつきます。
やがて公家や、容保様を始めとする在京の諸侯が参内します。
ちなみにこの時淀藩藩主の稲葉正邦さんが容保様に同行しているはずです。
牧野忠恭さんが京都所司代を辞任したので、彼が新たに所司代に就いていたのです。
まるで御所には会津と薩摩しかいないように描かれてますが、そういうわけで淀藩も470人の兵を引き連れて御所におりますので、忘れないでいてあげて下さい(笑)。
さて、異変に気付いた長州は、河原町にあった長州藩邸から御所へ押し寄せます。
位置関係は下図の通り。

兵を従えた久坂さんは門を開けるように大音声で叫びますが、覚馬さんが早々に退散するよう返します。
同時に鉄砲隊が構え、両者火花を散らした睨み合いが続きます。
久坂さんは鷹司邸に駆け込み、一戦交えてでも長州の潔白を帝に訴えるべきだと主張する一方で、実美さん達は勅旨に逆らっては逆臣になると、武力行使を押しとどめます。
一方内裏では、誰かが武装して御所に迫ってくるだなんて数百年なかったことですので、忠煕さんを始め公家の皆様は怯えている真っ最中。

向こうの兵は三万もおるそうやないか。僅か二千の会津で、御所が守れるか?
三万などとは流言飛語に御座ります。精鋭二千の会津兵が守護し奉る上は、一兵たりとも門内には入れませぬ

それでもと不安そうな忠煕さんに言い聞かせるように、上座の孝明天皇の次のひと言。

会津に任せよ。御所を守れ。頼むぞ、中将

目頭が、不覚にも熱くなりました。
そんな風にして、内裏の外でも互いに睨み合いながら時間ばかりが過ぎたその日の夕刻、苦渋に顔を歪ませた久坂さんが、全軍に退却を命じます。
最後に覚馬さんを睨んで行く久坂さん・・・禁門の変の時にでも対峙する伏線か何かでしょうかね。
長州派の企てを阻止した会津は、土佐さんが勝鬨をあげ、皆で手を空に突き出して叫びます。
一方、御所を締め出された実美さんを始めとする攘夷派の公家七人(その他、三条西季知さん、四条隆謌さん、東久世通禧さん、壬生基修さん、錦小路頼徳さん、澤宣嘉さん)は長州藩士と共に都を落ちて行きます。
いわゆる七卿落ちですね。
実美さんがとても悔しそうにされてましたが、同情の余地なしと申しますか、偽勅とかするから自業自得だよ、と思ってしまいます。
政変の翌日、容保様は孝明天皇から宸翰と御製を賜ります。
有名な、容保様が生涯竹の筒に入れて大切に持っておられたものですね。
それについては以前の記事で触れさせて頂いてます。
御製は、「たやすからざる世にもののふの忠誠を喜びて詠める」との詞書の後に、「和らくも武き心も相生の松の落ち葉のあらず栄えん」とありました。

会津の忠心が、主上の御心に届いたぞ

容保様を始め、会津藩士一同感激の涙を零します。
その頃壬生浪士組も、「新選組」という名を拝命してました。
新選組、というのは元は会津にあった組織の名前です。 何でも武芸に秀でた若者を集め、お殿様の近辺を護衛する役職だったそうです。
そういえば、よく新選組の字を「新選組」?それとも「新撰組」?と迷われている方をお見かけしますが、結論から言えばどちらでも正しいです。
子母澤寛『新選組始末記』には以下のような記述がみられます。
新選組の「選」の字が、選を用うべきか、撰を用うべきかについては、私はどちらでもいいと解釈した。肝心の近藤さえが、時に選を用い、時に撰を用いている。組の総代として公式に会津候へ差出した書面には撰の字を用いてあるのが多いが、その会津候が組へ賜る諸書状は、大てい選の字が使ってある。この時代の人達はただ音便に当嵌めて、自分の書きやすい便利な字を書いたようなところがある。(子母澤寛、1977『新選組始末記』、中公文庫)
私は新選組、の方の表記を使わせて頂いてます。
何はともあれ、事なきを得た八月十八日の政変ですが、少し補足を。
何の前触れもなくひょっこり出てきた高崎さん、結局素性もほとんど分からぬままでしたし、役者さんのオーラも加わってもしかして大物?薩摩の重鎮?という感じもしましたが、実は何てことない一介の薩摩藩士です。
薩摩からしたら、一介の藩士使って会津が動けば大儲けですが、万が一失敗しても「一介の藩士」に全部なすりつけて詰め腹斬らせるつもりだったんでしょうね。
いやいや、薩摩のことですから捨て駒を捨てるだけに終わらず、それをちゃっかり口実にして、一介の藩士と繋がって都で事を起こそうとした会津を都から追い出すくらいのことはやったかもしれません。
結果的に会津と薩摩の同盟は上手くいったわけですが、ドラマで見えている以上に会津側にとって高崎さんを通じて薩摩と手を結ぶことは、薄氷を踏むようなことだったのですよ、実は。
薪を背負って火を消しに行ったり、薄氷踏んだり・・・と、本当在京中の会津の立場を思うと、こちらの胃が痛みます。

江戸の会津藩上屋敷におられた照姫様が会津にお国入りなされたのは、その年の秋のこと。
私は照姫様が、戊辰戦争直前にお国入りされたのだとばかり思っていたので、お国入りの理由がイマイチ理解出来なかったのですが、色んな方からご教授頂きまして、今は納得出来ております。
その照姫様が手に持っておられるのは、一枚の写真。
写っているのは立烏帽子に白鉢巻姿、孝明天皇から下賜された純緋の衣で仕立てた陣羽織、尻鞘の太刀を佩き、右手に金割り切りの采を持っている容保様。
照姫様はこのとき、「少将の君より写真焼といへるものを送り給へるに、久々にて気近ふ大命給はる心地して、猶平らかに勇ましうわたらせ給ふ御姿に、いとうれしくおはすればかたじけなくて」という長い詞書と共に、「御心のくもらぬいろも明らかにうつすかがみのかげぞただしき」と言う歌を詠まれています。
現在容保様は少将ではなく中将なのですが、うっかり「少将様」と言ってしまうあたり、本当プラトニックと言いますか何と言いますか。
そういえば、写真のことは「ほとがらひー」とは言わずに「写真焼」と呼ぶのですね。
しかし、和歌に秀でた照姫様がせっかく出て来てるので、もっと和歌をピックアップして欲しいなと思います。
それとも未だに去年の清盛アレルギー継続中なのでしょうか?(苦笑)

目覚ましいお働きを重ねるたびに、背負われるお役目が重くなるようにも思われて・・・

なので、少しでもそんな容保様のお力になりたいと思い、照姫様は会津に来られたとのこと。
健気ですね・・・。
そんな照姫様が稽古を見に来られるということで、黒河内道場にはいつもよりも人がたくさんいます。
そんな中、蟄居を命じられている西郷さんの奥さん、千恵さんが現れ道場内の空気は微妙なものになります。
千恵さんは天保6年(1835年)のお生まれですので、このとき28歳、数えで29歳。
ユキさんの母方の伯母に当たります。
微妙な空気をものともせず、ひとり稽古を始める千恵さんに、そばにいた婦人方が言います。

千恵様、今日はご遠慮下さいど、お願いしたはずだげんじょ
頼母様は蟄居の身。お身内も、公の場はご遠慮されんのが筋でごぜいやしょう
夫は、天地に恥じるごどは何ひとつないど申し、私どもにも普段通りに暮らすよう命じでおりやす

大蔵さんのお母様、艶さんが間に入って、気持ちは分かるが収まりがつかないから引いて欲しいと願っても、夫の忠義に偽りはないと千恵さんも引きません。
彼女たちも意地悪を言っているのではなくて、これもまた秩序と規則を重んじるが故でしょうね。
規則や秩序というものは、守られてこそ続いて行くものですので。
やり取りを見ていた八重さんは口を挟みますが、控えるように言われ、時尾さんにも止められます。
そんな時、照姫様がやって来て、その場は一時お預け、皆様それぞれ稽古を始めます。
上座からそれをじっくりとご覧になる照姫様は、まず八重さんに目を留めて名を尋ね、次に千恵さんに視線を移してその心中と立場を慮ります。
稽古がすべて終わった後、照姫様は一同に言います。

都は今、容易ならざる有様です。国許の私達が心をひとつにすることが、殿様始め、都の方々をどれほど力づけることでしょう。会津を思い、殿を思い、己が家を思う気持ちが同じならば、たとえ諍いがあってもそれはひと時のこと。皆、会津のおなごなのですから。優しく、勇ましくありましょうぞ

照姫様のお言葉に、千恵さんの目が潤みます。
後に勃発する会津戦争の時、城に駆け付けた女たちは皆照姫様をを守りたい一心で駆けつけてきたのだと言いますが、この照姫様なら納得出来ます。
蟄居を言い渡された西郷さんにも、会津を心から愛し、会津を案じ、会津を守りたい心があることをちゃんと照姫様は理解して下さってるのですよね。
八重さんが大興奮して、あの方に仕えてみたいと思うのもご尤もなことだと思います。

文久4年2月20日(1864年3月27日) 、元号が文久から元治に改元されます。
飛ばされてしまってますが、文久4年1月15日(1864年2月22日)には、家茂さんが二度目の上洛をしてます。
更に補足として、容保様は文久4年2月11日(1864年3月18日)に京都守護職から軍事総裁職に転出されていて、代わって15日に春嶽さんが京都守護職に任命されてます。
よく誤解されてますが、実はずっと会津が京都守護職やってたわけではないのです。
・・・まあ、また京都守護職は会津にブーメランな感じで戻ってくるのですけどね。
そして3月(この時点では元治元年)、悌次郎さんは摂津の砲台築造工事の指示を負かされ、覚馬さんには洋学所を開いて改革を担う人材を育てるよう、それぞれ容保様から命じられます。
ただ、覚馬さんが気になったのは容保様の体調。
元々容保様は病弱な方で、ドラマではその描写はまだありませんでしたが、史実では江戸におられたころからよく床に就かれています。
そして優れぬのは容保様の体調だけでなく、悌次郎さんと覚馬さんを取り巻く一部の藩士たちからの視線。
先の政変で、長州を追い落としたのは自分たちの手柄だと鼻にかけているのであろうと、やっかみを食らいます。
悌次郎さんは聞き流せと、いきりだつ覚馬さんを制しますが、覚馬さんからすれば同じ藩の中でやっかみ合う小さな人間たちが腹立たしいのでしょうね。
しかし、会津藩もみんながみんな高潔で武士らしくて・・・ではないのだという一面が良く表れてるのではとも思いました。
そしてこのやっかみは、果ては会津にとってためにならないことを引き起こす遠因となるのですが、それはまたその時にお話ししましょう。

蟄居を命じられた西郷さんは、「栖雲亭」と名付けた庵を構えて日々を過ごしておりました。
そこを訪ねてきたのは、同じく蟄居の身である官兵衛さん。
都から、時勢に沿って藩内の改革を進めるようにとの書状が届き、藩士全てに回覧するよう沙汰があったらしいのですが、蟄居中のふたりは蚊帳の外に弾かれている状態でした。
沈む気持ちは隠しきれませんが、西郷さんは千恵さんから聞いた照姫様の「会津を思う心がひとつなら諍いはひと時のこと」の言葉を支えに、備えて待つことを言い聞かせます。
それはそうと、家中の娘たちの中から照姫様のご祐筆が選ばれるそうで、それなら八重さんはどうかとぼやく西郷さん。
心映えが良くて機転が利き、武道の心得もなけれなならぬ、と西郷さんは仰っていましたが、八重さんが該当してるのは「武道の心得」だけのような気がするのですが・・・(笑)。
しかし照姫様が黒河内道場に稽古を見に来られた時、八重さんの名前を訪ねたことから祐筆は八重さんではという噂で城下はもちきり。
八重さん本人も、まんざらではなさそうです。
佐久さんと権八さんも落ち着きなくそわそわ・・・祐筆といえば主人に代わって文を書くなどが主な仕事なのですが、この頃になるとそれに付随する雑用などもするという、まあ言ってしまえば名誉且つ手堅い職ですので、親の身としては当然の反応でしょうか。

いや、期待しすぎではなんねぇ。選ばれながった時にがっくりくんべ

そう権八さんは言ってますが、台詞と態度がまるで逆です。
そんな時、時尾さんお弟の盛之輔さんがやって来て、時尾さんに一大事を告げます。

お城から、お使者がお見えになって・・・姉上が照姫様のご祐筆として、お城に上がるごどどなりやした

選ばれたのは八重さんではなく、時尾さん。
権八さんは固まり、八重さんは泣きそうな顔でそんな両親を見つつ落胆の色を隠しきれません。
いえ、しかしですね。
周りがどれだけ持ち上げ、八重さん祐筆内定の噂が飛び交い、且つドラマの主人公だと言っても、八重さんより時尾さんが選ばれるんだろうなということは、話が出た時点で実は分かるようになってます。
八重さんと時尾さんとでは、髪型が違うのに気付いておられましたでしょうか。
第2回の時点ではふたり仲良く桃割れを結ってましたが、それから八重さんはつぶし島田、時尾さんは簪まできっちり挿していますよね。
(日本髪は時代によって異なりますので、多少の違いはあるかもです)
多分ユキさんと八重さんでも、髪型から察するに家格はユキさんの方が上だと思います。
覚馬さんが抜擢されているのでつい忘れがちなのですが、山本家の家格はあんまり高くないのです。
まあそれはあくまで現実問題の話として、折角ですので八重さんの心境を追って行きたいと思います。
その夜、「私なら照姫様のお役に立てると思っていた」と、自惚れがあったことを尚之助さんに話す八重さん。
正直、鉄砲なら、鉄砲なら、と再三自分でも言ってた八重さんなので、どのあたりを以って?と小首を傾げたくなるような、やや不自然な発言にも聞こえましたが・・・。
しかし八重さんは、今までずっと鉄砲を撃ち砲術の書を読む自分が、普通のおなごではないことを自覚して生きて来ました。
そんな八重さんが、照姫様の祐筆になれるかもしれないという淡い期待を抱き、しかし結果不採用に終わったということは、八重さんにとっては家格がうんぬんよりも、普通のおなごではない自分が世間様から弾かれた、と捉えてしまったのではないでしょうかね。
そして改めて、自分が普通のおなごではないことを思い知らされる。
でも尚之助さんは、そんな八重さんの「普通ではない」ところを評価し、こう言います。

八重さんがお城に上がってしまったら、ここで一緒に銃を作ってくれる人がいなくなる。新式銃を作るには、八重さんの助けがいります。私ひとりではどうにもなりません。八重さんの代わりはいない

察するに、こんなことがあった後でのこの言葉は、八重さんの心に沁みたと思います。
世間様からちょっとずれた存在を、尚之介さんは受け入れるだけでなく最大限に評価までしてくれる。
まあ、これは後にこのふたりが夫婦になるから作った展開でもあるのでしょうが、良い持って行き方だなと思います。
というか、八重さんでなくても、代わりがいないなんて言われたら女性としてはそりゃ嬉しいもんですよ。


ではでは、此度はこのあたりで。


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