2013年8月29日木曜日

第34回「帰ってきた男」

明治7年(1874)11月26日、襄さんが10年ぶりに日本の土を踏みます。
以前からドラマ内でも何度か描写があるように、襄さんが帰国したとき、日本は文明開化ブームの真っ只中でした。
文明開化といえば華やかに聞こえるかもしれませんが、同時に自国の伝統文化に懐疑的になってしまいがち(西洋の物と比べて、旧時代的なものだと思ってしまう)な時期でもありました。
その辺りのことは渡辺京二さん著の『逝きし世の面影』に詳しいので、賛否両論はある著書ですが、興味のある方は一度手に取ってみて下さいませ。
で、襄さんが帰って来たときの日本がどういう状態の時だったのかをもう少し付け足しますと、藩という300年近く続いていた社会単位というべきものが崩壊し、生まれたての政府、まだがたがたの経済、西洋と日本独自のものが混ざった価値観・・・と、正に混乱はしていませんが、混沌としていたのです。
徳川幕府という、あるいは現代の我々から言えば「江戸時代」という旧社会が瓦解し、明治という新社会が生まれたての状態の最中の日本に、襄さんは帰って来たという次第です。
さて、そんな襄さんは帰国後、木戸さんの下を訪ねます。
この木戸さん、実は先週の明治6年の政変の流れで政府を去った西郷どんらに続いて、明治7年5月に辞職しています。
しかし木戸さんを取り戻したい大久保さんや、陰で暗躍して江藤さんを引き摺り下ろした伊藤さんや、井上さんが、明治8年(1875)大阪の北浜に集い、そこ木戸さんを招きます。
何故そこまで木戸さんが必要とされるほどに事態が差し迫っていたのかと言いますと、後でもまた触れますが、明治7年2月に佐賀の乱を始めとする不平士族の反乱は続くわ、地租改正(土地の価値に見合った税金を、その土地の所有者に納めさせる全国統一の課税制度)は遅々として進まないわ、板垣さんは自由民権運動を起こし始めるわ・・・で、何処から手を付けて良いのか分からないくらい事態が次から次へと起こってたのです。
この難しい局面を打開するには大久保・木戸・板垣の御三方の連携が必要であると思った井上さんと伊藤さんが、木戸さんに政府への復帰の仲介役となります。
という事情で、政府を辞して山口に帰っていた木戸さんが、大阪にいるというわけです。
ちなみに、一方の襄さんは当時禁止されていた密航の罪が前科としてあるのに、しれっと木戸さんと対面してて問題ないの?と思われるかもしれませんが、公使担当の外交官である弁務使として着任した森有礼さんの奔走により、政府から留学生として改めて公認され、密航の罪は消滅しています。
さて、木戸さんは明治政府に襄さんをスカウトします。
が、襄さんは日本に帰国したのは学校を作るためだからと、あっさりお断り。
まあ、岩倉使節団がアメリカに来たときに、目の前で大久保さんと木戸さんの嫌味応酬を見てるわけですから、こんな奴らがいる職場はごめんだなと思ったのもあるんじゃないかと、邪推してしまいました。
実際の襄さんは、本当の本当に学校を作りたかったの一心だったでしょうけど。

国の形が変わっても、人間が昔のままじゃ、新しい世は出来ゃーせん。欧米に追い付くには、まず教育じゃ

これはご尤もな意見です。
飽く迄一般論になりますが、大規模な体制変革を行った後には教育の改革が必須です。
木戸さんのような革命の勝者は、取り分け熱心にそれに取り組みます。
と言いますのも、革命に勝利した側の人間としては、旧体制や旧価値観の再生産を防止せねばならず、そのために旧来の教育システムを破壊し、新体制の導入を図る必要があるからです。
戦後の日本がGHQにされたことを思うと、この辺り漠然とながらお分かり頂けるかと思いますが、明治政府も正にこれだったのです。
なので明治4年(1871)に創設された文部省は、それの担い手として、大学南校やら東京開成学校やら東京大学・・・教育機関を拡充しましたし、学制の布告をし、初等教育の全国普及にも力を注ぎました。
そういう背景があることからも、明治編の「八重の桜」は教育というキーワードがかなり重要となってくるのですが、それが今の時点ですといまいち伝わって来にくいなぁ・・・と感じたり、感じなかったり。
その教育の原点ともいえる聖書を教える学校を作りたい襄さんは、しかし大阪府では一度断られているので如何にかならないだろうかと、木戸さんに相談を持ちかけます。
(ちなみにキリスト教は、明治6円2月24日に明治政府が世界情勢を鑑みたことで、、キリスト教禁止を謳った高札の撤去を指令したことにより、事実上解禁されています)

京都・・・その学校、京都に作ってはどうじゃ?
仏教の聖地に?それは、大阪よりもっと難しいのでは・・・
じゃが、あの地には、君の力になりそうなもんがおる

というわけで始まりました、第34回。
仏教の聖地は、寧ろ奈良では・・・という突っ込みはさて置き、その頃木戸さんに「力になりそうなもん」と言われていた覚馬さんは、八重さんに新約聖書の馬太傳(マタイ伝)を手渡されます。
それを持って、宣教師のマークウィス・ラフェイエット・ゴードンさんのところに聖書を学びに行けと言われ、よく分からないままも渋々と従う八重さん。
ですが、「Blessed are they that mourn: for they shall be comforted.(悲しむ者は幸いです。その人は慰められるでしょう)」というマタイ5章3節の意味がさっぱり分からない八重さんは、「悲しむ人が、何故幸せなのでしょう?逆ではないのですか?」と尋ね、解釈をして貰ってもまだ納得しかねるご様子で。
そもそもこの解釈をするには、3つの理由をきちんと話してあげないと、特に八重さん達みたいな聖書初心者には理解の及ばないことだと思うので、これはゴードンさんの教え方が少し拙いですね(苦笑)。
ここで聖書の解釈をしたいわけではないので、私も解釈は避けますが、八重さんと同じ疑問を持った人は、興味本位でも良いので一度聖書を開いてみると良いですよ。
ただ、疑問をそのまま家に持ち帰った八重さんが、佐久さんに「耶蘇の教えは、如何にも分がんねぇ」と言い、佐久さんが「耶蘇の神様は、国を追われだごどがねぇ御方なんだべな」と返したのには、聖書に少しでも齧ったことがある人だったら「いやー、そうでもないんだけどな・・・」と思わず苦笑いを浮かべたのではないでしょうか。
この後山本家の皆様はキリスト教に改宗していくので、その時にはいずれ分かると思ますが、耶蘇の神様ではないけどイスラエルの民はバビロン捕囚という形で、がっつり国を追われたことがあります。
これについても、聖書を一度開いて頂くと宜しいかと・・・確か旧約聖書の列王記だったかが、その辺りのこと触れています。
(何だか今回は妙に本を薦めることが多い記事になっていますね)

さてその頃、覚馬さんの下へ襄さんが訪ねて来ます。
生き生きとキリスト教の学校設立への思いを語る襄さんに、覚馬さんは何故キリスト教なのかと問い掛けます。
まあ、ただ単にキリスト教を広めたいだけが設立目的だと、覚馬さんは木戸さんの紹介とはいえ助力はしなかったでしょう。
ですが、襄さんの思いにはキリスト教を学んで、その先にどうするのかというビジョンまでハッキリと描かれていました。
つまり「学校を作り、一国の良心となるような青年をこの手で育てたい」というのがそれですね。

話はわがりました。しかしこごは京都です。耶蘇教に反感を抱く者は多い
そうですよね。木戸さんには勧められましたが、私も難しいとは思ったんです。大阪でさえ駄目だったんですから。いや、困難な地だからこそ、主は、私を京都に導かれたのかも知れません
妨害する者が現れる。苦労しますよ
私は宣教師です。主の名の下に受ける苦しみは、喜びです

この辺りの妨害は、若かりしき頃の覚馬さんの経験談ですよね。
軍事改革や鉄砲のことを、妨害され妨害され・・・な青春の日々でしたから。
ここでも象山先生の、「何かを始めようとすれば、何もしない奴らが必ず邪魔をする。蹴散らして前へ進め」のあの言葉が再び生きてくるのでしょうか。
そんな覚馬さんは、『天道遡原』と書かれた書物を懐から出します。
これは中国で書かれた、いわゆる漢文版聖書でして、覚馬さんはこれを明治8年4月にゴードンさんから送られました。
これが覚馬さんがキリスト教の教えに感銘を受ける契機の一冊となったのです。
ドラマの覚馬さんの言葉を借りるなら、「この書の中に、私は探していだものを見つけた」。

この先、日本が進む道を間違えないためには、政府の都合に左右されない、良心を持った人間が必要です。あなたの学校、是非京都に作って下さい。私が力になります

この言葉を寸分たりとも違えることなく、この先覚馬さんは生涯を通じて襄さんの力となります。

京都で学校を作るとなれば、勿論無断なわけにも行きませんから槇村さんの許可が必要です。

英学校か・・・。西洋の学問は結構じゃが、耶蘇の宣教師っちゅうのがどうもな

さり気無く零れたひと言ですが、これが後に槇村さんと、その目の前にいる覚馬さんの立場を割ることになってしまうのですね。
それはまたの機会に触れるとして、何かを言いさした襄さんを杖で制し、覚馬さんは既に襄さんが大阪府知事の渡辺昇さんに、この学校建設の件を断られている旨を伝えます。
渡辺さんは襄さんに、学校創立を認可する条件として、キリスト教主義に拠らないこと、宣教師を教員に採用しないことを提示して来ましたが、それじゃあ襄さんの望む学校とは違いますからね。
加えて、槇村さんと渡辺さんは、京都大阪の両府知事として互いにライバル関係にありました。

何?渡辺昇が断った?・・・よし、大阪が断ったんなら京都がやる!大阪には負けられん!

覚馬さん、今週もお見事な策士ぶりです。
ちなみに学校の建設費用についても、襄さんが5000ドルの援助を既に得ていることから、京都府の財政財布は全く痛まないのです。
これに機嫌を良くした槇村さんは、耶蘇教の上に独り身では人から信用されないから、信用を得るためにも嫁を取れと言います。
そこで襄さんが提示した、襄さんの好みの女性というのは、もう史実でも有名な通りです。

顔にはこだわりません。ただし、東を向いてろと言われたら、三年でも東を向いてるような婦人はごめんなのです。学問があって、自分の考えをはっきりと述べる人がいい。宣教師はいつ何処で命を落とすか知れませんから、一人で生きて行ける人でなければ困ります。私の仕事を理解し、もし私に過ちがある時は、教え導いてくれるような人。私はそういう人と、温かいホームを築きたい

有名すぎる史実の下りですが、注目すべきは「東を向いてろと言われたら、三年でも東を向いてるような婦人は」の部分に、何か何処かで聞いたようなフレーズだなという反応を見せた覚馬さんでしょう。
数年前までそう言う人が奥さんでしたもんね。
まあうらさんを「西向いでろど言われだら一年でも西向いでいるようなおなごだ」と言って縁談持って来たのは権助さんでしたが。
そもそもうらさんをそういう風な人物設定にしたのは、全てこの史実のエピソードと掛け合わせるためだったでしょうから。
第34回にして、ようやく第4回の伏線が回収されました。

それから数日後、「東を向いてろと言われたら、三年でも東を向いてるような婦人」ではない八重さんは、着物にブーツと、周りからは奇妙な目で見られる格好をしていました。
ですが水たまりをひょいと越えてみたりしているところから、きっと機能性が良いから愛用しているのでしょう。
そんな八重さんがゴードンさんの家に行くと、上り框に腰を下ろして靴を磨いている襄さんと鉢合わせるのですが、八重さんの思考回路は「靴磨き=下男の仕事→それをしている=下男」ということで、襄さんのことをゴードンさんに新しく雇われたボーイだと思い込みます。
ですが、その実体はボーイなどではなく、ゴードンさんと同じくアメリカンボードの宣教師だと知って、八重さんは吃驚します。
このとき八重さんは、自分のことを「川崎八重です」と言っていますが、この時点(明治8年)で八重さんは既に文書で「山本八重」と記しているので、厳密に言えばこれは考証ミスなのですが、この時点で八重さんを覚馬さんの妹だと気付かせないための運びだと思うことにしましょう。
襄さんは八重さんが女紅場で働いているのだと知ると、是非女紅場を見せて欲しいと言います。
そうして数日後、襄さんが訪れた女紅場はそれはそれはもう女子生徒が大騒ぎです。
物腰柔らかな西洋風紳士(32歳)が女ばかりの場所に現れたら、ああいう反応になるのでしょうかね。
八重さんに校内を案内されながら、襄さんは女学校を作る時にはここをお手本にしようと言います。

女学校?あなたが、おなごの学校を作るのですか?
まず英学校を開設し、その次は女学校です。男子の学校を作るなら、ペアになる女学校も必要でしょう?

ちなみに女学校といえば、この年、襄さんと同じくアメリカンボードの女性宣教師、イライザ・タルカットさんとジュリア・ダッドレーさんによって兵庫県神戸市に「女子の寄宿学校」、現在の神戸女学院大学が開校されています。
前年には東京女子師範学校、現在のお茶の水大学が開校されていることから、公立で最古の女子大は東京女子師範学校、私立女子大は神戸女学院大学ということになるのでしょうね。
そういえば、襄さんが英語の授業が難しいようなので~と皆で賛美歌を歌い始めてましたが、女学校の英語の授業を覗いて「難しい英語を勉強している」と言ったのは本当のことみたいです。
しかしアメリカ帰りの襄さんをして「難しい」と言わせる何て、一体どんな授業だったのでしょうね。

大学といえば、この年の5月、イェール大学シェフィールド理学校で物理学の学位を取得した健次郎さんが無事に帰国します。
・・・何故かドラマでの卒業証書は「文学士」となっていましたが、理学校で文学士の学位は無理ですよね・・・?(苦笑)
その頃の山川家の皆様といえば、浩さんが東京の小石川に居を構え、旧会津藩地達の生活の面倒を看ていたので生活がかなり苦しい状況でした。
なので、健次郎さんがまず再会した二葉さんは、質草として健次郎さんの帽子を預かる名目で持って行ってしまうという・・・。
しかしその預かった帽子を、二葉さんがひょいと頭に乗せて歩いている姿は、何とも微笑ましかったですね。
健次郎さんが家の中に入ると、近所のおじさんのような感じで官兵衛さんもおりました。
このとき官兵衛さんは警視庁に出仕しており、浩さんは明治6年から陸軍に出仕しています。
そこでふと、健次郎さんが浩さんの左腕に気付きます。

これか・・・。去年、佐賀で江藤新平が乱を起ごした。鎮圧に行った折に、不覚を取った
名誉の負傷だ。手柄立でで、陸軍中佐に進級したんだからな

何だかドラマの描写では、隻腕にでもなったかのような描かれ方でしたが、実際は左肘上部に銃撃を受けたので、懐の中で吊るすような形で腕があっただけだと思います。
この傷は、後に左腕がまったく利かなくなるほどの重傷でした。
官兵衛さんの警視庁もそうだったでしょうが、当時の軍隊は明治維新勝ち組の藩出身者が兎に角優遇されがちで、負け組の藩出身者はなかなか上へは行けないシステムでした。
逆に健次郎さんが選んだ学問(教育)の道は、これは選択としては妥当で、薩長土肥以外の出身者でも、学問さえ出来れば国家が雇用してくれました。
その辺りのことは、先年放送された『坂の上の雲』の第一部の空気が良く描いてくれていたと思います。
好古さんは最初から陸軍に入ったのではなく、やはり教員からの職歴スタートでしたし、真之さんと子規さんは東京師範学校で学び、末は博士か大臣を目指していたのはそう言った背景もあるからでしょう。
三人が如何して学問(教育)の道を外れるに至ったかは、『坂の上の雲』に目を通して頂くこととして、ここであまりにあっさり流されてしまった佐賀の乱諸々の補足をしたいと思います。
辞職をした西郷どんは、明治6年11月10日に鹿児島に戻り、自宅で穏やかに日々を過ごすことを考えていました。
ですがそれとは裏腹に、政府に反感を抱く人達や不平士族は西郷どんに、「この人だった自分達の気持ちを汲んで、何とかしてくれる」という期待を寄せていました。
人望がありすぎるというのも困りものですね。
で、この西郷どんは直接関係ありませんが、明治7年2月に浩さんの言っていた佐賀の乱が起こります。
佐賀の乱を江藤さんが起こした、というのは些か率直過ぎる表現で、江藤さんは最初、この反乱を鎮めるために佐賀に入りました。
しかし大久保さんが既に熊本鎮台に征伐を明じていることを知った江藤さんは、反乱に加わることを決意します。
佐賀で決起した不平士族は、たとえ決起せずとも遠からず討たれるであろうことが分かり、それを見過ごせなかったからでしょうか。
しかし結果、江藤さん達は敗北を喫し、3月1日に鹿児島の鰻温泉で湯治していた西郷どん元へやって来て武装蜂起を持ちかけますが、西郷どんは江藤さんが同志を置き去りにして逃げて来たことを理由に、これを突き放します。
西郷どんに突き放された後、江藤さん達は不平士族を頼って今度は土佐に逃げますが、ここで捕縛されます。
そうしてろくな裁判も行われないまま、江藤さんは士族から除かれ、斬首の上で晒し首をなりました。
司法制度の確立に奔走と尽力をした江藤さんの最後が、これです。
しかし不平士族の不満の種はこれで完全鎮火されたわけではなく、明治9年10月24日には神風連の乱、27日には福岡で秋月の乱、28日には山口で萩の乱が起こります。
そして、やがては江藤さんを突き放した西郷どんにも、その火の粉は大きく降りかかってくることになるのです。

その夏、京都の夏が暑くて敵わない八重さんが、井戸の上に板を置いて、その上に座って裁縫をしていると、覚馬さんを訪ねて来た襄さんにばっちりその姿を目撃されます。
この辺りの下りも概ね史実通りで有名すぎるので、割愛しますが、八重さんが井戸に落ちると思った襄さんは咄嗟に庭に駆け下りて、八重さんをぎゅっと抱きしめるとか、いやはや本当に少女漫画・・・(笑)。

すみません、不躾でした。ジェントルマンたるもの、ご婦人を守るべしと教えられて来たので
守る?私を?私は、守られたいなどど思ったごどはありません。人に守って貰うようなおなごではねぇ。・・・私は、会津の戦で鉄砲を撃って戦ったおなごです。男と同じように、敵を倒し、大砲を撃ぢ込んだのです。・・・七年過ぎだ・・・んだげんじょ、私には、敵のために祈れど言う、耶蘇の教えはわがんねぇ

守るべし、と言われて八重さんの表情から先程まであった笑顔が消えます。
自分は強い、鉄砲だって撃てるし戦の経験もある、だから守られる必要はない、と思ってるあたり、相変わらず頑固を通り越して意固地だなと感じました。
まあ八重さんは男性(人)の前を歩く女性ですから、確かに守ってもらう必要はありませんよね。
同じ速度で横に歩くか、それか八重さんの背中を守るかでないと、八重さんのことは守れない気がします(何だか表現変ですが)。

妹は城で戦い、国が踏み躙られるのを目の当だりにした。胸に深ぐ刻んだ傷は、癒えるごどはありません。天道遡原を知った時、私は耶蘇の言葉の中に、恨みや憎しみを越えで行ぐ、新しい道が見つかる気がした。妹にも聖書を学ばせだ。八重が背負った荷物は、誰にも肩代わり出来ねぇ。乗り越えで行ぐ道は、八重が自分で探すしかねぇ

7年経っても言えない八重さんの心の傷。
覚馬さんが八重さんにキリスト教を学ばせようと思ったのは、こういった理由があったからなんですね。
覚馬さん個人も、キリスト教に付いてこんな言葉を残しています。
曾て私の胸中に満ちて居つた多くの疑は一度この書を読んで氷解しました。常に国家に尽したいと希ひ、中頃法律でその希望を達しやうとしたが、遂に成す所がなかつた、今この書を読み、人心の改善は只宗教に依るべきを悟つた私が久しく暗々裡に求めたものは即ちこの宗教の説く所のものに外ならなんだ

無宗教や宗教への関心がすっかり薄れてしまった現代人ですが、人間の内面に深く立ち入る宗教の助けが必要なときもある。
八重さんや覚馬さんにとってのそれが、キリスト教だったのではないかなと、そんな風に感じました。
襄さんは、自分の作る学校が、傷付いた人々の重荷を下ろす場となれば良いと願い、覚馬さんはそんな襄さんがかつて皐月塾で豚騒動を起こした少年だということに気付き、この再会と彼が京都に来たのは確かに何かの導きだろうと思います。

昔、薩摩藩邸があった土地を、今私が預かっています。広い土地です。いずれそこに、あなたの学校を建でましょう。これは間違いなぐ、世のためになる使い方だ

よく誤解されてますが、勿論あの薩摩藩邸屋敷跡に同志社が建つのは皆さまもうご承知のことですが、最初に襄さんの作った学校(同志社)が建てられたのは、女紅場のご近所、現在の新島旧邸があるところです。
そこに明治8年11月29日、襄さんが屋敷の半分を賃借して生徒八人で同志社英学校を開校しました。
つまり同志社は、最初からあの薩摩藩邸屋敷跡にあったわけではないのです。
同志社があの薩摩藩邸跡に移ったのは、翌明治9年のことになります。

それからしばらくして、襄さんが山本家に居候という形で引っ越してきます。

キリスト教を嫌う人達が押し掛けて来るかもしれません。ご迷惑がかかるのではないかと

そう懸念する襄さん。
そういえば山本家にも攘夷を謳った狂犬のような人達が押しかけてきたことがあったなあ・・・(そして奴らのせいでうらさん流産した・・・)と、今では遠い思い出のようですが、八重さんもそういう経験があるからか、それぐらいではうちは誰も驚かないと言います。
みねちゃんや時栄さんは・・・と思いましたが、みねちゃんは幼少時に籠城戦体験してるし、時栄さんだってそこそこ度胸ある人だったから、うん、確かに誰も驚かないでしょうね。

耶蘇教を始めだ時も、周りの人達はそんな考えは間違っているど、挙って反対したのですよね。それでも耶蘇は怯むごどなぐ、教えを広めだど聖書に書いでありました。だったら、私達も同じようにすれば良いのです。他に何が御用はありますか?

あー、じゃあ・・・と、何の前振りもなく、まるで散歩にでも一緒に行きませんか?な軽さで、襄さんはとんでもない御用を八重さんに言いました。
そりゃ、砲弾の音にも驚かない八重さんも吃驚ですよ。

一つだけ、お願いしたいことが・・・八重さん、私の妻になって頂けませんか?

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年8月22日木曜日

第33回「尚之助との再会」

明治5年11月9日(1872年12月9日)、改暦詔書が出され、明治政府は明治5年12月2日の翌日を明治6年1月1日(1873年1月1日)とし、太陽暦を導入します。
12月2日の翌日が1月1日になったということは、12月がたった2日で終わったということです。
誰がどう見たって性急すぎるこの改暦の動きですが、これには、官僚の12月分の給料を支払わなくてよくなる・・・などなどといった、明治政府の財政的困窮問題が背景に絡んでいるのですが、冒頭からあまり脇道に逸れたくないのでこのネタに付いてはこの辺りで筆を止めておきます。
また、覚馬さんが英文を作り、八重さんが植字した「京都案内書」が使われた第二回万国博覧会が行われるなど、文明開化の波がこの時日本に押し寄せていました。
・・・ドラマでは、万国博覧会一瞬で流されてしまいましたが(苦笑)。
それはさておき、女紅場の舎監として住み込んで働くことになった八重さん。
ちなみに京都の女紅場には新英学校及女紅場、市中女紅場、遊所女紅場の3タイプがあり、それぞれ何に重点を置いて教えるのかが違います。
八重さんの勤めているのはこの内の、新英学校及女紅場。
そこで八重さんは3円以上4円未満くらいのお給金を頂いて、舎監として女子生徒の指導に当たりつつ(裁縫や礼儀作法を教えていたそうです)、自らも英語を学びます。
女紅場の英語教師はインバース夫妻だったように記憶しているのですが、ドラマで教鞭を取っていたのはウェットンさん。
彼女は授業で、1863年 11月19日に行われた、エイブラハム・リンカーンさんのゲティスバーグ演説を取り上げました。
It is for us, the living, rather, to be dedicated here to the unfinished work which they who fought here have thus far so nobly advanced. It is rather for us (ここで戦い命を落とした者たちが、成し遂げられなかった仕事を受け継ぐのは、生きている私達だ。私たちの目の前に残された大いなる責務に尽くすのは、まさにここにいる私たちなのだ)

ゲティスバーグ演説と言われてぱっと来ない人も多いかも知れませんが、「人民の、人民による、人民のための政府」のあの演説だと言われると、あああれかと思うのではないでしょうか。
そして記憶されている方も多いかと存じますが、リンカーンさんのゲティスバーグ演説は「八重の桜」の冒頭でも出て来ましたよね。
33回の話を経て、漸く冒頭のシーンに繋がったのです。
ゲティスバーグ演説の解釈をしながら、皆さんの夢を聞かせて下さいとウェットンさんは言います。
しかし自分の考えを述べる自己主張というものに、殊の外慣れていない日本人女性陣からすれば、聞かせて下さいと言われてもなかなか言い出せないものです。
そこへ、八重さんが挙手して、自分の夢は女紅場をもっともっと大きくして、もっと沢山のことを学ぶことだと、覚えたてのたどたどしい英語で話します。
先週、長州の人間が作った女紅場に通うだ何てごめんだと言っていたのとは、同じ人物が言ったとは思えないですね。
「学ばねば」という一心が、八重さんをそこまで変えたのだということでしょうか。

東京に明治天皇が移ってしまって、事実上の遷都が行われ、京都が人口の減少と衰退に悩まされているというのは、明治編に入ってから何度も触れて来ました。
ところで、そんな京都に小野組という商家がありました。
井善という名で店を出してた、大丸や三井と並ぶ豪商で、戊辰戦争の際に薩長方の勘定方となり、新政府にも援助を尽くしてきた名家です。
その小野組は、槇村さんに東京への転籍を願い出ますが、槇村さんは取り合いません。
まず何故小野組が東京への転籍を望んでいるのかと言いますと、この頃小野組は東京で為替業営んでたんですね。
ですが当時、御用商人が銀行業や為替業をするには、戸籍の謄本が必要だという規則がありました。
つまり本籍を京都に置いたままでは、いちいちそれを東京まで取り寄せなければいけない手間が生じるわけです。
その煩わしさから、東京に移ってしまいたいと、小野組の言い分はそれです。
筋が通っているので、それなら小野組の東京転籍を認めてあげれば良いではないかと思うかもしれませんが、それを許さなかったのが真っ白なスーツに身を包んだ槇村さんです。
上記の通り、小野組は富豪なわけですが、彼らは御用金という名の税を府に納めてたんですね。
加えて多額の寄付もさせられていました。
それは、当時の京都府にとっては得難い収入であり、それを手放すのが惜しいから、小野組の訴えは聞き入れてもらえないのです。
しかし地方官が人民の届け出を握り潰し、移住を妨げたりする場合は裁判所に訴え出ても差支えないという司法省令がこの頃既にありました。
小野組はそれを使い、槇村さんを訴えます。
覚馬さんも大きく関与することになる、小野組転籍事件と呼ばれる出来事が起こったのは、こういう背景からです。

まさか訴えられるだ何て思ってもみない槇村さんは、京都舎密局に出仕している明石博高さんからシャボン(石鹸)を見せられ、上機嫌です。
明石さんは天保10年(1839)のお生まれですので、このとき34歳、数えで35歳。
四条通堀川西入ルにあった薬屋の息子として生まれ。京都府へ出仕したのは明治3年閏10月からです。
出仕中、勧業掛、療病院掛、医務掛、グランド将校接待掛、博覧会品評管理、化学校校長などなどを務めたのですが、時代が明治になる前に、明石さんは覚馬さんが開いていた洋学所へ蘭学の研究に行っていました。
だけでなく、英語を学びたいがためにその教師を紹介してもらうなど、関係があったんですね。
舎密局というのは、明治3年12月に長州屋敷跡の西北隅、後に鴨川の西岸に移転した実験場です。
舎密という字からも分かるように、色んな化学実験がそこでは行われていましたが、実験だけでなく、実験の結果出来た製品を作って売り出していました。
明石さんが持って来たシャボンとレモネードもそれですし、他にはラムネや漂白剤、銀朱、あと焼酎に砂糖と橙汁を加えて作ったポン酢なんかもあったみたいです。
後々に清水寺の音羽の滝あたりでビールも作ったのですが、社会的にビールの需要が低かったせいもあって、成功しなかったようですね。
京都の近代化を図るための舎密局ですが、他にも槇村さん達が着手していたことに、ドラマの会話の中にもあった府立病院設立があります。
その府立病院は、現在の京都府立医科大学の前身となります。
明治天皇は京都復興のために御下賜金を京都に与えていましたが(いつか覚馬さんが、新政府が京都を見捨てたと言っていましたがそれは大間違いです)、その御下賜金も病院設立にまでは回らず、そのため建設資金は一般人民の寄付金に頼ることになりました。
槇村さんが、「金は三井にでも小野組にでも出させりゃええ」と仰ってましたが、確かに三井・小野組からの資金提供はあったでしょうが、中心となったのは京都中にある各州の寺院です。
病院設立について何より大きかったのが、明石さんが願成寺の住職、與謝野禮巖さんと懇意であったことです。
この與謝野さんが金閣寺と銀閣寺の僧侶を引っ張り出して、そこから各寺院に寄付を納得させる話が回ったという次第ですから、明石さんの人脈様様だったわけですね。
こういった経緯で病院開設費用が調ったので、明治5年1月に粟田の青蓮院に仮の病院が建てられ、その間に河原町の里坊に病院が建てられました。
明治13年7月に完成したそれは、竣工費は当時にして5万9千311円ですから、かなりのものです。
医師養成もそこで行われていましたが、病院がメインで医学校は飽く迄付属、という形でした。
病院が創設されたとき、槇村さんは京都ホスピタルを訳して「京都病院」と名付けようと言いましたが、これに異を唱えたのが設立資金に協力した僧侶たちです。
彼らは、聖徳太子が四天王寺を建立したときに療病院というものを設けているから、そこから取って療病院と名付けたいと譲りませんでした。
結局は府立療病院という名前になっているので、言い分は僧侶たちのものが通ったことになりますが、これは槇村さんが譲ったんですね。
代わりに槇村さんは、病院の徽章は赤十字を模して黒十字と定めます。
名前は譲られたので、僧侶たちも異議なくこれを受け入れますが、当時キリスト教に強い反発を持っていた僧侶たちの尽力によって建った病院に、キリスト教の象徴ともいえる十字架を掲げるとは、いやはや・・・と思わなくもないです(笑)。

さて、明治政府内では朝鮮対策を巡って激しい対立が起こっていました。
当時の朝鮮は日本との国交を拒んでおり、その理由は鎖国状態だった朝鮮から見て、鎖国を解いて西洋諸国と条約を結んだ日本を蔑んでる部分があったからです。
見下すような態度の朝鮮に対し、まず征韓論を唱え始めたのは木戸さんです。
国交を求める文書の受理が拒否された日本は、明治3年2月には外務権大録の佐田白芽さんと権小録の森山茂さん、斎藤栄さんを朝鮮に派遣します。
しかし彼らは朝鮮の首都である漢城にも入れて貰えず、この一件から佐田さんは朝鮮の対応に憤慨し、帰国後征韓を建白します。
そうして日本国内で征韓論の声が徐々に高まるのですが、よく誤解されがちなのが、西郷どんもこの征韓論者だったということ。
実はこれは誤解で、西郷どんは寧ろその反対の、征韓論反対の立場にありました。
色分けしますと、居留民保護を理由に軍隊を朝鮮に送って武力で開国させることを主張する【征韓論派】が板垣さん、木戸さん等々。
それに対し、遣韓使節を送って礼儀を尽くした交渉を行うべきだと主張する【反征韓論派】が西郷どんを筆頭とする、江藤新平さん、後藤象二郎さん等々です。
そして朝鮮に目を向ける前に、国内の政治に目を向ける必要があると主張するのが、岩倉さんと大久保さんです。
と、まあかなりざっくり説明させて頂きましたけれども、実際征韓論というものは単語の短さに反して非常に複雑なものでして・・・。
今でも研究者・専門家の間でも様々な解釈が行われており、「これが史実です」と申し上げることも難しい部分が多く、通説と言われているものでも数多く存在致します。
「八重の桜」では、西郷どんの

おはんの目は国内に向いちょるようじゃっどん、そん実は列強の方しか見ちょらん。大久保どん、おいが朝鮮に行っとは士族の不平を抑ゆっためじゃ。廃藩置県以来、新政府は武士たちの力を奪って来た。維新の大業のため血を流しながら、ないごて報われんとか。士族のやり場んなか怒りが朝鮮に向けられちょる。朝鮮の問題をしっかい片を付けんな、こん不発弾、いつ破裂すっか分からん。この件、おいが収めてくっで。決して戦にゃせんが

というセリフからも分かるように、不平士族の目を国内から外に向けるための対象として、朝鮮が掲げられていました。
廃藩置県が行われて藩がなくなった以上、士族は藩から家禄を受け取ることが出来なくなってしまったばかりか、明治政府による秩禄処分を決定したことで、ますます経済的に追い詰められていました。
西郷どんはこういった士族たちの没落を何とか食い止め、何とか士族に活路を見出せないものかと思い悩んでいたのですね。
第31回の廃藩置県が行われるとき、「武家の世に幕を引くっちゅうとは、そいほど重かこつごわんで」と仰ってましたが、重さを分かってたから人一倍士族のことを考えていたのでしょう。

さて、皆様のドリームは何ですかと訊かれ、困り顔の女工場女子生徒たち。
というのも皆様嫁ぎ先が決まっていて、今習っている英語も所詮は芸事みたいなものだから役に立たないだろうと思っているのです。
しかしそんな彼女らに、八重さんは言います。

英語が分かれば異人の考えが分かる。そしたら、新しい考えも生まれる。ドリームも思いつくかもしんねぇ。鉄砲や蒸気船を発明したのは異人だけんじょ、次は、日本から新しい何かが生まれるがもしんねぇよ

ならば、と生徒たちの中から、自分のドリームは女紅場を辞めなくて済むことだという声がぽつぽつと上がります。
事情を聴くと、近い内に女紅場は生徒から月謝を徴収するということで、その根本には生徒が増えたのに京都府からの援助資金が増えていないという経営事情がありました。
女紅場では、生徒たちが作った作品は売却されて、その一部は生徒に還元されたり学校の運営費用に充てられたりしました。
それでもどうやら経営状態は思わしくなかったようで、赤字を逃れるために生徒から月謝を支払って貰ってそれで賄うということになっていたようなのですが、八重さん、先生なのに生徒に言われるまで知らないって・・・(苦笑)。
それに私の記憶してる限り、女紅場の運営経費は京都府から学校基本金の利子500円と、経済層によって等級に分かれた入学金と授業料で賄われてたように思えます。
最初の方は月謝を取っていなかったということなのでしょうか。
ともあれ八重さんは、意欲ある生徒がこのままではここにいられなくなる事態を避けるために、京都府庁の槇村さんの下へ、直談判しに行きます。
如何にも八重さんらしいこの行動、紛うことなき史実です。
しかし火急の用事として槇村さんに女紅場への資金を増やしてくれるように頼んだ八重さんですが、今しがた体の調子が悪くなったと言われ、お茶を濁すようにその場から退散されてしまいます。
が、それで引き下がる八重さんではありません。
実は槇村さんの家は、覚馬さんの家とはお隣同士なのですが、八重さんは直々に槇村さんの家に乗り込んで行って、女紅場の件の話を付けます。
嬉々として牛鍋を突いていた槇村さんは、突然の八重さんの登場に吃驚と言いますか・・・見咎められたのに慌てふためくリアクションが、どう見ても一昔前にCMで流れた「命!」のポーズにしか見えなかったです(笑)。
ちなみに牛という、西洋のものを鍋にして食している槇村さん。
京都府の事実上のトップである槇村さんが、率先して日本では食べていなかった牛を食べることには、大きな意味があったと考えられます。
明治期になると、牛だけでなく、牛乳の飲用も広まるのですが、そうはいっても当時あの白濁した飲み物は気味悪がられ、なかなか普及しませんでした。
しかし栄養価が高く、西洋に負けない国作りをする体作りのために牛乳が必要だったというのもまた事実。
そこで明治天皇は、毎日の健康のために1日2回牛乳を飲み、それが新聞で取り上げられて普及活動になりました。
槇村さんも同じで、覚馬さんは牛乳を飲めば体が黒くなるのではと尻込みしていた彼に、西洋では牛乳が常飲されていることや、体が黒くなるどころか白くなることを伝え、槇村さんに牛乳を飲ませることに成功します。
当の槇村さんといえば鼻をつまんで飲んだみたいですが、そのお蔭で京都でも牛乳が広く飲まれるようになりました。
この牛乳のように、牛鍋も、槇村さん自身が美味しいと好んで食べていた節もあったかもしれませんが、まず最初に来ているのは牛肉を食べることの普及活動でしょう。
個人的には、あのドラマの槇村さんが、鼻をつまんで覚馬さんに牛乳を説得の末に飲まされてる場面が見たかったのですが・・・(笑)。

その頃、覚馬さんは明石さんを通じて、尚之助さんが東京にいるという消息を掴みます。
覚馬さんの様子を見るに、八重さんは覚馬さんに尚之助さんとのことをまるで話していなかったようで、また覚馬さんもそれに一度も触れていなかったようですね。
そこで覚馬さんは、槇村邸への討ち入りから戻った八重さんを部屋に呼んで、尚之助さんは如何しているだろうかと、京都に来て初めて尚之助さんの名前を出します。

尚之助様とは離縁しやした。私にはもう、分がんねぇ・・・

努めて明るく言いますが、無理をしていることは一目瞭然(といっても覚馬さんには見えてないのですが、兄妹ですし、声の感じとかで分かったでしょう)。
うらさんの方から手を放された覚馬さんと、尚之助さんの方から手を放された八重さん。
まあ覚馬さんはうらさんから三行半(現物)を突き付けられたわけではありませんが、ちょっぴりこの兄妹、立場は似てるんじゃないかなとふと思いました。

さて、ドラマでは八重さん視点になったり明治政府視点になったりで、同時に話を進めて行かねばならないので場面展開があっちにこっちにとなりますが、ここから先は視点を絞って、その視点ごとの時系列をなぞりながら話を進めさせて頂きます。
それでないと、ただでさえ拙くてまとまりのない文章に、更に磨きがかかってしまうので(苦笑)。
まず明治政府サイド。
先程も触れましたが、西郷どんは朝鮮に兵を出すことに反対しており、自らを使節として朝鮮に派遣するよう政府に求め、これが内定します。
西郷どんの朝鮮派遣が決定されたのは明治6年(1873)10月15日。
既に8月の時点で決定していたようなのですが、外遊から帰国した岩倉さんと大久保さんと揉めて、激論となっていたようです。
ところがその西郷どんの朝鮮派遣を、征韓論派は一向に明治天皇に上奏しませんでした。
江藤さんが三条さんに詰め寄っていたのは、そのことです。
西郷どんが朝鮮に派遣されない以上、朝鮮との外交は何も進まないことになります。
詰め寄られた三条さんは、その件については木戸さんや大久保さん達が反対しているので慎重に・・・と言いますが、板垣さんが薩長による独断専横をもう許すことは出来ないと、激怒します。
ちなみに閣議によって決定となった西郷どんの朝鮮行きに対し、大久保さんは参議の辞表を叩き付けます。
すると大久保さんに辞められては自分も困るということで、慌てた岩倉さんも辞意を表明します。
そしてひとり取り残されたのは、三条さん・・・。
彼は、相棒ともいえる岩倉さんが、まるで自分ひとりに責任も何もかも押し付けて逃げ出すような態度に衝撃を受け、自宅で高熱を発して卒倒したそうです。
この卒倒までの流れが、ドラマではいまいち伝わり難かったですね。
あれでは、強面の殿方に囲まれて、吃驚して意識を手放したようにしか見えません(笑)。
まあそれで、卒倒した三条さんはお気の毒というしかありませんが、この三条さんが卒倒した後、何故か辞意を表明していた岩倉さんが再び顔を出します。
しかも、太政大臣の三条さんの代理としてですから、本当にちゃっかりしてると言いますか、策士と言いますか。
勿論太政大臣代理として再び現れた岩倉さんが何もしないわけがなく、彼はそこで閣議の決定を無視し、朝鮮使節派遣の延期を明治天皇に奏上して、勝手に使節派遣を無期延期にしました。

何が公平じゃ、岩倉様の思惑でどうとでもなるがやないがか!
たとい太政大臣といえども、閣議決定したもんに私見ば添えるなど許されん

板垣さんと江藤さんのお言葉もご尤も、要は岩倉さんは、西郷どんの朝鮮行を阻んだのですね。
西郷どんは、この政治陰謀ともいえるからくりに、大久保さんが絡んでたことを理解しておられたようです。
まあ大久保さんや岩倉さんの立場で物を考えさせて頂くと、政府の大物でもある西郷どんが直々に朝鮮に足を運んでは、それこそ戦争の火蓋を切りかねないと危惧していた部分もあるでしょう。
前代未聞のこの暴挙に、閣議で決まったものが行われないのなら何のための閣議だと憤慨した西郷どんは、すべての職を辞して下野することになります。

・・・ここにはもうおいのでっくっこつはなか。破裂じゃ。最早止めがならん

いわゆる明治6年の政変と呼ばれるものの結果が、この西郷どんら参議の半数と、軍人、官僚ら約600人の辞職です。
もう少しメスを入れさせて頂くと、伊藤博文さんが江藤さんの代わりに大久保さんを参議にしようと働きかけていた政府の内紛や、長州閥のことなどが溢れ出て来ます。
ですが冗長になるのもあれですし、あーだこーだ考察を付け加えるのはやめておきます。
(というより、これだけで最低新書が軽く一冊書ける情報量を有してますので、纏めるにも纏められないのです)
私から見ると、廃藩置県によって藩は消滅したのに、その藩を消滅させた人たちが藩閥政治の主権を争ってたんだな~藩に一番囚われてるのは誰だろうな~、などと思わなくもないです。
私のぼやきはさて置き、この政変を皮切りに、佐賀の乱、神風連の瀾、萩の乱、秋月の瀾、そして西南戦争へと、駒が進んで行くことになるのです。

一方で、八重さんサイド。
八重さんの直談判のお蔭で援助資金も増額された女紅場でしたが、その平穏は束の間のものでした。
といいますのも、先ほど既に触れましたが、槇村さんが小野組に訴えられ、東京に召還された槇村さんは、臨時裁判所に出廷しましたが、法廷内の態度が不遜とされ、身柄が拘束されていました。
京都府の事実上のトップがお縄に付いたというのはただ事でもありません。
そこで京都府の上層部は、覚馬さんを東京に差し向けることにします。
覚馬さんが差し向けられたのは、槇村さんの一件の背後には木戸さん対江藤さん(=征韓論派VS反征韓論派)の政治抗争図が出来上がっていたからで、府の人間が行って下手するよりは、法律などの知識が豊富で、色んな方面に顔をの利く覚馬さんを遣わした方が良いだろう、という采配からでした。
覚馬さんは失明していたので、東京までの旅には八重さんが付き添いました。
まず京都から横浜まで人力車、そこから汽車で東京の汐留停車場に行って、八丁堀の三井の抱え屋敷に明治6年8月から12月まで滞在しました。
ちなみに横浜東京間に走るこの汽車の車体が黒いため、「黒船が陸を走ってる」と開通当時周りの人はそれはそれは動揺したそうです。
八重さんなど動揺するどころか、子供のようにはしゃいでましたね。

東京の文明開化は京都とは比べもんになんねぇ
東京だげ開化したって国は変わんねぇ。そのためにも槇村が必要だ

そう言って覚馬さんと八重さんは、拘束されている槇村さんを訪ねます。
槇村さんは司法権の独立を目指す江藤さんが、長州藩を牽制する政治的意図のとばっちりを受けた、と仰っていましたが、全部が全部そうとも断言しかねると思います。
八重さんの言う、「法律を破れば誰でも罪になりやす」というのが一番の正論だと思います。
法律を破って罪にならなければ、法律が法律である存在意義がなくなってしまいますから。
ですが、後に覚馬さんは槇村さん救出のために江藤さんに意見を提出するのですが、此度の件の裁判所の担当裁判官に、槇村さんと対立する立場にある裁判官を起用し、その裁判官の姓名を開示しないのは公平性に大いに欠いた裁判ではないのか、という指摘がありました。
そのことから、つまり裁判そのものが槇村さん不利の状態で進められており、そこに何らかの意図が絡まっていたのだろうなというのは明らかなので、政治意図が全く無縁とも言えないでしょう。
覚馬さんは今から木戸さん達に掛け合ってくると言い、ついては槇村さんの存念を聞かせて貰いたいと言います。
すると槇村さんは、自分が間違ったことはしていない、と譲りません。

日本はまだよちよち歩きの赤子のようなもの。赤子の内は理屈より親の助けがいると思わんか?わしは、命がけで幕府っちゅう錆びついた国を壊してくれた木戸さんらを尊敬しちょる。じゃが、壊しただけじゃ。わしは、壊された荒地に命懸けで新しい国を作るつもりじゃ。そのために、今はまだ強力な指導者が必要じゃ。法を破り罪人と言われようと構わん。何が正しいかは、立場で変わる

見事な開き直りと言いますか、いやしかしここまで図太くないと(?)、生まれたてで何かと難しい状態の明治初期というのは切り抜けられなかったでしょうね。
そんな槇村さんを、中央の派閥争いに巻き込まれるのは勿体無いと、覚馬さんは皇居となったかつての江戸城の田安門近くにある木戸さんの屋敷を訪ねます。
(ドラマでは木戸さんのお屋敷のみでしたが、実際は岩倉さん、江藤さんなどの政府有力者を歴訪しています。その中でもとりわけ頻繁に会ったのが木戸さんでした)
自分がバックボーンについていた槇村さんの件については、木戸さんも表立っては動きにくく(動けば叩かれるので)、よって木戸さんも覚馬さんに期待しているところが大きかったようです。
初対面の席で、八重さんは木戸さんにまたまた殺気に似たものが籠った視線を向けていましたが、記述によれば八重さんは木戸さんを「居心地の良い人」と好印象を持っていました。
同じく、現れた岩倉さんにも同様に、八重さんは左程悪い印象を抱いてなかったようですが、まあドラマですから分かり易くということでしょう。
しかしこの岩倉・木戸コンビに対して、山本兄妹は痛快でしたね

藩を自分達で壊しておぎながら、未だ薩長だ佐賀だと拘られるとは、いささか滑稽。権力は政治を動がす道具に過ぎぬ。たかが道具に足を取られで、まどもな政が出来ますか?八重、岩倉様は何をご覧になってる?
先程がら何が愉快なのが、ずっと笑みを浮かべでおいででごぜいやすが、その目は・・・何を見てんのが、私には分がりません!

ともするとこの無礼な八重さんの言葉に、しかし覚馬さんは口元に笑みさえ浮かべます。
何かもう、凄い兄妹ですね・・・三郎さんって色々とやり難かったでしょうね。
八重さんは仇敵ともいえる木戸さんと岩倉さんに、槇村さんのことを再考して欲しいと頭を下げます。
けれども槇村さんの釈放は、覚馬さんの奔走に反してなかなか先が見えない状態でした。
しかし先ほど触れた明治6年の政変の機に乗じて、太政大臣代理御権力を行使した岩倉さんが、槇村さん釈放に踏み切ります。
勿論これに反発する声はあり、司法省高官が総辞職するという事態が起こりますが、木戸さんの政治的立場を飽く迄も岩倉さんは配慮したのです。
といっても槇村さんも無罪放免というわけではなく、懲役100日、罰金30円の判決が下されました。
ともあれそれで、小野組転籍事件の幕は下ろされます。

ところで東京に出て来たついでと言いましょうか。
八重さんは、覚馬さんに依頼されていたらしい尚之助さんの消息を頼りを勝さんから聞いて、鳥越明神の付近を訪ねて行きます。
尚之助さんは件の一件の裁判のために東京に連行されており、この頃は二人目の身元引受人となる川上啓蔵さんの預かりとなっていました。
鳥越明神にある川村三吉さんの自宅に居候していたそうですが、ドラマでは長屋になっていましたね。
戸を叩いた八重さんが中を覗いても、尚之助さんは留守・・・と思いきや、向こうから痩せて擦れた着物を着た尚之助さんが現れます。
長屋に上がった八重さんは、自分が女学校の舎監をしていることを話し、自分が尚之助さんの裁判に付いて何ら知らなかったことを詫びます。
ところがこの川崎尚之助という御仁ときたら、「これが私の身の丈にあった暮らし」と、言います。

尚之助様は、飢えと寒さに苦しむ藩の皆様の命を、守って下さった!・・・私のことも。何一づ文句言わねぇで、誰より打たれ強い会津のお人だ。ずっと後悔してだ。斗南に行げば良がったって。こんなごどになってだ何て・・・許してくなんしょ
私こそ、あの時猪苗代に行こうと命懸けで私の隣に立ったあなたの誇りを踏み躙った。許して下さい
謝んねぇで・・・何も悪ぐねぇ。尚之助様に甘えで・・・意地張って・・・私は馬鹿だ・・・馬鹿だ・・・

三行半を送られた時、八重さんは「話して貰わねば何にも分がらねぇ」と言っていました。
本当に、話せば互いすぐにわだかまりも溶けて分かり合えたのですが、時既に遅しというわけではありませんが二人の道は完全に分かれてしまっています。
再び交わることはない・・・というより、尚之助さんが交わらせない。

八重さん・・・がっかりさせないで下さい。八重さんには京都で生徒たちを守る舎監の仕事があるのでしょう?

だから、自分を傍に置いて欲しいと懇願する八重さんに、こういう風に「八重さんの道」をしっかりと示すんですよね。
こっちじゃないよ、こっちは駄目だよ、と。
初めて八重さんのことを「八重」と呼び捨てにして、一瞬心は揺らいだように見えましたが、こんな時でも自分を見失わない尚之助さん。

私の妻は、人並みの妻ではありません。鉄砲を撃つおなごです。私の好きな妻は、夫の前を歩く凜々しい妻です。八重さんの夫になれたのは、私の人生の誇りです。・・・もう二度とここに来てはいけません。あなたは 新しい時を生きる人だ。いきなさい

言葉だと「いきなさい」にしか聞こえませんが、きっと「いきなさい」は「行きなさい」ではなく「生きなさい」。
深読みすれば、私の先をあなたは生きなさい、と言っているようにも聞こえます。

待っていっからし。前を歩いで京都でずっと待ってっから
それでこそ八重さんだ

そう八重さんは言っていたのに、尚之助さんはこの2年後に八重さんを置いて逝ってしまいます。
亡くなられたのは明治8年3月20日、東京ではまだ桜は咲いてなかったでしょうね・・・。
しかし尚之助さんと八重さんのこのときの再会は、ずっと小説の域を出ない創作話とされてきましたが、創作じゃないという説もあるらしく(尚之助さん研究が進んだのでさえ近年なのに、一体いつそんな説が出たのかは分かりませんが)。
でもやっぱり再会は創作話じゃないかと私などは思うんですよね。
浩さん達斗南藩サイドが、尚之助さんをどうにもしてあげられないのは分かるのですよ。
血を吐くような決断をして、蜥蜴の尻尾のように尚之助さんのことを切り捨てたんですから。
でも、八重さんと再会してたのなら、山本兄弟が何も尚之助さんを取り囲む裁判諸々に介入しなかったのは、ちょっと不自然にも思えるのです。
あの山本兄妹が何もしないわけないじゃないですか。
ましてやドラマのように、「自分達の存在が尚之助さんの人生を大きく変えてしまった」というように自覚しているのなら猶更です。
既に離婚が成立してて、他人と割り切ってたとか、あるいは尚之助さんが亡くなった後に死を知ったか・・・という方が、やはりしっくり来るなと。
ということで、再会はしていなかったという方が、筋が通ってるんですよね。
史実のみが歴史じゃないのは重々承知ですが、あの場面だけ見たら凄く良い場面なんですが、色々と考えてしまうところが正直御座いまして(苦笑)。
次のステップへの襄さんへのハードルをそこまで上げて良いのか、という気もしますね。

さて、そのハードルを上げられた襄さんはといえば、1874年(明治7年)10月9日、アメリカのヴァーモント州ラットランドにある組合派、グレイス教会で開かれていたアメリカン・ボード(海外伝道組織)年次大会で最終日を迎えていました。
そこで世界各地に派遣される宣教師の紹介と挨拶の場面になり、襄さんはラットランド演説と後に呼ばれる挨拶を壇上でします。

我が故国日本は革命戦争の果て、新しい国となりました。しかし民の心は傷付き、迷い、世は荒んでいます。私は愛する故国日本を救うため、学校を作りたい。それが私の夢です!苦しむ日本人を照らす光は物でも力でもない、真の教育です。皆さま・・・どうか・・・どうか私に力を貸して下さい!

この演説は、襄さんが途中で涙ぐみ過ぎて、最早何を言っているのか分からなかったようなのですが、熱意は伝わったのでしょう、その場にいた聴衆からは5000ドルの寄付の約束を得ました。
ただ史実としましては、ラットランド演説は当時のアメリカン・ボードには黙殺されたという面も持っています。
理由は、「日本人を教育するために教師と説教者の養成所を作る」、というのが、アメリカン・ボードの希望するところではなかったからです。
つまりこれが何を示しているのかと言いますと、新教(プロテスタント)を非キリスト教地域に布教することを第一目的としていたアメリカン・ボードと、日本人の救済を第一目的にする襄さんとのズレですね。
前回、木戸さんから日本政府へのスカウトを断ることで、日本政府との距離を保とうとした(そして帰国後も保つ)襄さんですが、このアメリカン・ボードとのズレがあることから、アメリカン・ボードの宣教師とも距離を保つ必要が生じます。
そんな襄さんが日本に帰り着いたのは、演説から48日後の1874年11月26日のことでした。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年8月13日火曜日

第32回「兄の見取り図」

米沢から上京し、覚馬さんの家に居を移した山本一家。
さあ新生活だ!・・・と思いきや、旅の疲れが出たのか、しっかりもののの佐久さんも含め、三人仲良く寝過ごしてしまいました。
飛び起きた八重さんが枕元を見ると、そこにはきっちり畳まれて準備されたそれぞれの着物が・・・。
(帯揚げとかまだ一般的じゃないはずなのに、何であるんだろうという奇妙さに少し驚きましたが・・・時代考証頑張って・・・)
それに袖を通して台所へ駆け込むと、既に時栄さんが全て朝食の支度を整え終えていて、やる事なくて身の置き場に困る八重さん。
おまけに覚馬さんの支度まで既に整っているというのですから、物凄い手際の良さです。
自分達は客じゃないから、何かせねばと思う八重さんが労力を呈する隙もありません。
こういう時って、八重さんの立場ですと気まずいですよね。
しかしまあ、朝起きて朝食の支度整えて、覚馬さんの支度も整えて・・・の生活リズムは時栄さんにとっては「毎日の当たり前」ですから。
ある日突然やって来た身の上で、それに食い込んで行こうという姿勢は、ちょっと女同士ですと上手く行かない。
「何かさせて下さい!」と意気込んでやってくるのではなく、静かにやって来る佐久さんが角の立たない、時栄さんの生活リズムへの入って行き方だとは思いますが、まあそこは佐久さん年の功でしょう。
それに女性なら分かると思うんですが、台所に主婦が何人も立つと、却って煩わしいことになるので入って来るな!手伝わなくていいから!みたいなことにもなりますよね(笑)。

父上、三郎・・・九年ぶりに、皆で暮らせるごどになりました。力合わせで、生ぎで参ります。ご安心下さい

朝餉の前に、そう仏壇に手を合わせる覚馬さんですが、この覚馬さんの「皆」の中にうらさんが入っていない悲しさと言ったら・・・。
で、覚馬さんが「皆」という言葉を使うたびに、「皆じゃねぇよ」と言わんばかりのみねちゃんの表情がまた・・・そしてその表情が、覚馬さんには見えていないのがまた・・・。
しかし見えていないからなのか、みねちゃんの様子には気付いていない覚馬さんが、しれっと朝餉を始めようとすると、みねちゃんが立ち上がって飛び出して行きます。

揃ってねぇ・・・皆揃って何かねぇ!

追い駆けようとする八重さんを、覚馬さんが制して代わりに時栄さんを行かせます。
みねちゃんは納戸に籠って、うらさんから貰った赤い櫛をじっと見つめます。
そこへ時栄さんが様子を見に来ますが、納戸の扉をぴしゃりと閉めて完全拒否。
時栄さんに今のみねちゃんがどうにか出来るわけないでしょうに、何故覚馬さんも行かせるのか(苦笑)。
みねちゃんからすれば、時栄さんが居なければ自分はうらさんとお別れしなくて済んだんですから・・・。
しかも同性同士だから、余計に・・・ね。
それに、みねちゃんだけにはありますよね、うらさんのことで覚馬さんを責め立てる権利みたいなの(実は八重さんにはない)。
うらさんからみねちゃんを任された手前、みねちゃんのことを気にかける八重さんではありましたが、覚馬さんはみねちゃんのことも含めた家のことは時栄さんに任せろと命じます。
で、八重さんには他にやる事があるのだと。
そう言って覚馬さんが八重さんを伴ったのは書斎。
そこで覚馬さんは、『万国公法』を八重さんに渡します。

世界の国同士、守らねばならぬ法が書いである。京都では小学生にも教えでる。八重には、難しいが?
まさが。これぐれぇ読めます

学制発布はこの翌年(明治5年)ですが、この時点で既に京都にはふたつ、小学校というものが存在してます。
ただ、米沢から出て来たばかりの八重さんに、いきなりそんな単語出して通じるのかという疑問は残りますが。
『万国公法』は、幕末期、藩校の教科書として取り上げてたところもあります。
でも藩校での教育を受けられたのは武家の男児だけでした。
で、徳川の世が終わって明治になって、今は女の八重さんがその『万国公法』を学べる立場にある。
女性にも学問を、という新たな姿勢に、時代は確実に変わったのだなと思う瞬間です。
その八重さん、覚馬さんに後でテストをするから『万国公法』をテストするから頭に入れて置けと言われ、よく分からないなりに本に齧りつきます。
文字としては「読める」けれども、意味が拾えない八重さん。
しかし持ち前の負けん気のお蔭か、翌朝覚馬さんと京都府庁に行く道すがらにテストされると、なかなか頭に入っていたようですから、八重さん頭は悪くないのでしょうね。
ちなみに当時の覚馬さんの体重は80キロ。
八重さんが会津でよく持ち上げてた米俵は一俵60キロなので、すれ違う人には驚かれてますが、覚馬さんおぶって何処かへ行くなんてことは八重さんには余裕だったと思います(笑)。

そんじゃあこの人が、城に籠って官軍を撃った女傑か?府知事の槇村じゃ、元は長州の微禄もんじゃがな

そんなこんなで覚馬さんに引き合わされた槇村さんが長州の人間だと知ると、八重さんの目に敵意が宿ります。
即座に出て行こうとする八重さんを覚馬さんは止めますが、八重さんの敵意に気付いているのかいないのか(多分気付いてる)、槇村さんは上機嫌で八重さんに話しかけます。
ここで、この府知事の槇村さんと、その顧問を務める覚馬さんのコンビは、一体何の仕事をしているのかについて、ドラマだけでは把握しにくかったので、ドラマの流れを掻い摘みながら補足させて頂きたいと思います。
以前の記事でも触れましたが、遷都と言葉にしていないだけで、今や明治天皇は完全に東京に留められ、日本の首都は暗黙の了解で東京となりつつありました。
天皇という都の象徴を奪われた京都は、それによって衰退の一路を辿ります。
嘉永3年(1850)には29万人はいた京都の人口は、明治5年(1872)辞典で24万4883人にまで減少していて、人口の他地域(主に東京)への流出に歯止めがかからない状態でした。
天皇が東京へ移ったということは、東京へ一緒に移る公家も出て行き来ます。
(鷹司家など、京都に残った公家もいますが)
すると困るのが、公家や朝廷相手に商いをしていた人達と、その産業です。
お客が京都からいなくなってしまったので、大打撃を受けます。
例えば西陣と言った呉服関係であったりですとか、あと菓子商などもですね。
そういった状況に加えて、当時の京都では洋式化を推進し、旧弊を排斥するという動きもあったので(これは全国的にありました)、ひな祭りや門松、五月の大将祭り(端午の節句)などがそれに伴い禁じられました。
他の地域では、外国人の目に不気味だからという理由で卒塔婆を禁じられたところもあったそうです。
槇村さんのところに来ていた嘆願は、そういった経緯からのものです。
しかし嘆願に来ていた人たちが言っていたように、ひな人形作って生活していた人たちからすれば、ひな祭りが禁じられればそもそも人形が売れず、食べて行けないことになります。
この問題を、見事に解決したのが顧問の覚馬さんです。

お前だぢ、日本中でひな人形は幾づ売れる?その数は高が知れでる。しかも、一度買ったら二度は買わねぇ。だが買い手を異国に、世界中に広げだらどうなる?何万両かの商いが、何千万両にも増える。ドイツ人のレーマンに見せだ。京の人形は素晴らしい、是非取引してぇど言って来たぞ

ということで、ひな人形商だけに限らず、大打撃を受けている京都のあらゆる産業をどうやって救い、どうやって息を吹き返させ、あわよくば海外に輸出という形で産業の販路を見出していくか、を考え実行するのが、槇村さんと覚馬さんのお仕事の、大まかなところです。
博覧会という言葉が会話の中で出て来ましたが、その博覧会も、色んな人に京都に来てもらって、色んな人に京都の素晴らしい産業を見て貰って技術交流をはかり、そこで交易の話が結べたら万々歳というのを狙ってのものです。
要は、勧業意欲を高めるためのものですね。
余談ながらこの博覧会で、「祇園や先斗町の芸妓を集めてぱーっと踊らせる」というのは、今もなお京都で開催されている「都おどり」の始まりとなります。
ちなみに京都博覧会の第1回目は明治4年(1871)10月10日~11月11日まで西本願寺書院で行われ、第2回は明治6年(1873)3月13日~6月10日まで御所や仙洞御所庭園で開催されました。
覚馬さんが「異国からの客人のために、英語で都の名所案内を作りましょう。私が草案を作り、妹に手伝わせます」と言っていた外国人向けの英文京都案内が発行されたのは第2回目の博覧会の時です。
印刷機はレーマンさん経由でドイツから輸入したもので、英文原稿は覚馬さんが、アルファベットの活字と植字は八重さんと丹羽圭介さんの妹によってなされました。
が、しかし現時点で八重さんは英語が出来ない。
なのでこれから八重さんにそれを学ばせるべく、女紅場に入れるという。
女紅場というのは、正式には新英学校及女紅場と言いまして、明治5年4月14日に、土手町丸田町下ルにあった九条家の別邸に設けられました(この会話の時点では建設中)。
最初は華族士族の娘のみ入学が許されてましたが、後に一般庶民の娘の入学も許されるようになりました。
英語と高等の和洋の女紅(=手芸)、礼儀作法などを身に着けるための教養所ですね。
覚馬さんはそこで八重さんに教師をしながら英語を学べと言いますが、長州の人間が作る学問所に入るのは嫌だと八重さんは大反発します。
しかし覚馬さんは取り合わず、寄宿舎で暮らす娘たちの舎監を務めるべく、あっちに住み込めと言います。
みねを育てる約束をうらさんから請け負った八重さんに、そんなことが出来るはずもありません。

あんつぁまは、分がっていんのがし?姉様が、なじょな思いでみねど別れだが。私は、姉様と約束したんだし。みねをしっかり育でるど
いいがら、言う通りにしろ
あんつぁまは、人が違ったみでぇだ。長州の者ど笑って話して、手下になって。私にまで手伝いをしろど。・・・あんつっぁまは平気なのがし?憎ぐはねぇのですか?薩摩や長州に攻められで、会津がなじょなったが。城に籠って二千発の砲弾撃ぢ込まれんのがなじょなもんか、あんつぁまは分がってねぇ!あの時、お城にいながったがら

京都にいなかった頼母様に何が分かるのです!と言っていた会津首脳陣が脳裏をよぎりました・・・。
確かに現場にいない人間に、現場の生々しい状況を察せというのは難しいことなのかもしれません。
八重さんに散々言われ、それでも黙して語らずの覚馬さん。
そんな兄を、変わってしまった、会津を忘れてしまったみたいだと、八重さんは佐久さんに零します。
私個人としては、変わったとか忘れたとかではなく、被害者の藩の人間でありながら、恨みとかそういったものを乗り越えて、笑って接せる覚馬さんは凄い器の大きいことだと思うんだけどな。
で、佐久さんも覚馬さんは変わっていないと言います。
実は覚馬さん、うらさんの着物もちゃんと用意してたみたいなんです。
忘れてなかったんだなというのと、覚馬さんに悪気はなかったけど、呼ぶ気満々だったというのと。
勝さんや象山先生が妾と正室同居させてるので、それ普通じゃないの?何かおかしい?というのはやっぱりあったのだろうなと。

一方、一向に覚馬さんや時栄さんを拒絶し続けるみねちゃん。
そんなみねちゃんに、時栄さんがお握りとこづゆを作って差し出します。

寂しいやろな、おっかさまと離れて・・・。私、どないしたらええんやろ・・・

きっと覚馬さんのことだから、うらさんがいなくなったからみねちゃんの母親はお前だ、みたいな丸投げしたんでしょう。
そもそも時栄さんとみねちゃんがしっくりいかないのは、覚馬さんが選択を全部女性陣に丸投げにしたからというのがかなりあると思うんですよね。
だから、時栄さんの身の置き方と言いますか、どう処して良いのか分からない。
みねちゃんはみねちゃんで、うらさんを母として思う気持ちが強く色濃く残ってるから、時栄さんのことはすんなり受け入れられない。
どうなるのかなと思いきや、後々でこづゆを食べて全部解決、みたいなことになってたのには少し驚きましたが・・・。
え、そんな単純なものじゃないでしょう?という感じで(苦笑)。

さて、黙して語らず、だった覚馬さんは、八重さんを金戒光明寺に連れて行きます。

こごに、会津本陣があった

そういって、大広間に上がるふたり。
ほんの4年前くらいですと、そこに会津の皆がいて、上座には容保様がおられるという光景がそこにはありました。
4年ってそんなに遠くないはずなのに、何故か幕末から明治の激動にかけては年月が凄く速いので、遠く感じます。

殿には、己の欲などながった。俺達家臣もだ。・・・ただ徳川を守り、都を守り、帝をお守りする。その一心で・・・京都守護のお役目を続げだ・・・。んだげんじょ、俺は気付がねばならながった。もっと大きな力が、世の中をひっくり返しているごどに。・・・会津は底なしの沼に落ぢて行ぐのを、どうにも出来ながった。俺は・・・無力で、愚がだ。薩摩や長州が錦旗掲げて会津を滅ぼしに行ぐのを、止められながった・・・
白河が落ぢで、二本松が落ぢで・・・あの朝、城下に割場の鐘が鳴った。・・・女も子供も、戦った。・・・お城がぼろぼろになるまで大砲撃ぢ込まれでも、弱音は吐がながった・・・会津は逆賊ではねぇがら!間違ったことはしていねぇがら・・・
憎いが。敵が
許せねぇ・・・
俺もだ

ならばどうして長州の人間の顧問などしているのかと追及する八重さんに、これは自分の戦だと覚馬さんは言います。

会津を捨て石にして作り上げだ、今の政府は間違ってる。んだげんじょ、同じ日本の中で、銃を撃ぢ合って殺し合う戦は、もうしてはなんねぇ
んだら、会津は踏み躙られだままなのがし?
いや、そうでねぇ。会津が血を流し、八重が銃で戦っていだ時・・・俺は牢の中で、何も出来ず、ただもがいでだ・・・無念さに、のた打ぢ回りながら・・・俺は気付いた。たった一づ、出来るごどがあるど

そこで覚馬さんが懐から取り出したのは、風呂敷に包まれた『管見』。
提出されたはずの管見が何故覚馬さんの手元にあるのだろうという疑問はこの際黙殺するとして、覚馬さんはこの『管見』に託した自らの思いの丈を八重さんに語ります。

国が敗れ、滅び、灰になっても、その中がら身一つで立ぢ上がる者が、きっといる。・・・俺は書いだ、その者達のために、文明の息吹に溢れる、新しい国の在り方を・・・目が見えなぐなったのも、歩げなくなったのも・・・牢獄で、これを書ぐためだったのがもしれねぇ

すべてはこの『管見』に行き着くためのものだったと思えば、目のことも歩けなくなったことも、経過に過ぎないということでしょうか。
覚馬さんは『管見』の「女学」という部分を八重さんに見せます。
そこには、「国家を治むるは、人材によるものなれば、今より以後、男子と同じく学ばすべし」と書いてありました。
この「女学」と書いた時、覚馬さんの脳裏に浮かんでいたのは八重さんの姿だと言います。
新政府が捨てて行ったわけでは決してありませんが、衰退する京都を復活させるために、覚馬さんは京都を文明(産業と教育)で立て直そうとします。
そのために、覚馬さんに「女学」を書かせた八重さんの力が必要だと。

もっと学べ。新しい知識を、世界の文明を。これがらは、学問がお前の武器だ。会津が命がけだこの場所で、俺ど共に戦ってくれ。にしなら、きっと出来る

黒谷がどんな場所か語られた挙句、こんなこと言われたら、八重さん覚馬さんに協力するしかないじゃないですよね。
覚馬さんも策士だな~と思います。
ところで、よく意図が汲み取れなかったので、覚馬さんの話を少し整理させて頂きたいのですが・・・。
まず「敵は許せねぇ」という思いは、八重さんと同じように覚馬さんの中にもある。
でも日本人同士が殺し合う戦はしてはならない、と言う意味で、復讐心はない。
で、戊辰戦争中何も出来なかった自分は、自分の中にインプットされたものを全部アウトプットして『管見』と書いた。
ここまでは分かるのですが、この『管見』は、つまりは敗者側の人間の中で、立ち上がる人に示す文明の国の在り方、ということになるのでしょうか。
で、その文明の国には、勉強が必要になる。
だから、「学べ」に行きつく?
誤った解釈してたら申し訳ないですが、私の低い理解力ではこれが限界でした・・・。

明治4年(1871)11月12日に横浜港を発った岩倉使節団ですが、彼らの主な目的は幕末に結ばれた数々の不平等条約を、平等なものに改正するための親善訪問と、西洋文明の視察でした。
関税自主権や治外法権など、不平等条約改正に辣腕をふるったのが、陸奥宗光さん、通称カミソリ大臣。
しかしこの岩倉使節団の時にそれがなされたわけではなく、陸奥さんの尽力で条約改正がされたのは明治20年代に入ってからだから、まだ先の話になります。
このときは、襄さんが言っていたように、条約改正の交渉は出来ないと言われてしまいました。
交渉の権限を記した新たな委任状がなければ話が進まないというので、それでは大久保さんが帰国して取りに帰ろうと言うと、そこへ木戸さんがチクリ。

その間、我々は足止めですか?廃藩置県で未だ国が治まらん時に、揃って政府を留守にすることに、僕は反対じゃった。無理に引き摺りこんだんは、大久保さん、あんたじゃ。留守を預けて好き勝手されちゃ堪らんと思うたんじゃろうが・・・

まあ木戸さんの嫌味はさて置き、岩倉使節団ら外遊組と、日本に残ってる留守組の間には、留守組が勝手に新政策や人事異動を行わないという誓約書が作られていました。
しかし廃藩置県という改革が行われた今、日本の情勢は不安定です。
そんなときに新政府が、その誓約書に縛られて何も策を打ち出せないというのは、なかなか問題でして・・・。
自分達のいない間に有力者の独裁(西郷どんなど)を防ぎたかった気持ちは分からなくもないですが、そんな政治の事情に日本国民全体を巻き込むなよ、早く何らかの対策打ってあげて下さいよ、と苦言を呈したくなるのが、この頃の明治政府です(苦笑)。
あと目下日本では征韓論が沸騰していたりもするのですが、その辺りのことはまた追々触れられていくでしょうから、その時に話したいと思います。
何となくいがみ合う場の空気を華麗に読んだ襄さんが退室すると、庭には大蔵さんの妹の咲ちゃん、改め捨松さんがいました。
捨松というのは、「(娘を)捨てたつもりで帰りを待つ(=松)」という意味が込められております。
事情によって離れなければならなかった艶さんたちの、切実な思いが籠った名前ですね。
ちなみに彼女はこの時点で11歳、襄さんは28歳です。
そこへ同じく退室してきたらしい木戸さんが、襄さんに声を掛けて来ます。

新たな委任状など手に入れたところで、どうにもなりゃーせん。アメリカは日本を見下しとるんじゃ。大久保には任せられん
不思議ですね。薩摩と長州は幕府を倒し、新しい日本を作るために、手を取り合っていたのではありませんか?
今は互いに腹を探り合い、競い合っちょる

幕末の薩長同盟からこっち、長州と薩摩の凄いところ(?)は、嫌味は応酬させるし仲が良いとはお世辞にもいえないのだけど、、自分たちの利益に繋がるのであれば嫌味云いながらも仲良く握手や二人三脚出来るところでしょうか。
木戸さんと大久保さんも物凄くゆがみ合っておりますが、色んな人からは「夫婦のような」と言われてますし・・・(笑)。
立ち去った木戸さんの姿に、しかし捨松さんの表情は複雑です。
会津人として、長州の人に心を許せるほどまだ傷は癒えていないが、自分は国費で留学していることに引け目を感じているようです。
しかも留学生はひとりにつき年間800ドルの手当が支給されていますからね。
斗南の極寒で頑張っていた捨松さんのお兄さんの月給が3円なことを考えると、物凄く環境的には恵まれています。
ただ、その環境を整えたのが憎い薩長という一点のみを除いては。
しかしそんな捨松さんに、襄さんは朗らかに言います。

いいじゃありませんか、誰の金でも。むしろ大いに利用して金を使ってやれば良い。あなたの学問のために。美味いものをたらふく食うために!捨松さん、あなたの前には、薩摩も長州も関わりのない、広くて豊かな世界が広がっているんですよ

良い言葉ですね・・・すっと入って来て、心の靄が晴れます。
後にこの捨松さんは、母国語である日本語が不自由が生じるくらい熱心に勉強し、後にその聡明さと美貌で「鹿鳴館の華」として明治に花開きます。

さて、ある日覚馬邸に西郷どんが訪ねて来ます。
紹介された八重さんは、槇村さんの時と同様、目が険しくなります。
西郷どんの方は八重さんを「弥助を撃ったおなご」として知っていたようです。
さてその西郷どん、今日は御所の傍にある薩摩藩二本松屋敷を覚馬さんに譲渡しに来たようです。
東京への人口流出は、天皇に付いて行った公家に限ったことではなく、大名たちもそうでした。
なので京都にあった公家屋敷、大名屋敷は無人の不要物となり、売りに出される始末(女紅場もそう言った場所に建てられましたし)。
薩摩藩二本松屋敷の土地が売り出されたのも、そういった背景からです。
しかし、八重さんは西郷どんが覚馬さんに土地を売ろうと(しかも値段は出せるだけで構わないと)するのを図りかねます。

なじょしてですか?高ぐ売る相手は幾らもおありでしょう。何で、わざわざ兄に?薩摩のお方が、何の思惑があって会津の者に融通してくれんだし
何か一つ違ちょったら、薩摩と会津は立場が入れ替わっちょったじゃろ。そげんなっちょったら、薩摩は全藩討死覚悟で征討軍と戦をした。会津と同じように。新しか国を作るため、戦わんなならんこつになったどん・・・おいは、会津と薩摩は、どっか似た国じゃっち思っちょった。・・・武士の魂が通う国同士じゃち
それなら、なんで、会津が滅びるのをお止めにならながったんだし!

しかし覚馬さんの時と同様、西郷どんも八重さんの問い掛けに対しては黙して語らず。
(ちなみに何かのインタビューかで、現会津松平家の当主様は薩摩に対して「武士の情けはどうしたんだと言いたい」と仰ってた気がするのですが・・・どっか似た国ですか・・・うーん(苦笑))
そのまま、覚馬さんならあの土地を世のために役立ててくれるだろうと言って、去って行きます。
覚馬さんは買ったあの土地を、最初は桑畑にするのですが、後にそこには同志社大学が建つのは皆様周知の事実ですよね。
しかしまたしても「黙して語らず」をされた八重さんは、学問をすれば自分の問いの答えが見つかるのだろうかと思います。
多分自分には見えてないものが、彼らには見えている、だからそれを見るために、その地点に追いつくために、学ぶ必要性を八重さんは改めて噛み締めます。
勝ち負け質疑応答は、そこからだと。

学ばねば、勝てねぇな
行って来い
はい

そうして八重さんは、時栄さんともほんのり打ち解け、女紅場という新たなステージへと踏み出して行ったのでした。
幕末のジャンヌダルクを脱ぎ捨て、ハンサムウーマンへと呼ばれる彼女への第一歩ですね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年8月7日水曜日

第31回「離縁のわけ」

会津藩が廃され、新たに下北半島の一部に設立した斗南藩。
そこで強国を作ろうと意気盛んな大蔵さん達旧会津藩の皆様ですが、物事はそう上手く運びません。
もともと会津領の石高は23万石、そこに色んなものが付属して会津28万石、実質的な収入は30万石程度でした。
それが一気に斗南3万石という、数だけ見ると10分の1に落とされたのです。
更に悪いことに、極寒の地であり作物の収穫がほとんど見込めない斗南は、実質7000石程度の石高しかない領地だったので、普通に考えて暮らしが成り立つはずがありません。
そんな不毛の地ともいえる斗南で生きて行くには、林業と海産物に頼るしかなかったのですが、極寒のため港の開設も覚束ない状況でした。
しかも藩士達は、そういう仕事は自分たちの階級がするものではないという感覚がまだ残っていたから(藩に籍を置いてるだけで扶持が貰えると思ってた)、その辺りでも上手く回らなくて行き詰まり。
そういうわけですから、生産高も思うように上がりません。
つまり文字通りの極寒の地獄で、会津藩は藩丸ごと島流しにあったも同然なのですね。

八重さん達は相変わらず米沢の内藤家に厄介になりながら、行商をして生活を立てていました。
八重さん達が何故斗南に行かなかったのか、ドラマでは前回触れられましたが、実際のところの理由は何だったのでしょうか。
はっきりとは分かっていませんが(そもそも戦後八重さん達が米沢にいること自体近年に分かった新事実ですから)、行かなかったのではなく、尚之助さん辺りは後で八重さんを斗南に呼ぶ予定だったのではないかなと思っています。
それなら最初から伴えば良いじゃないかとも思えますが、働き手にカウントされない女ばかり人数のいる家が、ただでさえ貧窮極まる藩の食い扶持を頼るようなことに、躊躇いを覚えたのではないでしょうか。
まずは男手の尚之助さんが斗南に行き、斗南で生活の目途が立ってから、女の自分達が斗南に行く。
それまでは藩のお世話にならず自分達で生きて行きます、というのが山本家にはぼんやりとあったのではないでしょうかね。
少なくとも、「ただでさえ困窮している藩のお世話にはなりません」というのはあったと思うんですよ。
しかし山本家に残された唯一の男手の尚之助さんから、八重さんのところへ離縁状が届けられて、事態は一変。
これで将来的に生活の目途が立ってから斗南に呼んで貰う、という可能性が潰えました。
「待っています」と言っていた八重さんも、待ってる意味がなくなってしまったわけですね。
会津戦争後、八重さんと尚之助さんが離縁したのは事実ですが、いつ離縁したのかは、理由も含めて実際のところは不明です。
ただ明治8年(1875)の書類に、八重さんが 「川崎尚之助妻」や「川崎尚之助妻、八重」ではなく、「山本八重」と記されていることから、少なくともその時点ではもう離縁していたのだろうということが推測出来ます。
一方的に、しかも淡々と離縁を言い渡された八重さんを気遣ううらさんですが、八重さんの心は何処か頑なです。

文も斗南がら出されたのではながった。きっと、何が訳があって・・・
そんじも、話して貰わねば何にも分がらねぇ。困ってるなら知らせで欲しい、苦労してんなら、私も一緒に苦労してぇ!それが夫婦だべ。・・・あの時だって・・・。何でもひとりで決めっつまう。尚之助様は、勝手だ・・・

事情を知らない八重さんからすれば、確かに尚之助さんの行動は自分勝手以外の何物でもない。
こういう時、みっとも無くても良いから言い訳のひとつやふたつされた方が、何も言われないより百倍まし。
・・・ではあるのですが、佐久さんも指摘していた「きっと何が訳があって」の「訳」は、八重さん達の想像も及ばないとんでもない事情だったのは、後々で触れることにしましょう。

一方、斗南藩。
冒頭でも触れた通り、不毛地帯にして極寒という気候も相俟って、困窮する藩士が藩庁に詰め掛けます。
斗南藩の支給は、大人1日玄米3合、子供は2合で銭200文。
普通に考えて、これでは生きて行くのは難しいですよね。
こういった状況下に陥った時、まず最初に倒れて行くのは女子供と老人です。
斗南での生活の過酷さは、会津藩士芝五郎さんの遺書が詳しいので、そちらに目を通してみて下さい。
大蔵から「浩」と名を改めた浩さんが、この冬さえ乗り越え得ればと皆を宥めますが、冬どころか明日すら危うい藩士たちはそんな悠長なこと言っていられません。
米をくれ、と盛んに叫ぶ藩士たちの声を聞いて広沢さんたちが思うのは、「川崎殿の米の買い付げさえ上手く行っていれば」ということ。
どうやら米の買い付けに失敗したらしい尚之助さん。
この場に姿は見えず、では何処へと思いきや、彼は詐欺事件に巻き込まれていたのです。
これが、佐久さんの言葉を借りるならば「きっと何が訳があって」の「訳」に当たる部分です。

会津戦争中、門田町の肝煎、伝吉さんの家に匿われていたユキさんは、戦後、戦で命を落としたお父さんとお兄さんの遺体を捜しました。
ユキさんのお父さん、左衛門さんは加賀谷大学さんの屋敷内にある竹藪で切腹しており、ユキさんがそこへ辿り着いたのは雪が融けた頃。
上顎の骨が見つかり、骨に身内の人間の血を着けるとよく滲むという話から、指先を斬って血を垂らしてみたらよく滲んだので、「これは自分の父の遺骨だ」と浄光寺に、同じく見つけて来たお兄さんの首の骨と共に埋葬しました。
ユキさんは亡くなる昭和19年(1944)まで、会津戦争時の自分達のことを折に触れては家族に話して聞かせ、それが「万年青」という題で書留められてまとめられているのですが、そこで「あの戦争はあまりにもひどく、悲しいことが重なって、思い出しただけで涙が出てまいり、とても話す気にはなれないのです」と語っています。
悲しいこと、の中には、お兄さんとお父さんの骨を捜し歩いたこともきっと含まれていることでしょう。
そのユキさんも斗南に渡っており、僅かな施し米を貰えると聞いて吹雪の中を歩いていたところ、斎藤さんに助けられます。
その斎藤さんによって時尾さんのところへ連れて来られ、晴れて再会を果たすふたりですが、斎藤さんと時尾さんが夫婦になるのはまだ少し先・・・ですよね?
あまりに二人の空気が自然だったから、そう錯覚してしまいましたが(笑)。
ユキさんは、自分を助けてくれた男性が新選組だと知ると、はっと身を固くします。

何でこんな人ど!新選組は人斬りの集まりだど聞いだ。近所の人が言ってだ。長州が会津をこごまで憎むのは、新選組がやりすぎたせいだ。こんな仕打ぢ受げんのは、新選組何か雇ったがらだって
そうでねぇ!斎藤様達は、会津のために命懸げで働いでくれだ。最後の最後まで、共に戦ってくれだんだがら!

ユキさんに一言言わせて頂くと、長州が会津を憎むのは新選組のせいではありませんね、ハイ。
新選組はやり過ぎた、っていつか西郷さんもぼやいていたような気がしますし、ひと欠片もそうでないかと言われたら返答に窮しますが、全部が全部新選組のせいではありません。
長州に恨まれる理由は、もっと大きなところにあります。
つまり、「孝明帝の信用奪って、自分達を御所から追い出して朝敵にした」というのが一番根本にある気がします(八月十八日の政変~禁門の変)。
要は長州にとって会津は、自分達に一時でも朝敵の汚名を着せた張本人なのですよ。
ドラマを見てきた人々は、長州がやったことは朝敵にされても何らおかしくない、やり過ぎ行為ばっかりだったというのはお分かりでしょうが。
そういうことなので、別に新選組のせいじゃないでしょう。
会津が新選組雇ったこと後悔していたかとか、目に余ってたかとか言われると、むしろその逆で信頼寄せてましたし。
しかし澄江さんの発言が的確過ぎますね、「みんな生きるのが辛くて、恨みぶつける先を探してんだ」。
さり気無い台詞ではありましたが、重い台詞だったのではないかと、ひしひしと感じました。
理不尽な苦難に直面した人間は、誰かを恨むことで心の平静を保ったり、その憎しみで自分を支えようとするんですよね。
八重さんは、そんな恨みに塗れて生きるのは嫌だというようなこと(前に進みたい)を、先週言ってました。
ユキさんは、どうするのでしょうね。
近々薩摩藩士の方と結婚されるはずなのですが。

川崎尚之助と言う人物が、会津戦争中に会津を捨てて逃亡した男、という認識が、近年までされていたのは既にブログで何度か触れて来たことです。
その認識を覆す、即ち川崎尚之助史に大きな前進を与えたのがあさくらゆうさんだと言うのも何度か触れたことだと思いますし、その著書は私がブログを書く上でも大変重宝させて頂いております。
参考文献にも挙げさせて頂いてますし、以下の文章の殆どもその著書を参考にさせて頂いてます。
さて、では川崎尚之助史はどのように覆ったのか。
それは、「会津戦争中に会津を捨てて逃亡した男」から、「懸命に斗南藩の困窮を救おうとしてた男」に認識が改められました。
「きっと何が訳があって」の「訳」の部分を考慮する形で、この辺り補足させて頂きます。
尚之助さんが斗南の野辺地に到着したのは、明治3年10月、同月23日には開産掛を命じられて函館に渡っています。
函館に渡った理由は勿論、斗南藩の窮状を打開するためです。
尚之助さんは交易が盛んにおこなわれている函館で、商人との取引を成立させ、藩の資本を得ようとしていたのでしょう。
しかしビジネスをするにも、今の斗南藩には元手となるものが何もないので、出来る取引は先物取引だけです。
まず尚之助さんは、その先物取引に応じてくれる相手を探す所から始めなくてはならなかったのですが、それに応じたのが米座省三さんという、斗南藩商法掛を自称する人物でした。
実はこの米座という人が詐欺師だったのですが、そうとは知らない尚之助さんは米座さんの紹介の元、将来斗南で収穫される見込みのある大豆を担保に、デンマークの商人であるデュースさんと広東米の交換取引の契約を交わします。
これで米は手に入ったかと思いきや、事態は尚之助さんの思わぬ方向へと転がって行きました。
まず米を受け取るべく、明治3年12月19日に尚之助さんが米手形を出そうとしたところ、その米手形がありません。
何でも米手形は、米座さんがイギリス商社、ブラキストン商会に預けたのだとか。
米手形がなければ米が手元に来ないので、尚之助さんは預けられている米手形を取り出そうとしますが、ブラキストン商会から借用証を書くように言われます。
そこで米座さんと共に署名した借用証を同月20日にブラキストン商会に持って行った尚之助さんですが、今度は拒否されます。
実は米座さんは、ブラキストン商会から個人的に250両の借金をしており、それが完済されない内は米手形を渡すことが出来ないと尚之助さんは言われてしまいます。
米座さんは逃亡し、尚之助さんはここに至って米座さんに騙されていたことに気付きます。
斗南藩商法掛何て真っ赤な嘘で、米座さんの正体はただの出入り商人でした。
しかし、米座さんは斗南藩士ではありませんので、彼の作った借金250両も、それが完済されているされていないも、斗南には与り知らぬところです。
それより米手形を、と求める尚之助さんでしたが、ブラキストン商会はそんなの関係がない、と尚之助さんの言い分を突っぱねます。
やむなく尚之助さんはブラキストン商会に対し、訴訟を起こすのですが、ここからまた更に状況が複雑化します。
そうです、取引相手だったデュースさんが、期限になっても大豆が入荷されないことに怒ったのです。
実は尚之助さんが栽出来ると見込んでいた大豆ですが、結局斗南ではその栽培に成功しませんでした。
なので尚之助さんからすれば、入荷したくても物がないし、そもそも大豆と取引した広東米は米座さんのせいで未だに尚之助さんの手元にはありません。
が、それはデュースさんからすれば尚之助さん側の事情であり、怒った彼は尚之助さんと米座さんを詐欺罪で訴えます。
これが明治4年3月末の出来事。
同年7月11日に米座さんが東京で逮捕され、ブラキストン商会との一件は米座さんが単独で仕組んだ仕業ということで落着し、同年12月には念願の米手形が斗南藩に渡ります。
米手形が来たということは、広東米が斗南に来たということで、一件落着・・・と思いたいのですが、更に事態は続いたのでした。
つまり米相場の関係で、米を換金しても、契約時の3分の1程度の1582両にしかならなかったのです(契約当時の相場だと4500両)。
この差額約3000両を損金として、全額弁済してくれないと、詐欺罪で訴えた裁判の和解には応じないとデュースさんは言います。
ドラマで出て来た、「3000両近い賠償金」というのは、おそらくこの3000両のことを指しているのだと思います。
まあそれで、藩民全員の明日の米さえ危うい状態の斗南藩が、3000両何て大金を払うことが出来るわけありません。
尚之助さんも、この支払い責任が今の状態の斗南藩に向けられたら、斗南藩の人間全員を路頭に迷わすことくらい分かっていたでしょう。
なので、斗南藩の指示でやったのだろうと言われても、

いいえ、藩命では御座いませぬ。・・・全て、私の一存で執り行ったことに御座います

そういって藩に迷惑が及ばないようにしたのですね。
供述記録によれば、尚之助さんが斗南は無関係、独断でやったこと、というのを言ったのは明治5年6月のことみたいです。
で、時間軸を少し遡って、八重さんに離縁状を送って来たのは明治3年3月以降のことだとは思いますが、その頃の尚之助さんってごたごたに巻き込まれてる真っ最中か、函館で資本求めて物凄く苦労してる最中です。
今回時間軸が非常に整理しにくい物語の運びになっていますが、「訳」は尚之助さんがそう言う立場に立たされていたからだと思います。
勿論、そんな「訳」を米沢にいる八重さんが知る由もないのですが・・・。
で、斗南藩の対応としては、広沢さんが尚之助さんの米の買い付けは、斗南藩のためにやったことだから捨て置けない、というものの、浩さんは3000両の借金を払って尚之助さんを救うことより、尚之助さんを切り捨てて藩に害が及ばない決断をします。

にしは・・・川崎殿を見捨てるお積りが!それでは、あまりにも!
鬼だ!・・・鬼だ俺は

さぞや断腸の思いだったでしょう。
でも実質上藩民全ての命を預かっていると言っても過言ではない浩さんは、感情論に走れないのですよね、巻き込むものが多すぎるから。

明治2年に、戊辰戦争の論功行賞が行われるのですが、主立って取り立てられる比重は薩長出身者に偏っていました。
そうなると、重要ポストを巡って薩長が反目すると言いう流れも然ること乍ら、それって徳川幕府が薩長幕府に首がすげ代わっただけじゃないの?と首を傾げる者もしばしば。
中でも、木戸さんと西郷さんの間には確執が生まれていました。
特に木戸さんが西郷さんに不信感を募らせた経過は、ちょっと今回割愛させて頂きますが、このふたりは新政府に於いて、参議に就任していました。
ところが、西郷さんには他の参議や各省の卿や大輔などといった高級役人を一旦全て辞職させ、適切な人物を任命しようという考えがありました。
一方で木戸さんは、まず廃藩置県を行って官制を改革し、そこから人事に着手すべきだと主張していました。
結局この主張は木戸さんの方が通り、新政府は廃藩置県に踏み切ります。
何より新政府、笑えるほどにお金がないのです。

新政府を築くのに、お銭がのうてはどうにもならん。役に立たん士族らは、もう面倒見てられやしません
じゃから今こそ、政府が全てを握るべきです。藩を廃絶し、その代わりに県を持ちます。土地に縁故のない人間を長として送り込むんじゃ
そいでは武家の世を、すっかい終わらすっちゅうことになってしまいもんど
いずれは、やらにゃあならんこと。第二の王政復古です
じゃっどん、藩を潰せば二百万の武士が職を失うこつにないもんど
また、戦になっかもしれもはん

大抵抗が予想される廃藩置県。
そのために西郷どんが呼ばれ、親兵を設置し、大隈重信さんと板垣さんも参議に任命されます。

兵はおいが引き受けもんす。じゃっどん、こん廃藩置県、万一失敗じゃった時には、全員腹を斬る覚悟でおってくいやんせ。武家の世に幕を引くっちゅうとは、そいほど重かこつごわんで

親兵という武力を背景にした、一種のクーデターですね、廃藩置県は。
廃藩置県の詔が下ったのは明治4年(1871)7月14日ですが、もしこれに反対する藩や人物がいたら、西郷どんがこの親兵を使って屈服させるという図式です。
つまり、廃藩置県の構想は木戸さんだったかもしれませんが、実行出来たのは西郷どんの力あってこそだったのです。
でもまあ、反乱分子が出てこないはずがありませんよね。
だって、会津藩のように「戦に負けた組」なら兎に角、「戦に勝った組」の自分達がどうしてそんな目に遭わなきゃいけないのだと、納得しかねるでしょうし。
余談ですが、実はこの廃藩置県、西郷どんの故郷薩摩の久光さんは最も強硬な反対者でして、この実行に激怒しています。
まあ、西郷どんは久光さんとはずっとしっくり来てない関係でしたので、久光さんが怒ろうが如何なろうが、西郷どんの中ではどうでも良いことだったでしょうが。
しかしあの協議の場で、「武士の世の中終わらせる」ことの本当の意味が見えているのは、西郷どんと岩倉さんくらいじゃなかろうかと言う気がしました。
西郷どん、贅沢なな暮らしして威張る西洋かぶれの役人に嫌気がさしてましたから。
だから、そんな人間らが武士の世の中終わらせると口先だけで言ってるように聞こえるけど、本当に意味分かってるのか?本当に重みが分かってるのか?となってるのではないかかなと。
で、本当にその意味が分かってた西郷さんだから、西南戦争に巻き込まれて行ってしまったのかなぁ・・と。

廃藩置県が施行されると、斗南藩もなくなります。
浩さんが、尚之助さんを蜥蜴の尻尾のように切り離してでも守ろうとした斗南藩がなくなるのです。
今まで藩というものに、武士は俸禄を貰うという形で養われていたようなものですが、その藩が無くなってしまっては養い手を失うことになり、且つ武士が武士である意味も根本から揺らぎます。
主にさぶらうと書いて侍、即ち武士です。
藩が無くなれば、その主=藩主の存在もなくなるということですから。
藩でなくなった斗南には、新政府から役人が来て治めることになります。
つまりここに、生き地獄を耐え抜きながらも夢見て来た会津再興の望みが潰えたのです。
生活力のない武士は既にお払い箱。
では武士だった者はどう生きて行くべきかというので、栄達を目指すなら学問を究めるか軍人になるかですね。
『坂の上の雲』の舞台はもう数年先ですが、秋山真之さんが母親から「貧乏が嫌なら学問をしろ」と言われていたのも、長州派閥に冷遇されていた松山藩出身者のレッテルを持っていたが故のことでしょう。

廃藩置県のお達しに八重さん達も驚きを隠せませんが、そこに重ねるように驚くべき報せがもたらされます。
やって来たのは獄中、覚馬さんと一緒に居続けた野沢さん。
彼は手紙と共に、覚馬さんの消息を山本家に持って来たのです。
覚馬さんが生きていたことに喜ぶ山本家ですが、覚馬さんの状況を聞いている内に、八重さんは去年覚馬さんが牢から出された「去年」の部分に引っ掛かりを覚えます。
つまり、牢から出た去年から今まで、どうして放って置かれたのか。
どうして去年から今までの間に、自分で会いに来ようとしてくれないのか、人を寄越すのか。
京都へ皆を呼びたいという覚馬さんの申し出をどう思うよりも先に、八重さんのもやもやは募って行きます。
何より、野沢さんはどうも何か重要なことを隠している。

どなたが・・・おいでなのがし?身の回りのお世話は、誰が?

ここでようやく野沢さんの歯切れの悪さの理由が判明します。
つまり、覚馬さんには時栄さんという人がいて、ふたりの間にはこの春に女の子が生まれたと。
視聴者はずっと時栄さんの存在を知ってましたので、遂に山本家の耳に入ったか・・・と言うような感じですが、うらさんからすれば愕然とする事実ですよね。

その頃の覚馬さんと言えば、二条城に定められた京都府庁で、府参事の槇村正直さんと会っていました。
現在の場所に京都府庁(ちなみに京都守護職屋敷跡)が出来たのは明治37年ですので、覚馬さんが京都の行政に関わっている間の府庁は二条城でした。
槇村さんは長州藩士で、木戸さんに重用されており、京都府権参事の二代目ですね。
『管見』の見識を買われた覚馬さんは、その槇村さんの顧問のような形で新政府に出仕していたのですが、この時点では廃藩置県が終わっているので、正式に京都府十等出仕扱いの身分です。

帝が東京にお移りになられて、都はすっかり寂びれてしもた。元の如く、いや前よりももっともっと、繁華に立て直さにゃーなりません
立派な仕事です。まずは人材の育成。これがらは女にも、教育を授げるごどが肝要ど存じます
その通り。先生が獄舎で書いた建白書にもそうありましたな。あれには目を開かされた。こげな知恵もんが賊軍にもおるんかと・・・あ、これは失敬。力を合わせ、都を一新させましょう
はい。私の命は、そのために拾ったものど思っております。精一杯努めます

以前の記事で、「都の座を奪われた後の明治の京都の町と、覚馬さんは、切っても切れない密接な関係にある」と書きましたが、その関係が槇村さんの言葉にあります。
つまり、明治政府は遷都ではないとは言張るものを、実質遷都以外の何物でもない明治天皇のお移りが実行され、天皇が東京にいるのですからまず公家がそれに伴って東京に移住します。
町人らも東京や大坂に移住し、人口流出により京都は人口が激減、町は寂れて活気を失います。
それを復興させるべく、尽力していく・・・というのが後半の覚馬さんの主な生き方になります。
今もなお京都で行われる都踊りなども、覚馬さんと槇村さんの行った復興の一環だったと思います。
勿論失敗に終わってるものもありますが、今の京都にちゃんと残ってるものもあるのですよ。

と、まあ覚馬さんは無事で、しかも京都でなかなかに活躍しているという知らせを受けて、うらさんは喜びたいのに喜べません。
勿論それは、時栄さんの存在を知ってしまったから。
そんなうらさんを見て、八重さんは覚馬さんに文を書くと鼻息を荒くしながら、京都には行かないと佐久さんに言い放ちます。

覚馬に会わねぇつもりが!死んだものど諦めかげでだ覚馬が、折角生ぎでいだのに
あんつぁまが会いに来たら良い
京都府顧問というお役目があって、来たくても来られねぇんだべ
京都府の役人は、薩長の者達だべ。あんつぁまは、なじょしてその下で働いでんだ?おっかさまは悔しぐねぇの?
訳があんだべ。会って話してみねぇど、何にもわがんねぇ
姉様のごどは?あんつぁまのお戻りを待って、みねを立派に育てて来たのに・・・こんな仕打ぢ、あんまりだ。家にいるおなご、まず追い出して貰うべ。そうでねぇど、姉様とみねを連れで都には行げねぇ!
んだら、覚馬の娘も追い出せど書ぐのが?その子を、家がら放り出せど書ぐのが?私達が覚馬は死んだがど思ってたように、覚馬も、山本家は死に絶えだど思ってたのだもしんねぇ

何だか今回は、「訳」という一言に集約される意味が各場面でありすぎるようにも感じますが(苦笑)。
まあ、ここは佐久さんが正論ですよね。
覚馬さんが詳細は「会ったら話す」と言うようにしか伝えて来てない以上、会わない内からは何も言えないのですよ。
この伝え方がそもそも少し卑怯だな~と感じなくもないですが(苦笑)。
そしてそれから数日後、うらさんは佐久さんと八重さんに、いつ都に行く予定だと尋ねます。
そして、みねちゃんも都に連れて行って欲しい、でも自分はこっちに残ると。
都に行くならうらさんも一緒にという八重さんに対して、佐久さんは覚馬さんのことが許せないのかと静かに問います。

ずっと考えでおりやした。京都に行って向ごうの親子ど、一づ屋根の下で暮らせるものか・・・
あんつぁまの妻は姉様だ。遠慮はいらねぇ、堂々としてたらいい
そんなごど、出来んべが?こんな荒れた手で、顔もくすんで、すっかり歳取っちまった。都の若い娘に焼きもちも妬かず、堂々どしていられんべが?きっと、旦那様に恨みぶっつげる。向ごうのおなごを憎んで、繰り言を重ねる。そんな情げねぇ母親の姿、みねには見せたぐねぇ。私が行ったら、みねのためにならねぇべ・・・。私にもおなごの意地がありやす

一度も会わなくて良いのかと確認する佐久さんに、覚馬さんには赤い櫛が似合っていたころの自分を覚えていて欲しいから、と言ううらさん。
・・・本当、「女の意地」ですねぇ~。
でも凄くよく分かります。
好きな人に思い出してもらう自分は、いつも綺麗でいたいのです。
よく「別れたくない!別れるなら死ぬ!」とか泣き喚く潔くない現代女子もいますが、それは見苦しい。
実際問題、覚馬さんは目がもう見えてないので、若かろうが何だろうが、見えないから関係ないんです。
でもそこじゃないのよね、うらさんのいう女の意地は。
手が荒れてようが、顔がくすんでようが、見た目じゃない。
うらさんにとって大切なのは、覚馬さんの中にある自分像を、如何に綺麗なまま保っておけるかということなのです。
男性視聴者諸君はこの辺りの女の心境をどう受け止められるのでしょうか・・・。
そしてみねちゃんとうらさんの、別れの日がやって来ました。
おっかさまと離れたくないと泣くみねちゃんに、うらさんは覚馬さんから貰った宝物の赤い櫛を持たせて、送り出します。
一見思い出以外覚馬さんに連なるものは、これですべて手放したように見えるうらさんですが、これって覚馬さんがみねちゃんの持ってる赤い櫛を見るたびに、否応なしにうらさんのことを思い出さざるを得ないということになりますよね。
うらさん自身がそれを狙ったのかどうかは知りませんが、ただ覚馬さんの両目は光を失ってしまってるので、意図を含んでの行動だとしても肝心の覚馬さんに櫛は見えないという悲しい落ちが・・・。

山川家には、浩さん、二葉さんの他に、官費留学でアメリカに留学している健次郎さん、会津藩士の小出光照と結婚した操さんなどがいるのですが、末娘の咲さんは斗南にいた頃、浩さんの提案で函館に行かされ(里子に出されたとも)、そこで住込みの勉強を始めました。
誰のところかは諸説あるようですが、外国人宣教師のところだったみたいです。
その函館では北海道開拓が始まっており、責任者の黒田清隆さんはアメリカの西部開拓を見習おうと、何人かアメリカに留学生を送ります。
健次郎さんが含まれたのはこの留学生組だったのですが、清隆さんはアメリカの女性の地位の高さを知って、女子も留学させるべきだと考え、女子留学生も募りました。
留学期間は10年、費用は全て国家負担で、年間800ドルの手当も支給されるという破格の留学待遇だったにもかかわらず、一次募集には応募がなく、二次募集で5人集まったそうです。
この5人の中に、12歳の咲さんと、そして有名な津田梅子さん(当時8歳)がいました。
敗戦、斗南行、廃藩置県・・・と苦労の出来事続きでしたが、山川家の皆様は懸命に前に進もうとしています。
が、そんな時、平馬さんが浩さんの前で、二葉さんに山川家に戻るようにと言います。
この場合、つまりは離縁ですね。
姉に何か至らぬことがあったのかと膝を進める浩さんに、平馬さんは首を横に振ります。

いや、何も不足はねぇ。俺には過ぎた妻だ。んだげんじょ・・・今はそれが重い。東京でやり直す気力が、もう俺にはねぇ。・・・こごに穴が開いぢまった」

別れるのは嫌だと言う二葉さんですが、平馬さんは自分を抜け殻だと言います。
会津も斗南もなくなって、心が折れたのでしょうね。
そんな時に、しっかりものの奥さんの存在は確かに重いでしょう。
あ、なんか自分もしっかりしてなくちゃいけないのかな、って気負うか、支えられることを申し訳なく思って気が滅入るかしますので。
この後平馬さんは北海道に渡り、第20回でも出て来た水野貞さんと再婚して、教育者としての道を歩んだのであろうと言われています。
北海道に渡った後の経緯はよく分かっておらず、平馬さんのお墓が見つかったのでさえ、昭和63年(1888)のことでした。

明治4年(1871)10月、八重さん、佐久さん、そしてみねちゃんが京都に到着します。
住所を片手に辿り着いた一軒の家には山本覚馬の表札が。
扉を開けて、訪いの声を掛けて出て来た女性に、八重さんの顔は強張ります。
どころか、目に殺気すら宿っていたような気がしなくもないです。
覚馬さんの家は、河原町御池通りにありまして、新門辰五郎さんのお屋敷跡でした。

(現在地周辺はこんな場所です)
百坪の敷地に、台所付で部屋が五つあったこの物件を、36圓で買い取ったのです(ちなみに覚馬さんの月給は45円)。
ぱっと見て頂いても分かると思いますが、斗南で苦労して来た人たちや、米沢で行商を続けてその日暮らしを続けて来た八重さん達とは違って、覚馬さんは破格ともいえる待遇を受けております。
応対に出た時栄さんが、八重さん達を玄関に案内しようとすると、廊下から壁伝いの手探りで覚馬さんが現れます。
八重さんと、佐久さんと、みねさんの存在を確認する覚馬さん。
うらさんの名前が出てこなかったのは、おそらく事前に手紙か何かで伝えていたのでしょう。
そもそもいつ頃京都に到着予定です、の連絡もなしに八重さん達が京都に行くとも思えませんし。
覚馬さんが失明したことなど知らなかった佐久さんは、その姿はどうしたのだと訊きます。
ここで、八重さんが気にしていたこと、即ち何故覚馬さんがすぐに自分達を捜しに来てくれなかったのか・・・などなどの「訳」が判明します。

こんな体になっつまって、探してやるごども、迎えに行ぐごども出来ながった。すまながった・・・助けに行ってやれなくて。会津を守れず、滅びるのを止められながった。すまながった・・・

そうして実に9年ぶりの涙の再会を果たした八重さん・佐久さんと覚馬さんではありましたが、その感動とは真逆の温度差を以ってそれを眺めているみねちゃんが印象的です。
みねちゃんは赤子の時に分かれた覚馬さんのことを覚えてないので、「誰?この人」という状態なのでしょうね。
しかもこの人が余所に女の人作ったから、自分はおっかさまと離れ離れにならなきゃいけなかったんだと分かると、心中複雑でしょうね・・・。
みねちゃんと覚馬さんと時栄さんの関係は、今後どう描かれていくのでしょうか(苦笑)。
しかしながら当時の時代感覚としては、妾(時栄さん)の存在は当たり前だったというか、少なくとも責められるものではなかったです。
まあそういう風習の時代だったので、多分山本家の皆様も、都にいる覚馬さんに妾がいないとも限らないなとは思ってたはずです。
1ミリも考えてなかったはずはない。
山本家の皆様が「もし妾がいたら」の延長線で、妾との間に子供がいることも想定してなかったわけではないでしょう(吃驚はするでしょうが)。
そもそも盲目になった覚馬さんにとって時栄さんは、言葉悪いけど使い勝手の良い優秀な使用人だったわけですよ。
で、使い勝手良いので長く傍に置いてたら戦が起こって、何だかんだしてる間に「お嫁に出すにはちょっと自分と近い距離で長居させすぎた」となったから、囲ったんじゃないかと。
だって時栄さん、お嫁に行くのに外聞悪いでしょ。
年頃の娘が盲目とはいえ5年近く男の家に通って世話してた、というのは。
で、その外聞の原因が自分にあるなら、囲ってやろうかとなったのが、覚馬さんなりの時栄さんへの責任の取り方だったと思うのですよ。
だから覚馬さんが時栄さんを囲った経緯は、男女の恋愛感情よりも先に、「責任を取る」という義務が来ているような気がするんですけどね。
視聴者からすれば(特に女性視聴者は)、うらさんをずっと見て来ただけに色々心中複雑になるとは思いますが、史実でうらさんが何て言ったのかは知りませんが、覚馬さんはうらさんを京都に連れて来るなとは言ってません。
うらさんが拒んだ。
つまり、覚馬さんから見れば手を放したのはうらさんなのです。
何でうらさんが手を放したかというと、ドラマですとそれが「女の意地」で先程触れたように上手く表現されてたと思います。
別に正室と妾が同居するのも、時代的な感覚としては珍しいけどおかしくはないのですよ。
覚馬さんの尊敬する象山先生や勝さんも、そんなことしてましたしね。
でもうらさんは、一緒に住んでても、自分は正室でも、嫉妬はするし、時栄さんに普通に接せるかも分からない。
嫌なことばっかり言う女に成り下がるかもしれない。
そんな女になった自分を覚馬さんの前に見せつけるって、それは完璧武家嫁を貫いてきたうらさんには許せないことなんですよ。
「赤い櫛が似合っていた頃の私を覚えていて貰いたい」というのは本当難いほど上手い台詞でして、覚馬さんの記憶の中のうらさんは、「完璧武家嫁」のうらさんのままで終わってる。
それを悪い方に更新させるよりはと、うらさんは思ったのです。
きっかけはどうあれ、手を放したのはうらさんの方。
・・・ではありますが、特に女性視聴者は「時代背景は分かるけど」ともやもやしてて良いと思います。
実際私も、感動すべき再会シーンのはずが、色々苦いものを感じてほろりとも来なかったので(苦笑)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年8月1日木曜日

第30回「再起への道」

会津戦争から半年が経った、明治2年(1869年)2月。
アメリカのマサチューセッツ州にあるアーマスト大学内の礼拝堂で、聖書を手に一心に祈っているのは、随分お久し振りの登場の襄さんです。
襄さんがボストンの土を踏んだのが、1865年(慶応元年)のこと。
その後アントンヴァーにあるフィリップス・アカデミー英語科に入学し、翌年アントンヴァー神学校付属教会で洗礼を受けています。
1867年(慶応3年)6月にそこを卒業した襄さんは、9月にアーマスト大学に入学しました。
襄さんはアーマスト大学が初めて受け入れた日本人学生で、今では26歳になっています。
枝葉になりますが、「少年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士ことウィリアム・スミス・クラークさんに化学を教わったみたいです。
学長のジュリアス・ハーレー・シーリーさんに、日本で革命が起こって明治という新しい時代が始まったのだと襄さんは言います。

しかし同じ国の人間が争った傷は深く、痛みはたやすく消えない。報復のために、また戦が起こりはしないかと・・・。互いに恨みを捨て、神の愛と正義のもと、新しい国作りがなされますように・・・。死者と、残された者のため・・・。そして、悲しみ、憎しみ、恨む心を癒し給え

「八重の桜」前半部分のテーマが、幕末の会津の正当性と拙さと、歴史の流れを会津視点から追うことによって、薩長史観からではない幕末を描くことだったのだとすれば、襄さんの言葉は「八重の桜」後半部分の大きなテーマでもありますね。
時代が明治になって、しかし負けた藩の人々の傷は消えませんし、報復のためというのは少し謎ですが、西南戦争が起こる。
日清・日露戦争の頃まで軍の中では薩長出身者が出世街道に乗れ、負けた藩の出身者にはいつもハンデがあった。
明治維新と呼ばれる革命の尾が、色んなところで濃厚に尾を引く中で、それらを「癒し給え」と言えてしまうのはなかなか超絶的なようにも見えますが、それは彼がキリスト教であり、アメリカにいることで日本ではない視点から日本のことを見られるからでしょう。

とうことで、始まりました明治編の30話。
会津戦争中、改元の詔によって元号が既に明治に変わったことは以前の記事で触れた通りです。
少し時間軸が遡りますが、慶応4年7月17日(1868年9月3日)、通称「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」と呼ばれるものが発せられ、江戸が東京になります。
かねてより新政府の中には、明治天皇を中心とした新しい国と政を展開すべく、遷都を行おうという声がありまして、その候補地として大坂が有力視されていましたが、やがて江戸が最有力候補地になりました。
しかし千年以上都として栄えて来た京都を離れると言うのは、公家や宮中の保守派、京都市民にとっては考えられないことであり、事は慎重に運ばれました。
そう言う背景もあったので、「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」では「江戸が東国第一の大都市且つ要所であるため、天皇がここで政を行う」とし、それはつまり政治の中枢と天皇が京都から動くわけですので「遷都」になるのではないかと思うかもしれませんが、遷都ではなく「東西両都」という方針を、公家や宮中の保守派、京都市民らへの配慮から取ることにしました。
なので、「東」の「京」なのですね。
飽く迄京都から見た名付け、ということになっております。
明治元年10月13日(1868年11月26日)、東京に行幸した明治天皇が江戸城に初めて入り、その日江戸城は「東京城」と改称され、皇居と定められます。
これらの流れから、「遷都」と明確には言っていないものの、事実上都が京都から東京に移っている、あるいは移そうとしているのは誰の目にも明らかです。
新政府としても、さっさと東京に遷都したかったのでしょうが、事は慎重に進められ、「東西両都」の方針の元、明治天皇は東京と京都を行ったり来たりする羽目になります。
結局明治3年(1870年)3月14日、明治天皇の京都還幸の延期が伝えられ、そのままずるずると「遷都」の二文字が明確に出されていないだけで、ゴリ押しのように都は東京という風になって行きます。
何故こんなことをずらずら書いているのかと申しますと、都の座を奪われた後の明治の京都の町と、覚馬さんは、切っても切れない密接な関係にあるからです。
その辺りのことはまたその場面に差し掛かった時に触れるとして、さて本編に入りましょうか。

会津戦争後、故郷の会津を離れた山本家は米沢藩にいました。
どうしていきなり米沢藩に御厄介になっているのか、作中で思いっきり飛ばされたので急なことに見えるかもしれないので、少し補足させて頂きます。
会津戦争が勃発する前、米沢藩から藩士43人が砲術修行として会津に来ていたというのは既に以前の記事で触れました。
それに加えて山本家には、奥州列藩同盟の米沢藩との連絡役として遣わされた米沢藩士が逗留していました。
尚之助さんも、砲術修行に来た米沢藩士に指導を行っていましたし、つまり山本家は米沢藩士の宿舎兼学校のような場所になっていたのです。
そのご縁があって、八重さん達山本家はその修行に来ていた米沢藩士の一人、内藤新一郎さんの家に厄介になっているのです。
米沢藩に移ったのは何も山本家に限ったことではなく、米沢と会津の藩同士の関係も相まって、多くの会津藩士が戦後米沢に移住しました。
列藩同盟の片翼だった米沢藩ですが、藩士の宮島誠一郎さんが奔走したお蔭で、戦後処分の領地削減は18万7000石が14万7000石(※数値訂正しました)になっただけです。
23万石(実質は30万石ほど)を悉く没収された会津藩と比べると、変な言い方になりますが、頼られても大丈夫な家や余力ある家が多かったのでしょう。
ちなみに仙台藩は藩主父子東京に謹慎の上、62万石から28万石に減封、玉虫左太夫さんと若生文十郎さんは処刑、長岡藩は藩主東京に謹慎の上、7万4000石から2万4000石に減封、盛岡藩は23万石から13万石に減封、庄内藩は藩主東京に謹慎の上、17万石から12万に減封となりました。
こう見ると、特にもう片翼の仙台藩と比べると、米沢は処分がまだ軽い方で済んだことが数字の比較でも良くお分かり頂けると思います。
しかしそれでも、ただ飯を女四人分食べさせてもらうだけの余裕が内藤家にもあるわけではないので、八重さんは行商で日々の生計を立てていました。
売るのは主に反物や、それで作った布製品。
今日も今日とて精を出して、みねちゃんとそれを売り歩いていると、会津藩士の未亡人の千代と言う女性に出会います。
あちらは、戦で鉄砲隊を率いていた八重さんを知っていたようで、しかしそう言われた八重さんの表情はやや複雑そうなものでした。
そこへ田村屋宗右衛門という男が出てきて、八重さんたち武家が商いをしていることに同情し、反物を一反買ってやるように言います。
みねちゃんには、食べるものにも苦労しているだろうと蕪を渡そうとしますが、「いらねぇ」とみねちゃん。
うらさんはしっかりみねちゃんを武家の娘として育てたようで、どれだけ貧しくても施しは受けないということですね。
結局八重さんが蕪を頂くことでその場は収まりましたが、武家の誇りはもうずたずたでしょうね、八重さん達。
でもその痛みを抱えて、女四人で力を合わせて生きて行く。
しかし、PTSDのようなものに魘される八重さんは、見ていて痛ましいです・・・。
ちなみに戦に敗れた旧会津藩士たちは「会津降人」と呼ばれていました。
またこのとき、彼らの故郷には「白河以北一山百文」という汚名を着せられていました。
先程八重さんが売っていた反物が一反500文でしたので、一つの山が反物二反と同価値であると見下されていたのです。

戦後の会津藩の処分について、寛典論と厳罰論に分かれ、木戸さんはやはり長州だからか、容保様の処刑を主張して譲りませんでした。
結論としては死一等を減じ、永禁錮、城と領地の没収と言うことになりました。
しかし、それでは会津の戦争責任は何処へ行くのかという話になります。
これについては、照姫様の実弟、ご実家の上総飯野藩保科正益さんが、この件の首謀者は田中土佐さん、神保内蔵助さん、萱野権兵衛さんの三人だと朝廷に上申しました。
前者の二人は既に故人となっておりますので、事実上は萱野さんが一身に全てを背負わされることに、これではなってしまいます。
そんな話が明治政府に通るわけがないだろうと思われるかもしれませんが、会津藩が土佐藩や米沢藩、薩摩藩などに働きかけ、実質上の犠牲者は萱野さんひとりだというのを認めさせたのです。
勘の良い方はお分かりだと思いますが、萱野さんは席次で言うと四番家老でしたので、もし西郷さんが城を出ていなければ、萱野さんが腹を斬る必要はありませんでした。
西郷さんがいないから、萱野さんにお役目がスライドしてきたのです。
そして明治2年(1869年)5月18日、萱野さんの刑執行日がやって来ます。
刑の前に麻布広尾にある保科家に、大蔵さんと平馬さんがやって来て、萱野さんに詫びを言います。

此度は・・・戦の責めを一身に背負って頂き、まことに・・・申し訳ございやせん
城中にて戦の指揮を執ったのは私でごぜえます。まことは、私が・・・私が腹を斬るべきところを・・・
馬鹿者、皆で死んでなじょする。一身を以って、御主君をお守りするのは武士の誉れだ。このお役目、にしらには譲れぬわ

仮にもう後二人、故人分の首を差し出せと言われたら、間違いなく大蔵さんと平馬さんの首がそれになったのでしょう。
ですが、そうしてしまっては会津再興の目途が立たなくなりますので、会津上層部はそうならないようにしました。
結果この二人は首が繋がったのでしょう。
そんな萱野さんへ、容保様の文が差し出されます。
今般御沙汰之趣、竊ニ到承知恐入候次第ニ候。右ハ全ク我等不行届ヨリ斯ニ相至候処、立場柄父子始一藩ニ代リ呉候段ニ立至リ、不堪痛哭候、扨々不便之至ニ候、面会モ相成候身分ニ候ハハ是非逢度候ヘ共、其儀モ及兼遺憾此事ニ候。其方忠実ノ段、厚心得候事ニ候間、後々ノ儀ハ毛頭不心置、此上為国家潔ク遂最後呉候様頼入候也 五月十六日 祐堂 萱野権兵衛へ(星亮一、1995、奥州列藩同盟、中公新書)

この手紙の趣旨をまとめると、ドラマにあったように「権兵衛、ひと目だけでも会いたかったが、今の身の上ではそれも許されぬ。そなたの忠義、終生忘れぬ」と言うことになるのでしょう。
目頭を熱くする萱野さんに、更に青山の紀州藩邸に預けられている照姫様からの歌が寄せられました(ドラマで映っていたのは歌だけでしたが、本当は歌だけでなく手紙部分もあります)。
そこには「夢うつつ思ひも分かず惜しむぞよまことある名は世に残れども」と書かれており、容保様と照姫様のこのときの文と歌は、現存しております。
機会があって目にすることが御座いましたら、どうかこのときの場面を思い出して下さいませ。

まことある名は、世に残れども・・・。ありがたい。これほどの、ご厚情を受けて、わしは幸せ者よの。ただひとつ、無念なのはな、会津が、逆賊の汚名を晴らす日を、見届けずに死ぬことだ。戦で奪われたものは、戦で取り返すのが武士の倣い。頼むぞ!そうでねぇと・・・そうでねぇと・・・、死んだ者たちの無念が晴れぬ!!!

そうして想いを託し、萱野さんはその場を去ります。
表向きは、戦争責任を取るということで斬首を言い渡されていた萱野さんですが、保科家の温情で武士として切腹の形を取ることが許されました。
しかし、萱野さんの言葉で少し気になったのが、「戦で奪われたものは、戦で取り返せ」と、復讐を煽っていたこと。
前者の「戦」と後者の「戦」は含まれている意味が違うのかとも検討しましたが、そうでもないようですし・・・。
何と言いますか、会津の家老としての無念は察しますが、でも家老の最後の言葉らしくない、非建設的な言葉だなと感じてしまいまして。
それに、容保様の最後の君命は「生きよ」だったじゃないですか。
これは復讐するために生きろ、と言うわけじゃないですよね。
会津の民ひとりひとりがあってこその「会津」だから、容保様は皆に生きて欲しかったわけで。
「死んだ者たちの無念」というのは、生き抜いた先に晴れさすことが出来るのであって、復讐でそれを晴らすのは、容保様の君命と照らし合わせても何か違和感を覚えるなぁ・・・と。
とてもいいシーンのはずだったのですが、台詞後半に何だか妙な引っ掛かりを覚えてしまいました(苦笑)。

そして権兵衛さんの刑が執行された日は、奇しくも、箱館戦争終結と同日でした。
箱館の五稜郭に拠点を構えた旧幕府軍ですが、北の大地まで転戦を重ねた土方さんは一本木関門の乱戦の中で5月11日に落命し、18日に総裁の榎本さんが降伏を決意します。
鳥羽伏見の戦いから1年半、戊辰戦争がようやくここに幕を下ろしたのです。
降伏の日、榎本さんと盃を交わした西郷さんは、本当は自分の役目だったのに萱野さんひとりに責めを負わせたことを申し訳なく思いながら、そっと呟きます。

わしは・・・生きる。千恵・・・わしは生ぎっぞ。わしらの会津を、踏み潰してった奴らが、どんな世の中作んのが、この目で見届けてやる

箱館戦争後、西郷さんは上州館林藩国許お預けになりました。
切腹した萱野さんや、それに同調した大蔵さん達とは違い、西郷さんは復讐心は灯ってないように見えました。
ただ、「見ていてやる」と、ある意味達観の境地に至っているとでも言いますか。

みねちゃんと田村屋の千代さんを訪ねた八重さん。
八重さんは千代さんの息子、長次郎さんの槍を見てあげるのですが、その時千代さんから鉄砲を教えて欲しいとせがまれます。
常の八重さんならば・・・というより、会津時代の八重さんなら喜んでそれを引き受けたことでしょう。
しかし今の八重さんは、首を縦に振りませんでした。
八重さんなら絶対に教えてくれると思っていたのでしょう(同じ会津の女性ですから、自分の復讐心も分かってくれるだろうと思ってたのかな)、しかし芳しい返事を貰えなかった千代さんは声を荒げます。
薩長に恨みを晴らしたくないのかと詰め寄られる八重さん。
八重さんとで恨みを晴らしたくないわけではなさそうですが、どうにもそこへ踏み込んでしまえない何かが彼女の中にはある様子(これは最後の方で判明します)。
薩長への憎悪と、強くなって薩長に一矢報いるようにと我が子に言い聞かせる千代さんを、八重さんは複雑そうな目で見つめます。
会話を聞きつけた中村屋さんが、「毎日毎日仇を討てだの恥を雪げなど、同じ繰り言並べて、辛気臭くてかなわんわ。会津、会津と念仏のように唱えでるけども、そだな国はもうとっくに潰れてなぐなった。落ちぶれ者が。食べ物が欲すければ裏に回れ。会津の者なんぞがずうずうしく屋敷に上がりやがって」と、物凄い暴言を吐きます。
怒ったみねちゃんを千代さんが庇い、その千代さんが殴られて八重さんは彼女が生きるために田村屋さんの妾になったことを知ります。
この期に及んで会津への侮辱を止めない田村屋さんに、八重さんは稽古用の槍を取り上げて一瞬で田村屋さんをやり込めますが、千代さんに止められます。
八重さん、目が本気だったので、千代さんが庇わねば確実に撲殺してたんじゃないかな。
千代さんは、田村屋に何かあったら長次郎は生きて行けなくなるから、止めて欲しいと八重さんに縋ります。
あんな男に縋るようにしなければ生きて行けない自分を、情けないという千代さんに、八重さんは言います。

何にも情けなくねぇ。今は、生き抜くこどが戦だ。生きていれば、いつかきっと会津に帰れる。それを支えに、生きて行くべ

情けなさを感じているのは八重さんも同じですよね。
武家の身なのに、行商して、施しまでして貰って、本当は屈辱だしプライドもずたずただけど、でもそうしなくては生きて行けない。
アイデンティティーや自身の方向性は見失ってしまっている八重さんですが、容保様の最後の君命をあの場で聞いていたからか、今は「生きよ」だけを忠実に守っています。
それを「どう生きるのか」という色付けが、今後なされていくのでしょうね。

さて、次なる場面は東京護国寺会津藩士謹慎所ー・・・と移る前に。
まさかスルーするとは思いませんでしたが、一瞬自分が寝てたりして見逃したのかとも思いましたが、やっぱりスルーされてた物凄く大事なことを補足させて頂きます。
萱野さんが切腹したその約半月後の6月3日、会津城下の御薬園にて容保様の御側室、佐久さんが、容保様の嫡男慶三郎さんをお産みになりました。
後の容大さんのご誕生です。
容大さんは後の八重さんと襄さんにも関わりが出てくるお方ですし、何よりも降伏やら何やらで暗いニュースばかりが続いていた会津にとって、容保様に和子様がお誕生されたことは、藩士らにとってはこれ以上ない吉報だったかと思います。
なのに、何故か華麗にスルーされました・・・私は不思議でたまらない。

皆聞け。とうとう、御家存続のお許しが下りたぞ

と平馬さんは報告しますが、この「御家存続」は明治2年9月28日に、明治天皇が慶喜さんと容保さんの罪を赦し、翌29日にお生まれになった慶三郎さんを以って会津松平家存続を願い出るように、と保科正益さんに伝えたという背景があります。
つまり、御家存続のお許しには慶三郎さんの存在が不可欠だと言うのに・・・やっぱりスルーされてますね、不思議です。
そして同年11月14日に慶三郎さんは「容大」と実名を定め、家名存続の許しを得、華族に列し、陸奥国の下北半島を中心とする3万石を下賜されました。
ということで、平馬さんも言っていましたが、御家再興の地は会津ではありません。
それに不平不満を言う会津藩士たちですが、実は他の候補地に、会津藩の旧領であった猪苗代もありました。
では何故猪苗代を選ばなかったのか。
撰びたくても、選べない事情があったからです。
ドラマでは基本、容保様を何処までも綺麗なお殿様と描くことを貫いておられますが、実際幕末会津の百姓視点まで視線を下げてみると、必ずしもドラマの通りの素晴らしいお殿様ではないのです、容保様は。
孝明天皇に義理立てたという美談の裏側には、会津の国許の財政状態を省みなかったという面もあります。
長きに亘る京都守護職の在職で、藩の財政は火の車、農民には重税が課せられ・・・というのは何度かこのブログでも触れて来た、会津藩の事実です。
そのため、会津に戦火が迫った時、薩長に加担してしまう農民もいました。
これも以前ブログで触れたことですが、農民からすれば殿様が帝の信頼篤かろうが、忠義が如何とか言っても、それでお米が大量に獲れるわけでもなければ、お腹が膨れるわけでもない。
寧ろ、その殿様が一日でも長く都に滞在するから、重税で喘がなくてはいけない。
彼らにとっての良き殿様は、重税を背負わせず、明日の生活と食事を保障してくれるような統治をしてくれるお殿様なのです。
容保様にも容保様の事情があったのは勿論そうですが、農民にもそんな言い分があるわけです。
だからでしょうか、容保様が謹慎先の滝沢村から東京に護送されるとき、「至る所で人々は冷笑な無関心さを装い、すぐ傍で働いている農夫たちでさえも、往年の誉れの高い会津候が国を出て行くところを振り返って見ようともしない」という目撃情報が、イギリス人医師ウィリアム・ウィリスによって残されています。
で、そんな農民たちは会津降伏後、旧支配層に対する嫌悪を一揆という形で爆発させるのです(ヤーヤー一揆)。
そんな庶民の怒りが渦巻く旧会津領を、再び旧会津藩が再支配するのは困難以外の何物でもありません。
故に猪苗代ではなく、陸奥国の下北半島が選ばれたのです。
ただ、会津の農民の全員が会津藩時代の統治を嫌っていたわけではありません。
会津の処分の論議がされていた時、会津の農民500人は全国に分散して「旧会津への復帰再興」を願い出ています。
また、北海道も候補地に挙がっていましたが、黒田清隆さんが北海道開拓は会津人には向いていないと、却下しました。

新しい藩名を、斗南とする。北斗以南皆帝州という詩文から取った。最北の地も、帝の領地。我らは朝敵ではなく、帝の民であるとの意味だ

斗南という藩名は、「自分たちは賊徒ではなく、朝敵ではなく、北斗の星(=王)を仰ぐ民である」という想いが込められています。
しかし自分達は「会津藩」の人間であり、名前を奪われてまで新政府に従うことはないと、藩士たちはなかなか納得しません。
けれども「斗」と言う字は「闘う」という意味があります。
なので、ただ新政府に従うわけではないのだと、名前に込めた意味を説明しながら、大蔵さんは言います。

我らは会津武士。戦い続けていつの日が、故郷の土地と、会津の名を奪い返す。まず国の力をつける。そのためには、交易だ。会津にはなかった海が、斗南にはある。北辺の地に強国を作る。反撃の狼煙を上げんのは、その時だ。どの地も全て、戦場と思え

しかし彼ら再起の心をへし折るように、斗南の地は土地が痩せてるわ極寒だわ・・・だったのです。
(止めは版籍奉還と廃藩置県)
何より、比較的裕福な七戸藩の土地は綺麗にのぞかれる形で斗南藩の領地は与えられましたので(=痩せた土地ばかりの場所)、3万石とは名ばかりの、実質は7000石ほどのされる不毛の地でした。
そして斗南藩の赤貧を何とかしようとして、尚之助さんの運命が大きく左右しまうことになるのですが、それはまた機会が来たら筆を割くとして・・・。
平馬さんの、「斗南は決して、楽土ではねぇ」というのは、その辺りのことも薄々気付いていたからでしょう。
さて、大蔵さんはこの度、斗南藩筆頭の大参事に就任しました。

これを潮に、わしは全ての役職を退く。戦の首謀者はまことはわしであった。頼母様を退け、奥羽諸藩と結んで戦に突き進んだ
義兄上・・・
わしはもう、藩を率いてはいけぬ。後の事、にしゃに託してえ。頼む・・・!

平馬さんは本当に斗南開拓失敗後、北海道に渡って姿を消します。
以後長きに亘って歴史に埋没しており、お墓が発見されたのも昭和63年(1988)のことでした。
二葉さんと離婚したことや、水野貞(第20回でちらっと出て来ましたよね)とのあれこれは伝わってるのに・・・ということで、平馬さんの後半世については、今後の研究が進むことが期待されます(少しずつ進んではいるようですが)。

平馬さんと大蔵さんの会話の中にありましたが、1868年10月、秋月さんは健次郎さんと小川伝八郎さんを、長州藩参謀の奥平謙輔さんに預け、越後方面へと脱出させます。
奥平さんは安政6年(1895)に秋月さんが萩を訪ねた時に顔を合わせていたようで、その縁がここへと繋がったのです。
ちなみにこの奥平さん、会津藩は鳥居元忠さんのように最後まで戦うべきだったと書いたのですが、秋月さんがそれを取り消せと言ったので取り消したというエピソードもあります。
この後健次郎さんは、17歳でアメリカに留学し、帰国後は東京帝国大学に奉職するのですから、命がけで勉強しろというおじじさまの言葉に一片たりとも背かなかったのですね。
彼がアメリカに行ったとき、九九も出来なかったのは有名ですから、本当我々の想像を絶する、血の滲むような努力をしたのでしょう。
少し見習わねばならない勉学姿勢ですね。

明治2年(1869)10月、米沢の八重さんのところに大蔵さんが訪ねて来ます。

会津の、再興が叶いやした

開口一番のその報せに、佐久さんは泣き崩れて喜び、御家再興の御祝にこづゆを作ります。
大蔵さんの口から、会津の皆様の近況が語られます。
斗南に行くことには意気盛んだったり、山川家の皆様はおじじさまは亡くなられたそうですが、女性陣は皆達者のご様子だとか。
八重さんが気にはなっていたでしょうが、訊きにくかっただろう尚之助さんのことは、代わりにみねちゃんが訊いてくれました。
尚之助さんは今は東京にいて、一緒に斗南に行くことになったのだと。
そこで、話の途中だがと、こづゆが供されます。

あれから、一年だ。一年、よーぐ生き延びた・・・。皆で、祝いさせてくなんしょ

うめぇな、うめぇな、と涙ぐみながらこづゆを食べる皆様。
こづゆって、こんなに上手かったんだべか」、と八重さんも涙をぽろぽろ零しながらこづゆを食べます。
別れ際に、大蔵さんは八重さんを斗南に誘います。
新しい国を作るために八重さんの力を借りたいとのことですが、この言葉がちょっと地に足がついてないですね。
だって、八重さんの「力」といえば、砲術の知識が豊富なことと、鉄砲の腕が素晴らしいことです。
それらの「力」は、斗南では何の役にも立ちません。
なのに、何を以って大蔵さんが「重さんの力を借りたい」と言ってるのか、いまいち伝わって来ないなと思いました。
しかし八重さんは、千代さんから「鉄砲を教えて欲しい」と請われた時同様、首を縦には振りませんでした。

私は・・・怖えのです
怖い?
この前、会津を侮辱した人を、もうちっとで殺めでしまうところでした。お城に籠もって戦っだ時、私は、一人でも多くの敵を倒しで、死ぬ覚悟でした。戦場だったから・・・会津を守るための、戦だったから
八重さんそれは
今でも三郎の、お父様の、死んだ皆の無念を晴らしてえ。んだげんじょ、恨みを支えにしていては、後ろを向くばかりで、・・・前には進めねえのだし。さっきのこづゆがあんまり美味しくて、皆で頂けるのが嬉しくて。・・・もうしばらく、こうして生きて行っては、なんねぇべか?

鉄砲の腕が何の意味もなくなって、会津は降伏して、自分達は武家のプライドを砕きながらも必死で生きて行かねばならない。
弟も父も戦で亡くし、兄は生きてるとは信じてるけど未だに消息は分からない。
自分の最大の理解者だと思っていた尚之助さんは、自分が男の「山本三郎」として謹慎所へ行くことを許さなかった。
それに、八重さんは会津がどうして逆賊呼ばわりされなくてはいけないのかも分からない。
八重さんの中に広がっているのはそんな無明荒野ですが、八重さんはそこを、恨みや復讐を杖に歩いて行く気はないのです。
何をすれば良いのか分からないけれど、そんな状況だからこそ、こづゆを皆で食べたような小さな幸せを大切にしていきたい。
西郷さんは達観、大蔵さんたちは再興に意欲を燃やす道へとそれぞれ選択しましたが、八重さんの選んだのはそれなのです。
いや・・・しかし大蔵さん、八重さんにずっと淡い思いを抱いていましたが、どう頑張ってもいつも八重さんの視界に大蔵さんが入ってないっていうのは、物凄く辛いでしょうね・・・。
で、そんな自分から口にするのは複雑だったでしょうが、八重さんからは言い難いだろうなと思ったのか、尚之助さんに伝えることはあるかと大蔵さんは言います。

川崎殿は、仰せでした。開城の日、己の勝手な思いで八重さんから誇りを奪ってしまった。それを返すために、斗南の地に八重さんの故郷をもう一度作りたい。その思いを、胸に斗南に行くんだと
尚之助様に、伝えてくなんしょ。待っていますと

そう答えた八重さんの顔は、少しだけ優しいものでした。
尚之助さんも、この小さな幸せの場に加われる日が来ることを八重さんは待っているし、きっと疑ってもないのでしょう。
その実現場所が、尚之助さんが頑張って拓いてくれた斗南か、故郷の会津か、何処になるのかは分からないけれど。
・・・次回予告がその八重さんの心を微塵に砕いてましたが。

年が明けた明治3年(1870)3月、会津藩氏たちは斗南を目指したました。
旧会津藩士は、藩士家族を含めて約2万人いましたが、その内2000人程が会津若松で帰農、1500人程が東京に出て、残り約17000人4300戸が斗南に向かったようです。
移動手段は主に海路で、新政府軍からアメリカの輸送船ヤンシー号を借りて、新潟から南部の地に向かいました。
陸路ですと二本松、仙台、盛岡、沼宮内、一戸・・・と、下北半島に向けて延々と歩いたのでしょう。
尚之助さんはこの斗南行の列の、最後の方におられたようで、この年の10月くらいに斗南に到着しています。

さて、「再び咲くために」と各々が出発し始めた後編がこうして始まりましたー・・・と思いきや、急に場面が京都に変わります。
どうやら京都で新生活を営んでいる覚馬さんのお屋敷のようです。
良い生活をしているのか、以前よりも時栄さんの着物が上質なものになっているように見えます。

不自由な体で、世話をかける。宜しく頼む
へぇ
芳い匂いだ。花を飾ったのか
椿どすねや
見えなくても、花を愛でることは出来るようだな
そうどすな

何だこのシーン(とやりとりは)と思うほどの、何となくそっと頬を染めながら視線を外したくなるようなアダルティーな空気を朝から自重しないふたりですが、場面が変わった直後にすぐに本妻(=うらさん。しかも綺麗な着物来てる時栄さんとは違って、薄汚れた格好をしている)が映るあたり、編集容赦ないです。
いやもう、何と言いますかこの辺りに考察の筆を突っ込むのは野暮と言いますか、「どういうこと?」に対しての答えは数秒後の次回予告が全部暴露してくれちゃってたので敢えて私は言うまい。
その辺りは次回分に回すことにしましょう。

ではでは、此度はこのあたりで。


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