2013年10月15日火曜日

第41回「覚馬の娘」

有名な「吾死スルトモ自由ハ死セン(板垣死すとも自由は死せず)」は明治15年の出来事なので(そう言って息絶えたわけじゃないけど・・・)、時間軸としてはもう少し先の話ですが、この頃日本で自由民権運動の熱がうねりを上げていました。
要は民の声を政に反映させようという動きです。
二十歳になれば当たり前のように男女に平等に選挙権というものが与えられている時代に生まれた我々からすれば、民権獲得のための時代というのは少し想像しにくいかもしれません。
国会と議会の開設が明治政府の急ぐべき課題としてある、というのは以前の記事で触れた通りです。
それをしなければ、先進国として諸外国から認めて貰えない、つまりそんな状態では不平等条約解消何て叶いっこない、という事情が背景にあるのも、同じく前回の記事で触れた通りです。
そうでありながら、何故政府はいつまで経ってもそうしないのか、ということについて、少し触れたいと思います。
まず単純な構図から行くと、選挙をする=人気のない者は当選しない、ということですので、今のポストから自分が蹴落とされるかもしれない、というしがみ付きが挙げられます。
が、まあしがみ付く彼らにも彼らなりの正当な理由(?)がありまして、選挙で素人が政界に出て来ちゃったら、日本のかじ取りが危うくなるという心配があったからなんですね。
政治のせの字もよく分からない人が、でも選挙で当選してしまいました、でもやっぱり何して良いのか分かりません、な描写は、先週の京都府会の選挙で描かれていた通りです。
京都の場合は、議長の座に就いた覚馬さんが指導係のような形で彼らを教え導いていましたが、あれがそのまんま日本という国のトップで行われるとなると、確かにちょっと問題ですよね。
覚馬さんみたいな人がいっぱい政府にいるのならまだしも、ですが、そんな都合の良いようには世の中出来てません(笑)。
と、いうのが政府が国会の開設にすぐに踏み切れないざっくりとした事情のようなものです。
ただ、民衆にはやっぱり藩閥による専制政治に見えたんでしょうね。
徳川幕府が、戊辰戦争勝ち組の藩に変わっただけで、これじゃあ何も変わってないじゃないか、と。
民権派と政府との対立は、色んな事情も相俟って複雑な様相となっているのですが・・・ドラマの描かれ方ですと、完全に明治政府側が悪者みたいでしたね。
悪者にも悪者なりの事情というのは、いつの時代もちゃんとあるとは思うのですけどね~。
何だかんだ言って国会の開設は、明治14年に明治天皇が国会開設の詔を発して、それからまだ10年ほど待たなくちゃいけないのですが、それでも「早すぎた」と批判していた人とかもいますからね(某べらんめえ口調の方とか)。
まあ日本の上がそんな感じで、その縮小版と言わんばかりに地方(京都)も覚馬さん率いる議会と、槇村知事が衝突します。
国庫の引き継ぎをうっかり忘れていた明治政府は、始まったその瞬間から財政的に苦しい政府でしたが、それに加えて西南戦争の大動員もあったので、非常にお金に困っていました。
予算が足りないのなら、他から搾り取ればいいと考えるのはいつの時代も発想が同じなのでしょうか、このときは地方の負担を増やすことになります。
そういうわけで京都では、税の追加徴収が槇村さん(知事)から通達されます。
が、それがすんなり通る筈もなく、それを通さぬために覚馬さん達議会が壁となってそれを阻みます。

府の予算はまず議会で審議する決まりです。税の追加徴収を独断で決められでは困る
知事が足らん金を集めて、何が悪い
知事と言えど、人民の財産を勝手に奪うごどは許されません

ご尤もな正論です。
ちなみに府会(覚馬さん達)には、議案の提案権や決算の審査権はありませんでした。
逆に知事には議事の停止権がありましたが、府会は地方税の審議権は持っていたので、槇村さんの独断に掣肘を食らわす権利を彼らはちゃんと有しています。
知事の独断を防ぐための府会で、知事が独断で何もかもしてしまったら、府会の存在意味ってなくなりますよね。
知事には府会に反対されても議案を通せる権利は持ってはいますが、府会は府会で審議権を持っていますから。
この槇村さんの横暴を弾劾する上申書を覚馬さんは政府に送りますが、返事はありません。
知事独断による府民への増税を暗黙の了解として捉えている、とありますが、政府側としては「それしか方法がない」「むしろ文句があるのなら他の方法教えてよ、そっち採用するから」という状態なのでしょう。
明治13年度(第二回)通常府会が行われたのは、5月7日でした。
知事である槇村さんも出席し、会期は85日、7月30日の閉会でしたが、この最中に地方税追徴布達について審議され、この件は同年10月6日開会の臨時府会まで持ち越すことになります。
この臨時府会は10月16日に閉会し、この増税についてを討議可決して槇村さんを屈服させる・・・というのが今回のこの事件の顛末になるのですが、その過程をドラマの内容を突きつつ追って行きましょう。
まず開会中に、槇村さんは地租と戸数割について各12銭1厘7毛の追徴を布達し、府会(覚馬さん達)に事後承諾を求めますが、府会は審議の結果、これを不当とします。
覚馬さんは議長として、追徴の旨を取り消すよう伺書を槇村さんに提出しますが、槇村さんの回答は「施行候儀と可心得事」と高圧的です。
これが6月10日時点。
そこで覚馬さんら府会は槇村さんを非難し、内務卿の松方正義さんに実情を具申、伺書を提出します。
作中の上申書はこれのことですね。
これが6月14日の出来事ですが、これに返事が来たのが6月30日と、かなりの時間を経過してのことでした。
しかも回答電報の内容は、「地方税追徴の儀には、差出したる伺書は建議と認め、其侭留置き指令に及ばず」というもの。
覚馬さんは、自分達が出した伺書を建議というのなら理由を示すよう(法律上の明文がなかったので)に内務省に要求します。
対して内務省は沈黙を貫き、そうこうしている内に府会は閉会してしまいます。
けれどもこのまま押し切られて増税になるかと思いきや、覚馬さんが「知事よりもっと大きな力を味方につける」と、新聞という媒介を通じて世論に槇村さんのやり口を訴え、世論を味方に付ける、と言った方法を取ったのが効を成したのか、10月16日に開かれた臨時府会で「詮議の次第有之、本年当府第二百十一号布達(註:地方税追徴布達のこと)は一旦取消候事」という旨を発表し、府会は主張を貫き、槇村さんは屈服させられたことになります。
槇村さんは改めて府会に地方税追徴の議案を提出し、府会は原案を可決、執行となります。
つまり府会を無視せず、議会の審議権を尊重した正式な手順を踏んでの、改めての増税案を提出し直したわけですね。

私は、本日を以って職を辞します。戦いに負げで、私は議会を去る。あなたは勝って、知事の面目を保った。勇退なされば、元老院に迎えられるでしょう。・・・よい花道ではありませんか?

と、こんな具合にドラマでは覚馬さんが刺し違える形で、槇村政権の幕を下ろさせていました。
実際の覚馬さんはこれらの事の顛末を見届けた後、議長と議員を辞職して府会を去り、しかしご隠居になったわけではなく、京都商工会議所会頭に就任して、経済面で京都をサポートする立場に転じます。
槇村さんはその責任を問われる形で、翌明治14年に元老院議官へ転出しました。
刺し違えではなかったような気がするのですが・・・まあ個々の捉え方がありますよね。

色々順番が前後してますが、京都の自由自治攻防戦はさておき、今週のタイトルにも掲げられているメインの部分に触れましょう。
文久2年(1862)の生まれですので、今は18歳、数えで19歳になるみねさん。
来年には女学校の卒業を控えているらしいのですが、そのみねさんに婿取りの話が持ち上がります。

何と言っても、みねは山本家の跡取りだから。みねにはしっかりした婿を取って、家を継がせねばなんねぇよ。うらがみねを手放した気持ぢ・・・忘れだらなんねぇがら

まあ山本家を継ぐ男児がいないので、みねさんが必然的に嫡子にはなりますからね。
八重さんと襄さんの間に男児が、あるいは尚之助さんとの間に男児がいたら事情は変わって来ていたでしょうが、生憎と八重さんに御子はいません。
うらさんも、直接口に出したことこそなかったけれど、そういう方針で(つまり嫡子として)みねさんを育ててたんだろうな、と思います。
しかし冒頭で初子さんとみや子さんと叫びながら、「結婚のけの字は汚れのけ」と言っていた辺り、彼女には結婚に対して抵抗があるのでしょうか。
けれども今治にいる時雄さんに手編みの靴下を送ったり、文通をしたり・・・と淡い思いを抱いているのも確か。
そんな折、京都で同志社演説会が開かれることになり、卒業後各地に散っていた金森さんや海老名さん、時雄さん達が京都に集まります。
新島邸でその準備に励む最中、覚馬さんも襄さんも八重さんも全員揃っているからということで、時雄さんはみねさんを伴侶にしたい旨を告白します。
取り敢えず時雄さんのその一世一代の決心の下の告白は、一旦保留にされたらしく、覚馬さんと八重さんはみねさんの気持ちの確認をします。

いい青年だ。悪ぐねぇ縁だど思うげんじょな

覚馬さんが時雄さんを「いい青年」という背景理由の一つに、以前の記事でも触れた、尊敬していた横井小楠さんの息子だから、という理由も大いにあると思います。
ですが、小楠さんの存在をスルーし続けて来たこの大河ですので、今更その事実にも触れるわけにはいかないとでも思ったのでしょうか。
何処までもスルーされ続ける小楠さんの存在です。
まあ、今はそれはさて置き。
覚馬さんからのOKサインが出て、みねさん自身も時雄さんのことを憎からず思っているのに、どどーんと時雄さんの胸に飛び込んでいけないのは、伊勢さんが長男だから山本家の婿にはなれないという問題があるからなんですね。
得に覚馬さんはその辺り気にしている節がないのですが、みねさんは目茶苦茶気にしていました。
寧ろ、あっさりOKサインを出す父親に、それで良いのか、と逆に問い掛けるほど。

子供の頃がら、ずっと言われでだ。・・・みねは山本覚馬の娘だ。おとっつぁまの名を汚してはなんねぇ。婿を取って家を継がねばなんねぇど・・・いづも、おっかさまに言われでだ。顔も知らないおとっつぁまの話、毎日聞かされでだ。・・・おっかさまは、おとっつぁまのごどをずっと思っていだんです。それなのに・・・おとっつぁまは、おっかさまを捨てだ!・・・うぢには久栄がいっから、もう私がいなくでもいいんだべ!おとっつぁまは、今度は私を放り出すのがし!?

嫡子としての立場に縛られ、母親を捨てた前科のある父親だから、今度は自分を捨てるのか!?という娘としての複雑な気持ちもあり・・・と、みねさんの中はもうぐっちゃぐちゃだったかと思います。
その葛藤描写がもう少し欲しかったところですが。
八重さんに「姉様は家のためにみねを手放したのではなく、どうしたらみねが幸せになれるのかを考えてた」と、つまり嫡子としての考えに縛られず、自分の幸せの方向に歩いて行けば、それがうらさんの願いだったと言われます。
でもそれならみねさんは家族三人で一緒に暮らしたかったんですよね。
それに、戦で家族が別れ別れになって・・・、と八重さんは言いますが、うらさんと覚馬さんのことに関しては戦はほぼ関係ない。
更に、みねさんの説得役は、八重さんでなかったら駄目か?という疑問も浮かびました。
いえ、こうしなければ、今回も主人公でありながら蚊帳の外に置かれてる感になってしまうかと思いますので、そうしないための措置なのでしょうが・・・。
個人的には覚馬さんがみねさんに、「お前の思う道を行け。跡取りのことを気にしてるんだったら、気にするな。お前が産んだ子を一人、山本家の跡取りとして迎えればいい」くらい言うのが、一番綺麗にまとまる(実際みねさんの子供がそうなるわけですし)形だったのではと。
何だかこう、いまいちタイトルに「父娘」を漂わせているにしては、父娘が強く感じられないなと。
そもそもこのみねさんの結婚も、大切でないとまでは言いませんが、それは覚馬さんと小楠さんの関係をちゃんと描けた上で「意味」が浮き出てくるものでありまして、そこがごっそりないのに、話の半分くらい使ってやられてもなぁ、と。
それよりも、東京や薩長中心の明治ではなく、京都という一地方(京都を地方とするのには違和感がありますが、中央ではないという意味で)の一府会の出来事にちゃんを腰を据えて描いたら、ホームドラマの嘲笑を受けずにいいドラマになると思うのですが。
これはまあ、あくまで私の主観と好みの問題ですので、余りお気になさらず(ただのぼやきです)。

明治14年(1881)、北海道開拓使を巡る汚職疑惑、いわゆる開拓使官有物払下げ事件が起こります。
北海道開拓使長官の黒田清隆さんは、明治4年から10年間の開拓計画の満期を終えた後、つまりこの明治14年、開拓使を廃止する方針を固めました。
でも開拓使は廃止しても、開拓事業ははいそこでおしまい、ということにはなりませんよね。
というわけで、開拓事業そのものは今後も継続という方向になりますが、そのために黒田さんは部下の官吏を退職させて起業させ(関西貿易商会)、自分達が使っていた施設や設備を、これに安価(当時の38万円)で払い下げることにしたのです。
黒田さん達が使っていた施設や設備、たとえば船を停めるところや倉庫、炭鉱、工場、農園もろもろは、民間のものではなく国有物です。
これらを作るのには勿論大金(当時の1400万円)がかかってますし、その大金はといえば国民の税も含まれているわけですよ。
黒田さんはこれらが「赤字だったから」という理由でそうしたのですが、これに政府内部からも、そしてこれを報じた東京日日新聞によって民衆からも非難が浴びせられます。
特に政府内では、この民間への払い下げを認める規約を作った大隈重信さんがこれを非難しますが、これが巡りに巡って大隈さんが仕掛けたことでは?とう疑惑が生じ、明治14年の政変へと発展して行くことになります。
薩摩出身の黒田さんに対して大隈さんは非薩長の方ですので、陥れられたのか何なのか、東京を離れた隙に伊藤さんらによって政界を追われることになります。
それが明治14年10月12日の出来事。
ですがその一方で、民衆から政府に向けられる非難への収拾策として、明治天皇の勅許を頂き、国会開設の勅諭が出され、事の発端となった払い下げは中止と発表しました。
しかし昨日の今日で選挙を行ってすぐに国会を開設したら、折角政界から追放した大隈さん(薩長閥で凝り固まった明治政府を非難したので、民衆からの支持があった)が復活してきて政権を奪われかねません。
なので、国会開設の勅諭は出されましたが、実際に開設されるのはこれより九年後の明治23年(1890)と定められました。

世論を抑えるには、国会の開設を進めるしかありません

という伊藤さんの言葉の通りに事は進んでいるように見えて、本当の開設まで年月を設ける辺り、本当民権って難しいのだなと思います。
ドラマの流れですと、岩倉さんや伊藤さんが物凄く今の地位に執着してる悪者に見えますが、悪者にも悪者なりの事情があるというのは、既に今回の記事の冒頭あたりで触れた通りです。

何はともあれ、明治政府は国会開設と議会制度の確立を国民に約束しました。
新聞記事でそのことを知り、世の中とともに国が変わって行くことを確かに実感する八重さんに、襄さんは同志社英学校を大学に作り変えると言います。

人民が国の舵取りをする時代が来るのです。一国の良心となる人物を大勢育てねばなりません。そのためには大学が必要です。国の権力に左右されずに、自由自治の精神を貫く私立の大学が

私立の大学と言えば、同志社大学もそうですが、政界を追われた大隈さんも東京専門学校(現在の早稲田大学)を明治15年に作りますよね。
明治14年の政変後、明治政府は天皇制国家・天皇制教育の形成に向かって行ってしまいました。
そんな中、襄さんは大学設立のために明治政府要人らを利用しつつ、教育を通じて国家秩序を回転させ、新しい日本を創出することを目論んでいました。
あまりドラマではそう言う風に描かれませんが、襄さんは国家論的視野に立つスケール雄大な教育事業家(何と言っても明治六大教育家に名を連ねてますので)なのです。
覚馬さんの設定も大概削られてますが、襄さんの国家観や政府観もごっそり削られてますよね、このドラマ。
何と言いましょうか、一つ一つの出来事の掘り下げが浅く、登場人物の心情に踏み込まず、エピソードだけをぼんぼんぼん、と進めて行くので、歴史版サザエさんを見させられているような気にならなくもないです。
今回でいうと、「みね、嫁ぐ」「知事VS議長」「明治14年の政変」の三本立てで!という感じで。
そして次回はうらさんが出てくるようで・・・どうして尚之助さんの時と言い、綺麗に終わらせたエピソードを蛇足的にまた持ってくるのか・・・(謎)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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