2013年10月23日水曜日

第42回「襄と行く会津」

結構多くの人が、板垣さんは明治15年に起きた岐阜事件で、「吾死スルトモ自由ハ死セン」といって亡くなった、と勘違いしているようです。
が、実際はその後も彼は生きております。
いつまで生きたのかというと、事件の37年後までご存命でした。
ちなみに岐阜事件の際に、板垣さんを刺した犯人は後日板垣さんに謝罪していますし、板垣さんも板垣さんで、それを笑って許した、などというエピソードなんかも残っております。
教科書的な歴史の流れで捉えるなら、板垣さんといえば自由民権運動と自由党、というキーワードに連結させるのですが、「八重の桜」で言いますと、板垣さんは会津攻めの総司令官なのですよね。

日本で初めての、私立大学です。官立の大学は、ともすれば国の都合で人を型に嵌め込みます。人民の力を育てるには、民間の大学が必要なんです

大学設立の協力を得るために板垣さんの静養所を訪ねた襄さんは、そう話します。
民の力、というのは、会津攻めで総司令の立場にあった板垣さんも重々承知です。

会津の武士はよう戦うた。けんど、領民の多くは戦を傍観するばっかりで、なんちゃあらんかった。これを日本という国に置き換えてみたとき、わしはぞっとしたがやき。・・・武士だけが戦うても、人民がそっぽ向いちょったら、国は亡びるろう。人民に上下の区別があっては、日本は強い国になれんがやき。領民挙って力を合わせちょったら、会津も焦土にならんかったかもしれん

会津戦争の折、会津の領民らが薩長連合軍の道案内を買って出たりした・・・などなどというのは、会津戦争の部分も記事で既に触れました。
その彼らが、しかし合力したところで会津の焦土化が防げたのかと言われれば、非常に微妙なところですが(苦笑)。
しかし何だかんだ言っても、江戸期を通じて日本の人口の割合で一番を置くを占めているのは武士階級ではなく、農工商などの民階級ですからね。
何たって国を作っているのは民ですから、そこにそっぽを向かれたら日本という国が立ち行かなくなる。
会津の時は敵方の問題だったそれを、今度は日本という枠組みに当て嵌めて考えるこの流れ、良いなと思いました。

さて、今回のタイトルにもなっている、襄さんと八重さんの会津紀行。
ドラマでは8月となっていましたが、正確には明治15年(1882)7月27日に安中を経てふたりは会津に来ています。
新婚のみねさんがこれに付いて行ったのかどうか、確かなところは知りませんが、時雄さんが同行したのは間違いないので、もしかするとドラマのような四人旅だったのかもしれませんね。
先に八重さんが海路を使って横浜から安中に着いており、7月3日に京都を出た襄さんが中山海道を経て安中に着いたのは7月11日。
その道中の7月7日、襄さんは信州にあった「寝覚の床」と言う蕎麦屋で、猪一郎さんと蕎麦の大食い対決をしました。
実は蕎麦は襄さんの大大大好物で、「先生は食物には頗る趣味があった。特に蕎麦となれば命さへ打込む程であった」と後に猪一郎さんが『蘇峰自伝』に記すほどですから、相当なものです。
気になる勝敗の結果と言えば、ドラマでは襄さんが12杯に対し、猪一郎さん11杯なので襄さんの勝ちとなっていました。
ところが猪一郎さんは、後に回顧の中で「先生が九杯の時に、更に半杯を加へた為に予の勝となって、蕎麦代を先生に払はしめた」と書いています。
どっちが本当なのでしょうかね(笑)。
ともあれ、猪一郎さんは自分で新聞社を作る抱負を襄さん達に打ち明けます。

誰からも縛られんと、自由に記事の書ける新聞ば、この手で作りたか

これは襄さんの大学設立の抱負に通じるものがありますね。
猪一郎さんはキリスト教を異教してしまっていますが、流石「自分はずっと新島先生の信者たい」と公言しただけあって、向いている方向は同じなようです。

会津の鶴ヶ城は、籠城戦での破損が酷かったこともあり、保存の動きがありましたが福島県側が取り壊しを上申、明治7年(1874)に取り壊されました。
現存する八重さんの持ち物の中に、名刺サイズの鶴ヶ城の古写真を始めとする会津の風景が写されたものがあるのですが、それはまだ取り壊される前の鶴ヶ城が写っていたので、土産か何かとして売られていたものだったのでしょうか。
まあ、それで、ひょっとしたらうらさんに会えるかもしれないという淡い希望も抱きつつ、かつての城下を訪れた八重さん達。
八重さん、みねさんにしてみれば、約13年ぶりの故郷の土です。
当然ながら色々去来する思いもあるでしょうし、実際回想シーンが続き、嗚呼史実の八重さんもこんな気持ちで襄さんと会津に来たのだろうな・・・というのは伝わりました。
が、です。
いえ、たまには文句を言わずに大人しくドラマ観ましょうよって話ですが、やっぱり感じたことを素直に綴らせて頂きたいと思います。
正直、会津編以降の京都編で、しっかり重みをつけて、きっちりきっちり八重さんのことを描けてたら・・・つまり薩長への憎悪や尚之助さんのことなどなど、丁寧に追って描写していってくれて、それでこの会津時代回想があるのなら、嗚呼って見ている此方の心にも響くものがあると思うんですよ。
でも八重さんをはじめ、登場人物の心情とか全く掘り下げて来なかった状態でいきなり会津時代の回想を出されたので、正直萎えてしまいました。
以前の記事で私は、八重さんから「会津」を感じられない、と書きました。
あれ以降の話でも、八重さんは会津を感じさせるどころか什の掟は平気で破るわ、薩摩藩士の娘に土下座して聖人君子化してるわ、優雅にジンジャークッキー焼いてお金持ち校長夫人として何不自由なく暮らしてるわ・・・で、八重さんの中にはひと欠片も会津を見出せる要素はなかった。
なのに今回いきなり会津にやって来た八重さんが「変わっつまった」と呆然と呟いてても、視聴者からすれば回想の中に出てくる八重さんと現在の八重さんの変化ぶりに、正に「変わっつまった」なと突っ込みたくなるのですよ(勿論悪い方向に)。
一番変わったのはあなたですよ、と言いたい。
もっと言うのなら、山本八重と新島八重の別人説が浮上しても良いくらいです。
更に捻くれたものの見方をさせて頂くのなら、「私は故郷会津を忘れてません」という無言のアピールにも見えたんですよね。
いや、違いますやん、すっかり忘れてましたやん八重さん。
よしんばそうなら、第一話から見てる視聴者から「八重さんから「会津」を感じられない」何て感想飛び出てくるはずないじゃないですか。
いつそんなに変わってしまったの?どうしてそんなに変わってしまったの?脚本や制作陣は八重さんを如何したいわけ?と、もやっとしたものばかりが胸中に広がりまして・・・。
そしてそんなところへ、うらさん再登場ですよ。
尚之助さんの時に続く、綺麗に終わったと思ったものを蛇足としてまた持って来たわけですね。
実際のうらさんは、山本家と別れた後に仙台に行ったとも言われていて、その後どう暮らしたのか、再婚はしたのか、詳しいことは分かっていません。
が、山本家も山本家で離縁した彼女のことを特に探したということも伝わってはおらず・・・資料を見る限りではうらさんは離縁したので赤の他人です、な状態でして。
しかし伝わっていないだけで、実際は探したりもしたのかもしれませんし、うらさんは仙台ではなく会津にいたのかもしれない、八重さん達が会津に来たときに再会したのかもしれない。
なのでドラマでの再会を、全否定するわけではありません。
「あったかもしれない」範囲の創作は、大河ドラマの常套手段です。
ただし、「それが上手く作れていたら」の大前提がつきますけれど!
で、今回それが上手く作れていたらの大前提をクリアしてたのかというと、クリアどころか掠りもしていなかった。
うらさんを探して、うらさんに会って、その次どうしたいのか、全員子供じゃないんですからちゃんと考えておきましょうよ。
同居申し出るとか、それを断られたらせめて支援だけでもとか、本当にうらさんのことを考えて心配してたのなら、もっとあるでしょう。
それを、その場で思いついたように同居を申し出、断られたらすごすご引き下がるって、それって如何なんですか。
余計なことをしたんだべか」ってしょげるんじゃなくて、考えなしの行動すぎるよ八重さん。
その辺り、お涙頂戴シーンなのに何にも伝わってこない。
離縁は自分で決めたこと、という台詞をうらさんの口から引っ張り出して、覚馬さんとうらさんとのことは双方納得した上でのことだったんですよ、と無駄な念押しをされたようにも映る。
総じて言わせて頂いて、このシーンはやっぱり要らなかったです。
強いてこのシーンの意味(うらさん再登場)を見出すのなら、八重さん達がうらさんと会津で再会したと手紙を通じて知った覚馬さんと、それを聞かせる佐久さんの会話を聞いていた時栄さんが、「山本家」の輪の中に入って行けない疎外感のようなものを感じていた、ということでしょうか。
以前から薄らとそう言う描写はあって、それが積み重なって時栄さんの今後の展開に繋げられていくのだろうなとは思います。
でも、それならうらさんのこと抜きに、純粋に故郷トークで盛り上がる山本家に入って行けない時栄さん、の図式でも良かった。
もし覚馬さんの心にまだうらさんの存在が色濃く残っている、という風に描いて、時栄さんの寂しさに繋げて行きたいのであれば、ここはもう少し覚馬さんの心中を掘り下げるか何かするべきですよね。
そういう描写や演出が、相も変わらず悉く足りてないです。

この会津紀行の後日談と言いますか、8月1日に襄さんは時雄さんを連れて山形に行き、八重さんは彼らとは別れて会津に残ります。
山形に行った襄さん達は、甘粕三郎さんと言う人を訪ねているのですが、この三郎さんの姪の甘粕初子さんは、襄さんの死後、八重さんに養女として迎えられています。
八重さんに繋がる重要なエピソードの欠片ですので、少しは触れられると思ったのですが・・・見事にスルーでした。
ちなみにこの初子さんの母方の祖父は、会津藩公用方の手代木直右衛門さんですから、初子さんは会津藩士の血を引いているのですね。

さて、北海道開拓使次官だった黒田さんの肝煎りで始まった女子留学の企画の元に、アメリカ留学をしていた捨松さんが、十年を超える年月を経て無事に日本に帰国しました。
彼女と共にアメリカに渡った女子学生は五名でしたが、内年長者の二人は馴染めずに帰国、永井しげさん、津田梅子さん、そして捨松さんの三人が異文化圏に順応し、特に捨松さんはヴァッサー大学を三番目の優秀な成績で卒業し、卒業論文(『英国の対日外交政策』)の講演は地元の新聞に掲載されて称賛されるほどだったと言います。
そうした輝かしい実績を修めた捨松さんが、11年ぶりに家族と再会しましたが、日本の風習や日本語は忘れてしまったようで、土足で家に上がってしまうわ、自分が話しているのが英語なことにも気付いていない様子。
捨松さんとの再会を心待ちにしてた山川家の皆様も、これには吃驚です。
史実でも帰国した捨松さんは、日本語の読み書き会話がすっかり怪しくなってしまっていたようです。
それだけならまだしも、この他にも沢山の試練が帰国した彼女の前に立ちはだかるのですが・・・その辺りは次回に筆を譲ることにしましょう。

ではでは、此度はこのあたりで。


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