2013年3月27日水曜日

第12回「蛤御門の戦い」

戦闘意欲の異様に高い長州サイドから始まりました、第12回。
更に援兵600が来るとのことで、ますます長州の士気は高まります。
一方の会津本陣。
広沢さんが持ってきた情報によりますと、長州は諸藩邸や公家に意見書を送り付け、この度の長州の行動を正当化する工作を行っているそうです。
そしてその意見書の中で、奸物として名指しにされたのが容保様です。
天下騒乱の大本は容保様が守護職に就いたからとか、完全に長州視点での物の考え方だな~とも思うのですが・・・。
あと繰り返しますが、長州サイドの第一目的は藩主父子の汚名を雪ぐことでありまして・・・。
いえ、それを建前と考える人もいますけど、まあ会津憎し一色での挙兵ではないのです。
ともあれ軍議の元、既に出兵の命が下っていた会津は、一番隊が伏見街道へ、二番隊は御所の警固に、大筒隊は御所と伏見の二手に分かれて進軍することが決まります。
長州の主力は、伏見にいる福原越後勢だと意気込む皆様ですが、覚馬さんだけは胸に引っ掛かりを覚えます。

伏見の軍勢、まごどに長州の主力が・・・
陣将の福原越後は総大将です。まず間違いはねぇでしょう
んだげんじょ、八幡宮で気焔を上げでだ来島は、嵯峨天龍寺から攻めで来る。真木や久坂は天王山です

覚馬さんは真木さんや久坂さんが主力と睨んでいる様子ですね。

ドラマでも出てましたが、地図上で把握しますと、長州の陣は御所から見てこの図のような距離にあります。
そして覚馬さんが睨んでいた通り、伏見街道の軍勢が会津を引き付けている間隙を縫って、天王山の久坂さん達が御所に攻め入る、というのが長州の作戦でした。
ちなみに長州は、嵯峨天龍寺が約800人、伏見が約700人、天王山が約600人という人数の振り分けです。
天龍寺には、このとき布陣した長州兵の付けた刀傷が、今でも残っています。

戦までのカウントダウンが始まる都とは打って変わって、会津。

合う蓋が、合わねぇ蓋が・・・上手くいきゃ一挙両得ど良がんべが・・・しくじったら台無しだ

そう何やら難し顔で唸って、部屋に籠りに行ってしまう権八さん。
様子をこっそり伺っていた八重さんとうらさんは、訳が分からず首を傾げます。
佐久さんだったら何か知っているかもと思いきや、その佐久さんは権八さんと一緒に部屋に籠っているとお吉さんから聞いた八重さん達。
まさか都の覚馬さんに何かあったのではと、応じる声を聞く前に襖に手をかけて権八さんに詰め寄ります。
ところが、権八さんの口から出たのは思いもよらぬ言葉でした。

覚馬は無事だ。案ずるごどはねぇ。話っつうのはな・・・八重の縁談だ。にし、尚之助殿と夫婦になれ。これは覚馬の考えだ。・・・長ぇごど仕官の願いは叶わながったげんじょ、八重の婿っつうごどになっと、話は違ってくる。藩士になれば例の新式銃の話も進められんべ。うめぇごど考えたもんだ

語ってる内に何となくひとりで、そうだそうだこれは妙案だぞ、と納得しつつある権八さんの傍らで、佐久さんが無理にとは言ってない、二人の考えもあるし、と絶妙なフォローを入れますが、権八さんが「やっぱり良い話だからこの縁談進めよう」と、当人である八重さんを置いてけぼりにします。
佐久さんの折角のフォローが台無しです。
そして八重さんの反応はと言えば、「いやでごぜぃやす」。
そりゃそうでしょう、と視聴者の皆様も思われたのではないでしょうか。

父と兄が決めだ話だ。つべこべ言うな
そんじも、嫌でごぜいやす
何が不足だ!人物は申し分ねえ。蘭学所教授の身分もある。仕官が叶えば会津にとって、どんだけお役に立づが

しかし八重さんはけんもほほろに、部屋を出て行ってしまいます。
権八さんが「何が気に入らねぇっうんだ! 親の気も知らねぇで!」と言ってますが、まあ切り出し方にまず問題がありましたよね。
直球だと駄目だから、変化球で切り出さないとなと、ひとりでぶつぶつ言ってたはずですのに、結局投げたのは直球だったという(笑)。
いやでも、変化球だろうが何だろうが、最終的には「尚之助さんと夫婦になる」ですからね。
無理でしょう・・・八重さんもうらさんに言ってましたが、今までひとつ屋根の下で暮らしてきたんですよ?
兄だと思って暮らして来た人と夫婦になるって、それって何処の光源氏と紫の上でしょうか、な状態ですよね。
八重さんの脳裏に光源氏と紫の上のことが過ったかどうかは兎に角、ぼんやりしてしまうのは無理もないと思います。
夕方角場にて、尚之助さんに何気なく縁談のことを切り出される八重さんですが、尚之助さんも不器用なんだか何なのか、結構失礼なことを言ってます。

無茶ですよね。私も、お断りするつもりでした。鉄砲隊の改革のためとはいえ、小細工を弄するとは覚馬さんらしからぬ愚策ですよ

そこじゃない、とどれだけ突っ込みたくなったことやら・・・いえ、そこなんでしょうけど、そこじゃないんです。
鉄砲隊うんぬん関係なく、あなたは男として私をお嫁に貰うことをどう考えてるの?と、多分八重さんの心境的にはそこが聞きたかったんじゃないでしょうか。
なのに尚之助さんの反応がそんななので、見え見えの嘘を吐いて角場から逃げるように離れた八重さん。
複雑なものを胸中に抱えていたら、そりゃ遭遇した三郎さんにも八つ当たりしてしまいますよね。
当たられた三郎さんには少々不憫ですが。

元治元年7月18日(1864年8月19日)深夜、長州勢が嵯峨天龍寺、天王山、伏見の三方から進軍したとの知らせが入ります。
馬上の慶喜さんは豪くやる気満々で・・・先週出兵を渋っていた人物とは到底同一人物には思えないのですが、実際の慶喜さんがこんなに戦意高かったとはちょっと考えにくいですね。
後、仮にも禁裏御守衛総督という、この戦の実質的な大将の身分にある人間が、鼓舞の為かどうかは知りませんがほいほいとお味方に気軽にお声をかけるのは、指揮系統目茶苦茶にし過ぎでは?
これが容保様だったら問題はないのでしょうが・・・小うるさく言いすぎでしょうか。

さて、戦が勃発する前に、各藩の御所守備位置を確認していきたいと思います。
上から順番に、薩摩藩は乾御門、筑前藩と一橋兵は中立売御門、会津藩(二番隊)は蛤御門、桑名藩は下立売御門、筑前藩は堺町御門。
その他、越前、淀、彦根藩などが御所の守備に就いています。
長州が西側から攻めてくるので、自然、御所の守りも西側が厚くなってることが、図に興せば一目瞭然ですね。

一方、伏見街道に向かった大蔵さんら会津藩一番隊。
覚馬さんは二番隊に所属して御所の方にいますが、資料などによると、本当は大蔵さん達と一緒に一番隊に所属して、伏見街道の方にいたみたいです。
だから本当だったらこの場面に覚馬さんが居て然るべきなのですが・・・まあドラマですからね。
伏見に着いた一番隊の皆様が遭遇したのは、既に大垣藩によって負かされていた長州兵の姿でした。
「大垣藩が追い打ちをかけてる」という言葉や、それを受けて新選組の近藤さんが「手柄を横取りされた」などとぼやいておりましたが、これは大きな誤りです。
新選組が布陣していたのは九条河原の銭取橋付近なのですが、伏見街道を上って来た長州勢との戦いが起こったのは藤ノ森の辺りでして、新選組はそこで大垣藩の助勢に加わっています。
どころか、逃げて行く長州兵を追撃しない大垣藩に、大垣藩が追撃しないならと追撃をしたのも新選組です。
なので、ここに大垣藩が居なくて新選組がいるのは変な話になりますし、新選組が手柄横取りされたと歯噛みするのもおかしな話になります。
・・・まあ、それはさておき。
あまりにあっけない伏見の長州兵に、大蔵さんも覚馬さんが覚えたような引っ掛かりを感じます。
そこでひとつの結論に至りました。

もしや、伏見の軍勢は囮では?嵯峨や天王山の方は抑えが手薄にごぜいやす。守りの隙を突いて都に攻め入る策がもしんねぇ!

もしそうだとしたら、危ないのは禁裏です。
事実その通りで、結果論になりますが、大蔵さん達一番隊は完全に裏をかかれました。

その頃御所近くには、嵯峨天龍寺からの長州勢が迫ります。
彼らは一条戻橋付近で三手に分かれ、国司信濃隊は中立売御門、来島又兵衛隊は蛤御門、児玉小民部隊は下立売御門にそれぞれ向かいました。
やがて会津藩二番隊の守る蛤御門に、その来島隊が「討会奸薩賊」「尊王攘夷」と書いた旗を掲げて現れます。
立ち去れという言葉も聞かず進み出るだけでなく、御所に銃を向ける来島隊。
それに対して、鉄砲隊を有していながら会津の槍隊が突撃するのはどうなのかなぁ、とちょっぴり苦笑いモノでした。
槍VS鉄砲だと、相手に刃が届く前に撃たれることを誰よりも分かっている覚馬さんが居るのに、その覚馬さん(強いて云うならあの覚馬さん)が何も言わないって・・・。
本来なら覚馬さんはここにいた人物ではなかったとはいえ、いるんだったらいるで、例えば「鉄砲相手に槍隊じゃ無理だ」と叱咤するようなひと言が欲しかったなと思うのは贅沢でしょうか。
私の欲はさて置き、覚馬さんも鉄砲隊を指揮し、両陣営、超至近距離での銃撃戦が始まります。
この至近距離戦というのも、当時の蛤御門を見れば頷けることでして。

現在の蛤御門は上の写真のように、道路に面して建っています。
ところが、幕末時の蛤御門は、以下の地図のように、90度角度がずれた形で建っていました。
厳密に言うなら、現在の場所から100メートルほど御所寄りに、北を向いて門がありました。

なので門を突破するには、突破されないように守るには、必然的に図のように布陣せねばならず、故にあの超接近戦となったのです。
門を突破されてからも、蛤御門から内裏の南正門にあたる建礼門まで直線距離、当時でしたら200メートルくらいでしょうか。
そんなところに軍勢押しかけて、両軍で鉄砲撃ち合ってたのですから、きっと実際はドラマよりも人と人とが犇めき合って、かつ血まみれ硝煙まみれの戦場となっていたのでしょうね。
そんな激戦の中、覚馬さんが馬上の来島さんを狙撃します。

現在御所に行くと、蛤御門と建礼門の間あたりに椋の巨木があるのですが、来島さんはこの樹の付近で討ち死にしたと伝わっています。
史実では覚馬さんはこの場にいなかったわけですから、それでは誰が来島さんを討ったのかということになりますが、伝わっている話ですと薩摩藩士の川路利良さんに胸を撃ち抜かれたそうです。
さて、大将格とも言うべき来島さんを狙撃したことで戦況が変わるかと思いきや、中立売御門と下立売御門が突破され、このままでは蛤御門にいる会津が三方から攻められるとの伝令が飛んで来ます。

その頃、内裏では、参内していた容保様が御前に控えていました。
居合わせた公家達は、砲弾の音や銃声にすっかり怯え切って、口々に勝手なことを言います。
やれ、和睦しろだの、長州を怒らせたのは会津だの、帝を御所から安全な場所へ連れて行っては、だの・・・。
公家は本当身勝手にころころと意見を変えて、だからこそこういう公家の性質を理解していた慶喜さんは、こんな公家達をバックにして戦うのが嫌だったんでしょうね。
少しでも情勢不利になれば、たちまち背後の味方だと思っていた公家に手の平返されることが普通にあるのですから。
それにしても燭台が倒れたので慌てて駆け寄って、掌で火を握り消す容保様の健気な忠心・・・ほんの少しでも腰の定まらない公家達は見習うべきだよと思いました。

臣容保、誓って主上を守護し奉りまする

そういう容保様に、それなら長州の求めに応じてお前が禁裏の外に出ろ、と公家に言われる始末。
それで和睦になるからと。
つまり、容保様に自分の安全のために死んで来い、って言ってるようなものですよね。
いやはや、本当公家というのは・・・(苦笑)。
しかし、ここで力強い容保様の味方、孝明天皇が口を開きます。

和睦などは思いもよらんことや。禁裏に発砲する賊徒、退けて御所を守護せよ

ちなみにこのとき御所内にいた12歳、数えで13歳の祐宮さん(後の明治天皇)が、聞こえてくる銃声などに怯えて失禁したそうです。
それほどまでに禁裏に近い場所で人と人との殺し合いが起こっていた、ということですね。

南北から挟み撃ちにされる形となった会津藩二番隊。
それでも怯まず、覚馬さんも鉄砲隊の采配を振るい続けますが、じりじりと追い込まれていきます。
そこに登場したのが、丸に十の字の旗印を掲げた薩摩藩。
乾御門を守っていた彼らは、下図の矢印の通りに蛤御門付近へ南下してきたのです。


薩摩藩士、西郷吉之助。ご助勢仕る!

このとき西郷どん36歳、数えで37歳。
五月塾豚騒動で顔を合わせていた覚馬さんとは10年ぶりの再会ですね。
どう見たって騎乗の西郷どんの薩摩兵は、鎧甲冑着込んでいる他の藩と比べて戦をする格好じゃないように見えますが、冷静に考えればあの洋装が今後近代化に伴った軍装になってくるのですよね。
そして洋装に身を包んだ薩摩の鉄砲隊が持っているのはエンフィールド銃。
飛距離が900メートルで、精度は会津の持ってるゲーベル銃の約4倍もあります。
薩摩がどうしてそんな最新武器を持っているかと言えば、昨年の薩英戦争が大きく絡んでます。
あの戦の後、薩摩はイギリスからエンフィールド銃を4300挺購入したのです。
そのエンフィールド銃が、いまここにあると。
出来事ひとつひとつがリンクしているのですね。
戦国時代に鉄砲が伝来してから、戦や軍の様相は大きな転換を見せましたが、エンフィールド銃の登場は歩兵部隊の様相を大きく変えることにもなったのではないでしょうか。
だって、必殺距離はさて置き飛距離が900メートルということは、900メートル前方は守備範囲の内ということですよ。
つまり簡単に足を踏み入れられないということでして、飛距離が短かった頃の火縄銃やゲーベル銃の概念が通じなくなるわけだと思うのです。
あまり軍事的なことに詳しくないので、断言は致しかねますが。
あ、でもどの銃にも銃剣がついてないのはちょっと不思議かも・・・そんなことってあるのかな。
ともあれ、エンフィールド銃の性能に感激しつつ、薩摩は強いなどと言っていた覚馬さん、テンションが上がったのか興奮のあまりリミッターが外れてしまったのか、銃弾を見切って躱すという人外の離れ業までやってのける始末(笑)。
しかし次の瞬間、傍で大砲の弾が炸裂し、爆風と破片に吹っ飛ばされる覚馬さん。
ここでまた、演出が細かかったですね。
吹き飛ばされた覚馬さんが真っ赤な血を流した時から、画面の色が鮮明になるのです。
それまでずっと、硝煙漂うような、ちょっと靄がかってて鮮明じゃなかったので、この前後の違いで、覚馬さんの流血が物凄く印象に残りますね。
少し明るくなった画面で、再び西郷さんと覚馬さん。

我らはこれより、河原町の長州藩邸に向かいもす
ご加勢、かたじけねぇ。会津藩、山本覚馬です
いずれまた

このときの薄い交わりが、やがて月日を経て縁となるのですよね。
ともあれ、格好良く去って行く西郷どんですが、確か史実だとこの後か何かに足に銃弾食らってたような・・・。

一方、天王山から攻め寄せた久坂さん、真木さん達です。
戦況の旗色を悪く見た久坂さんは、堺町御門近くの鷹司邸に立て籠り、鷹司輔煕さんに内裏への参内の供をさせて欲しいと哀願しました。
一緒に行って、帝に直談判を狙ったのでしょうね。
しかし頼みにした輔煕さんはこれを拒絶し、邸から出て行ってしまいます。
既に邸の周りは彦根藩や桑名藩に包囲されており、石を投げて久坂さんに自分の存在を悟らせた桂さんは、蛤御門も敗走して残ってるのはここだけだから、早く逃げようと言います。
しかし真木さんが、このまま時を稼げば臆病な公家が長州方に寝返るはず、と言います。
久坂さんも、参内して自分たちに義のあることを帝に申しあげねばなないと。

僕は死んでも退けん!君は行け!

退かない久坂さん、退いて逃げる桂さん。
少し話が逸れますが、安政6年(1859)に高杉晋作さんが、師の松陰さんに「男子たるもの死すべきところは何処なのか?」と問いました。
松陰さん答えて曰く、「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」。
この詞の、「死して」の部分が久坂さんで、「生きて」の部分が桂さんなのだろうなと、ふとそんなことを感じておりました。

その頃鷹司邸の外は、彦根藩と会津藩に包囲されており、塀に阻まれて攻められないのなら塀を大砲で打ち崩して攻め入るべしという覚馬さんの進言に従い、邸の西北の角を見事に打ち崩します。
しかし・・・明らかに弾道上や前方にお味方が居たような気がするのに、撃って良かったのですか、覚馬さん、とちょっぴり苦笑いを禁じえませんでした・・・。
ともあれ崩れた壁から会津と彦根の兵が突入、邸には火が放たれ、真木さんは後日の再挙を狙って天王山に引いて行きます。
それでも久坂さんは留まり続けます。

僕が死んでも、後に続く者たちがいる。最早時の流れは止められんぞ!

そう叫びながら、向かってくる兵をばっさばっさと斬り捨てて行く久坂さん。
その久坂さんも、銃弾に足を撃ち抜かれ、最早これまでと悟って自刃します。
ドラマですと単独の自刃になってましたが、実際は久坂さんは寺島忠三郎さんと共に自刃しました。
「さきに寝る あとの戸締り 頼むぞよ」は触れられませんでしたね・・・。

さて、鷹司邸から出た火と、河原町長州藩邸から出た火と相俟って、折からの強風に煽られ市中に燃え広がって行きました。
三日間燃え続けた日は「どんどん焼け」と呼ばれ、被災戸数は約2万8千。
どれだけの規模市中が焼けたのかについては、「京都大火之略図」を調べて頂ければ一目瞭然でお分かり頂けると思います。
この火災の被害状況は当時の瓦版でたくさん報道されており、こちらのサイト様にその瓦版が多く掲載されていますので、気になったお方は是非ご覧になってみて下さい。
瓦版によっては数に多少の差がありますが、町屋約120、家屋約42000、土蔵約1500、寺社塔頭約500、武家屋敷約600が焼けました。
ちなみにこの火は、池田屋事件の発端となって政治犯として捕らわれていた古高俊太郎さんたちを収容していた六角獄舎付近にまで迫り、中にいた大勢の尊王過激攘夷派の浪士たちは「火の混乱に乗じて逃亡されるのではないか」と町奉行が恐れたことから獄中の三十数人を次々と斬首しました。
結果的に六角獄舎まで火は回って来なかったのですが・・・。
と、大蔵さんや新選組が天王山で残党狩りをし、真木さんが自刃している間に、そんな歴史の裏話も少し。

会津にも開戦の第一報が届けられました。

鉄砲、大砲を撃ぢ合っての戦いだ。双方無傷では済まねぇ

ささやかなことですが、こんな言葉が出てくるのは、やはり砲術の家の山本家ならではだな、と思いました。
そしてこの戦で鉄砲隊の値打も決まる、と考える辺りもやっぱり砲術の家ならではの味方ですね。
そこへ尚之助さんが駆け込んで来て、長州の敗走を伝えます。
それを聞いて第一に「覚馬は無事か?」ではなく、「殿は無事か?」というのも、ちゃんと会津人らしい筋が通ってて良いですよね。
どの作品とは言いませんが、某大河だったら絶対にその筋が目茶苦茶になってたと思います。
尚之助さんの持ってきた情報で、大砲が戦の役に立ったと知って嬉しそうな権八さん。
一方、口ごもってなかなか覚馬さんの安否を切り出せないうらさんに、きっぱりと「覚馬さんはきっとご無事です」と断言する尚之助さん。
根拠や知らせがあったわけではありませんが、味方が攻めあぐねているときに大砲で壁に穴開けて兵を突入させるなんて如何にも覚馬さんがやりそうなことだから、と。
確かに、大胆不敵な覚馬さんらしいですよね。
言うまでもなく覚馬さんのそんな性格を熟知している山本家の皆様は、そんなことをするのは間違いなく覚馬さんで、そんなことしてるということは間違いなく無事ということだと、安心感を得ます。
その夜、八重さんは自分も戦と聞いて狼狽えていた部分があるから、皆を安堵させてくれてありがとうと尚之助さんにお礼を言います。

武士の娘として覚悟が足りねぐて恥ずかしい・・・
無理もない。初めての戦ですからね
んだげんじょ・・・あんつぁま・・・ご無事だべが。弾に当たってねぇべが・・・

変な話、弾に当たっても、場所が場所だったら命を落とすわけじゃありませんしね。
でもそれは「生きて」はいるけど、「無事」とはちょっと言い難い。
それでなくても銃創というのは厄介ですから、鉄砲のことをよく知ってる分、「鉄砲と大砲を使った戦」がどういうものになるのか、少なくとも普通の人よりは現実味を帯びた形で八重さんは想像出来たんだと思います。
いやまあ、しかし、涙をこぼす八重さんのそれを拭おうと、そっと手を伸ばしてぎりぎりのところでやっぱり手を引くとか尚之助さん・・・。
しかもその後、取り繕うように本に向き合うから面白いです。

さあ、こっちも呑気にしてはいられない。戦は起きた。詳しい戦況が伝わって来れば、ご重臣方の考えも変わる。銃器を一新する良い折です

これは正論ですね。
久し振り過ぎるくらい久し振りに起きた戦で、旧弊がどこまで通用してどこまで通用しないのか、実戦に即して浮き出てきた部分は決して少なくないと思いますし。
しかし八重さんとのことも、呑気にしてちゃ駄目ですよ?と、ちょっぴりお節介ながらも思ってしまいました(笑)。

再び場所は戻って、都。
戦火で焼かれ、文字通り焼野原となった町を広沢さんと見回る覚馬さん。

ひどく焼げだな
応仁の乱以来の、大火だそうです
これが、戦が・・・。何百年もかがって築いた町を、たった一日で焼き尽ぐしちまった。元の姿に戻すのに、どれだけの時がかがっか・・・

覚馬さんは明治になって京都府庁に出仕し、京都の近代化と復興を担う人物になるのですが、この一言はその伏線も滲ませているのでしょうか。
お救い小屋の粥の列に並んでいる人や、子供たちから石や砂を投げられ、「鬼」だの「人でなし」だの憎悪の言葉を浴びせられる覚馬さん。
西郷さんや尚之助さんが言ってましたね、力を持つ者は最初は尊ばれ大事にされるけど、次第に恐れられ、最後は恨まれると。
その予言通りとなってしまった光景がこれなのでしょう。
己が正義だと思ってやってきたことへの民草のこの反応と、武士階級の自分に石を投げられた屈辱、覚馬さんは色んな意味でさぞかし衝撃的だったことと思います。
大垣屋清八(彼と彼の養子が新島襄と深い関わりを持つようになりますが、その話はまたいつか)さんの、「西洋の学問しても、町を焼かずに済む戦のやりようは分からんもんでっしゃろか?」という問いかけは、耳障りこそ滑らかに聞こえますが、痛烈な批判ですよね。
本音を建前でくるむのは京都の方の十八番。
西洋の学問究めたところで、民草を守れないようでは・・・と言うところでしょうか。
この「民の目線」からの問いかけに、覚馬さんはただ茫然としたまま答えることが出来ませんでした。
自分のすべてを以って、これに対する覚馬さんなりの示した答えが『管見』になるのかな、と思いましたが、さてさてどう繋げていくのやら。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年3月22日金曜日

明保野亭事件

大河ドラマでは来週(3月24日放送分)で禁門の変を取り扱う様子ですが、実は池田屋事件と禁門の変の間に、「明保野亭事件」というものが起こっています。
今日はそれについて、少しお話させて頂きます。
明保野亭事件が起こったのは元治元年6月10日(1864年7月13日)、池田屋事件から5日後の出来事です。
事の始まりは、その池田屋での残党狩りを行っていた新選組が、東山にある料亭「明保野」に長州の浪士が潜伏しているとの情報を受け、そこに捕縛に向かったことにあります。

大きな地図で見る
A地点が現在でも残る明保野亭跡ですが、当時はもう少し北東にあったそうです。
さて、その捕縛に向かった面々は、新選組の武田観柳斎さん率いる新選組隊士15人と、会津藩から派遣されていた会津藩士5人。
会津からの藩士の派遣があったのは、池田屋事件後、新選組屯所襲撃の噂があり、その応援という形です。
その会津からの応援の中に、柴司さんという藩士がいました。
弘化元年2月14日(1844年4月1日)のお生まれですので、このとき21歳、数えでも21歳ですね。
その司さんは明保野亭に踏み込み、二階から浪人らしき男が二人逃げて来たところ、それを追跡して男たちを槍で突き、捕縛します。
ここまで書くと、司さんお手柄だったんですね、という感じになりますが、問題はこの後で起こりました。
実はこの捕縛してて傷を負わせたのが、長州の浪士ではなく、土佐藩家老福岡宮内さんの家臣、麻田時太郎さんだったのだから一大事です。
と言いますのも、会津は長州とは敵対する立場にありましたが、土佐とはそんな拗れた関係にはありません。
土佐藩からすれば、「会津の人間がいきなり自分の藩の人間斬りつけた!喧嘩売ってるのか!」ということになりますよね。
そういうわけで、事は土佐と会津の両藩を巡る大問題へと発展していきます。
時太郎さんは一旦身柄を町奉行所へ引き渡されました。
この誤認逮捕に土佐藩の在京藩士たちは激昂し、会津本陣に押し寄せようとか一緒にいた新選組の屯所を攻めようとか、血気盛んな相談をします。
それを京留守居の藩士がなだめなだめ、容保様も公用方を薩摩藩邸に派遣し、事態の収拾を計ろうとします。
同時に容保様は藩医を時太郎さんの元へ派遣し、土佐藩医と、別段時太郎さんの傷は命に別状はないと確認し合い、藩医が容保様にそう報告したのが11日の早朝です。
これで何とか収拾がつきそうだと、思わず安堵してしまいそうになるのですが、まだ終わらないのがこの事件です。
何と時太郎さんが武士の面目を保つために自刃してしまうのです。
(自刃するということは、司さんに負わされたのは後ろ傷だったのでしょうかね?)
誤認逮捕された時太郎さんが自刃して、誤認逮捕の原因を(悪気がなかったとはいえ)作った司さんが生きてるのは不公平ですよね。
そう土佐藩士らが騒ぎ出し、このままでは会津と土佐が一触発・・・という事態にまで追い込まれます。
そんな状態になったら・・・不公平を公平にすることでしか、両藩の衝突は避けられませんよね。
そういうわけで12日、司さんはお兄さんの介錯の元、切腹しました。
会津と土佐の関係のために、腹を斬ったのですね。
長州と会津の関係がクローズアップされがちですが、ここに散ったふたりの命の存在も、皆様の心の片隅に留めて頂ければと思います。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年3月21日木曜日

第11回「守護職を討て!」

ならぬものはならぬ!

また少しお久しぶりな気がするこの一言から始まりました、第11回。
この上なく険しい顔で座っているのは権八さんと、それに向かい合わせで座っている三郎さん。
ただならぬ雰囲気に、八重さんも佐久さんもやって来て、ふたりの様子を見守ります。
一体何を言い争っていたのかと思いきや、先週西郷さんが官兵衛さんに言っていた「藩士の次男三男の中から腕に覚えのあるものを選んで都に連れて行け」の、その選抜についてのようです。
いわゆる別選組に、三郎さんが志願したと言うことみたいです。
仲間の尻馬に乗ってその気になったんだろう、と権八さんは八重さんに言いますが、これまでの山本家を見ていると、必ずしもそうとは言えないのではないかと思います。
思い出して頂きたいのが、第3回の時に覚馬さんが禁足処分を言い渡されていた時のこと。
あの時権八さんは、「これがらは三郎を厳しく仕込まねばなんめい。家を潰すわげにはいがぬ」と言ってました。
この一言から、婿養子として山本家に入った権八さんは、山本の家を存続させることに人一倍心を砕いていると伺うことが出来ます。
普通に考えれば、権八さんの後を継ぐのは覚馬さんです。
その覚馬さんは、いま何が起こるのかさっぱり分からない、遠い遠い京にいます。
権八さんにとっては、長男がそんな状況下に身を置いてるので、三郎さんはその長男に何かあった時の後継者スペア、と考えていた節があるのではないでしょうか。
それもあるから、行かせるわけにはいかない。
今回、権八さんが何故三郎さんの志願に反対していたのかは結局最後の最後まで明確には描かれませんでしたが、そこなんじゃないのかなと。
まあ、私の憶測ですけどね。
さてその三郎さん。
お姉さんの八重さんに、「早く手柄を立てたい気持ちは分かるけど」という言葉を「姉上に何が分がんべ」と弾き返します。
志願の理由は手柄を求めてのことではないようで、ならば一体何なのでしょうね。

元治元年7月11日(1864年8月12日)。
ということは、明保野亭事件はスルーですか・・・余力があったらまたこちらも後日補足しますね。
前回同様、洋装鞍の白馬に堂々たる風情で跨り、それをかっぽかっぽとさせて都の通りを往く象山先生。
以前の記事で触れた象山先生の愛馬の名前の推移ですが、この日、この馬は都路から王庭へと、再び改名されています。
良い声で歌まで歌いながら、かなり上機嫌な象山先生ですが、その理由は山階宮晃親王にお目通り適ったからでしょう。
ですが、その象山先生に兇刃が。
ずらりと現れた十人ほどの浪人達の内のひとりが、まず象山先生の腰を突き刺し、バランスを崩した象山先生が落馬したところで背中に太刀を浴びせる・・・という流れでした。
曰く、「邪謀を巡らし帝を奪い去る国賊」。
対して象山先生は「馬鹿者!天下のためになるのが分からぬか」。
互いの主張と主張がぶつかってる感じですね。
そうして象山先生は命を落とし、首は三条河原に晒されました。
しかし、襲撃するのなら何故先に馬を狙わなかったのだろうかとか、河上彦斎さんや松浦虎太郎さんのことはスルーなのだろうかとか、細々とした疑問が残りました(笑)。
演出は相変わらず細かくて、女の子が吹いていたぽっぺんは、ぽっぺん=西洋のもの=象山先生、で、それが割れた=死、という意味ですよね。
象山先生襲撃のことは、すぐに京都会津藩洋学所にいる覚馬さんのところへもたらされました。
轡を取っていた従者も一緒で、覚馬さんが事情を聴きますが、混乱しているためあまり参考にならず。
代わりに広沢さんが事情を説明します。
下手人は分かっていないようですが、代わりに広沢さんは、祇園社西門(今の八坂神社)に貼られていた斬奸状を覚馬さんに差し出します。
以下がその全文です。
松代藩  佐久間修理
此者元来西洋学を唱ひ交易開港之説を主張し枢機之方へ立入御国是を誤候大罪難捨置候処剰□□賊会津彦根二藩ニ与同し中川宮と事を諮り恐多くも 九重御動座彦根城へ奉移候義企昨今頻ニ其機会越窮候大□無道不可容天地国賊ニ付即今日於三条木屋町加天誅畢但斬首可懸梟木ニ之処白晝不能其義もの也
元治元年七月十一日 皇国忠義士
斬奸状の現物は真田宝物館に所蔵されています。
「この者西洋学を唱え、開国を主張して国是を誤らせ、奸賊の会津、彦根両藩、中川宮(=朝彦親王)と共に、畏れ多くも帝を彦根城に移し奉ろうとしたため天誅を加えた」という内容が書かれています。

朝廷に開国を説いだごど、帝の彦根連座を計ったごどが断罪されでいます。会津藩士がそれに手を貸しているども

広沢さんの言葉に、自分たちの動きが筒抜けになっていることに気付き、斬奸状の末尾に「皇国忠義士」とあるのを見て、何が忠義の士だと憤りを隠せない覚馬さん。
下手人は尊王攘夷過激派浪士ですが、会津を奸賊と罵り、彦根遷都を弾劾するのは彼らの主張そのものでした。
それと見落としてはならないのが、この日が幕府が長州藩に対し、京周辺から滞京するように伝えていた期限の日だったことです。
少し前の8日にも既に通告がされていますが、長州はこれを無視、二度目の通告にも無視を貫き、代わりに起こったのが象山先生の暗殺事件でした。
象山先生は松陰さんの師に当たるお方ですので、長州藩士がどの程度までこの事件に関与していたのかは謎ですが、少なくとも長州への二度目の通告の日と暗殺日が同日なのは、単なる偶然ではないのではないかと個人的には思います。

会津では相変わらず、官兵衛さんの隊の話でもちきりのようです。
尚之助さんの言う通り、確かに武家の次男三男はこういうことがなければ世に出る機会がありませんもんね。
一応補足しておきますと、悌次郎さんは次男坊なので、例外も一応ありますよ。
八重さんは、三郎さんはまだ16だし、槍も弓も未熟だから志願してもまともに働けるはずがないと尚之助さんに言います。
姉なりに三郎さんを色々と思うところもあるのでしょう。

三郎さん、独り立ちするのは大変だな。何しろ上のおふたりがあまりにお勇ましい

本当、尚之介さんの言葉の通りだと思います。
今回はこの尚之助さんが、この山本家内の問題で、非常に重要な役割を無意識の内に果たすことになります。

京では容保様のお体の具合が芳しくないようです。
そんな容保様に、国許の照姫様が案じて、咳止めの薬効がある松の葉のお酒を作って送ったそうです。
松のお酒何て初めて聞きましたが、松の持つ霊気のようなものが尊重されていた時代もあったらしいので、それに拠るものでしょうか。
似たようなニュアンスで、重用の節句に、お酒に菊の花びらを浮かべて飲むというのがありますね。
その容保様の元へ、国許に持病のために戻る横山さんが挨拶に来ていますが・・・私の知る限り、横山さんが帰国したのはこれより少し前の5月だったような・・・。
横山さんは帰国後の8月7日にお亡くなりになられて、このシーンは象山先生暗殺後なので7月11日以降禁門の変が起こった7月18日以前ということが推察出来ます。
8月7日に病没する人が、7月11日~18日の間に京から会津への旅に出るかな、とちょっと疑問に感じました。
それはさておき、この横山さんが京からいなくなるというのは、横山さんによって取り立てられた悌次郎さんや広沢さんが庇護者を失うということになり、それも関係して悌次郎さんの左遷、という流れに繋がっていくのです。
延いては都での会津の外交力が大きく削がれるということに繋がります。

長州勢六百、新だに洛外に着いたようだ。激徒を鎮撫するためどいう触れ込みだが、その実は援軍に違いねぇ

左遷の決まった悌次郎さんは、訪ねて来た覚馬さんにそう言います。
既に長州勢は2000で、会津1600を上回っているにも拘らず、動こうとしない禁裏御守衛総督の慶喜さん。
京都守護職の会津だけで単独で動けないのは、禁裏御守衛総督は京都守護職よりも上に当たるポストだからです。
その上、この慶喜さんが困ったちゃんなのです。
だから覚馬さんもじれったく感じているのです。

あのお方は事を構えたぐないのだ。因州、備前、芸州、筑前・・・都の中にも、長州に味方する藩は多い故の。このままでは会津が孤立して、長州がまた力を盛り返す

幕末史を眺めていると、慶喜さんひとりに引っ掻き回されたりした部分も結構あるんじゃないのかなという感じが私はするのですが・・・皆様はいかがでしょうか。
そんな時、広沢さんがやって来て、佐久間家の改易が決まったと知らせます。
象山先生にはお妾さんとの間に恪二郎さんという嫡男がいまして、この恪二郎さんが相続を願い出ましたが、松代藩は遺体に後ろ傷があったことを揚げ足にとって、佐久間家の断絶を言い渡します。

象山先生は国のために働いでいだのだ。家を潰される落ち度が何処にあっか!先生は覚悟を決めておられだ。時が来れば桜は散るど仰せだった。まだその時ではねがったのに・・・
後ろ傷など口実です。松代藩は攘夷激派に睨まれるごどを怖れでいるのでしょう
もどもど、象山先生の働ぎを面白ぐ思わぬ人だぢがご家中にいたのだろう

これは確かに松代藩の処分どうこうの前に頭に入れておくべきことだと思います。
面白く思わない人たちが家中にいたどころか、象山先生は大多数の人に嫌われていたと言っても過言ではありません。
言い方は悪いですが、傲岸不遜を絵に描いたような人ですし、頭は良かったでしょうし開明的ではあったでしょうが、多分自分以外の周りの人が馬鹿に見えて仕方がないような感じだったのではないでしょうか。
松代藩が、攘夷派に睨まれることを怖れていた部分も勿論あるでしょうが、それ以上に象山先生の生前の仁徳が足りてなかったというのも、佐久間家改易の外せない理由だと思います。

先生は二度殺されだ・・・。最初は刺客に、二度目は藩の愚かさに・・・。松代のことばっかりは言えねぇ・・・。会津も秋月さんを引きずり下ろした。池田屋がどうのど言っちゃいるが・・・本当のどごろはやっかみだ。・・・公用方が重用されるのが気に入らねぇ人だぢの因循姑息さだ。わがっていで、俺にはなじょするごども出来ねぇ

覚馬さんは松代藩か象山先生かと言えば、限りなく象山先生寄りで物事を見られる人間ですよね。
第3回で「井の中の蛙」発言で禁足処分にされたときもそうでしたが、開明的でない旧弊的なものに何処か否定的です。
ですが象山先生を受け容れられなかった松代藩の方々が頭の固いとかそういうわけではなく、これについての私の見解は以前の記事で述べた通りです。
体面や旧弊的な体制にじれったさを覚える覚馬さんは、そう眺めるとあんまり第3回のあの時から7年経った今でも内面的な成長があまり出来てないようにも見えます(苦笑)。

一方御所では、未だに本復しない容保様と、通告しても兵を退かせない長州の軍に落ち着かない様子。

中将は病やし、一橋はぐずぐずと腰が定まらん。お蔭で長州派の公家達がまた勢い付いてまいりましたんや

先の八月十八日の政変で、都落ちを余儀なくされた実美さんら七卿もまた、数千の軍勢を率いて同月14日に三田尻を発しています。
懲りないなと思いつつも、朝廷が保持している軍というのはないので、忠煕さん達が不安に思うのも無理ないことでしょう。
ここで都に入られたら形成が覆るかもしれない、という中川宮の言葉はご尤もです。
だからこそ、早く腰を上げて!慶喜さん!となるのですがね。

黒河内道場で、志願のために官兵衛さんに槍の稽古を挑み、文字通り満身創痍の状態にされてしまった三郎さん。
親に黙って入隊を願い出たことが権八さんにばれてしまい、手を挙げられた三郎さんは夕餉の席にも姿を現しません。
きっとこういう時に欲しいのは、異性の兄弟(八重さん)ではなく同性の兄弟なのでしょうが、生憎と覚馬さんは遠い遠い京にいます。
その覚馬さんの代わりのように、尚之介さんがそんな三郎さんに声をかけます。
角場にあった新式銃を見て、三郎さんは前置きなしに尚之助さんに謝罪します。

会津のために苦心して作られだのに、上の方々はろぐに御評議もしねぇで・・・。その銃が優れでいるごどはよぐわがっておりやす。んだけんじょ、俺では何処にも、誰にも、意見ひとづ言わんにえい
それで志願したのですか?隊士になれば一人前の藩士だ。新式銃のことを上に願い出ることも出来る。そう考えて?
若輩者が上に物を言うのに、他にどんな手があんべが?無茶でもやんねえど、道は開げねぇ
覚馬さんと同じことを・・・。その気持ちを話せば、お父上も手は挙げなかったでしょうに
父上には言えねぇ・・・。んだけんじょ、俺は見で来たから・・・鉄砲の家は一段低ぐ見られで、上に物申してもながなが取り上げでもらわんにぇい。・・・父上のご苦労、俺はずっと見で来たから・・・

このやり取りを聞いて、三郎さんの本音を預けられる相手がいて良かったなと思いました。
それが兄でも姉でもなく、第三者で且つ会津藩に属してない立場にいる尚之助さんだったからこそ言えたのでしょうし、反対に尚之助さんは、家族でもなければ会津藩士でもないから、八重さんや権八さんとは違う視点を設けて三郎さんに接することが出来た。
仮に覚馬さんがここにいて、三郎さんの本音を受け止めても、こうはならなかったでしょうし、或いは三郎さんがそもそも本音を出さなかったかもしれない。
そう言った意味でも、尚之助さんは絶妙な立ち位置にいるな、と思いました。
もしかしたら後の八重さんとのことでの伏線も孕んでいるのかもしれませんが、この持って行き方は良いと思います。
部外者の尚之助さんでなければ出来なかったのですし。
その三郎さんが、志願しても官兵衛さんの隊への入隊が適わなかった理由は、翌朝八重さんを訪ねてきた官兵衛さん自身の口から語られます。

十六の子に、命を捨てろどは言えぬ故な

ご存知の方も多いでしょうが、後の会津戦争で出てくる白虎隊は16~17の少年隊士によって構成されていた隊でした。
今は確かに、「捨てろどは言えぬ」時なのでしょうが、それがやがて「捨てろ」と言わざるを得ない日が来る・・・そして本当に捨ててしまった少年たちがいる・・・。
そう遠くない未来の背景が、この台詞には含まれているような気がしました。
都にいる覚馬さん視点とは違って、会津にいる八重さん視点は基本的にほのぼのとしているのですが、要所要所できっちり伏線張って行ってますよね。
八重さんから官兵衛さんの言葉を聞いた権八さんは、角場の竈の灰を掻き出していた三郎さんい言います。

何かを変えんのは容易いごどでねぇ。いっぺんでは上手ぐいがねぇ。そんじも、それが正しいごどなら何度でも何度でも願い出で、ちっとずつでも変えでいぐ。ずっとそうやって来た。親をみぐびんなよ

何度でも何度でも・・・と、これは山本家の家訓か何かでしょうか。
先週、八重さんも同じようなことを尚之助さんに言っていた気がします。
思えば山本家の三兄弟は、今回の三郎さんのことも含め、皆仲良く「一回では上手くいかない」壁にぶち当たってますよね。
それでも覚馬さんも八重さんも、何度でも何度でも・・・と、少しずつ齧り付いてきた。
次は三郎さんの番なのですね。
そうしようとしている我が子に、権八さんは「もう立派な会津の男だ」と、きっと三郎さんからすればこの上なく嬉しい言葉を言います。
結局このタイミングでの三郎さんの上洛は叶いませんでしたが、三郎さんとしても今は権八さんのその言葉だけで良いということでしょうか。

場所は変わって、山崎天王山近くの男山八幡宮。
石清水八幡宮の呼び名の方が皆様の耳には親しいでしょうか、そこは伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟で、清和源氏の守護神、八幡神を祀っています。
そういう関係もあってでしょうか、軍装に身を包んだ長州藩士がそこに集結しています。
本殿では真木さんが必勝祈願の祝詞と唱え、久坂さんが戦勝祈願の矢を奉納し・・・と、既に合戦モードです。
祈願を終えたら、次は社務所で軍議です。
総司令官ともいえる益田右衛門親施さん、天龍寺に兵を布陣させている遊撃軍総督の来島又兵衛さん、そして桂さんもそれに列席します。
遊撃隊というのは、高杉晋作さんの奇兵隊に触発されて結成された戦闘部隊です。
来島さんは兵力が揃ったので、すぐにでも攻め入るべしと主張します。
ですが留まるように制したのは桂さん。

敵は会津だけじゃありゃーせん。既に薩摩も入京しちょります。じゃが、因幡や備前と組めば戦をせずとも都での復権が叶います

久坂さんは、一戦交えるべきだと言いますが、ただし攻め入るのは若殿(=毛利定広さん)が到着してからだと言います。
その到着まで後十日足らず、今はまだ時期尚早ということですね。
少し補足説明を加えますと、長州の挙兵の理由は会津妥当ではなく、八月十八日の政変以降被ることになった藩主父子(=毛利慶親さん・定広さん)の冤罪を帝に訴えることです。
軍略的に考えると、今この状況で御所に兵を進めても、後詰の兵がないので勝ったとしてもそれは一時的な勝利だと思うのです。
・・・と、まあそんな議論の最中に、不審人人物が三人発見されます。
変装をして、敵地であるこの場所へ潜入捜査をしに来ていた覚馬さん、大蔵さん、平馬さんです。
この覚馬さんの敵地潜入視察、一見ドラマならではに見えますが、実は史実なんです。
覚馬さんは豪胆なお人でしたので。
ただ、お供が大蔵さんと平馬さんなのはさすがにドラマならではの脚色ですが。
喋ると会津弁で会津藩の人間だとばれてしまうので、口を開くにも開けなくて、挙句の果てには切り捨てられる一歩手前になる三人ですが、平馬さんの似非京言葉のお蔭で何とかその場をしのぎます。
無事にその場から脱出出来た三人は、そのまま会津本陣に行き、見聞きしたことを土佐さんにそのまま伝えます。
ただ、長州本体到着まで十日足らずということは判明していても、軍議を最後まで聞けないままの切り上げでしたので、あの軍議がその後どうまとまったのかは分からないという状況。
しかし長州が攻めて来たときに狙うのは容保様の首だと知った土佐さんと神保内蔵助さん(修理さんのお父さんです)は、これは猶予がないと、慶喜さんの尻を蹴り上げてでも決断してもらわねばと二条城に向かいます。
しかし慶喜さんは煮え切らず、長州征伐の号令をなかなか出してくれません。

もう一度揺さぶってみてからじゃ。一両日中に兵を引かねば、総攻めをかけると使者を出す。本体到着まではまだ間がある
事こごに及んで・・・
在京諸侯には長州に心を寄せる者も多い。都を二分する戦となっては困る。昨年八月、会津と薩摩が手を組んで長州を追い落としたのも、果たしてご叡慮に沿うことであったのか・・・

いや、本当慶喜さんというのは腰の定まらない政治家を体現していると言いますか、何と言いますか(苦笑)。
八月十八日の政変のことを今更出してくるの?と思われてしまうかもしれませんが、それは視聴者の我々が、会津が孝明天皇の勅命を受けていたこと、及び受けていたその場面を見ていたからなんですね。
あの場に居合わせていなかった慶喜さんからすれば、容保様と孝明天皇の間でのみ交わされたものには、何ら意味が見出せないのです。
容保様個人から会津藩に、ではなく、幕府に対してもっと公な勅旨を、というのが慶喜さんの欲しいところだったのです。
それさえ貰えれば、それを大義名分に掲げて堂々と戦が出来ると、慶喜さんの中ではそういう感じなのでしょうが、如何せん分かりにくすぎる思考回路故、誰にも付いて来て貰えない。
それが徳川慶喜という人間だと思います。
言いがかりをつけられた土佐さんと内蔵助さんからすればいい迷惑でしょうし、会津にしてみればこんなこと言われたら堪ったものではないですよね。
結果、会津本陣には動かない慶喜さんに対して藩士の怒りが爆発、怒号が飛び交って手が付けられないことになります。
自分のところの殿様の命が危険に冒されているのに、動く気配がなかったら誰だってこうなりますよね。
そこへ広沢さんが、慶喜さんが参内して朝議が始まることを伝えます。
その頃御所には容保様を始め、定敬さん、慶喜さん、そして在京の藩主たちが参内して御前に控えていました。
中川宮が、孝明天皇の叡慮は八月の政変以来変わっていないこと、長州が勅命を奉ずる意のないことを朗々と一同に申し伝えた後、御簾が上がって孝明天皇が告げます。

長州の軍勢、速やかに掃討せよ

元治元年7月18日(1864年8月19日)、いよいよ長州征伐の勅が下されます。
そして翌日、太平の世に久しくなかった戦が、京を舞台に勃発します。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年3月13日水曜日

第10回「池田屋事件」

洋装鞍の白馬に堂々たる風情で跨り、それをかっぽかっぽとさせて都の通りを往く御仁の登場から始まりました、第10回。
馬上の御仁は象山先生です。
このとき53歳、数えで54歳。
ドラマでは数週間ぶりですが、実は象山先生が国許蟄居を命じられてからこのときまで10年経っております。
象山先生はこの年の3月29日(1864年5月4日)に将軍家茂さんの命によって上洛しました。
ちなみにこの白馬は象山先生の愛馬で、名前を王庭(おうば)と言います。
上洛の際に「都路」と改名されたのですが、後程山階宮晃親王の御前で西洋式の乗馬を披露したのを機に、再び王庭に戻されます。
このときはまだ山階宮晃親王の御前に出てないので、馬の名前は都路です。
都路に跨った象山先生が訪ねてきたのは、覚馬さんが開いた京都会津藩洋学所。
中では外国語の勉強や、覚馬さんが「せぱすとほーる」では34の砲台に1400門の砲台が据えられていた・・・など、クリミア戦争の戦闘を元に色々と講義をしていたりと、なかなかに先進的です。
そこに顔を出した象山先生。
10年ぶりの再会ですので、覚馬さんも顔を輝かせます。
ちなみに覚馬さんの隣にいるのは、数回前から出ている会津公用方、広沢安任さん通称富次郎さんです。

木挽町の我が塾とよく似ている・・・。ここでは、洋学を志す者は他藩の者も受け入れているそうだな
それも先生の塾に倣いました。殿も、快ぐお許し下さいまして
いやあ、会津は旧弊なお国柄と聞いたが、殿様は物の分かるお方と見えるな

それはそうと、象山先生が何故上洛したのかと言いますと、曰く「わしにしか出来ぬ役目があるというのでな」ということみたいです。

止まった歯車を回し、時を前に進めるのだ

すなわち朝廷に開国を説くということみたいです。
ちょっぴり背景を補足しますと、長州が象山先生を招こうとしているという噂があったので、先手を打って長州に呼ばれる前に幕府側に引き留めておいた、というのもあります。
4月3日(1864年5月8日)に、象山先生が幕府から海陸備向掛手附雇を命じられ、扶持二十人に加えて手当金十五両が支給されているのもそのためかと思います。
そういう経緯で幕府側に留め置かれたことを知っているのか知らないのか、象山先生は異人大嫌いの孝明天皇を中心とする朝廷に、開国を説くのは自分しか出来ないと自負しておりますが・・・。
どう考えたって、簡単なことではありません。
しかし簡単でない分、朝廷が仮にこの時点で開国を受け容れててたら、後の歴史の様相は大きく変わっていたでしょうね。

会津では、時尾さんが照姫様の祐筆としてお城に上がる日が刻一刻と近付いており、残された時間を惜しむように過ごす八重さんと時尾さん。
ですが、こういう状況に於かれたからこそ、今まで封じていた言葉も出てくるものでして。
時尾さんは、男の子と争ったり、鉄砲撃ったり、そんな八重さんをはらはら見ていた一方で、羨ましくも思っていたと言います。
「女性の規範」の中でかっつり生きている時尾さんには、人に何を言われてもやりたいことをやる八重さんが、眩しく映っていたのでしょう。
そしてここでちょっと吃驚したのが、大蔵さんもそんな八重さんをいつも見ていたというのを、八重さんに伝えたこと。
大蔵さんの気持ちに全く気付いていない八重さんに言っていいのだろうか・・・ともちょっと思いました。
いえ、言って悪いわけではないのですが、気持ちに気付いてないと「何でここで大蔵様が出てくるの?」と八重さんの場合なるんじゃないかなと。

時尾さんに何かあったら、いづでもお城さ飛んでいぐがら
鉄砲担いで?
うん。友達だもの

時尾さん、このとき18歳、数えで19歳。
八重さん、このとき18歳、数えで20歳。
4年後にはこの言葉が現実となる日が来るだ何て、思わなかったでしょうね。

その4年後の出来事の原因を作る人こと桂さんは、このとき「逃げの小五郎」の名に恥じぬ逃げっぷりを披露してました。
このとき30歳、数えで32歳。
何とか新選組の斎藤さんから逃げ切って、長州藩邸に駆け込みます。
斎藤さんが「長州藩邸か」とつぶやいたきり、踏み込まなかったのは、長州に限らず藩邸というのはいわゆる治外法権を持っており、 幕府と雖も踏み込むことは出来ない領域だったからです。
如何に新選組が不逞浪士の捕縛と取締りの権利を有しているとはいえ、それは上の会津から与えられた権利ですので、藩邸の持つ治外法権を侵せるものではなかったのです。
故に、藩邸に逃げ込まれたら手も足も出ないんですね。
逆に浪士達は、死にもぐるいで走って、藩邸にさえ入ればセーフなわけです。
都はそんな情況なので、政変後も相変わらず不穏な空気が拭えません。
そんな状況下で二条城に集まったのは慶喜さんと、容保様と、容保様の実弟で桑名藩主の松平定敬さん。
慶喜さんは将軍後見職という立場にあったと皆様記憶されていると思いますが(そのことでブチブチ言ってましたし)、3月25日(1864年4月30日)に朝廷からの沙汰でそれを解任、別に禁裏御守衛総督と摂海防御指揮に任命されていました。
まあ、この過程で朝廷・慶喜さん・幕閣の間で色々あって、見ていると慶喜さん相当幕閣の方々怒らせたんじゃないのかなとも感じますが、この話は今は関係ないので割愛。

桑名公は会津殿の実の弟だそうじゃの
はっ、同じ美濃の高須家の生まれに御座います
良い方が所司代となった。兄を援け、お役目に励まれよ

容保様と生家の美濃高須家については、以前の記事でも少し触れましたが、容保様が七男、定敬さんが八男です。
慶勝さん、茂徳さんと併せて「高須四兄弟」ですね。
定敬さんは弘化3年12月2日(1847年1月18日)のお生まれですので、このとき16歳、数えで18歳。
慶喜さんの言葉に所司代となった、とあるように、4月11日(1864年5月16日)に定敬さんは京都所司代に命ぜられています。
定敬さんを京都所司代に任命したのは、以前より守護職辞任を願い出る容保様の外堀を埋めるための手段だったように思えます。
以前の記事で、春嶽さんが京都守護職に任じられたこと、会津がずっと京都守護職をやっていたわけではないこと、しかし結局京都守護職は会津にブーメランな感じで戻ってくること、などを触れました。
そのブーメランが、戻ってきたのが正にこの頃です。
実は3月13日(1864年4月18日)、春嶽さんが京都守護職を辞任して帰国、再び容保様に京都守護職復職の可能性が出てくる事態になりました。
容保様を始め、藩士一同は守護職辞任に奔走します。
容保様のお体の具合が優れなかったのも事実で、それを主な理由にしていたのですが、幕府側は4月7日(1864年5月12日)に容保様京都守護職復職の幕命を下します。
会津はそれでも辞任運動を続けますが、容保様のお体の具合が優れないのを口実にしていたのを揚げ足のように取られ、「病が癒えてから出勤するように」と非情にも命じます。
病の原因は精神的なストレスな可能性が大なので、それだと一生癒えないと思うのですが・・・と、幕府も人がいないのが分かりますが、ブーメランを食らった会津が不憫すぎます。

養生しながらでも勤められるが良い。何しろ、貴公は帝のご信任が殊の外篤い
身に過ぎたお言葉
辞められては余も困る。会津の力添えがなくては、都はとても治めきれぬ

こういう背景事情のやり取りあっての、慶喜さんと容保様のこのやり取りかと。
しかしどうも・・・私は慶喜さんの言葉の裏を読んでしまいます。
「共に命を捨てる覚悟で」とか白々しく聞こえてしまって・・・(苦笑)。
容保様の例の漢詩をご存知の方なら、今後も私と同じ反応を以って慶喜さんを見て行くことになるのでしょうね。
ともあれここに、一会桑(=一橋・会津・桑名)が集結します。
会津が中心のドラマですので、一会桑にも大きくスポットが当たるのでしょうか、楽しみです。

さて、象山先生は中川宮に世界地図などを見せて、攘夷が如何に無謀かを説いたそうです。
5月3日(1864年6月6日)のときのことですかね? ちょっと分かりませんが。
中川宮は、象山先生の話から得心が行ったらしく、このままいけば攘夷の督促もやむだろうと。

だがその程度では足りぬ。全てを覆し、新しい流れを作らねば。帝より、開国こそが国是であると、朝廷から天下に号令して頂くのだ

しかし、出来るのか、という覚馬さんと広沢さんに、やるのだ、と象山先生。
やらなければいずれメリケンの二の舞になり、国を二分する内乱が起こると。
で、ここからが象山先生の本題です。
朝廷が開国の号令を出すとなれば、勿論黙っていないのが攘夷派や急進派です。
彼らは開国の勅旨を阻むために、御所を襲う無茶すらするかもしれないという象山先生は、帝を守るために会津の力を借りたいのだと言います。

御所の守備を固めよと?
いや、しばらくの間、帝には都を留守にして頂くのだ

吃驚仰天なこの発案の内容は少し後に触れるとして、覚馬さんにそれを託した象山先生は洋学所を立ち去ります。
その際、象山先生の恰好が派手なので、目立って、目を付けられやすくて危ないのではと案じる覚馬さん。

折にあえば散るもめでたし山桜、よ。花はふさわしき時が来れば堂々と散る。命を惜しんで地味な装いをしたんでは、我が信条に反するわ

凄くカッコ良い台詞にも聞こえますが、象山先生の辞世は、「折にあえば散るもめでたし山桜めづるは花の盛りのみかは」です。
ああ、もう何なんだろうこの伏線・・・と思いながら、都路に乗った象山先生の後姿を見送る私でした。
それはさておき、象山先生による吃驚仰天発案を、覚馬さんは平馬さんの家にて話します。
列席するのは覚馬さん、広沢さん、それに平馬さんと大蔵さん。
その内容は、帝を彦根城に移す、ということでした。

都は不穏すぎやす。それに、御所は城と違って戦をするようには出来てねぇ
大軍で攻められたら、守りようがありませんね
この際、御所を城構えに作り変えることも考えた方が良いかもしれねぇ
なるほど、彦根遷座とは奇策のようだが、ながながの妙案ですね。私から上の方々に諮ってみましょう

確かに妙案は妙案ですが、恰好より白馬で洛中乗り回していることより、それを発した象山先生自信が危ないということは見落とされているのでしょうか・・・。
この計画、現時点で言えば象山先生がばっさりやられてしまうと、全て水泡に帰すわけですよね。
妙案に目が向いて、皆様そっちには目が行ってないような気もしましたが、そんなところへ丸髷を結った二葉さんが善を運んできました。
うちの妹とは大違いという覚馬さんに、八重さんの縁談は決まったかと尋ねた二葉さんの言葉にばっちり反応してしまう大蔵さんが何とも(笑)。
あなた、奥さん娶ったでしょうが!と見ていて突っ込み飛びましたよ。
二葉さんは二葉さんで、平馬さんに祇園祭の山鉾を観に行こうと誘われて、何を着て行こうかといつもはお固目な表情を綻ばせてますし・・・何だか、先程まで政治の話をしていたとは思えぬ、打って変った雰囲気ですね。
そんな場の中で、覚馬さんが八重さんもそろそろ・・・と思っていた頃、丁度会津では八重さんのところに縁談が来ていました。
が、破談になってまして・・・でも、このあんつぁまなら「それでも良い」って笑い飛ばしそうな気もしますけどね。

その縁談が立ち消えた八重さん。
とはいっても、先方は昨年、病で奥さんを亡くされた方のようで・・・つまり八重さんは後添えにと望まれていたわけなので・・・とは思いますが、先程も触れたように八重さんは数えで20。
当時の時代感覚で言いますと、確かにそろそろ嫁さねば行かず後家になってしまいますね。
けれどもあんまり本人気にしてないのか、尚之助さんと新式銃の改良に熱中する日々を送っているようです。

仕掛けはほぼ出来上がりました。これならゲベールの3倍は早く撃てる。後は精度を上げて数を多く作ることですが・・・それには藩の後押しがいります
きっと認めでいただげます。洋式銃が優れでいるごどは、今では子供でも知ってるんですから
ええ。ただ、私から願い出ることは出来ぬので・・・。仕官などどうでも良いと思ってきました
でもそれは覚馬さんがいればこそで

子供でも、というのは、前回の悌次郎さんや盛之輔さんのことを言ってるのでしょうね。
いえ、しかし彼らは既成概念にまだ染まり切ってないから純粋にそう思えてるだけだと思うんですけどね。
既成概念(=藩風)にがっつり染まってしまっている大人たち相手に、新式銃の良さが何処まで浸透するかとなれば、やはり難しいものがあると思います。
加えて手痛いのが、尚之助さんが相変わらず藩士として取り立てて貰えないこと。
つまり尚之助さんの身分は未だに出石脱藩浪士に過ぎず、浪人に過ぎず、故に会津に何かを言える立場では到底ないのですね。
おそらくこの銃の件については、覚馬さんがいない以上、権八さんを通じて藩上層部に掛け合うことになるのでしょう。

せめて私が撃ぢ方をご披露出来れば良いのですが・・・

八重さんはそう言いますが、尚之助さんが会津藩士になるために、単純明快な上策があるのですよね。
それを覚馬さんが都から言ってくるのは、もう少し後の話でしょうか。

元治元年6月5日(1864年7月8日)。
京都河原町四条上ル東にある薪炭商枡屋の表戸を叩き、何やら騒がしい声がします。
主人が開けると、そこには新選組の姿が。

朝はようから、何の騒ぎですやろ
京都守護職お抱え新選組、御用改めである

そう高らかに宣言して、局長の近藤勇さんが店に押し入り、隊士らもそれに続きます。
店内を調べていると、斎藤さんが鉄砲の入った長持を見つけます。
武器商なら鉄砲の入った長持が置いてあっても不自然ではありませんが、薪炭商にあったら明らかにこれはおかしいですよね。

枡屋喜右衛門、古高俊太郎、屯所まで同道願う

土方さんはそう言って、枡屋喜右衛門と名前を偽っていた、古高俊太郎さんを壬生の屯所に連行し、前川邸の東蔵にて二階から吊るし、拷問にかけます。
それでも口を割らない古高さんに、最後は足の裏に五寸釘が打ち込まれ、蝋燭が垂らされるのですが、しかしそれでも自分が古高俊太郎であるという名前以外は口を割りません。
では後程会津藩にも報告が行ったあれは、一体何処から出たのかと言いますと、枡屋から押収した書付や武器弾薬から発覚したのです。
事の次第はすぐさま黒谷にも伝えられます。
浪士達の狙いは、烈風を恃んで御所に放火し、中川宮と容保様が急いで参内するところを襲撃するという計画しでした。
これに「帝を長州に連れ去る」という一文が加えられているのをよくお見かけしますが、帝を長州に連れ去る計画はこれよりずっと以前から巷間で流れていたものです。
この頃、朝に新選組が踏み込んだ古高さんの屋敷の見張りが破られ、何者かが武器弾薬を奪取しました。
浪士達の計画の内容が明らかになった今、それは行動を起こすための前触れではないかと会津は危ぶみますが、でもそのためには今後のことを決めるために何処かに集まっての話し合いが欠かせません。
且つ、彼らは古高さん奪還も目論んでましたので、その話し合いも必要です。
出動して、上手くいけば不逞浪士を一掃出来るいい機会ですが、肝心の場所が分かりません。

こごはまず、一橋様と京都所司代に知らせて兵を集め、一斉に捕り物にかがるべきがど存じまする
そげな悠長なことしてて、取り逃がしたらどうする
手勢を増やし、取り囲んで穏便に捕縛するのが得策にごぜいます。斬り合いどなれば浪士どもが捨て身となり、それこそ町に火を放つやもしれませぬ

容保様は悌次郎さんのその進言に従うことにし、新選組には祗園会所から共に出動するように下知するよう命じます。

祇園会所は現在の八坂神社前で、今は往時の影はなく、コンビニエンスストアが建っています。
新選組は壬生の屯所から、祇園宵宮の人混みに紛れ、3~5人のバラバラでここに集合しました。
よく新選組はこのとき病人が多くて、出動可能隊士数が30名ほどしかいませんでした。
そして近藤組と土方組の二組に分かれて御用改めを行った、とも言われていますが、これもちょっと誤りで、実際は四条方面近藤組十名、祇園方面に土方組十二名と井上組の十二名に分けての捜査でした。
当たりの池田屋を引いたのは近藤隊ですね。
この近藤隊には局長の近藤勇さんを始め、沖田総司さん、永倉新八さん、藤堂平助さん、までははっきりと分かっていますが、実は残りの顔ぶれが誰だったのかは未だはっきりとは分かっていません。
近藤隊が池田屋に到着したのは夜四ツ(22時頃)でした。
ドラマでは最初から池田屋に一直線しているようにも見えましたが、実際は祇園会所から四条方面を、ローラー作戦は流石にしてないでしょうが、不逞浪士の良く使う場所などは把握してたでしょうので、その目星を付けた場所を回って行って、たまたま池田屋に辿り着いた、というのが本当のところです。
(前略)午後七時頃当初茶屋中ヲ調ルイエトモ壱人モヲラズ皆逃去リ夫より川端タ三条小橋北側ニテ池田屋ト申旅籠屋アリ、右ノ内ニ長州人居ル趣(後略)(木村幸比古『新選組戦場日記』、1996、PH研究所)

池田屋に実際に踏み込んだ永倉さんの以上の回想からも、それが伺えます。
通ったルートは以下の地図のこの色の線です。


会津藩お預かり、新選組である!

そういって近藤さんが池田屋に踏み込んでいくのは、もう池田屋事件が描かれる時の定番ですね。
階段落ち(今回は階段ダイブ?)も鉄板の定番です。
ただ色々と突っ込ませて頂くのなら、階段落ちはなかったですし、池田屋の内部も京都の旅籠にしてはあり得ない内部だった気がして・・・。
でもまあドラマですからね、広々とした空間の中での殺陣は良かったと思います。
胴で刃受けたり相手の刀を叩き折ったりしてたのは永倉さんでしょうかね。
相手を押し倒して肘鉄とか食らわせてたのは藤堂さんかな。
近藤さんはまさに獅子奮迅の活躍でしたね。
史実でも、沖田さんは病気で離脱、藤堂さんは額を割られて重傷になっていたので、残った近藤さんと永倉さんが獅子奮迅の活躍を見せました。
二階を担当していた沖田さんは喀血してしまいますが、その傍には宮部さんの姿が。

ぬしたちには、大義が分からんのか。ばかたれが!

そう言って宮部さんは自分を腹を切るわけですが、宮部さんの自刃場所は階段下じゃなかったかな・・・まあいいか。
吉田稔麿さんも分からないままだったな・・・。
乱戦状態になった池田屋に、土方隊が到着して、史実ならここから捕縛に切り替えるはずなのですが、到着するや否や土方さんも斎藤さんもばっさり浪士斬っちゃってます(苦笑)。
会津が池田屋に到着したのは、近藤隊が池田屋に討ち入ってからおそよ一時後(約2時間後)。
このとき既に戦闘は終わってました。
そもそも会津藩が新選組と待ち合わせていたのは夜五ツ(21時頃)だったのですが、実際に諸藩の兵が出動したのは夜四ツ(22時頃)頃でした。
池田屋に到着した覚馬さん達は、その惨状に唖然とします。
表に出ていた、返り血だらけの土方さんには遅延を皮肉られ、取縄の準備でもしておくようにと言われる始末。
でも新選組も新選組でフライングしたのですから、ここで土方さんが「いまご到着ですか」と皮肉るのは何かが違う気がします。
睨み合う大蔵さんと斎藤さんを押しのけて、覚馬さんが池田屋の中に入ると、文字通りそこは血の海。
屍の中に、面識のあった宮部さんを見つけ、新選組の戦いぶりに苦言を呈する覚馬さん。

にしら、何故勝手な真似を。誰が斬れど命じだ!
我らも命がけで御座る。お手前らのように悠然と構えていては、敵に逃げられる

これについては全面的に土方さんの言い分が正しいような気がします。
土方さんからすれば、汚れ仕事を新選組にやらせておいて、誰が斬れと言ったんだと言われても・・・という心境でしょう。
それに人数差が、新選組側が圧倒的に勝ってたら捕縛出来たでしょうが、実質最初に池田屋に踏み込んだの5人以下ですから斬らなきゃ自分が死にます。
でも人数が揃わなかったのは、新選組がフライングしたからでしょう?という反論の声もあるかもしれませんが、新選組がフライングしたから近藤隊はまだ池田屋に浪士がいる間に池田屋に踏み込めたわけでして、悠長に会津待ってたらそれこそ浪士を取り逃がしてたかもしれない。
取り逃がしてたら計画が実行されて、極論になりますが容保様のお命すら狙われることになっていた。
だから後々で会津は新選組に、フライングの件は不問にして池田屋の報奨金を下賜したのでしょう。
という背景から考えたら、面識ある人間が斬られた覚馬さんが新選組に激昂するのは筋が通りますし新鮮な描写ではありましたが、その他の皆様が新選組の行為を詰るような視線をするのは(屍の中に知り合いがいたのなら別ですが)何かかなり不自然な図に見えました。
しかし新選組側でも気になるのが、新選組の皆様の、会津への礼儀。
近藤さんすら一瞥もせずに素通りって、ちょっと無礼にもほどがあり過ぎるのではないかい、と見ていて苦笑を禁じえません。
色々書いてますが、まあ大河ドラマと雖もドラマですので一から十まで必ずしも史実にぴったりそってなくて良いとは思いますし、最新の研究を取り入れる必要もないとは思いますが、それでも大河ドラマだから、という部分はあるのではないかと。
まあ、その話をここでしても詮無きことですね。

この池田屋事件は、新選組の名を一気に世に知らしめたと同時に、色んなところに波紋を呼びました。

愚かなことをしたものだ、お主らは火薬蔵に火を点けたのだぞ。長州は今に牙を剥いて襲ってくる

象山先生はそう言います。
象山先生に及ぶ波紋を言えば、宮部さんの仇として河上彦斎さんが入京し、その彦斎さんに象山先生は・・・ということになります。
池田屋が起こった今、会津の人間を連れていては却って狙われるという象山先生は、勝さんが贈ってくれたという六連発銃を見せ、これがあるから問題ないと言います。
六連発銃といえば、高杉さんが龍馬さんに贈ったS&W セカンド・モデルが有名ですが、これもそれでしょうかね。
一方で会津にも、池田屋事件のことはすぐに知らされました。

新選組はやりすぎる。これで会津は仇持ぢになった・・・
寄せ集めの浪士ごときに先んじられるどは、情げねぇ

何だか西郷さんと官兵衛さんの会話が微妙に噛み合ってない気がするのは気のせいかなと思いましたが、西郷さんもなんとなく「あ、噛み合ってないな」と気付いたような表情をしておられましたね。
でもそれを口に出さない辺り、蟄居中とはいえ流石はご家老です。
だけでなく、身を揉む官兵衛さんの心中も酌みつつ、今国許にいる自分が出来る最大限のことをします。

官兵衛、にし、都に行げ。横山様に代わって、神保内蔵助殿が京詰めどなる。官兵衛を都に呼び寄せて頂けるようわしが直々に内蔵助殿に願い出る

そして、一緒に藩士の次男三男の中から腕に覚えのあるものを選んで都に連れて行けと言います。
別選組のことですね。
ここまで来たら、兵力を増やすことでしか会津を守れない、というのが西郷さんの判断です。
在国兵力とか、国から男の姿が消えるとか、そういった問題が後々で生じてきますが、この時点の西郷さんにとっては、まずそれよりも都での会津を守らねばという一心だったのでしょうね。
本心には、これ以上の泥沼にはまる前に一日でも早く京都守護職を辞めて欲しい、というのがあったでしょうが。

けれども官兵衛さんが新たな兵力を率いて上洛するよりも早く、事態は進行していました。

いよいよ雪辱を果たすときです
今度は会津が都を追われる番だ

そう瞳を滾らせているのは甲冑を身に付けた久坂さんと真木さん。
おふたりがいるのは山崎の天王山です。
他にも嵯峨には来島又兵衛さんが陣を敷いてます。
更に長州藩家老の福原元僴さん、通称越後さんが1000の兵を率いて伏見の長州藩邸に入り、朝廷に入京を嘆願しました。
二条城でも在京諸侯が集められ、即座に評議が開かれます。

家老の福原越後を呼び出し問い質したところ藩主親子の罪一等が減じられれば兵たちも得心して退くと申すのだが
それでは後手に回りまする。叡慮に反する振る舞い、武力にて一掃すべきと存じます
守護職は、都で戦をするつもりか
伏見、山崎、あるいは街道にて食い止めまする
万が一ということもある。貴公、殊更に武力討伐を言い立てるは、長州の恨みを恐れるあまりか?池田屋では会津配下の者どもが要らざる斬り合いをした。長州が押し上ってきたのは、その恨みを晴らすためとも思えるが

慶喜さんの言葉にあるように、池田屋事件が起こったから長州がやって来た、とよく誤解されがちなのですが、実は長州が兵を率いて上京することは、既に池田屋事件が起こった6月5日より以前に決定していたという説もあります。
一般的な捉えられ方として、池田屋事件が起こったから長州が兵を寄せて来て禁門の変が起こったと理解されていますが、その説が本当ならば、池田屋事件と禁門の変の関係も大きく変わってきますね。
それはさておき、諸大名の前で容保様への罵倒が止まらない慶喜さん。
定敬さんが「それは、あまりに」と言いますが、そんなものでは慶喜さんは止まりません。
挙句の果てには会津の戦には付き合えないと退室する始末。
ほんの少し前までは「命を捨てで共に都を守ろう」と言ってたのと同じ口で、よくもまあまあ、あの変わり身の早さは正しく慶喜さんだなと、皮肉をたっぷり込めて思わず感心してしまいましたよ。

我らは、会津のために働いて来たのではないのじゃ
はい。すべては、都を守護するためにごぜいます
このこと、主上だけは、お分かり下さるはず・・・

黒谷から戻った容保様は、修理さんに切実な心中をこぼします。
この容保様を見ているのが、修理さんだけというのもまた意味深いような気がしました。
自分の忠は帝だけは分かって下さるはず、という容保様を、後の修理さんも、自分の忠は殿だけが分かって下さると思いながら自刃したのかな、と。
そこに重ねてくのかなと、変に深読みをしてしまいました。

さて、ここで一弾となって容保様を支えてきた在京会津藩士の間で、亀裂が生じます。
その亀裂が生じて、悌次郎さんは公用方を外され、国許へ返されることになります。
それを聞いて覚馬さんは驚きを隠せません。

お待ぢ下さい。秋月さんがいなぐなったら、都はなじょなんです。他藩との繋ぎは?長州の動ぎの探索は?

悌次郎さんの持つ他藩とのパイプについては、以前の記事で既に触れましたが、悌次郎さんがいなくなるということはそれがごそっと会津から抜け落ちることにほかなりません。
外交的に大ダメージですよね。
ドラマでは、池田屋事件の責任を取らされて、という形になってましたが、実際悌次郎さんが左遷された理由はよく分かってませんが、上の妬みを受けたとみてまず間違いないです。
悌次郎さんはこの後、更に蝦夷地まで飛ばされます。
再び京に戻ってくるのは約2年9か月後になります。
この悌次郎さん空白期間が、後で振り返れば会津にとって痛いことになります。

厳しい現実は会津の尚之助さんにも降りかかってました。
改良を重ねた新式銃が、ろくに評議もされずにお取り下げになったことにあれだけ平生穏やかな尚之助さんが苛立ちを露わにします。

三倍の早さで撃つことが出来れば、兵が三倍いるのと同じだ。こんな容易い算術が、何故分からんのだ

自棄になって銃を撃ち続ける尚之助さんに、銃身が熱くなってもう危ないから辞めろと八重さんが止めます。

あんつぁまも同じでした。何を言っても聞いて頂けず、禁則のご処分も受げやした。会津は頑固で、たやすぐは動かねぇげんじょ、諦めではなりませぬ。認めでいだだげるまで、何度でも何度でも、作り直すべ。私が・・・私がずっと、お手伝い致しやす

八重さん、必死にになって言ってるので多分無意識なんでしょうが、プロポーズめいたこと言ってますよね。
いえ、本人に自覚はないのでしょうが。
しかし、会津が頑固だと八重さんに教えてくれたのは尚之助さんでしたが、今度はその八重さんに尚之助さんが教え返したのですね。

元治元年6月14日(1864年7月17日)、函館の外国人居留地に、数年前は新選組におられたと記憶しているお方の影が(笑)。
いつかの七五三太少年ですね。
今ではもう21歳、数えで22歳の立派な成年になっています。
その七五三太さんが、夜陰に紛れてこそこそ何をしているのかと言いますと、密航です。
確か、龍馬さんの従兄弟がこれに協力してくれたかと。
米船ベルリン号に乗り込んだ七五三太さんは、船底に隠れる前にもう一度だけ函館の陸地を振り返ります。

さらば、日本。・・・窮屈な私の国

彼が再び日本の土を踏むのは10年後の話です。
やっぱりアメリカ時代のこととかもちょくちょく触れられたりするのでしょうかね。
日本人初の学士の学位取得とか、その辺りも興味深いのですが。

ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年3月8日金曜日

第9回「八月の動乱」

偽勅の件が明らかになり、孝明天皇の会津への信頼が一層篤くなった前回の回想から始まりました、第9回。
孝明天皇は近々大和行幸されるご予定みたいですが、会津の武を頼もしく思った帝は、会津にもそれに付いて来て貰ってはどうかと実美さんに言います。
しかし実美さんは、会津がいなくなっては都を守る者がいなくなる、とこの意見を却下。
孝明天皇の言うことやることを片っ端からばっさばっさと切り捨てて行くこの実美さんが、今週の見どころ(?)です。

秋月さんがおられるのは多分公用方の宿舎として使われていた三本木にある三本木屋敷ですね。
三本木は東に鴨川、西に河原町通りを隔てたところにありました。
最初は戸数45軒の、店と仕舞屋や並んでいたのですが、会津はその仕舞屋の何軒かを借り受けていたのです。
エリアとしては下記の地図のAのあたりでしょうか。

大きな地図で見る
そこを訪ねた覚馬さんが、洋学所を作ることを悌次郎さんに打ち明けます。
それは良いと、秋月さんもその案に賛成の様子です。
洋学を志す者は誰でも受け入れるつもりという覚馬さんに、それでは上がまた反発するのでは、と危ぶむ悌次郎さん。

会津だけが利口になっても、世の中は変わらねぇ。誰もが学び、世界を見る目を養ってこそ、十年後、百年後、この国はもっと良ぐなる

この間勝さんに言われた言葉が、覚馬さんの中でまた新しいものを喚起させたのですね。
象山先生の時と言い、第1回から見るに受動して能動的になる、という感じが覚馬さんですが、覚馬さんの生涯を見つめると後にこれが自発的一本になっていく風に思えるのですよね。
その辺りの変化も、今後見て行きたいなと思います。
さて、そんなとき、悌次郎さんにお客様です。
こんなんお持ちしやした、と町屋の女房が差し出した紙には、「薩摩藩高崎佐太郎」の字が。
これはいわゆる名刺です。
名刺を日本人が用いるようになったのは開国以降ですが、史実でもこのとき高崎さんは悌次郎さんを訪ね、名刺を差し出しました。
このネタ拾うとは流石、今回も脚本が冴え渡ってます。
ちなみに高崎さんが悌次郎さんを訪ねて来たのは、文久3年8月13日(1863年9月25日)のことです。

某、密命を帯びて参りました

ぬっと現れた高崎さんの発した言葉は、何やら尋常ではない事情を含んでいる様子。
刀を右に置いていたので、すぐに敵意や害意がないことは分かるのですけどね。
このふたりの接点が、幕末史に名を残す政変の波紋の始まりとなります。
ちなみに悌次郎さんと高崎さんは初対面ですが、悌次郎さんは昌平坂学問所留学時代に重野厚之丞さんや大山正阿弥さんといった薩摩藩士と知り合いになってるので、薩摩と付き合いがあったんです。
その後諸国回ってるから、会津藩士で一番諸藩に人脈持っているのはこの悌次郎さんですよ。
公用方として超優秀ですね。
だからこそ、高崎さんも訪ねてきたのでしょう。

一方会津の山本家では、照姫様の会津入りの話でもちきりでした。
美しくて歌も茶も書も良くなさる、まだ会わぬ照姫様を、かぐや姫みたいとユキさんが目を輝かせます。
美しくて、は分かりますけど・・・かぐや姫?とちょっとこの譬えは微妙だなと感じました(笑)。
その照姫様の会津入りに際して、もしかしたら誰かが奉公に上がるかもしれないという話に盛り上がる女性陣。
時尾さんに至っては、前回の失恋をかなり引きずっているようで、お城に上がれば嫁に行かなくても生きていけるとまでいう始末。
早く斎藤さんと時尾さん、出会わないかな~とやきもきしていると、角場で何やら銃声が。
行ってみると、三郎さんが時尾さんの弟、盛之輔さんと、藩の儒学者、伊藤佐太夫さんの次男、伊藤悌次郎さん。
ふたりとも安政元年(1854年)のお生まれですので、このとき9歳、数えで10歳。
悌次郎さんは後の白虎隊のひとりですね。
その幼い少年たちに、三郎さんが鉄砲の撃ち方を教えていたようです。
しかし目を離した隙に盛之輔さんが銃に触れようとして、八重さんの叱責が飛びます。
子ども扱いされたのだと思った悌次郎さんは、自分たちは日新館に通っているし、もう子供ではないと言いますが、学ぶには順序というものがあると八重さん。
確かに銃の扱い方も知らないまま、いきなり銃を構えたら危ないですよね。
ということで、三郎さんに代わって八重さんが火縄銃とゲベール銃の違いなどを教授。
真剣な目をして聞き入るふたりの少年に八重さんはどうして鉄砲を覚えたいのか尋ねます。

鉄砲が一番強えがらです。鉄砲や西洋式の調練やんねど、他藩に後れを取りやす
良いお心掛けだなし。世の中は動いでいやす。これがらは鉄砲の時代だなし

既成概念がまだ身に沁みついてない分、幼い彼らは鉄砲を受け入れやすいのでしょうかね。
良い兆候だと思います。
ところで八重さんが、この悌次郎さんの前髪を鉄砲の狙いをつけるのに邪魔だからとあちらの両親に断りも入れずに切ってしまうエピソードは、触れられるのでしょうか。


場面は再び都。
高崎さんは悌次郎さんに、驚愕の事実を伝えました。

行幸は帝のご本意ではなく、畏れ多いことながら三条実美らがご叡慮を歪めて決したことに御座いまする

補足説明させて頂きますと、実美さんたちは孝明天皇を神武天皇陵と春日大社に連れて行って、伊勢神宮にもお出で頂くという計画を立ててました。
詔勅の内容は、「為今度攘夷御祈願大和国行幸神武帝山稜春日社等御拝暫御逗留御親征軍議被為在其上神宮行幸事(訳:こたび攘夷御祈願の為、孝明天皇には大和国へ行幸、神武帝山陵・春日社等に参られて、しばらく御逗留御親征の軍議あらせられ、そのうえ伊勢神宮行幸の事)」というもの。
孝明天皇はこれより少し前に石清水八幡宮などへ行幸されてますので、行幸自体はそれほど騒ぐことでもありません。
だから孝明天皇も、冒頭で容保様に「同行してもらえないかな?」的な気分だったのです。
しかしそんな孝明天皇とは裏腹に、実美さん達にとって今回の行幸と、石清水八幡宮への行幸は性質が全く異なってます。
石清水八幡宮への方は、攘夷の成功を祈願=征夷大将軍(家茂さん)がちゃんと攘夷出来ますように、というものだったのに対して、今回は祈願の上で親征の軍議を練るというものがくっついてました。
親征というのは帝が自ら軍を率いて戦に赴くことです。
ということは、今回の祈願はその親征の戦勝祈願のような性質にもなってくるのですね。
その帝が軍を率いて一体何をするのかと言えば、語るまでもなく幕府討伐です。
つまりまとめますと、帝が自ら軍を率いて幕府討伐に乗り出すための戦勝祈願の行幸であり、親征であるということです。
多少語弊のある表現をすれば、孝明天皇は大和行幸は遠足だと思っていました。
しかし帝が遠足だと思って出かけた隙に、都を焼いて御所に戻れなくし、そのまま身柄を関東へ送還して討伐挙兵の渦中に放り込み、旗頭にしよう、というのが実美さん達の計画。
遠足は遠足でも、裏では戦要素満載の遠足だった、ということでしょうか。
もしそれを孝明天皇が知っていたのなら、「会津に大和行幸付いて来て貰おうよ」何て発言は冒頭では出なかったはず。
あるいは、あの発言を退けられたことから、大和行幸は何かあるな、とお思いになられたかもしれません。
個人的に、ですが、急進派には急進派なりの言い分があるでしょうが、どうも見てる限り彼らにとっては帝はただの旗印でありアイコンであり、それ以上でもそれ以下でもないでしょ?と感じてしまう節があります。
悌次郎さんから、長州派は箱根にて幕府討伐の兵を挙げるのでは、と聞いた容保様は、驚きを隠せません。
同時に、それは帝の望まれることではないと言います。
当たり前です、前回を通じてあれだけ自分に信頼を寄せてくれた孝明天皇が、容保様に何も言わずにそんなことをするはずはありません。
偽勅の時と同様、これは孝明天皇の意に添わぬ行幸で、実美さん達がまたも企てたものです。

長州派の企みにごぜいます。この上は兵力を以って君側の奸を一掃する他御座いませぬ
都で戦をするというのか
戦にならぬよう会津と薩摩が手を組み、武力を以って圧倒するのです
手を組むといっても、在京の薩摩兵は僅か三百しかおらぬが・・・

前置きが非常に長くなりましたが、要は会津と薩摩で手を結びませんか、というのが高崎さんが悌次郎さんの元へやってきた、最大の理由です。
しかし朔平門外の変のこともあって、薩摩が信用ならないと会津側が思うのも無理からぬ話。
御所から遠ざけられた薩摩の巻き返したための策略ではと警戒して当然です。
加えて悌次郎さんは、話を持ってきた高崎さんとは懇意ではなく初対面だったのですからなおさら。
けれども高崎さんと悌次郎さんの密談の席に同座していた覚馬さんは、全てが信用ならないわけでもないのでは、と言います。

中川宮様に御助力を賜りたいど申しておりやした。既にご内諾を得ているものがど

中川宮は先代天皇(孝明天皇のお父さん、仁孝天皇)の養子になってますので、孝明天皇とは系図でいえば義理の兄弟ですね。
後の明治天皇のことも任されてるほどに孝明天皇から深く信頼されていた人物です。
ちなみに今上天皇のお母様は中川宮のお孫さんなので、つまり今上天皇は中川宮のひ孫に当たります。
現在の皇學館大学の創始者でもあります。
中川宮の名前を聞いて、少し考えた容保様は悌次郎さんに高崎さんと共に中川宮を訪ね、長州を除く勅旨を賜るよう命じます。

薩摩ど手を無ずぶのですか?
ひとつ間違えば、我らが朝敵となりまするぞ!
会津は都を守るのが役目。この暴挙、見過ごしには出来ぬ。秋月、行け

会津が薩摩と連携する、すなわち有名な会薩同盟ですね。
薩会同盟という方もおられますが、私はこの同盟の主体は会津だと思ってますので、会薩同盟の呼び方で通させて頂きます。
都で大事が起こるかもしれないとなれば、必要なのは兵力です。
鉄砲隊の働きを頼りにしている、と容保様から言われた覚馬さん、物凄く嬉しそうでしたね。
それから容保様は土佐さんへ、京詰めの新兵が来ているかどうか確認。
京都守護職は1000人の藩兵を時期ごとに交替させ、入れ替わった1000人は、帰国がかなうというシステムでした。
勿論、例外で都にとどめ置かれる藩士もいますけどね。
丁度この頃がその入れ替わりの時期で、いま京都に会津兵は1000人いることになります。
交代した1000人は二日前に国許に向け出立したとのことで、容保様は彼らを呼び戻し、合計2000の兵を以って都を守るように下知を飛ばします。
その日の内に高崎さんと共に中川宮に拝謁した悌次郎さんは、勅旨が下り次第全軍を率いて参内するようにとの指示を受けます。
ここから孝明天皇が長州派を除く勅旨を下されるまで、ドラマではじりじりと待つ覚馬さん達が描写されていましたが、実は色々とありました。
先述した通り、高崎さんが悌次郎さんに会いに来たのは13日。
実は孝明天皇は、翌14日まで神事のため手が離せない状態でした。
何より、孝明天皇に話を持っていく中川宮は、誰にも見られず且つ悟られずに帝に拝謁しなきゃいけないという難易度の高いミッションが課せられているのですよ。
でないと、人から人の口を経てすぐに密議が外部に露見してしまいますから。
そういうこともあって、孝明天皇と中川宮の都合がなかなか合わず・・・。
それがクリアしたと思えば、今度は孝明天皇の腰が重いのです。
容保様への信頼は厚いし、目に余る三条さん達の動きには辟易していたでしょうが、下手に先進派を刺激したら後々で怖いことにならない?という思いがおそらくあったのでしょう、孝明天皇も人の子ですから。
そこで、急進派の公家を脅威と感じるならば、それに対抗し得るだけのものを帝側に構えれば良いと、注目を集めたのが二条斉敬さんです。
藤原北家嫡流の大物公卿で、彼に話を持ちかけたところ、中川宮サイドに付いてくれるとのこと。
そんなこんなで孝明天皇が覚悟を決め、まず帝から皇女に宸翰が下賜されました。
また偽勅ではと警戒されましたが、皇女を使者に立てることが出来るのは天皇だけですので、それが偽勅ではない何よりの証拠でした。
容保様や会津にそれが届いたのは、17日の夜です。
翌18日の深夜、容保様は全軍に長州らに気取られぬよう、粛々と御所へ向かうように命じます。
八月十八日の政変、と呼ばれるものがここから始まるのですが、13日に高崎さんと悌次郎さんが会った時から僅か5日後の出来事ということで、どれだけ急ごしらえだったのかは日数の間隔から察して頂けるかと。
御所へと到着した会津は、蛤御門と堺町御門の守りに、薩摩は乾御門に兵を構えます。
御所の各門の場所などは、環境省が配布している此方の地図を参考にしていただければ分かりやすいかと思います(リンク先でPDFファイル開きます)。
そこへ浅葱色の隊服に袖を通した、壬生浪士組が赤字に白く「誠」と染め抜いた隊旗を掲げてやって来ます。
以前の記事でも触れた、高島屋で発注した隊旗がこれです。
しかし彼らが御所に馳せ参じたのは、もう少し後だった気もするのですが・・・まあ気にしないことにしましょう。
門を押し通る形で壬生浪士組が御所に入った彼らが警備を担当したのは御花畠、正式名称は凝華洞。
建礼門の南に当たります。
お花が咲いてるのではなくて、御所に容保様が参内された時の宿所です。
覚馬さんは大蔵さんと一緒に、堺町御門の守りにつきます。
やがて公家や、容保様を始めとする在京の諸侯が参内します。
ちなみにこの時淀藩藩主の稲葉正邦さんが容保様に同行しているはずです。
牧野忠恭さんが京都所司代を辞任したので、彼が新たに所司代に就いていたのです。
まるで御所には会津と薩摩しかいないように描かれてますが、そういうわけで淀藩も470人の兵を引き連れて御所におりますので、忘れないでいてあげて下さい(笑)。
さて、異変に気付いた長州は、河原町にあった長州藩邸から御所へ押し寄せます。
位置関係は下図の通り。

兵を従えた久坂さんは門を開けるように大音声で叫びますが、覚馬さんが早々に退散するよう返します。
同時に鉄砲隊が構え、両者火花を散らした睨み合いが続きます。
久坂さんは鷹司邸に駆け込み、一戦交えてでも長州の潔白を帝に訴えるべきだと主張する一方で、実美さん達は勅旨に逆らっては逆臣になると、武力行使を押しとどめます。
一方内裏では、誰かが武装して御所に迫ってくるだなんて数百年なかったことですので、忠煕さんを始め公家の皆様は怯えている真っ最中。

向こうの兵は三万もおるそうやないか。僅か二千の会津で、御所が守れるか?
三万などとは流言飛語に御座ります。精鋭二千の会津兵が守護し奉る上は、一兵たりとも門内には入れませぬ

それでもと不安そうな忠煕さんに言い聞かせるように、上座の孝明天皇の次のひと言。

会津に任せよ。御所を守れ。頼むぞ、中将

目頭が、不覚にも熱くなりました。
そんな風にして、内裏の外でも互いに睨み合いながら時間ばかりが過ぎたその日の夕刻、苦渋に顔を歪ませた久坂さんが、全軍に退却を命じます。
最後に覚馬さんを睨んで行く久坂さん・・・禁門の変の時にでも対峙する伏線か何かでしょうかね。
長州派の企てを阻止した会津は、土佐さんが勝鬨をあげ、皆で手を空に突き出して叫びます。
一方、御所を締め出された実美さんを始めとする攘夷派の公家七人(その他、三条西季知さん、四条隆謌さん、東久世通禧さん、壬生基修さん、錦小路頼徳さん、澤宣嘉さん)は長州藩士と共に都を落ちて行きます。
いわゆる七卿落ちですね。
実美さんがとても悔しそうにされてましたが、同情の余地なしと申しますか、偽勅とかするから自業自得だよ、と思ってしまいます。
政変の翌日、容保様は孝明天皇から宸翰と御製を賜ります。
有名な、容保様が生涯竹の筒に入れて大切に持っておられたものですね。
それについては以前の記事で触れさせて頂いてます。
御製は、「たやすからざる世にもののふの忠誠を喜びて詠める」との詞書の後に、「和らくも武き心も相生の松の落ち葉のあらず栄えん」とありました。

会津の忠心が、主上の御心に届いたぞ

容保様を始め、会津藩士一同感激の涙を零します。
その頃壬生浪士組も、「新選組」という名を拝命してました。
新選組、というのは元は会津にあった組織の名前です。 何でも武芸に秀でた若者を集め、お殿様の近辺を護衛する役職だったそうです。
そういえば、よく新選組の字を「新選組」?それとも「新撰組」?と迷われている方をお見かけしますが、結論から言えばどちらでも正しいです。
子母澤寛『新選組始末記』には以下のような記述がみられます。
新選組の「選」の字が、選を用うべきか、撰を用うべきかについては、私はどちらでもいいと解釈した。肝心の近藤さえが、時に選を用い、時に撰を用いている。組の総代として公式に会津候へ差出した書面には撰の字を用いてあるのが多いが、その会津候が組へ賜る諸書状は、大てい選の字が使ってある。この時代の人達はただ音便に当嵌めて、自分の書きやすい便利な字を書いたようなところがある。(子母澤寛、1977『新選組始末記』、中公文庫)
私は新選組、の方の表記を使わせて頂いてます。
何はともあれ、事なきを得た八月十八日の政変ですが、少し補足を。
何の前触れもなくひょっこり出てきた高崎さん、結局素性もほとんど分からぬままでしたし、役者さんのオーラも加わってもしかして大物?薩摩の重鎮?という感じもしましたが、実は何てことない一介の薩摩藩士です。
薩摩からしたら、一介の藩士使って会津が動けば大儲けですが、万が一失敗しても「一介の藩士」に全部なすりつけて詰め腹斬らせるつもりだったんでしょうね。
いやいや、薩摩のことですから捨て駒を捨てるだけに終わらず、それをちゃっかり口実にして、一介の藩士と繋がって都で事を起こそうとした会津を都から追い出すくらいのことはやったかもしれません。
結果的に会津と薩摩の同盟は上手くいったわけですが、ドラマで見えている以上に会津側にとって高崎さんを通じて薩摩と手を結ぶことは、薄氷を踏むようなことだったのですよ、実は。
薪を背負って火を消しに行ったり、薄氷踏んだり・・・と、本当在京中の会津の立場を思うと、こちらの胃が痛みます。

江戸の会津藩上屋敷におられた照姫様が会津にお国入りなされたのは、その年の秋のこと。
私は照姫様が、戊辰戦争直前にお国入りされたのだとばかり思っていたので、お国入りの理由がイマイチ理解出来なかったのですが、色んな方からご教授頂きまして、今は納得出来ております。
その照姫様が手に持っておられるのは、一枚の写真。
写っているのは立烏帽子に白鉢巻姿、孝明天皇から下賜された純緋の衣で仕立てた陣羽織、尻鞘の太刀を佩き、右手に金割り切りの采を持っている容保様。
照姫様はこのとき、「少将の君より写真焼といへるものを送り給へるに、久々にて気近ふ大命給はる心地して、猶平らかに勇ましうわたらせ給ふ御姿に、いとうれしくおはすればかたじけなくて」という長い詞書と共に、「御心のくもらぬいろも明らかにうつすかがみのかげぞただしき」と言う歌を詠まれています。
現在容保様は少将ではなく中将なのですが、うっかり「少将様」と言ってしまうあたり、本当プラトニックと言いますか何と言いますか。
そういえば、写真のことは「ほとがらひー」とは言わずに「写真焼」と呼ぶのですね。
しかし、和歌に秀でた照姫様がせっかく出て来てるので、もっと和歌をピックアップして欲しいなと思います。
それとも未だに去年の清盛アレルギー継続中なのでしょうか?(苦笑)

目覚ましいお働きを重ねるたびに、背負われるお役目が重くなるようにも思われて・・・

なので、少しでもそんな容保様のお力になりたいと思い、照姫様は会津に来られたとのこと。
健気ですね・・・。
そんな照姫様が稽古を見に来られるということで、黒河内道場にはいつもよりも人がたくさんいます。
そんな中、蟄居を命じられている西郷さんの奥さん、千恵さんが現れ道場内の空気は微妙なものになります。
千恵さんは天保6年(1835年)のお生まれですので、このとき28歳、数えで29歳。
ユキさんの母方の伯母に当たります。
微妙な空気をものともせず、ひとり稽古を始める千恵さんに、そばにいた婦人方が言います。

千恵様、今日はご遠慮下さいど、お願いしたはずだげんじょ
頼母様は蟄居の身。お身内も、公の場はご遠慮されんのが筋でごぜいやしょう
夫は、天地に恥じるごどは何ひとつないど申し、私どもにも普段通りに暮らすよう命じでおりやす

大蔵さんのお母様、艶さんが間に入って、気持ちは分かるが収まりがつかないから引いて欲しいと願っても、夫の忠義に偽りはないと千恵さんも引きません。
彼女たちも意地悪を言っているのではなくて、これもまた秩序と規則を重んじるが故でしょうね。
規則や秩序というものは、守られてこそ続いて行くものですので。
やり取りを見ていた八重さんは口を挟みますが、控えるように言われ、時尾さんにも止められます。
そんな時、照姫様がやって来て、その場は一時お預け、皆様それぞれ稽古を始めます。
上座からそれをじっくりとご覧になる照姫様は、まず八重さんに目を留めて名を尋ね、次に千恵さんに視線を移してその心中と立場を慮ります。
稽古がすべて終わった後、照姫様は一同に言います。

都は今、容易ならざる有様です。国許の私達が心をひとつにすることが、殿様始め、都の方々をどれほど力づけることでしょう。会津を思い、殿を思い、己が家を思う気持ちが同じならば、たとえ諍いがあってもそれはひと時のこと。皆、会津のおなごなのですから。優しく、勇ましくありましょうぞ

照姫様のお言葉に、千恵さんの目が潤みます。
後に勃発する会津戦争の時、城に駆け付けた女たちは皆照姫様をを守りたい一心で駆けつけてきたのだと言いますが、この照姫様なら納得出来ます。
蟄居を言い渡された西郷さんにも、会津を心から愛し、会津を案じ、会津を守りたい心があることをちゃんと照姫様は理解して下さってるのですよね。
八重さんが大興奮して、あの方に仕えてみたいと思うのもご尤もなことだと思います。

文久4年2月20日(1864年3月27日) 、元号が文久から元治に改元されます。
飛ばされてしまってますが、文久4年1月15日(1864年2月22日)には、家茂さんが二度目の上洛をしてます。
更に補足として、容保様は文久4年2月11日(1864年3月18日)に京都守護職から軍事総裁職に転出されていて、代わって15日に春嶽さんが京都守護職に任命されてます。
よく誤解されてますが、実はずっと会津が京都守護職やってたわけではないのです。
・・・まあ、また京都守護職は会津にブーメランな感じで戻ってくるのですけどね。
そして3月(この時点では元治元年)、悌次郎さんは摂津の砲台築造工事の指示を負かされ、覚馬さんには洋学所を開いて改革を担う人材を育てるよう、それぞれ容保様から命じられます。
ただ、覚馬さんが気になったのは容保様の体調。
元々容保様は病弱な方で、ドラマではその描写はまだありませんでしたが、史実では江戸におられたころからよく床に就かれています。
そして優れぬのは容保様の体調だけでなく、悌次郎さんと覚馬さんを取り巻く一部の藩士たちからの視線。
先の政変で、長州を追い落としたのは自分たちの手柄だと鼻にかけているのであろうと、やっかみを食らいます。
悌次郎さんは聞き流せと、いきりだつ覚馬さんを制しますが、覚馬さんからすれば同じ藩の中でやっかみ合う小さな人間たちが腹立たしいのでしょうね。
しかし、会津藩もみんながみんな高潔で武士らしくて・・・ではないのだという一面が良く表れてるのではとも思いました。
そしてこのやっかみは、果ては会津にとってためにならないことを引き起こす遠因となるのですが、それはまたその時にお話ししましょう。

蟄居を命じられた西郷さんは、「栖雲亭」と名付けた庵を構えて日々を過ごしておりました。
そこを訪ねてきたのは、同じく蟄居の身である官兵衛さん。
都から、時勢に沿って藩内の改革を進めるようにとの書状が届き、藩士全てに回覧するよう沙汰があったらしいのですが、蟄居中のふたりは蚊帳の外に弾かれている状態でした。
沈む気持ちは隠しきれませんが、西郷さんは千恵さんから聞いた照姫様の「会津を思う心がひとつなら諍いはひと時のこと」の言葉を支えに、備えて待つことを言い聞かせます。
それはそうと、家中の娘たちの中から照姫様のご祐筆が選ばれるそうで、それなら八重さんはどうかとぼやく西郷さん。
心映えが良くて機転が利き、武道の心得もなけれなならぬ、と西郷さんは仰っていましたが、八重さんが該当してるのは「武道の心得」だけのような気がするのですが・・・(笑)。
しかし照姫様が黒河内道場に稽古を見に来られた時、八重さんの名前を訪ねたことから祐筆は八重さんではという噂で城下はもちきり。
八重さん本人も、まんざらではなさそうです。
佐久さんと権八さんも落ち着きなくそわそわ・・・祐筆といえば主人に代わって文を書くなどが主な仕事なのですが、この頃になるとそれに付随する雑用などもするという、まあ言ってしまえば名誉且つ手堅い職ですので、親の身としては当然の反応でしょうか。

いや、期待しすぎではなんねぇ。選ばれながった時にがっくりくんべ

そう権八さんは言ってますが、台詞と態度がまるで逆です。
そんな時、時尾さんお弟の盛之輔さんがやって来て、時尾さんに一大事を告げます。

お城から、お使者がお見えになって・・・姉上が照姫様のご祐筆として、お城に上がるごどどなりやした

選ばれたのは八重さんではなく、時尾さん。
権八さんは固まり、八重さんは泣きそうな顔でそんな両親を見つつ落胆の色を隠しきれません。
いえ、しかしですね。
周りがどれだけ持ち上げ、八重さん祐筆内定の噂が飛び交い、且つドラマの主人公だと言っても、八重さんより時尾さんが選ばれるんだろうなということは、話が出た時点で実は分かるようになってます。
八重さんと時尾さんとでは、髪型が違うのに気付いておられましたでしょうか。
第2回の時点ではふたり仲良く桃割れを結ってましたが、それから八重さんはつぶし島田、時尾さんは簪まできっちり挿していますよね。
(日本髪は時代によって異なりますので、多少の違いはあるかもです)
多分ユキさんと八重さんでも、髪型から察するに家格はユキさんの方が上だと思います。
覚馬さんが抜擢されているのでつい忘れがちなのですが、山本家の家格はあんまり高くないのです。
まあそれはあくまで現実問題の話として、折角ですので八重さんの心境を追って行きたいと思います。
その夜、「私なら照姫様のお役に立てると思っていた」と、自惚れがあったことを尚之助さんに話す八重さん。
正直、鉄砲なら、鉄砲なら、と再三自分でも言ってた八重さんなので、どのあたりを以って?と小首を傾げたくなるような、やや不自然な発言にも聞こえましたが・・・。
しかし八重さんは、今までずっと鉄砲を撃ち砲術の書を読む自分が、普通のおなごではないことを自覚して生きて来ました。
そんな八重さんが、照姫様の祐筆になれるかもしれないという淡い期待を抱き、しかし結果不採用に終わったということは、八重さんにとっては家格がうんぬんよりも、普通のおなごではない自分が世間様から弾かれた、と捉えてしまったのではないでしょうかね。
そして改めて、自分が普通のおなごではないことを思い知らされる。
でも尚之助さんは、そんな八重さんの「普通ではない」ところを評価し、こう言います。

八重さんがお城に上がってしまったら、ここで一緒に銃を作ってくれる人がいなくなる。新式銃を作るには、八重さんの助けがいります。私ひとりではどうにもなりません。八重さんの代わりはいない

察するに、こんなことがあった後でのこの言葉は、八重さんの心に沁みたと思います。
世間様からちょっとずれた存在を、尚之介さんは受け入れるだけでなく最大限に評価までしてくれる。
まあ、これは後にこのふたりが夫婦になるから作った展開でもあるのでしょうが、良い持って行き方だなと思います。
というか、八重さんでなくても、代わりがいないなんて言われたら女性としてはそりゃ嬉しいもんですよ。


ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村

2013年3月4日月曜日

物言わぬ竹筒

三条実美さんたち急進派公家による偽勅。
己の意思や言葉が捻じ曲げられて、「勅命」とされる事実に孝明天皇のご心痛は如何ほどだったのでしょうか。
そんな状況下で、孝明天皇が実美さん達の視線に細心の注意を払いつつ、急進派の公家たちの目を掻い潜るようにして容保様の元へ届けられた宸翰がありました。
それが第8回で出てきた、あの宸翰です。
それからというものを、孝明天皇の容保様に対する信頼は篤くなる一方で、今週は御製(天皇のお詠みになった和歌)を与えられていましたね。
今回はこれについて、後日談がありますのでご紹介しておきます。
有名なので、ご存知の方も多いかと思います。
ドラマはまだ幕末の最中ですが、明治に入ってから、「朝敵」の烙印を押された容保様は常に20cmほどの細い竹筒を身に着けていました。
紐を通して首からぶら下げていたようなのですが、入浴時以外は肌身から離さず、そのため家族たちも一体あれは何なのだろうかと思っていましたが、容保様がそれについて話すことはありませんでした。
そのまま容保様は竹筒について口を閉ざしたまま、1893年(明治26年)12月5日、その生涯を終えられました。
そのお通夜の席で、遺族が容保様が生涯口を閉ざし続けたその竹筒を開けます。
すると中から出てきたのは宸翰と御製。
つまり今週出てきた、あの歌が書かれた紙です。
維新後、朝敵と遇され続けた容保様は、どんな思いでこれを身に着けておられたのか・・・。
そしてそれを誇示するように振り翳して、己の正当性を主張しなかったのも、高潔な容保様らしいような気がします。
この話を耳にした、当時熊本にあった第五高等学校教授となっていた悌次郎さんが長州出身の三浦吾楼に話し、その吾楼さんからひょんなことから山縣有朋さんの耳に入れてしまいます。
故意なのかは不明ですが、山縣さんといえば会津と敵対した長州の大物です。
その竹筒の存在を知った山縣さんからすれば、これは捨てておけない事態なんですね。
先帝にそれだけ愛された容保様を、朝敵として祭り上げ散々踏み躙った基盤の上に明治政府は建っているといっても過言ではないのですから。
しかも長州と言えば、それを中心となってやった藩です。
竹筒のことが明らかになれば、自分たちの正当性の根本が危ういものになるのは誰にだって分かることです。
そういうわけで山縣さんはこれを買い取ろうと、松平家に交渉の人間を向かわせます。
提示額は5万円。
明治26年時の5万円がどのくらいかを少し検証してみましょう。
比較対象として、1902年(明治35年)9月19日に没した正岡子規の墓碑銘を参考にしたいと思います。
以下がその墓碑銘です。
尚、墓碑銘は子規の生前の明治31年7月、河東碧梧桐のお兄さん、可全に宛てた手紙に添えられていたものです。
  正岡常規又ノ名ハ処之助又ノ名は升
  又ノ名ハ子規又ノ名ハ獺齋書屋主人
  又ノ名ハ竹の里人伊予松山ニ生レ東
  京根岸ニ住ス父隼太松山藩御
  馬廻り加番タリ卒ス母大原氏ニ養
  ハル日本新聞社員タリ明治三十□年
  □月□日没ス享年三十□月給四十円 
月給四十円、と最後にあるのがおわかりでしょうか。
これを参考に、5万円の価値を割り出していきたいと思います。
まあ平たく言えば、明治のこの頃の1円が今でいういくらだったのかということですよね。
結論から述べさせて頂きますと、大体1万円です。
1円=2万円という方もおられますが、明治は時期によって物価変動が厳しいので、どちらも考えられますが、ここでは1万円とさせて頂きます。
つまり子規の月給は今でいうところの約40万円。
で、その計算式を当て嵌めますと、山縣さん側が提示した5万円という額は、今でいう5億円ということになります。
この金額の大きさから、山縣さん側の必死さが非常に良く分かる気がします。
しかし松平家ではこの交渉を拒絶し、宸翰と御歌の入った竹筒は東京銀行の金庫に預けられました。
今でも多分往時から動かされることなく、そこで眠っていると思うのですが、それにしても山縣さんが手に入れてたらどうするつもりだったか・・・。
絶対に都合の悪いものとして、闇に葬り去ってましたよね。


ではでは、此度はこのあたりで。


宜しければ、応援クリック頂けると励みになります↓↓↓
にほんブログ村 テレビブログ 大河ドラマ・時代劇へ
にほんブログ村