2013年10月29日火曜日

第43回「鹿鳴館の華」

明治14年の政変によって政界からの追放を余儀なくされた大隈さんですが、明治15年(1882)、東京専門学校を開設します。
今の早稲田大学の前身です。
ちなみに政界にもこれより16年後に返り咲いて、薩長出身以外の初めての内閣総理大臣になります。
しかし、相変わらずこのドラマは立憲改進党やら尾崎紅葉やら犬養毅に、単語ですら触れない・・・(苦笑)。
いやでも触れ出してしまったら、それこそ話の大筋逸れてドラマの行く先が昏迷まっしぐらになりますか。

大隈さんの学校開設を追い駆けるように、襄さんも同志社大学設立に向け、準備をしていました。
襄さんが書いてたのは、おそらく蘇峰さんの協力もあって完成した「同志社大学設立の旨意」だと思いますが、これが完成するのはまだまだ先の明治21年です。
これには、同志社英学校設立や私立大学設立運動の経緯を時間順に整理し、何故、どのような私立大学を設立しようとしているのかの目的が謳い上げられています。
以前の記事でも書きましたが、もう一度書きます。
襄さんは教育を通じて国家秩序を回転させ、新しい日本を創出することを目論む、国家論的視野に立つスケール雄大な教育事業家なのです。
ドラマではそう言う風に見えませんが、その辺りは頭の中で補足しましょう。
そんな襄さん、蒲柳の質なのに蕎麦の大食い対決なんてするからなのか何なのか、体調が優れないご様子。
アメリカから帰ったデイヴィスさんも襄さんの体調を慮りますが、襄さんはそんなデイヴィスさんから、捨松さんが彼と一緒の船で帰国したことを知ります。
その頃当の捨松さんと言えば、津田梅子さんと一緒に文部省を訪ね、自分達の働き口を求めますが、10年の留学期間を経て日本語の読み書きがかなり危うくなってる二人に、お役人の態度は冷たく、そして硬いものでした。
まあ確かに、「日本語の読み書きが出来なくて、誰に何を教えると言うのだ」というお役人の言い分は筋が通ってます。
いくら生物学や物理が得意と言っても、フランス語やドイツ語が出来るバイリンガルでも、それを教える相手(日本人)はそれらのこと何にも知らないのですから、仮に教壇に立てたとしても、生徒とやりとり出来ないのですよ。
が、しかし「女は嫁に行って男子を産むのが国家への最上のご奉公」というのは、先進国を目指していながら、それらしからぬ発言です。
前回の記事でも触れましたが、捨松さんはヴァッサー大学を大学を3番目の成績で卒業してる才女です。
その才女を受け入れる体制が整っていなかったのが、この頃の明治日本というのを良く表している遣り取りではありますが、しかし日露戦争ではこの捨松さんがアメリカの大学を卒業しているという経歴が、大いに光ることになります。
先の話はさて置き、国費で留学させておきながら自分に仕事をさせないなんて、文部省は馬鹿、と家族の前でストレートな発言をしてしまう捨松さん。
ストレートすぎる発言は日本では疎まれるから、と健次郎さんから窘められてますが、文部省うんぬんより、帰国後の捨松さんや梅子さんの受け皿がないのは、捨松さんらを留学させた黒田清隆さんが、2週間くらい前にドラマで触れられた開拓使官有物払下げ事件で政界去ってるからというのが一番の原因です。
しょんぼりする妹に、日本では女が身を立てるのは難しい、と操さん。
ちなみにモクスワに留学した経験のある操さんは、後にこの経歴を活かして昭憲皇太后(明治天皇の皇后)付きの女官になります。
二葉さんは今や東京女子師範学校の寄宿舎長ですし、健次郎さんは東京大学教授、浩さんは陸軍少将ですから、山川家の皆様は本当凄い御方ばかりです。
そんな兄姉に囲まれたら、捨松さんじゃなくても肩身狭く感じるんじゃないかと(苦笑)。
妹のことを案じた浩さんは、京都の八重さんを訪ね、捨松さんを同志社女学校で教員として雇って欲しいと願い出ます。
襄さんも八重さんもそれを快く承諾しますが、先ほど役人が指摘してた部分についてはこのふたりはどう考えていたのでしょうか(汗)。
そんな浩さん、覚馬さんとも15年ぶりの再会を果たし、その覚馬さんから尚之助さんの遺した『会津戦記』を手渡されます・・・やっぱりここに繋げて来ましたか・・・。
大方今度はこれを、『京都守護職始末』執筆動機にまで繋げるんでしょうが、正直『会津戦記』が完全架空の産物なので、そこまでしゃしゃり出て欲しくないなあ、と複雑な心地がします。

さてここから先は、後に鹿鳴館の華と呼ばれる開花を見せる捨松さんと、その伴侶となった大山さんの結婚までの経緯が描かれるわけですが・・・。
正直茶番以外の何物でもない締め括り方や浅い心中の描き方に、感想や考察というよりは、最近すっかり定番と化してしまった文句つらつらな文章が以下は続きます。
捨松さんと大山さんとのことを詳しく知りたい方は、捨松さんの曾孫に当たる方が書かれたこちらの書物(amazonさんへ飛びます)をお手に取ってみて下さい。
ちなみに捨松さんと大山さんのことは有名ですが、実はそれよりずっと前の明治5年に、ユキさんは薩摩藩士の内藤兼備さんと結婚しています。
津村節子さんの『流星雨』は、そんなユキさんがモデルの小説です。
明治期に八重さんとユキさんは再会してるので、その辺りのことは(ドラマで描かれるのであれば)その時に触れることにしましょう。
話を捨松さん達に戻して、ふたりが最初に出逢ったのは、永井繁子さんと瓜生外吉さんの結婚パーティーで、「ベニスの商人」を演じた時のようです。
捨松さんは大山さんの薩摩弁が分からなかったらしく(同じ日本人でも分からないですよね)、捨松さんは「あなたの日本語はよく理解できないので、フランス語か英語でお話し下さい」と申し出たそうです。
これにさらっと対応して、流暢な英語で捨松さんと会話出来るのが大山さんの凄いところです。
で、これってさり気無いことですが、物凄く重要なことなんですよ。
捨松さんが日本語に不自由してると言うことは、日本人同士でコミュニケーションが取れないと言うこと=集団では孤立する、ということになります。
でもそこで、捨松さんとコミュニケーションを取る手段を持ってる人間(=英語が分かる・喋れる)が現れると言うのは、孤独からの解放ですよね。
大山さんって、捨松さんとの年齢差が18ですし、男やもめで先妻との間には4人の娘がいて、ガマとあだ名されるほど恰幅良くて・・・と、外見だけで見ると捨松さんも魅力を見つけるのが苦しい男性だったでしょうが、そういうところ(外見だけではなく中の部分)に惹かれて・・・となったのではないでしょうか。
実際捨松さんは、「閣下のお人柄を知らない内は(求婚の)お返事も出来ません」と言って大山さんとデートしていたみたいですし。
そういうところ、如何して描いて行けないのだろうか・・・このドラマは本当に人の心の動きっていうのが描けなくなってますね。
ドラマでは捨松さんに大山さんがアプローチしていましたが、実際は間に西郷従道さんが入ってます。
と言いますのも、山川家側が「自分達は賊軍の一族ですから」と大山さんをお断りしたのを、「それなら西郷隆盛を身内に持つ自分達も賊軍です」と切り返したのが従道さんなんですよ。
なので薩摩と会津という、怨恨関係の深い立場の人間同士の大山さんと捨松さんではありますが、そういった立場で考えたら似通ってる部分もある。
脚本的には「海外に出れば同じ日本人」と言う言葉で、薩摩も会津も関係ないよ、と表したかったのでしょうが、あんな言葉にすり替えないで欲しかった。
恨み辛みを越えた関係、と綺麗事で飾って締め括ってしまうのではなく、そういう風なところを丁寧に描いてくれた方が、人間の心情をドラマの展開として視聴者も追って行きやすかったんじゃないかなと。
どうにも見ていて、捨松さんが大山さんとの結婚に応じたきっかけといますか、惹かれた理由が全く見えてこない。
そして挙句の果てには、別に登場しなくても話の進行上全く問題のない八重さんがしゃしゃり出て、大山さんと腕相撲して話を纏めようじゃないかという、場の空気をややごり押しで持っていくと言う、面白くも何ともない展開。
あらゆることの主導権は常に主人公である八重さんになかったら駄目なんですか?
八重さんって、そんな無理矢理創作を付属させなきゃネタがいないような人生歩んでましたっけ?
ああいう風な八重さん、ハンサムウーマンでしょう?って制作者側からすればしたいのでしょうが、ハンサムどころか鬱陶しい女に成り下がってるだけですよ、あれじゃあ。
別に大河ドラマに創作要素は一切禁止!何事も史実に忠実に!と言いたいわけでも、それを求めてるわけでもありません。
「ドラマ」と銘打ってる以上、創作要素は寧ろ入っていて当然だと思います。
でも、その根底に歴史上の人物や出来事への敬意や思いやりというのはあって欲しいと思います。
実際に生きていた人を、題材という形でお借りしているわけですから。
そう考えた時に、今のドラマの八重さん像を見ているとハンサムウーマンと呼ばれた八重さんに対する敬意というのが欠片も感じられないのです。
(これは八重さんに限らず、作中のほぼ全員の登場人物にも言えることですが)
折角「新島八重」という、どういう風にも面白く描ける人物を主人公に据えたのですから、それを活かした良い作品を作って欲しいのですけどね・・・。
というより、作ってくれると最初の方は期待していたのですけどね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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