2013年4月27日土曜日

歴史の跫音を聴く 其の参

過日4月21日の日曜日、ぶらり出石へ行って参りました。
今年の出石と言えば、ずばりこのお方です。
八重さんのひとり目の旦那様、尚之助さんの故郷は出石です。
ということで、出石城下もそんな大河ブームに染まりつつありました。
こんなHPもありますので、尚之助さんを求めて出石に足を運ばれる際は是非参考に→「川崎尚之助の故郷を旅する」。
さて、まずは尚之助さんの生家跡へ。
明治9年に一度は焼失、その後川崎渉一さんによって再建され、明治25年まで渉一さんがこの家に住んでいたそうです。
建物はその明治期のもので、現在は化粧品店となっていますが、営んでいる方は川崎家の方ではありません。

大きな地図で見る
場所は上図を参考に。
尚之助さんの生家が出石藩士の家だったかどうかすら定かではない、と言われていましたが、実際生家跡を見ると出石城にほど近い場所に生家跡がありますので(内堀よりは外側のエリアですが)、身分は低かったかもしれませんが、藩士だった可能性は否定出来ませんよね。
最近では歴史研究家のあさくらゆう先生が大変丁寧に尚之助さんの足跡を追っておられ、次第に尚之助さんのことが分かりつつあります。
過日出版されましたあさくら先生の著書は、特に尚之助さんを知る上で大変重宝したい一冊になっておりますので、皆様も機会があればお手に取ってみて下さいませ。
さて、そこから本町通りをトコトコと歩いて、次に向かいましたのは臨済宗・願成寺。
三体のダルマさんが、来訪者を迎えてくれるこのお寺は、川崎家の菩提寺です。
パンフレットにはこうあります。
川崎家の菩提寺。川崎家の記録は享保年間(1720頃)より存在する。尚之助もここで弔われたとされる。由緒ある山門は江戸時代当時のもので、豊岡市指定文化財。山門前の目力の強い3体のだるま大師が目印。
尚之助さんのものと思われているお墓と、それともうひとつ特記しておきたいのが上の写真の石碑。
尚之助さんの故郷の出石の地で、顕彰と供養に繋がる碑を建てようと、2013年1月吉日に有志の方によって建てられたばかりのものです。
お寺の向かいの斜面にあります。
武士の刀をイメージした出雲石で作られているようです(尚之助さんが武士というのは少々謎なところですが・・・)。
故郷で自分のことが見直されて、故郷で大切にされるというのは、尚之助さんご本人にとっても非常に喜ばしいことでしょうね。
その願成寺のすぐ隣に位置するのが、宗鏡寺、通称「沢庵寺」。
出石藩主代々の菩提寺で、元和2年(1616)に沢庵和尚が再興したことから沢庵寺の異名がついたそうです。
この宗鏡寺では現在、尚之助さんのお祖父さんに当たる川崎才兵衛さんが文政2年(1819)に寄進した灯篭が展示されていました。
高さ約121.5cm、基礎台径33cmのもので、鋳銅製です。
今回の出石尚之助さん探索は、この宗鏡寺で幕を下ろしました。

尚之助さんの最期は非常に不遇なものですが、故郷で少しずつ注目を集め、歴史研究家の方にって曖昧だった史実が明らかになりつつあり・・・と、ここ数年で尚之助さんの評価は大きく変わってきたと思います。
(大河が始まるまでは、会津戦争の時に尚之助さんがどういう行動を取ったのかは、いまとは全く違う説が唱えられていました)
それはひとえに出石の町の方々や、あさくら先生によるものでしょう。
何も知名度が全国区になって欲しいとまでは言いませんが、出石出身にそういう人がいたのよ、という風に、今後もその人生と共に大切に語り継がれて行って欲しいなと思います。


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2013年4月25日木曜日

第16回「遠ざかる背中」

慶応2年8月8日(1866年9月16日)に会津城下で起こった大火から始まりました、第16回。
この大火は孫右衛門焼けと呼ばれており、下図のこの色の辺り一帯が焼けました。

A地点が山本家のある場所で、が諏訪神社の場所です。
火事の騒ぎの中、みねちゃんの姿が見えないということで飛び出して行ったうらさんと、そのうらさんの後を追って行った八重さん。
ところが、みねちゃんのぽっくりがないと聞いた尚之助さんは、そう言えばさっき鈴の音を聞いたような・・・と棚を覗いてみると、そこには寝入ってしまっていたみねちゃんの姿が。
尚之助さんは、城下にみねちゃんを探しに飛び出して行った八重さんとうらさんと合流し、煤だらけになりながらも家に戻ってきます。
うらさんは心配をかけたみねちゃんを叱りますが、同時に涙を流して無事を喜びます。

うらは、覚馬が当分帰って来れねぇものど、覚悟を決めだみでぇだ。何があったら・・・その時はみねが跡取りだ。しっかり育てねばなんねぇ
それでみねに厳しくしてたのがし
んでねぇ。うらは己に厳しくしてたんだ。・・・甘やがして弱い子に育でだら、覚馬にすまねぇがらど。可愛いみねを、怖い顔して叱んのは、うらも辛かったべ

先週からうらさんがカリカリしてるように見えたのは、夫の長期不在で荒んでた部分もあったかもしれませんが、夫が不在だからこその責任感のようなものがずっしり圧し掛かっていたということですね。
覚馬さんも、日々色んなものと戦っているのでしょうが、国許でもうらさんがまた違った意味の色んなものと戦っているのだと思うと、改めて良い夫婦だなと思います。
一方でここまで覚馬さんの留守を補い、母娘の絆を育んでいるふたりが、後々に別れることを思うと何とも言えなくなります。
覚馬さんと、うらさんと、みねちゃん。
この三人、史実の行き着く先は知っていますが、ドラマではどう描くつもりなのでしょうね。

会津が大火に見舞われていた8月8日と同日に、都では慶喜さんが参内して将軍名代として長州征伐に出陣することを奏上し、孝明天皇から節刀を賜っていたのは前回の記事で触れた通りです。
その慶喜さんが、出陣中止を言い出したことも既に前回触れました。
ただ、出陣中止にされて戦意が収められない人たちがいるのもまた事実。
官兵衛さんや別撰組の方々など、正にそうでした。

この期に及んで出陣取り止めどは、何事で御座るがっ!必勝を誓った下の根も乾がねぇ内に。断じで許せぬ。槍を振るって、長州まで追い立てる!

今にも飛び出していきそうな官兵衛さんたちを、土佐さんや内蔵助さんや修理さんが必死で押し止めます。
官兵衛さんが行っては事が荒立つ、と言われたのに対し、事を荒立てに行くのだと言ってきかない官兵衛さん。
そこへ登場された容保様が、言葉が過ぎると官兵衛さんを諌めます。

逸るな。朝廷のお指図も待たねばならぬ。今は鎮まれ

とは言われるものの、官兵衛さんの表情からは無念と遣る瀬無さが拭い切れず・・・。
分かるよ!分かるよ!慶喜さんがあんなだから余計に分かるよ!と、思いっきり同情してしまいました。

その頃二条城では、慶喜さんと春嶽さんが勝さんを呼び付けておりました。
用件は、勝さんに長州との和議の使者に立つようにとのこと。
しかし、前回の記事でも散々触れましたが、誰がどう見ても第二次長州征伐は幕府の負けです。
そもそも出兵までに幕府側が無駄に日を費やしている内に、一日ごとに長州で大村益次郎さんの軍制改革が着々と進んでしまったのも敗因の遠因ですよね。
要は敵に猶予を与えてしまったと。
水野忠幹さんの隊は頑張りましたが、それでも負けです。
なので和議などと言っても、負けてない長州がそれを受け容れるかどうかが微妙だと勝さんは言います。
けれども、だからこそ勝さんを和議の使者として白羽の矢を立てられました。
勝さんなら西国諸藩にも名が知れてるので、長州も耳を貸すであろう、といった次第です。
まあ確かに、薩長同盟の立役者のひとりとして活躍した龍馬さんは勝先生の弟子として有名ですし(当時その師弟関係がどれだけ認知度あったのかは知りませんが)、薩摩の伊東祐亨さんとかの海軍操練所塾生との人脈もありますのでね。

即刻、戦を止めて参れ。いつまでも続けられては面倒じゃ

さらっと慶喜さん言ってくれちゃってますが、そんなに簡単な任務じゃありません。
いくら人脈持ってて顔の利く勝さんといえども、幕臣=幕府サイドの人間です。
うっかり敵陣に踏み込めば、首が飛ぶかも知れませんので、流石の勝さんもそれは嫌だと言います。
たとえ慶喜さんの頼みでも。
多分家茂さんが同じことを勝さんに頼んでいたら二つ返事で行ったでしょうが、生憎と勝さんは家茂さんに向けていたものと同じようなものを慶喜さんとの間に築けていないのですよね。
っていうか、築く気は多分ないのでしょうが(あってもことごとく慶喜さんに裏切られるのでしょうが)。
勝さんがどう思っているのかはさて置きまして、勝さんは交換条件を慶喜さんに提示します。

お聞き届け頂けますならば、この首ひとつ、いつでも進上致します。長州の処遇は衆議に諮って、公平至当の判断を下すべきと存じます。まずは・・・勅命にて諸侯をお集め下さりませ
勅命じゃと?諸藩に号令をかけるのは幕府の役目だ。武家を統べるのは朝廷ではない
確かに武家の頭領は将軍に御座ります。なれど、今はその将軍がおりませぬ。徳川ご宗家といえども、将軍でなければ一大名。幕府の長として、天下に号令をかけることは出来ませぬぞ

そこでやっと慶喜さんは気付きます。
つまり、勝さんと春嶽さんは申し合わせていて、自分はふたりに上手く誘導させられたのだと。

此度の負け戦を見ても、幕府だけで天下を治めきれぬことは明らか。諸藩との合議の上で政を行うよう、改めていくべきと存じます
幕府が采配を振るわずに、誰が諸侯を束ねるのだ
帝がおわしまする
徳川将軍家は、その帝から諸政を一任されている
それは一時託されたというだけのこと。日本は徳川一家のものでは御座りませぬぞ。諸侯会議のお約束を賜りとう存じます。それを手土産に頂ければ、命に換えても長州との和議、調えて参りまする!

要は、幕府はもう駄目だ、共和政治に切り替えましょう、まずはその実現の約束をして欲しい、自分は代わりに長州との和議を調えてくるから!と言った次第ですね。

退室した勝さんは、今度は覚馬さんと大蔵さんに呼び止められ、手近な部屋に入ります。
挨拶もそこそこ、いきなり慶喜さんへの不満を爆発させる覚馬さん。

長州は禁裏に発砲した朝敵。然るべき処分を下すべきです!
ここで退いでは・・・何のために戦を始めだのがわがんねぇ!
そうよ。こんな馬鹿げた戦、一体誰が何のために始めたんだ

吐き捨てるように言った勝さんの言葉に、覚馬さんは「え?」と言うような表情を浮かべます。
きっと覚馬さんは勝さんに同意を求めていたのでしょうね。
一緒に「そうだそうだ」と言ってくれるものときっと思っていたのでしょう。
けれども勝さんの示した反応は、覚馬さんの思っていたものとは違うものでした。
覚馬さんは、一戦も交えないで出陣を取りやめることは卑怯で得心が行かない、と言います。
一方で勝さんは、たとえそれが卑怯で見っとも無くても、一日も早くケリを付ける方が世の中のためになる、と言います。

それでは、長州一藩にご公儀が敗れでも良いど仰せですか!
べらぼうめ。幕府は長州に負けるんじゃねぇ、己の内側から崩れていくんだ。ご公儀の屋台骨はとうにガタが来てる。おい覚馬、おのしの目は節穴か!こんな戦に勝ちも負けもねぇ。勝ったところで幕府が一息吐くだけだ。その幕府ってのは、一体何だ?本を糺せば、数いる大名の中で一番強かったってだけのことだ、二百六十年の間、それで天下は治まって来た。だが、もういかん。幕府は年を取り過ぎた。見た目は立派な大木だが、中身はスカスカの洞だらけ。いつ倒れても不思議はねぇ
聞き捨でならぬ!安房守様は幕臣でありながら、ご公儀を貶めんのが!
幕臣も外様もねえっ!外を見ろ、世界に目を向けてみろ。日本は小せぇ国だ。内乱なんぞしてたら、忽ち西欧列強に食い潰される。徳川一家の繁栄と、日本国の存亡。秤にかけてどっちが重いか、よく考えてみろ

私は前回の記事で、休戦になった方が長州軍幕府軍双方で相応の戦死者を出さずに済む、というような、超現実的観点からのことを書きました。
勝さんの考えは、また私のとは違う場所に観点が置かれていますね。
しかし外に、世界に目を向けてみろ、と言われてしまうとは・・・。
会津に在りし頃の覚馬さんは、どちらかと言えば世界に、とまではいかずとも、外に目は向いてました。
少なくとも私にはそう見えました。
第3回で「井の中の蛙だ!」と、目上の重臣方に言い放った覚馬さんは、まだ皆様の記憶にも新しいかと。
そんな覚馬さんが、どうして勝さんに「外を見ろ、世界に目を向けてみろ」「おのしの目は節穴か」と言われるようになってしまったか。
・・・は、憶測になりますが、勝さんと覚馬さん、何処で差が付いたと言えば、勝さんは旗本だから所属している藩がなくて、覚馬さんには会津という所属藩がある、という部分にあるのだと思います。
(飽く迄これは私個人の見解ですので、賛同を求めているわけではありません)

だったら俺達は、なじょすれば良がった?都どご公儀を守るために他にどんな手があったんだ・・・

この覚馬さんの呟きは、「都の枠組みの中で、出来ることを必死に模索した会津藩」、という立場からのものですよね、完全に。
変な言い方に聞こえるかもしれませんが、覚馬さんが「節穴」と言われてしまった理由として、会津という藩に所属している藩士という身分だったから、というのは無視出来ないと思います。
こう書くと、それが良いとか悪いとか、会津に縛られていたとか、捉えようは人様々だとは思いますが、ともあれその結果が今の勝さんと覚馬さんの物の見え方に如実に表れているのだと。

さて、覚馬さんに厳しい一言を突き刺して行った勝さんはそのまま単身で宮島に行き、大願寺で長州藩士の広沢兵助さんと井上聞多さんと停戦交渉をします。
慶応2年9月2日(1866年10月10日)のことです。
会談はスムーズに進んだようですが、長州は領地の返還だけは断固応じませんでした。
それでも停戦交渉は手際よく終わり、勝さんお見事大手柄!と思った矢先、信じられないことが起きます。
勝さんにしてみれば、共和政治の実現を取り付けたかったのでしょう。
だから和睦を調えてくる交換条件として、それを慶喜さんに提示した。
あの場では春嶽さんと申し合わせて上手くやったつもりでしょうし、実際慶喜さんもしてやられたと言わんばかりの顔をしていましたが、慶喜さんは更にその上を行くお方でした。
慶喜さんは、将軍の喪に服するため、という名目を以って朝廷から休戦の勅を引き出したのです。
それについては前回の記事の末尾部分で触れましたが、それがどういう影響を与え、どういう流れの元、どのタイミングで行われたのかについてはまだ触れていませんでしたよね。
この勝さんが長州と停戦の話を纏め終えたというタイミングの元にそれは発せられたのです。
これでは勝さんのまとめた停戦の話は台無しどころか、長州から見れば勝さんは嘘吐きになります。
尚且つ、慶喜さんは、休戦は朝廷の意向だからと交換条件であった諸侯会議の約束はなかったことに、というような態度を取ります。
こんなことされたら、春嶽さんが怒って「ご宗家とはこれ限り!」と言うのも当然です。
勝さんも怒って辞表を出して、江戸に帰って行きます。
このときふたりが離れて行かなければ、幕末史はもう少し違ったものになってただろうなと思ったりもするのですが、去って行く二人の背を見て嘆いていても仕方がありません。

しかし、この慶喜さんにひと言物申したくなるのも確か。
という視聴者の心中を代弁するかのように、容保様が言って下さいました。

ご宗家は春嶽殿、安房守殿をも謀られたのですか?出陣の決意を翻され、ご自身が放った和議の使者さえも騙す。・・・それではあまりに
不実だと言うのか?

さらっと言えてしまう辺り、本当流石慶喜さんだと思います。
しかも一片の悪気もないと来たものですから厄介この上ないですが、容保様は続けます。

このままでは長州も治まらず、また幕命に従って出兵した諸藩にも不満が広がりましょう
ではわしが出陣して敗れていたらどうなった?幕府の権威は地に墜ちる。それこそ長州の思う壺ではないか
なれど信義に背いては、幕府から人心が離れまする
構わぬ。泰平の世に胡坐を掻いた幕府など、一度壊れた方が良いのだ。この戦ではっきりしたのは、長州一藩にしてやられるほど幕府が弱いということよ。旗本八万騎など当てにはならぬ。幕府を鍛え直さねばならぬ。黴の生えた軍制から職制の大本に至るまで、全てを作り直す。・・・それが、将軍の務めだ
ではご宗家は、将軍職を・・・?
無論、継ぐ。わしでなくて、誰にこの役目が務まる
ならば何故今まで渋っておいでだったのです
老中共に担がれるだけの、飾り物の将軍にはなりとうないからよ。長州攻めは、この手で片をつけた。わしが将軍職に就くことを阻むものはもう何もない。武士の棟梁に相応しい将軍が、強い幕府を率いてこそ、諸藩は服従し、朝廷との和もなり、国はひとつにまとまるのだ

慶喜さんは多分、出来るだけ責任回避をしてるんでしょうね。
それと、こんなこんがらがってややこしくなってるご時世だからこそ、トップに立つなら自分の意思が迅速に反映される組織体制を整えておきたいと言ったところでしょうか。
整えた上で、漸くトップに立つ=将軍になる、という筋書きがかねてより慶喜さんの頭の中にはあったのでしょうが、如何せん誰もそこまで慶喜さんを理解出来ていなかったというか、慶喜さんの思考回路に誰も付いて行けてなかったと言いますか、だから何となく彼からはひとりで突っ走ってる感じが拭えません。
それに、自身の身を削る覚悟のない人が頂点にある組織って、絶対に組織としてやって行けないと思うのですよ。
その慶喜さんに、会津の助けがいると迫られ、将軍宣旨が下るまではどうか都にいて欲しいと頼まれる容保様は本当憐れです。
画して、漸く見えかけた帰国というゴールがまた遠ざかったわけですが、その間にまた歴史は七転八倒していきます。
しかし会津藩の皆様だって黙ってはおらず、慶喜さんの帰り際、官兵衛さんが「愛しい故郷を捨てたのは義のためにこそまるで雨雲の中の月真心が見えぬこれより我らの取るべき道は」などと槍の演武(どう考えても慶喜さんへの痛烈な批判)をしておりましたが、慶喜さんの神経にかかればそんなものは鼻で笑って終わりです。

幕府方からは不満茫々な慶喜さんの第二次長州征伐の終わらせ方ですが、岩倉村でこそこそと動いている岩倉さん達にはなかなか手痛い策だったようです。

しくじったわ。慶喜が戦を放り出した時には、これぞ天与の好機と、若手公家たちに幕府を糾弾させたのやが。・・・慶喜の根回しに先を越されてもうた
背後にはフランスが付いております。慶喜はフランスの手を借りて、兵制の刷新、幕政の改革に取り掛かりました

大久保さんの言う、背後のフランス、というのはフランス軍事顧問団のことで、彼らの一部(ジュール・ブリュネさんなど)は後の函館戦争まで幕府軍と共に戦います。
本当はイギリスにも軍事顧問団の要請が行ってたのですが、イギリスは薩英戦争以来薩摩と関係を深めてましたので、薩摩の敵に塩を送るようなことはしなかったのです。
ともあれ、西洋のものを取り入れることに何の抵抗も覚えない慶喜さんは、「強い幕府」を作ることに着手し始めます。
しかしここで幕府が強くなられて、はてまたかつての幕府らしい力を取り戻してしまったら、岩倉さんたちにとって不都合この上ありません。
困ったことになる、と漏らす岩倉さんに、西郷どんは腹を括る時かと言います。
即ち倒幕に向けて本腰入れて取り掛かるということで間違いないでしょう。

仮に戦をするとして、勝てるのか?相手は腐っても幕府やぞぉ
幕府方十人をば倒すのに、こちらは一兵で十分。・・・幕府の命脈は、既に尽きておいもす

強ちこれが法螺でないのは、第二次長州征伐で兵制改革を遂げた小勢の長州が、大軍の幕府軍を打ち負かしたことで既に実証済みです。
況してや薩摩は長州よりも先にそれに着手していましたからね。

一方会津では、ひとりの女性が江戸より帰国を果たしました。
江戸詰勘定役・中野平内さんの長女、竹子さんです。
会津戦争に於ける知名度としては、八重さんと同等かあるいはそれ以上の方ですよね。
雪さんに続いて八重さんまで薙刀で打ち負かしてしまう竹子さんですが、それもそのはずで、彼女は幼少期に江戸の赤岡大助さんに師事して薙刀を学び、道場では師範代を務めるほどでした。
この赤岡さんは、照姫様の薙刀の師に当たるお方です。
会津が京都守護職を拝命する前は、江戸藩邸の目付職を務めてまして、竹子さんは17歳くらいの時に乞われてこの赤岡さんの養女になっていますが、2年後に赤岡家から離縁されています(だから記録には「赤岡竹子」ではなく「中野竹子」で残ってます)。
守護職拝命以降は禄を離れて、会津城下の北西にある坂下というところに道場を開いたようです。
竹子さんはそのお供をして、国許に参られたのだとか。
江戸生まれ江戸育ちの竹子さんからすれば、これが初めての会津です。
鳥羽伏見の戦いの後に、江戸から会津に引き上げたという資料もありますが・・・竹子さんの正確な会津入りはいつなのでしょうね。
というのはいまはさて置き、赤岡さんは書も歌もよくする方でしたので、弟子で養女でもあった竹子さんも当然その手解きは受けています。
同時に、ドラマでは黒木メイサさんが演じておられますが、実際の竹子さんも非常に美しい方だったようで、まさしく才色兼備な方です。
江戸の長屋では「会津名物業平式部小町はだしの中野の娘」と誰知らずとも謳い始めたのだというのですから、相当ですね。
そのパーフェクト女史の竹子さん、八重さんが鉄砲を撃つことを聞いて、眉を顰めます。

鉄砲?何故そのようなものを?強くとも、鉄砲はただの道具。武士の魂が籠る、剣や薙刀とは違います

これに対して、負けたくないと言った八重さんの表情は微笑んでましたが、心中を察するに薙刀でも負けて、その上鉄砲まで「ただの道具」と言われてしまったのですから、どうしようもない敗北感のようなものは感じていたのではないでしょうか。
竹子さんは今後も出てくるでしょうので、また様々なことは折々に触れていくことにします。
しかし眉を顰めた鉄砲に被弾して命を落とすことを見据えれば、なかなかに皮肉の利いた演出ですね。
今年の大河ドラマはこのパターンが例年より多いような気がします。

平馬さんのお宅で、広沢さん達相手にスナイドル銃(シュナイダー銃)の解説をする覚馬さん。
洋学所の様子は最近とんと描かれていないように思えますが、覚馬さんなりにきちんと兵器の新しい知識や情報は仕入れているようで、説明の口調も滑らかです。
スナイドル銃は長州が使っていたミニエー銃と違って、装弾方式が後装式(手元に近い位置で銃弾を入れられる)なので、覚馬さんが指摘しているように弾込めが従来よりも早くなります。
両者に有効射程距離及び最大射程距離の差は左程ありませんが、装弾に於ける時間のかかり具合が違うのは、いざ鉄砲を持った同士の打ち合いとなると大きな差になってくると思います。
また、もうひとつスナイドル銃とミニエー銃で違うのは、弾丸の形状です。
スナイドル銃の弾丸はエンフィールド弾という弾丸と薬莢が一体となった実包です(撃発式)。
対してミニエー銃はゲーベル銃と同じように、つまり以前八重さんがよくやっていたように、銃口から粉火薬、弾丸を装填してラムロッドで突き固める方式です(雷管式)。
ずらずらと書きましたが、戦国時代の火縄銃から続くやり方で弾込めをしていたのがミニエー銃・エンフィールド銃までで、スナイドル銃以降は現代我々が想像するような、手元から弾込め出来るライフル的な銃になった、という変化だけ頭に留めて頂ければ幸いです。
このスナイドル銃が更に連射可能になったのが、第1回冒頭で八重さんが持っていたスペンサー銃ですね。
追々それも登場するでしょう。
話が脇に逸れましたが、覚馬さんはスナイドル銃が、戦の終わったメリケンやヨーロッパからどっと流れ込んで来ているということを指摘します。
主な市場は勿論長崎で、会津に限らずどの藩も最新兵器は揃えたいでしょうが、中でも特に資金豊かな薩摩は既に買い付けているだろうと広沢さんは言います。

会津も砲戦に備えねば、次に戦となった時には、長州攻めの二の舞になりやす

先程登場された竹子さんは、銃をただの道具のようにしか見做してませんでしたが、都の皆様はたとえ「ただの道具」だとしても、剣や薙刀はもう戦の主流ではないことを流石に分かっておいでです。
しかしやはり、薩摩や長州と比べると後手に回っている感は否めませんね。
そこへ大蔵さんが、樺太国境画定交渉のロシア使節団として、外国奉行の小出大和守さんのお供に加わってロシアに発つのでその挨拶に来ます。
それと、平馬さんが家老職に昇進したので、そのお祝も。
平馬さんの実兄、信節さんも、亡くなられた神保内蔵助さんに変わって家老職に就いているので、兄弟揃って家老になっているのですね。

山川家は家老の家格。にしも、いずれ会津を背負う男だ。異国で見聞を広げるのも、修行の一づど思え

平馬さんは大蔵さんにそう言いますが、実際大蔵さんはこのロシア行で、ロシアだけではなく第2回パリ万国博覧会などにも足を延ばしたようです。
ちなみにこの使節団の中には、榎本武揚さんもいました。

今に誰もが大手を振って海を越えで行ぐようになる。が・・・黒船が来た頃、勝先生がそう言ってだ。それが真のごどになりつつある。俺も一度はこの目で異国を見たがった・・・

ぽつりと漏らされた覚馬さんのつぶやきに、どうしようもなく胸が苦しくなります・・・。
長崎の医者にかかれば、という励ましを受けて笑う覚馬さんですが、その笑顔すら痛々しいと言いますか無理しているような感じで。
江戸遊学していた時も、禁門の変で戦の最中だというのに薩摩のスペンサー銃に見惚れていた時も、思えば覚馬さんは真新しいものに子供のように夢中になる人でしたよね。
そんな人ですので、もし異国を見られたのならどれだけはしゃいだことやら。
そうこうしている内に、二葉さんが俄かに産気づき、元気な男の子を生みます。
覚馬さん曰く「蒸したての饅頭みたいな匂いがする」と言われた彼の幼名は寅千代くん、後の梶尾景清さんですね。

さて、色々あったものを、とりあえず将軍職を継ぐと決めた慶喜さんの宣旨は、12月5日に下ると定められました。
その前に、孝明天皇は容保様と一対一で話をするため、容保様を御所へ呼びます。

宗家は裏も表もある男や。わしも心底から信ずることは出来ぬ。なれど、今は難しい時や。あの利口さがないと将軍職は務まらぬであろう。・・・そなた、帰国を願い出てるそうやな
宗家が十五代将軍を相続されるのを見届けましたならば。会津の役目はもう終わりに御座います。都は将軍家がお守り致します。我らが留まっていては、却って争いの種になりましょう。・・・会津は、敵を作り過ぎました故
そうやな・・・。もう引き留めるわけには行かぬな。都を守護するそなたの苦労、よう分かっていた。・・・なれど、わしにはそなたが支えであった。心の深いとこで通い合う物があったからや
主上・・・勿体無いことを・・・
我らは、重い荷を背負う多者同士。ご先祖代々、守り、培って来たものを、両肩に背負うて歩んでゆかねばならぬ。・・・時には、因循姑息との誹りも受けながら。今の世では壊すことよりも、守り続けることの方がえろう難しい。その苦しさを、まことに分かち合えたのはそなたひとりであった
主上・・・
将軍宣旨が済んだら、早う国許に戻れるよう、わしも力を尽くす。・・・会津から教わった。・・・もののふの誠は、義の重きに着くことにあると。・・・長い間誠を尽くしてくれて、ありがとう

落涙する容保様ですが、私も一緒に目に涙を滲ませてました。
いえ、確かに元を糺せば幕末史がこんがらがったのも、やれ攘夷だの何だの出て来たのも、幕末史後半部分は慶喜さんが引っ掻き回したせいですが、前半は孝明天皇の異国嫌いに端を発していると言えなくもないのですよ。
だから、自分の異国嫌いっぷりがどれだけの波紋を呼び込んだのか、何処まで帝が分かっておられるのかは甚だ謎なわけですが、帝も帝で偽勅で自分の言葉はちゃんと伝えられないわ何だで、帝なりの苦労や心痛があったのは、今までドラマを通じて見てきた通りです。
容保様も、幕府と孝明天皇どっちが大切なの?と幕閣に誤解されてしまうほどに孝明天皇に赤心を捧げ続けたお方で、そんな立場故に帝の信頼というのは心の縋り所のようだったも同然だったでしょうから、変な言い方をすれば孝明天皇がおられたから容保様も今まで頑張って来られたのですよね。
その人に、自分の苦労を深く理解してもらえただけでなく、感謝の言葉まで述べられたとあっては、容保様でなくても涙を零しますよ。
京都守護職として彼是五年間、色々あったけれども、慶応2年12月5日(1867年1月10日)には慶喜さんが第十五代征夷大将軍に任ぜられ、ようやく会津の重い任が終わりを迎えようとしていました。
けれども神様も仏様も、会津に対しては何処までも無慈悲なようで、慶喜さん将軍就任から僅か20日後の慶応2年12月25日(1867年1月30日)、孝明天皇が崩御します。
余りの急な死に、本編後の「八重の桜紀行」のナレーションでも毒殺されたのでは、と触れられていましたが、諸説あって確定にはまだどれも至っていません。
ただ言えますのは、家茂さんと孝明天皇が相次いで亡くなられたことで完全に公武合体は崩壊し、会津は帝の信頼という後ろ盾を失うことになったということです。
歴史はこれから、会津視点で見ると、悪い方にばかり傾いて行きます。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年4月18日木曜日

第15回「薩長の密約」

薄暗いとある船室から始まりました、第15回。
甲板に出たのは元治元年6月14日(1864年7月17日)に函館から密航した七五三太さん。
彼を乗せた船はその後、まず上海に到着しました。
その後、ボストンへ向かうアメリカ船「ワイルド・ローバー号」に乗り換え、そこから1年ほどの太平洋の旅を経て慶応元年閏5月28日(1865年7月20日)にアメリカ大陸の土を踏みます。
その時には名は既に襄となっており(船中でジョーと呼ばれていたので)、22歳、数えで23歳です。
この航海中、襄さんは自分の刀を8ドルで船長に売り、漢訳の聖書を買っています。
英語での意思疎通が出来なかったから、そのための勉強でしょうか?
「刀=武士の魂」の概念が浸透してた世界観の中で、この時点で襄さんが先験的な性質というか、まあそういう傾向であることはよく分かるエピソードですね。
ちなみに襄さんを函館から上海まで乗せて行った船長は、密航の手伝いをしたということで会社から解雇処分を受けています。
そういえば密航は国禁で(今でいうなら出国手続きを受けずに海外に行くような感じですかね)、とすれば襄さんは犯罪者と言うことになり、後に八重さんと結婚する相手が犯罪者で良いのかと言う気もしなくもないですが、安中藩では襄さんのお父さんが襄さんの死亡届を出して、死亡扱いされていたのが現実のようです。
しかし書類の面では死んでいるはずの人間が、明治になって日本に戻って来たときにどうなったのでしょうかね。
その辺りはまだまだ私も勉強中です。
ちなみに襄さんの左の眉の辺りに傷がありましたが、あれは彼が子供の頃に遊んでいた時に負った大怪我の跡が残ってしまっているのです。
当時8歳だった襄さんは、あの傷を恥じてそれから二か月間、家から一歩も出なかったそうです。
現在私たちがよく目にする襄さんの写真からも、その傷跡ははっきりと見て取れます。
昔の写真なので落剥とか傷とかと思うかもしれませんが、あれはそういったものではないのです。

一方、御所では慶喜さんが如何にも神経質そうに苛立っています。
・・・この人が穏やかに映された時って、ほとんどありませんよね(笑)。

二条関白はまだか。長州処分を決める大事な朝議に、何をしておいでなのだ

二条関白こと二条斉敬さんは、慶喜さんとは従兄弟の関係に当たります(斉敬さんのお母さんが斉昭さんのお姉さん。斉昭さんは慶喜さんのお父さん)。
慶喜さんが近々徳川幕府最後の将軍になることは皆様ご存知でしょうが、斉敬さんは日本史上最後の関白になります。
まあその関白なしでは、朝議が始まらないので慶喜さんは苛立っているわけです。
何の朝議かと言えば勿論長州征伐(第二次長州征伐)。
使いの方が、斉敬さんは薩摩に足止めされているが、ほどなく参ると伝えます。
正しくその通りで、斉敬さんは別室にて大久保さんに、長州征伐の意味のなさを説かれていました。

一匹夫の策謀で朝議が左右されるとは何事!斯様なことでは某も守護職も、揃って職を辞するほか御座りませぬ。後はご勝手になされませ!

じゃあ今すぐ守護職辞させてあげてくださいよ、切実に、と寸暇を置かずに突っ込みたくなったのは私だけじゃないはずです。
まあこれは慶喜さんが、公家を脅すために言ったことなので、更々その気はないのでしょうけどね。
公家としても、御所(=自分達のいる場所)を守ってくれる力=京都守護職に都を離れられると困るので、結果的にはこの脅しは効いて、慶応元年9月21日(1865年月日)、第二次長州征伐の勅命がようやく下されます。

年が明けまして、慶応2年(1866年)。
海の向こうの話になりますが、ドフトエフスキーが「罪と罰」を連載し始めたのは確かこの年ですね。
分厚い雪に覆われている会津ですが、山本家では穏やかに新年を迎えたようで、一家揃って氏神様の祠に手を合わせてご挨拶。
勿論、八重さんと所帯を構えた尚之助さんも一緒です。
家の中ではみねちゃんが、覚馬さんから送ってもらったぽっくり下駄の鈴を嬉しそうに鳴らしてはしゃぎ回ってます、本当平和な風景です。
しかし覚馬さんが会津を離れて4年、赤子の時に別れたきりのみねさんは、覚馬さんの顔も覚えていないだろうと佐久さんは溜息を吐きます。

んだげんじょ、長州との戦が済んだら、あんつぁまも、今度こそお戻りになんべ
今年の内には都を引き上げることになろうと、日新館でも話しています
ご重役方も、その見通しだ
んだら、今年はきっと良い年になんな

佐久さんが微笑みながらそう言いますが、歴史の教科書を繰るようにしてこの年に起こる主な出来事を浮かべますと、薩長同盟成立に坂本龍馬さんの方の寺田屋事件、第二次長州征伐、三条制札事件 、家茂さん病没、慶喜さん将軍就任・・・などなど、実は良い年どころか先行きの悪すぎる年なんですよね。
いえ、ですが私が言いたいのは、佐久さんなんて呑気な!ではなくてですね(如何な聡明な佐久さんでも、先に起こる歴史のあれこれまで見通せていたはずがありませんから)、本当そういう風に、今年はいい年になるだろうと何の疑いもなく信じていた人々が、そう遠くない内に悲惨な戦争に否応なしに巻き込まれていく、その様子をちゃんと見ていくためにも、この八重さんパート(会津パート)が存在するのだろうと思っているということです。
常に政局が動きつつある都の様子は、在京の覚馬さんの目を通して、故郷の様子は会津本国にいる八重さんの目を通して、そのふたつの線を並行させて描いて行く。
これが従来の幕末大河と『八重の桜』の大きな違いではないでしょうか。
ふたつの線、という点では『篤姫』もそうだった気がしますが、あれはもう片方の線を担うのがゆくゆくは薩摩の重鎮となるべきお方だったのですし、ちょっと違いますよね。

さて、ではそのもうひとつのパートを担う覚馬さんと言えば、官兵衛さんと同行して市中見廻りの最中でした。
皆様の視線の先には、筒袖に股引姿の歩兵。

(画像:増田家淳、1987、きものの生活史、新草出版)
幕府も洋式調練に着手し、歩兵の服装が筒袖に股引か裁着袴(膝から下が細い袴)に変わったのです。
何となく、着こなしの問題もありましょうが遠目にはジャージにしか見えませんが、この頃にジャージは存在しませんしね(笑)。
第二次長州征伐が囁かれて数カ月が経過していますが、一向に実行に移らない現状に、幕府兵の士気は下がっているのが現状です。
また薩摩が邪魔をしているのだろうかと言う官兵衛さんに、広沢さんは薩摩藩邸に探りを入れたが大久保さんにはねつけられたと言います。
八月十八日の政変の時に結ばれた会薩同盟の立役者、悌次郎さんがいないので、薩摩との橋渡しがどうにも上手く行っていない様子ですね。
そのため、会津の皆様には薩摩が何を企んでいるのか分からないどころか、企んでいるのかどうかすら定かではないと言った状況に。
これから目まぐるしく変わる政局の中で、会津が後手に後手に回ってしまうことになりますが、その様子の一端が既にほのめかされていますね。
そんな彼らの前に新選組が現れます。
斎藤さんが率いているので三番隊でしょうか、しかしこの時点ではもうあの有名な浅葱のだんだら羽織は着用されてないはずですが・・・まああれがないと視聴者には「新選組」って分かり辛いからでしょうか。
官兵衛さんは「市中警固は別撰組だけで事足りる」と仰ってますが、正直新選組と別撰組とじゃ受け持つ区画が違ってたはずなので、市中警固中に鉢合わせ何てことはなかったと思うのですが。
ともあれ、新選組に対しては予想通りと言いますか、会津にいた時から色々思うところもあって挑戦的な態度を取る官兵衛さん。
ですが酔った歩兵が暴れたのを、髷を一閃して斬った斎藤さんの腕の見事さと、「味方は斬らない」の言葉に評価が変わったようです。
新選組(特に斎藤さん)と会津は後々にも交流を持つことになるので、ここでの関係修復はそこへ繋げていくためのものでしょうね。

幕末史の大きな転機として欠かせない「薩長同盟」ではありますが、大概にして過去の幕末大河、幕末小説では、この場に坂本龍馬さんを登場させてきました。
そのため、龍馬さん最大の偉業=薩長同盟、と認識している方もさぞや多いことと思われます。
そういう方には、今回のこの龍馬さんの扱われ方は物足りない感じだったのではないでしょうか(苦笑)。
何せ龍馬さんの登場と言えば、後ろ姿とほんの少しの横顔と、「土佐脱藩浪士」というナレーションのみ。
私が龍馬好きだったら、塩の入ってないフランスパンを食べさせられたような心地になると思いますが、この描き方はこの描き方で、新鮮且つ正解のひとつだと思います。
上記の通り、薩長同盟に龍馬は不可欠!という印象がどうにも一般的には強いですが、薩長同盟は別に龍馬さんだけのお手柄ではないのです。
逆に言わせて頂くと、そういうことですので、寧ろ従来の大河で薩長同盟と言ったら西郷さんよりも桂さんよりもまず龍馬さんを前面に、とされていたスタイルが私には謎でした。
色んな新しい斬り込み面から幕末を描いている「八重の桜」ですが、龍馬さんの扱いについての既成概念をある意味で打ち砕いたのもその一環かと。
それはさて置き、桂さんのいる部屋に大久保さんと向かった西郷どん。
桂さんは袴の裾を見る限り、旅支度を整えていることは一目瞭然です。
ちなみにここのお宅は薩摩藩士小松清廉さんのお宅です。
それと省かれてますが、実はこの会談の前に既に一回場を設けられていたのですが西郷どんが来なくって、お流れになりました。
なので実質的にこの会談は二回目の正直となります。

坂本さあから聞きもした。国にもどいやっとな?
もう十日になる。これ以上長居しちょっても、貴藩と同盟の話はできゃーせん
まあ待っちゃんせ
あんたがたは長州に幕府の処分を受けろと言う。同盟の話はそれからじゃと
毛利公の隠居と石高減知、一旦受け入れて謝罪すれば、戦は避けられるものと思いもす

しかしそれは出来ないという桂さん。
長州側としては、禁門の変での発砲の罪は、家老三人の首を差し出したことと、それらを補佐した人物ら4人を斬罪にしたことで区切りがついてるのです。
その上更にまだ幕府からの処分をほいほい受け入れては面目が立たない、というのが桂さんの言い分。
それに対して、今は意地を張っている時ではないというのが西郷どんの言い分です。

長州は!・・・仲間たちはっ、あんた方薩摩と会津を相手にして一歩も退かんかった

語る桂さんの脳裏に思い出されるのは、燃える鷹司邸で別れた久坂さんの姿です。
ふたりの道はいつの間にか分かれてしまっていたのかもしれませんが、それぞれに想いがあったから、桂さんは自分の方の道ではない分の意思までちゃんと拾って行こうとしてるんだなというのが、次のやり取りでよく分かりました。

ここで意地捨てては、死んだ仲間たちに合わす顔がない。たとえ!防長二州を焦土と化しても!・・・それだけは、出来んのじゃ!

意地に巻き込まれて焦土にされる地に住んでる長州の民が哀れですが、ここでそれを突っ込むのは無粋でしょう。
あるいは待敵令が藩内庶民に至るまで配布されてるので、その辺りは問題なかったと見ても良いのかな。
桂さんの言葉を受けた西郷どんは、少しの間を置いて、分かったと譲歩の姿勢を見せます。
つまり、幕府の要求はそれでは呑まなくても良いと。
西郷どんにしても、この第二次長州征伐には大義を見い出せていないようです。
というより、薩摩以外の諸藩も、この第二次長州征伐には大義を見い出せていません。
理由は個々でありましょうが、まず共通するところで言えば、桂さんが自分で言っていたように、禁門の変で禁裏に発砲したことについては家老の首を切ったことにより、既にお裁きが終わっていると各藩も見做していたからです。
あとは第一次長州征伐の時にも散々書いた気がしますが、各藩の財政状況ですね。
前回出兵して、また今回の出兵にも耐えられるほど、諸藩の財政状況は芳しくありません。
なので幕府は諸藩の足並みを揃えるために、朝廷の力を借りて第二次長州征伐の勅許を出させ、「朝廷からの命令だから」という大義名分を得て第二次長州征伐を発令することになります。
それがこの場面より少し先の、慶応2年6月7日(1866年7月18日)に起こる出来事です。
先のことはさて置き、大義を見出せないと言っているけれども実際問題薩摩は萩口の攻め手を任されているではないかと、冷静に桂さんは指摘します。
ですが、西郷どんは兵は出さないと言います。
どころか、薩摩に同調して出兵を断る藩が出てくると。
事実西郷どんの言葉に通り、第二次長州征伐では薩摩のような外様大藩が、薩摩に倣って出兵拒否を申し出てくることになります。
しかしそこで桂さんが気にかかるのは、3年前に結ばれた会薩同盟の存在。

会津とはどうなっちょる?薩摩は会津と、結んじょったはずじゃ
既に、手は切りもした
もしもん時は、会津と一戦交えてでん、お味方致しもす

あの時会津と手を組んでおかなかったら復権出来なかったのは薩摩なのに、まるでひと夏の恋人のようにあっさり切り離すこのえげつなさが正しく薩摩ですね。
けれども思うに、もう少しこのときの長州が「朝敵」の立場であることを明確に描いたら良いのにとな。
その方が、そんな立場の藩と手を組もうとする薩摩のえげつなさがよく分かるじゃないですか。
会津主体なら猶更、長州を「朝敵」だとはっきり作中の誰かが言葉に出すなり何なりしても良いと思うのですが。
その薩摩のえげつなさを…多分桂さん(長州)は良く知っているでしょうね。
何せ第一次長州征伐の時に、長州人を以って長州人を処置させるような策を出したのは、他ならぬ参謀だった西郷どんですから。
長年の敵同士、と桂さんは言いますが、その一言に込められた意味は想像以上に深いです。
尚且つ天下を敵に回している今の長州と手を結ぼうとする西郷どんの思考回路が、いまいち読めない桂さん。
これは相手が薩摩なだけに、疑って当然ですよね。

最早徳川だけに国を任せちゃおられん。そん思いは、薩摩も同じごわんで。そのために組むべき相手は会津じゃなか
むしろ会津は、都から取り除かねばなりもはん

幕府を取り除くなら、家訓で幕府側に縛られ続ける会津もまたその対象になります。
何より西郷どんがこの間から口にしていた共和政治は、前にも書きましたが徳川幕府が大きな顔して天下に居座ってる限り、永遠に来ないものなのです。

桂さあ、手をば組みもんそ。お望みの洋式銃も、薩摩の名義で調達致しもす。そいで、信用しっくいやんせ

薩摩名義で調達した銃を、龍馬さんの亀山社中が長州に運び入れ、逆に長州からは米の取れにくい薩摩に兵糧米を返す・・・という物流の流れは、既に過去の幕末大河で何度も触れられて来たことです。
ですが、自分を信用して欲しいと頭を下げる西郷どんはなかなか新鮮なような。
西郷さんの誠意が通じた・・・わけではないでしょうが、長州の現状奪回のためには、薩摩と手を結ぶことが肝要としたのでしょう、桂さんは密約を受け入れます。
こうして慶応2年1月21日(1866年3月7日)、薩長同盟が結ばれます。
後日桂さんは龍馬さんに、この会談の内容を確認する手紙を送付しています。
以下の六ヶ条は、その手紙の中で掲げられたものです。
 一、戦いと相成り候時は直様ニ千余之兵を急速差登し只今在京之兵と合し、浪華へも千程は差置、京坂両処を相固め候事
 一、戦自然も我勝利と相成候気鋒有之候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力之次第有之候との事
 一、万一戦負色に有之候とも一年や半年に決而潰滅致し候と申事は無之事に付、其間には必尽力之次第屹度有之候との事
 一、是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は従朝廷御免に相成候都合に屹度尽力との事
 一、兵士をも上国之上、橋会桑等も如只今次第に而勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力之道を相遮り候ときは、終に及決戦候外無之との事
 一、冤罪も御免之上は双方誠心を以相合し皇国之御為に砕心尽力仕候事は不及申いづれ之道にしても今日より双方皇国之御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力可仕との事
ざっと文字を追って頂いたらお分かり頂けると思いますが、朝敵の汚名を背負っている長州のために薩摩が朝廷工作をして汚名を晴らしてあげますよ、と言ってるんですよね。
長州としては一番気にかかってる患部を取り除いてくれるというのですから、おそらくこれには、武器を融通してくれるよりも嬉しい節があったのではないでしょうか。

場所は移りまして、新選組西本願寺屯所。
新選組は、壬生の八木・前川邸から元治2年3月10日(1865年4月5日)西本願寺に屯所を移しています。
先日の一件で官兵衛さんの新選組に対する蟠りが解けたのか、新選組隊士と別撰組隊士が交流試合をするほどに打ち解けています。
新選組と覚馬さんは、実は交流があるので、そこを触れるのかと思いきや、触れられませんでしたね・・・これって贅沢な悩みなのでしょうか。
ちなみに象山先生の息子さんは、父の仇が取りたいと、覚馬さんを介して新選組に入隊してます。
その後の彼の動向は、知る人ぞ知るということで・・・気になった方がおられましたら調べて見て下さい(苦笑)。
試合の様子を官兵衛さんと並んで鑑賞していた近藤さんですが、実は近藤さんは昨年(慶応元年11月)に、、第一次の戦後処理の長州訊問使・永井尚志の給人役として安芸へ同行してます。
近藤さんの手紙に、「(自分に)万一の時、新選組は歳三へ任せ、天然理心流は沖田へ譲りたい」というものが残っているのですが、それはその時故郷の佐藤彦五郎さんに宛てて書かれたものです。
しかし結果としては近藤さんは長州に入国を許されず、無念の帰京となってしまったのですが、池田屋で長州の人をばっさばっさと斬った張本人が長州に行こうとしたのですから、命がけですよね。

慶応2年6月7日(1866年7月18日、幕府軍の軍艦富士山丸が上関村沖から砲撃し、第二次長州征伐の戦端が開かれます。
第二次長州征伐は長州側の人からは「四境戦争」とも呼ばれるのですが、何故「四境」かと申しますと、まずは以下の図をご覧下さい。

(地図作成協力:CraftMAP様)
幕府は長州の、四つの国境、石州口(山陰道側)、芸州口(山陽道側)、大島口(瀬戸内海側)、小倉口(関門海峡側)からそれぞれ兵を寄せました。
故に、「四境」です。
本来ならば薩摩が萩口の攻め手を担うはずだったのですが、出兵を拒否しましたので・・・もし出兵拒否しなかったら「五境戦争」になってたかも。
そんな仮定は脇に置いておくとして・・・。
戦の様子について色々と補足し出すと、本当に枚挙に遑がないのでざっくり割愛しながら筆を勧めさせて頂きます。
後日別に第二次長州征伐の戦況についての記事を設けるのは・・・きっと時間的に無理でしょうから。
各国境の幕府軍長州軍の布陣は以下の通りです
①石州口・・・浜田藩・福山藩・因幡藩・松江藩(約3万人)VS南園隊・精鋭隊・育英隊(約1000人)
②芸州口・・・彦根藩・高田藩・紀伊藩・大垣藩・明石藩(約5万人)VS岩国兵・遊撃隊・御楯隊・鷹徴隊・鴻城隊・干城隊(約1000人)
③大島口・・・松山藩・幕府艦隊(約2000人)VS商農隊(約500人)
④小倉口・・・小倉藩・肥後藩・柳河藩・唐津藩・久留米藩(約2万人)VS奇兵隊・報国隊・長州艦隊(約1000人)
数だけ比べれば幕府軍の圧勝に思えます。
「~藩」が並ぶ幕府軍とは違い、長州がすべて「~隊」となっている点、本当日の本を統べる幕府と二国の主でしかない長州の戦いなのだな、と思います。
ところが、「戦は数でするものではない」とよく小説などでは目にするセリフですし、有田中井手の戦いなどでも見られるように、少数が大軍を跳ね返した例は古今少なくありません。
それは幕府軍も歴史として知っていたでしょうが、まさか今度はその歴史を自分たちがそうなるとは思ってなかったでしょう。
ですが現実は、幕府軍が敗北を重ねました。
まずドラマの、「大島が奪われたのに続いて、芸州口の彦根勢も敗れたとの報せじゃ」について。
大島方面幕府編成軍は、松山藩に加えて宇和島藩・徳島藩・今治藩ら四国の藩で形成されていましたが、松山藩以外の三藩は幕府からの出陣命令に応じようとしませんでした。
故に幕府艦隊の援護はあれども、松山藩一手で大島口を担わなければならない事態になったのです。
大島口を守る長州側から見れば、これは好機ですよね。
本来ならば四藩相手にしなければならないところを、松山藩の相手だけでよくなったのですから。
先程も触れましたが、数の上では長州が圧倒的に不利です。
ということは、敵の人数が減ってくれるに越したことはないですし、余力があれば回せるところに兵力を回したいというのも長州にはあったはずです。
しかも幕府は、流石に松山藩だけで大島口を任せるのは不安に思ったのか、本来芸州口担当だった幕府の歩兵隊二個大隊を大島口に回しています。
芸州口は幕府の主力部隊がいましたので、これもまた長州から見れば、主力部隊の兵力を少しでも分散させたことにもなるわけです。
しかし長州の大村益次郎さんは、少ない戦力で如何に大軍の幕府と戦うかについての戦略を練っておりまして、そんな彼は大島防衛に兵を割くよりも長州本土の防衛にその戦力を回した方が良いと考えました。
また、大島を占領されても左程問題ないと見ていたのでしょうか、大島を破棄する方針を固めますが、捨て駒のようにすると大島住民の反発を買いますので、気持ちばかりの兵を配置していきます。
大島口の長州軍の兵数が、他の三か所に比べてはっきりと分かるほどに少ないのは、そう言った背景事情からでしょう。
且つ大島口を守る兵の装備は西洋化され切っておらず、調練もままならぬ状態でしたので、最初は幕府軍が圧勝し、大島を占領します。
ですが占領後、幕府軍の島での素行が良くないどころか最悪で、また大島のそんな惨状を見過ごせば長州の人心は長州から離れるということで、長州は大島奪還の策を練り始めます。
この大島奪還に至るまでの高杉さんや世良修蔵さんの活躍は割愛させて頂きます。
結果的に幕府軍は、大島を長州に奪還されます。6月19日のことです。
その数日前の6月14日(1866年7月15日)、芸州口の攻め手を任された彦根藩の軍・井伊隊が、安芸と周防の境に流れる小瀬川に差し掛かります。
しかし数で負けていることを自覚している長州軍は、幕府軍相手にゲリラ戦を持ちかけます。
山中を駆け巡り、物陰に身を隠しつつ、絶妙な射撃の腕を以って奇襲されたら、井伊隊もそりゃ大混乱しますよね。
加えて長州軍が使っているのは、薩長同盟によって薩摩経由から買うことが出来たミニエー銃なので、有効射程距離300メートル、射程距離800メートル。
そんな距離から弾が飛んで来るゲリラ戦を持ちかけられた井伊隊は逃走、海へ逃れようと舟に人が殺到して溺死する人や、彦根兵の代名詞「赤備え」の具足も重いとその場に捨てていく始末。
井伊の赤備えは有名ですし、彦根兵にとっては誇りだったでしょうが、近代化の壁の前では時代遅れ以外の何物でもなかったのですね。
そして先方の彦根兵が敗走してくると、後続していた高田藩(榊原隊)もそれに倣うように、一戦も交えずに撤退します。
芸州口の初戦は、こうして長州側が制することになりましたが、そのまま東へ進んだ長州軍を食い止めたのが、紀州藩藩主補佐の水野忠幹さんの隊。
忠幹さんの隊は井伊隊とは違って西洋式装備が整っており、且つ隊を率いる忠幹さんの士気が高かったので隊の士気も高く、長州軍と忠幹さんの隊は一進一退の戦況を極めました。
残りの三方面は手痛い敗北を喫した幕府軍ですが、芸州口のみ、忠幹さんのお蔭でそれを免れることが出来ました。
それでも全体図から見れば、数で圧倒していたはずの幕府軍は長州軍に惨敗です。
そんな芳しくない戦況報告ばかりが届けられる慶喜さんの元に、更に追い打ちをかけるようにして幕府軍総大将である家茂さんが発病したとの報せがもたらされます。

一方、征伐軍に加えられていない会津にも、戦況は刻一刻と伝えられます。

報せによると、長州兵の銃は悉く命中。幕府軍の弾は敵に届きもせぬどのごどにごぜいます

平馬さんの言葉に、火縄銃や、ゲーベル銃であっても最早時代遅れだと権助さんは言います。
覚馬さんは、長州の銃はミニエー銃で、ゲーベルとの違いを説明しつつ、鎧具足などを着けていては鉄片が弾と共に体にめり込んで命取りになると説明しました。
蛤御門の時、覚馬さんがっつり鎧具足着込んでましたけど・・・あの時はまだその認識が薄かったということなのでしょうかね(苦笑)。
ちなみに長州の弾が命中して、撃ち返す幕府の弾が命中しなかったということについて補足説明をさせて頂きますと、400メートル離れた距離で撃ち合った時、単純に確率だけを計算すると、ゲーベル銃は20発に1回しか当たらないのに、ミニエー銃は2発に1回当たることになります。
銃だけが戦は決まらないのではないかと内蔵助さんが言いますが、これは昔ながらの兵法をまだ信じ切っている発言ですね。
しかしそこで、修理さんは、はて妙だと言います。

大量の新式銃、長州は一体何処で手に入れだのでしょう
んだな。長州は朝敵だ。銃の売り買いは禁じられでる
何者かが武器の買い付げに手を貸しているのでは・・・。広島、宇和島、あるいは・・・薩摩

長州と薩摩が長年の旧敵同士だということをよく知っている内蔵助さんは、まかさと言いますが、大蔵さんの分析は冷静です。

一時会津と手を組んだのも、目先の邪魔者を除ぐのに我らの武力を使っただげがもしんねえ
では、我らが邪魔になれば・・・
会津をも、除こうどする

事ここに至って、ようやく薩摩の黒い影に気付いた会津は、急ぎミニエー銃の調達に取り掛かろうとします。
しかし会津藩の財政は、かねてよりこのブログでも触れているように逼迫してる何てレベルのものじゃありませんので、調達したくてもお金がありません。
どうにもこうにも、手詰まり感が否めない会津です。
ですがその少し後、土佐さんは覚馬さんと修理さんを呼び出し、覚馬さんには近々銃の買い付けに長崎へ行くように命じます。

勝手向ぎは苦しいが、もうそったごども言っていられねぇ。長州に勝る新式銃を揃えねばならぬ。金の算段にちっと時がかがる。秋には出立出来るよう、支度しておげ

とは言うものを、どうも泥縄感があります。
そしてもうひとつ、覚馬さんを長崎に行かせる理由に、眼病が専門の医者に覚馬さんの目を診せるというのがありました。
この医者はアントニウス・フランシスカス・ボードウィンさんを指しているのでしょうが、土佐さんは覚馬さんの様子がおかしいので、心配していたようです。

馬鹿者、眼病のごど、なじょして早ぐ報告しねぇ。にしの目は、会津になくてはならぬ。治すごどもお役目ど思え

しかしその場に水を差す様に、家茂さん薨去の報せが入ります。
家茂さんが亡くなられたのは、慶応2年7月20日(1866年8月29日)の大坂城に於いてでした。
数え13歳の時に将軍となり、享年は21歳。
第二次長州征伐の、幕府軍敗色が日毎濃くなる中での出来事でした。
幕府からの公式発表はその死からひと月後の8月20日(1866年9月28日)とされていましたが、家茂さんの死を悼むと同時に考えなければいけないのがその後継者です。
家茂さんは、孝明天皇の妹、和宮さんを正室にしており、側室はなく且つおふたりの仲はそれはそれは睦まじいものだったそうですが、子はありませんでした。
そこで家茂さんは、死に際して自分の後継は従弟の田安徳川家の徳川亀之助さんにと言い残しますが、このとき亀之助さんはわずか3歳、数えで4歳の少年でした。
如何な先代将軍のご指名と雖も、現在幕府は第二次長州征伐の難局を乗り越えなければいけない重要な時で、その舵を取る将軍が少年では話にならないわけですよ。
というわけで亀之助さんへの相続は却下され、十五代将軍に前尾張藩主徳川慶勝さんも候補に挙がりましたが、既に隠居の身は将軍に相応しく無いと判断されました。
そうして白羽の矢が立ったのが、性格難ありですが英邁(何といっても家康様の再来とまで謳われたほど)な慶喜さん。
7月27日に「徳川宗家」は相続しますが、将軍職に就くことは固辞しました。
これを今風に言うとどうなるか、良く使われる譬えですが、「与党党首となった慶喜さんが、総理大臣になるのは嫌がっている」という風に捉えて頂くのが一番理解して頂きやすいかと。
ともあれ将軍ではありませんが、徳川宗家を継いだこの時に「徳川慶喜」が誕生します。
そんな慶喜さんを説得するために、春嶽さんが二条城を訪れます。
何故引き受けて頂けないのかと詰め寄る春嶽さんに、慶喜さんも負けていません。

不肖の身じゃ。老中たちが何と言おうが、そのような大役はとても務まらぬ
要らぬご謙遜を・・・。今は戦の最中にござります。天下安泰のため、何卒お引き受け下さりますように
のう春嶽殿。よく似た話があったな。公武一和のため、天下のためと請われて奥州の一大名が京都の守護を引き受けた。身を粉にして働き、今も四苦八苦の有様じゃ。そういえばあの折、説得に当たったのも貴公であったな

春嶽さんからすれば、元々十四代将軍の座を家茂さんと争った身の上なんだから、十五代将軍に就任したって良いじゃない、と思っていた節も多分あるでしょう。
ですが慶喜さんを弁護させて頂くなら、慶喜さん自身はあの折一度も「将軍になりたい」と思ったことはなく、寧ろあの時は慶喜さんの周りが慶喜さんを神輿として担ぎ上げたのです。
「余はもう、そなたたちに担がれる神輿ではない」の一言は、その経験から来ているのでしょう。
慶喜さんのその経験について、もう少し弁護がてら掘り下げますと、十四代将軍の座を巡っての争い→日米修好通商条約→後継者は家茂さんに→慶喜さんに登城差し止め・隠居謹慎の処分が下される(安政の大獄)、の流れは第4回で既に描かれたことです。
以前の記事でもその流れは触れさせて頂きました。
慶喜さんがこのとき下された処分を全て解かれるまで、隠居謹慎蟄居の処分自体は翌年に説かれますが、再び日の目を見るには約3年の歳月を待たなければいけませんでした。
年齢で言えば数え22歳から数え25歳までの間です。
神輿として担がれたのなら、たとえ神輿自身にその気がなかったとしても、処分を免れないのは仕方がないと言えばそうなのでしょう。
けれどもそれが水戸の人に同情を呼ぶ水となり、波紋となって、少なからず桜田門外の一件にも繋がって行ったかもしれません。
一橋家に養子入りしていたとはいえ、慶喜さんは水戸の烈公(斉昭さん)の息子ですし・・・。
自分の意思に関係なく神輿にされ、神輿として相応の責任を負わされ、その神輿とその父(斉昭さん)に同情した水戸浪士が桜田門外の一件を起こした、と繋げて行ってみると、慶喜さんがどうにもこうにも「責任を負わされる」と言う立場から逃げ腰なのも、受け入れられるかどうかは個々で違うと思いますが、多少の理解を示してあげることは出来るのではないかと、私なんぞは思います。

そして8月8日、慶喜さんは参内して将軍名代(将軍空席なので名代も何もありませんが・・・)として長州征伐に出陣することを奏上し、孝明天皇から節刀を賜ります。
大坂城に戻った慶喜さんは、旗本達を鼓舞するようなことを言いますが、その場に立ち会っていた覚馬さんと大蔵さんは空々しくその言葉を聞いていました・・・うん、今まで散々苦い思いをさせられてきた会津藩ならそう言う反応になりますよね(苦笑)。
旗本軍をフランス式編成に改めて・・・と、やる気スイッチの入っていた慶喜さんですが、覚馬さんたちの反応が現実となったと言いますか、
けれども幕府軍の九州方面の拠点である小倉城が、小倉藩士の放った火で炎上し、事実上陥落したとの報せを聞くや否や、慶喜さんはあっさり出陣を取り止めます。
それが8月11日のことですから、慶喜さんのやる気スイッチの発動はわずか3日間の起動だったのですね(苦笑)。
しかし孝明天皇の勅命まで賜って出陣するのに、形勢不利だから出陣を辞めますと言うのはあまりに身勝手が過ぎますので、家茂さんの喪を理由に休戦の勅命を長州に対して出して貰おうと言うことになります。
尊王を謳う長州からすれば、勅命は無視出来るものではありませんし、幕府側としても「休戦」なので、「敗戦」の汚名だけはそれで免れます。
筋は通ってますし、名案と言えば名案なのでしょうが、慶喜さんのやる気に煽られてた人たちからすれば肩透かしも良いところですよね。
確かにそのまま休戦にならなければ、長州軍幕府軍双方で相応の戦死者が出たわけですが、流石慶喜さん素晴らしい名案!と膝を叩いて賛同出来ない後味の悪さを残すのは、一体何故でしょうね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年4月11日木曜日

歴史の跫音を聴く 其の弐

此方の記事から内容が続いてます)
さて、お腹も満たされ、いざ後半戦です。
午後からのとある目的地を目指して、京都府庁から御所を横切って、まずは新島旧邸を目指しました。
八重さんの二人目の夫、新島襄さんの私邸ですね。
二階建てのコロニアル様式、和洋折衷の建物。
明治11年(1878)に建てられたもので、当時の生活の様子などが色濃く残っているということで胸を躍らせていざ!・・・と思いきや、本日の予約なしでの見学受け付けは終了したとのことで。
今度はキッチリ予約を入れて来ようと、心に刻んでしぶしぶと新島旧邸を後にしました。
そのままトコトコと歩いて向かったのは、丸太橋の袂にある女紅場址。
明治5年(1872)から八重さんはここで権舎長・教道試補として働いていました。
後の府立第一女学校、現在の鴨沂高校で、当時京都の女子教育の魁となった場所でもありました。
八重さんはここに4年務めましたが、襄さんと婚約すると、すぐに解雇されます。
理由は襄さんが「キリスト教だから」。
まだ異国の宗教に対して、かなり風当たりが強かったことがこの件からも窺えます。
そのまま更に、丸田町を東にてくてく。
目的地に行く前に、一旦岡崎道の向こうで左折して北上して、到着したのが金戒光明寺、通称「黒谷さん」。
まずは文殊塔に向かって階段を上り、会津藩殉難者墓所に行きました。
ここには会津藩士352名が眠っています。
秩父宮勢津子妃殿下(松平容保の孫)御手植えの槙の木などもありました。
その手前の西雲院の中には、鳥羽・伏見の戦いの時、会津藩兵の遺体を埋葬したと言われている会津小鉄さんのお墓もありました。
しばらくお墓に参らせて頂き、文殊塔の麓まで行って、ああここは本当に高台にあるんだな~と思ったりなどして。
色々思いを巡らせながら歩き回って、黒谷さんを後にしました。
非常に静かな空間です。
大河の影響で、あまり賑々しくなってほしくないなと思いますが、さてさて。
再び丸太町通りへ出て、東へてくてく。
ほどなく熊野若王子神社に到着しますので、そこから境内の脇の道を抜けて、目的地である同志社墓地を目指します。
写真の道は結構最後の方のものですが、如何せん山道です。
しかも滑り易いですし、最低限の整備しかされてないので、間違っても大河ドラマ効果キャー!な軽いノリで来たりしないことをお勧めします(そもそもそんな心構えで墓地に来ないで下さい)。
特に女性の皆様、ヒール、ブーツの類は絶対に辞めておきましょう。
猪が出没する山道です、と言うと、少しはこの厳しい言い方の意味がお分かり頂けるでしょうか。
さて、そんな山道を、私は山道慣れているのでひょいひょいと10分ほど。
そこにあるのが襄さん・八重さんのお墓です。
襄さんの碑銘は勝さんが、八重さんの碑銘は徳富蘇峰さんが書いたものです。
襄さんは、勝さんとは10年以上に及ぶ親交があって、同志社の事業拡大の相談などもしていたようです。
少し離れたところに、覚馬さんのお墓が。
墓碑銘には「明治廿五年十二月廿八日歿 友人南摩綱紀追悼揮涙書之」と書かれてました。
南摩綱紀さんは会津藩士の方です。
山本権八さん(八重さんのお父さん)、佐久さん(八重さんのお母さん)、三郎さん(八重さんの弟)のお墓。
覚馬さんとうらさんの娘、みねさんのお墓。
覚馬さんと、覚馬さんの二人目の奥さん、小田時栄さんとの間に生まれた久榮さんのお墓。
他にも徳富蘇峰(猪一郎)さんや、新島家、外国人教師たち、同志社関係の方々のお墓が周りにはありました。
方々キリスト教であったので、お寺の墓地には入れなかったようです。
ここへのお墓参りを以って、此度の旅は幕を閉じました。。。


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歴史の跫音を聴く 其の壱


過日4月7日の日曜日、とある目的があってぶらり京都へ行って参りました。
折角なので、目的達成ついでに目的地周辺の幕末史跡巡りをしようと思い立ち、まず向かったのが京都御所。
「凝華洞」、別名「御花畠」。八月十八日の政変(1863)のときに壬生浪士組(後の新選組)が警備を担当したところですね。
続きまして、建礼門から蛤御門を左手に臨んでみました。
右手にちらっと屋根の端だけ写ってるのが建礼門で、左に小さく見えてるのが蛤御門。
禁門の変(1864)の当時は、蛤御門は写真の位置より100Mほど手前にあったので、どれだけ内裏から近いところで銃撃戦が行われていたか、少しでも感じて頂ければと思います。
丁度御所の春季一般公開が行われておりましたので、普段入ることの出来ない御所内部(内裏)まで足を運んでまいりました。
こちらは「小御所」。
王政復古の大号令が発せられた日の夜、「小御所会議」はここで行われました。
諸種の儀式や、武家の対面にも用いられていたというので、容保様もここに来られたのかな~などと想像しておりました。
寝殿造と書院造が混合した様式の建物みたいです。
奥に「迎春」と書かれた白い看板が立ってるのですが(見えにくいですね・・・)、奥に見える建物は孝明天皇の御書見の間として使用されていたようです。
内裏から出まして、今度は鷹司邸跡。
そうです、禁門の変の時に久坂さんが自刃した場所です。
こちらは鷹司邸跡から堺町御門方面を撮ったもので、写真中央にちょこんと写ってるのが堺町御門です。
こちらも先程の蛤御門同様、少しでも距離感が分かって頂ければなと思います。
御所はこのくらいにして、京都に来た目的を果たしに、旧京都府庁へ。
名前の通りかつての京都府庁で、入り口のところまで馬車で乗り付けることが出来る先進的な建物でした。
入り口の上にバルコニーが設けられていますが、あそこに立った人物は今まででふたりしかいないそうです。
ひとりは昭和天皇、もうひとりはユーリイ・アレクセーエヴィチ・ガガーリンさん。
庁舎の竣工が明治37年(1904)なので、もう一世紀以上経っているわけですが、その間で僅か2人。
次に立つ人がいたりとかしたら、京都中でニュースになったりするのでしょうかねぇ。
ちなみにこちらの建築はルネサンス洋式で、台形型の屋根が珍しいようです。
写真で見えてます建物の壁の白い部分は石で出来てるみたいですが、茶色い部分はモルタルみたいです。
日露戦争の影響で資金不足になったからだとか(竣工は明治37年、日露戦争は明治37~38年)。
さて、ここ旧京都府庁の土地は、かつて京都守護職会津藩上屋敷があった場所の区画そのままです。
なので周りを歩くと、屋敷の土地面積が良く分かります。
旧京都府庁の周りには、在京会津藩士たちの屋敷があったそうです。
本陣自体は金戒光明寺ですけどね。
そして、この度の旅の目的はこちらの桜の樹。
「容保桜」と呼ばれている品名です。
案内板によると、
京都府庁旧本館中庭に、ひときわ異彩を放つ山桜があり、調査を行うと山桜の変異と思われる。特徴として、花弁は五枚であるが通常の山桜よりも大輪である。花梗が長く、一文字状に咲き、芽出しも茶芽山桜の遺伝子を持ちながら大島桜系の花の要素も出ている。この様に変異し、現状の場所で気品を保ちながら成長したのも何かの因縁かと思われる。現地の京都府庁は、元京都守護職上屋敷の跡地であり、今昔の京都を見続けた場所に、この様な桜が偶然とはいえあるのが面白い。今後も永く府の行政を見続ける様、守り育てたいものである。これらの事情を踏まえて、新しい個体であることが判明したこの桜を、当時守護職の任に当たった、松平容保の名を継承し、容保桜と命名する。平成二十二年 春 佐野藤右衛門

とのこと。
佐藤さんは、桜守として知られる16代目の方です。
咲いたら3~4日で花が散ってしまうみたいでして、この日も折からの強風と雨で花はほとんど残ってませんでしたが、それでも一握りの花が散らずに待っててくれました。
ここの中庭は、円山公園などを手掛けた小川治兵衛さんによるものです。
建物自体がロの形になってますので、屋内何処からでも窓の外に桜を眺められるという、非常に魅力的な場所です。
ちなみに覚馬さんが二代目京都府知事の顧問となったのが明治3年で、京都府会議員初代議長となったのは明治12年の話ですが、その時はまだこの建物は存在していなかったので、覚馬さんが勤めていたのは二条城(そっちに府庁がおかれてました)の方です。
この後、遥々福島から来て下さった福島八重隊の皆様とお会いしたり、一緒に館内を巡ったり、会津グルメのなみえ焼きそばや会津地鶏の串焼きを食べたり・・・と、和やかな時間を過ごしておりました。

其の弐へ続く・・・。


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2013年4月10日水曜日

第14回 「新しい日々へ」

会津名産、絵蝋燭の柔らかい光に照らされた八重さんの輿入れの様子から始まりました、第14回。
覚馬さんとうらさんの祝言の時にも書きましたが、婚の字に「昏」の字が含まれている通り、昔は花嫁は黄昏に出立して婚家にやって来ました。
しかし嫁を貰い受ける側として、権八さんは外に出てたら駄目なんじゃいないのかな・・・とも思いましたが、まあめでたい席ですのでその辺りは気にしないことにいたしましょう。
改めまして、八重さん、ご結婚おめでとうございます。
ちなみに20歳、数えで22歳での嫁入りです。
当時にしては遅いかもしれませんが、親友の時尾さん何て明治に入ってから結婚しますもんね。
年頃の藩士がこぞって守護職として都に取られていたのも八重さんの結婚が遅れた理由かも知れないですね。
八重さんの白無垢姿、非常にお綺麗ですが、白無垢が白いのは、日本では古来白は太陽の光の色と考えられ、神聖な色とされてきたからです。
衣装として定められたのは、小笠原流などの礼儀作法が確立し出した室町時代。
綿帽子の起源は、婦人が外出するときに小袖を被いたことに端を発しているようで、それが江戸期に綿帽子になったと。
では角隠しは何処から来たのかと言いますと、あれは幕末期から明治にかけて登場したもので、婚礼衣装の変化を順に追っていきますと綿帽子→練帽子→揚帽子(=角隠し)となります。
ところで、数年前に放送された「坂の上の雲」の第8回の、秋山真之さんと稲生李子さんの築地の水交社での結婚式の様子を覚えておられますでしょうか。
あれは明治36(1903)年6月2日の出来事なのですが、あの時の季子さんの花嫁衣装は黒の裾模様の留袖に角隠しとなっていますよね。
何故かと申しますと、幕末から明治にかけて西洋の考えが輸入され、文化面にも適応される部分がありまして、その影響で神聖な色が白から黒に変わったからなんですね。
もう少し白から黒への変化を語りますと、「坂の上の雲」では正岡子規さんの葬儀の際、律さんや八重さんの着ている喪服は白でしたが、現在私たちが着る喪服の色は黒ですよね。
そこも西洋化によって、色に対する捉え方(認識)が変わってしまったからなんです。
・・・と、随分と話が随分と逸れてしまいました。
祝宴は賑やかに、余計なことをいう親戚や、お酒が進みすぎる人たちがいるのはいつの時代も変わらないようですね(笑)。
しかしご親戚の方が指摘していた、尚之助さんの扶持がない件ですが、蘭学所からの役料は別に雀の涙ではないと思うのですけどね。
そもそもドラマでは触れられてませんでしたが、最初は蘭学所からの役料すら断っていましたので、そんな尚之助さんの人となりをもっと評価してあげて下さいよ親戚一同さん。
権八さんに助け船を出して貰った尚之助さんではありましたが、「衆寡敵せず」と輪の中に参戦し、結果権八さん共々酔い潰れることに。
宴終了後、仕方がないと八重さんはそんな尚之助さんを米俵のように担ぎ上げて運びます。
屋敷を賜ってない尚之助さんの新居は、角場の二階でしょうか、あそこは。
箪笥が一棹に鏡台、豪華さこそはありませんが、権八さんの「」な嫁入り道具が既にそこには並んでいました。
着替えた八重さんの小袖が、今まで赤色系統も混じった色合いでしたが、青色系統で統一されたものに変わってますね。
嫁いだことで、娘らしさを抜いて落ち着きを出そうということでしょうかね、うらさんも青色系統の着物ですし。
さて、嫁入り道具の前に「御祝」と書かれた木箱を見つけた八重さん。

あんつぁまがらだ

包みの中は文、砲術書の『新砲二種』、それから桐の小箱。
文には「これよりは夫婦力を合わせ、紅のごとく赤々と生きること肝要に候」とのお言葉が。
桐箱の中身は結婚式には欠かせない蛤貝で、中身は紅です。
起きた尚之助さんがそれを八重さんの唇に差してくれますが、ちゃんと薬指で差しているのが良いですね。
薬指は普段使わない指なので、それだけ清潔と見做されているのです。
いま指で塗るタイプの紅はお見かけしませんが、指で塗るタイプのリップクリームを薬指で塗ってる人を見かけると、ああよくご存知だなぁ、などと思ってしまいます。

まさしく幸せの絶頂とも言うべき八重さんですが、都の覚馬さんはまさにその真逆の状態でした。
以前から目の不調があった覚馬さんですが、医者に診断された病名は「白そこひ=白内障」。

気の毒だが、いずれは失明するものと覚悟した方が良い
先生、覚馬さんは先年の戦の折に目に怪我を負われております。それが長引いているのでは?
目を痛めたのであれば、それが元かもしれぬな。そこひには違いない
いづ
ん?
いづ、見えなくなんのでしょうが

分からない、と医者は答えます。
治る見込みも難しいと。
しかし、いつ「治る」のかではなく、いつ「見えなくなるのか」を問うた辺り、覚馬さんには「その日」の覚悟が出来てるのだなと伺えますね。
だから、何で自分が、とかありがちな悲観には暮れない。

見えなぐなんのが、俺の目は・・・。目が見えなくて、なじょして銃を撃づ・・・なじょして書を読む・・・何もかんも、出来なくなんのが・・・

自分の目がいつ見えなくなるのか分からないというのは、推し測ることの出来ないほどに怖いことだと思います。
その日が明日か明後日か分からない、今日見えてたものが明日見えなくなるかもしれない。
余命宣告とはまた少し違った意味で、覚馬さんはここで時間を限られてしまったのですね。
その限られた中で、今後彼がどう動いて行くのかはこのドラマの見どころのひとつだと思います。

幕末は時として、世界史の中から日本史を見る必要がある(だからややこしくなってくる)、という旨については、既にこのブログの冒頭で触れたことです。
1856年4月3日、アメリカ南部の首都リッチモンドが陥落し、同月9日に南北戦争は事実上終了します。
勝利を手にしたのは北軍ですが、国を二分した戦いの戦死者は約62万人で、これは現在に至るまでのアメリカ史上最悪の死者数です。
日本が被った南北戦争の波紋は、戦争終結によって不要の産物と成り果てた武器の捌け口となってしまったことでしょう。
武器商人風に言えば、次の市場として日本がロックオンされた。
アメリカが南北に分かれて戦ったように、その後日本もふたつに分かれ、日本人同士の血を流していくことになります。
12代将軍家斉さんが将軍として在った頃と同じ頃に、イギリスでは産業革命が起こり、フランス7月革命(『レ・ミゼラブル』の舞台辺りですね)からヨーロッパ中に革命運動が起こり始め・・・と、世界各国が近代化に向けて、或いは何かに向けてアクションを起こしていました。
その時代の中から長期航海に耐え得る蒸気船が生まれ、それが黒船として日本に来るタイミングと、徳川幕府の屋台骨の限界が、示し合わせたようにほぼ重なるのが、面白いと言えば面白いところです。
日本史の中だけで物事を見ていると、急に黒船が現れて、その存在に日本中が引っ掻き回されて、やがて諸外国が介入してきて日本中が大混乱して・・・と言う風に思えますが、日本の外から幕末を見ると、黒船は来るべくして日本に来て、日本は近代化の波に呑まれるべくして呑み込まれていったのだなというのが分かります。

さて、そうこうしている内に季節は夏。
越前福井城には西郷どんが、春嶽さんを訪ねて来てました。

ご公儀の慢心ぶりには困ったものよ
こんままでは、再び長州征伐の兵を挙ぐことになりもすな

ご公儀も慢心、というのは、第一次長州征伐が西郷さんの献策により一戦も交えないまま終わったことは前回でも描かれたことですが、まあ長州から家老三人の首を差し出された幕府は、「長州は自分たちに屈した」と思ってしまう節があるのです。
それが春嶽さんの指摘する「慢心」の部分です。
その後更に天狗になった幕府は、長州に藩主父子(毛利敬親さん・定広さん)を江戸に呼び付け従わない場合には再び長州征伐の兵を挙げると脅しをかけますが、藩主父子は従いません。
このままだと第二次長州征伐勃発もそう遠くないかと思いきや、結果的に翌年の慶応2年(1866)にそれは起こるのですが、それに臨む薩摩の姿勢がこのときから触れられています。
つまり、内乱など不毛で、いま戦をすればメリケンの二の舞になって世の中が荒れ果てることになるという春嶽さんの言葉を受けて、西郷どんは薩摩に帰って出兵しないように進言すると応じます。
実際、この後起こる第二次長州征伐で、薩摩は兵を出しません。
ですが、長州征伐に兵を出さない、と薩摩の人間が言ったことに奇妙さを感じる春嶽さん。

妙だな。何故薩摩が長州の赦免に向けて動くのだ。長年の仇同士ではないのか?
幕府のひとり天下の世に戻さんがためにごわず。政は公論を以って行わねばなりもはん
共和政治か。わしがかねてから目指しておるこの国の形じゃな
はい。新しか国の形でございもす

共和政治、というのは前回からちらほら出て来たフレーズですが、今は亡き斉彬さんが目指しておられたこれは、実は斉彬さんが在りし頃、春嶽さんも一緒に目指していたものです。
なのでこのシーンは、「全く関係のない西郷どんが春嶽さんを訪ねて来た」というのではなく、「斉彬さんの衣鉢を継いだ西郷どんが、かつて斉彬さんと共に共和政治の夢を追いかけた春嶽さんに会いに来た」という場面になるわけです。
西洋の林檎の「接ぎ木」というのも、その関係があるからこそのものかと。
今年の大河は、こういったもののリンクのさせ方が非常に上手いなと思います。
しかし「西洋の良きものを大いに取り入れ、国内の物産を育てることが肝要じゃと思うておる」とえっへん顔で言う春嶽さんですが、その考えをおそらく春嶽さんに説いたであろう横井小楠さんの名前も少しは出て来て欲しいな、と思いました。
いえ、小楠さん自身は禁門の変の直前に越前藩の政治顧問を辞めて肥後に帰っちゃってますけど・・・。
それじゃあ何で小楠さんの存在にそんなにこだわるのかと言いますと、後々に必ず出てくるであろう覚馬さんの『管見』に必要な存在だからです。
『管見』についてはまたその時に詳しく触れますが、あれは覚馬さんが何かを閃いて書き綴った(正確には口述させた)ものではありません。
色んな人の影響とか受けて、それを自分の中に一度インプットして、アウトプットさせたものだと、少なくとも私はそう考えています。
そのインプットの要員に、小楠さんは不可欠なのですよ。
・・・『管見』、どんな風に描かれるのか、ちょっぴり不安になってきました。

さて、何かを勘違いして慢心気味の幕府が次にしたことは、京都守護職の役料の差し止めです。

京に来て以来の莫大な出費で、日々金繰りに腐心しているどいうのに

金銭問題は常に会津に付き纏っているように思われるかもしれませんが、実際会津の赤字はどれくらいだったのか。
実を申しますと、上洛後は年間に約12万両前後の赤字も赤字、真っ赤な大赤字でした。
寧ろこの赤字を抱えて、よくもまあ何年もやって行けてるなと思うばかりです。
幕府からは役料なども出てましたが、そんなものは焼け石に水、足しにもなりません。
足しにもなってはいませんでしたが、それでも役料さし止めなどとなったら、焼け石にかける水すらなくなってしまうというわけですので、皆様がざわつくのも無理のない話です。

我らが朝廷をお味方に付け、ご公儀に楯突くものとお疑いの様子がごぜいまする

故にその疑いから、幕府は会津を怖れ、その力を削ぐために役料を差し止めるという経緯に至ったのではないかと平馬さんは推測します。
しかし権助さんが言ってるように、会津は先祖代々将軍家に尽くして来ましたし、そもそも京都守護職の貧乏籤を敢えて引いたのだって、将軍家への絶対の忠義を守るようにとの御家訓あってのこと。
それを逆手にとって京都守護職を押し付けておきながら、この掌を返すような仕打ちを前に、こうまでされて都に留まる理由はないから守護職を退いて会津に戻ろうという声が上がるのは当然ですよね。
けれども容保様は首を縦には振りません。

世が平穏にならぬ内は、主上ひとりをお残しして都を去るわけには参らぬ

掘り下げますと、この容保様の台詞で、ある意味会津が縋れるものは孝明天皇の信頼だけだということが露呈してますね。
だから、孝明天皇がいなくなったら会津のその足場そのものが崩れるということになる。
そしてご存知の通り、歴史は皮肉にもそうなったんですよね。
神様も仏様も、本当に残酷で無慈悲です。
容保様は、自分たちが京に残るのはそう長いことではないと言います。

朝廷とご公儀が手を取り合い、長州が禁裏に発砲した大罪に将軍家が裁きを下してこそ、まことの公武一和が相成るものと思う

ここで特記したいのが、長州にとって会津は憎悪の対象ですが、会津(容保様)は何も長州を「憎し」とは思ってないこと。
ただ容保様にとって許せないのは、攘夷を唱える長州が御所へ発砲した不敬のみであって、正すべきはそこだという。
罪を憎んで人を憎まず、ではありませんが、容保様らしいと言えば容保様らしい物事の捉え方だと思います。

もうしばらくの辛抱じゃ。・・・これを成し遂げたら、皆で会津に帰ろう。磐梯山の見守る、故郷へ

容保様にこう言われては、一同沈痛な面持ちで平伏するしかありません。
その夜、月を見上げながら「会津のお城の月を見たい」と零した内蔵助さんと、それを一緒に見上げる修理さんと覚馬さん。
内蔵助さんはさて置き、修理さんも覚馬さんも、それは叶わないことなのだと知っている身からすれば、非常に切ないシーンでした。
八重さんは会津戦争で会津が降伏した日の夜に、「明日の夜は何国の誰かながむらんなれし御城に残す月影」という歌を櫛を使って城内三の丸雑物庫の白壁に刻んだと言います。
会津のお城の月、というのはそこへの伏線かなと、ぼんやり考えたりもしてしまいました。
この歌が詠まれる時まであと約3年です。

その八重さんと言えば、会津で新婚生活大満喫かと思いきや、尚之助さんを「旦那様」ではなく未だに「尚之助様」と呼んでることについて、そういうことを疎かにしてはならないと権八さんから厳しく言われます。
渋々と尚之助さんのことを「旦那様」と呼び始めることにし、鉄砲も撃たずにいますが、お蔭様でもやもやが溜まった八重さん。
道場で居合わせたお雪さんに、どうしたら良い夫婦になれるのか、そのノウハウを乞いますが、お雪さんは薄く笑って自分にも分からないと言います。
お雪さんは、自分と修理さんは夫婦の真似事をしているような気がしているようです。

嫁いでからすぐに、旦那様が都に上られることになったべ。早ぐ良い嫁になって、送り出さねばどばっかり思って・・・諍いひとつしながったげんじょ、私は一度県がしてみだがった。叱られでみだがったし、困らせてもみだがった
お雪様
旦那様が都がらお戻りになったら・・・私はもういっぺん、初めがら夫婦をやり直してぇ

~してみたかった、とお雪さんが過去形で話すあたり、何だか先の展開が透けて見えて切ないです。
あの八重さんとユキさんが、「戻って来たらいつでも喧嘩出来る」的な慰めをひとつもしてないのも意味深ですよね。
それはそうと、結局八重さんは、尚之助さんに「馬鹿なこと」「つまらないこと」を辞めるように怒鳴られてしまいます。

つまらぬことだべが?私は、尚之助様が人に後ろ指指されねぇように、ちっとでも夫婦らしぐなりたぐて
私は鉄砲を撃つおなごを娶った。世間並みの奥方なぞお、初めから望んでいない
んだら、私では世間並にはなれねぇど言うのですか!
ええ、そうです

余りの言われように眉を吊り上げていた八重さんも絶句。
尚之助さんって、実は結構失礼なこともズバズバ言いますよね(笑)。

世間並なんぞにならなくて結構。あなたはあなたであれば良い

自分の妻は他の誰でもなく、鉄砲の名人の八重さんなので、それで良いというのが尚之助さんの言い分です。
思えば尚之助さんはずっと言ってましたよね、八重さんは八重さんであればいい、って。
別に八重さんに変われだの、もっとこうしろだの、そう言った口出しをしたことは一度もなかった。
言ったところで変えられないし変えようとしない八重さんですから、これはこれで良い夫婦の組み合わせなのでしょう。
史実の尚之助さんがどういった方なのか、今はまだよく分かっていません。
だから、ドラマの尚之助さんは創作に依った部分がどうしても多いキャラ設定になっているのでしょうが、上手く人物像が立っていますね。

元治2年4月7日(1865年5月1日) 、元号が元治から慶応に改元されます。
禁門の変などの災異のためですが、このとき慶応の他に候補にあったのが「平成」です。
平成にならなかったのは、字の中に干と戈があり、災異を厭うての改元で、それは却下せざるを得ないという事情から、平成は候補から外れました。
もし平成になってたら、慶應義塾大学は「平成義塾大学」になっていたのでしょうかね。
それはさておき、慶応元年閏5月16日(1865年6月9日)、家茂さんが1万7千の兵を率いて江戸城を発し、同月22日に自身三度目となる上洛をしました。
二度目の上洛は海路を使ったのですが、今回は一度目と同様に陸路での上洛です。
家茂さんこのとき19歳、数えで20歳。

藩主親子が再三のお召し出しに応じぬのは、長州に謀反の心がある故にござります。毛利親子には切腹を申し付け、長門・周防は減藩にすべきと存じます。上様の御出陣の上は厳罰を以って当たらねば、ご公儀の威信に関わりまする

幕府は既に長州再征を考えており、4月には前尾張藩主・徳川茂徳さん(容保様の実兄)を征長先鋒総督に任命して着々とその準備を始めていました。
家茂さんに上洛を願い出たのもそのためです。
だからこの時点では長州征伐に幕府の方針としては固まっていていいはずなのに、何故か総大将の将軍まで上洛させておきながら、未だに長州に対しての処罰の重さを論じるのは、ちょっとおかしくないかな、とも思わなくもないのですが・・・。
老中の阿部正外さんの発言に、容保様は、厳しい処分に出れば却って反発を招くので、藩主親子は押し込め、領地は減封に処するのが適当だと言います。
定敬さんも容保様の意見に同意のようですが、これまた老中の松平康英さんに「手ぬるきことを」と一蹴。
老中さん方から見れば、そもそも家茂さんを都に引っ張り出す様に進言しておきながら、公明正大を手堅く守りつつも穏便にことを運ぼうとする容保様が、「じゃあなんで将軍にお運び頂く必要があったんだ」と映るのかもしれませんね。
そんなこんなで、既に家茂さんも上洛しているにも拘らず、長州征伐の方針はなかなか定まらず・・・。
このもたつきの方が、よっぽどご公儀の威信とやらに関わるような気もしますけどね。

一方、将軍が上洛すれば戦は避けられないと危ぶむ大久保さんは、西郷どんに『叢裡鳴虫』と書かれたものと、洛北の岩倉村にとある人物がいると紹介されて、訪ねて行きます。
大久保さんは文政13年8月10日(1830年9月26日)のお生まれですのでこのとき35歳、数えで36歳。
訪ねた先にいたのは、まあ岩倉村というくらいですから岩倉具視さんです。
文政8年9月15日(1825年10月26日)のお生まれですのでこのとき40歳、数えで41歳。
寂びれた住まいに居を構え、幽居している岩倉さんですが、何故公家だったこの人がこんなところで落ちぶれているのかと申しますと、まあ要は三条さんとはまた違った意味で宮中を追われたのですね。
それが文久2年8月20日(1862年9月13日)の出来事です。
宮中を後にすることになった岩倉さんは、その後攘夷強行論者の武市半平太さんに「洛中にいると首を四条河原に晒す」など脅され、紆余曲折を経て岩倉村に落ち着いたという次第です。
一体絶対どうしてそこまで追われる身になってしまったのかと申しますと、和宮さんっておられたじゃないですか、孝明天皇の異母妹さんで、家茂さん御正室の。
かつて彼女を江戸に降嫁させる推進運動をしたのが、この岩倉さんなのです。
朝廷権威の高揚に努めてはいましたが、結果的に皇女降嫁の推進をしたことが、三条さんたちには「幕府にへつらう公家」と捉えられ、辞官落飾を余儀なくされました。
攘夷派の者どもに首を狙われ、というのはそう言った背景事情です。
しかし野良仕事でもしないと食べて行けない、と岩倉さんは仰ってますが、実際は自分の屋敷のスペースを博徒に貸し出して、場所代をせしめて小金を稼いでました。
蟄居しているとはいえ、ぼろ屋であれ、公家屋敷は藩邸と同じく治外法権で幕府の役人は立ち入れませんから。

ご意見書を拝読し、西郷共々感服仕りました
草むらで鳴く虫の戯言や

そんな岩倉さんの隣に、大久保さんはさり気無く黄金の饅頭を・・・。
ひとつじゃ見向きもしなかった岩倉さんですが、ふたつみっつ重ねられると、破れた団扇でそれを引き寄せてしめしめと頂戴します。

薩摩は田舎もんで、岩倉様のお知恵をお借りせねば、何事もないもはん
強い朝廷を作るというわしの望みは、薩摩の武力なしには叶わん。相身互いやな

そう言って笑う辺り、本当に公家だなと思わされるばかりです。
さて、このふたりが出会って利害を共有し合うというのでしょうか、そうすることによって幕末という時代は会津の目に見えないところで動き始めることになります。
えげつない外交も出来るし、潤沢なバックアップ資金もあるし、西郷どんや大久保さんのような第一線で動ける人が育っている薩摩と、麻呂麻呂言ってるだけじゃなくてちゃんとした実行力と構想力を持つ公家が結びつくと怖いということですね。

将軍が大坂城に入り、いよいよ長州征伐に動き出すように御座います
大久保、この戦、どっちを勝たしてもあかん。幕府が勝ったら、またひとり勝手な政をする
はい
長州が勝ったら、朝廷が意のままにされる
はい
どっちが勝っても、わしらにとって良いことは何もない。ここは、薩摩が上手く立ち回らんとあかんのや
しかし、戦が始まればすぐに勝敗が付くのではあいもはんか。兵力では幕府方が圧倒しています
いや、長州は侮れん。藩内の勢力が変わった。先祖代々の鎧兜を売り払い、洋式銃を買うようにと藩士一同に命じた知恵者もおる。桂小五郎や
逃げの小五郎か・・・

長州征伐長州征伐と対象にされていた長州ではありますが、その内部では幕府への恭順を主張する俗論派(保守派)とそれに反対する正義派(改革派)に藩論が分かれていました。
まず政権を握ったのは俗論派。
そこで第一次長州征伐が起こり、その後正義派の高杉晋作さんが元治元年12月15日(1865年1月12日)に功山寺で挙兵して(有名な「これよりは長州男児の肝っ玉 をお目にかけ申す」のあれです)クーデターを起こし、元治2年の初めには正義派が俗論派を一掃して藩政の実権を握ります。
これによって長州の反論は開国倒幕に統一され、倒幕に向けて軍事力強化が図られます。
岩倉さんの、藩内の勢力が変わった、というのはそういうことです。
また桂さんが先導して長州が洋式調練に励んでいる様子でしたが、このとき長州は幕府から一応は睨まれている状態ですので、軍備を西洋化しようとしても、銃を諸外国から買うことは出来ません。
そこでそんな長州のために、武器の売買の中間地点として請け負ったのが坂本龍馬さんの亀山社中です。
・・・と、歴史はこんな風にぐるりと繋がっているわけですが、この辺りの流れは散々今までの幕末大河でも触れられて来たことですよね。

一方会津では、横山常徳さんがその生を終えようとしてましたが・・・かねてより散々触れているように、この方は1年前の夏(元治元年8月7日)に亡くなっているはずなのですが・・・。
何故生きておられるのだろうという疑問と違和感は尽きませんが、言っていることは正論です。

おかしなことじゃ・・・。幕府のため、朝廷のため、誠を尽くせば尽くすほどに会津はますます泥沼に足を取られて行く。・・・帝からご宸翰を賜ったときの嬉しさ・・・あの時の嬉しさが、今は会津を都に縛り付ける鎖となってしもうた

加えて容保様は、御家訓という鎖にも縛られてます。
そこは以前西郷さんが指摘した通り。
在京の家臣は、一応は納得していますが、同時に会津に帰りたがっているというのは、容保様の姿勢に完全に賛同しているからじゃないという現れですよね。
その二本の鎖に縛られているからでしょうか、容保様は現実的な視点をなかなか設けることが出来ないでいます。
帝を尊守し、古くからの決まりごとを遵守するというスタイルは武士としては鑑なのでしょうが、同時に指導者としての欠点にも成り得ます。
故に会津は、こんな世情下で悌次郎さんを左遷などということも出来てしまう。
新しい観点を持っている人たちへの危機管理が薄いのでね。
既存の価値観に依ったままでは、西郷どんや大久保さんや桂さん、あるいは春嶽さんに置いて行かれるばかりです。
しかしだからと言って、容保様の置かれていた状況を慮ると、容保様を閉塞した時代感の人と切り捨ててしまえないのもまた事実。
尽くした分だけの労力と結果が、常に釣り合わない、場合によっては保障されないのが人の世ですよね。
このドラマに登場してきた人々の言葉を借りるならば、「ままならぬ」でしょうか。

程無くそんな会津で、悌次郎さんは蝦夷地の斜里郡代官に任じられます。
悌次郎さんはそれを前向きに受け入れつつも、また会津に戻って来たときには会津が今よりもう少し頭の柔らかい国になっていれば良いと言います。
そして八重さんと尚之助さんに、新しい力はふたりのように古い秩序から縛られない者の中から生まれてくると信じているのだと。
見方によっては、会津が容保様スタイルを貫いた結果の犠牲者が、悌次郎さんとも言えるのではないでしょうか。
そして修理さんもまた、その犠牲者となる。
冷厳に聞こえるかもしれませんが、会津の側面としてはそこはちゃんと受け止めておくべき部分ですよね。
最後に八重さんが指さした先には大きな虹がかかっていましたが、あれはやがて消えていく儚い幸せを意味しているのだろうなと感じました。

しかし今回は対比が多かったですね。
貝に入った紅と薬、喧嘩も出来なかったというお雪さんと喧嘩も出来ちゃう川崎夫婦、飛ばされて行く悌次郎さんと戻る方へ動く岩倉さん、現状維持で役目が終われば故郷へと思う会津と現状打破で強くなろうとする長州、などなど。
こういう細やかな演出があるので、なかなか気を抜いて見ていられないです。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年4月5日金曜日

第13回「鉄砲と花嫁」

禁門の変から、長州征伐へ移ろうところから始まりました第13回。
都の焼け跡の惨状に衝撃を受けていた覚馬さんですが、如何呑み込んだのか、今週は明るい表情で復興に尽力しています。
俵をひょいと持ち上げてましたが、妹の八重さんが出来るのですから、お兄さんの覚馬さんも一俵持ち上げるのくらいは朝飯前なのでしょうね。
しかし運ばれてきた米に喜んでいる人の描写を見る限り、とても前回会津を鬼だの何だのと言っていたのと同じ場所の方々には見えないのですが・・・。
冷たい視線を向ける人もいる反面、まだ温かく受け入れてくれる人もいるということなのでしょうか。
ちなみに「会津は都では嫌われ者だった」「長州は都で人気があった」というのが幕末史の一般認識ですが、長州は都での金払いが良かったんですね。
都の方から見ると、そんな長州は要は経済の歯車を回してくれる存在になるわけです。
逆を言えば、会津はそんな長州を追い出した悪者に映ってしまうんですよね、都の方には。
まあ経済回してくれる人がいなくなると、自分たちの生活にも直接的な打撃を被ることになるわけですから、現実的に物を考えれば・・・ね。
人間なんですもん、やはり自分が生きていく方に有益齎してくれる方に傾くのが心理でしょう。

元治元年8月、官兵衛さんが藩士を率いて上洛しました。

戦の報せを聞いて、急ぎ参じましたなれど、叶いませず、残念にごぜいやした

謹慎していた官兵衛さんは、容保様と対面するのは実に7年ぶりだそうです。
その官兵衛さんが率いて来た藩士たちには
「別撰組」という名を与えられ、隊長を官兵衛さんに任じると共に市中警固を命ぜられました。
慶応四年以降だったら別撰「隊」になってたのでしょうかね。
新選組の池田屋でのことなどを聞いて、あれだけ国許の会津で身を揉んでいた官兵衛さんですから、喜びも一入だったことでしょう。

その頃会津では、国許に帰って来ている悌次郎さんが、山本家を訪ねていました。
余談ですが悌次郎さん、このときの帰国の際に結婚されてます。
お相手は遠藤美枝さんといって、祖は正之公の近習の御家柄の方です。
悌次郎さん42歳にして、美枝さん24歳ですから、当時から考えると特に美枝さんはなかなか結婚が遅かったようにも思えますが、この頃の会津は藩内の若い人たちが、京都守護職のお役目として殆ど都にいるので、なかなか国許の娘さんたちはそう言ったご縁に恵まれなかったのが会津の現状だったようです。
相手がいないと結婚出来ませんからね。
勿論、結婚する人たちがいないと子供も生まれませんので、産婆さんは商売あがったりの状態だったみたいで・・・。
財政的な問題と並行して、そういったことも会津の国許ではぽつぽつ問題として芽吹き出しています。
それは今はちょっと横に置いておきましょうか、脱線しますので(笑)。

おー、お見事!話には聞いでだが、大した腕だ
私の腕は未熟だけんじょ、この銃はなかなかのもんでごぜいやす

悌次郎さんは銃を見せて貰い、尚之助さんが改良を重ねたことに頷きながら「これなら会津でなくても高く腕を買うところはある」と言います。
その言葉に、きょとん、とする尚之助さん。
悌次郎さんはとあることを、少し言い出しにくそうに切り出します。

実は、都を発づ時に覚馬さんに頼まれてな。もし川崎殿が会津を離れるごどを望むなら、余所で働げるよう力添えをよろしぐど

これが今日の用向きだったのでしょう。
常々このブログでも触れていますが、悌次郎さんはおそらく会津藩で一番他藩に人脈を持っていて、多方面に顔が効きます。
だから、会津ではない、尚之助さんを正当に評価してくれるところへ導くことも出来るのですよね。
誰も尚之助さんに会津に留まれと、縛り付けるようなことは誰も言ってません。
そういう何処にもまだ根を張ってない存在であるからこそ、出来るならば会津に根を下ろして欲しいという先週の覚馬さんの文があったわけでして。
なので、先週と言ってること違うのでは?と視聴者としては首を傾げたくなりますし、尚之助さんもそれを指摘していますが、どうやら先週とは状況が変わったようです。

覚馬さんは迷ってだ。川崎殿を会津に留めで良いものがど
私の腕は、もう要らぬということですか?
いや、そったことではねぇんだ
でしたら
象山先生が落命されだごど、お聞き及びが?

どうやら蛤御門のことは会津に届いていても、その数日前に起こった象山先生の訃報は届いていなかったようです。
というか、この場合は蛤御門のことが情報としては重要性と緊急性が濃厚だったので、象山先生のことが後からの出来事に掻き消されるような形になってしまったのでしょう。

刺客に襲われで亡ぐなられたのだ。その後、佐久間家がなじょなったが・・・お取り潰しだ
そんな・・・
象山先生のお働ぐに、松代藩は何ひとつ報いながった。それどころが、煙たがる向ぎさえあったど聞ぐ

・・・うーん、象山先生のことについて再三突っ込んではいることですが、佐久間家お取り潰しは松代藩の方々が象山先生の働きを認めてなかった云々よりも、象山先生の人間性がおそろしく藩の中で嫌悪されていたということをちょっとこのドラマではスルーし過ぎではないでしょうか。
これだと松代藩の方々が単にイヤな奴集団になっちゃうような・・・いえ、象山先生に好意的だった人たちから見れば、松代藩がそう見えるのは当然かもしれませんが。
まあ、要は物事に於ける視点の置き方ですけども。
覚馬さんも仰ってたように、悌次郎さんも象山先生の一件から、会津も他藩のことは言えないと言います。

秋月様。会津は、そんな薄情などごろではねえがらし
うむ。んだげんじょ、会津は頑固で新しいものを容易ぐは認めねえ。その銃にしてもそうだ。川崎殿がどんだけ力を尽ぐしても、それに見合うだけの地位を得るのは難しかんべ。それでも会津に留まることを良しとすんのか

史実はどうであったのか、詳しい部分は勉強不足故私は知りません。
でもこの象山先生の一件から、果たして尚之助さんを会津という畑に根付かせたところで、という考えの変化を展開させていくのは上手い運び方だなと思いました。
ただ、当人の八重さんと尚之助さんにすれば、振り回されていい迷惑だったでしょうが(苦笑)。

覚馬さんからふたりへの言伝だ。遠慮も気兼ねもいらねぇ。己を生かす道は、己の考えで決めで貰いでえ、ど

勝手だな、と思わない辺り、本当八重さんと尚之助さん良い人ですね。
さて、縛るものが何もないという現状と、象山先生の訃報。
このときの尚之助さんの心に重く圧し掛かったのは後者でしょうが

何かを始めようとすれば、何もしない奴らが必ず邪魔をする。蹴散らして前へ進め

この台詞は象山先生から覚馬さんへの言葉でしたが、言葉自体を直接受け取ったのは尚之助さんでしたよね。
その言葉を思い出し、角場で落涙する尚之助さん。
何かを始めて、阻害されて、蹴散らしたけれども蹴散らし方が拙くて死後もなお阻害される象山先生。
覚馬さんはこの言葉を第3回で受け取ってますので、今度は尚之助さんの番、というのは少し変かも知れませんが、今後自分は如何していくのか。
蹴散らして行くのか、邪魔の入らない開明的な場所へその身を移すのか。
八重さんとの縁談云々を抜きに考えても、尚之助さんの選択の時ですよね。

手紙やら伝言やらで、散々国許のふたりを振り回しているなど全く気にしていない(というかきっと悪気が皆無)覚馬さんは、上洛した官兵衛さんに会いに行きます。
官兵衛さんは別撰組の隊士に槍の稽古を付けている最中でした。
隊士たちが持っていた稽古用の槍が、会津で覚馬さんたちが道場で使っていたにもそうですが十文字槍なのは宝蔵院流槍術だからでしょう。
官兵衛さんは、蛤御門で手柄を立てた覚馬さんたちには負けてられないと意気込みますが、それにしても長州攻めはいつ始まるのだと声を荒げます。

ご公儀の方針が定まらねぇみでえです
殿は、公方様がご上洛され、全軍の指揮をお執りになるよう、江戸に進言しておいでなのですが・・・

確かに理想で言えば、幕府の棟梁である将軍が勇ましく指揮を執って長州征伐に乗り出すのが絵になるのでしょうが、如何せん将軍が上洛して、その上戦に赴くとなれば莫大な費用が掛かります。
残念なことに幕府には、その費用を賄うことが出来ないのです。
武家の棟梁として保つべき面子という面倒くさいものがありますので、みすぼらしいなりで将軍を送り出すわけにも行きませんしね。
これは幕府を情けない、と言うよりは、じゃんじゃか諸外国に喧嘩を吹っかけてるのに賠償金請求書は全部幕府に回す一部の藩とか、黒船来航による物価高騰から始まる不景気とか、そう言った経済的な背景事情もあります。
いえ、確かに情けないと言えばそうですが、当時の人たちだって「無い袖は振れん!」と思っていた部分もきっとあるでしょう。
あと家茂さんが江戸から出して貰えなかったという節もありますね。
その辺りを大奥サイドから見た話については、『篤姫』参照で。
そんな一同のところへ、広沢さんが戦の報せを持って来ます。
主語が抜けてたので、てっきり長州征伐だと思い腰を浮かせた官兵衛さんですが、戦は戦でも長州と異国の戦でした。
元治元年8月5日(1864年9月5日)から始まった四国艦隊下関砲撃事件です。
馬関戦争とお呼びした方が多少は皆様にも馴染みがあるでしょうか。
イギリス・フランス・オランダ・アメリカの四国に長州が攻撃された事件です。
事の発端は、長州が文久3年5月10日(1863年6月25日)にやった攘夷実行にあります。
以前の記事でも触れましたが、あの時の要は報復がこのときですね。
当たり前というのも何だか変な表現ですが、この事件は長州の惨敗です。
近代兵器を積んでる17隻の艦隊と、大砲の数さえ足りずで覚束無かった長州では、火力差に雲泥の差があります。
まず大砲の飛距離からして違いますから、長州の大砲が敵艦には届かないのに、敵艦の大砲は長州に届くということになります。
その結果、5日に前田浜占拠、6日に壇ノ浦占拠、7日彦島占拠・・・と、ことごとく長州は艦隊にやられました。

(画像:Wikipediaより拝借)
フェリーチェ・ベアトの撮影したこの写真は日本史の教科書などでもお馴染みですが、これは前田砲台を占領したイギリス軍です。(訂正:この写真は実際は「洲岬砲台」とのご指摘を受けました。ベアトが写真説明の時に「前田地区の砲台で撮影」と記したので、おそらく「前田砲台」になってしまったと思われるとのことです。ご指摘とご教授感謝いたします)
惨敗を喫した長州はこの一件をターニングポイントに、無謀に攘夷を唱える姿勢から、開国勤王へと舵取りの方向を変えていきます。

時代は日を追うごとに確実に動き始めている中、主人公の八重さんにも大きな転機が訪れました。
改良に改良を重ね、元込め式のライフルを作ることに成功した尚之助さん。

筒の内側に螺旋の溝を彫りました。異国製のようにはいきませんが、ずっと命中しやすくなったはずです

私は銃には不勉強なので詳しくどうこう解説は致しかねますが、そういうことのようです。
試し撃ちは八重さんではなく尚之助さんが。
尚之助さんが銃を撃つのは何だかとても久し振りのような気がしますが、弾は見事的の真ん中に命中。
そのことに最後の自信を得たかのように、尚之助さんは八重さんに毅然と向き合って言います。

八重さん
はい
夫婦になりましょう
え?
私の妻になって下さい
そったごど・・・あんつぁまの文のごどは忘れるようにど、秋月様が言わっちゃ。んだがら、縁組のことは、もう・・・
文のことはどうでも良い。私が自分で考えて、決めたことです。お父上にお許しは頂きました。八重さん、一緒になりましょう
駄目です!それは出来ねぇす
何故ですか?私では頼りないですか?八重さんに相応しい男ではないと思っていました。だから、一度は縁談をお断りしたのですが・・・なれど、これを作ることが出来た。日本で最も進んだ銃だと自負しています。たとえ生涯浪人でも、この腕があれば生きて行ける
んだがら・・・ならぬのです。尚之助様を、会津に縛り付けではなんねぇのです。・・・あんつぁまの文が来た時から私はそう思っていやした
八重さん
ずっと仕官に拘ってだのはあんつぁまだ。尚之助様は昔がら、そったごどちっとも望んでおられながった。いづでも、何処にでも旅立って良いのです。やりでぇごどを、おやりになって頂ぎでぇのです!
私はここで生きたい。・・・八重さんと共に、会津で生きたいのです

道が幾つあっても、人ひとりが選べる道はいつだってひとつですからね。
八重さんは尚之助さんの求婚を受け入れました。
その昔、八重さんに「会津は頑固」というのを言葉に出して教えてくれたのは尚之助さんで。
尚之助さんは頑固の国(会津)ではない場所でも十分通用するだけの能力を備えていて、八重さんもそれを十二分知ってて。
でもそんな尚之助さんが、この先その能力を阻むことになるかもしれない頑固な会津で、自分と生きることを選んでくれた。
あなたは会津そのものだから、と八重さんに言ったのは大蔵さんですが、尚之助さんにとっては、八重さんが会津で生きていく理由なのですね。
つまり会津残留は八重さんあってのこと。
しかも八重さんは八重さんで、普通のおなごではないことを自覚して生きて来て、照姫様ご祐筆選抜騒動の時に改めてそれを痛感させられた部分があります。
あの時普通ではない自分を認め、必要としてくれたのは尚之助さんでしたが、今度はそんな自分と一緒に「生きたい」とまで言われましたからね。
嬉しくないわけないでしょう。
八重さんの嫁入り決定に、山本家も嬉々とした雰囲気に包まれます。
下女と下男のお吉さんと徳造さんも大喜びで、しかし山本家を離れるわけではないので「嫁に行く」と言うわけでもなく、しかし「婿取り」というわけでもなく。
こういう場合の仲人もどうしたら良いのだろうかとも頭を悩ませつつ、でもまあ嫁入り道具は人並みに揃えてやろうと、顔を綻ばす権八さんが何とも言えない幸せそうな表情なのが、見ているこちらまでつられて笑顔になります。

元治元年9月15日(1864年10月15日)、ほの温かい空気の会津から一転しまして、大坂の専稱寺に現れた西郷どん。
大坂の専稱寺そのもの今は残っていませんが、場所は以下の地図付近だったと思われます。

大きな地図で見る
勝さんを訪ねて来た西郷さんではありますが、流石に庭で薪を割ってる男が当人だとは思わなかったようです。
後の江戸城無血開城で顔を合わせるふたりですが、名乗り合ってましたし、初めて顔を合わせたのはこのときだと思います。
(ドラマでは皐月塾に西郷さんが訪ねて来てましたが、あそこでは顔を合わせてなかったということでしょうかね)

勝先生、征討令が下ってふた月が経つっちゅうのに、幕府はぐずぐずと時を無駄にしちょいもす。どげんしたら良かかと
何故、それを私に聞くんです?
亡き先君に申しつかりもした。国事に迷った時は、勝先生をお訪ねせよと
斉彬公ですか。お懐かしい・・・。で、アンタは長州を如何したいのです
無論、厳罰に処するべきと。領地をば召し上げ、半分を朝廷に献上、残る半分は戦に功のあった諸藩で割るべきと考えておいもす
挙国一致して、長州を討つってわけか。マアおよしなさい。そんな戦、幕府のためにはなるかしれねえが、日本のためにゃなりませんよ。そもそも内乱なんぞにうつつを抜かしている時ですか?下関を襲った異国の艦隊が、もし摂津の海を攻め込んで来たらどうします?腰砕けの幕府にゃ、打つ手はねえでしょう

ならどうするのが良策かと問う西郷どんに、勝さんは幕府だけに任せるのではなく、国を動かしていく新しい仕組み=共和政治を作るのだと言います。
幕臣である勝さんが、封建制で保たれて来た徳川幕府のやり方を否定してることになりますが、勝さんってこういう方ですもんね。

日本中には優れた殿さまが幾人かはいる。越前の春嶽公、土佐の容堂公、それから薩摩だ。雄藩諸侯が揃って会議を開き、国の舵取りをするんです

斉彬さんもこの政治体制を目指しておられました。
しかしこの体制については、前年(文久3年)に参預会議が数カ月で崩壊、この2年後に将軍となった慶喜さんの元で設けられた四侯会議が、慶喜さんの性格が災いしてすぐに崩壊してしまうという・・・(苦笑)。
2年後の失敗はこの時点ではまだ勿論発生していないわけですが、参与会議が短期間で崩壊したことについては勝さんは如何思っておられたのでしょうかね。

肝要なのは、己や藩の利害を越え、公論を以って国を動かすことです

とは仰いますが、徳川幕府が「幕府」である限り、幕府は己の利害を必ず考えるでしょうね。
面子は捨てられない、最高権力者の地位にいたい、・・・と、後の慶喜さんを見ていれば何となく感じることですが(個人的に)。
そういう風に幕府の性格みたいなのをなぞって行くと、共和政治を実現させるためには何が一番それを阻んでいるのかがくっきりと見えてきます。

わかいもした。・・・たった今、おいは目が覚めもした。天下んために何をすべきか、はっきりとわかいもした。あいがとごわした

勝さんとの会話のやり取りで、西郷どんも斉彬さんが提唱してた共和政治を阻むものの姿がくっきりと浮かび上がったのでしょうね。
だからこそこの発言だと私は捉えたのですが、如何でしょうか。
そして西郷どん開眼発言に、少し喋りすぎたかも、と苦い反省をする勝さんでしたが、既に後の祭りです(笑)。

元治元年10月22日(1864年11月21日)、大坂にて長州征長の軍議が開かれます。
総督は安政の大獄の時に、春嶽さんと一緒に隠居・謹慎の処分に下された尾張元藩主・徳川慶恕さん改め慶勝さん。
前にも触れましたが、容保様の実のお兄さんです。
ドラマでは尾張藩主、としていましたが、この時点では藩主の座は退いでいると思います。
文政7年3月15日(1824年4月14日)のお生まれですので、このとき40歳、数えで41歳。
副総督は、いつの間にかドラマでお見かけしなくなった春嶽さんの養子、松平茂昭さん。
天保7年8月7日(1836年9月17日)のお生まれですので、このとき28歳、数えで29歳。
征伐軍の参謀は西郷どんです。
しかしその参謀が、長州に恭順を勧めるべきだというのですから座はどよめきます。
それでは幕府の体面に関わると言う茂昭に、西郷どんは兵力さで幕府の威光を見せつけること、戦わずして勝つことが善の善なるもの、と孫子の兵法を引用して茂昭さんを論破します。
これによって征伐軍の方針は和平へと一転するのですが、「戦をしなくて良い」の意見に諸藩が飛びつくように右に倣えして、結果戦が起こらなかったのは、やはりここでも各藩の財政的な事情があったからだと思います。
西郷どんは勝さんに、「領地をば召し上げ、半分を朝廷に献上、残る半分は戦に功のあった諸藩で割るべきと考えておいもす」と仰ってましたが、 表向きには石高36万石の長州を征伐したところで、分け前の半分が朝廷に行くのでしたら残りは18万石。
それを征伐に参加する36藩で分け合うと、結局貰えるのは平均して50000石というささやかなものだけ。
手柄によって増減するでしょうから、下手をすれば貰えない可能性だってあるわけです。
しかし戦の出費は膨大且つ藩の財政に余裕がない。
この損得勘定のそろばんを弾けば、やる気も起きないというものです。
ひとつひとつの藩の動向を丁寧に探っていければ、幕末史がもっと面白くなるのでしょうが、生憎と36藩全部には手が回りません・・・(苦笑)。
そんなこんなで、長州征伐は一千も交えることなく、長州川が家老三人の首を差し出して恭順の意を示したところで終わりました。
それから八月十八日の政変の時に長州へ落ち延びた実美さんたちを、筑前藩大宰府に移す様に、というのも条件の中に含まれていました。
いずれも「朝敵」に対しては、随分と寛大な処置だったように思えます。
その処置に関して、二条城で納得いかないと憤慨している御仁がおりました。慶喜さんです。

征長総督め、薩摩の芋酒に酔って腑抜けになったとみえる
芋酒?
西郷という名の芋じゃ

ところが今度は、容保様が長州征伐に家茂さんの上洛を願い出たことを遠回しに批判めいて指摘します。
何かと以前から容保様にねちねちと嫌味っぽい慶喜さんですが、一会桑政権という連携がありますので、

江戸の老中は、京都守護職如きが将軍の進退に口を挟むべきではないと嘲笑しているようです。
何より江戸城に籠りっきりの幕府の偉い様方は、遠い都の現状を本当の意味で知りません。
そのため、慶喜さんや容保様が、朝廷の権威を笠に着て幕府を脅かすのでは、という噂まで立つ始末。
火のないところに何とやらとは申しますが、これは完全に誤解なのでしょうが、今のように即座に情報伝達が行える時代ではないので、これもまた仕方がないことではあるのでしょうが。

江戸城の連中は何も知らぬ。そのくせ帝のご信任篤い我らを妬み、京都方などと名付けて痛くもない腹を探ってくる

今回ばかりは、慶喜さんに同情を覚えますね。
しかし日頃京都守護職として黒谷でお勤めされている容保様に対して、普段慶喜さんって何処で何やってるのかなあ、という印象がないわけでもないですが。
そしてこの江戸と京の間に起こる軋轢は、会津藩内でも発生してました。

江戸藩邸からも訴えが参っております。幕府の役人達が会津を京都方と呼び、何かと嫌がらせをすると
京都守護職は、ご公儀がら押し付けられだお役目ではねぇが。金ばかり嵩んで、国許も疲れ切っているどいうのに

修理さんに、土佐さんはそう零します。
しかしこの行き違い、そして国力の疲弊を放置しておくわけにも参りません。
容保様の体調のこともありますし、ここらが潮時か、とふたりは見極めます。

なあ、修理よ。我らは一体、何ど戦っているのであろう

幕府から貧乏籤を引かされ、役目に励めば今度は幕府から痛くもない腹を探られる。
怨みは買うは、国力疲弊するわ財政破綻寸前になるわ、唯一得たものと言えば孝明天皇からの熱い信頼だけ。
何とために会津から遥か遠いこんな場所で、毎日頑張っているのだろうと、ふっと疑問に浮かべてしまったこの土佐さんの一言、物凄く深いと感じました。

この年、覚馬さんは公用人に、大蔵さんは奏者番、平馬さんは若年寄に出世しました。
そのことについて平馬さん宅で、二葉さんがお祝いを言っていますが、砲術の家の人間である覚馬さんが、武ではなく公のことに関われる公用人に取り立てられたのって、実は凄いことなんじゃないだろうかと思うのですが、どうなんでしょう。
それはさておき、平馬さんが二葉さんに人形を贈ったこのやりとりが個人的に好きです。
ぎこちないんですけど(主に二葉さんがお固すぎて)、結婚前に「仲良くしましょう」と言った平馬さんの言葉はちゃんと守られようとしてるんだなと。
平馬さんは義弟にあたる大蔵さんに、大蔵さんも何か妻女が喜びそうなものを贈ってやれと言います。

櫛でも紅でも良いんだ。おなごはみな、そったもんを喜ぶ。・・・いや、みなどは言えんな。覚馬さんの妹御なら鉄砲の方が良さそうだ
紅白粉より鉄砲です。んだげんじょ、あれもとうとう縁付くごどどなりやした
はあ、そんな勇ましい御仁がいやしたか

縁付く、と聞いたときの大蔵さんの表情が一瞬止まるのは、最早お約束ですね。
お相手が尚之助さんだと聞くと、平馬さんは膝を打ちながら灯台下暗しだと言います。
良かった良かった、とおめでたモードの平馬さんに、驚いて膳のお銚子を倒してしまう二葉さん。
一方ひとり、黙り込んでいた大蔵さんでしたが、やっぱり八重さんに未練が残ってるのかな~好きだった人の結婚話なんて聞きたくないよね~などと思っておりましたが・・・。

良い・・・良いご縁です
え?
まごどに、良いご縁です。おめでとうごぜいやす

顔を上げてそう言った大蔵さんの表情が、国許を離れるとき(第8回)に八重さんに「あなたは会津そのものだから」と言った時のあの表情と非常に似ていました。
解釈は人それぞれでしょうが、やっぱりまだ八重さんへの気持ちは残ってるんじゃないのかな、と言う印象を受けました。
でも国許発ったときみたいに、はっきりと言葉では言い表さない。
この先も一生秘めていくおつもりでしょうか・・・そういう気持ちは引き摺っても全然軽くなってくれないものなんですけどね。
その大蔵さんも、八重さんのあれこれに反応を示しますが歴とした妻帯者なわけでして。
会津で家族が大蔵さんの昔ことを話している中に、大蔵さんの昔のことを知らないが故に輪に入っていけない登勢さんを、そっと気遣う艶さんが素敵でした。

季節が巡って、再び春・・・ということは元治2年(1865)でしょうか。
八重さんの花嫁衣裳である、純白の羽二重の打掛が届けられます。
それに淡い笑みを注ぐ権八さんの横顔が何とも言えず・・・これ、八重さんが家にいるままだからこうですが、嫁いで他の家に行くとかなってたら、絶対に権八さん泣いてたんじゃないのかな。
その場合、覚馬さんの時は大量に耳かきを作ってましたが、何を作ったのでしょうね(笑)。
近々花嫁衣装に袖を通す八重さんはといえば、三郎さんと角場にいました。
嫁入り前だというのに、何処までもいつも通りなのが却って八重さんらしいです。
角場であれこれいう八重さんに、三郎さんは口を少し尖らせて言います。

あーあ。当てが外れだ
ん?
姉上が嫁に行けば、角場は俺の天下だと思ったげんじょ

現代で言う、お兄ちゃんが出て行ったら子供部屋は自分が使える、というのと似た感覚でしょうか。
しかし世界でたった三人の山本家の兄弟で、覚馬さんはずっと都というのもあるので、このふたりの絆みたいなのは、描かれてはいないけど色々と察することが出来ますよね。

姉上・・・おめでとうごぜいやす

弟からの言祝ぎに、八重さんは少し恥ずかしそうに微笑み返しました。
ゆっくりゆっくり幸せが向こうからやってくるような、緩やかな時間の運び方が好きです。

一方、西郷さんの栖雲亭を訪ねた悌次郎さんは、ふたり仲良く筍を七輪で焼きながら西郷さんに京の情勢などを話します。
筍が終始、物凄く美味しそうでした。
会津は京の丸太町に洋式調練の練兵場を開くことになったようで、蛤御門の件が軍事改革を促す良い呼び水になっているという現状は良い傾向かもしれませんが、会津の国許では単にそうとは捉えられません。
ただで軍事改革や洋式調練の練兵場を開くことは出来ません、当然お金がかかります。
ただでさえ守護職拝命前の時点で藩の財政が赤字だった会津ですが、その後赤字は酷くなる一方で、借財も増えるばかりです。
悌次郎さんも財政が苦しいことは薄々承知してたでしょうが、国許に帰国してからそれがよく分かったようです。
国許の人々が倹しい暮らしをしているのを、きっと目の当たりにしたのでしょうね。

公用方には不満を持づ者もいっぺいいんだ。国許がら見れば、都を我が者顔に仕切ってるように見えっからな。横山様の御尽力にも拘らず、にしにお役目が付かぬのもそごらあだりのごどだ

以前の記事でも触れたことですが、この時点で横山さんは亡くなっていると思うのですが・・・(横山さんは8月7日没)。
それはさて置き、そこへお茶を持って来た千恵さんによれば、八重さんの祝言の仲人は悌次郎さんが務めるようです。
ドラマの西郷さんは八重さんを気に入っている様子ですので、もし謹慎になっていなければ西郷さんが務めていたのでしょうね。
しかし仕官が敵っていない尚之助さんは、藩士でないので拝領屋敷がありません。
なので、何処に嫁「入り」は出来ず、嫁「入り」らしく送り出すことも出来ないのを少し気の毒そうに思う千恵さんですが、そういったことを気にしない山本家の面々ではあっても流石に・・・とおもった西郷さんは、ここでひとつ年長者(といってもこのとき34歳、数えで35歳ですが)の知恵を出します。

いや、折角の祝言がそれでは・・・。ああ、わしに考えがあんぞ


会津にも遅い春が訪れ、桜の花が爛漫と咲き誇る砌。
柔らかい陽光が差し込む秋月邸で、わたわたとせせこましい悌次郎さん。

仕度は整いましだがー?

と、開いた扉の向こうには白無垢で身を包み、綿帽子を被った八重さん。
見ているこちらも思わずうっとりしてしまうほどの美しさでしたので、悌次郎さんが感嘆するのも無理からぬ話ですね。

これは魂消だ。すっかり見違えだ
秋月様。今日はこちらのお宅がら嫁入りさせて頂ぐごどとなり、ありがとうごぜいます
いや何、頼母様のお知恵だ

どうやら西郷さんの「考え」とはこのことだったようで、秋月邸から嫁入り行列を出立させる、ということだったのですね。
これで八重さんも「嫁入り」が出来ることになりました。
勿論史実ではどうだったのかどうかは分かりませんが、ドラマの八重さんは色んな人に温かく見守られながら嫁いでいくのだなと、心がほっこりするシーンでしたね。
丁度この回の放送時(2013年3月31日)は、桜が綻び始めた砌でして、狙ったのかどうかは分かりませんが、現実とドラマの季節がぴったり重なっているなと思いました。


ではでは、此度はこのあたりで。


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