2013年10月8日火曜日

第40回「妻のはったり」

ドラマの年代的には、自由民権運動の動きが活発になり始めた砌ですが、相変わらずその辺りはソフトタッチで行くようなので、私もいちいち解説は加えません。
前回ドラマの感想・考察を、呆れ返って(あるいは大きく失望して)白紙で更新するということをしましたが、正直ごり押しと、過程を書き込まないスタイルと、「適当に察して下さい」と視聴者に放り投げるような作りの浅さと、詰め込みすぎて毎回ダイジェストを見せられているような話の展開には、ほとほと嫌気がさしております。
なので、解説いちいち加えたり・・・という姿勢にも、正直疲れて来たというのが私の本音です。
それでもまあ、あと残すところ10回を考えたら、適当でも良いから頑張るかという気もしなくもないです。
そういう気分を漂わせながら書いているので、以降に更新される記事にも行間からそう言う感じがにおって来てしまうやもしれません。
要らない、と思った場面・部分も容赦なくすっ飛ばして行きます。
ただ、このブログを読む読まないは皆様の自己判断ですので、読後の責任諸々は負いかねます。
ここのブログは私のブログですし、私は私が思うこと、感じたことを吐き出しているまでです。

前置きが長くなりました。
まずは府県会の設立やら何やらの話ですね。
京都ではなく、日本全体を見るに、このころ日本は「我国は西欧諸国に並ぶ先進国です」とアピールするために、国会・議会の設立を必死に目指してました。
一刻も早く先進国になりたい理由は色々あったでしょうが、第一として考えられるのが幕末にじゃんじゃん結ばれた不平等条約を解消し、平等条約を締結し直したかったからでしょう。
非先進国のままだと、西欧諸国と並んだ時にやはり格下扱いされ、いつまで経っても「平等」にはなれないのです。
では、その先進国とは何ぞやというので、出てくるのが「民権」です。
まあつまり、かなりざっくり申し上げますと、アメリカの南北戦争後、リンカーンさんのゲティスバーグ演説で出て来た「人民の、人民による、人民のための政府」が行われている国、とでも申しましょうか。
伊藤さんら国のトップ層は、外交では「日本は封建制を脱却し、民権を遵守する先進的な国になりつつあります」とはアピールしていたものの、実際には槇村さんに言っていたように、選挙で民衆の代表を選ぶような真似はさせるまい、という姿勢はありましたが。
まあ、そんな具合で、明治11年に国は府県会を設立します。
今の地方議会ですね。
その流れで、明治12年3月25日に京都府会が開設され、第一回府会議員選挙が行われます。
これの当選の報せを受けた覚馬さんが、まるで身に覚えのないような顔をしていましたが、当時の選挙は立候補制ではなかったので、無理もありません。
選挙候補者は、高額納税者の25歳以上の男子、有権者は高額納税者の内20歳以上の男子に制限されていました。
明治22年に行われた衆議院議員選挙のときに、高額納税というのは15円以上を納めている人をと定められていましたが、この時の高額納税者は一体いくらくらい納税してる人だったのでしょうか。
ともあれはっきりと分かるのが、覚馬さんが高額納税者だったということですが、まあ彼の顧問時代の月給が抜群に高かったのは以前触れた通りですからね。
さて、「目も見えぬ、足も立たぬ俺に、まだ働けと京都の人たちは言ってくれた」と言った覚馬さんと同時期に選出されたのが、上京組ですと山鹿九郎兵衛さん、吉田安寧さん、山中平兵衛さん、山中小兵衛さん。
下京組は杉本新右衛門さん、田中善八さん、柴田彌兵衛さん、井上治郎兵衛さん、安村吉兵衛さん。
その中で覚馬さんは初代議長となりますが、まあまあ、槇村さんの慌てぶりと言ったら・・・多少、やりすぎかもしれません(苦笑)。
ところで、京都府会というと、かつて京都守護職上屋敷があった京都府庁旧本館を思い浮かべる人も多いかもし入れませんが、覚馬さんが当選した時点であの建物はまだ存在しませんので、府会は中学校の講堂で開かれていました。
なので容保桜の咲くあの場所に、覚馬さんが勤めていたということはありません。
ちなみに覚馬さん、ご存知足が不自由なので、議会の彼の席には巨大座布団が敷かれていたそうです。
そしてご存知、覚馬さんは両目も不自由なされてるので、今回は時栄さんが寄り添ってましたが、以降は府会の書記に任命された丹羽圭介さんが介助を務めます。

これまで日本では、世の中の仕組みを変えるために人を殺め、町を焼き戦が繰り返されて来ました。だが、今日がらは違う。武器を持だぬ者が議論によって政治に関われる場所が、この府会なのです!議員諸君にはm府民の代表としてお覚悟を持ってお勤め頂く事を、切にお願い申し上げます

と覚馬さんは第一声を発しますが、肝心の議員の皆様は、自覚と覚悟があっても何をして良いのか分からないご様子。
そこで覚馬さんが「予算を審議すれば、府がどのような事業をするのか自ずど見えで来ます。これによって府政を監視するごどが出来ます」と、さながら教師のように議員を先導していきます。
第一回府会は、開会日数が37日で、その時に副議長選挙と、経営費としての警察費支出の件、その他徴税の件を議決し、5月5日に閉会となったそうです。
覚馬さんが議長となって動き始めた京都府議会ですが、その先には覚馬さんを徐々に煙たがるようになりつつあった槇村さんとの衝突が待っていました。
それは次回触れられるようですね。

さて、何だかんだで開校四年目を迎えた同志社英学校ですが、相変わらず問題は山積みでした。
秘密結社「同心交社」などは、それとなく匂わすだけで触れられてなかったので、私も割愛しますが、表立っての一番の問題はアメリカンボードとの確執でしょうか。
否、正確に言えばアメリカンボードと政府との間に板挟みになってた、という方が日本語表現正しいかもしれません。
冒頭で、外務省の寺島さんから襄さんにお手紙が来ていましたが、このとき政府側から見た同志社英学校の問題点としては、アメリカンボードからの多額の資金援助の下に成り立っているということで、「経済的植民地化」とも取れない状態になるんじゃないのか、という部分。
逆に、アメリカンボード側からの同志社英学校の問題点としては、多額の資金援助をしているにも拘らず、そこで育成された生徒が牧師にならないという現状についてです。
実際同志社英学校第一期卒業生の15人の内、牧師の道を志したのは6人だけです。
アメリカンボード的には、15人全員が、とまでは言わないでしょうが、それでもやはり支援してる以上10人以上は牧師の道を志して欲しかったと思うんですよね。
しかし襄さんが「生徒が医者、商人、政治家、いかなる道を選ぼうと自由です」と仰ってたように、人の行く道を強要する権利何てその人以外の誰にもないんですよ。
この場合、襄さんの言い分が一番正論ですが、でも金銭的な援助を受けてる以上、少なくともアメリカンボードに対してその正論は通りませんし、金銭的な援助を受けてる事実が無くならない限り、同志社英学校は政府から睨まれ続けることになります。
まあ、先に将来的な結論から言いますと、同志社英学校は襄さんの次の代の時に、アメリカンボードから金銭的に手を切って独立します。
でなければ廃校は目に見えていたので、これは賢明な判断だったと思います。
が、それは先の話で、現時点での襄さんはまだそこまで決断を踏み切れなかったんですね。
そのせいか、校長に向いてないだの何だの、散々に言われてしまう襄さん。
何と言うか、胃が擦り切れそうな毎日を送っておられるなぁ・・・と、同情を禁じ得ません。

何はともあれその年の6月12日、同志社英学校から一期卒業生が巣立っていくことになりました。
以前の記事でも触れましたが、第一期卒業生15人には、熊本バンド以外は存在しません。
転入当初はあれだけ学校内を引っ掻き回した彼らですが(いえ在校生の中にも熊本バンドはまだ残ってますが)、それも今はいい思い出なのか何なのか、襄さんは彼らへの餞にこんな言葉を差し出しました。

皆さんにとって、私がよい教師であったのか分かりません。10年後20年後の皆さんの生きる姿が、私がどのような教師であったのかを教えてくれるのだろうと思っています。この国は多くの尊い命を犠牲にして、今まさに生まれ変わろうとする道の半ばです。この先もきっと予想もつかない困難が皆さんを待ち受けているでしょう。Go,Go,Go in peace.同志諸君!己の信じる道を歩んで行きましょう

校長辞めろとまで言ってきた生徒に対して、こう言える襄さん本当人格者ですな。
そして・・・覚馬さんが尊敬してやまない横井小楠さんの息子、伊勢時雄さんもまた、同志社英学校を卒業して伝道者として今治に行きます。
そんな時雄さんにみねさんが贈ったのは・・・何故か靴下。
プレゼントのチョイスはさて置き、初々しい二人ですが、ゆくゆくは夫婦になる二人だからな~と思ってたらどうやらその様子はもう来週に描かれるようです(苦笑)。

さて、ドラマでは「この頃」と実しやかにナレーションがかかっていたのに驚きのあまり目を剥きましたが、ここで襄さんのご両親のご登場です。
上洛して来たのはお父さんの民治さんと、お母さんの登美さんだけのように描かれてましたが、実際は襄さんのお姉さんの美代さんなども一緒に来てるはずです。
新島一家の上洛は、「この頃」ではなくもっと以前の話で、襄さんと八重さんが結婚した明治9年の春にはもう京都に来られてたかと思います。
ちなみに民治さんは安中藩のご祐筆でした。
つまり襄さんの育った新島家は下士ですが、、限りなく上士に近い下士という、経済的に裕福なお家だったのです。
そういう家庭なので、襄さんも本来ならば松籟祐筆になる道が敷かれていましたが、皆様も知っての通り襄さんは国禁を犯してアメリカに密航して現在に至っております。
民治さんはそんな襄さんを「あれの考えることはよく分からん」と言いますが、これ、少しおかしな発言だなと思いました。
民治さんって上洛後の明治10年3月4日に受洗してるんですよ。
おそらく洗礼を授けたのは襄さんでしょうが、まだキリスト教の風当たりが強い時代に洗礼を受けるということは、民治さん自身がキリスト教に理解を示したわけで。
で、安中藩のご祐筆だった彼が何を通じてキリスト教を知ったかといえば、襄さんだろうなと考えるのが一番自然なルートなわけですよ。
なので、そういった経緯を考えると、民治さんが襄さんのことを「考えてることはよく分からない」というのは、何かがおかしいと感じるのです。
「まさか学校を作るとはな」くらいで良かったのではないでしょうか。
ところで、この襄さんのご両親もあの新島邸に住まわれていたのかというと、そうであるような、ないような、というのが本当のところです。
現在も残る新島邸に行くと、大体皆様あの洋風な建物にしか目を向けませんが、附属家という名で同敷地内(入ってすぐ左)にある日本家屋は、襄さんが呼び寄せたご両親の隠居のために建てたものです。
洋風だと落ち着かないからだろうと、江戸藩邸にあった住居を模して作られています。

さて、民治さんの口から明らかになった、襄さんの額の傷の歴史。
と言っても、木から落ちて出来たものらしいですが(笑)。
実はこの話には続きがあって、この傷を恥じた襄さんは、その後2か月間部屋に引きこもって、引き籠りを辞めた時には勉学に打ち込むようになったんだとか。
というのが新島襄額の傷の歴史なのですが、八重さんは「新島先生も情けなか」と言った生徒に、「あれは箱館がらアメリカの船で密航するとぎに、役人と戦って出来だ傷だ!」と口走ってしまいます。
とどのつまりは、「襄は信念のためなら断固として戦う強い人」と言いたかったようなのですが、そのためにとんでもないはったり・・・といいますか、嘘ですね、これ。
会津の什の掟に、「虚言を言ふ事はなりませぬ」というのがありますが、見事に破っていますね。
後々の展開を見るに、このはったり、本当に必要だったか?とかなり疑問に思いましたし、タイトルに仕立て上げるほどのものでもない。
こうでもしなきゃ、今回の話に八重さんが入って行けなかったのでしょうが、会津人に什の掟破らせるようなことしてまで話に突っ込むなよと言いたくなります。
前回の土下座も酷かったですが、今回のこれも酷かったかと思います。
このドラマは史実の新島八重という女性に対する敬意が、本当に欠けていますね・・・。

まあ今回の話の趣旨として押さえておくべきは、八重さんのはったりどうこうよりも、襄さんがアメリカンボードと政府との板挟みになっているということです。
この件について襄さんは物凄く思い悩んでおり、同志社英学校の校長の座を捨てて、北海道で農業を始めようかと考えていたほどだったそうで。
もしこれが実現(?)すれば、今頃北海道には新島農場とか新島牧場なるものが存在していたのかもなんですね。
まあそれで、そこでゴードンさん達は伝道師育成クラスを設けることにし、そのために上級クラスと下級クラスを合併させて伝道師育成クラスの枠を作ることにしました。
が、これを話し合っている最中に肝心の襄さんは愛媛に宣教活動に行っていて不在、彼が戻って来たときには、もう合併は決定事項となっていました。
けれどもこの決定事項は完全にアメリカンボード都合、教師陣(宣教師陣)都合の考え方で、生徒のことなんてまるで置いてけぼりです。
だから、生徒らは反発します。
当たり前です、学校の主役は先生たちではなくそこで学ぶ生徒なのですから、主役の意向を無視して主役が黙っているはずがない。
この決定に、襄さんは最後まで意思を通す(=牧師は強要されてなるものではない)と思っていた生徒らは、授業を放棄して寮に立て籠もります。
猪一郎さんは自作の新聞で生徒たちの不満を煽る煽る・・・将来の片鱗が既にこんなところに見え隠れしていますが、生徒たちの心境をもう少し深く突っ込ませて頂きましょうか。
上級クラスと下級クラスを合併させるということは、上級生からすれば試験などもせずにいきなりレベル↓の下級生と一緒になって授業しましょう、ということです。
物凄く簡単なたとえをしますと、掛け算を習ってる小学校2年生(=上級クラス)が、簡単な足し算引き算しか出来ない小学校1年生(=下級クラス)と一緒に勉強することになりました、1年生はまだ掛け算習ってないから、授業は1年生のレベルに合わせたもので進めて行く形になります、と言われることのようなものでして。
何故学校側の大人の事情で自分達の授業の質が落とされなくてはならないのか、何故自分達が下級生に合わせなくならないのか、勉学欲の人一倍強かった熊本バンドたちがそう思うのも無理のない話です。
欲を言えば、あれだけ勉強欲丸出しで熊本バンドを登場させたのだから、その辺りの心の機微もちゃんと描いてあげて欲しかったなと。
あの演出じゃ、何故生徒が不満を抱いているのか、いまいち視聴者には伝わらないです。

生徒たちのストライキに対して、襄さんを除く教師陣は授業を無断欠席することは重大な罪だと、罰則を与えるべきと進言します。
明治13年4月13日、襄さんは生徒を講堂に集め、学校存続のためにクラスの合併はやむを得ない旨を言います。
しかしそれに伴っての生徒への説明が不十分だったことを詫び、「過ちを犯した罰は受けねばなりません。全ての過ちの責任は校長の私にあります。よって、私が罰を受けます」と右手に持っていた杖で、自らの左手を杖が折れるまで何度も激しく打ち付けました。
所謂「自責の杖」事件と呼ばれるもので、本来は「吉野山花待つころの朝な朝な心にかかる峰の白雲」という、佐川田昌俊さんの和歌が前置きがあって、杖の打ち付け、という流れでした。
この和歌は襄さんの特にお気に入りで、死の間際にも何度も何度も詠んでいます。
歌意は「吉野山に桜が咲くのを待つ頃になると、毎朝毎朝、桜ではないかと気に掛かる、峰に掛かっている白雲であることよ」というので、「自責の杖」の際にこれを出して来たときの襄さんの心境としては、いつも同志社(含むそこで学ぶ生徒)のことを気にかけています、ということだったのではないかなと。
しかし生徒ではなく自分を罰したのも、他者の罪は自分が背負う、という襄さんは、生徒の声に耳をまるで傾けないあの場にいた宣教師ズよりも、よっぽどキリスト教信者だよなと思いました。
余談ですがこのときの杖、八重の桜紀行でも映ってましたが、現存してます。
同志社大学が所有しているのですが、同志社大学の新島襄遺品庫からの検索で、現物の写真を見ることが出来ます。
本物見たことありますが、最初見た時は「何でこれを捨てなかったのだろう?」とはてなマークを浮かべたものですが、自戒か何かの意味を込めて置いておいたのでしょうか。
それはさておき、事情は如何あれ自分の杖で自分の手を打ち付けるほどに夫が追い詰められていたというのに(ドラマの流れだと、原因の一端は八重さんのはったりにもある)、襄さんの手を手当てする八重さんの態度がちょっとなぁ・・・と感じました(苦笑)。
何だか今回は、八重さんはどの場面にいても、何をしていても、違和感と異物感がない雑じったような感じになるというか、はっきり言って八重さんいなくても良いんじゃない?とう感じがして。
もう少し彼女に対して、どうにか上手いことならないものですかね。

さて、それから約ひと月経った5月24日、猪一郎さんが同志社英学校を卒業目前にして中退します。
「自責の杖」事件の後遺症(責任をとって)というのが理由ですが、猪一郎さんの中でキリスト教への関心が薄れたのに反比例して新聞への関心が高まったことも大きな理由でしょう。
西南戦争を報道した諸新聞の影響も大きく作用してたと思います。
後の自伝で、猪一郎さんは学校の読書室にあった『日日新聞』『報知新聞』『朝野新聞』『大阪日報』などを読んで新聞への興味を高め、ジャーナリストという人生目標を見出したと綴っています。
襄さんは猪一郎さんを、新日本という国家を支える活躍を期待していたほどに彼の才能を認めていましたが、同時にその才能が暴走しないかの危惧もしていました。
送別の辞の「大人とならんと欲すれば、自ら大人と思ふ勿れ」というのには、そういったものも含んでのものかと。
そう言ったわけで同志社英学校を中退した猪一郎さんでしたが、実は1875年~1891年前の同志社の退学率は83.3%でした。
脱落という意味での退学もこの数字には含まれているでしょうが、彼の他にも卒業を目前にしてアクションを起こして行った生徒がいたとも捉えられます。
しかし上京を目指した猪一郎さんでしたが、その前途はなかなかに多難で、まず書籍諸々を処分しても旅費の工面が出来ないので、襄さんにそれを無心したら「私の学校辞めるとか言っておきながら、何を虫のいいこと言ってるんですか?」と断られ。
上京出来たら出来た出で、東京日日新聞社に就職活動しますが、福地さんへ17回訪問して全部門前払い食らったり・・・と。
その後も他の名士を当たりましたが全滅し、故郷熊本に引き上げて行きます。
ですが、これでじゃあ猪一郎さんさようなら、では決してありません。
折に触れて、この方は八重さんの人生に関わってくるのですが・・・そのあたりドラマが触れるのかどうかは、現時点では望み薄です(汗)。
そもそも彼の弟が、とっくに同志社英学校に入学しているはずなのに見当たらないのも気になります・・・こちらもなかなか重要人物(久栄さんに関わってくる人物なので)だとは思うのですが・・・。

ではでは、此度はこのあたりで。


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