2013年12月24日火曜日

おわりに

この記事を以って当ブログ「大河逍遥」の幕引きとさせて頂くつもりなのですが、いざ跋文をと思いましても、如何文章を展開させていこうかまるで閃かず・・・。
とは言っても気の利いた文章が書けるわけでもありませんので、気取らず気張らず、このブログを1年近く続けてきた自分を振り返った今の心境から綴っていくことにします。
冒頭の記事でも告白した通り、私ことみかんは三日坊主ならぬ三分坊主で、しかも極度の面倒くさがりでして。
正直大河ドラマ50回分の記事は続かない、絶対に途中で投げ出すと確信していたのですが、いい方向にその確信が裏切られました。
何より、こんなにも多くの方にこのブログが目に留まり、記事を読んで頂けるとは夢にも思ってませんでした。
根性のない私が、何だかんだ言いつつ毎週更新を続けられたのも、ひとえにここを訪れて下さる皆様のお蔭です。
やはり「読み手」なくして「書き手」は成立しませんから。

連載中、Twitterやメール、直接お会いした方々からは、色んな声を頂きました。
(アドレス表記のないお便りへのお返事は、返せないので返していません)
温かい声援だけでなく、貴重なご意見、ご指摘、頂いたお声の中に厳しいものがなかったと言えば嘘になります。
的外れなものは気にしないことにして、そのひとつひとつを心に留め、私なりに出来る範囲で、私のモットーを崩さずに50週ひたすら手を動かし続けたのが今の到着点です。
素人ですので、いつも勉強しながら記事を書いていた状態で、それ故に未熟な点や考察が浅かった部分はたくさんあったかと思います。
毎回脳髄をこれでもかと振り絞って記事を書き起こしていましたが、途中で自分でも何を言っているのか分からなくなったり、もやもやしたものを上手く言葉に表現出来ないことが多々あって、お世辞にも読みやすい記事ばかりではなかったかと思います。
実際自分でも納得のいく出来の記事は、片手の数ほどもありません。
それでもお付き合い下さった方には本当頭の上がらぬ心地です、ありがとうございます。

素人視線からぼちぼちまったり追っていたつもりではありますが、流石に大河50週続けるとなるとなかなか心身共々負担が大きく、次作以降の大河ドラマはブログに興す予定はありません。
こうしてみると、「八重の桜」でやってこれたのは、私が愛してやまない幕末の、しかも思い入れ一入の会津が舞台だったからというのは、やはり大きかったのだと思います。
何はともあれ、歴史学のれの字も知らぬ素人が、50週積み重ねて来た月日の結晶がこの「大河逍遥」というブログです。
総じて冗長傾向の強い連載ではありましたが、その中で読み手の皆様に一つでも思うところを残せられたら、また何かを与えられたのなら、これ以上ない喜びです。

これをもちまして、当ブログはこれで終わりとさせて頂きます。
ブログは終わりですが、Twitterでふよふよ漂っておりますので、また何処かでひょっこりお会いすることもあるかもしれません。
その際には、宜しくお願いします。
そして、何卒お手柔らかに。
最後にもう一度、お世話になった方々、ご愛読下さった皆様、応援して下さった人々に心からの感謝の気持ちを込めて。


 平成二十五年師走二十四日
 京都守護職を拝命した容保様が入京された日から150年が経過した夜に


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年12月22日日曜日

参考文献

[参考文献]

・「戦争の日本史18 戊辰戦争」保谷徹(吉川弘文館)
・「京都時代MAP 幕末維新編」新創社編(光村推古書院)
・「図説で迫る西郷隆盛」木村武仁(淡交社)
・「会津藩」野口信一(現代書館)
・「新島八重を歩く」星亮一、戊辰戦争研究会(潮書房光人社)
・「山本覚馬」安藤優一郎(PHP文庫)
・「新島八重の維新」安藤優一郎(青春新書)
・「保科正之 -徳川将軍家を支えた会津藩主-」中村彰彦(中公新書)
・「会津藩はなぜ「朝敵」か -幕末維新史最大の謎-」星亮一(ベスト新書)
・「幕末の会津藩 -運命を決めた上洛-」星亮一(中公新書)
・「新・歴史群像シリーズ 14 幕末諸隊録」(学研マーケティング)
・「新選組戦場日記―永倉新八「浪士文久報国記事」を読む」木村幸比古(PHP研究所)
・「川崎尚之助と八重 一途に生きた男の生涯」あさくらゆう(知道出版)
・「池田屋事件の研究」中村武生(講談社)
・「女たちの会津戦争」星亮一(平凡社新書)
・「奥羽越列藩同盟」星亮一 (中公新書)
・「山本覚馬傳」青山霞村(京都ライトハウス)
・「明治思想史の一断面-新島襄・徳富蘆花そして蘇峰」伊藤彌彦(晃洋書房)
・「新島襄自伝」同志社編(岩波文庫)
・「新島襄書簡集」同志社編(岩波文庫)
・「慶喜のカリスマ」野口武彦(講談社)
・「二〇一三年NHK大河ドラマ特別展八重の桜 図録」NHK編(NHKプロモーション)
・「京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記- 1」山川浩(平凡社)
・「京都守護職始末-旧会津藩老臣の手記- 2」山川浩(平凡社)
・「幕末史」半藤一利(平凡社)
・高橋正則(1982)「議会政治へ の軌道を敷いた大隈の入閣」駒澤大学法学部政治学論集15(未公刊)
・迫田千加子他(2007)「戦前の広島県における看護婦養成の足跡-94歳の元看護婦が受けた教育を手がかりに-」看護学統合研究8巻2号
・「新島襄全集1~10」新島襄全集編集委員会編(同朋舎出版)
・「世界史のなかの明治維新」明治維新史学会編(有志舎)
・「明治維新とナショナリズム-幕末の外交と政治変動-」三谷博(山川出版社)
・近代デジタルライブラリー(http://kindai.ndl.go.jp/)


その他、同志社社史資料センター、及び私の出身大学図書館には、資料の面で大変お世話になりましたことを、心から感謝の気持ちを表し篤くお礼申し上げます。

2013年12月18日水曜日

「八重の桜」総評 -桜は咲いたか-

2013年の大河ドラマ「八重の桜」の制作発表が行われたのは、2011年6月22日のことだったでしょうか。
「日本を元気に」という目標を掲げ、八重さんの生き方を通して東日本大震災を受けた東北に向け「力強いメッセージ」として描いていく、という目標の様なものが第一にあったことは、皆様ご承知の通りです。
「八重の桜」が「復興大河」と言われるのは、そういった背景からです。
桜、とあるのも、また咲いて春を迎えるという意味を込めてでしょうね。
NHKに展示されていたドラマのポスターにも書いてあった、「また咲こう、福島」のキャッチフレーズは、大好きでした。

さて、ではここで作麼生。
それほどまでに想いが込められた八重の「桜」は、咲いたのか?
すぐに説破、とは行かないでしょうから、私なりに感じたことを、やっぱりいつものようにタラタラと書かせて頂きます。

大河ドラマというのは、ご当地の観光誘致という面でも非常な効果を発揮するものでして、観光客が来たらお金が地元に落ちて、地元の経済がぐるぐる回ります。
経済学が苦手な私でも分かる、いわゆるこの「大河ドラマ効果」の面に於いては、「八重の桜」は大盛況だったと言ってまず間違いないでしょう。
会津に足を運んだ人は多いと聞きますし、旅行会社でツアーもたくさん組まれていました。
私などは、会津への思いは募ってもなかなか遠い地ですので、仕事の休みの確保もままならないことも相俟って未だに会津未踏なのですが、それでも今年は会津の方から何かと私の傍にやって来てくれました。
つまりは会津(福島)の物産展ですね。
八重さんが人生の半分以上を過ごした京都は近いこともあってか、今までほとんど行われていなかったように思う会津の物産展が、私の周りでは何度も催されていました。
そこを通じて、私の部屋には赤べこ三つに起き上がり小法師も三つやって来て・・・。
また友人から会津土産として頂いた会津木綿は、カーテンやランチョンマットに姿を変えておりますし、会津漆器の小物整理箱は品よく茶箪笥の中に収まっております。
気付けば、会津未踏の身ながら、部屋の中はすっかり会津の民芸品で埋め尽くされております。
私のように遠隔地ながら民芸品ナドナドを買うということから、会津まで赴いてその地に泊まって旅する・・・というところも含め、やっぱりこれもまるっと「大河ドラマ効果」と言えるのではと思います。
何より福島県の風評被害払拭に、「八重の桜」が効果を発揮したのは事実でしょう。
人が赴けば町も活気づく。
そういった現代と直結する面で見ますと、「桜」は満開に咲き誇ったと思います。

ではドラマに込められた、もうひとつのコンセプトの方の咲き具合は如何だったか。
言わずもがなそのコンセプトは、「薩長史観ではない会津から見た幕末史」。
これについては当ブログで散々申し上げているので、ブログを読んで下さってる方はもうお分かりかと思いますが、こちらの「桜」は咲かず、蕾程度で留まったと感じています。
いえ、途中までは順調でしたので、あの調子で行ってくれれば蕾も綻んだでしょう。
しかし前半(会津編)で積み重ねてきたものを、後半(京都編)で一気に崩して自滅したと言いますか・・・「悪かったのは会津です」と容保様や覚馬さんの口から言わせてしまったのがとどめでした。
以前の記事でも口うるさく書かせて頂きましたが、単純な二元論は歴史には通用しないんです。
そこを、単純な二元論を持ち込んで善悪つけてしまうような真似をしてしまったから、結局は「会津が悪い」といういつもの薩長史観幕末と何ら変わらないものに成り下がってしまった。
最初コンセプト通りの良い作品になりそうだっただけに、この着地点は物凄く惜しいことだと思います。
惜しいからこそ、薩長史観の幕末史ばかりが必ずしも歴史だとは思ってなかったからこそ、口うるさく騒いでいたのです。
この気持ち、少しでも酌んでお分かり頂けたら幸いです。

もうひとつおまけで、ドラマとしての出来の「桜」の咲き具合を検討したいと思います。
いわゆる「八重の桜」が、ドラマ(物語)としてどうだったのか、ということですね。
これに関しては完全に個人評価ですので、飽く迄私はこう思ったんだよ、という程度に受け止めておいて下さい。
自分が思ってることと違うかもしれませんが、あなたにはあなたの評価が、私には私の評価がある、それで良いじゃありませんか。
で、物語としての「八重の桜」は、登場人物の書き込みの粗さ、話の中で登場人物を成長させられなかった積み重ねの下手さが、非常に良く目立ったと思います。
ドラマの中の登場人物だって人なわけですから、感情もあるし、考えもする。
それが行動や発言となって表れてくる。
そういうのを見て、視聴者は「ああ、この人はこういうキャラなんだな」と認識していくのですが、それがほとんど出来なくてですね。
いつか私がブログの記事で零した、「八重さんから会津を感じられない」というのも、そういう描写の甘さが引き起こしたものだと思います。
特に後半は、奥行きのない紙芝居か何かを見せられているような感じになることもしばしば。
映像としては、会津の自然も、籠城戦の戦闘風景も、明治期の八重さんの洋装も、その他諸々素晴らしかったのですが、視覚的な美しさを並べるのなら写真集でも出来ます。
でもドラマなのですから、その視覚的な美しさが動いているわけですよ。
そこに温度を授けられなかったのは、完全に制作側の至らなさでしょう。
ドラマとしてだけの点数をつけるなら、65点でしょうかね。
70点はあげられないです、残念ながら。
それと後は、物語に史実を加える、その匙加減・・・とでも言いましょうか。
ドラマなんですから脚色創作部分あって当然ですし、史実に絶対忠実であれ、と、そんな元を求める気は毛頭御座いません。
いつも、史実では~史実では~というせいか、何だか私は史実絶対主義者のように思われているかもしれません。
ですが、「面白くて、歴史に対して敬意を忘れてない」創作であれば、出されても私は何も文句言いません。
何かにつけて不満があったのは、過去の記事でも何度か触れてきましたが、それを創作するにあたって歴史への敬意が感じられないことがあったからです。
歴史を題材にしたものを脚色する、あるいは創作を挿むということは、「何してもいい」とイコールではありません。
それは『不如帰』という小説を書いて、捨松さんに精神的大ダメージ与えた蘆花さんのしたことと同じです。
だからと言って、先ほど申し上げたように史実に絶対であれ、というわけでもない。
要はバランスの問題なのですが、そのバランスが恐ろしいほど宜しくなかったかと。
(このバランス、歴史を扱うドラマでは欠かせないのに・・・)

と、まあ色々言いましたが、全体で言いますと五分咲きではないので七分咲き辺りでしょうかね。
満開の評は差し上げられません。
何はともあれ「八重の桜」に携わったスタッフ、出演者、関係者の皆々様、大変お疲れ様でした。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年12月17日火曜日

みねにかかれるむら雲のはれる時

幕末、「朝敵」の汚名を着せられ、会津戦争で鶴ヶ城を開城・降伏し敗者となった会津。
その汚名返上と名誉挽回までの道のりは並大抵のものではなく、長い長い歳月がかかりました。
容保様と同じく「朝敵」となった慶喜さんは、明治31年(1898)3月2日に明治天皇に拝謁を許されていますが、容保様はその機会に恵まれないまま、その生を終えられました。
つまり容保様存命中には、会津の汚名返上も名誉回復も、叶わなかったということです。
さぞやご無念だったと存じます。
その辺りの心中は、私なんぞの筆では到底書き尽くせません。
けれどもその容保様のご無念は、彼の後に続いた会津の人々が晴らしたのでした。
まずその第一として挙げられるのが、何を差し置いても浩さんと健次郎さんのご兄弟による『京都守護職始末』。
「八重の桜」の視聴を続けていた方はご存知のこの『京都守護職始末』、現在は平凡社さんから出版されていて、我々は普通に買うことも読むことも出来ます。
ですが出版に至るまで、それこそ紆余曲折を経たのもまた、「八重の桜」の視聴を続けていた方にはご存知の通りです。
ここでちょっと、『京都守護職始末』の刊行に至るまでのアレコレを、年表にしてみましょうか。

明治26年(1893):松平容保没する
明治30年(1897):山川浩、執筆着手
明治31年(1898):浩没する
同年:山川健次郎、宸翰と『京都守護職始末』草稿を貴族院勅選議員の三浦梧楼に見せる
明治35年(1892):健次郎、会津松平家に三万円の下賜金を得ることと交換条件に、『京都守護職始末』の出版を見合わせることを受け容れる
明治37年(1904):北原雅長、『七年史』発刊
明治44年(1911):元会津藩士とその関係者のみ、という限定範囲で『京都守護職始末』の出版が許される
大正11年(1922):健次郎、『會津戊辰戦史』の編纂に着手
昭和6年(1931):『『會津戊辰戦史』』完成、健次郎没する
昭和8年(1933):『會津戊辰戦史』発刊

『會津戊辰戦史』とは何ぞやと思うかもしれませんが、『京都守護職始末』の続編だと捉えて頂いて問題ないと思います。
『七年史』は神保修理さんの弟、北原雅長さんによって書かれたもので、文久2年(1862)から明治元年(1868)までの7年間の会津の歴史が綴られています。
これを出版したことにより、雅長さんは不敬罪で投獄されてしまいました。
会津藩の誠忠を披瀝しようとしたのが、政府に睨まれたのでしょうね。
そういう空気だった中、よくまあ出版したものだ・・・と思いますが、「正したい」「汚名を雪ぎたい」と言う気持ちがそれだけ強かったということの表れでもありますよね。

ですが個人的に、会津の汚名返上の決定打は『京都守護職始末』の出版から更に17年後の出来事だと思います。
つまり昭和3年(1928)9月28日、松平節子さんが秩父宮雍仁親王と結婚し、秩父宮勢津子妃となった件です。
節子さん(成婚にあたり勢津子と改名)は容保様の六男・恒雄さんの長女で、秩父宮雍仁親王は昭和天皇の実弟です(=今上天皇の叔父)。
朝敵の汚名を背負わされ続けていた会津藩の血を引く節子さんが、皇室に輿入れをしたことによって、その汚名の返上が叶った瞬間です。
当時まだ存命だった八重さんはこの輿入れを大変喜び、「萬歳々々萬ゝ歳」と喜び溢れる書を残しています(福島県立葵高等学校にあります)。
嗚呼本当に嬉しいとき、人は嬉しいという言葉しか使えないのだろうなと、そう強く思わされますね。
ちなみに八重さん、この喜びに居てもたってもいられず、京都から東京まで御婚儀奉祝のために列車で向かいました。
八重さんに限らず、このご成婚は会津の人々にとっては最上級の慶事でした。
聞いた話ですが、故郷から勢津子妃のお車を見送る会津の人々の列が延々だったとか、その他にも色々とお話が残っているようです。
このとき八重さんは、こんな歌を詠んでいます。

いくとせかみねにかかれるむら雲のはれて嬉しきひかりをそ見る

歌意は説明するだけ野暮なので控えますね。
勢津子妃の婚礼と同年、昭和天皇の即位が行われました。
奇しくもその年は戊辰戦争から60年ということで、鶴ヶ城を開城した日に程なく近い11月17日、会津所縁の人たちで構成されている京都会津会は、金戒光明寺塔頭の西雲院に集まり、境内にある会津藩殉難者墓地の墓前で秋季例会を開きました。
その時の集合写真が、八重の桜紀行にも出ていた以下のものです。

中央には容保様の子、保男さんと恒雄さんが座っており、前列左から3人目が八重さんで、前列の中央寄りに帽子を手に持っているのが健次郎さんです。
八重さんは、会津所縁の人々との再会を喜んだようで、この写真の裏に「千代経ともいろも変わらぬ若松の木のしたかげに遊ぶむれつる」 という歌を書き残していました。

会津に着せられた朝敵の汚名は、それこそじわじわと雪が解けて春が近付くような速度で、長い時間と段階を経て、60年かけてようやく晴れたのです。
60年の中で、それに立ち会えずに亡くなった方の方が多いと思います。
それでも誰かがバトンを繋いでいくように・・・そして「その日」が来た。
新時代を、旧会津藩士たちがどれだけ懸命に生きてそこにたどり着いたのか。
会津が大河ドラマの題材になったのを機に、知って欲しい、忘れないで欲しいと思いました。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年12月16日月曜日

第50回「いつの日も花は咲く」

泣いても笑っても最終回、というようなフレーズはよく耳にしますが、いっそ泣くか笑うかくらい出来たらどれだけ良いだろうかと思う最終回というのは、近年の大河最終回のお決まりパターンになりつつあるようで。
その例に漏れず、「八重の桜」の最終回も、ぽかーん、とした幕の下ろし方でした。
ドラマの総評はまた別に記事を設けるとして、まずは第50回の記事に取り掛かりたいところなのですが、やっぱりと言いますか、最後の最後まで取り立てて触れる点がなかったですね・・・(苦笑)。

日清戦争の下りに関しては、もう触れないことにします。
「坂の上の雲」観ましょう、の一言に尽きない杜撰さでしたし、大山さんひとりで全軍の指揮を執っているようにしか見えない奥行きのなさでしたので(笑)。
外地の遼東半島で頑張っていた大山さんら日本軍に対して、内地の広島陸軍予備病院で頑張っていたのが八重さんを始めとする、20人ほどの従軍看護婦達でした。
日清戦争の死傷者の内、療養を必要とする傷病者は本国に護送され、その看護に多くの従軍看護婦が動員されていました。
国からの要請を受けた日本赤十字社は、ただちに各病院に本支部より多くの従軍看護婦を派遣し、八重さんの所属していた京都支部の派遣先は広島だったのです。
広島と言えば、日清戦争の大本営は広島の第五師団司令部でした。
これは、明治天皇は前線の将兵に少しでも近い所でと望まれたことが関係しています。
八重さんが派遣された広島の陸軍予備病院は、患者の数が多くて病棟が足りず、バラック建ての病室を作って分院としてました。
日本赤十字社京都支部の担当はこのバラック建ての第三分院で、八重さんが担当してたのもそこです。
現在の国泰寺村にあったそうです。
看護婦らの置かれた環境は恵まれたものではなく、与えられた生活空間は八畳四間。
着の身着のまま、食事も看護衣のまま、明治27年11月4日から明治28年6月18日に亘って八重さん達は傷病者を介抱し、看護を続けていました。
ちなみに日清戦争での戦傷病者数トータルの、約5分の1がこの広島に運ばれてます
特に第三分院は低湿地にあって排水が宜しくないという立地条件だったこともあり、伝染病が発生します。
日清戦争ではコレラによる全国の患者数は約55000人、死者は4万人ほどでした。
広島に範囲を限りますと、感染者数の一番少なかったのが赤痢、続いてチフスで、コレラはこの二つの10倍以上もの感染者を出していました。
けれどもその三つの患者数よりも多かったのが、脚気患者です。
海軍は麦やパンを投入するなどして、ぼんやりとですが脚気予防に取り組んでいたのに対し、陸軍はその認識が遅れていましたからね(そして読んでお分かり頂ける通り、八重さんのいたのは陸軍の病院)。
ところでところでこの従軍看護師の条件として、「年寄りであること(40歳以上)」かつ「美人でないこと」というのがありました。
陸軍の見解として、「日本と欧米とでは風俗習慣が異なり、立派な戦功をたてた名誉の傷病者が、女性の看護を受け、万一、何か風紀上の悪評でも立ったら、折角の名誉を傷つけるおそれがある」という強い主張があったからです(江川義夫さんの『広島県医人伝』より)。
つまり、男性ばかりの中に年若い女性が介抱やら看護で付き添ってくれて、うっかり・・・なことになったら、風紀の上でも困る、というわけです。
実際、この頃は40歳以下の女性は病院への立入は禁止されていました。
・・・まあ、ドラマでは映像的な配慮もあってか、明らかに40歳に見えない看護婦さんばかりが立ち回っていましたが。
ちなみに八重さん、あの時点で49歳、数えで50歳です。
女優さんに老けメイクを施さないから、どうもその辺りの時代感というのでしょうか、そういうものが伝わって来にくいですね。
ついでながら、野戦病院があんなに長閑なわけないだろうとか、何で看護師さんたちの服あんなに綺麗なままなのとか、映像的な部分で突っ込みどころ満載です。
そんな従軍看護婦も、ものの数分で纏められるという駆け足っぷり。
八重さんの人生に於ける重要要素なので、今までのワッフルやクッキー焼くシーンを全部カットしてでもここにもう少し時間を割くべきだったのではなかろうかと、主人公という人間を描くために割り振られている時間の配分は最終回に至っても微妙なままのご様子。

日清戦争の頃、各新聞社からは戦地に「従軍記者」というものが派遣されていました。
「坂の上の雲」でも、子規さんがこれに赴いてたのは(そして喀血していた)皆様の記憶に新しいんじゃないかと思います。
蘇峰さんの国民新聞社もその例に漏れず、リアルタイムに近い新鮮な情報を齎すと共に、勇ましい戦地の話の記事で国内の士気を鼓舞するという意味で、新聞というメディア媒体の効力が発揮されました。
これがうっかりすると、とんでもない方へ人の意思を導いてしまいかねないことにはなるのですが、今はその話はしないことにして。
相変わらず戦争の二文字に対して眉を顰め、反戦意識の高い現代人のような八重さんですが、当時の日本国民が清国との戦争に熱狂してたのは紛れもない事実でして。
それを八重さんの口を通してあーだのこーだと言わせる前に、脚本はそれを「歴史の事実」として受け止めましょうよ。
そんな戦争万歳空気は駄目、って、現代人の物差し突っ込まないで欲しいです。
ちなみに日清戦争は最初、諸外国から見ても日本は負けるだろうな、と思われていたそうです。
が、いざ開戦して蓋を開けてみれば、近代化の歯車ぐるぐると急いで回して軍隊作った日本と、そういう体制がまだしっかりしてなかった清国との戦だったので、日本は勝てたんですよね。
逆に、数年後に起こる日露戦争は、物資も規模も何もかもが遥かに上回ってる上に、戦後革命が起こったとはいえ体制は整った国が相手でしたから、大苦戦したのも辛勝となったのも当然の成り行きと言えばそうなのですが、やっぱりその辺りは「坂の上の雲」が詳しいので、そちらを。

時に、新聞を通じて世の中に一言物申す蘇峰さんの姿に、「所詮兄貴は、大勢に流されて酔い痴れとるだけたい」と言い、自分は小説、と意気込む蘆花さん。
その彼が書いていた作品が『不如帰』という題名でしたが、これ、捨松さんと思しき女性を継子苛めする悪女のように描いた作品です(苦笑)。
当然捨松さんにとっては許しがたい、かつ大きな心の傷となった作品でした。
そんな作品の、一体どの辺りが「本当の人間」なのでしょうか・・・それともこれは、「創作物では何をしても良い」という、歴史を歪曲したり好き放題した本大河ドラマの裏メッセージか何かなのでしょうかね。
口で言ってることと、手で書いてることがまるで違うという、何とも皮肉な冗談のワンシーンでした。
そんな『不如帰』は、現在青空文庫で読むことが出来ますので、興味がある方は此方からどうぞ。

従軍看護師として広島に赴く前の明治27年(1894)、八重さんは裏千家道の茶人となります。
明治の女子教育と茶道というのは実は関係がありまして、平たくいえば茶道を通じて精神の鍛練、礼儀作法、洗練された端正な佇まい・・・などなど、日本女性の目指すべき要素を全て兼ね備えた茶道を学校教育に導入してたのですね。
物凄く砕いていえば、大和撫子の養成には茶道は打って付けですね、ということです。
裏千家としても、新局面を開発していくためには女子教育の一翼を担う必要があるということで、そこで新英女学校女紅場に裏千家茶道を中心とする茶道教育が導入されるに至ったのです。
そこで八重さんと裏千家が繋がる・・・という流れが出来るのですが、思いっきりスルーされて、まるで八重さんがある日急に思いつきの趣味でお茶を始めたように見えましたね(苦笑)。
八重さんは後に新島邸の一室を改造して茶室を作っており、「寂中庵」と名付けて毎月三回の月釜を懸けて茶会を開いていたそうです。
ただその茶道への没頭ぶり(茶道具や茶器代)が、八重さんの借金を益々増やしていくことになるのですが、そこはもう敢えて触れまい。
逸話はたくさんあるのに、触れられないことだらけのドラマの八重さんですが、雨の日に傘がなくてずぶ濡れになって歩いている生徒に傘を貸してあげた優しい逸話は史実です。
こういう部分をきちんと積み重ねて描いて、ドラマの中で「ハンサムウーマン」像を確立させて欲しかったのですが、最終回でそんなこと言っても詮無いですね。

明治29年(1896)5月20日、偉大なるおっかさまであった佐久さんが逝きます。
(さも八重さんひとりが残されたような描写でしたが、実際は養女の初子さんという存在がありましてですね・・・以前の記事でも触れましたが)
同年12月25日、八重さんは勲七等宝冠章を受勲しました。
この受勲は赤十字社京都支部の活動で受勲した初めての人であり、平民で初の女性勲章者でした。
しかもそれが会津の女性ということで(同年に瓜生岩子さんが藍綬褒章を賜っていますが)、察するにこの報はドラマの時尾さんのように、会津の人にとってはこの上なく嬉しく、誇らしいことだったかと存じます。
受勲されたのは八重さんだけでなく、合計16名がこのとき一緒に受勲されました。
しかし広島陸軍予備病院にいた従軍看護婦33名の内、受勲されたのは八重さんただひとりです。
その後八重さんは日本赤十字京都支部で新たに創設された篤志看護会の幹事に嘱託され、赤十字京都支部の幹部となりました。
明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると、京都駅構内に患者休養所が設置され、ここの担当を請け負った京都支部からは八重さんが行って藩護符と指揮監督し、翌年には篤志看護婦幹事として約2か月大阪で看護活動をしています。
こうした功績から、明治39年(1906)4月1日、八重さんは勲六等へ昇叙することとなりました。
平民で勲六等を自力で拝受したのは八重さんが最初ということで、個人的には勲七等宝冠章の時よりもこっちに重きを置いてドラマで描いて欲しかったなぁ・・・と。
いえ勲七等宝冠章でも十分喜ばしいことなんですけどね、昇叙にも大きな意味と価値があったんですよ。

明治31年(1898)3月2日、慶喜さんは有栖川宮威仁親王の仲介を経て、皇居参内、明治天皇に拝謁しました。
対面後、明治天皇は「やっと罪滅ぼしが出来た」と語った逸話は有名ですが、本音で言えば慶喜さんじゃなくて容保様を・・・と考えてしまいます。
既に容保様逝去されてるので無理なのですが、存命中に明治天皇に拝謁が叶って、慶喜さんが貰った言葉を貰えていたらどんなにか、と思わずにはいられません。
その慶喜さん、既に還暦も過ぎた61歳での再登場ですが、趣味に没頭した気まま生活を送っておられた点、容保様とは大違いですね。

あの時江戸が戦場となり、焼け野原になっていたら、この国は如何なっていたであろう
内戦が続き、国は弱り、果ては列強の属国となっていたかもしれません。江戸城の引き渡しを、無血開城という者もいます。なれど、血を流さずに維新がなったわけでは御座いません。上野の彰義隊、そして会津を始めとする奥州諸藩・・・

函館戦争も視野に入れてあげて欲しいところですが、この「もし~だったら、どうなっていたか」なやり取りは典型的ですね。
維新なんて言葉は何となく格好よく聞こえますが、要はお国のてっぺんに君臨してた政権引き摺り下ろした革命ですから、血が流れてないわけないんですよ。
でもその血を何故流してまで革命したのか、その血を流してまで作った新しい政府で、この先の日本を如何していきたいのか、その辺りのことが「八重の桜」では全く触れられないので、明治政府組が悉く小者に見えてしまうという(苦笑)。
ともあれ、時代を変えるって、ささやかなことじゃないと思うんですよ。
旧時代を守ろうとする人も、新時代を打ち建てようとする人も、それぞれの想いというのはある筈なんですよ、歴史は人間が紡いでるんですから。
なので前回の記事で散々書きましたが、どっちが悪い、どっちが正しい、何て単純な二元論は通用しないのね。
ただ、もし「悪い」を慶喜さんに見出すとすれば、いつだって良心的でいてくれた容保様を見捨てたことでしょうか(そしてそれを勝さんが引き継いで、会津をスケープゴートにしたという・・・)。
慶喜さんからの理不尽なこの仕打ちに、容保様はこんな詩を残しています。
古来より英雄数寄多し
なんすれぞ大樹 連枝をなげうつ
断腸す 三顧身を持するの日
涙をふるう 南柯夢に入るとき
万死報国の志 いまだとげず
半途にして逆行  恨みなんぞ果てん
暗に知る 地運の推移し去るを
目黒橋頭 杜鵑啼く
詩や和歌というものは、総じて解釈が人によって分かれる、文学的に難しいものではありますが、これが「どうして慶喜公は(=なんすれぞ大樹)、我ら会津を見捨てられたのか(=連枝をなげうつ)」、という恨み辛みが込められた詩であることはまず間違いのないことだと思います。
しかし皮肉なことと言いましょうか、容保様、慶喜さんそれぞれのお孫さん同士はやがて夫婦になり、その子供が徳川慶朝さんなのですね。
どれだけ恨み辛みを吐いても、会津松平家と徳川家は切れぬ関係のようです。

さて、容保様が生涯秘密にしていた(ドラマでは安売りのようにバンバン出てましたが)ご宸翰の存在が、明治政府に知られてしまいます。
先週も書きましたし、ご宸翰については以前の記事で書かせて頂いてますので改めて筆は割きませんが、「国家の安寧のためじゃ」とはまたまた大山さん、笑わせてくれる爆弾発言ですねぇ
いや、間違っても大山さんが悪いんじゃないですよ。
こんな台詞を書く脚本が拙い。
前回の茶番劇に続いて、今回は狂言回しか何かですか?
ご宸翰が世に出ては、あなた方が築いた藩閥政府の大義が失われでしまうからですか」っていう健次郎さんの発言が真実じゃないですか。
それをどうして変なテコ入れして、綺麗事で纏めようとしますかね。
国家の安寧だとか言ってますけど、山縣さんがご宸翰5万円買収しようとしたのは事実ですし、それって都合悪いから歴史の闇に葬ろうとしたってことでしょう?
それを危惧したから、会津松平家は安全な東京銀行の金庫に預けたんでしょう?
危険を察知しなかったら、わざわざ金庫に預けるようなことしませんよ。
歪曲させすぎでしょう・・・。
どこで道が別れたとか、考えてみたか」って大山さん言うけど、完全に空中に浮いてる意味不明な台詞です。
『京都守護職始末』が刊行されるまで、紆余曲折、ないしは妨害のようなものがあったのは紛れもない事実です。
その度ごとに、浩さんからこれの出版の遺志を継いだ健次郎さんはあの手この手を使って上手く立ち回ります。
このときも、実際は金銭的に困窮していた松平家救済のために、伊藤さんの口添えで3万円を下賜する代わりに出版見合わせを受け入れます、という流れだったようです。
限定範囲の出版が許された明治44年までは、まだまだ遠い道のりです。
『京都守護職始末』についてはまた別記事を設けようと思います。

幕末時には人口6万人ほどの奥州屈指の城下町だった会津ですが、明治のこの頃は戊辰戦争の爪痕もあってその半分くらいに激減していました。
それでも八重さんが再び故郷を訪れると、変わらずあの桜の樹は花を咲かせていました。
そこで再会した懐かしい顔、頼母さん。
彼が会津を終の棲家として戻って来たのは明治32年4月7日のことでした。
このとき70歳になっていた頼母さんは、身の丈5尺足らずなのに帯まで届く白髭を蓄え、足の大きさは9文半だったようです。
沼沢出雲邸跡に建てられた五軒続き二棟、トタン屋根の長屋(十軒長屋)の西棟の真ん中に「保科近悳」と表札を掲げてお住まいだったようで。
いわばかつてご城下の中だったところに再び居を構えられていたのですが、そんな頼母さんの長屋から、城下を出たところにあったはずのあの桜があんなに近くに見えるのは明らかに地理的な距離感が狂っているのですが、ここまで来たらもう突っ込む気も失せました(笑)。
何しに会津に戻って来たのか、と問う頼母さんに、八重さんは戦争があったから活躍して、勲章をもらったことが胸に痞えていると話します。

また戦の足音が近付いでいる。今度は満州に進んで来たロシアが相手です・・・剣に鋤に打ち変え国は国に向かって剣を上げない。そんな時は来ねぇのか、会津で考えたくなったのです

八重さんはこう申していますが、ロシアと戦争やって勝たないと、日本の国土がロシアにほぼ占領される形になります。
現代人の価値観を十二分に擦り込んで八重さんの口から非戦を語らせると、この時代人としては非常に異質なものになるという論理は、とうとう最後まで脚本にはご理解頂けなかったのですね。
相変わらず現代人と化してて気味が悪い八重さんはさて置き、色んなものを抜きにして頼母さんのこの台詞だけを見ると、西田さんの熱演と限りなくネイティブに近い会津弁も相俟って、良かったです。

わしはな、新政府がなじょな国つくんのが、見届げんべど、生ぎ抜ぐつもりであった。んだげんじょ、戊辰以来、わしの眼に焼ぎ付いたのは、なんぼ苦しい時も懸命に生きようとする人の姿。笑おうとする人の健気さ。そればっかりが、わしの心を胸を揺さぶんだ。八重、にしゃもそうだぞ。あの戦からすっくと立ち上がって、勲章まで頂くどは・・・立派な会津の女子だ。わしゃ嬉しくて嬉しくて・・・

復興大河と銘打たれた「八重の桜」でしたが、それがちょっと台詞にも滲んでましたね。
とはいえ、変に復興大河と意識しなくても良かったと思うんです。
頼母さんの言葉にもあるように、「あの戦からすっくと立ち上がって、勲章まで頂くどは」な八重さんの人生を追って行く形でドラマを作って行けば、「春が来たらまた桜が咲くように、頑張って行ける」と勇気づけてくれるものにになったと思うんですよね。
八重さんの人生を見て、そこに元気や勇気や強さや、前向きな気持ちを分けて貰える貰えないは、見る人の取り用ですよ。
そういうのって、押しつけがましく与えて貰うものじゃないですよね。
そういう意味では、復興大河なんて掲げていること自体が烏滸がましいと言えるかもしれません。
それを無理に復興とシンクロさせようとしたからか、話は迷走して、登場人物の価値観は現代人のそれになって・・・とぐちゃぐちゃなった。

最後、蘇峰さんと茶室で向き合った八重さんが、もしも今、自分が最後の一発の銃弾を撃つとしたら・・・と、その銃口を空に向けて引き金を引きます。
(余談ですが、このときの話し相手が蘇峰さんなのは、登場人物が少なすぎて他に選択肢がなかったのと、やっぱり現代人と化した八重さんが、後に第二次世界大戦後A級戦犯容疑をかけられることになる蘇峰さんに非戦を説くという絵図が欲しかったから・・・ですかね)
そして物語の〆の一言。

私は諦めねぇ

うん、だから何を?と言いたくなりました、はい。
いえ、色んな解釈はあるでしょうが、少なくとも「何を諦めないのか」の「何」の部分が分からなさすぎて・・・。
理解力の低い人間で申し訳ないです。
普通に、このドラマの八重さんの思考回路で行くと、剣に鋤に打ち変え国は国に向かって剣を上げない、そんな時が来ることを「諦めない」んだろうな~という気はします。
でも実際の八重さんって、非戦どころか軍国主義者ですし、戦は面白い物でしたと回想しちゃってるくらいですし。
なまじっかそういう史実の八重さんを齧っているだけに、私は最後の最後までドラマの八重さんとは相容れることが出来なかったなぁ、という後味が残りました。
何だか大半の視聴者を置いてけぼりにした感の拭えない幕の下ろし方でしたので、私のこの記事の〆も変な感じになっていますが、ご容赦願います。

ではでは、此度はこのあたりで。

宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年12月10日火曜日

第49回「再び戦を学ばず」

八重の桜も、次でもう最終回。
たとえば最終回がクリスマスなら、差し詰め今回はクリスマスイブでしょうか。
そう考えたら盛り上がる回なはずなのですが、蓋を開ければ何のその、色々と酷過ぎて「ひと言物申す」じゃとても足りないです。
それでも敢えてひと言でお願いしますと言われたら、「いい加減にしろ!」ですかね。
そんな、クリスマスイブにもなれなんだ最終回一歩手前の49話の感想というか、うん、取り敢えず思ってることと感じたことをいつものようにつらつら書きますよ。
本当は呆れすぎて、第39回の時みたいに切り捨ててしまおうかとも思ったのですが、49週「八重の桜」を見続けて来た立場としては、やっぱり色々吐露したいものがありまして。
前回は口を噤みましたが、今回は敢えて吐き出す選択をしました。

明治23年(1890)10月30日、教育ニ関スル勅語(教育勅語)が発布されました。
教育勅語って、日本史の授業で単語としては覚えたと思うんですが、その中身まではあんまり触れられないと思うので、この機会に以下に内容を掲載してみます。
お世辞にも読みやすいとは言えないので、こういうのが苦手な方は読み飛ばして下さっても構いませんよ。
朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽

えーまあ何が書いてあるかと言いますと、親孝行しなさい、兄弟仲良くしなさい、夫婦仲良くしなさい、友達と仲良くしなさい、行動は慎み深くなさい、他人に博愛の手を差し伸べなさい、学問を修めなさい、仕事を習いなさい・・・と書いて、それをやって「永遠に続く皇室の運命を助けるようにしなさい」という部分に導いてるんですね(ざっくり言えば)。
まあそういう風な内容なのですが、覚馬さんの表情はやや険しく、 「日本はたった二十年余りで文明国家の枠組みを作ってのけた。その揺り戻しが始まった。教育勅語か。教育の名の下に、人を縛るようなごどはあってはなんねえが・・・」 とぼやく始末。
教育勅語に於ける「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ」と、帝への忠義を謳った部分が、ちょっと間違った方向に行って戦後に問題視されるようになったのですが、この時代を生きている覚馬さんが教育勅語に批判的な理由は?と、その辺りは相変わらず不透明なままだったような(私の理解力の低さもあるでしょうが)。
「教育勅語=軍国主義」という図式は、戦後以降の人間の考え方でしょうに。
何より「人を縛るようなごどはあってはなんねえ」とは言いますが、遠回しに会津の日新館での教育や什の掟も否定している発言になってます。
いえね、会津の教育にかつて縛られ過ぎた身の上だからこそ、次世代は自分のように縛られるようなことがあってはならん、という意味を込めての発言ならまだ一応筋は通ってます(一応ね)。
或いは、会津松平家に受け継がれてきた御家訓の縛りと、教育勅語の縛りを重ねて言ってるのか・・・。
どちらにせよ、何となく「ん?」と靄を抱かせる話の運び方だな~と思っていたら、これはほんのジャブにしか過ぎなかったということを、後々で痛感させられました。

さて、赤十字社で正社員として働いている八重さんですが、私最近八重さんのこと完全に見失ってしまってるんですよね、掴み切れないという意味で。
会津戦争で戦ったことを誇ったかと思えば、籠城戦の時に人を殺したことを悔いているようなニュアンスを含んだ発言をしたり、結局どっち付かずの八重さん。
武勇伝なんだけど罪の意識はある、と相反する感情に苛まされている感じでもありませんし。
薩長は会津に攻めて来た!じゃあ武器を手に戦うしかないじゃないの!私はそこで戦功をあげたのよ!戦場じゃ殺さなきゃこっちが殺されるのよ!とまで吹っ切れとは流石に言いませんが、もう少しあの一カ月に亘った籠城戦が、今の八重さんにとって何なのか、明確な位置づけをしても良いのではないでしょうか。
仮にも人を殺したことのある女性が、今度はその手で人を癒す道に進むんですから。
そもそも八重さんが人を殺したという点について、会津戦争でスペンサー銃バンバン撃ってる時からちょっともやっとしたモノを抱えていたんですよ。
ええ、人を殺す覚悟はちゃんと決めたのか、いつ決めたのか、と。
権八さんに厳しく言われてましたよね、「鉄砲は人を殺す道具だ」って。
殺した命の重みは自分や覚馬さんが背負う、八重さんは背負う必要ない、って興味本位で鉄砲習いたいっていう八重さんにちゃんと予防線張ってくれてましたよね。
それでも、やむにやまれぬ気持があって、覚馬さんに「覚悟は出来てるのか」と最後の確認をされて銃を教わったのが八重さんです。
その前置きがキチンとあったのに、籠城戦で人を殺したことにチラチラ罪の意識を臭わせる八重さんが、私の目には非常に気持ち悪く映るのですよね。
だからちゃんと、権八さん言ってくれていたのに、やっぱり覚悟も決めずに鉄砲撃ってたの?と殴りたくなります。

手厳しい言葉が自重しませんが、次に行きましょう。
お兄さんの浩さんと一緒に、京都守護職時代の会津で何があったのかを書き残そうとしている健次郎さんが、取材として覚馬さんに話を聞きにやって来ました。
そこで覚馬さんが、在京時代の会津のことをつらつらと語り始めます。
視聴者としても、嗚呼こんなシーンあった、あんなシーンあった、と懐かしさを誘う回想シーンの羅列ではありました。


勤王の志は、薩長も持っていだ。薩摩の西郷、長州の木戸。彼らにも、思い描く日本の見取り図はあった。会津には戦をせず、国を滅ぼさぬ道もあったはずなのだ!
あんつぁまは、会津が間違っていたど言うのがし!?望んで戦をした訳でねえ!私達のご城下に、敵が土足で踏み込んで来たのだし!
大君の義、一心大切に忠勤を存ずべし。御家訓のこの一条に、会津は縛られでしまった。・・・いくつもの不運があった。謀に乗せられもした。それでもまだ、引き返す道はあったはずだ
覚馬先生!あなたは、忠勤を尽くした大殿と会津の人々を貶めるのか!?会津には、義がありました!
向ごうも同じように思っていただろう。誠意を尽くす事は尊い。んだげんじょ、それだけでは人を押し潰す力をはね返す事は出来ねえ!
繰り言など、聞きたぐない!覚馬先生は、長ぐ京都にいる間に会津魂を忘れてしまったのではありませんか!?
健次郎さんは、長州の人達の助けで学問を修めた。捨松さんは、薩摩の大山様に嫁いだ。 皆恨みばっかり抱いでる訳でねえ。・・・んだげんじょ、亡ぐなった仲間達を思ったら・・・会津が間違っていだどは、・・・決して言えねえ!これは、理屈ではねぇんだし!

幕末史で忘れちゃいけないのは、基本勤王の志は誰もが持っているということです。
帝を蔑ろにしたいわけじゃないけど、ただそれぞれの人が各々思う、あるいは信じる道を選んで進んだ、そんな時代なんです。
ずっと前にも言いましたけど、幕末は思想が交錯する時代なんですよ。
幕末はイマイチ苦手、と言われる理由には、もしかしたらこういう時代の性格があるのかもしれませんね。
はい、ところですみません、この応酬は一体何の茶番劇ですか?
私の記憶が正しければ、「八重の桜」 のコンセプトのひとつに、薩長史観ではない会津から見た幕末史を描く、というのがあったように思います。
そうして描かれ続けて来た会津を通しての幕末は、会津は誠実だけど愚直で、それ故にああなりました、と、大筋はそんなもので、

私は、何度考えても分がらねぇ。天子様のため、公方様のため尽くして来た会津が、なじょして逆賊と言われねばならねぇのが。会津の者なら皆知ってる!悔しくて堪んねぇ・・・。死んだ皆様は、会津の誇りを守るために、命を使っだのです。どうか、それを無駄にしねぇで下さい!本当は日本中に言いてぇ!会津は逆賊ではねぇ!

と、開城のときの八重さんの台詞に全部集約された、と思っていました。
勝ち負け、何が正しい何が正しくない、とか白黒はっきりつけるのではなくてね。
だって、戦争における間違ってる、正しい、何て延々と続く水かけ試合なんですよ。
なのにそこに「正しい」「間違ってる」の色を置いて無理に分けようとするから、変なことになる。
それを悟ったのか、健次郎さんがもう少し後の場面で「どちらにも義はあった」って言ってましたが、普通に考えてあの時代の人間が「薩長も会津もどっちも正しかったんですね」という考えに間違っても至れるはずがない。
ああいう歴史の出来事の全体図を上から見下ろして物事を論じらえる立場には、後世を生きる現代人にしか立てません。
だから、現代人の会話を聞いているように感じたんですよね。
紛れもなく明治時代なのに、何故か現代人がいませんか~、という払拭しようにも出来ない違和感。
義が~義が~と、義という便利な言葉が飛び交っていましたが、自分側ではない人の義が、自分の義と相交えないのはいつの時代だってそうなんですよ。
でも自分の義が絶対正しくて、他の義は全部間違っていると全否定の姿勢は、柔軟性に大きく欠けます。
視聴者側としても考え方や捉え方のバランスが難しいところではありますが、しかしその判断っていうんですかね、それは視聴者に放り投げておけば良いところだと思うんですね。
薩長側と会津側、どっちが「正しかったか」なんて安直な二元論で振り分けられるほど、幕末(というか歴史)は簡単なものじゃない。
何でもかんでもドラマの中で善悪決めて、色分けして纏めようとするから、おかしなことになる。
余剰があって、そこをどう感じるのかは視聴者に委ねます、っていうのがどうして出来ないんでしょうねぇ。

そしてやっぱり、『教育勅語』にしっくりと来ない覚馬さん。
「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」の部分がどうにも小骨のように引っかかっているご様子です。

国を失う痛みは、誰よりも俺達が知ってる。人を戦に駆り立でる力を、止めねばなんねぇ・・・。だが、俺は今も無力だ。人間の知恵や知識で戦を避けるごどが出来ねぇのなら・・・学問など、無駄なのか・・・

また突っ込みどころ満載な発言ですね。
ちょっと話を幕末の頃に戻して、そもそもどうして徳川幕府が倒されたのか、という明治維新の核の部分に触れてみましょう。
触れる、といっても黒船来航からの約15年間の出来事全部をなぞっていたらキリがないので、細かいところは割愛させて頂きますね。
「何故諸藩の中に幕府を倒そうという声が上がり始めたのか」、この問いの答えは至って簡単、「徳川幕府に任せてちゃ駄目だ」と思ったからです。
現代人の我々が、この政権には任せてちゃこの国は駄目になる・・・と思うのと通じるものがこの辺りはあると思います。
で、今まで300年近くパックス・トクガワーナに浸ってたのに、何でいきなり幕府を「駄目だ」って思うようになったのかというと、植民地化への危惧があったからです。
300年近く日本が鎖国してる間に海の向こうでは産業革命が興って、列強なんて言葉で飾られるお国達が植民地行為の触手をアジアにまで伸ばして来てて、アメリカでは南北戦争が起こって・・・と、世界史の渦の中に否応なく日本史が組み込まれていくことになってしまったのですよ。
幕末が日本国内だけの視点じゃなくて、世界の諸国にも視点向けなきゃ全貌掴めなのはそういう事情からです。
国を閉ざしている状態では、この渦に巻き込まれるのをやり過ごすことは出来なかったのです。
でも「開国?いやいや、朕は異人が嫌いです」という孝明天皇を筆頭に、鎖国保持派がその辺りの事情をどうもうまく呑み込んでくれなかったんですよね。
で、開国を迫ってくる諸外国とその派閥との間に立った幕府も頑張るんですが、その舵取りがもうグダグダ過ぎて、「徳川幕府ってもう駄目じゃん。こんなのに国の舵取り任せてたら、日本は外国の言いなりに成り下がる」という危機感を持った人たちがいたわけです。
幕末は思想の時代、と言いましたが、そんな状況に置かれて「じゃあどうすれば良いのか」と各々が考えてそれぞれ行動したから、思想の時代なのです。
内に目を向ければやれ佐幕、やれ攘夷、やれ開港などの議論が飛び交ってるわ、外からは西洋諸国の圧迫があり、内外多事多難な時だったんですよ。
勿論幕府も、公武合体とか手段をあれこれ講じて、この難局を乗り切って行きましょう、とか無策だったわけではありませんよ。
でも植民地にされるかもしれない、という危機感からお尻に火が付いていたのでしょう、明治維新の原動力ってそこにあると思うんですよね。
彼らだって、何も「幕府憎し」で倒幕を掲げたわけじゃないんです。
そうじゃなくて、任せておけない幕府を国のてっぺんから排除して近代化装備しなきゃ、植民地化ロードまっしぐら、阿片戦争後の清の二の舞、という絵図が頭の中にあったんですよ。
要は、国のてっぺんに居座るものを「駄目じゃないもの」に挿げ替えたのです。
倒幕したらしたで、明治に入ってやれ近代化近代化って忙しなくしていたのも、おそらくそういう背景事情があるからだと思うんですよね。
覚馬さんもそういう見通しが出来ていた人なので、『管見』では植民地化を防ぐために軍力を上げる富国強兵を唱えてるし、国力を上げるために殖産興業を掲げてます。
(今ふとこのブログ書いてて、脚本家は『管見』に目を通してないんじゃないかなと思いました)
でも今回の覚馬さんや健次郎さんや八重さんの言動は、仮に植民地にされそうになったとしても話し合えば何とかなる、という何とも生ぬるいお花畑政策を論じているようにしか聞こえないんです。
「繰り言など、聞きたぐない!」を通り越して、戯言言うな、という感さえします。
国(会津)を失ったって言うのでしたら、植民地への危惧は他の人より濃くても良いのではなかろうか。
挙句の果てに、同志社の卒業演説で「二度と再び、戦うごどを学ばない」と壇上で覚馬さんにスピーチをさせる脚本。
本当にいい加減にしてくれと思いました。
いえ、戦争万歳って言ってるわけじゃなくてですよ。
「戦は駄目」的なオーラを振りまく覚馬さん(八重さんもですが)の姿に、この人は文政11年に生まれて幕末生きて来たのよね?明治になってから、現代からタイムスリップしてきたんじゃないですよね?とな、感じずにはいられなかったのです。
つまり、覚馬さんの口を借りて現代人の価値観で考えたことを言わせてるよね、と。
史実の山本覚馬という御仁を眺めて、あるいはその彼が書いた『管見』に目を通して、まかり間違っても「非戦」の言葉は出て来ないと思うのですよ。
若かりしき頃の覚馬さんが、象山さんに「先生、攘夷というのは夷狄がら国を守るごとですね」というと、象山さんは

敵を知ろうとせぬのを愚かというのだ。目と耳を塞いで戦が出来るか。まことの攘夷とは、夷の術を以って夷を防ぐことにある

と返しました。
そのために西洋式の海軍が必要、そのために西洋式の歩兵隊の訓練が必要。
つまり、従来の侍の仕組みのままじゃ駄目なんだ、阿片戦争に敗れた清と同じ轍を踏まないためにも、と目を開いた覚馬さんが、かつてこのドラマには存在しました。
ちゃんと、近代化武装しなきゃ清の二の舞になるって分かってる覚馬さんが、このドラマにはいたのですよ。
このときの覚馬さんは一体何処へ行ったのでしょう。
二度と再び、戦うごどを学ばない」って良いじゃない、素敵じゃない、と受け取られる方もおられるでしょうが、それは私たちが「現代」から「歴史」を「眺められる」立場にいるからです。
当時(歴史の当事者)の色んな感覚をね、後世から歴史を見物するように眺められる私達がどう評しようが、それはまあ一種の現代人の特権みたいなものですし、勝手にすればいいと思います。
でもね、視点の置き場所を間違えてはいけません(前にも全く同じことを言いましたが)。
現代を生きる私達を構築してる世界観があるように、歴史にもその時代その時代を構築して来た世界観というのがあって、その中で生きてた人がいる。
全部現代人の物差しで測ったら、そりゃ誤差やおかしな部分も続出しますよ、測る対象が「現代のもの」でないんだから。
現代人の物差し使っていいのは、現代ドラマ作る時だけですよ。
これは大河ドラマです、時代相応の物差し持って来て下さい。

明治25年(1892)12月28日、覚馬さんが自宅で64年の生涯を閉じます。
同月30日に同志社のチャペルで葬儀が執り行われ、襄さんと同じ若王子へ埋葬されました。
大正14年(1925)11月9日、その生前の功労を嘉して従五位を朝廷から贈られました。
惜しむらくは、その「生前の功労」がこの大河ではほとんど触れられなかったことでしょうか(苦笑)。
逸話らしい逸話も何ひとつとして満足に触れられず、悔やまれることだらけです・・・。

そろそろ筆も疲れてきたところ何で穏やかに行きたいのですが、それを許してくれないのが今週の「八重の桜」でした。
山川兄弟から覚馬さんの訃報を届けられた容保様は、「二人に託したいことがあっての」といってご宸翰を出します。

会津が逆賊でないことの、ただ一つの証ゆえ
では何故、秘しておいでだったのですか?これを世に出せば、殿の御名は雪がれたはずにございます
開城の日、生きよと言われた・・・。八重の言葉を考え続けた・・・皆のためにも、ご宸翰を世に出すべきかと。なれど・・・都での争いとは即ち、勅の奪い合いであった。勅を得た者が、正義となった。・・・世が鎮まらぬ内は、ご宸翰が再び戦の火種となるやもしれぬ。・・・それだけは避けねばならぬと

良いシーンなのでしょうがご宸翰の扱われ方が不満というただ一点のために、物語に入っていけない・・・。
ご宸翰、だから何でこんなに気安いアイテムとして使っちゃうかなぁ。
うん、あのね、ですからこのご宸翰はそんなに気軽にホイホイ人目に晒して良いものじゃいあと言いますか、容保様存命時は秘された存在だったのですよ。
存在が公になったのは容保様没後のことで、そこがあのご宸翰の貴さではないのかなぁ。
まあ大方、『京都守護職始末』刊行の経緯で、山川兄弟が土方さんとか谷さんにこのご宸翰見せたので、そのエピソードからここでバトンのように山川兄弟にあれが渡されたという演出になったのでしょうが。

いつか・・・ご宸翰を世に出してくれ。わしが、死して後に・・・会津が如何に誇り高く戦ったかを訴え、死んでいった者達の名誉を回復せよ。・・・ただし、一国を滅ぼしたわしの過ちは、再び同じ道を辿らぬための戒めとなせ

ただし以下の台詞、何故作ったのでしょうか?
事ここに及んで「会津が間違っていました」的な発言を、他でもない容保様にさせる意味が解らない
解りたくもない。
ご宸翰のこともそうだけど、会津松平家に土下座しなきゃレベル再びですよね、これ。
ここからは飽く迄私見になるので、ちょっと美化しすぎじゃない?妄想入りすぎじゃない?と思われるかもしれませんが、まあ私見なので重く捉えないで下さいね。
ご宸翰を出せば汚名は雪げた、という浩さんの意見はご尤もです。
でもじゃあ容保様が、何故そうしなかったか、ですよね。
それに対する答えとして、「都での争いとは即ち、勅の奪い合いであった。勅を得た者が、正義となった。世が鎮まらぬ内は、ご宸翰が再び戦の火種となるやもしれぬ」という容保様の言葉が、非常に的を射ているなと。
それに、孝明天皇からの純粋な信頼の証であるご宸翰を、そんな陰謀塗れた世界で掲げて汚したくなったというのもあるんじゃないかなと。
でもそれじゃあ、浮かばれない会津藩士たちもいるわけです。
ご宸翰出せば、彼らに乗っかった汚名の二文字を消してやることだって出来るのに、そうせず、ただじっと、何も語らず誰にも言わず、ただご宸翰を身に着けていた容保様。
お優しい方ですから、ご宸翰を表に出して会津に日を当ててやれないことに、ずっと心を痛めてたことかと存じますが、その一方で、世間にどれだけ「逆賊の殿様」と言われようが、真実を証明するご宸翰を身に着けていることで、一人ひっそり慰められていた部分もあるのではないかなと。
とまあ、この辺りは飽く迄私の妄想にも似た私見ですが、しかしやっぱり「ただし」以下の台詞が要らない。
「会津は逆賊ではねぇ!」ではなかったのですか?
それを「会津が間違っていました」ってしたら、結局いつもの薩長史観の幕末じゃないですか!
コンセプトに反しているじゃないですか!
これでは一体何のための京都編だったのか、何のための守護職時代の場面の数々だったのか、分からなくなってしまいます。

容保様が亡くなられたのは、明治26年(1893)12月5日午前10時。
59年の、筆舌に尽くしがたい生涯でした。
新聞に掲載されたその訃報に接し、八重さんは色んな人に置いて行かれる寂しさに涙します。
そんな八重さんの背中に置かれる襄さんの手と、

亡くなった人はもうどこにも行きません。あなたの傍にいて、あなたを支えてくれます。あなたが幸せであるように。強くなるように

といういつかの襄さんの言葉。
手を重ねはしますが、敢えて振り返らないのがこのシーンで表したい「前に進む」という演出でしょうね。
ここだけは唯一今回良いシーンにも見えました・・・もうちょっと色んな積み重ねや、登場人物の書き込みが出来た骨太大河になってたら、このシーンは号泣シーンになっていただろうと思うと、惜しいですね。
そして「前に進む」八重さんは、日清戦争が勃発した明治27年(1894)、看護婦取締に命じられ、看護婦20人を選抜して広島陸軍予備病院へと向かうのでした。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年12月7日土曜日

求めているものと求められているもの

さて、大河ドラマ「八重の桜」も残すところ僅か2回となりました。
三日坊主ならぬ三分坊主なワタクシが、会津戦争終わった後でもこのブログ書き続けられるか?という懸念は開設当初からあったものの、ナントカ最後までお付き合い出来そう・・・です(多分)。
ドラマとしては、このままあと2回分だと尺が足りないのは明らかなので、一体どうまとめて何処へ着地させて、どう終わらせるつもりなのだろうかと、怖さ半分、諦め半分と言った心地です。
振り返るような記事を書くには今しばらく時期尚早ですが、いつか書こうと思っていた、大河ドラマに於ける時代考証のことについて、自分なりに思っていることを書きたいと思います。

テレビで放送されている歴史ドラマといえば、大河ドラマの他には木曜時代劇ですとか、TBSの正月時代劇ですとか、まあそういったものですよね。
何となく大河ドラマは「時代劇」の括りにはしっくりこず、「歴史ドラマ」の括りの方がしっくり来るのは、「大河」という大仰な名詞を含んでいるからでしょうか。
当ブログでは、その「大河ドラマ」こと「八重の桜」を毎週毎週拙いながらも追って行かせて頂きましたが、その際「あそこが違う」「ここが違う」「あの時代にはこれはなかった」「時代的におかしい」などなどと、文句をぶーたれた回数は決して少なくありません。
むしろ物語が後半部分に差し掛かるにつれ、その数は増えて行ったように思います。
史実的にあそこが違う~ここが違う~と喚くのは、史実に固執しすぎだという謗りも受けましょうが、それでもあまりにおかしなことをされたりすっ飛ばされたりし過ぎると、何か言いたくなってしまうのが歴史好きの性でもあったりします。

たとえば第45回で「大判焼き」という言葉がひょっこり出てきた時、「大判焼きというものは1950年代に出来た言葉だから、明治のあの頃に存在しない」、と指摘する声をいくつも見かけました。
私も勿論しっかりここで指摘させて頂きましたが、逆に大判焼きだろうが何と呼ばれようが、そんなに騒ぐことはないのではないかと思われた方もいるでしょう。
そもそも大河ドラマも「ドラマ」なんですから、完璧に一分もずれることなく史実のレールの上をなぞって行って欲しい、と願うことの方が間違ってます。
それを分かっていながらも、「大判焼き」の呼称ひとつで指摘の声が上がってしまう。
先に挙げた木曜時代劇やTBSの正月時代劇には左程手厳しい指摘はされないのに、「大河ドラマ」が対象になると、どうも手厳しくなってしまう。
この「大河ドラマ」と「その他時代劇」の間に生じる差は一体何なのだろうかと考えて、「大河ドラマ」という50年続くシリーズに抱いている期待値のようなものだろうな、という漠然とした答えにたどり着きました。

私の好きな時代考証家に、稲垣史生さんという方がおられます。
その稲垣先生の著書『歴史考証事典 第二集』に、こんなことが書いてありましたので、少し長くなりますが引用させて頂きます。
(前略)ドラマであるかぎり、面白おかしい娯楽性は無視できないであろう。が、それ一点張りのいわゆる時代劇なら、『銭形平次』や『旗本退屈男』、さては『必殺仕置人』など興味だけの創作に徹すればよい。少なくとも「歴史ドラマ」と銘を打ち、何と、数億円もかける大作に、それ以外の高次元のモチーフがなくてすむか。
 ドラマの課題は常に人間性の剔抉で、その効果的な方法として過去の人間を対象とする。われら、先人の人間性を、容赦なく分析し、えぐり出すのだ。するとどんな英傑・聖人も、どろどろした醜悪面を持っていることを見出す。
 「なあーんだ。われらの先祖もそうだったのか。人間は本来そういう穢いものなのか。では現代の人間と変わらぬではないか」
 と、そう気付くことで、そこに人間生存の原理を見、各自の人生に役立てるためではないか。小説やドラマが、好んで悖徳や不倫をとりあげるのではなく、人間の陰の部分にも隈なく光をあてるためである。
 まさにその目的で、かつてありしままの人間生活を再現させねばならない。そうでなければ、高次元の目標は達せられず、NHKがえんえん一年もやる意味はない。(前掲、昭和52年、新人物往来社)
自分の言葉ではっきり言い表すことが出来なくて大変お恥ずかしいのですが、この文章に触れた時に、自分の中の言葉に纏まらない気持ちが綺麗にまとめられているなと感じました。
つまり大河ドラマは「一年を通じて」放送する、「多額の予算を投じ」た「大作」なわけですよ。
 しかもそれが先程触れたように、50年続いたシリーズである、と。
だから何さ、と思うかもしれませんが、指摘の声の多さは、そのまま大河ドラマというものに寄せられている無言の期待値の現れでもあると思うのですよね。
だから「ドラマ」ということに胡坐をかかずに、稲垣先生のお言葉を借りるならば「高次元」を目指して欲しい。
やっつけ感しか感じられない最近の「八重の桜」は、そういう意味でもう本当の意味での「大河ドラマ」ではないと思うんですよね(というか、「大河ドラマ」何て言っちゃ駄目だ)。
来年からはどうなることでしょうか、はてさて。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年12月4日水曜日

第48回「グッバイ、また会わん」

伊藤さんの説得の元、政界に戻った大隈さんでしたが、明治22年(1889年)に国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜さんから爆弾テロに遭い、右脚を切断しなければいけないほどの傷と共に再び辞職します。
といっても数年後にはまた復帰しますし、右脚切断となりましたが何だかんだで83歳まで生きておられます。
ちなみにこの襲撃犯である来島さんは、馬車に投げた爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害したそうです。
襲撃の理由はドラマでも触れられていたように、大隈さんの条約改正案が外国に対して弱腰だったからと憤ったから。
これだけだと大隈さんの外交能力が低いように思えますが、パークスさんとのやり取りなどを見るに、大隈さんの外交力の問題ではなく、そんな大隈さんを以ってでしても条約改正は難しかった、と捉えた方が誤解が少ないと思います。
この事件を聞いて、襄さんが「愛国心とはそんなものではない」と憤ってましたが、その通りです。
蛮行ともいえる事件が勃発するということは、国内の不安定さを露呈したも同然で、且つ「先進国らしからぬ振る舞い」の烙印を押され、条約改正は遠退いて行きます。
これは現代にも同じことが言えまして、今でも蛮行紛いの行為に訴えて愛国心を叫ぶ人がおられますけど、愛国心は暴力じゃないんですよ。

理性を取り戻させるのは教育の使命です

この襄さんの言葉は、ドラマの中の台詞のひとつとしてではなく、現代を生きる我々も考え直さなくてはいけないのではないかなぁ、と個人的にぼんやりと考えておりました。

さて、話ここに至って何故か再登場された秋月さん。
今更感がぬぐえないのはいつものことですが、再登場に至るまでの秋月さん履歴をざっとご紹介しますと、まず彼が手代木直右衛門さんと共に永預けを免じられ、青天白日の身になったのが明治5年(1872)1月6日のこと。
そこから明治5年左院小議生、明治7年五等官の少議官に昇進し、明治8年若松県に官を辞して帰国以後農耕に従事します。
そして明治13年上京して四谷大番町に私塾を開いた後、教部省出仕、明治17年文部省御用掛、明治18年東京大学予備門教諭として漢文学で教鞭を取ります。
その東京大学予備門が東京大学から分離独立して第一高等中学になるのに伴って、秋月さんもそこの教諭になります。
明治22年までそこで教鞭を取り続け、明治24年、熊本第五高等中学校の教諭に就任します。
ドラマではこの熊本で再び教壇に立つことを決めたのは、襄さんの「同志社設立の旨意」に影響されたから、という風な流れになっていましたが、実際のところは少し違います。
熊本第五高等中学校の出来がった背景は割愛しますが、そこの教員の資質として、文部大臣であった森有礼さんは「高等中学校ハ青年師弟ヲ教育スルノ所ナルヲ以テ、教員ノ推薦ノ上、自今一層注意ヲ加ヘ、主トシテ其人物威アリヲ重ク正直ニシテ教養方ニ親切ナル者ヲ取ルベシ」という内訓を出していました。
秋月さんは東京大学予備門、及び第一高等中学校教諭時代生徒たちに大変評判が良かったので、この内訓に適った人物ということで推薦を受けたのです。
彼を「神のような人」と評したことでも有名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と秋月さんが出会うのは、この熊本第五高等中学校時代のことです。
しかし先程秋月さんの再登場を「今更」と言いましたが、明治の教育改革とかちゃんとなぞって行って、明治期の秋月さんももっと出てくると思ってたのですが、どうやらこれが最後の出番の予感・・・。

今回の襄さんの関東への募金活動の旅に八重さんが同行出来なかった最大の理由が、病に臥せる襄さんのお母さんの登美さんの存在でした。
手紙でもあったように、自分のことより年老いた母を優先して下さい、という襄さんの意思に従って、八重さんは同行しなかったのです。
「私達は日本人だから(孝行を忘れてはならない)」という日本の家の観念が襄さんにはあったようです。
ドラマではなかなか八重さんに病状を知らせない襄さんでしたが、実際は明治22年12月14日付の手紙で、八重さんには病状が知らされています。
案じた八重さんは看病に駆け付けます、と返事を書きますが、それに対する返事が、八重さんが登美さんと読んでいたものですね。
部屋を暖かくして、葛湯や水飴を、と事細かなことまでの書いてある襄さんからの手紙は現存していて、その長さ約224cm。
襄さんは手紙魔ですが、それでも些か長文に過ぎるような・・・(苦笑)。
彼がこの長すぎる手紙を送ったのは、彼の永眠の17日前ですから明治23年1月6日ということになるのでしょうか。
これが現在史料上確認出来る、襄さんから八重さんへ宛てた最後の手紙ということになると思います。
無理を押す襄さんには、「國の一大事の爲、斯くの如くも関東に止まり、身も度々病に伏し、種々の不自由を感じ申候へ共、私は元より覚悟の上の事、男子の戦場に出ると同様なりと存じ候」という思いがあります。
襄さんの国家観、またその熱意については、いまいちドラマでは踏み込まれていないのですが、襄さんにとっては今は戦場に出ているのと同じなのですね。
八重さんの「これは襄の戦い」などという軽々しい台詞で片付けてしまえる戦場ではなくて、もっと本質的な意味での戦場。
覚馬さんが襄さんのことを八重さんに伝えないのも、きっと同じ男としてこの「戦場」の意味を理解しているからだろうなと感じました。
男の意地、という言葉に置き換えても良いかもしれません。

その頃山川家は、ひとりの客人を迎えていました。
覚えている人、もしかしたら少ないでしょうが、第20回の時に出て来た水野貞さんです。
貞さんは平馬さんの訃報と共に、「鳳樹院泰庵霊明居士」という戒名の書かれた紙を、健次郎さんと浩さんに差し出します。

誰にも知らせるなと言われました。会津の梶原平馬は、戦の時に死んだのだから、と。近所の子供達に書や絵を教えて、何ひとつ欲もなく、ひっそりと暮らしておりました

斗南藩の後、北海道へ渡った平馬さんは、そこで塾を開いた貞さんと共に教育の道を歩みます。
彼女とは再婚して、ふたりの間には子供もありました。
会津藩最後の家老の平馬さんのお墓が根室で発見されたのは昭和63年(1988)のことで、それまでずっと彼が戊辰戦争後どうしたのか、いつどこで亡くなったのかは詳細不明とされていました。
詳しくは、ご子孫に当たられる長谷川つとむさん著『会津藩最後の主席家老』を一読頂ければと思います。
絶版本ですが、希少というわけではないので図書館や古書店で見つけることは難しくないと思います。

義兄上が拓いて下さった道・・・無駄には出来ん

そう呟く健次郎さん。
これが山川兄弟による「京都守護職始末」に繋がって行くのでしょうね。
(正直、尚之助さんの『会津戦記』なんてもの捏造しなくても、十分ここでバトンが繋げて行けたんですよ・・・)

さて、そうこうしている内に年が明けて明治23年、襄さんの病はますます篤くなるばかり。
お医者の樫村清徳さんに「呼びたい方がいたら、今の内に」と告げられ、周りが八重さんに電報を打とうとするのを襄さんが制したそうです。
でも1月9日に永岡喜八さんが、とうとう八重さんに新島襄の危篤を知らせます。
報せを受けた八重さんが駆け付けたのは20日深夜のことでした。
ドラマはその前に、八重さんが飛び出して駆け付けてしまった感があるので、襄さんとの三か月ぶりの再会の時にあった有名な 「これほど八重さんに会いたいと思ったことは無かった」 「何という暖かいお言葉。私は死んでも、来世でも忘れません」 のやりとりは省かれてましたね。
ちと残念。
明治23年(1890)1月21日午前5時半から、襄さんは遺言を述べます。
衰弱して書くことの出来ない襄さんは、これを蘇峰さんに口述筆記させました。

新島八重子、小崎弘道、徳富猪一郎立会
二十一日午前五時半遺言の条々

同志社の前途は、基督教の徳化、文学、政治等の興隆、学芸の進歩、三者相伴い、相俟ちて行うべき事。
同志社教育の目的は、その神学、政治、文学、科学等に従事するにかかわらず、皆、精神、活力あり、真誠の自由を愛し、もって邦家に尽すべき人物を養成するを努むべき事。
社員たるものは生徒を鄭重に取り扱うべき事。
同志社においては、 てき(漢字が出て来ません:人+周)儻不羈なる書生を圧束せず、努めてその本性に従い、これを順導し、もって天下の人物を養成すべき事。
同志社は隆なるに従い、機械的に流るるの恐れあり。切にこれを戒慎すべき事。
金森通倫氏をもって余の後任となす、差支えなし。氏は事務に幹練し、才鋒当るべからざるの勢いあり、しかれどもその教育家として人を順育し、これを誘掖するの徳に欠け、あるいは小刀細工に陥るの弊なしとせず。これ余の窃かに遺憾とする所なり。
東京に政法理財学部を措くは、目今の事情、到底避くべからざるかと信ず。
日本教師と外国教師の関係に就いては努めて調停の労を取り、もってその円滑を維持すべき事。余はこれまで幾度かこの中間に立ちて苦心あり。将来といえども、社員諸君が日本教師に示すにこの事をもってせんことを望む。
余は平生敵を作らざるを期す。もし諸君中、あるいは余に対して釈然たらざる人あらば、幸いにこれを恕せよ。余の胸中、一点の芥弗あらず。
従来の事業、人あるいはこれを目して余の功とす。しかれども、これ皆、同志諸君の翼賛によりて出来たるところにして、余は毫も自己の功と信ぜず。唯諸君の厚情に完佩す。

右筆記の上、これを朗読す。先生一々これを聞き、首肯す。
時に午前七時十分前
始まったのが朝5時半で、終わったのが朝の6時50分ですから、1時間以上遺言の時間が続いていたのですね。
一読して頂ければお分かりかと思いますが、遺言内容の半分以上が同志社の学生に関することで占められています。
遺言でよくある遺産のことなどには一切触れられていません。
ですが、金遣いの荒かった八重さんを残して行くのは本当に気がかりだったでしょうね・・・(苦笑)。
そういう八重さんのマイナス面は、これまでも、そしてこの先も触れられることのないままなのでしょうね。
更に襄さんは大隈さん、伊藤さん、勝さんなどにも個人宛ての遺言を残しています。
最期の言葉は「吉野山花待つころの朝な朝な心にかかる峰の白雲。同志社に対する私の感情は、いつもこの詩の通りである」。
キリスト教だったのに、論語の一節なのが深いです。
ちなみにこの佐川田昌俊さんの和歌は、自責の杖事件の時にも襄さんが生徒の前で前置きしたものです。
歌意は以前の記事でも触れましたが、「吉野山に桜が咲くのを待つ頃になると、毎朝毎朝、桜ではないかと気に掛かる、峰に掛かっている白雲であることよ」というものです。
桜は言わずもがな、同志社の生徒達のこと。
結果論になりますが、彼の一生は同志社に捧げられ、同志社のためにあったのだなというのがよく伝わります。
その辺りは、触れられてなくてもオダギリさんの熱演のお蔭で空気のように見ている側にも伝わっていたかと。
そして明治23年1月23日午後2時20分、襄さんは息を引き取りました。享年46歳。
臨終の際、八重さんに頭を抱えられていて、「狼狽するなかれ。グッドバイ、また会わん」と言い残して目を閉じたそうです。

(画像は久保田米僊氏の新島襄臨終場景画四葉)
襄さんが没した時、しっくりいってなかった八重さんと蘇峰さんは和解したそうです。
曰く、「新島先生が逝かれたからには、貴女を新島先生の形見として接します」と。
一方で襄さんの棺を大磯から京都に運び出す時に、八重さんが自分の頭とか身だしなみを気にしてばかりいたので、「今後は誰も貴女の頭には注意しません。貴女の足にも注意しません」と言って蘇峰さんが激怒したそうです。
これも有名な話なのですが、やはり八重さんのマイナスイメージに繋がるからでしょうか、ドラマでは触れられず・・・。
葬儀は1月27日に同志社で行われ、4000人の弔問客が訪れました。
「葬儀は質素に。墓標は一本の木に新島襄とだけ書く」という襄さんの遺言を忠実に守られた葬儀でした。
襄さんは当初南禅寺に葬られる予定だったのですが、キリスト教だったのでお寺の側が拒否し、急遽若王子の共同墓地に埋葬されることになりました。
ちなみに土葬で、今も同志社墓地となった同じ場所に襄さんは眠っておられます。

襄さんが亡くなったのが1月23日、その後八重さんが「日本のナイチンゲール」とも称されるようになる看護の道に進む(赤十字の正社員になった)のが4月22日(26日説もあり)で、その約三か月の間、八重さんが何を思い考えていたのかは歴史の謎です。
夫を亡くした身として、次への行動が早すぎるという人もいれば、哀しみを振り払って前に進んで行く強い人だと捉える人もいます。
その辺りには正解はないので、それぞれで良いと思います。
ドラマの覚馬さんが、看護の道を八重さんの前に差し出したというのも、もしかしたらあったかもしれません。
仮にそうだとしても、流石にドラマのような寡婦に対する思いやりの欠片もない言い方はしなかったでしょうが。
ちなみに日本赤十字社の発端は西南戦争の際、佐野常民さんと大給恒さんが設立した博愛社にあります。
この博愛社が建ったのは、熊本バンドが去った後の熊本洋学校で、明治20年に日本赤十字社と改名しました。
当初は敵味方関係なく救護活動を行うので誤解を受けることもあったそうです。
何より、捨松さんがさり気無く「看護を卑しい仕事だと思っている人たちもいます」と言っていたように、当時看護婦という職業は、その立場が確立されていませんでした。
単なる召使いに近い身分であり、売春婦まがいの仕事を兼ねる場合さえあったので、卑しい、と思われていたのです。
この看護婦の地位確立と、「看護師とは何か」というものに一生を捧げたのが、ご存知フローレンス・ナイチンゲールさんですね。
まあしかし、東京の大山邸に通い詰めている八重さんではありますが、日本赤十字社の京都支部が明治22年2月14に設置されてるので、多分八重さんが通うなりなんなりしてたのは、東京じゃなくてそっちの方じゃないのかなとも思います。
あとご婦人方の間で会津戦争のことが茶飲み話みたいな軽さで扱われてましたが、捨松さんそれで良いのか・・・(苦笑)。
そんなこんなで、寧ろこれから「新島八重」という人のエピソードが始まるのですが、残り2週間という余裕のなさです。
呑気にワッフル振る舞ってる場合じゃない!

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村