2013年7月17日水曜日

第28回「自慢の娘」

彼岸獅子と共に、鮮やかに敵中を突破して城へ入った大蔵さん。
これに城内は沸き立ちますが、その一方で会津の存亡を願う西郷さんは、容保様と対立することになり、城外追放となります。
開かれた軍議で、西郷さんの姿がないことに気付いた大蔵さんがそのことを指摘すると、「あの方がいては足並みが揃わぬ」と何とも言えぬ答えが平馬さんから返って来ました。

何か?
恭順など馬鹿馬鹿しい。弱虫の家老がいて、兵達が命がけで戦えるが

西郷さんを排除した抗戦派の空気を目の当たりにした大蔵さん。
この状況で内部分裂してる場合じゃないだろっていうのと、内部分裂するのが拙いからその原因となる人間を除くのは理にかなってるよね、というのと。
どちらも納得出来ますが、西郷さんがいなくなった後にじゃあ会津上層部が纏まってましたかと言われれば、一概にそうとも言えません。
指導体制こそ、軍事は大蔵さん、政務は平馬さん、城外は官兵衛さん・・・などと割り振られていましたが、それぞれの主張はばらばらでした。
平馬さんは米沢へ脱出する論を唱え、それに官兵衛さんと山川さんが「それでは自らの敗北を認めることに繋がる」異議を唱え、と、正に船頭がいっぱいいて舵が取れてないとはこんな状況のことを言うのでしょう。
ちなみに大蔵さんが兵を率いて入城しましたが、薩長連合軍にも続々と増援が来ているわけでして、この時点で会津軍約五千に対して薩長連合軍三万ほど。
戦国時代、籠城した城を落とすには、ざっと十倍の兵力で当たらなければならない、と何かの本で読んだことがあるのですが、大砲や銃の性能がぐんとあがった幕末のこのときですと、六倍の兵でも城を落とすには十分だったでしょう。

一方で八重さん。
スペンサー銃の弾が、装填している分を除くと残り25個しかないことに気付きます。

もうこれしがねぇ・・・。弾が切れたら、なじょすんべ・・・

前にも触れたことですが、八重さんが籠城時に家から持って来たスペンサー銃の弾は100個。
24日の時からバンバン撃ってるように見えましたが、逆算すると2日で70発くらいしか撃ってなかったのですね、ちょっと意外です。
そして何より意外だったのが、スペンサー銃が籠城戦の途中で弾切れになることもちゃんとドラマで描こうとしていること。
夜襲の時にもゲーベル銃ではなくスペンサー銃を持って行かせてたので、てっきり最後の最後まで「八重さん+スペンサー銃」の絵図を貫くものと思ってました。
そこへ、深刻そうな顔をした秋月さんがやって来ます。

困ったことになったぞ・・・
何が?
頼母様が、お城を出られる。いや・・・お城を、追われる

去る者と迎えられる者、ということで始まりました、第28回。
夕暮れの中、嫡男の吉十郎さんと城を後にする西郷さんを、八重さんと秋月さんが呼び止めます。

お城を出て、何処に向かわるんですか?
殿のご下命を・・・萱野殿に伝えに行く
ご子息を連れて行くのは・・・お城に戻らぬおつもりだからですか?

秋月さんの問い掛けには答えず、一礼をして踵を返した西郷さんの背中に、「お逃げになんのがし!?」と八重さんの追及が突き刺さります。

ご家老様は、お城を捨てんのがし!?
八重殿っ!
なじょしてお殿様は、頼母様を追い出すんだし?
出過ぎたことを申すな!

秋月さんの制止も聞かずに「なじょして」を繰り返す八重さんに、西郷さんの一喝が飛びます。

人にはそれぞれ、道があんだ。なじょしても譲れぬ、道があんだ。臆病者と謗られようと、真っ直ぐにしか進めぬ、わしの道があんだ。この西郷頼母にも、たまわぬ節がある

会津の頑固さは八重さんも知っているでしょうが、頑固と頑固がぶつかり合ったとき、双方譲れないままになります。
八重さんは西郷さんを理解出来ないと言わんばかりの顔をしていましたが、それは八重さんがきっと「強さ」や「勇気」というものの意味を履き違えているからでしょう。
その証拠に、西郷さんは恭順を唱えていたと聞くと、「そった弱腰な」と言います。
官兵衛さん達と同じ感想ですね。
スペンサー銃で敵を仕留めることや、女だてらに戦功を挙げることや、戦線に立つことが「強さ」や「勇気」じゃないんです。
秋月さんが言った「恭順を唱えることの方が今は寧ろ勇気がいんだ」という言葉が、この状況での「強さ」と「勇気」の意味の全てです。
感情論に委ねていては、何も残せないまま全滅します。
城を枕に討死玉砕覚悟も辞さない覚悟を決めている抗戦派ですが、それだと展望がまるでない。
彼らの意見のまま行くと、先に待ってるのは国破れて山河あり、の状態です。
現実を見据えた意見が大切なんです、たとえその意見がどれだけ会津にとって屈辱なものであっても。
それが行く行くは、特報動画などで出て来てる容保様の「最後の君命」すなわち「生きよ!」に繋がってくるのかなと。
ところでこの西郷さんの会津退場、実はこんな人知れずではなく、黒金門で容保様と喜徳さんに挨拶をして、太鼓門のところで簗瀬三左衛門さんと言葉を交わしてから出て行ってます。
この後平馬さんが、西郷さん暗殺のために刺客を放ったようですが、見失ったということで引き揚げたそうです(刺客がそれで良いのかとも思いますが)。
尚この刺客を命じたのは容保様だという意見もありますが、明治期に西郷さんの就職先まで世話している容保様ですから、そう考えればここで西郷さんを殺すように差し向けるのは少しおかしな話になりますので、違うんじゃないかと私は思っております。
西郷さんはこの後、高久にいる萱野さん達に会い、米沢を経て仙台に向かい、榎本艦隊に身を投じて北の大地へ転戦して行きます。
彼が再び会津の土を踏むのは、およそ二十年後のことになります。
余談ですが、『幕末会津志士傳稿本』には、「身は権勢の家に生まれ、学術あり、また識見ありといえども、この未曾有の困難に会し、なんら能くなす所なくして一生を畢しはけだし時の不遇なるか、将又みずから招く所なるか、嗚」という西郷さんの寸評があります。

籠城した女性たちが、炊事場でせっせと玄米の握り飯を作っています。
以前の記事でも触れましたが、鶴ヶ城内に貯蔵されている兵糧に白米はなく、全て玄米でした。
白米の事前貯蔵については、籠城戦などないと決めつけていた上層部によって一蹴されていたようです。
しかし玄米を白米に精米している暇などないので、大きな釜に沢山の湯を沸かし、その中に玄米を入れ、掻き回す風にして炊いたそうです。
熱くて手の皮が剥けるので、女性たちはそれを水で冷やしながら握りました。
副菜はと言えば、やはり籠城戦を想定の範囲にいれていなかったので、漬物程度しかなかったそうです。
女性たちは玄米ではなく、道明寺粉(糯米を蒸して乾燥させ、挽いて粉にしたもの)を湯に入れて汁に啜る、というのが主な食事でした。
しかしその道明寺粉も、数年前の物だったので虫が湧いているなど、宜しくない状態だったみたいです。
二葉さんが言っていたように、女性たちは零れたお米、地面に落ちたお米などを丁寧に拾い集め、それを薄い雑炊にもしていました。
そこへ登勢さんが、孝子さん達の帰還の報せを持って来ます。

戻って来た・・・竹子様が

喜びを顔に咲かせて、照姫様のところへ駆け付ける八重さんですが、そこで知らされたのは竹子さん討死の事実でした。
ちなみにこの婦女隊、城は敵に包囲されているのに、一体何処から入って来たのかと言いますと、大蔵さんの彼岸獅子が入って来た西出丸からです。
しかし前回の彼岸獅子入城の様子を見ていても分かる通り、西出丸付近にも敵兵がうじゃうじゃいます。
そんな中、大蔵さんのように奇策を用いるのでもなく、一体彼女たちがどうやってすんなり入って来たのかは、手元の資料を探ってみましたが、はっきりとしたことは判りませんでした。
ただ、西出丸付近に布陣していた敵軍は、大蔵さんら彼岸獅子に続いて、またもや失態を重ねてしまったのですね。

もののふの猛き心にくらぶれば・・・。あの歌の通り、雄々しく戦ったのだな

照姫様からそんなお言葉を頂戴した孝子さんは、竹子さんが城に戻ったら八重さんに鉄砲を教えて貰おうと言っていた、と八重さんに伝えます。
竹子さんの妹、優子さんは、このとき八重さんに「何故婦女隊に参加して戦わなかったのだ」と詰ったようですが、八重さんは「自分は鉄砲で戦うつもりでした(=戦う武器が違う)」と答えたようです。
最初はそんな八重さんのことをあまり良く思っていなかった優子さんですが、姉を殺した鉄砲の威力が分かっていたのでしょう、後に八重さんから鉄砲を教わっています。

一緒に生ぎて来た人だちが、ひとりひとり、いなぐなんな・・・
戦だから・・・。立ち止まってはいられねぇ・・・

ところが、悲しみに打ちひしがれる暇もなく、突然砲撃音が鳴り響きます。
あの方角は、と八重さんは外に飛び出して行き、スペンサー銃を持って大砲隊を指揮している尚之助さんのところへ駆け付けます。

今の砲撃は、小田山からだべか?
どうやら、桁違いの大砲がある
弾の音が、違いやした
上野の戦争で使われた、アームストロング砲でしょう

尚之助さんお察しの通り、この日佐賀藩多久兵がアームストロング砲を小田山山上に運び上げています。
佐賀藩が所有していたアームストロング砲は後装6ポンド砲で、砲弾は榴弾、射程距離は約3000メートル(資料によってまちまち)、小田山から鶴ヶ城までは十四丁(約1530m)なので、十分すぎる射程距離圏内です。
しかも、あちら側が高所という。
こちらからも撃ち返そうと八重さんは言いますが、こちらから撃った四斤砲があちらに届くか、難しい顔をする尚之助さんに、ならばと八重さんは火薬の量をぎりぎりまで増やしてみれば良いと言います。
弾の爆発力を上げて遠くまで飛ばそうという発想なのでしょうが、「砲身が持たない」という兵の突っ込み以前に、物理的に不可能な気がするのですが如何でしょうか(苦笑)。
いえ、詳しいことは専門外なので断言しかねますが・・・でもやっぱり不可能だと思うんですよね。
砲術を携わってる人間にしては、場違いというかあり得ない発言じゃないかと・・・まあこれはドラマなので良いですけど。
まあ実際可能か不可能かは別として、「やるか」という尚之助さんの指示のもと、硝薬十三匁増した弾が発射され、四斤砲を据えていた台は反動でひっくり返りますが、弾は無事に当たったようです。
そこへ権八さんが早足でやって来て、「一発撃ち込んだからには今度はここが的にされる」と言います。
大砲とはそう言う物でして、撃ったら向こう側の人間が、相手の大砲がどのくらい離れたところから、どの角度から撃って来て、果ては大砲の位置を特定するのです。
勿論、言葉で言うほど簡単なことではありませんが。
権八さんは、後は自分達に任せて八重さんには持ち場に戻るよう言います。

八重、北出丸で鉄砲隊を指揮したそうだな
はい
山本家の名に恥じぬ働きであったと聞く。よぐやった。小田山からの砲撃で城内は狼狽えでいる。皆が、恐れ怯えることのねぇように、にしが鎮めて参れ
んだげんじょ
それも、砲術の家の者の役目だ。早く行け!

今回のタイトルにある「自慢の娘」の「娘」は、照姫様と孝子さんのやり取りから竹子さんのことも含まれているのでしょうが、やっぱりメインの意味での「娘」は八重さんのことを指しているのだなと思いました。
思えば八重さんって、鉄砲に関して権八さんに褒められたのはこれが初めてなんですよね。
(まあこんなことが起きなかったら、一生褒められなかったでしょうが・・・そう考えると少し複雑です)
けれども、渋々持ち場へ戻って行く八重さんに「ここは危な過ぎんだ」と呟いているのを見ても分かるように、やっぱり愛娘が戦線に立つというのは心配だし、親としてはどうしても賛成出来ないんですよね。
脇道になりますが、今年の大河で一番名誉挽回した人物は、紛れもなく尚之助さんだなと個人的に思っております。
ほんの数年前までは、尚之助さんは「会津戦争中に会津から逃げた」と臆病者扱いされていましたし、「八重の桜」が始まるまではほとんど研究進んでいませんでした。
それが研究者さん達のお蔭で、会津戦争も藩士として戦ったという事実が明らかになり、またドラマでもそのように描かれていますから。

容保様と城内を視察していた大蔵さんから、城内に水を絶やさないように、と言われた登勢さんは、言われた通り女性たちと協力して水を張った桶を幾つも用意します。
その間にも城の上空には敵の砲弾が横切り、絶え間ない爆発音が響きます。
そんな時、ひとつの弾が容保様の目に届く距離に落ちて来ます。
咄嗟に大蔵さんと平馬さんが容保様を庇い、近くにいた女達が悲鳴を上げて狼狽する中、駆け込んできた八重さんが手近にあった布団に水をかけ、砲弾に多い被せて発火を防ぎます。
誰もが爆発するのではないかと、じっと八重さんを見つめますが、「消えだ・・・もう大丈夫。この弾は爆発しねぇから」と言う八重さんの言葉に、一同安堵の表情を浮かべます。

今、何をしたんだし?
火消だ

二葉さんの問い掛けに、八重さんはそう答えます。
まるで迷いのない一連の動作は、砲弾を熟知している砲術の家の娘だからこそ出来たのでしょうが、しかしいつ爆発するか分からない砲弾に、濡れ布団ごと覆い被さって行けるのは凄い胆力と度胸です。
しかもこれが史実なのですから、平馬さんが目を見開いて仰天するのも無理ないかと。
容保様に活躍を見られていたなど知らぬ八重さんは、女性陣に先程自分がやった火消の手順を説明します。
(ちなみに史実ですと、最初に消火活動を行って、容保様から酒の杯を下賜されたのは孝子さんだったと思います)

上がら来る弾は、しっかり目開げて見っと、落ぢる先の検討が付きやす。もし近ぐに落ちたら、濡れ布団でここをしっかり押さえ込んで消し止める。んだげんじょ、弾はいづ爆発すっか分かんねぇから、これは、命がけの仕事です
やりやす。お城を守るために、入城したんだし

けれどもくれぐれも無茶はするな、と八重さんのいう言葉の通り、事は「濡れ布団被せるくらいなら」という単純に見えて単純ではありませんでした。
実際火消に失敗して被弾して命を落とした人も少なくなく、「命がけの仕事」は誇張表現でもなんでもありません。
それでも、城内の女たちが消火活動に怯えることはなかったというのですから、女達の強さが伺えます。

そんな八重さんに、先ほどの一部始終を見ていた容保様からお召しの声がかかります。
容保様のいる黒鉄門の陣に八重さんが参上すると、「先程は、見事であった」と容保様直々に声を掛けられます。
え?と言う顔をする八重さんに、平馬さんが砲弾を消し止めたところを見ていたのだと言います。

いい度胸だ
私はただ、すぐには爆発しねぇことを、存じていただけにごぜいやす
その仕掛け、詳しく聞かせよ
不発弾をここに

そして運ばれて来た不発弾を前に、八重さんは澱みない説明を始めます。
八重さんの目の前にあるのは榴弾と実体弾(?)でしょうか。
形も片や球状、片や椎実型(ちなみにこの椎実型の砲弾の実物は、幕末霊山博物館などで実際に展示されており、実際に触れることが出来ます)。
八重さんいわく、このふたつは形は違えど仕組みは同じで、弾を爆発させるために、信管(起爆装置)を使っているのだとか。
球状の方の弾(榴弾)は、信管から火薬に火が移った時に爆発する仕組みになっているそうです。
榴弾は中に鉄片が仕込まれており、これが四方八方に飛び散って損傷を大きくするのです。
ですが、露わになっている信管を濡らすことで、先程八重さんがやったように、火薬に火が付く前に消し止めることが可能と。
今敵が多く撃っているのはその弾のようです。
八重さんの話に真剣に耳を傾けていた容保様は、そっと八重さんに近付いて、八重さんが覚馬さんと似ていると言います。
そんな容保様に、八重さんは一度自分はお殿様にお会いしたことがあると昔の出来事を話します。

お殿様が、お国入りなされた年の、追鳥狩の時にごぜいました。私は、不躾にも木に上って落ちやした。卑怯ではねぇ、武士らしいと仰って頂いた時の嬉しさは、忘れられません。いつか強ぐなって、お役に立ちだいと願っておりやした。会津のために働きてぇと、ご家老様に申し上げたこともごぜいます
頼母か
はい。今がその時ど
余計な話はせずとも良い。大殿、そろそろ軍議を
お殿様、ひとり、またひとりと友や仲間を亡くしますが、残った者たちで力を合わせ、会津を守るお役に立ちたいと存じます

八重さんの原点回帰ですよね。
最初は純粋に兄や父の扱う鉄砲というものに憧れていましたが、追鳥狩のあの一件から、
尚も言葉を続けようとする八重さんに、下がれと平馬さんは言いますが、それを遮るように容保様が口を開きます。

八重。女も子供も、皆我が家臣。この後も、共に力を尽くせよ

感激した八重さんは、少しの間を置いて、皆で出来ることがあると進言します。
何かと思えば、ゲーベル銃の銃弾を作ることでした。
敵が撃って来て、城内に落ちている銃弾を子供たちが拾い集め、それを大人が鋳鍋で溶かして弾型に入れて鋳造します。
更にその弾を、女達が八重さんの指導の下に、パトロンに仕上げて行きます。

火薬と鉛玉を合わせで、こうして巻いで、端を捩じればゲベール中のパトロンの出来上がりです
敵の弾がこっちの武器に変わんだなと思うど、胸が空くな
んだべ

そうやって生き生きと働く八重さんを遠目で見ていた権八さんが、佐久さんに言います。

一度も、認めてやんながった。女子が鉄砲の腕など磨いても、何一づ良いごどはねぇ。いつが、身を滅ぼす元になんべ。そう思ってた
はい
んだげんじょ、八重が鉄砲を学んだごどは、間違いではながったがもしんねぇ。闇の中でも、小さな穴が一づあけば、光が一筋差し込んで来る
その穴を開けんのが、八重の鉄砲かも、しんねぇな

権八さんが、初めて八重さんのことを素直に認めた瞬間でした(何となく旧約聖書創世記28章12節を彷彿させました)。
いえ、腕前自体は前々からとっくに認めていたのでしょうが、権八さん自身が仰ってたように、「女子が鉄砲の腕など磨いても、何一づ良いごどはねぇ」というのが、すっかり認めてしまうということに歯止めをかけていたのでしょう。
そういう微妙な親心を、わざわざ「自慢の娘」とあっさり安っぽくまとめてタイトルにしてしまうのも、如何なものかと思いますが・・・。
ともあれ、皮肉なことに、戦が起こって初めて輝いた八重さんの才能。
権八さんの複雑な気持ちはありましょうし、時代が彼女を求めただ何ても言いません。
でもこの会津戦争でスペンサー銃を片手に、会津のために戦うと言うのは、ある意味では「お殿様のお役に立ちたい」と幼き頃より願い続けて来た八重さんの想いの成就の場でもあったのです。
逆に、戦争が終われば八重さんの鉄砲の腕は、無用の産物と成り果てます。
所謂アイデンティティーの喪失でしょうか、そこから彼女がどう生きていくのか、そこを描いて行くのかが会津戦争後の明治編だと思います。

8月28日(1868年10月13日)、籠城5日目、小田山に据えられた大砲五門からの砲撃は止まず、どころか勢い付いて敵は日々兵力を増すばかりです。
薩長連合軍は城の東北から西北にかけて塁壁が築き、じりじりと会津を追い詰めていきます。

今の内に出撃し、囲みを破り、兵糧、火薬を運び込む道を開かねばなりませぬ
なじょしても、米沢藩と繋ぎを取らねば・・・

平馬さんはそう言いますが、この時点で平馬さんは米沢藩が変心していることを知っていたはずなのですが・・・(苦笑)。
ちなみに何故彼らがこんなにも米沢藩を頼みにするのかと言いますと、かつて米沢藩第三代藩主が嗣子の無いままに急死したとき、会津藩藩祖の保科正之さんが計らって、米沢藩が改易を免れたという、会津側からすれば「貸し」のような、米沢側からすれば「大恩」があるわけです。
軍議の結果、朱雀二番隊三番隊、別撰組、歩兵隊他、精鋭千人の指揮を官兵衛さんが執り、明日早朝前に奇襲をかけるということになります。
出撃する面々を見て頂いても薄々お分かりいただけるかと思いますが、この時点で残されてる会津のほぼ総力がここに投じられています。
その夜は兵士諸君それぞれ盃を交わし、「君と後会せむこといづれの処とか知らむ我が為に今朝一盃を尽せ」と白居易の『臨都驛送崔十八』を詠う者もおります。
官兵衛さんは別室にて容保様に刀を授けられ、「勝って、まめで、来る身を待つ」の出陣祝をされます。

この命は、捨てる覚悟で出陣致しまする。一度死んだ命で御座りまする故・・・。江戸で、人を斬り殺し、切腹申し付けられるところを、殿の情けにて、一命を救われました。それなのに、情けねぇ。力及ばず、殿を・・・会津を・・・お守り出来もせず、申し訳ごぜいません・・・
佐川官兵衛!そなたの力、恃みに思う
必ず、囲みを破り、米沢への道を開きまする。それが出来ねぇどきは、生きでは、城に戻らぬ覚悟

容保様から酒を注がれ、感無量でそれを乾す官兵衛さん。
ありがたき幸せと、無邪気に微笑むその顔は敵から「鬼の官兵衛」と呼ばれている人物とは思えません。
そのまま容保様の御前で酔い潰れて寝てしまった官兵衛さん。
誰も起こさなかったのかと不思議なのですが、兵が「皆支度を済ませ、佐川様の御出馬を待っております」と起こしに来たときにはもう卯の下刻(午前6時頃)。

しまった!寝過ごした!

跳ね起きる官兵衛さんですが、時既に遅し。
此方が奇襲するつもりが、指揮官寝坊遅刻のために出陣したのは辰の上刻(午前7時頃)、却って敵軍に待たれるという形となりました。
会津兵は皆遺書を懐に敵陣に突っ込みましたが、戦死者百人余りに及び、多くの将校を多数失うなど、会津は壊滅的な打撃を受けました。
尤も一方的な敗北であったわけではなく、この猛攻で長命寺付近を固めていた長州・備前らは苦戦、大垣藩は総崩れ、応援に駆け付けた土佐兵も大苦戦に陥ってます。
敵からも認められるほどの働きを官兵衛さんはここで見せたのですが、それだけに、奇襲が成功していればどんなにかと悔やまれてなりません。
ちなみに官兵衛さんは「城に戻らぬ覚悟」の言葉は守り通し、会津降伏の時まで城に戻るようなことはしませんでした。

慶応4年9月8日(1868年10月23日)、改元の詔が出され、「明治」となります。
遡って慶応4年1月1日から明治元年、としたようですが、実質的な意味では「明治元年1月1日~明治元年9月8日」は呼称のみ存在する暦となります。
実質的な意味で明治の暦が存在するのは、明治元年9月9日からですね。
またこれまでは、数年スパンで元号がころころ変わっていましたが、このときから一世一元の詔も併せて出され、天皇の在位中の改元は行わないものと定められました。
さて、その明治となった京都では、大垣屋さんから『管見』を手渡された岩倉さんが、覚馬さんを訪ねて来ます。
大垣屋さんと岩倉さんのラインを繋げるのには少し無理がある描写かなとも思いましたが(苦笑)。
あれはそもそも薩摩のお殿様に宛てたものだったと思いますので、中継地点は薩摩藩士の方がしっくり来るんですけどね。

これ書いた男に、会うてみとうなって来たんやが・・・この男、ほんまに会津の一藩士か?
へえ
三権分立、殖産興業、学校制度、新しい国の形が全部ここに書いてある

覚馬さんの書いた『管見』は、「政体」、「議事院」、「学校」、「変制」、「国体」、「建国術」、「製鉄法」、「貨幣」、「衣食」、「女学」、「平均法」、「醸造法」、「条約」、「軍艦国律」、「港制」、「救民」、「髪制」、「変佛法」、「商律」、「時法」、「暦法」、「官医」という二十二項目に亘って近代日本のグランドデザインを唱えています。
三権分立については、第一項「政体」のところで触れられています。

王政復古万機一途ニ出ルニ付テハ、普天率土忽風靡朝命ヲ不仰ハナシ、然ルニ皇国開闢以来綿々継統彼漢土ノ夏殷周其時代ニツレ法制損益アルトハ異ナル事ナレバ、我国体ヲ不異万世不易ノ準則ヲ立テ皇威赫然外国ト并立彼ノ侮リヲ受ケザルハ国民一致王室ヲ奉戴スルニアリ、政権ハ尽ク聖断ヲ待ツベキ筈ナレ共、サスレバ其弊習ナキニ非ズ、依テ臣下ニ権ヲ分ツヲ善トス、臣下ノ内議事者ハ事ヲ出スノ権ナク、事ヲ出ス者ハ背法者ヲ罪スルノ権ナク、其三ツノ中ニ権壱人ニ依ル事ナキヲ善トス、官爵ノ権、度重ノ権、神儒仏ノ権、議事院ノ吏長ヲ黜ル権是ハ専ラ王ニ帰スベキナリ。(青山霞村、昭和51年、山本覚馬傳、京都ライトハウス)

下線部をざっと訳すと、「臣下の内、議事を担当する者は政治に携わる権利がなく、政治を行う者は背法者を罰する権利がなく、その三つ(三権=立法・行政・司法)の中において権限が一人に依ってない状態が善い」と言うようなことが書いてあります。
ちなみに殖産興業については「商律」で
兵庫邂逅貿易スルニ付テハ我国産ヲ外国ヘ送リ、彼ノ国産ヲ我ヘ運ブ、若シ洋中ニ於テ破船スレバ船ノ価ハ五六万金位ナレ共殊ニヨリ産物ハ百万金ニモ及ブベシ。サスレバ商人ハ勿論小諸侯ニテモ家産ヲ失フニ至ラン。今世国家ノ事ニ於テハ兵ヲ商ト並立スル者ナルニ右ノ如ク不測ノ禍ニ逢ヒ商ヲ廃スニ至ラバ益々国ノ縮トナル。故ニ貿易ハ初ハ自分船ヲ製造シ別ニ船ノ請求負トイフ者ヲ立テ(船ヲ造リシ時船主ヨリ分割ヲ付如何程ニテモ敷金ヲ請負人ヘ渡シ航海ノ度毎ニ同様敷金ヲ渡シ船百艘アルトモ破船僅カ二三艘位ノ事ナレバ右鉦ヲ以テ是ヲ補ヒ又ハ年ヲ経船破損セバ新ニ作ルベク船主ハ壱度造ルノミニテ無窮ニ伝ハリ請負人モ相応ノ利益アリ両全トイフベシ)荷物請負トイフ者ヲ立テ(荷物ヲ金二百分ノ一ヲ航海ノ度毎ニ此請負人ヘ渡シ万一荷物覆没セバ百万金ニ二百万ニ償フベシ)又人ノ請負トイフ者ヲ立テ(航海ノ毎度分割ヲ付此請負人ヘ金ヲ渡シ若シ千人ニ一人三千人ニ一人死亡セバ父母妻子ヲモ撫育シ其子ノ成長迄養フベシ)総テ商社ヲ結ビ譬ヘバ五万両分限ノ者五人ニテ一万両宛出セバ五万金也。十人ナレバ十万金也。是ヲ合セテ商売スル也。商売ハ損得定リナキコトナレバ一人ニテ是ヲナシ、産破レバ回復シ難シ。右ノ如ク組合置ヨリ商社ノ法則ヲ立法ニ背ク者アレバ上ヨリ是ヲ罪スベシ。是迄ノ貿易ニテハ富メル者ハ手ヲ袖ニシテ貧賈戎猾商ナドノミスコトナレバ万一利益ヲ得ルトモ極意日本ノ縮トナル。段々商法ヲ立テタトヘ士ニテモ有志ノ者ニハ航海術ト通弁ヲ学バシメ、商売ヲナサシメバ国益々大ナルベシ。(上掲)

学校制度については「学校」で
我国ヲシテ外国ト并立文明ノ政事ニ至ラシムルハ方今ノ急務ナレバ、先ヅ人材ヲ教育スベシ、依テ京摂其外於津港学校ヲ設ケ、博覧強記ノ人ヲ置キ、無用ノ古書ヲ廃止シ、国家有用ノ書ヲ習慣セシムベシ、学種有四其一建国術性法国論表記経済学等モ亦其中ナリ、万国公法ノ如キハ其二修身成徳学其三訴訟聴断其四格物窮理其他海陸軍ニ付テノ学術ヲ教諭セシムベシ。(当時之ニ医学ヲ加ヘ五種トセリ)(上掲)

と触れられています。
もういちいち訳しませんので、その辺りは各自でお願いします。
しかしこれほどのものを何故覚馬さんが書けたのだろうかというのに、「山本様は、洋学所を開いて、西洋の学問を教えておいででした」という大垣屋さんの返事は少し曖昧すぎます。
教えるためのその知識を、じゃあ覚馬さんは何処から調達して来たのかがこれじゃあまるで分からないからです。
まあ、横井小楠や西周さんの存在をすっ飛ばして来たからそうなってしまうのも無理ないですが・・・。
するとそこで目を覚ました覚馬さんが、朦朧としたまま会津からの撤兵を懇願します。

会津を・・・助けて下され
仙台も米沢も降伏や。残るのは会津一藩だけ。行き着くとこまで行くしかない。奥羽全土を従えた時に、初めて、堂々たる新国家が生まれるのや

実は会津だけじゃなくて、庄内藩も残って頑張ってるんですけどね(苦笑)。
反乱分子を国内に抱えたままでは新国家の発進は出来ない、と言うことでしょう。
「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」の覚馬さんの建白の声は、新政府上層部には届かなかったということですね。

長命寺の敗北から二十日近く経った9月14日(1868年10月29日)。
依然城内では食料や弾薬が底を尽いた苦しい籠城が続いていましたが、八重さんは子供たちを集めて凧揚げをしようと言います。

敵に見せづげでやんべ。城内は意気盛ん、凧揚げする余裕もあんのだど!

戦の最中とは思えない、楽しそうな場面ではありますが、当時八歳だった山川さんの家の咲さんが、「私たちにはまだ十分に余裕があると敵に思わせるため、一体何をしたと思いますか。女の子たちは祝日などによく遊ぶ凧を揚げるよう言われたのです。男の子も一緒に加わり、食料もすっかり底を尽き、飢えのためやむなく降伏するまで揚げ続けたのです」と後年手記に書いていることからも察せるように、実際は楽しくない、辛くて悲しい凧揚げだったと思います。
ところで、一気に歳月が9月14日まで早送りされたので触れられていませんでしたが、9月2日頃、美濃郡上藩から約五百里の道のりを経て、朝比奈茂吉さんら45人の凌霜隊が援軍として、鶴ヶ城に入城しました。
このとき凌霜隊が入ったのも、西出丸だったと思います(本当に西出丸付近の敵軍は何をしてたのだろうか・・・)。
凌霜隊は、全国で唯一、旧幕府兵を除いて会津に駆け付けた応援部隊です。
そんな経過を経たこの日、新政府軍による鶴ヶ城総攻撃が始まりました。
今まで砲撃は小田山からのみ行われていたのですが、この日からは下図のように、二方面からの攻撃が展開されたのです。

(追記:図を一部訂正致しました。ご指摘下さった方、ありがとうございます)
そして城内に飛んで来た砲弾を、八重さんに教えられた通りの方法で消火に当たった登勢さんは、一瞬成功したかに見えましたが安堵した瞬間に砲弾が爆発し、重傷を負います。
この登勢さんの最期については、来週に筆を見送らせて頂きます。
その来週は、いよいよ・・・。

ではでは、此度はこのあたりで。


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