2013年12月4日水曜日

第48回「グッバイ、また会わん」

伊藤さんの説得の元、政界に戻った大隈さんでしたが、明治22年(1889年)に国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜さんから爆弾テロに遭い、右脚を切断しなければいけないほどの傷と共に再び辞職します。
といっても数年後にはまた復帰しますし、右脚切断となりましたが何だかんだで83歳まで生きておられます。
ちなみにこの襲撃犯である来島さんは、馬車に投げた爆弾が炸裂すると同時に、短刀で喉を突き自害したそうです。
襲撃の理由はドラマでも触れられていたように、大隈さんの条約改正案が外国に対して弱腰だったからと憤ったから。
これだけだと大隈さんの外交能力が低いように思えますが、パークスさんとのやり取りなどを見るに、大隈さんの外交力の問題ではなく、そんな大隈さんを以ってでしても条約改正は難しかった、と捉えた方が誤解が少ないと思います。
この事件を聞いて、襄さんが「愛国心とはそんなものではない」と憤ってましたが、その通りです。
蛮行ともいえる事件が勃発するということは、国内の不安定さを露呈したも同然で、且つ「先進国らしからぬ振る舞い」の烙印を押され、条約改正は遠退いて行きます。
これは現代にも同じことが言えまして、今でも蛮行紛いの行為に訴えて愛国心を叫ぶ人がおられますけど、愛国心は暴力じゃないんですよ。

理性を取り戻させるのは教育の使命です

この襄さんの言葉は、ドラマの中の台詞のひとつとしてではなく、現代を生きる我々も考え直さなくてはいけないのではないかなぁ、と個人的にぼんやりと考えておりました。

さて、話ここに至って何故か再登場された秋月さん。
今更感がぬぐえないのはいつものことですが、再登場に至るまでの秋月さん履歴をざっとご紹介しますと、まず彼が手代木直右衛門さんと共に永預けを免じられ、青天白日の身になったのが明治5年(1872)1月6日のこと。
そこから明治5年左院小議生、明治7年五等官の少議官に昇進し、明治8年若松県に官を辞して帰国以後農耕に従事します。
そして明治13年上京して四谷大番町に私塾を開いた後、教部省出仕、明治17年文部省御用掛、明治18年東京大学予備門教諭として漢文学で教鞭を取ります。
その東京大学予備門が東京大学から分離独立して第一高等中学になるのに伴って、秋月さんもそこの教諭になります。
明治22年までそこで教鞭を取り続け、明治24年、熊本第五高等中学校の教諭に就任します。
ドラマではこの熊本で再び教壇に立つことを決めたのは、襄さんの「同志社設立の旨意」に影響されたから、という風な流れになっていましたが、実際のところは少し違います。
熊本第五高等中学校の出来がった背景は割愛しますが、そこの教員の資質として、文部大臣であった森有礼さんは「高等中学校ハ青年師弟ヲ教育スルノ所ナルヲ以テ、教員ノ推薦ノ上、自今一層注意ヲ加ヘ、主トシテ其人物威アリヲ重ク正直ニシテ教養方ニ親切ナル者ヲ取ルベシ」という内訓を出していました。
秋月さんは東京大学予備門、及び第一高等中学校教諭時代生徒たちに大変評判が良かったので、この内訓に適った人物ということで推薦を受けたのです。
彼を「神のような人」と評したことでも有名なラフカディオ・ハーン(小泉八雲)と秋月さんが出会うのは、この熊本第五高等中学校時代のことです。
しかし先程秋月さんの再登場を「今更」と言いましたが、明治の教育改革とかちゃんとなぞって行って、明治期の秋月さんももっと出てくると思ってたのですが、どうやらこれが最後の出番の予感・・・。

今回の襄さんの関東への募金活動の旅に八重さんが同行出来なかった最大の理由が、病に臥せる襄さんのお母さんの登美さんの存在でした。
手紙でもあったように、自分のことより年老いた母を優先して下さい、という襄さんの意思に従って、八重さんは同行しなかったのです。
「私達は日本人だから(孝行を忘れてはならない)」という日本の家の観念が襄さんにはあったようです。
ドラマではなかなか八重さんに病状を知らせない襄さんでしたが、実際は明治22年12月14日付の手紙で、八重さんには病状が知らされています。
案じた八重さんは看病に駆け付けます、と返事を書きますが、それに対する返事が、八重さんが登美さんと読んでいたものですね。
部屋を暖かくして、葛湯や水飴を、と事細かなことまでの書いてある襄さんからの手紙は現存していて、その長さ約224cm。
襄さんは手紙魔ですが、それでも些か長文に過ぎるような・・・(苦笑)。
彼がこの長すぎる手紙を送ったのは、彼の永眠の17日前ですから明治23年1月6日ということになるのでしょうか。
これが現在史料上確認出来る、襄さんから八重さんへ宛てた最後の手紙ということになると思います。
無理を押す襄さんには、「國の一大事の爲、斯くの如くも関東に止まり、身も度々病に伏し、種々の不自由を感じ申候へ共、私は元より覚悟の上の事、男子の戦場に出ると同様なりと存じ候」という思いがあります。
襄さんの国家観、またその熱意については、いまいちドラマでは踏み込まれていないのですが、襄さんにとっては今は戦場に出ているのと同じなのですね。
八重さんの「これは襄の戦い」などという軽々しい台詞で片付けてしまえる戦場ではなくて、もっと本質的な意味での戦場。
覚馬さんが襄さんのことを八重さんに伝えないのも、きっと同じ男としてこの「戦場」の意味を理解しているからだろうなと感じました。
男の意地、という言葉に置き換えても良いかもしれません。

その頃山川家は、ひとりの客人を迎えていました。
覚えている人、もしかしたら少ないでしょうが、第20回の時に出て来た水野貞さんです。
貞さんは平馬さんの訃報と共に、「鳳樹院泰庵霊明居士」という戒名の書かれた紙を、健次郎さんと浩さんに差し出します。

誰にも知らせるなと言われました。会津の梶原平馬は、戦の時に死んだのだから、と。近所の子供達に書や絵を教えて、何ひとつ欲もなく、ひっそりと暮らしておりました

斗南藩の後、北海道へ渡った平馬さんは、そこで塾を開いた貞さんと共に教育の道を歩みます。
彼女とは再婚して、ふたりの間には子供もありました。
会津藩最後の家老の平馬さんのお墓が根室で発見されたのは昭和63年(1988)のことで、それまでずっと彼が戊辰戦争後どうしたのか、いつどこで亡くなったのかは詳細不明とされていました。
詳しくは、ご子孫に当たられる長谷川つとむさん著『会津藩最後の主席家老』を一読頂ければと思います。
絶版本ですが、希少というわけではないので図書館や古書店で見つけることは難しくないと思います。

義兄上が拓いて下さった道・・・無駄には出来ん

そう呟く健次郎さん。
これが山川兄弟による「京都守護職始末」に繋がって行くのでしょうね。
(正直、尚之助さんの『会津戦記』なんてもの捏造しなくても、十分ここでバトンが繋げて行けたんですよ・・・)

さて、そうこうしている内に年が明けて明治23年、襄さんの病はますます篤くなるばかり。
お医者の樫村清徳さんに「呼びたい方がいたら、今の内に」と告げられ、周りが八重さんに電報を打とうとするのを襄さんが制したそうです。
でも1月9日に永岡喜八さんが、とうとう八重さんに新島襄の危篤を知らせます。
報せを受けた八重さんが駆け付けたのは20日深夜のことでした。
ドラマはその前に、八重さんが飛び出して駆け付けてしまった感があるので、襄さんとの三か月ぶりの再会の時にあった有名な 「これほど八重さんに会いたいと思ったことは無かった」 「何という暖かいお言葉。私は死んでも、来世でも忘れません」 のやりとりは省かれてましたね。
ちと残念。
明治23年(1890)1月21日午前5時半から、襄さんは遺言を述べます。
衰弱して書くことの出来ない襄さんは、これを蘇峰さんに口述筆記させました。

新島八重子、小崎弘道、徳富猪一郎立会
二十一日午前五時半遺言の条々

同志社の前途は、基督教の徳化、文学、政治等の興隆、学芸の進歩、三者相伴い、相俟ちて行うべき事。
同志社教育の目的は、その神学、政治、文学、科学等に従事するにかかわらず、皆、精神、活力あり、真誠の自由を愛し、もって邦家に尽すべき人物を養成するを努むべき事。
社員たるものは生徒を鄭重に取り扱うべき事。
同志社においては、 てき(漢字が出て来ません:人+周)儻不羈なる書生を圧束せず、努めてその本性に従い、これを順導し、もって天下の人物を養成すべき事。
同志社は隆なるに従い、機械的に流るるの恐れあり。切にこれを戒慎すべき事。
金森通倫氏をもって余の後任となす、差支えなし。氏は事務に幹練し、才鋒当るべからざるの勢いあり、しかれどもその教育家として人を順育し、これを誘掖するの徳に欠け、あるいは小刀細工に陥るの弊なしとせず。これ余の窃かに遺憾とする所なり。
東京に政法理財学部を措くは、目今の事情、到底避くべからざるかと信ず。
日本教師と外国教師の関係に就いては努めて調停の労を取り、もってその円滑を維持すべき事。余はこれまで幾度かこの中間に立ちて苦心あり。将来といえども、社員諸君が日本教師に示すにこの事をもってせんことを望む。
余は平生敵を作らざるを期す。もし諸君中、あるいは余に対して釈然たらざる人あらば、幸いにこれを恕せよ。余の胸中、一点の芥弗あらず。
従来の事業、人あるいはこれを目して余の功とす。しかれども、これ皆、同志諸君の翼賛によりて出来たるところにして、余は毫も自己の功と信ぜず。唯諸君の厚情に完佩す。

右筆記の上、これを朗読す。先生一々これを聞き、首肯す。
時に午前七時十分前
始まったのが朝5時半で、終わったのが朝の6時50分ですから、1時間以上遺言の時間が続いていたのですね。
一読して頂ければお分かりかと思いますが、遺言内容の半分以上が同志社の学生に関することで占められています。
遺言でよくある遺産のことなどには一切触れられていません。
ですが、金遣いの荒かった八重さんを残して行くのは本当に気がかりだったでしょうね・・・(苦笑)。
そういう八重さんのマイナス面は、これまでも、そしてこの先も触れられることのないままなのでしょうね。
更に襄さんは大隈さん、伊藤さん、勝さんなどにも個人宛ての遺言を残しています。
最期の言葉は「吉野山花待つころの朝な朝な心にかかる峰の白雲。同志社に対する私の感情は、いつもこの詩の通りである」。
キリスト教だったのに、論語の一節なのが深いです。
ちなみにこの佐川田昌俊さんの和歌は、自責の杖事件の時にも襄さんが生徒の前で前置きしたものです。
歌意は以前の記事でも触れましたが、「吉野山に桜が咲くのを待つ頃になると、毎朝毎朝、桜ではないかと気に掛かる、峰に掛かっている白雲であることよ」というものです。
桜は言わずもがな、同志社の生徒達のこと。
結果論になりますが、彼の一生は同志社に捧げられ、同志社のためにあったのだなというのがよく伝わります。
その辺りは、触れられてなくてもオダギリさんの熱演のお蔭で空気のように見ている側にも伝わっていたかと。
そして明治23年1月23日午後2時20分、襄さんは息を引き取りました。享年46歳。
臨終の際、八重さんに頭を抱えられていて、「狼狽するなかれ。グッドバイ、また会わん」と言い残して目を閉じたそうです。

(画像は久保田米僊氏の新島襄臨終場景画四葉)
襄さんが没した時、しっくりいってなかった八重さんと蘇峰さんは和解したそうです。
曰く、「新島先生が逝かれたからには、貴女を新島先生の形見として接します」と。
一方で襄さんの棺を大磯から京都に運び出す時に、八重さんが自分の頭とか身だしなみを気にしてばかりいたので、「今後は誰も貴女の頭には注意しません。貴女の足にも注意しません」と言って蘇峰さんが激怒したそうです。
これも有名な話なのですが、やはり八重さんのマイナスイメージに繋がるからでしょうか、ドラマでは触れられず・・・。
葬儀は1月27日に同志社で行われ、4000人の弔問客が訪れました。
「葬儀は質素に。墓標は一本の木に新島襄とだけ書く」という襄さんの遺言を忠実に守られた葬儀でした。
襄さんは当初南禅寺に葬られる予定だったのですが、キリスト教だったのでお寺の側が拒否し、急遽若王子の共同墓地に埋葬されることになりました。
ちなみに土葬で、今も同志社墓地となった同じ場所に襄さんは眠っておられます。

襄さんが亡くなったのが1月23日、その後八重さんが「日本のナイチンゲール」とも称されるようになる看護の道に進む(赤十字の正社員になった)のが4月22日(26日説もあり)で、その約三か月の間、八重さんが何を思い考えていたのかは歴史の謎です。
夫を亡くした身として、次への行動が早すぎるという人もいれば、哀しみを振り払って前に進んで行く強い人だと捉える人もいます。
その辺りには正解はないので、それぞれで良いと思います。
ドラマの覚馬さんが、看護の道を八重さんの前に差し出したというのも、もしかしたらあったかもしれません。
仮にそうだとしても、流石にドラマのような寡婦に対する思いやりの欠片もない言い方はしなかったでしょうが。
ちなみに日本赤十字社の発端は西南戦争の際、佐野常民さんと大給恒さんが設立した博愛社にあります。
この博愛社が建ったのは、熊本バンドが去った後の熊本洋学校で、明治20年に日本赤十字社と改名しました。
当初は敵味方関係なく救護活動を行うので誤解を受けることもあったそうです。
何より、捨松さんがさり気無く「看護を卑しい仕事だと思っている人たちもいます」と言っていたように、当時看護婦という職業は、その立場が確立されていませんでした。
単なる召使いに近い身分であり、売春婦まがいの仕事を兼ねる場合さえあったので、卑しい、と思われていたのです。
この看護婦の地位確立と、「看護師とは何か」というものに一生を捧げたのが、ご存知フローレンス・ナイチンゲールさんですね。
まあしかし、東京の大山邸に通い詰めている八重さんではありますが、日本赤十字社の京都支部が明治22年2月14に設置されてるので、多分八重さんが通うなりなんなりしてたのは、東京じゃなくてそっちの方じゃないのかなとも思います。
あとご婦人方の間で会津戦争のことが茶飲み話みたいな軽さで扱われてましたが、捨松さんそれで良いのか・・・(苦笑)。
そんなこんなで、寧ろこれから「新島八重」という人のエピソードが始まるのですが、残り2週間という余裕のなさです。
呑気にワッフル振る舞ってる場合じゃない!

ではでは、此度はこのあたりで。


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