2013年8月29日木曜日

第34回「帰ってきた男」

明治7年(1874)11月26日、襄さんが10年ぶりに日本の土を踏みます。
以前からドラマ内でも何度か描写があるように、襄さんが帰国したとき、日本は文明開化ブームの真っ只中でした。
文明開化といえば華やかに聞こえるかもしれませんが、同時に自国の伝統文化に懐疑的になってしまいがち(西洋の物と比べて、旧時代的なものだと思ってしまう)な時期でもありました。
その辺りのことは渡辺京二さん著の『逝きし世の面影』に詳しいので、賛否両論はある著書ですが、興味のある方は一度手に取ってみて下さいませ。
で、襄さんが帰って来たときの日本がどういう状態の時だったのかをもう少し付け足しますと、藩という300年近く続いていた社会単位というべきものが崩壊し、生まれたての政府、まだがたがたの経済、西洋と日本独自のものが混ざった価値観・・・と、正に混乱はしていませんが、混沌としていたのです。
徳川幕府という、あるいは現代の我々から言えば「江戸時代」という旧社会が瓦解し、明治という新社会が生まれたての状態の最中の日本に、襄さんは帰って来たという次第です。
さて、そんな襄さんは帰国後、木戸さんの下を訪ねます。
この木戸さん、実は先週の明治6年の政変の流れで政府を去った西郷どんらに続いて、明治7年5月に辞職しています。
しかし木戸さんを取り戻したい大久保さんや、陰で暗躍して江藤さんを引き摺り下ろした伊藤さんや、井上さんが、明治8年(1875)大阪の北浜に集い、そこ木戸さんを招きます。
何故そこまで木戸さんが必要とされるほどに事態が差し迫っていたのかと言いますと、後でもまた触れますが、明治7年2月に佐賀の乱を始めとする不平士族の反乱は続くわ、地租改正(土地の価値に見合った税金を、その土地の所有者に納めさせる全国統一の課税制度)は遅々として進まないわ、板垣さんは自由民権運動を起こし始めるわ・・・で、何処から手を付けて良いのか分からないくらい事態が次から次へと起こってたのです。
この難しい局面を打開するには大久保・木戸・板垣の御三方の連携が必要であると思った井上さんと伊藤さんが、木戸さんに政府への復帰の仲介役となります。
という事情で、政府を辞して山口に帰っていた木戸さんが、大阪にいるというわけです。
ちなみに、一方の襄さんは当時禁止されていた密航の罪が前科としてあるのに、しれっと木戸さんと対面してて問題ないの?と思われるかもしれませんが、公使担当の外交官である弁務使として着任した森有礼さんの奔走により、政府から留学生として改めて公認され、密航の罪は消滅しています。
さて、木戸さんは明治政府に襄さんをスカウトします。
が、襄さんは日本に帰国したのは学校を作るためだからと、あっさりお断り。
まあ、岩倉使節団がアメリカに来たときに、目の前で大久保さんと木戸さんの嫌味応酬を見てるわけですから、こんな奴らがいる職場はごめんだなと思ったのもあるんじゃないかと、邪推してしまいました。
実際の襄さんは、本当の本当に学校を作りたかったの一心だったでしょうけど。

国の形が変わっても、人間が昔のままじゃ、新しい世は出来ゃーせん。欧米に追い付くには、まず教育じゃ

これはご尤もな意見です。
飽く迄一般論になりますが、大規模な体制変革を行った後には教育の改革が必須です。
木戸さんのような革命の勝者は、取り分け熱心にそれに取り組みます。
と言いますのも、革命に勝利した側の人間としては、旧体制や旧価値観の再生産を防止せねばならず、そのために旧来の教育システムを破壊し、新体制の導入を図る必要があるからです。
戦後の日本がGHQにされたことを思うと、この辺り漠然とながらお分かり頂けるかと思いますが、明治政府も正にこれだったのです。
なので明治4年(1871)に創設された文部省は、それの担い手として、大学南校やら東京開成学校やら東京大学・・・教育機関を拡充しましたし、学制の布告をし、初等教育の全国普及にも力を注ぎました。
そういう背景があることからも、明治編の「八重の桜」は教育というキーワードがかなり重要となってくるのですが、それが今の時点ですといまいち伝わって来にくいなぁ・・・と感じたり、感じなかったり。
その教育の原点ともいえる聖書を教える学校を作りたい襄さんは、しかし大阪府では一度断られているので如何にかならないだろうかと、木戸さんに相談を持ちかけます。
(ちなみにキリスト教は、明治6円2月24日に明治政府が世界情勢を鑑みたことで、、キリスト教禁止を謳った高札の撤去を指令したことにより、事実上解禁されています)

京都・・・その学校、京都に作ってはどうじゃ?
仏教の聖地に?それは、大阪よりもっと難しいのでは・・・
じゃが、あの地には、君の力になりそうなもんがおる

というわけで始まりました、第34回。
仏教の聖地は、寧ろ奈良では・・・という突っ込みはさて置き、その頃木戸さんに「力になりそうなもん」と言われていた覚馬さんは、八重さんに新約聖書の馬太傳(マタイ伝)を手渡されます。
それを持って、宣教師のマークウィス・ラフェイエット・ゴードンさんのところに聖書を学びに行けと言われ、よく分からないままも渋々と従う八重さん。
ですが、「Blessed are they that mourn: for they shall be comforted.(悲しむ者は幸いです。その人は慰められるでしょう)」というマタイ5章3節の意味がさっぱり分からない八重さんは、「悲しむ人が、何故幸せなのでしょう?逆ではないのですか?」と尋ね、解釈をして貰ってもまだ納得しかねるご様子で。
そもそもこの解釈をするには、3つの理由をきちんと話してあげないと、特に八重さん達みたいな聖書初心者には理解の及ばないことだと思うので、これはゴードンさんの教え方が少し拙いですね(苦笑)。
ここで聖書の解釈をしたいわけではないので、私も解釈は避けますが、八重さんと同じ疑問を持った人は、興味本位でも良いので一度聖書を開いてみると良いですよ。
ただ、疑問をそのまま家に持ち帰った八重さんが、佐久さんに「耶蘇の教えは、如何にも分がんねぇ」と言い、佐久さんが「耶蘇の神様は、国を追われだごどがねぇ御方なんだべな」と返したのには、聖書に少しでも齧ったことがある人だったら「いやー、そうでもないんだけどな・・・」と思わず苦笑いを浮かべたのではないでしょうか。
この後山本家の皆様はキリスト教に改宗していくので、その時にはいずれ分かると思ますが、耶蘇の神様ではないけどイスラエルの民はバビロン捕囚という形で、がっつり国を追われたことがあります。
これについても、聖書を一度開いて頂くと宜しいかと・・・確か旧約聖書の列王記だったかが、その辺りのこと触れています。
(何だか今回は妙に本を薦めることが多い記事になっていますね)

さてその頃、覚馬さんの下へ襄さんが訪ねて来ます。
生き生きとキリスト教の学校設立への思いを語る襄さんに、覚馬さんは何故キリスト教なのかと問い掛けます。
まあ、ただ単にキリスト教を広めたいだけが設立目的だと、覚馬さんは木戸さんの紹介とはいえ助力はしなかったでしょう。
ですが、襄さんの思いにはキリスト教を学んで、その先にどうするのかというビジョンまでハッキリと描かれていました。
つまり「学校を作り、一国の良心となるような青年をこの手で育てたい」というのがそれですね。

話はわがりました。しかしこごは京都です。耶蘇教に反感を抱く者は多い
そうですよね。木戸さんには勧められましたが、私も難しいとは思ったんです。大阪でさえ駄目だったんですから。いや、困難な地だからこそ、主は、私を京都に導かれたのかも知れません
妨害する者が現れる。苦労しますよ
私は宣教師です。主の名の下に受ける苦しみは、喜びです

この辺りの妨害は、若かりしき頃の覚馬さんの経験談ですよね。
軍事改革や鉄砲のことを、妨害され妨害され・・・な青春の日々でしたから。
ここでも象山先生の、「何かを始めようとすれば、何もしない奴らが必ず邪魔をする。蹴散らして前へ進め」のあの言葉が再び生きてくるのでしょうか。
そんな覚馬さんは、『天道遡原』と書かれた書物を懐から出します。
これは中国で書かれた、いわゆる漢文版聖書でして、覚馬さんはこれを明治8年4月にゴードンさんから送られました。
これが覚馬さんがキリスト教の教えに感銘を受ける契機の一冊となったのです。
ドラマの覚馬さんの言葉を借りるなら、「この書の中に、私は探していだものを見つけた」。

この先、日本が進む道を間違えないためには、政府の都合に左右されない、良心を持った人間が必要です。あなたの学校、是非京都に作って下さい。私が力になります

この言葉を寸分たりとも違えることなく、この先覚馬さんは生涯を通じて襄さんの力となります。

京都で学校を作るとなれば、勿論無断なわけにも行きませんから槇村さんの許可が必要です。

英学校か・・・。西洋の学問は結構じゃが、耶蘇の宣教師っちゅうのがどうもな

さり気無く零れたひと言ですが、これが後に槇村さんと、その目の前にいる覚馬さんの立場を割ることになってしまうのですね。
それはまたの機会に触れるとして、何かを言いさした襄さんを杖で制し、覚馬さんは既に襄さんが大阪府知事の渡辺昇さんに、この学校建設の件を断られている旨を伝えます。
渡辺さんは襄さんに、学校創立を認可する条件として、キリスト教主義に拠らないこと、宣教師を教員に採用しないことを提示して来ましたが、それじゃあ襄さんの望む学校とは違いますからね。
加えて、槇村さんと渡辺さんは、京都大阪の両府知事として互いにライバル関係にありました。

何?渡辺昇が断った?・・・よし、大阪が断ったんなら京都がやる!大阪には負けられん!

覚馬さん、今週もお見事な策士ぶりです。
ちなみに学校の建設費用についても、襄さんが5000ドルの援助を既に得ていることから、京都府の財政財布は全く痛まないのです。
これに機嫌を良くした槇村さんは、耶蘇教の上に独り身では人から信用されないから、信用を得るためにも嫁を取れと言います。
そこで襄さんが提示した、襄さんの好みの女性というのは、もう史実でも有名な通りです。

顔にはこだわりません。ただし、東を向いてろと言われたら、三年でも東を向いてるような婦人はごめんなのです。学問があって、自分の考えをはっきりと述べる人がいい。宣教師はいつ何処で命を落とすか知れませんから、一人で生きて行ける人でなければ困ります。私の仕事を理解し、もし私に過ちがある時は、教え導いてくれるような人。私はそういう人と、温かいホームを築きたい

有名すぎる史実の下りですが、注目すべきは「東を向いてろと言われたら、三年でも東を向いてるような婦人は」の部分に、何か何処かで聞いたようなフレーズだなという反応を見せた覚馬さんでしょう。
数年前までそう言う人が奥さんでしたもんね。
まあうらさんを「西向いでろど言われだら一年でも西向いでいるようなおなごだ」と言って縁談持って来たのは権助さんでしたが。
そもそもうらさんをそういう風な人物設定にしたのは、全てこの史実のエピソードと掛け合わせるためだったでしょうから。
第34回にして、ようやく第4回の伏線が回収されました。

それから数日後、「東を向いてろと言われたら、三年でも東を向いてるような婦人」ではない八重さんは、着物にブーツと、周りからは奇妙な目で見られる格好をしていました。
ですが水たまりをひょいと越えてみたりしているところから、きっと機能性が良いから愛用しているのでしょう。
そんな八重さんがゴードンさんの家に行くと、上り框に腰を下ろして靴を磨いている襄さんと鉢合わせるのですが、八重さんの思考回路は「靴磨き=下男の仕事→それをしている=下男」ということで、襄さんのことをゴードンさんに新しく雇われたボーイだと思い込みます。
ですが、その実体はボーイなどではなく、ゴードンさんと同じくアメリカンボードの宣教師だと知って、八重さんは吃驚します。
このとき八重さんは、自分のことを「川崎八重です」と言っていますが、この時点(明治8年)で八重さんは既に文書で「山本八重」と記しているので、厳密に言えばこれは考証ミスなのですが、この時点で八重さんを覚馬さんの妹だと気付かせないための運びだと思うことにしましょう。
襄さんは八重さんが女紅場で働いているのだと知ると、是非女紅場を見せて欲しいと言います。
そうして数日後、襄さんが訪れた女紅場はそれはそれはもう女子生徒が大騒ぎです。
物腰柔らかな西洋風紳士(32歳)が女ばかりの場所に現れたら、ああいう反応になるのでしょうかね。
八重さんに校内を案内されながら、襄さんは女学校を作る時にはここをお手本にしようと言います。

女学校?あなたが、おなごの学校を作るのですか?
まず英学校を開設し、その次は女学校です。男子の学校を作るなら、ペアになる女学校も必要でしょう?

ちなみに女学校といえば、この年、襄さんと同じくアメリカンボードの女性宣教師、イライザ・タルカットさんとジュリア・ダッドレーさんによって兵庫県神戸市に「女子の寄宿学校」、現在の神戸女学院大学が開校されています。
前年には東京女子師範学校、現在のお茶の水大学が開校されていることから、公立で最古の女子大は東京女子師範学校、私立女子大は神戸女学院大学ということになるのでしょうね。
そういえば、襄さんが英語の授業が難しいようなので~と皆で賛美歌を歌い始めてましたが、女学校の英語の授業を覗いて「難しい英語を勉強している」と言ったのは本当のことみたいです。
しかしアメリカ帰りの襄さんをして「難しい」と言わせる何て、一体どんな授業だったのでしょうね。

大学といえば、この年の5月、イェール大学シェフィールド理学校で物理学の学位を取得した健次郎さんが無事に帰国します。
・・・何故かドラマでの卒業証書は「文学士」となっていましたが、理学校で文学士の学位は無理ですよね・・・?(苦笑)
その頃の山川家の皆様といえば、浩さんが東京の小石川に居を構え、旧会津藩地達の生活の面倒を看ていたので生活がかなり苦しい状況でした。
なので、健次郎さんがまず再会した二葉さんは、質草として健次郎さんの帽子を預かる名目で持って行ってしまうという・・・。
しかしその預かった帽子を、二葉さんがひょいと頭に乗せて歩いている姿は、何とも微笑ましかったですね。
健次郎さんが家の中に入ると、近所のおじさんのような感じで官兵衛さんもおりました。
このとき官兵衛さんは警視庁に出仕しており、浩さんは明治6年から陸軍に出仕しています。
そこでふと、健次郎さんが浩さんの左腕に気付きます。

これか・・・。去年、佐賀で江藤新平が乱を起ごした。鎮圧に行った折に、不覚を取った
名誉の負傷だ。手柄立でで、陸軍中佐に進級したんだからな

何だかドラマの描写では、隻腕にでもなったかのような描かれ方でしたが、実際は左肘上部に銃撃を受けたので、懐の中で吊るすような形で腕があっただけだと思います。
この傷は、後に左腕がまったく利かなくなるほどの重傷でした。
官兵衛さんの警視庁もそうだったでしょうが、当時の軍隊は明治維新勝ち組の藩出身者が兎に角優遇されがちで、負け組の藩出身者はなかなか上へは行けないシステムでした。
逆に健次郎さんが選んだ学問(教育)の道は、これは選択としては妥当で、薩長土肥以外の出身者でも、学問さえ出来れば国家が雇用してくれました。
その辺りのことは、先年放送された『坂の上の雲』の第一部の空気が良く描いてくれていたと思います。
好古さんは最初から陸軍に入ったのではなく、やはり教員からの職歴スタートでしたし、真之さんと子規さんは東京師範学校で学び、末は博士か大臣を目指していたのはそう言った背景もあるからでしょう。
三人が如何して学問(教育)の道を外れるに至ったかは、『坂の上の雲』に目を通して頂くこととして、ここであまりにあっさり流されてしまった佐賀の乱諸々の補足をしたいと思います。
辞職をした西郷どんは、明治6年11月10日に鹿児島に戻り、自宅で穏やかに日々を過ごすことを考えていました。
ですがそれとは裏腹に、政府に反感を抱く人達や不平士族は西郷どんに、「この人だった自分達の気持ちを汲んで、何とかしてくれる」という期待を寄せていました。
人望がありすぎるというのも困りものですね。
で、この西郷どんは直接関係ありませんが、明治7年2月に浩さんの言っていた佐賀の乱が起こります。
佐賀の乱を江藤さんが起こした、というのは些か率直過ぎる表現で、江藤さんは最初、この反乱を鎮めるために佐賀に入りました。
しかし大久保さんが既に熊本鎮台に征伐を明じていることを知った江藤さんは、反乱に加わることを決意します。
佐賀で決起した不平士族は、たとえ決起せずとも遠からず討たれるであろうことが分かり、それを見過ごせなかったからでしょうか。
しかし結果、江藤さん達は敗北を喫し、3月1日に鹿児島の鰻温泉で湯治していた西郷どん元へやって来て武装蜂起を持ちかけますが、西郷どんは江藤さんが同志を置き去りにして逃げて来たことを理由に、これを突き放します。
西郷どんに突き放された後、江藤さん達は不平士族を頼って今度は土佐に逃げますが、ここで捕縛されます。
そうしてろくな裁判も行われないまま、江藤さんは士族から除かれ、斬首の上で晒し首をなりました。
司法制度の確立に奔走と尽力をした江藤さんの最後が、これです。
しかし不平士族の不満の種はこれで完全鎮火されたわけではなく、明治9年10月24日には神風連の乱、27日には福岡で秋月の乱、28日には山口で萩の乱が起こります。
そして、やがては江藤さんを突き放した西郷どんにも、その火の粉は大きく降りかかってくることになるのです。

その夏、京都の夏が暑くて敵わない八重さんが、井戸の上に板を置いて、その上に座って裁縫をしていると、覚馬さんを訪ねて来た襄さんにばっちりその姿を目撃されます。
この辺りの下りも概ね史実通りで有名すぎるので、割愛しますが、八重さんが井戸に落ちると思った襄さんは咄嗟に庭に駆け下りて、八重さんをぎゅっと抱きしめるとか、いやはや本当に少女漫画・・・(笑)。

すみません、不躾でした。ジェントルマンたるもの、ご婦人を守るべしと教えられて来たので
守る?私を?私は、守られたいなどど思ったごどはありません。人に守って貰うようなおなごではねぇ。・・・私は、会津の戦で鉄砲を撃って戦ったおなごです。男と同じように、敵を倒し、大砲を撃ぢ込んだのです。・・・七年過ぎだ・・・んだげんじょ、私には、敵のために祈れど言う、耶蘇の教えはわがんねぇ

守るべし、と言われて八重さんの表情から先程まであった笑顔が消えます。
自分は強い、鉄砲だって撃てるし戦の経験もある、だから守られる必要はない、と思ってるあたり、相変わらず頑固を通り越して意固地だなと感じました。
まあ八重さんは男性(人)の前を歩く女性ですから、確かに守ってもらう必要はありませんよね。
同じ速度で横に歩くか、それか八重さんの背中を守るかでないと、八重さんのことは守れない気がします(何だか表現変ですが)。

妹は城で戦い、国が踏み躙られるのを目の当だりにした。胸に深ぐ刻んだ傷は、癒えるごどはありません。天道遡原を知った時、私は耶蘇の言葉の中に、恨みや憎しみを越えで行ぐ、新しい道が見つかる気がした。妹にも聖書を学ばせだ。八重が背負った荷物は、誰にも肩代わり出来ねぇ。乗り越えで行ぐ道は、八重が自分で探すしかねぇ

7年経っても言えない八重さんの心の傷。
覚馬さんが八重さんにキリスト教を学ばせようと思ったのは、こういった理由があったからなんですね。
覚馬さん個人も、キリスト教に付いてこんな言葉を残しています。
曾て私の胸中に満ちて居つた多くの疑は一度この書を読んで氷解しました。常に国家に尽したいと希ひ、中頃法律でその希望を達しやうとしたが、遂に成す所がなかつた、今この書を読み、人心の改善は只宗教に依るべきを悟つた私が久しく暗々裡に求めたものは即ちこの宗教の説く所のものに外ならなんだ

無宗教や宗教への関心がすっかり薄れてしまった現代人ですが、人間の内面に深く立ち入る宗教の助けが必要なときもある。
八重さんや覚馬さんにとってのそれが、キリスト教だったのではないかなと、そんな風に感じました。
襄さんは、自分の作る学校が、傷付いた人々の重荷を下ろす場となれば良いと願い、覚馬さんはそんな襄さんがかつて皐月塾で豚騒動を起こした少年だということに気付き、この再会と彼が京都に来たのは確かに何かの導きだろうと思います。

昔、薩摩藩邸があった土地を、今私が預かっています。広い土地です。いずれそこに、あなたの学校を建でましょう。これは間違いなぐ、世のためになる使い方だ

よく誤解されてますが、勿論あの薩摩藩邸屋敷跡に同志社が建つのは皆さまもうご承知のことですが、最初に襄さんの作った学校(同志社)が建てられたのは、女紅場のご近所、現在の新島旧邸があるところです。
そこに明治8年11月29日、襄さんが屋敷の半分を賃借して生徒八人で同志社英学校を開校しました。
つまり同志社は、最初からあの薩摩藩邸屋敷跡にあったわけではないのです。
同志社があの薩摩藩邸跡に移ったのは、翌明治9年のことになります。

それからしばらくして、襄さんが山本家に居候という形で引っ越してきます。

キリスト教を嫌う人達が押し掛けて来るかもしれません。ご迷惑がかかるのではないかと

そう懸念する襄さん。
そういえば山本家にも攘夷を謳った狂犬のような人達が押しかけてきたことがあったなあ・・・(そして奴らのせいでうらさん流産した・・・)と、今では遠い思い出のようですが、八重さんもそういう経験があるからか、それぐらいではうちは誰も驚かないと言います。
みねちゃんや時栄さんは・・・と思いましたが、みねちゃんは幼少時に籠城戦体験してるし、時栄さんだってそこそこ度胸ある人だったから、うん、確かに誰も驚かないでしょうね。

耶蘇教を始めだ時も、周りの人達はそんな考えは間違っているど、挙って反対したのですよね。それでも耶蘇は怯むごどなぐ、教えを広めだど聖書に書いでありました。だったら、私達も同じようにすれば良いのです。他に何が御用はありますか?

あー、じゃあ・・・と、何の前振りもなく、まるで散歩にでも一緒に行きませんか?な軽さで、襄さんはとんでもない御用を八重さんに言いました。
そりゃ、砲弾の音にも驚かない八重さんも吃驚ですよ。

一つだけ、お願いしたいことが・・・八重さん、私の妻になって頂けませんか?

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村