2013年12月16日月曜日

第50回「いつの日も花は咲く」

泣いても笑っても最終回、というようなフレーズはよく耳にしますが、いっそ泣くか笑うかくらい出来たらどれだけ良いだろうかと思う最終回というのは、近年の大河最終回のお決まりパターンになりつつあるようで。
その例に漏れず、「八重の桜」の最終回も、ぽかーん、とした幕の下ろし方でした。
ドラマの総評はまた別に記事を設けるとして、まずは第50回の記事に取り掛かりたいところなのですが、やっぱりと言いますか、最後の最後まで取り立てて触れる点がなかったですね・・・(苦笑)。

日清戦争の下りに関しては、もう触れないことにします。
「坂の上の雲」観ましょう、の一言に尽きない杜撰さでしたし、大山さんひとりで全軍の指揮を執っているようにしか見えない奥行きのなさでしたので(笑)。
外地の遼東半島で頑張っていた大山さんら日本軍に対して、内地の広島陸軍予備病院で頑張っていたのが八重さんを始めとする、20人ほどの従軍看護婦達でした。
日清戦争の死傷者の内、療養を必要とする傷病者は本国に護送され、その看護に多くの従軍看護婦が動員されていました。
国からの要請を受けた日本赤十字社は、ただちに各病院に本支部より多くの従軍看護婦を派遣し、八重さんの所属していた京都支部の派遣先は広島だったのです。
広島と言えば、日清戦争の大本営は広島の第五師団司令部でした。
これは、明治天皇は前線の将兵に少しでも近い所でと望まれたことが関係しています。
八重さんが派遣された広島の陸軍予備病院は、患者の数が多くて病棟が足りず、バラック建ての病室を作って分院としてました。
日本赤十字社京都支部の担当はこのバラック建ての第三分院で、八重さんが担当してたのもそこです。
現在の国泰寺村にあったそうです。
看護婦らの置かれた環境は恵まれたものではなく、与えられた生活空間は八畳四間。
着の身着のまま、食事も看護衣のまま、明治27年11月4日から明治28年6月18日に亘って八重さん達は傷病者を介抱し、看護を続けていました。
ちなみに日清戦争での戦傷病者数トータルの、約5分の1がこの広島に運ばれてます
特に第三分院は低湿地にあって排水が宜しくないという立地条件だったこともあり、伝染病が発生します。
日清戦争ではコレラによる全国の患者数は約55000人、死者は4万人ほどでした。
広島に範囲を限りますと、感染者数の一番少なかったのが赤痢、続いてチフスで、コレラはこの二つの10倍以上もの感染者を出していました。
けれどもその三つの患者数よりも多かったのが、脚気患者です。
海軍は麦やパンを投入するなどして、ぼんやりとですが脚気予防に取り組んでいたのに対し、陸軍はその認識が遅れていましたからね(そして読んでお分かり頂ける通り、八重さんのいたのは陸軍の病院)。
ところでところでこの従軍看護師の条件として、「年寄りであること(40歳以上)」かつ「美人でないこと」というのがありました。
陸軍の見解として、「日本と欧米とでは風俗習慣が異なり、立派な戦功をたてた名誉の傷病者が、女性の看護を受け、万一、何か風紀上の悪評でも立ったら、折角の名誉を傷つけるおそれがある」という強い主張があったからです(江川義夫さんの『広島県医人伝』より)。
つまり、男性ばかりの中に年若い女性が介抱やら看護で付き添ってくれて、うっかり・・・なことになったら、風紀の上でも困る、というわけです。
実際、この頃は40歳以下の女性は病院への立入は禁止されていました。
・・・まあ、ドラマでは映像的な配慮もあってか、明らかに40歳に見えない看護婦さんばかりが立ち回っていましたが。
ちなみに八重さん、あの時点で49歳、数えで50歳です。
女優さんに老けメイクを施さないから、どうもその辺りの時代感というのでしょうか、そういうものが伝わって来にくいですね。
ついでながら、野戦病院があんなに長閑なわけないだろうとか、何で看護師さんたちの服あんなに綺麗なままなのとか、映像的な部分で突っ込みどころ満載です。
そんな従軍看護婦も、ものの数分で纏められるという駆け足っぷり。
八重さんの人生に於ける重要要素なので、今までのワッフルやクッキー焼くシーンを全部カットしてでもここにもう少し時間を割くべきだったのではなかろうかと、主人公という人間を描くために割り振られている時間の配分は最終回に至っても微妙なままのご様子。

日清戦争の頃、各新聞社からは戦地に「従軍記者」というものが派遣されていました。
「坂の上の雲」でも、子規さんがこれに赴いてたのは(そして喀血していた)皆様の記憶に新しいんじゃないかと思います。
蘇峰さんの国民新聞社もその例に漏れず、リアルタイムに近い新鮮な情報を齎すと共に、勇ましい戦地の話の記事で国内の士気を鼓舞するという意味で、新聞というメディア媒体の効力が発揮されました。
これがうっかりすると、とんでもない方へ人の意思を導いてしまいかねないことにはなるのですが、今はその話はしないことにして。
相変わらず戦争の二文字に対して眉を顰め、反戦意識の高い現代人のような八重さんですが、当時の日本国民が清国との戦争に熱狂してたのは紛れもない事実でして。
それを八重さんの口を通してあーだのこーだと言わせる前に、脚本はそれを「歴史の事実」として受け止めましょうよ。
そんな戦争万歳空気は駄目、って、現代人の物差し突っ込まないで欲しいです。
ちなみに日清戦争は最初、諸外国から見ても日本は負けるだろうな、と思われていたそうです。
が、いざ開戦して蓋を開けてみれば、近代化の歯車ぐるぐると急いで回して軍隊作った日本と、そういう体制がまだしっかりしてなかった清国との戦だったので、日本は勝てたんですよね。
逆に、数年後に起こる日露戦争は、物資も規模も何もかもが遥かに上回ってる上に、戦後革命が起こったとはいえ体制は整った国が相手でしたから、大苦戦したのも辛勝となったのも当然の成り行きと言えばそうなのですが、やっぱりその辺りは「坂の上の雲」が詳しいので、そちらを。

時に、新聞を通じて世の中に一言物申す蘇峰さんの姿に、「所詮兄貴は、大勢に流されて酔い痴れとるだけたい」と言い、自分は小説、と意気込む蘆花さん。
その彼が書いていた作品が『不如帰』という題名でしたが、これ、捨松さんと思しき女性を継子苛めする悪女のように描いた作品です(苦笑)。
当然捨松さんにとっては許しがたい、かつ大きな心の傷となった作品でした。
そんな作品の、一体どの辺りが「本当の人間」なのでしょうか・・・それともこれは、「創作物では何をしても良い」という、歴史を歪曲したり好き放題した本大河ドラマの裏メッセージか何かなのでしょうかね。
口で言ってることと、手で書いてることがまるで違うという、何とも皮肉な冗談のワンシーンでした。
そんな『不如帰』は、現在青空文庫で読むことが出来ますので、興味がある方は此方からどうぞ。

従軍看護師として広島に赴く前の明治27年(1894)、八重さんは裏千家道の茶人となります。
明治の女子教育と茶道というのは実は関係がありまして、平たくいえば茶道を通じて精神の鍛練、礼儀作法、洗練された端正な佇まい・・・などなど、日本女性の目指すべき要素を全て兼ね備えた茶道を学校教育に導入してたのですね。
物凄く砕いていえば、大和撫子の養成には茶道は打って付けですね、ということです。
裏千家としても、新局面を開発していくためには女子教育の一翼を担う必要があるということで、そこで新英女学校女紅場に裏千家茶道を中心とする茶道教育が導入されるに至ったのです。
そこで八重さんと裏千家が繋がる・・・という流れが出来るのですが、思いっきりスルーされて、まるで八重さんがある日急に思いつきの趣味でお茶を始めたように見えましたね(苦笑)。
八重さんは後に新島邸の一室を改造して茶室を作っており、「寂中庵」と名付けて毎月三回の月釜を懸けて茶会を開いていたそうです。
ただその茶道への没頭ぶり(茶道具や茶器代)が、八重さんの借金を益々増やしていくことになるのですが、そこはもう敢えて触れまい。
逸話はたくさんあるのに、触れられないことだらけのドラマの八重さんですが、雨の日に傘がなくてずぶ濡れになって歩いている生徒に傘を貸してあげた優しい逸話は史実です。
こういう部分をきちんと積み重ねて描いて、ドラマの中で「ハンサムウーマン」像を確立させて欲しかったのですが、最終回でそんなこと言っても詮無いですね。

明治29年(1896)5月20日、偉大なるおっかさまであった佐久さんが逝きます。
(さも八重さんひとりが残されたような描写でしたが、実際は養女の初子さんという存在がありましてですね・・・以前の記事でも触れましたが)
同年12月25日、八重さんは勲七等宝冠章を受勲しました。
この受勲は赤十字社京都支部の活動で受勲した初めての人であり、平民で初の女性勲章者でした。
しかもそれが会津の女性ということで(同年に瓜生岩子さんが藍綬褒章を賜っていますが)、察するにこの報はドラマの時尾さんのように、会津の人にとってはこの上なく嬉しく、誇らしいことだったかと存じます。
受勲されたのは八重さんだけでなく、合計16名がこのとき一緒に受勲されました。
しかし広島陸軍予備病院にいた従軍看護婦33名の内、受勲されたのは八重さんただひとりです。
その後八重さんは日本赤十字京都支部で新たに創設された篤志看護会の幹事に嘱託され、赤十字京都支部の幹部となりました。
明治37年(1904)に日露戦争が勃発すると、京都駅構内に患者休養所が設置され、ここの担当を請け負った京都支部からは八重さんが行って藩護符と指揮監督し、翌年には篤志看護婦幹事として約2か月大阪で看護活動をしています。
こうした功績から、明治39年(1906)4月1日、八重さんは勲六等へ昇叙することとなりました。
平民で勲六等を自力で拝受したのは八重さんが最初ということで、個人的には勲七等宝冠章の時よりもこっちに重きを置いてドラマで描いて欲しかったなぁ・・・と。
いえ勲七等宝冠章でも十分喜ばしいことなんですけどね、昇叙にも大きな意味と価値があったんですよ。

明治31年(1898)3月2日、慶喜さんは有栖川宮威仁親王の仲介を経て、皇居参内、明治天皇に拝謁しました。
対面後、明治天皇は「やっと罪滅ぼしが出来た」と語った逸話は有名ですが、本音で言えば慶喜さんじゃなくて容保様を・・・と考えてしまいます。
既に容保様逝去されてるので無理なのですが、存命中に明治天皇に拝謁が叶って、慶喜さんが貰った言葉を貰えていたらどんなにか、と思わずにはいられません。
その慶喜さん、既に還暦も過ぎた61歳での再登場ですが、趣味に没頭した気まま生活を送っておられた点、容保様とは大違いですね。

あの時江戸が戦場となり、焼け野原になっていたら、この国は如何なっていたであろう
内戦が続き、国は弱り、果ては列強の属国となっていたかもしれません。江戸城の引き渡しを、無血開城という者もいます。なれど、血を流さずに維新がなったわけでは御座いません。上野の彰義隊、そして会津を始めとする奥州諸藩・・・

函館戦争も視野に入れてあげて欲しいところですが、この「もし~だったら、どうなっていたか」なやり取りは典型的ですね。
維新なんて言葉は何となく格好よく聞こえますが、要はお国のてっぺんに君臨してた政権引き摺り下ろした革命ですから、血が流れてないわけないんですよ。
でもその血を何故流してまで革命したのか、その血を流してまで作った新しい政府で、この先の日本を如何していきたいのか、その辺りのことが「八重の桜」では全く触れられないので、明治政府組が悉く小者に見えてしまうという(苦笑)。
ともあれ、時代を変えるって、ささやかなことじゃないと思うんですよ。
旧時代を守ろうとする人も、新時代を打ち建てようとする人も、それぞれの想いというのはある筈なんですよ、歴史は人間が紡いでるんですから。
なので前回の記事で散々書きましたが、どっちが悪い、どっちが正しい、何て単純な二元論は通用しないのね。
ただ、もし「悪い」を慶喜さんに見出すとすれば、いつだって良心的でいてくれた容保様を見捨てたことでしょうか(そしてそれを勝さんが引き継いで、会津をスケープゴートにしたという・・・)。
慶喜さんからの理不尽なこの仕打ちに、容保様はこんな詩を残しています。
古来より英雄数寄多し
なんすれぞ大樹 連枝をなげうつ
断腸す 三顧身を持するの日
涙をふるう 南柯夢に入るとき
万死報国の志 いまだとげず
半途にして逆行  恨みなんぞ果てん
暗に知る 地運の推移し去るを
目黒橋頭 杜鵑啼く
詩や和歌というものは、総じて解釈が人によって分かれる、文学的に難しいものではありますが、これが「どうして慶喜公は(=なんすれぞ大樹)、我ら会津を見捨てられたのか(=連枝をなげうつ)」、という恨み辛みが込められた詩であることはまず間違いのないことだと思います。
しかし皮肉なことと言いましょうか、容保様、慶喜さんそれぞれのお孫さん同士はやがて夫婦になり、その子供が徳川慶朝さんなのですね。
どれだけ恨み辛みを吐いても、会津松平家と徳川家は切れぬ関係のようです。

さて、容保様が生涯秘密にしていた(ドラマでは安売りのようにバンバン出てましたが)ご宸翰の存在が、明治政府に知られてしまいます。
先週も書きましたし、ご宸翰については以前の記事で書かせて頂いてますので改めて筆は割きませんが、「国家の安寧のためじゃ」とはまたまた大山さん、笑わせてくれる爆弾発言ですねぇ
いや、間違っても大山さんが悪いんじゃないですよ。
こんな台詞を書く脚本が拙い。
前回の茶番劇に続いて、今回は狂言回しか何かですか?
ご宸翰が世に出ては、あなた方が築いた藩閥政府の大義が失われでしまうからですか」っていう健次郎さんの発言が真実じゃないですか。
それをどうして変なテコ入れして、綺麗事で纏めようとしますかね。
国家の安寧だとか言ってますけど、山縣さんがご宸翰5万円買収しようとしたのは事実ですし、それって都合悪いから歴史の闇に葬ろうとしたってことでしょう?
それを危惧したから、会津松平家は安全な東京銀行の金庫に預けたんでしょう?
危険を察知しなかったら、わざわざ金庫に預けるようなことしませんよ。
歪曲させすぎでしょう・・・。
どこで道が別れたとか、考えてみたか」って大山さん言うけど、完全に空中に浮いてる意味不明な台詞です。
『京都守護職始末』が刊行されるまで、紆余曲折、ないしは妨害のようなものがあったのは紛れもない事実です。
その度ごとに、浩さんからこれの出版の遺志を継いだ健次郎さんはあの手この手を使って上手く立ち回ります。
このときも、実際は金銭的に困窮していた松平家救済のために、伊藤さんの口添えで3万円を下賜する代わりに出版見合わせを受け入れます、という流れだったようです。
限定範囲の出版が許された明治44年までは、まだまだ遠い道のりです。
『京都守護職始末』についてはまた別記事を設けようと思います。

幕末時には人口6万人ほどの奥州屈指の城下町だった会津ですが、明治のこの頃は戊辰戦争の爪痕もあってその半分くらいに激減していました。
それでも八重さんが再び故郷を訪れると、変わらずあの桜の樹は花を咲かせていました。
そこで再会した懐かしい顔、頼母さん。
彼が会津を終の棲家として戻って来たのは明治32年4月7日のことでした。
このとき70歳になっていた頼母さんは、身の丈5尺足らずなのに帯まで届く白髭を蓄え、足の大きさは9文半だったようです。
沼沢出雲邸跡に建てられた五軒続き二棟、トタン屋根の長屋(十軒長屋)の西棟の真ん中に「保科近悳」と表札を掲げてお住まいだったようで。
いわばかつてご城下の中だったところに再び居を構えられていたのですが、そんな頼母さんの長屋から、城下を出たところにあったはずのあの桜があんなに近くに見えるのは明らかに地理的な距離感が狂っているのですが、ここまで来たらもう突っ込む気も失せました(笑)。
何しに会津に戻って来たのか、と問う頼母さんに、八重さんは戦争があったから活躍して、勲章をもらったことが胸に痞えていると話します。

また戦の足音が近付いでいる。今度は満州に進んで来たロシアが相手です・・・剣に鋤に打ち変え国は国に向かって剣を上げない。そんな時は来ねぇのか、会津で考えたくなったのです

八重さんはこう申していますが、ロシアと戦争やって勝たないと、日本の国土がロシアにほぼ占領される形になります。
現代人の価値観を十二分に擦り込んで八重さんの口から非戦を語らせると、この時代人としては非常に異質なものになるという論理は、とうとう最後まで脚本にはご理解頂けなかったのですね。
相変わらず現代人と化してて気味が悪い八重さんはさて置き、色んなものを抜きにして頼母さんのこの台詞だけを見ると、西田さんの熱演と限りなくネイティブに近い会津弁も相俟って、良かったです。

わしはな、新政府がなじょな国つくんのが、見届げんべど、生ぎ抜ぐつもりであった。んだげんじょ、戊辰以来、わしの眼に焼ぎ付いたのは、なんぼ苦しい時も懸命に生きようとする人の姿。笑おうとする人の健気さ。そればっかりが、わしの心を胸を揺さぶんだ。八重、にしゃもそうだぞ。あの戦からすっくと立ち上がって、勲章まで頂くどは・・・立派な会津の女子だ。わしゃ嬉しくて嬉しくて・・・

復興大河と銘打たれた「八重の桜」でしたが、それがちょっと台詞にも滲んでましたね。
とはいえ、変に復興大河と意識しなくても良かったと思うんです。
頼母さんの言葉にもあるように、「あの戦からすっくと立ち上がって、勲章まで頂くどは」な八重さんの人生を追って行く形でドラマを作って行けば、「春が来たらまた桜が咲くように、頑張って行ける」と勇気づけてくれるものにになったと思うんですよね。
八重さんの人生を見て、そこに元気や勇気や強さや、前向きな気持ちを分けて貰える貰えないは、見る人の取り用ですよ。
そういうのって、押しつけがましく与えて貰うものじゃないですよね。
そういう意味では、復興大河なんて掲げていること自体が烏滸がましいと言えるかもしれません。
それを無理に復興とシンクロさせようとしたからか、話は迷走して、登場人物の価値観は現代人のそれになって・・・とぐちゃぐちゃなった。

最後、蘇峰さんと茶室で向き合った八重さんが、もしも今、自分が最後の一発の銃弾を撃つとしたら・・・と、その銃口を空に向けて引き金を引きます。
(余談ですが、このときの話し相手が蘇峰さんなのは、登場人物が少なすぎて他に選択肢がなかったのと、やっぱり現代人と化した八重さんが、後に第二次世界大戦後A級戦犯容疑をかけられることになる蘇峰さんに非戦を説くという絵図が欲しかったから・・・ですかね)
そして物語の〆の一言。

私は諦めねぇ

うん、だから何を?と言いたくなりました、はい。
いえ、色んな解釈はあるでしょうが、少なくとも「何を諦めないのか」の「何」の部分が分からなさすぎて・・・。
理解力の低い人間で申し訳ないです。
普通に、このドラマの八重さんの思考回路で行くと、剣に鋤に打ち変え国は国に向かって剣を上げない、そんな時が来ることを「諦めない」んだろうな~という気はします。
でも実際の八重さんって、非戦どころか軍国主義者ですし、戦は面白い物でしたと回想しちゃってるくらいですし。
なまじっかそういう史実の八重さんを齧っているだけに、私は最後の最後までドラマの八重さんとは相容れることが出来なかったなぁ、という後味が残りました。
何だか大半の視聴者を置いてけぼりにした感の拭えない幕の下ろし方でしたので、私のこの記事の〆も変な感じになっていますが、ご容赦願います。

ではでは、此度はこのあたりで。

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