2013年1月27日日曜日

色から会津藩士を見る

「八重の桜」も早いもので第4回放送が終わりました。
とはいっても、当ブログがどうなるわけでもなく、相変わらず素人目線ののほほんまったりですが(笑)。
さて、物語が進むにつれて、たくさんの会津藩士の方も出てくるようになるわけですが、今日はその会津藩の身分が一目で分かる方法をご紹介したいと思います。
その名も「紐制襟制」。
そもそも会津には、上は家老から下は足軽まで、士中(四階級)、寄合(三階級)、足軽(四階級)の全十一階級に分かれていました。
そしてこれら十一階級のそれぞれに紐の色(あるいは襟の色)が与えられていて、一目で身分の上下が分かるようになっていたのです。
まずは最上位の第一級から見て行きましょうか。
ちなみに以下に出てくる「近習」というのは、文官・背広組で、割場や会所(藩のお役所)や日新館に勤務する藩士のこと。
外様は武官・制服組の藩士のことです。

第一級
羽織紐の色:納戸色→
近習:家老、若年寄、大御目付、奉行クラス
外様:番頭、猪苗代城代など

第二級
羽織紐の色:黒色→
近習:御刀番、町奉行、公事奉行、学校奉行、番頭組組頭、御次番、御祐筆など
外様:御旗奉行、物頭、番頭、御家老付御旗奉行など

第三級
羽織紐の色:紺色→
近習:なし
外様:猪苗代城代勤務の武士

第四級
羽織紐の色:花色→
近習:御側医師、武芸指南役、御近習番など
外様:御家老付一ノ寄合、新番組士

第五級
羽織紐の色:茶色→
近習:御医師、御坊主頭、女中付、御用所役人、御用人所吟味役、江戸御金払、廻米役人など
外様:御家老付二ノ寄合、御家老付三ノ寄合、御家老付四ノ寄合、御家老付与力など

第六級
羽織紐の色:萌黄色→
近習:大賄役、兵器役人、御台所目付、御月代番など
外様(年割の者のみ):大組与力、金鞁役、御軍事奉行付与力、番頭付与力など
◎年割→給料であるお米を、年に何回かに割って貰ってた人達

第七級
羽織紐の色:浅黄色→
近習:小役人、預役所惣小役人定雇、茶部屋
外様(月割の者のみ):大組与力、金鞁役、御軍事奉行付与力、番頭付与力など
◎月割→給料であるお米を、月で割って毎月貰ってた人達

第八級
襟の色:黒色→

第九級
襟の色:大和柿色→?

第十級
襟の色:白鼠色→

第十一級
襟の色:浅黄色→

冒頭で触れたことと照らし合わせますと、第一級~第四級までが「士中」(400~500人いたそうです)、第五級~第七級までが「寄合」、第八級~第十一級までが「足軽」です。
足軽からは、紐ではなく襟の色になってるんですね。
ちなみに第五級までを「独礼御目見」といい、ひとりで藩主に謁見出来る身分でした。
さて、覚馬さんは第4回で謹慎が解ける前の時点では、「武芸指南役」と考えて問題ないでしょうから花色の紐(ちなみに山本家は「外様」)。
権八さんも同様です。
作中でもそんな色の紐でしたので、素晴らしい時代考証です。
あまり上手にご紹介出来ませんでしたが、紐で上下関係が分かるのだということを頭の隅に置いておいて頂ければ、藩内の上下関係も良く見えてくるかと。

ではでは、此度はこのあたりで。
第4回分の記事は、今しばらくお待ち下さいませ。


【参考】
和色大辞典様(http://www.colordic.org/w/
野口信一(2005) 『会津藩』、現代書館


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2013年1月21日月曜日

第3回「蹴散らして前へ」

ひとりで講義の練習をしてる覚馬さんから始まりました、第3回。
どうやら日新館で教えることが決まった様子。
・・・ですが、その様子をひょっこり覗いていた与七郎さん(もう少年と呼べる恰好ではありませんね)とその友人達がこんなことを言います。

夷狄の鉄砲なんか、習うもんがいんだべが
んだな。武士の本分は弓、槍、刀だ
んだんだ

何気ない発言ですが、今話のあれこれの根本は全てここに通じます。
それはもう少し筆が進んでから触れるとして、「八重ちゃん」から「八重さん」となった八重さん。
当たり前ですが、それに合わせて時尾ちゃんも貫地谷しほりさん演じる「時尾さん」になってます。
やっぱり綾瀬はるかさんの外見に騙されてしまいそうになりますが、この時八重さんは12歳、数えで13歳です。
八重さんは、どうやらお裁縫が物凄く苦手なご様子で、出来栄えを見たお師匠さんに盛大に溜息を吐かれてました。
あの時代の鉄砲って、手先が器用じゃなきゃ扱い難いというイメージがあるのですが、必ずしもそうじゃないのかな。
それとも、八重さんにとってそれとお針は全く別の話?(笑)
八つ(午後2時頃)になって、お裁縫の稽古が終わると鉄砲玉のように飛び出して行く辺りは、年相応の女の子の行動だな~と、ちょっぴり微笑ましいです。
飛び出した八重さんがぶつかりそうになった女の人は、山川二葉さん。
1844年9月30日(弘化元年8月19日)のお生まれなので、このとき13歳、数えで14歳。
八重さんよりひとつお姉さんということですね。
二葉さんは、第1回で八重ちゃんと木登り競争や、第2回で火蓋の読み方を教えてあげたりしていた与七郎少年のお姉さんに当たります。
二葉さんのお供の女中さんが、「おなごが供も連れねぇで」と眉を顰めていましたが、この時代は現代とは違って、武家女性の一人歩きははしたないこととされていました。
こういった諸々の、武家女性の日常生活のあれこれにもし興味を持たれた方がおられましたら、岩波文庫から『武家の女性』という本が出てますので、読んでみて下さい。
(ただし、『武家の女性』の舞台は会津藩じゃなくて水戸藩ですが。)

しかし、八重さんの歴史を知っている人ならよくご存知でしょうが、彼女は明治期に女紅場(華族や士族のお嬢さん方に裁縫や読み書き算盤を教えた教育機関)に勤めることになります。
お針が下手なまま権舎長となるのか、この後ぐんと上達するのか・・・。
まあ針の上手い下手はあんまり権舎長とは関係ないのかも。
そういえば八重さんと襄さんとの出会いも、井戸でのお裁縫でしたね。
武家女性ならたしなみは裁縫だけではないでしょうに、裁縫裁縫と裁縫が全面押しされてる感があるのは、そういう経緯が後々にあるからでしょうかと、変に勘繰ってしまいます。

鉄砲玉のように裁縫教室から飛び出した八重さんが向かったのは、大きな桜の樹の上。
熱心に読んでいるのはやはりといいますか、砲術の本。
この本は『砲術言葉図説』らしいのですが、『砲術言葉図説』は自信はありませんが高島流砲術でしたっけ。
軍隊の号令や用語のいくつかは、ここ由来です。
冒頭で覚馬さんがひとり講義で「これがパトロン」と仰ってましたが、あのパトロンもそのひとつです。
ちなみにここでのパトロンはオランダ語で、フランス語のパトロンとは意味が全く違います。
さて、その八重さんが毛虫に吃驚して本を落っことした先に現れたのが、尚之介さん。
語るまでもない、八重さんの未来の旦那様ですね。
まるで少女漫画のごとき出会いです。
ふたりが結婚するのは慶応元年(1865)の話ですので、これより八年後のお話。

江戸から遥々覚馬さんを訪ねて来た尚之介さんは、覚馬さんが会津で蘭学所を開くと聞いて、会津で働くために来たそうです。
しかも出石藩にお暇頂いた、浪人身分となって、ですからやる気満々。
しかし覚馬さんの蘭学所はまだ開設の許しも下りてない状態なので、ひとまず山本家にご厄介(居候)という形で逗留する感じですね。
尚之介さんがやって来たことにより、ますます蘭学所開設に胸を膨らませる覚馬さん。
西洋砲術の指南も始めて、語学や舎密術や医術、西洋式の訓練もして・・・そうだ無断で藩を飛び出した古川春英さんも呼び寄せよう、と目をキラキラさせる覚馬さんと、それに膝を打って同意する尚之介さんに対して、話を聞いていた権八さんの表情は飽く迄険しい。

覚馬、そう急ぐな。こごは会津だ。江戸ど同じに考えだらうまぐいがねえぞ

仰る通りですが、覚馬さんには分かってるけど分かっていない感じでしょうか。
覚馬さんが悪いわけじゃ勿論ないです。
ただ、会津の人全員が全員覚馬さんのように江戸へ遊学して、視界が啓けたわけじゃない。
逸るばかりに、覚馬さんはその認識を置いてきぼりにしてる・・・そんな印象を受けました。

ドラマでは触れられていませんが、権八さんもまた覚馬さん同様、若い頃に藩を代表して江戸遊学をしてます。
つまりはそれだけ優秀だったということです。
そして江戸で洋式の高島流砲術を学んでます。
権八さんが江戸遊学したときに、江戸には象山塾も何も勿論なかったでしょうが、それでも砲術を通じて「西洋のもの」には存分に触れたはずです。
その権八さんが江戸遊学を終えたとき、覚馬さんのようにならなかったのは、会津がどういうところか(つまりは保守的)分かっていたからでしょうか。
その経験みたいなのを踏まえての、「ここは会津」「江戸と同じではない」という言葉なのかなと、ひとり考えておりました。

覚馬さんが視界を啓けるきっかけをもたらしてくれた象山先生は、松代謹慎蟄居中。
松代藩重役江戸詰家老、望月貫恕さんの下屋敷を借りて住んでおりました。
屋敷は三千坪ほどあったようで、象山先生はその庭園を高義園、家を聚遠楼と命名し、そこで以前と変わりなく学問を続けておられるご様子。
「いずれ天下が私を呼び戻すときが来る」と仰る象山先生。
それは五年後のお話になるのですが・・・いえ、先のことは時が来たら触れることにしましょう。

何かを始めようとすれば、何もしない奴らが必ず邪魔をする。蹴散らして前へ進め

象山先生から、尚之介さんを通じて覚馬さんへの伝言です。
非常に良いことを言っているように聞こえますが、逆にこれが変に覚馬さんの背中を押してしまったような気もしたのですが、如何でしょうか。

それから程なくして、覚馬さん待望の蘭学所開設の許可が下ります。
ですが、尚之介さんの教授方就任は認められず。
「財政が逼迫しているから余所者を雇う余裕がない」みたいなことをご尤もな理由らしく言われますが、ただ単にそれだけではないことは、覚馬さんの苛立つ表情からも察せますね。
胸を膨らませていた分、会津上層部の実態の壁にドンとぶつかって、「何で」という思いが胸中を過ったことでしょう。
その覚馬さんを案じているのが、林安定さん、通称林権助さん。
文化3年(1806年)のお生まれですから、このとき51歳、数えで52歳。
このときは砲兵隊長、後に大砲奉行となります。
砲術師範の権八さんとは、云わば同じ部署の同僚、という感じでしょうか。
第1回の追鳥狩で、「負けんなよ、覚馬」と言っていたのはこの権助さんだったか、隣にいた権八さんだったか。
権助さんがいうに、覚馬さんはゲーベル銃の試射で100発中85発命中させたそうで。
枝葉になりますが、かの明智光秀さんは、火縄銃100発撃って68発命中させたそうです。
ですが光秀さん時代の銃とゲーベル銃は性能がまるで違うでしょうから、光秀さんにゲーベル銃持たせたら覚馬さんレベルなのかなと謎の解釈とひとり納得をしておりました。
話を戻して・・・。
権助さんは、覚馬さんの鉄砲の腕を絶賛しに来たのではなく(それもあったかもしれませんが)、覚馬さんの先走った行動を案じて、釘を刺しに来られたご様子。

程っつーもんも弁えねえどな。蘭学所を開ぐのも、余所がら人さ連れで来んのも、会津のためになんべ。そんじも、あんまり急ぐど上がつむじ曲げる。天狗になったと叩かれる

だからちょっと手綱を引いてやれという権助さん。
釘を刺されて、ああやっぱりそうなったか、という感じの権八さん。
どうやら覚馬さんの先行きは、前途多難の模様。

さて、こちら裁縫教室の帰りと思しき八重さん。
ばったり会ったのでしょうか、尚之介さんと仲良く雨宿り。
やっぱりというか、何か少女漫画的です(笑)。
笑われた、とムスッとしてたのに、「良い腕をしている」と言われたら途端に嬉しそうな顔をして、尚之介さんに打ち解ける八重さん、年相応の女の子ですね。
多分今まで八重さんは、「笑われた」というのと、「大好きなあんつぁま」を取られたという年頃の女の子にありがちな焼きもちみたいなのを尚之介さんに抱いてたんでしょうねぇ。
そこへ登場するのが、与七郎さん。
八重さんと同い年なので、このとき12歳、数えで13歳。
冒頭に登場した時点で既に玉山鉄二さんになってましたが、前髪落としてたので元服は終わってるんでしょうか。
与七郎さんは、尚之介さんが八重さんの家に厄介になってることを知って、「え」という表情。
何と言いますか、物凄く分かりやすいです。
八重さんが傘がなくて難儀しているところに気付き、番傘を置いて行ったのは物凄く某ジブリシリーズ某作品の某場面を彷彿させるシーンでした。
八重さん、この歳にして罪なおなごですね。

同じく雨の中、ほのぼの少女漫画モードな妹とはぐるりと変わって、険しい顔の覚馬さん。
相変わらず尚之介さんの仕官の話は通らず、古川春英さんの帰藩の件については取り下げどころか戻ってきたら脱藩の科で捕縛すると言われ、トドメは蘭学所開設を許可したのは早計だったと言われる始末。
「分からず屋ども」と吐き捨てたくもなるでしょう。
まあ、先程も触れましたが、言ってしまえば会津は保守的なんですよね。
だから、一介の藩士でしかない覚馬さんがいくら声高に騒ぎ叫んだところで、会津藩の本体部分にまではなかなか響かない。
島津斉彬さんの治める薩摩藩など、例外はいくつかありますが、この時期はまだほとんどの藩がそんな感じだったと思います。
そんな覚馬さん、道ですれ違った藩士と肩がぶつかり、番傘を落としてしまいます。
番傘を拾いもせず、謝りもしない藩士に「西洋かぶれの足軽」「飛び道具何て刀も槍もまともに使えない腰抜け武士の使うものだ」とせせら笑いされ、あわや一触即発。
抜くか・・・と固唾を飲みましたが、斬り合いは御法度ですから黒河内道場で槍の稽古として決着をつけることになります。
ちなみにこの道場の正面に座っておられた黒河内兼規さんは、幕末最強の剣客としても有名です。
そういえば、第一回から稽古といえば剣ではなく槍でのシーンが多いのは、会津には宝蔵院流槍術が盛んで、東の会津・西の柳川と言われていたからでしょうか。
そんなこんなで、鮮やかな槍捌きで無礼を働いた藩士ふたりを完膚なきまでにやり込めた覚馬さん。
実は覚馬さん、銃の腕前が抜群なのは言うまでもなく、馬も弓も刀も槍も、全て師範級の腕前でした。
おまけに5歳の頃には五言絶句を暗唱していたというのですから、まさしく文武両道のひと言に尽きません。
しかし、試合の様子を見ていた西郷さんが、後で覚馬さんを「遺恨を含んで槍を振るうな」と叱ります。
実は西郷さんの方が覚馬さんよりふたつ年下なのですが(これまた演じてる方に騙されそうになりますね)、身分は西郷さんの方が上なのでこの形式が成り立つわけです。

ご先祖代々、弓、槍、刀でご奉公に励んできたのだ。鉄砲の方が強いとど言われれば、腹が立づのも道理であろう

ここは西郷さんの言うことがご尤もです。
覚馬さんには、今のままだと乗り切れない時代がやって来てるのに周りが現実を見ようとしない(分かろうとしない)のが不思議だし、焦燥に駆られるものがある。
「あの西洋の技術の結晶というべき黒船を見たか?あんなもの作り出す異国に、弓や刀や槍で太刀打ち出来ると本当に思ってるのか?そんなわけないだろ!武士の沽券だ何だでは日本を異国から守れない!」
・・・と、心中を代弁させて頂くならそんな感じですかね。
蹴散らせと言った象山先生に対して、西郷さんや権八さんや権助さんは、どちらかと言えば覚馬さんい「急がば回れ」を促してる。
いはやは、実に対称的ですね。

場所は移りまして、品川の台場。
ここには黒船来航以降、海防強化のために第一から第十一まで台場があり(ただし四と七は工事の途中で中止、八から十一は未着工)、幕命を受けた藩がそこを守備してました。
会津が任されていたのはその内の第二台場(現在の台場公園)。
しかしこの第二台場は、これより2年前の安政2年10月2日(1855年11月11日)午後10時頃に安政江戸地震(安政大地震)が発生し、大被害を受けました。
特にこの第二台場が酷かったようで、火災発生、建物は倒壊。
50人いた藩士の内の半数はその下敷きとなって、焼け死ぬよりはと切腹し、故郷へ刀を届けるように難を逃れた藩士に手渡したそうです。
このとき第二台場には4トンの火薬があったらしいので、引火すれば大爆発じゃすみません。
おまけに地面が割れて水が噴き出してるわ何だで、第五台場にいた庄内藩が救援に駆け付けたものの、手が付けられない惨状だったとか。
容保様の「砲台を守って命を落とした者たち」の言葉には、そういった被害事情があります。
加えて会津はこの地震で中屋敷も倒壊しており、160名以上の藩士が命を落としてます。
これら中屋敷、台場の再建費用諸々が、藩の財政を逼迫させたこと間違いありません。
尚之介さんを取り立てる余裕がない、というのは、蘭学的なものを疎んじてたのもあったでしょうが、本当に余裕がなかったのも事実でしょう。
今後この財政の逼迫は、折に触れて会津に付き纏う問題となります。

ここで新鮮な風を吹き込ませてくれるのは、やっぱり江戸会津藩上屋敷の女性陣。
敏姫さんは既に容保様と婚儀を済まされているご様子です。
その辺りの詳しい状況は、前回の記事で触れさせて頂いた通りです。
敏姫さんと戯れているのは狆でして、犬とはまた少し違います。
いえ、動物学的に言えば犬なのですが、屋内で飼う愛玩犬(特に小型のもの)のことを特に「狆」と呼びました。
狆は、照姫様も飼われて大切にされていたようで、会津籠城の際にも傍らには狆がいたそうです。
いやはや、しかし敏姫さんと容保様夫婦の初々しさときたら、鮮度100%ですね。
ですが敏姫さん、やはり14歳、数え15歳のおなご。
照姫様と容保様の間に漂う空気に、何かを感じてしまったご様子。
素朴な疑問なのですが、自分が生まれなかったら容保様と照姫様は夫婦になってたんだな、ってことを敏姫さんはご存知なのでしょうか。
それでなくても自分の夫に、義理とはいえあんな才色兼備の姉上様がいるのは気後れするでしょうに・・・。
・・・あれ、何だか新鮮な風じゃない雰囲気に・・・。

季節は流れて、夏。
藩庁に呼び出された覚馬さんは、鉄砲の入れ替えの件の却下、洋式調練採用の取り下げなどを言い渡されます。
軍制改革を進めようとしない会津藩家老達に、それでもと覚馬さんは引き下がりませんが、「御家の軍制に、砲術指南風情が口を挟むな」と一喝されます。
堪えて、堪えて、平伏して・・・だった覚馬さんですが、遂には目上の家老方に向かって「古い」とぼやいてしまい、挙句の果てには「井の中の蛙だ!」と言い放ってしまう始末。
ここで少し話を整理しましょう。
まずこの時会津が採用していたのは長沼流兵法。
覚馬さんが訴えてる西洋式軍制改革が、ようやく会津藩本体にまで響くのは鳥羽伏見の戦いの敗戦(慶応4年/1868年)まで待たなければいけません。
またこの鳥羽伏見の戦いで、先程の権助さんの隊の死傷率は約80%、大砲隊隊長白井五郎太夫さんの隊は約85%。
このとき覚馬さんの申し出を受け入れ、会津の軍制改革が進んでいたのならこの結果は違っていたものになっていたはずです。
では覚馬さんの申し出を聞かなかった御家老衆が悪いのでしょうか。
覚馬さんが言うように、「井の中の蛙」なのでしょうか。
・・・と云われれば、一概にはそう断じることも出来ません。
覚馬さんの言ってることは正しく聞こえますが、それは私たちが「現代」から「歴史」を「眺められる」立場にいるからです。
視点の置き場所を間違えてはいけません。
視界が啓けている覚馬さんは「例外的立場」で、御家老衆をはじめ皆様は身分社会という枠組みの中で生きてるんですよ。
その彼らに、いきなりプライド傷付けるようなこと言ったら拒絶反応起こされて当たり前。
正しい、自分は間違ってない、変わるのはお前たちの方だ、とどれだけ正論振り翳しても、彼らからすれば覚馬さんの方が「例外」なんです。
旧弊に思えるかもしれませんが、それが「江戸時代」だし、300年近く戦のない世が続いた平和国家である「パックス・トクガワーナ」。
幕末のこの状態を、新しいものをなるべく受け入れずに排除してきた泰平の負の遺産、と切り捨てるように言い放つ人もおられますが、当時の方々からすればそれが彼らの世界を構築してたものなのでして。
覚馬さんが会津藩を「井の中の蛙だ」というのなら、差し詰め会津藩から覚馬さんは「井戸という空間に300年近く守られている自分達の井戸を壊そうとしてる存在」という風に見えるのかと。
これについては色々と各個人の意見もあると思いますので、とりあえず一旦議論終了。

覚馬さんはその翌日、禁足の処分を受けます。
無期限の外出禁止ということです。
権八さんは、処分が解けるのは一年後か十年後か分からないと仰ってましたが、禁足が解けるのは一年後になります。
助力してくれたのは権助さんです。
しかしそんな未来のことなど、山本家の皆様が知るはずもなく。
禁足を受けた覚馬さんの姿を見て、八重さんは辛そうに顔を歪めます。
そんな八重さんが、目に涙を浮かべて心中を吐き出した相手は尚之介さん。

私にはわがんねえ。あんつぁまも尚之介様も、何も間違ってねぇのになして・・・なして罰を受げんのがなし
八重さん、ままならぬこともあるのですよ、世の中には

そういって長い間を置いた後、尚之介さんは言葉を付け足します。

頑固ですからね、会津は

何となくその言葉に、ハッとさせられたような、納得したような、我が身にも覚えがある、というような八重さんの表情。
尚之介さんの言葉を受け取った八重さんは、自分が作ったパトロンを覚馬さんに差し出して、「この弾、撃ってみでくなんしょ」と言いますが、覚馬さんの返事は「後にすんべ」。
では、と八重さんはすっくと立ち上がり、ひとり角場へ。
数拍後に、覚馬さんが慌てて追いかけますが、既に八重さんは発射体制を整えてました。
人に笑われても、覚馬さんが諦めると言っても、鉄砲を極めるまでひとりでも自分は諦めないで続ける。
そう言い放った後、八重さんが引き金を引きます。
射撃音の響いた後に判明したことですが、八重さんは実弾撃つのが初めてだったようです。
つまりこれは、「幕末のジャンヌダルク」の記念すべき一発目というわけですね。
その一発目は、的に綺麗な穴をぶち抜いてました。命中です。
それに何か吹っ切れたのか、「蹴散らして前に進むが!」と覚馬さんが生気を取り戻します。
いや、ですから蹴散らすんじゃなくて・・・とも思わなくもなかったですが、まあ展開を見守ることにしましょうか。

安政4年10月21日(1857年12月7日)、徳川十三代将軍家定さんが、米国総領事タウンゼント・ハリスさんと江戸城で引見します。
このとき家定さんが足をだんだんさせてるのは史実です。
家定さんは体が弱かったそうですが、暗愚だったかどうかは噂の域を出ません。
しかしそのために将軍後継に一橋慶喜さんを据え、政務代行の話が持ち上がってました。
一橋慶喜さんというのは徳川斉昭さんの七男で、その英邁さから養子に出さずに斉昭さんがずっと手許に置いておいたほど。
この慶喜さんが、巡りに巡って徳川家最後の将軍となりますが、それはまた後日談。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年1月17日木曜日

容保様と照姫様

「八重の桜」第2回「やむにやまれぬ心」観賞中に、容保様と照姫様の場面を見て
とTwitterでつぶやいたところ、有難くも「なるほど」と言って下さるお声などなどが多数あり、ああ少しでもお力になれたなと、とちいさな喜びを噛みしめておりました。
確かに何の予備知識もなくあの場面を見ると、照姫様と容保様の雰囲気に、ただの義姉弟以上の何かを感じるけどでも何だかよく分からない!と思ってしまうのも無理からぬ話かと存じます。
何せ「八重の桜」公式サイトの照姫様紹介文には、
容保と同じく養女で、3歳年上の義理の姉。1842(天保13) 年、子のない松平家に養女として迎えられるが、その翌年、容敬の側室に敏姫が誕生。1846 (弘化3)年、容保も養子として迎えられる。

とあり、何故照姫様が「子のない松平家に養女として迎えられ」たのか、「容敬の側室に敏姫が誕生」したことがどう照姫様に影響を与えたのかが触れられていません。
これも、視聴者の皆様もはてなと首を傾げることになった一因かと。
もしかしたら、追々触れて行く、というプランニングが制作側でなされているのかもしれませんが・・・。
今回はその補足を少しでもさせて頂ければなあ、と思いまして、まずは百聞は一見に如かず、家系図を作ってみました(敬称略)。

拙くて申し訳ないです。
左下にあるこの色が容保様です。
ドラマでも「この身に、会津の血は流れておらぬ」と仰っていたように、容保様は元々会津藩の方ではありません。
元は美濃国(現在の岐阜県)高須藩主、松平義健さんの七男として江戸四谷にあった高須藩邸で生まれました。
高須藩というのは尾張徳川家に嗣子が絶えたときこれを相続するという、いわば優秀なお血筋を担うお家柄でした。
そういうこともあって、容保様のお兄さんにあたる徳川慶勝さんは尾張徳川家に養子入りし、その家を継いでます。
他のご兄弟の皆様も、他家に養子に出されながらもそれぞれの場所で幕末史に巻き込まれていくのですが、今日はその話は少し脇に置いておきます。

話を戻しましょう。
容保様のお父様、義健さんには、お母さんの違う弟がいました。
それが容敬さんです。
容敬さんは諸事情あって七代藩主松平容衆さんの異母弟ということになり、容衆さんが文政5年2月29日(1822年4月20日)に亡くなると、末期養子(御家断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のこと)となって会津藩を継ぎました。
しかしこの容敬さん、後継ぎの男児どころか、女児ですらなかなか授からない状態でした。
天保13年(1842)、容敬さんは会津藩の支藩にあたる飯野藩からひとりの姫を養女に迎えます。
しかも藩主保科正丕さんの娘です。これが照姫様です。
当時10歳、数えで11歳の、いとけなくして聡明、且つ容貌も整っていた才色兼備の姫だったようです。
おそらく容敬さんのプランニングは、この支藩藩主の姫に、立派な男児を娶せて自分の後を継いでもらおう、というものだったかと思われます。
(しかしそれだと、何故照姫様より先に何処かの家の男児を養子に迎えなかったのかという疑問が残りますので、このプランニングについては私の憶測です。)
しかしこのプランニングが根元から揺らぐようなことが、照姫様養女入りの翌年に起こります。
今まで子宝に恵まれなかった容敬さんが、女児を授かったのです。これが敏姫さんです。
照姫様は敏姫さんのご誕生に、内心困惑したのではないでしょうか。
女児とはいえ実子が生まれたのであれば、照姫様は宙ぶらりんの存在になってしまいます。
容敬さんも困ったでしょう。
養女とはいえ照姫様は元は支藩藩主の姫、対して敏姫さんは会津八代藩主の息女。
「いずれ迎える予定の養子は、どちらの婿にするべきか」という感じでしょうか。
そんなこんなで弘化3年4月26日(1846年5月22日)、容敬さんはお兄さんの義健さんの七男、つまりは甥っ子の銈之丞様を世子として養子に迎えます。
この銈之丞様が、後に元服して容保様になります。

結果的に、容敬さんが銈之丞様をどちらの婿にしたのか(何かこの表現微妙ですが)は、歴史が語っています。
照姫様は嘉永2年閏4月2日(1849年5月23日)、豊前中津藩主・奥平昌服さんに嫁ぎました。
婚礼は中津藩江戸上屋敷(現在の中央区銀座の東部)にて行われたようです。
この照姫様の夫君となられた昌服さんは、明治の頃に啓蒙家として驥足を伸ばす福沢諭吉に邸内に蘭学塾の開校を許すなど、英邁な気質な方だったそうです。
しかし何があったのか、照姫様は4年後の嘉永6年(1853)には昌服さんとは離縁して江戸会津藩邸に戻ってきています。
「八重の桜」での照姫様は、その照姫様から始まっているようですね。
おふたりの間に子はありませんでしたが、別段おふたりが不仲であったと言う訳でも、家風が合わなかった訳でもない。
だのに照姫様自らのたっての願いにより、奥平家を去ったのだと言います。
これは一体どういうことなのか、この時期の世の中の情勢も照らし合わせて少し考えてみましょうか。

けふよりは 君がもとぞと 庭の松 緑の枝葉 さしかさぬらん

この歌は、照姫様がまだ奥平家にいた頃に、容保様に贈ったものです。
照姫様が嫁いで3年後、会津松平家では容敬さんが没し、17歳、数え18歳の容保様が後を継ぎ、9歳、数え10歳の敏姫さんが正室として彼を支えることになりました。
けれども年若い容保様が会津23万石を統べて行くのは難しく、敏姫さんも幼い正室としてそんな容保の力にはまだなれない。
しかし「八重の桜」を見てもお分かり頂けるように、あの時期は黒船が現れたりなどして世の中は騒然としていました。
そんな中に詠まれた照姫様のこの歌です。
「君がもとぞ」の「君」は、おそらく容保様を指しているのではないでしょうか。
つまり照姫様はこの歌の中で、近々容保様の元に戻ることを示唆しているのでは、と私はほんのり考えていたりします。
嫁いでいる照姫様が容保様の元へ戻るとは、つまり昌服さんとは離縁するということに他なりません。
勿論以上は私が憶測したことに過ぎず、照姫様が何故婚家から戻ってきたのか、その詳細は今に至るまで不明のままです。

折角なので、もう少し話を続けましょう。
照姫様が婚家から戻って来てしばらく経った安政3年9月19日(1856年10月17日)、容保様と敏姫さんがようやく婚儀を挙げました。
けれども生まれつき体が弱く、病弱だった敏姫さんは文久元年(1861)に風邪を拗らせて亡くなってしまいます。
敏姫さんの死に際して、照姫さまは「明くれなつかしく、むつまじくうちかたらひたる君のはかなくならせ給へるに、ただ夢とのみ思はれていと哀しさのままに」という詞書と共に、敏姫さんへの哀悼の歌を、次の様に詠みました。

千とせとも 祈れる人の はかなくも さらぬ別れに なるぞ哀しき

敏姫さん亡き後、会津松平家の奥向きは照姫様が担うことになります。
本来なら次代藩主の正室となるべく松平家に入った照姫様でしたので、彼女を容保様の継室にと言う声も家中にはあったそうですが、結局それも実現されないまま、容保様は文久2年閏8月1日(1862年9月24日)京都守護職に任じられ、家中の精兵一千と共に上洛の途に就きます。
容保様が京都に滞在している間も、おふたりの間ではやり取りがなされるのですが、それは本編の時間軸がもう少し進んだ時にでもまた。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年1月14日月曜日

第2回「やむにやまれぬ心」

相変わらず愛らしいことこの上ない八重ちゃんから始まりました、第2回。
今年度の大河のOPについて、実は未だに掴みかねている部分があります。
分かるような、分からないような・・・な状態なのですが、まあOPは漠然とした把握でも問題ないでしょう。

さて、先週に引き続きまして、鉄砲を撃つことを諦めない八重ちゃん。
手習い所で皆が『女今川』を書いている中、ひとり鉄砲の図解を書いてる辺り、もう鉄砲にぞっこんですね。
『女今川』というのは、当時の女性の習字のお手本兼教訓書です。
「今川」というのは、今川了俊の今川状から来ています。
対して、山川与七郎君たち男の子が暗唱しているのは『論語』。
日新館でまず最初に入学するのが「素読所」で、進級試験などを経て平均18歳でここを卒業します。
しかし飽く迄「平均」ですので・・・道は険しいけど、頑張れ会津の少年たちよ!
(しかし、什の掟の「戸外で婦人と言葉を交へてはなりませぬ」を破っちゃってるのは・・・まあ、ドラマだから仕方がない、と目を瞑るところでしょうかね。)

場所は変わりまして、神奈川。
幕末を騒がせたペリーさんの、切ないくらいの一瞬のご登場でした。
あまりに一瞬でしたので、ペリーさん補足をさせて頂きますと、彼が最初に浦賀へやってきた1853年の時、彼は第13代アメリカ大統領ミラード・フィルモアさんの国書を携えて来てたのですが、ペリーさんが遠路はるばる日本を目指している間にこのフィルモアさんが選挙に負けてしまいましてね。
代わって大統領の座に就いたのが穏健なフランクリン・ピアースさん。
次に日本へやって来た時、つまりはこの場面の時はその穏健な大統領の意向で、最新鋭の軍艦は使わせてもらえず、おまけに「実弾は駄目だよ」的なことも言われていたらしいです。
要はアメリカ本国の強い後ろ盾が、なかったわけじゃないんですけど、まあなかったんですね。
ペリーさんが威圧的な態度で幕閣や日米和親条約に臨んだのも、そういった部分を見せまいと思っていたところもあるんじゃないのかなと。
そのペリーさんに頭を下げられた象山先生。
本当一瞬だったので何てことない風に見えますが、実はあれ、凄いことなんです。
その場に居合わせた幕臣の川路聖謨さんが、「ペリーが頭を下げたのは貴殿だけであろう」と言ったと伝わっていますが、ペリーさんが頭を下げたのは象山先生に対してのみだったのです。
誰にも彼にもぺこぺこしてた訳じゃないのです・・・象山先生、凄いお人ですね。

凄い象山先生とペリーさんのお次は・・・また幕末史で知名度抜群の方のご登場です。
薩摩弁なのでもしかしたら、と思ったら案の定西郷さんでした。
・・・あ、でも今作は西郷さんと言えば頼母さんと隆盛さん、ふたりおられるのでややこしいですね。
というわけで、私は前者を西郷さん、後者は西郷どん、と呼んで区別させて頂くことにします。
その西郷どんが微笑ましく見守る中、後の八重さんのひとり目の旦那とふたり目の旦那が一緒に豚に振り回されるという、何とも摩訶不思議なシーン。
少年の名前は新島七五三太、言うまでもなく後の新島襄その人です。
天保14年1月14日(1843年2月12日)のお生まれですので、この時11歳、数えで12歳。
八重さんと結婚するのはこれより22年後のことです。
余談ですが、上州安中藩の安中(現在の群馬県安中市)というのは、後の赤報隊事件が起こった場所です。

さて、妹の八重ちゃんが鉄砲熱に浮かされているのなら、兄の覚馬さんは黒豚・・・じゃなくて黒船熱に浮かされております。
というより、黒船の向こうにある「西洋」という未知の世界の技術や知識に、本人の言葉を借りるなら「取り憑かれてる」。
寅次郎さんの言葉を借りるなら、それもまた一種の「狂気」。
八重ちゃんが鉄砲を諦められないのなら、覚馬さんは黒船に乗る、というのを諦められない。
何だかんだで似た兄妹ですね。
しかし黒船に乗るには、密航ということになり、見つかれば死罪は免れません。
死罪になれば、覚馬さんの首ひとつじゃ事は済みません。
藩にも藩主にも、家族にも迷惑がかかります。
そのため、覚馬さんは黒船に乗り込む前に、脱藩に勘当に~云々と言ってたのです。
それらのものから全部自分を切り離して、文字通り身ひとつで乗り込もうとしてたわけです。
枝葉な情報になりますが、幕末史に○○藩脱藩浪人というのが目立つのは、ひとつはこの覚馬さんのように藩に迷惑はかけられないからとした人がいたからです。
別のタイプとしては、藩というしがらみが邪魔と考えてた人もいます。
龍馬さん何かはきっと後者のタイプかと思われます。

続きまして、妹サイド。
権八さんの鳥撃ちのお供に加えて貰って、何だかそれだけで足取りの軽い八重ちゃん。
この「お父っつぁま~」の腕前あって、あの覚馬さんの腕前と言うべきでしょう、権八さんお見事!
撃ち落とした鳥を拾って来いと言われた八重ちゃんが鳥のところへ行くと、まだ鳥は生きてましたが、すぐに権八さんが銃で仕留めました。
死んだ鳥を抱える八重ちゃんに、権八さんは、鳥を殺したのは鉄砲の弾で、弾に急所を射抜かれたら必ず死ぬことを教えます。

鉄砲は武器だ。殺生する道具だ。戦になれば、人さ撃ぢ殺す

角場の的を狙って撃ってるのは、シューティングゲーム感覚で面白く見えるかも知れない。
でも、戦場だとその的は人間ということになる。
それ(人)を撃つ=「人を殺す」ということを恐れることも知らないまま、形だけ真似ていてはいつか鉄砲に我が身を滅ぼされる。
だから砲術やる人間は、学問と技の両方を磨かなければいけない、なにより立派な武士でなければいけないと権八さんは諭します。
八重ちゃんが軽い気持ちで鉄砲に熱を上げていたとは思えませんし、でもどれだけ深い思い入れがあったのかも分かりません。
分かりませんが、権八さんは砲術の家の人間が背負う重み(=命の重み)を八重ちゃんに背負わせたくないということで、「ならぬものはならぬ」だったのです。

次は覚馬と三郎が背負う。おなごのお前には、到底背負いきんねえ。二度と鉄砲の真似事はすんな。いいな

鉄砲をやりたいという八重ちゃんに、ならぬ、の一点張りじゃなくて、父親の深い情愛がそこにあったのですね。
八重ちゃんも八重ちゃんで、お父さんの言うこともお母さんの言うことも分かってるけど、それでも諦められないものがちいさな胸の内にあったのでしょうね。
言葉にはっきりとは表せなくてもさ。

さて、覚馬さんは「黒船に乗る!」と息巻いてましたが、一足先にそれを実践した人がいます。
万が一のことを考えて、爪中万二という変名を使った寅次郎さんです。
結果論から言いますと失敗しまして(というより黒船に乗船して密航を訴えたけど拒否された)、しかも自首しました。
(寅次郎さんが密航を試みたシーンはスルーですか…ちょっぴり期待してたのに 。)
そのため伝馬町の牢屋敷に送られたのですが、寅次郎さんを使嗾したとして、象山先生も投獄させられます。
象山先生が、密航を企てた寅次郎さんに送った送別の詩というのは以下。
  環海何ぞ茫々たる五州 自ら隣を為す
  周流形勢を究めよ 一見は百聞に超ゆ
  智者は機に投ずるを貴ぶ 帰来は須らく辰に及ぶべし
象山先生は投獄から半年後に国許蟄居の判決が下され、獄衣に縄を打たれて錠前付きの切棒駕籠に乗せられ、江戸から松代に護送されました。

象山先生のいなくなった佐久間象山塾は、それはもう閑散としたもので。
数分前には豚が走り回ってた場所とは思えないくらいです。
がらんとした塾の中で呆然とする覚馬さんと尚之助さんに、「よぉ」と明るい声。勝さんです。
手にした扁額には「海舟書屋(かいしゅうしょおく、と読みます)」の字が。
この「書屋」と言う言葉は少し聞きなれないかもしれませんが、要は「本がたくさんある」というようなニュアンスです。
そこから転じて、文人が自分の家の雅号にも用いられてました。
以前放送された『坂の上の雲』にて、正岡子規さんが「獺祭書屋主人」の雅号を使っておられた(墓碑銘にも刻まれています)のは、『坂の上の雲』をご覧になられた皆様の記憶に新しいかと思います。

・・・話が逸れました。
勝さんはこの「海舟書屋」の扁額を「俺の塾に掲げようと思ってね」などと仰ってますが、勝手に持って行って良いの?(笑)
この勝さんの言う「俺の塾」は、赤坂田町(現在の東京都港区赤坂)に開いていたという氷解塾のことでしょうか。

幕府は大べら棒よ!この国が変わるために、一番役に立つ人間を、罪人にしちまった

この「罪人」は寅次郎さんを指しているのか象山先生を指しているのか・・・察するに象山先生かな。
水を指すような話を持ち出して申し訳ないですが、『氷川清話』を見るに、勝さんはあまり象山先生を高く評価してません・・・。
物知りだったけど、どうも法螺吹きで困るよ、とか何とか言ってた気がします。
ですが一方で、後に象山先生が暗殺されたときにはその死を深く悼んでいたり、象山先生にのみ「先生」の敬称を用いていたので、・・・ひょっとして、勝さんは今日風にいう“ツンデレ”だったのか!という気もします。
再び私が脱線している間に、勝さんがまた深いことを言います。

西洋の技術と、東洋の道徳

そういう時代を、自分たちが作っていくのだと語る勝さん。
「時代」を「自分たち」が「作って」いくのだと自負している辺り、非常に幕末らしいです。
幕末史は色んな人が、それぞれの思いを胸に抱いて行動したことで彩られてる歴史の一頁ですが、勝さんの自負は、その誰の心にも多かれ少なかれ宿っていたのだと私は思います。
その作ろうとした時代の先に、「幕府」「開国」「朝廷」「攘夷」「尊王」もろもろが引っ付いて絡んできたのだと。
私はこの、勝さんが「海舟書屋」の扁額を持って行ったシーンは、象山先生から勝さんへのバトンタッチが行われた感があるなぁ、と思って眺めてました。
(象山先生も、もう一回くらいは慶喜さんに開国論もろもろ説くために出てくるでしょうが。)
ドラマでは触れられませんでしたが、象山先生はオランダ砲術に出会い、オランダ語を二ヶ月でマスターし、『海防八策』というのを天保13年(1842)、当時の松代藩主・真田幸貫さんにに献上してます。
この『海防ハ策』の内容は、坂本龍馬さんの『船中ハ策』にも組み込まれてます。
バトンの流れは、象山先生→勝さん→龍馬さん、ということでしょうね。
『船中ハ策』は決して龍馬さんひとりで成り立った訳じゃない、というのが良く分かります。
その芽吹きは、ここに既にあったのです。

歴史モノと言えば、物語に華を添える女性陣も忘れてはなりません。
というわけでご登場しましたのは、稲盛いずみさん演じる照姫様。
正しい表記は「熙姫」なのですが、公式ホームページなどを見るに「照姫」表記されていますので、私もそちらに合わせることに致します。
照姫様は天保3年(1832)のお生まれです。
「婚家を離縁されて戻ってまいりました」と仰ってるので、このシーンは嘉永6年(1853)頃でしょうか。
とすればこのとき21歳、数えで22歳。
窈窕たる雰囲気が何とも言えません。
会津女性の憧憬の対象になるのも、宜な宜な。
照姫様の離縁ですが、彼女は嘉永2年(1849)閏4月2日、豊前中津藩主・奥平昌服さんに嫁いでます。
ふたりの間に子はいませんでしたが、不仲だったわけでも家風が合わなかったわけでもなく、離縁は照姫様たっての願いだったそうです。
ドラマで説明がなかったので、容保様と照姫様の雰囲気に「義理とはいえ姉弟にしては・・・」と思われた方も結構おられたようで(苦笑)。
もしかしたら追々触れられていくのかもしれませんが、やっぱり何らかの説明は欲しかったですよね。
実は照姫様は、本来容保様のご正室となるべく、会津松平家に養女として迎えられたお方なのです。
ですが照姫様が養女入りした翌年、前藩主・容敬さんに敏姫様が生まれたので、その話は立ち消えました。
あの描かれ方は、そういった背景事情踏まえてのものだと思われます。
その関係もろもろについては、また別に記事を設けて触れようと思います。
余談ですが、容保様と照姫様がおられる会津藩江戸上屋敷は、江戸城西之丸内桜田門外にありました。

大きな地図で見る
Aの場所が桜田門。
9000坪くらいの大きなお屋敷だったそうですので、現在の日比谷公園などは会津のお屋敷だったということなのでしょうか。
ちなみに、北に隣接して、和田倉門(地図上ですと「写真」の字の丁度下くらい)の脇に中屋敷があったそうです。

さて、時は移ろい安政3年(1856)の秋。
約3年の江戸遊学を終えた覚馬さんが会津にお戻りですが、一瞬道中で歌っているのが覚馬さんだと思ってしまいました。
馬子さんだったのですね、良いお声で(笑)。
そして、ここから八重さん役が鈴木梨央さんから綾瀬はるかさんへ交代。
八重ちゃんから八重さんへとなってるわけですが…八重さんはこのとき11歳、数えで12歳なので、交代は少し早かったんじゃない?という気もします。
城下まで帰ってきた覚馬さんが驚いたのは、三年の月日を経て八重さんが華麗な変貌を遂げていたからではなく、妹が軽々と米俵を持ち上げていたことに対してでした(笑)。
一俵は60kgですので、覚馬さんじゃなくても驚きますよね。
しかし八重さんの凄いのは、史実でも12か13の頃に、本当に一俵を4回ほど持ち上げたということです。
覚馬さんを魂消させた八重さんですが、髪型に目をやれば桃割れが良く似合っています。
桃割れというのは十代の女の子が結う髪型です。
しかし桃割れを結って可愛くなっても、八重さんの胸にはまだ「砲術さ習いでぇのです」「鉄砲、撃ってみでぇ」の気持ちが燻り続けています。
覚馬さんは、昔は八重さんのこれを「子供の戯言」として聞き流していたようですが、三年経った今でも妹がそう思ってることにさぞや驚いたでしょう。
でも諦めろって言われて諦められるのなら、とっくに諦めてるよね(しかしこの八重さんはまだ11なのですけど・・・)。
覚馬さんと違って、その三年間もずっと八重さんの鉄砲熱を知っていた権八さんは、今話の冒頭で八重ちゃんから奪い取った砲門入門書の写しを覚馬さんに見せます。
曰く、何ひとつ教えてないのに八重さんは勘所は掴んでいるとのことで、権八さんは八重さんの未知能力を「天性」と称します。
おまけに八重さんは膂力もあるし、胆力でも男の人には負けない。
しかし・・・。

んだげんじょ、それがなんになんだ。今でせぇ、世間並がら外れたおなごだ。この上鉄砲なんぞやったら、物笑いの種だ。へぼならばまだ良い。良い腕になったら困んだ。おなごが鉄砲の腕振るう場所はどごにもねぇ。いずれ切ねぇ思いをする

そんな父としての思いが権八さんにはあるのです。
天性の種を持っていても、女性である限りその種が花開くことはない。
命の重みを教えた時もそうでしたが、権八さんは八重さんのこと本当に深く思いやってますよね。
「ならぬことはならぬ」で闇雲に八重さんの鉄砲熱を押さえつけてたんじゃなくて、八重さんの女性としての人生もちゃんと考えての「ならぬ」だったわけです。
ただ、権八さんが親として八重さんの先々の人生のことまで視野に入れて思いやるのに対し、3年離れていたからか江戸遊学で色々見聞したからか、覚馬さんは少し違いました。
覚馬さんは、おなごでありながら鉄砲を一心に学ぼうとする八重さんの姿が、「自分と同じ」だと思います。
自分が胸が焼かれるように黒船に取り憑かれたのと同じように、八重さんも鉄砲に取り憑かれている。
寅次郎さんの言葉を借りるなら「狂気」、七五三太少年の言葉を借りるなら「やむにやまれず」。
江戸でこのふたりとこの言葉に出会った覚馬さんだったからこそ、権八さんとは違う角度で八重さんの鉄砲熱を受け止められたのでしょう。
覚馬さんは八重さんに、鉄砲を教えてやることにします。

それが鉄砲の重さだ。命のやり取りする武器の重さだ。にしは侍の娘だ。始めっと決めだら引ぐごどは許さねぇ。弱音吐ぐごども許さねぇ。まだ、極めだどごで誰が褒めでくれるどいうごどもねぇ。嫌なら今すぐ銃を置け。覚悟はいいな

権八さんが八重さんに伝えた「命の重さ」のことも、八重さんが第1回で容保様に「武士らしいと言われた」と泣いていたことも、おなごの身で鉄砲続けたら世間が八重さんをどう見るかも、全部全部、この言葉に込めての覚馬さんの台詞のように思えました。
同時に、八重さんを「娘」「おなご」として見ている権八さんに対して、覚馬さんは八重さんを女も男も関係なく、一個の人間として捉えたんだなとも思いました。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年1月13日日曜日

八重さんの足跡を追う

第1回冒頭で、砲弾を潜り抜けてスペンサー銃で応戦していた八重さん。
大河史上数多のヒロインがおりますが、おそらく八重さんが最も勇ましいヒロインになるのでは・・・という予想はさて置いておきまして。
あの八重さんがいた鶴ヶ城北出丸について、ちょっと探ってみました。

大きな地図で見る

地図のAの地点(武徳殿と書いてある場所)ぐるっとお堀で囲まれた部分が「北出丸」です。
冒頭の八重さんが薩摩の隊長を仕留めたのがココ。
もう少しズームアップしてみましょう。

右上に焦点を置いて少し拡大してみました。
拙い図で申し訳ないです(汗)。
赤い矢印がとんがりコーン・・・じゃなくて、薩長連合軍の進軍経路。
青い丸印が、それを迎え撃つ会津藩籠城兵が配備されていたところ。
八重さんがいたのは北出丸ですから、一番左上の青印部分で撃っていたのですね。
この北出丸は、鶴ヶ城の追手門(いわゆるお城の玄関口)がありましたので、敵の侵入を許すわけにはいかないのです。
よって、上図を見て頂いてもお分かり頂けるように、侵入しようものなら北出丸・帯廓・伏兵廓の三方向から集中砲撃を受ける形となっておりました。
それ故か、北出丸の別名は「みなごろし丸」と言います。
実際、会津は薩長の兵のここからの侵入を許しませんでした。
会津藩降伏の際、降伏の白旗が掲げられたのもこの北出丸です。
「八重の桜」の影響もあって、今年は会津に足を運ばれる方が多いと思いますが、鶴ヶ城に行かれた際には、是非とも八重さんのいた北出丸にも足を向けて頂きたいものです。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年1月12日土曜日

第1回「ならぬことはならぬ」

初回は74分の拡大版。
冒頭は南北戦争(1863年のゲティスバーグの戦い)から・・・おお、そこから入っていくのね、と何だか新鮮な心地でした。
幕末というと、単にこれまでの「日本という枠組みの中だけで日本を見る」のではなく、「世界情勢の中の日本」という視点がどうしても外せないので。
故に、この大観した挿入の仕方は良いなと思いました。
ドラマ冒頭でも言ってましたが、「南北戦争で使われていた銃が、その後日本にやってきた」のです。

そして、場面はそれから5年後の会津へ・・・。
砲弾打ち込まれてる鶴ヶ城を見て、この時点で込み上げてくるものを自制できませんでした。
そこへ銃を手に砲弾の中を潜り抜けるひとりの女性・・・言わずもがな、今年度の主人公、山本八重さんです。
持っているのはスペンサー銃、冒頭の南北戦争では北軍が使っていました。
八重さんは弘化2年11月3日(西暦で言えば1845年12月1日)生まれなので、西洋風に年齢をカウントすればこのとき22歳、数えで判断すれば24歳。
着ている袴は、鳥羽・伏見の戦いで傷を負い、江戸にて亡くなった弟・三郎さんの形見だと言われています。
場所は鶴ヶ城北出丸、八重さんが対峙しているのは言うまでもなく薩長連合軍。
よく「新政府軍」と言われてますが、改元の詔書が出されたのは西暦でいうところの1868年10月23日ですので、会津戦争のこの時点では新政府も何もないジャン、ということで私は「薩長連合軍」と敢えて呼びます。
余談ですが、彼らのあの尖った被り物を見て、いつもとんがりコーン!とんがりコーン!と言っているのは私です(笑)。
八重さんが敵方の大将をひとり仕留めておりましたが、『彰義隊奮戦之図』などでもおなじみの熊毛頭に陣羽織姿の将兵は、実際にはほとんどいなかったと思われます。
ちなみにこの珍奇大将ファッションが登場したのは上野戦争の頃。
江戸城開城の際に差し押さえたヤクの毛を使ったのでは、という説もあります。
色が薩摩=黒毛、長州=白毛、土佐=赤毛で統一されていた、というのは俗説らしいのですが、八重さんが仕留めた大将の熊毛が赤色で、後ろの少年兵が「薩摩の隊長さ仕留めだす!」と言っていたことから、本ドラマではその俗説に則るようです。
まあ、その方が視聴者にも分かりやすいですもんね。

ならぬことはならぬのです

八重さんも冒頭の戦闘シーンで口に出したこの言葉。
おそらく今後50話を通じて、折に触れて出てくるかと思います。
また、これについては追々触れましょう。
ここでやると、話がなかなか進みません(苦笑)。

さて、OPの間に冒頭わずか数分で昂った心を何とか落ち着かせ、ふと「物語は何処から始まるの?」と今更ながらに疑問に思いました。
八重さんだけのエピソードではどう考えたって1年50話持ちませんので、そこは彼女の故郷・会津と、幕末の会津の歴史を巻き込んでドラマ化していくんだろうなということは安易に予想出来ますが、それでも何処から?と。
黒船来航?安政の大獄?桜田門外の変?京都守護職拝命?
と思いきや、容保様のお国入りからでした。
嘉永4年(1851年)五月からこのドラマは始まるそうです。
冒頭の会津戦争の17年前ですね。
まだ平和でどのかな会津・・・17年後にはああなるだ何て、このとき誰が考えたでしょうか。
如何にもお転婆なリトル八重ちゃんの傍らにいる「時雄ちゃん」は、後の新選組三番隊組長・斎藤一さんの奥さんになる人です。

子役や俳優陣の皆様、会津弁お上手だな~と思いつつも、会津弁に馴染みのない私はなかなか聞き取れず・・・と思っておりましたら、NHKが私のような人がいることを読んでいたのか、字幕が!
後で知ったことなのですが、方言に字幕が付くのは28作目「翔ぶが如く」以来のことのようです。
同じ日本語を聞いているはずなのに字幕・・・なんだか変な気分です。

さて、お国入りされた容保様、演じておられる綾野剛さんも綺麗なお顔立ちをされてますが、実際残っているお写真の容保様も美男子です。
後々の話になりますが、京都守護職を拝命して容保様が御所へ出入りするようになったとき、宮中の女房達は御簾の裏からキャーキャー色めきだってたみたいです。
・・・女性って、いつの時代も本当変わらないのね(苦笑)。
その容保様、このとき数えで16歳。
京都へ上洛するのはこれより11年後のお話になります。
何となくですが、「京都守護職・松平容保」な容保様はよくお目にかかりますが、「会津藩主・松平容保」というのが描かれるのはかなり珍しいのではないかと思います。

容保様の基本情報、会津藩、土津公こと保科正之様、ご家訓もろもろについては、また後日・・・。
さっきから、なかなか話が進まないので(滝汗)。

容保様のお国入りと共に、八重さんのお兄さん、覚馬さんも江戸から帰ってきました。
覚馬さんは文政11年1月11日(1828年2月25日)のお生まれなので、このとき23歳、数えで24歳。
八重さんとは17歳差の兄妹です。
これも後で知ったことなのですが、山本家の遠祖は甲州流軍学の祖とされる山本勘助さんらしいです・・・へー(訂正:甲州流軍学の祖は小幡景憲さんではとのご指摘を受けました。ご教授感謝致します)。
で、そのお家に生まれた八重ちゃんは、お父さんやお兄さんが鉄砲を扱う姿を見て、自分も!となります。
覚馬さんが「鉄砲は大きくて重いからおなごには無理」と言ってましたが、覚馬さんが持ってたゲーベル銃の重さは大体4kgです。
2リットルのペットボトル2本分くらいですので、成人女性になれば左程問題ないと思います。
八重さんは後に、四斗俵(約60kg)をひょいと担げる女性になりますし・・・。
いえ、ここはお兄さんが妹を心配して、という意味で言ったわけであって、それ以上の深い意味はないと思いますけどね。
ちなみに冒頭の会津戦争で八重さんが持っていたスペンサー銃の重さは、ゲーベル銃よりも少し軽い3,5kg程度のものと、少し重い4,6kg程度のものがあるのですが、どっちをお使いだったのでしょうね?(追記:八重さんの使っていたのは3,5kg程度の「スペンサー騎兵銃」であり、4,6kg程度のものは「スペンサー歩兵銃」とご教授頂きました。ありがとうございます。)

さて、容保様がお国入りなされたところで、追鳥狩が行われることに。
追鳥狩というのは、平たく言えば藩士の士気の高揚、武備の充実を目指した軍事訓練です。
徳川斉昭さんも水戸でガンガンやってました。
それに向けて、鉄砲の扱い方や打ち方を学びに来る門人に、覚馬さんが「狙いを定めたら、闇夜に霜の降る如く、静かに引き金を引く」と言ってましたよね。
あれは戦国時代の雑賀衆の教えです。
第二次世界大戦のころまで日本軍隊の射撃訓練で言われてたそうです(今はどうか知りません)。

追鳥狩が始まる前に、一番鳥を争う選手の紹介をば。
まず中村獅童さん演じる佐川官兵衛さん。
武芸に秀でた猛将ですが、この後ちょっと問題を起こして謹慎の身になります。
「鬼官兵衛」の異名は、鳥羽・伏見の戦いのときに退却する時も悠然と傘をさしていたことから来てます。
1831年10月10日(天保2年9月5日)のお生まれですので、このときはまだ20歳、数えで21歳。
続きまして、先日の正月時代劇では大御所・北大路欣也さんが演じておられた西郷頼母さん。
大河ドラマでは西田敏行さんが演じられます。
云わずと知れた幕末会津の家老ですが、就任するのはこれから9年後の話ですので、このときの西郷さんはまだ家老ではありません。
文政13年閏3月24日(1830年5月16日) のお生まれですので、このとき21歳、数えで22歳。
何となくドラマとかでは、容保様はずっとお若いままで、西郷さんは中年の渋いオジサマ、的な配役が多いように思えますが、容保様と6つしか実は違わないんです。
そして最後に、選手ではありませんが、八重ちゃんと木登り競ってた少年・山川与七郎は、後の山川大蔵です。
1845年12月4日(弘化2年11月6日)のお生まれなので、このとき6歳、数えで7歳。
明治期に、大山捨松という有名な会津女性がいるのですが、彼女はこの与七郎君の妹です。
このとき彼女はまだ生まれて一年程度の、ほんの赤子でしょうが。

ギャラリーサイド、覚馬さんを推していたのは、後に西郷さんと同じく家老になる萱野権兵衛さん。
会津戦争で会津降伏後、「主君には罪あらず。抗戦の罪は全て自分にあり」と容保様を命がけでかばい、会津藩の責任者として切腹させられた御仁です。

さて、木から落ちて西郷さんの大激怒を買ったお転婆八重ちゃん。
通りがかった容保様(この追鳥狩で、配を揮う容保の姿の凛々しさ美しさに全員が感動して、「土津公の再来」と呼ばれたそうです)が取り持つも、「ならぬことはならぬものです。無罪放免にしては、ものの道理が立ちませぬ」と西郷さん。
私はこの「ものの道理が通らない」というのが、「ならぬものはならぬ」の意味を理解する上で大切ではないかと、個人的には思っております。
その話はいつか触れるとして、八重ちゃんに申し付けられた罰は「しっぺい」。
容保様もその罰に納得されたようで、微笑んでおられました。
しっぺいは、「什の掟」に背いた子供への制裁のひとつでして、無念→しっぺい→絶交、の順に制裁が重くなっていきます。

その容保様と西郷さん。
「万が一、ご主君に過ぢあっどきは、命を賭してお諫めもいだしまする」という西郷さんの言葉に、後の彼の行く道を思い出してしまいました。
西郷さんはこの言を曲げず、ずっと諌めますよね。
家中からどれだけ白い目向けられても、ずっとそれは変わらなくて・・・。
このシーンは、そこへ繋がる伏線なのかな、と。
そして次の凧合戦のシーンも、和やかなシーンのはずなのに、伏線にしか見えませんでした。
先程名前だけ触れた捨松さんが、後に鶴ヶ城籠城中の手記を残しているのですが、こんな記述があります。
“私たちにはまだ十分に余裕があると敵に思わせるため、一体何をしたと思いますか。女の子たちは祝日などのよく遊ぶ凧を揚げるよう言われたのです。男の子も一緒に加わり、食糧もすっかり底をつき、飢えのためやむなく降伏するまで揚げ続けたのです” (野口信一、2005、会津藩、現代書館)
   
思わずこのことを思い出し、楽しい場面のはずなのにしんみりとした心地で見てしまいました。

気を取り直して、凧揚げ。
大人なのに真剣に打ち込んでいる御仁は長州の吉田寅之助さん、後の松陰さん。
一緒にいるのは肥後の宮部鼎蔵さん。
寅次郎さんは実に楽しそうに凧揚げしてますが、実は東北遊学のための通行手形が間に合わず、手形無しで他藩に赴くという脱藩行為を犯しての旅です(笑)。

断固として事を行うとき、人はみんな狂喜ですけー

寅次郎さんのこの言葉は、何だか凄く印象に残りました。
あなたの後に続いた長州藩士が、その狂喜の元でこの会津まで攻め入るだ何て、雪見酒を洒落込んでる寅次郎さんは露も思わなかったでしょうね。
宮部さんもその狂喜に巻かれてか、池田屋で新選組の襲撃を受けて自刃するだ何て思わなかったでしょうね。
まま、それはもっと後の話です。

そして嘉永6年6月3日(1853年7月8日)、招かざる客ペリーさんwith黒船来航。
同年秋、江戸の木挽町(現在の東京都中央区銀座南東部)に覚馬さんの姿がありました。
佐久間象山塾への入塾希望だそうで。
(ちらりと豚を飼育しているのが見えましたが、豚は1頭100両の価値がありました。)
ちなみに、ドラマでは「しょうざん」先生と言っているように聞こえますが、象山の正しい読みは「ぞうざん」です。
しかし入塾許可を乞う覚馬さんへの、象山先生の問題がまたまた苦笑いを禁じ得ないものでした。
いわく、「二十四斤カノン砲に五貫目砲弾を詰め、斜角十一度にてこれを撃つとき、その飛距離は?」。
私も覚馬さん同様、ぽかんと口を開けておりました。
全く分からない・・・そもそも、即答出来る人っているのでしょうか(謎)。
あ、象山先生の会話の中で出てきた「舎密(せいみ)術」というのは今でいうところの化学です。
ともあれ、ちょっぴり意地悪な象山先生にそれでもと縋っている内に、覚馬さんは悟ります。

足りねぇのはそれが。大筒の撃ち方より、まず元になる知識。いや、異国を知る目

覚馬さんは、物凄く考え方が柔軟な人なんだな~という感想はさておき、この佐久間象山塾。
よくよく見てみれば、凄いメンバーです。
 ・佐久間象山(この時点で42歳、数えで43歳)
 ・勝麟太郎(後の勝海舟。この時点で30歳、数えで31歳)
 ・吉田寅次郎(後の吉田松陰。この時点で23歳、数えで24歳)
これから幕末オールスターゲームでもあるんですか?って状態ですね。
知名度抜群メンバーの中で、さり気無く出てきた優しい目元の出石藩の浪人(確か医家の三男)、川崎尚之介さんは、後の八重さんの夫となる人です。
もう役者が出揃ってる感があるのは、私だけでしょうか(笑)。

話はちょっと逸れますが、幕末と言えば「佐幕」やら「尊王」やら「攘夷」やら、何かとややこしい時代でもあります。
非常にややこしいので、あまり分かりやすく説明出来る人っていませんし、過去の幕末大河でもあんまり分かりやすくないまま取り上げられてました。
が、今作は違いました!
佐久間象山塾での「攘夷」の解釈が素晴らしかったです。
「先生、攘夷というのは夷狄がら国を守るごとですね」という覚馬さんの台詞くらいまでなら誰もが承知してると思うのですが、この言葉に対する象山先生の返しが凄い。

敵を知ろうとせぬのを愚かというのだ。目と耳を塞いで戦が出来るか。まことの攘夷とは、夷の術を以って夷を防ぐことにある

そのために、西洋式の海軍が必要。
そのために、西洋式の歩兵隊の訓練が必要。
つまり、従来の侍の仕組みのままじゃ駄目なんだというところに行きつきます。
阿片戦争に敗れた清と同じ轍を踏まないためにも!
・・・と、江戸のとある塾ではそんな風にして柔軟な考え方が開けているのにも拘らず、嘉永7年(1854)の江戸城溜之間詰めに集められた諸侯の頭のお固いことお固いこと。
お固さ筆頭は、海防参与の水戸藩主・徳川斉昭さん。
そもそも攘夷論は水戸学に端を発しているので、水戸学どっぷりで育った斉昭さんからすれば「開国なんて以ての外!さっさと夷狄を打ち払え!」となるわけです。
その斉昭さんに対するは、斉昭さんと比べたらまだ頭柔らかいかな~と思しき彦根藩主・井伊直弼さん。
彼は「徒に諸外国とことを構えるよりは、いったん和議を結んで、その後臨機応変に対応していけば良いじゃない」という考え。
ここで象山塾で出てきた侍の仕組み云々が出てこない辺り、直弼さんも言ってしまえば「固い」。
固いもの同士頭をがつがつぶつけ合ってるところに、見目麗しき容保様が弁舌を奮って、ひとまずその場は収まります。
が、腹の虫が納まらないのか、斉昭さんが容保様に「会津葵のご紋服、御身にはちと重すぎるのでは御座らぬか」と皮肉を残していきました・・・。
あなたの七番目の息子(慶喜さん)が全部投げ出して、会津葵の紋が全部背負ったんですよ?斉昭さん。

黒船来航が幕末史そのものを揺るがすこととなった・・・というより、黒船が来たから幕「末」が来たんだろうなという気もしますが、その件の黒船を覚馬さんと尚之介さんが横浜まで見に行きます。
当時の横浜は、横浜村という戸数100戸にも満たないしがない漁村でした。
砂浜に六連銭の旗がはためいてたのは、松代藩が警備担当をしていたからです。
余談ですが、当時の松代藩主・真田幸教さんは松平定信の曽孫にあたりますので、八代将軍徳川吉宗の玄孫となります。
黒船を前に、覚馬さんは「あの船に乗る!」と目を輝かせますが・・・次回予告から察するに、来週は寅次郎さんが黒船に乗り込んでくれるようです。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年1月7日月曜日

はじめに

皆様、お初にお目にかかります。そうでない方はコンニチハ。
先日より放送されました2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」の舞台は、私が愛してやまない幕末の、しかも思い入れ一入の会津。
そういうこともあり放送前から胸の高鳴りを抑えられなかったのですが、予想通りと言いますか、視聴最中は興奮しっぱなし、Twitterでは騒ぎっぱなしでした(笑)。
その第一話放送から一夜明けて、そのTwitterでの私の騒ぎっぷりを見ていた友人から、いっそつぶやいた雑学諸々そっくりブログにまとめてはどうか、との打診がありました。
とはいえ、三日坊主ならぬ三分坊主、極度の面倒くさがりの私がブログ?とは思いましたが、新年を迎えたばかりということもあり、新しいことを初めてみるのも悪くないかな?とも考えました。
・・・と、いうのがこのブログを開いたきっかけみたいなのです。
歴史に対しての愛はありますが、歴史学などという高尚なもの通じてもいなければ、鼻息で吹けば飛んでいくような薄っぺらい知識しか持ち合わせておりません。
ですが、まあこういうのほほんゆるゆる視点で大河ドラマ見てる人間もいるんだよ、ということで。
三日坊主なりに、ぼちぼちやっていきます。
お手柔らかに宜しくお願いします。


平成二十五年睦月七日
 我が家で供された七草粥が色々謎だった夜に


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