2013年5月29日水曜日

第21回「敗戦の責任」

前回火種が爆発した鳥羽伏見の戦いから引き続いて始まりました、第21回。
相変わらず戦の真っ最中なのですが、今回も以前起用した下図を元に、話を進めていきたいと思います。

(クリックで多少大きくなります)
開戦から二日目、つまり1月4日(1868年1月28日)、この日は早朝から戦闘再開となり、じりじりと後退させられた旧幕府軍は午後二時頃に富ノ森まで退きました。
それぞれの銃器装備については、旧幕府軍はミニエー銃、薩摩はエンフィールド銃(短エンフィールド銃)でしたが、旧幕府軍は身を隠す塹壕なども設けてなかったので、街道を包み込むようにして布陣した薩長に敗れる形となりました。
ここの局面から察するに、一般的に捉えられがちな「銃の性能の差」と言うよりは寧ろ「戦略的」に負けていた、と考える方が腑に落ちますね。
ミニエー銃もエンフィールド銃も、射程距離も前装式であることも変わりありませんし・・・性能はやっぱりエンフィールド銃の方が上ではありますが。
しかしそう考えたら(つまり戦略的にという観点で)、後の函館戦争の二股口の戦い(1869年5月24日~6月9日)で、土方さんが塹壕を活用しながら薩長連合軍の進撃を阻止していたというのは、戦術的な進歩なのだなぁ・・・。
・・・という話は脇に置いて、富ノ森まで退いた旧幕府軍は、そこで大勢を立て直すかのように街道両脇に伏兵を置き薩長軍を押し返すなど、一進一退の攻防が繰り広げられます。
その一進一退の攻防が、別撰隊や官兵衛さんや初陣の三郎さんが頑張っている、あの冒頭のシーンにあたるのでしょうか。
薩摩はこの富ノ森では被害甚大で、旧幕府軍、つまりドラマで言う官兵衛さん達はもう少しで街道を北上突破出来るところでした。
しかしその勢いを挫くように、徳川の援軍は来ないこと、淀まで兵を退けということ、挙句の果てには夕暮れを理由に撤退命令が出されます。

これでは、戦にならぬわ・・・

戦になるどころかどっこい、残っている記録などから察しますに、旧幕府軍上層部はこのころまで自分たちの勝ち戦を疑っていなかった節があります。
総指揮官の竹中重固さんは3日夜に「勝利は疑いなく候」と手紙に書いていますし(その割には2日目早朝時点で淀まで逃亡してますが・・・)、同じく総指揮官の松平正質さんは首実検を肴に冷酒を煽っていたとか。
若年寄並の川勝広運さんは「明五日一日には鎮定疑い無きこと」と4日昼に書いています。
官兵衛さん達のいる現場とのこの温度差が、吃驚するほど凄いですよね。
ちなみにこの4日、つい先日まで容保様たちがおられた京都守護職本陣の黒谷が、薩摩によって接収されています。
二条城が接収されるのは翌5日のことです。

一方、戦の足音がまだ少し遠い雪降る会津では、諏訪神社に奉納した幟の中で、お雪さんが一心に祈っておりました。
みねちゃんを連れてやって来た八重さんがそれを見つけ、すっかり鬢に白く雪を積もらせたお雪さんを八重さんは案じます。
そのお雪さんが案じているのは、言うまでもなく修理さんのことです。

なあ、八重さん。・・・神様を、試してはなんねぇな。あの時落とした石のごど・・・今になって気にかがって

当時は軽いしこりだったものが、こういった時にで物凄く気になりだすこと、ありますよね。
後悔しても後悔しても、後悔し切れないというか・・・だからでしょうか、お雪さんは「もし罰が当だるなら、私に。旦那様には当でて欲しくねぇ」と切実なまでの声で囁くものですから、見ている此方も涙腺緩みます。
八重さんもみねちゃんも、社殿に向かって手を合わせます。
みねちゃんは覚馬さんのことを、八重さんは覚馬さんと会津の皆のことを。
この中で神様に聞き届けられた祈りは、結果的にはみねちゃんのものだけになるんですよね。

再び戦場、開戦から三日目の1月5日(1868年1月29日)。
薩摩の砲撃を指揮しているのは大山さん。
後に「陸の大山」と呼ばれるだけあって、なかなかの采配ぶりですが、そんな大山さんが耳に被弾します。
史実なら、ここで被弾箇所を手拭いで頬かむりをして、何事もなかったように戦闘に参加する・・・という有名な逸話があるのですが、残念ながらスルーされてしまったようですね。
会津と新選組が、その大山さんと対峙していましたが、大山さんがいたのは富ノ森、会津と新選組がいたのは千両松(場所位置は図参照)なのですが・・・会津と新選組の戦力が、両方に配置されていたということでしょうか。
(ちなみに新選組六番隊組長、源さんこと井上源三郎さんが討死されたのは千両松での戦い。他にも隊士13名がここで討死しています)

こう撃ち込まれてはたまりませぬ
こっちは大砲隊がやられで応戦出来ねぇ
敵の砲兵を斬るしかありませんな
よし、突貫槍で突っ込むが

敵の砲撃を前に打つ手なし、となって、では突撃か・・・と官兵衛さんたちがなったその時、フランス式軍服に身を包んだ大蔵さんが大砲隊を率いて駆け付けました。
大蔵さんの妹の咲子さんが、後に大山さんの奥さんになるので、砲弾飛び交う戦場真っただ中ではありますが、これは未来の義兄弟の邂逅でもあるのですね。
ちなみに官兵衛さんに突っこまれていた大蔵さんの格好ですが、大砲での戦だけに限らず、銃弾が飛び交うような戦が当たり前になりつつあるこの時代、寧ろ鎧甲冑などを着ている方が被弾した時に弾が取り出しにくくなったり破片が厄介になったりするので、大蔵さんの格好が全面的に正解です。

広沢さん、修理さん、悌次郎さんは小高い場所から戦場を展望して、戦況に唖然とします。
徳川の指揮はどうなっているのだと悌次郎さんが言ってましたが、最早指揮系統など崩壊している(というより最初から崩壊してた)のです。
士気が低いのもあったでしょうが、指揮系統がままならないので、各々どう動いて良いのか分からないとまどいというのも少なからずはあったと思います。
更に、何度が触れて来ましたように、旧幕府軍最大の強みともいえる数の利を悉く活かせないどころか利を殺される地形での戦いでしたので、形勢不利もある意味当然だったかと。
そしてとどめに、総大将が秋の空模様のように変わりやすい慶喜さんですので。
と、その時広沢さんが対岸に見慣れない旗が翻ったのを見つけます。
赤地錦に金で日輪の旗と、銀地錦の月輪の旗、即ち錦の御旗です。
錦の御旗です、とは書きましたが、まあ正確に書くなら「錦の御旗(偽)」と言うのが表現としては妥当なのですが。
そして旗の隣に、赤色縅の鎧を身に纏った仁和寺宮嘉彰さんがご登場。
やけに落ち着きがないのは・・・といってもまあ、戦などという物騒なものから離れて暮らしていた宮様が、急に鎧着せられてこんな場所に連れて来られたら、そりゃああなりますわな(笑)。
この仁和寺宮嘉彰さんに征討大将軍として出馬の勅命が下されたのは4日のこと。
この勅命について、参謀の伊達宗城さんが「征討大将軍は薩長二藩の趣旨から朝議が出ていることになってる」と言います。
つまり、薩長の都合だけで朝廷を動かして勅命を引き出すなということでもあり、諸藩の抗議を尽くすべきだという主張でもあり、薩長と旧幕府間の私闘を日本国中巻き込んで大きなものにしようとするなという意見ですね。
土佐藩と芸州藩もこの宗城さんの言い分に賛同を唱えたのですが、勅命は覆らないまま、薩長がゴリ押しで空気を持って行った感じですかね。
宗城さんはその後、参謀を辞していますが、このことが原因なのは明らかです。
そういった経緯で戦場に現れた仁和寺宮嘉彰さんと旗を怪訝に眺めていた修理さん達は、それが帝の軍勢の旗印であることを理解します。
要はここに官軍、朝敵、という白黒区別を着けるものが登場してしまったということですね。
そして薩摩側にそれがあるということは、薩摩と対峙している会津は朝敵という立場になります。
もっというならば、朝敵になりたくないので錦の御旗が掲げられている方(薩長)へ寝返る藩も出てくるということになります。
とはいってもこの錦の御旗、まあ偽物なのは再三触れてきたことですが、仕上がりが間に合わなかったので急遽打敷を急遽転用したものだったという説もあったような気がします(仁和寺の方談)。
その錦旗が掲げられたということはすぐに大坂城にも届けられます。

それでは薩摩が官軍、我らが賊軍となりまする!
偽物だ!錦の御旗などある筈がない。・・・大方、岩倉辺りが拵えたのであろう
偽りの勅を出していたのと同じやり方に御座ります

偽勅の例もあったので、偽の錦旗の可能性も否定出来ないという容保様の推理は大正解なのですが、あの時おられた孝明天皇は今はおられません。
明治天皇は完全に薩長サイドの手中にあります。
なので容保様の「偽物だろう」という推理は推測の域を出ないまま、容保様たちは賊軍の立場に追いやられます。
しかしこの絶望的な状況下で、集めた諸将に向かってひとり朗々と声を張り上げる慶喜さん。

大坂が焦土と化し、我らは討死するとも、江戸に残った者たちが志を引き継いで戦い続けるであろう!大義は我らにある!最後の一騎となるまで、戦い抜くぞ!

総大将直々の鼓舞となれば、将兵たちも高揚せずにはいられないのでしょうが、何度も慶喜さんに苦い思いをさせられている容保様も、戦場から戻った修理さん達も、この様子を複雑な目で見ていました。
近頃ことごとく慶喜さんに対しては複雑な視線を送り続ける会津陣ですが、一番とばっちり食うのは結局彼らだという切ない図式が本当に不憫です。
その後、慶喜さんは修理さんから淀藩が寝返った報国を受けます。
富ノ森から撤退を余儀なくされた旧幕府軍は、淀城に入って戦況の立て直しを図ったのですが、淀藩は城の城門を開けず、入城を拒まれた旧幕府軍は更に南の橋本へ撤退することになりました。
このとき淀城城主は江戸にいたので(ちなみに老中の稲葉正邦さんです。出身は二本松藩丹羽家)、この門前払いは城主の留守を守る重臣たちによって下された判断です。
藩主のいない間に城下を戦火に巻き込むわけには行かなかったのもあるでしょうが、やはり大きな影響を与えたのは錦旗の存在でしょうね。

畏れながら申し上げます。我が軍勢、兵の数こそ敵に勝っておりますれど、軍略に乏しぐ、このまま戦を続けでは兵を失うばかりど拝察仕ります
では如何すれば良い?遠慮はいらぬ、申してみよ
兵達を率いで一旦江戸に戻り、戦略を立て直すべきがど存じます
江戸に戻る、か。・・・なるほどの

宜な宜なといった風な慶喜さんですが、このやりとりが後々でとんでもない事態を引き起こしてしまいます。
会津でそんな修理さんのことを、内蔵助さんとお雪さんがどれだけ想っていても、事態は起こってしまうのであります。

開戦から四日目の1月6日(1868年1月30日)、官軍となった薩長軍は、橋本に土塁を築いて待ち受けていた旧幕府軍と激突します。
その最前線に立たんとする三郎さんに、大蔵さんは後方に回るように言います。
気持ちが残ってる人の弟を危ない最前線に立たせたくなかったのか、それとも若くて未熟な三郎を案じてか・・・どちらなのかは定かではありませんが、三郎さんは首を横に振りました。

兄の目のごど、聞きやした。なじょして戦場にいねぇのがど、不思議に思っていだげんじょ・・・さぞ無念だど思いやす。山本家の男として、兄に代わって働ぎとうごぜいます

覚馬さんは目のことをずっと家族には伏せていましたが、あの覚馬さんを知る三郎さんが、覚馬さんを戦場で見かけなかったらおかしいと思うのも当然ですよね。
もし覚馬さんが目に支障を来してなければ、それこそ蛤御門の変の時のように率先して大砲隊率いてるはずなので。
三郎さんは、「姉上も力を貸してくれます」と、八重さんが手ずから縫った南天の刺繍をぽんと叩きます。
それに口元を綻ばせた大蔵さんが、「よぐ狙って撃で」と言った言葉は、八重さんが言っていた「よーぐ狙っで撃ちなんしょ」とあまりにも似ていて・・・。
嗚呼、何だか嫌な予感・・・と思っていたら、何だか不吉な砲声が。
この砲声は何かと言いますと、淀藩に続き、淀川右岸にあった山崎関門を守備していた津藩(1000人)が裏切り、対岸に布陣していた旧幕府軍に向かって砲撃し始めたのです。
同じ寝返りでも、淀城に入れて貰えなかったことより、対岸の山崎関門から予期せぬ砲撃してきた津藩の方の存在の方が、実害的にも旧幕府軍にはダメージあったとおもうのですけど、老中の藩が旧幕府を裏切ったというのは精神的ダメージが大きいのでしょうか。
ともあれ、地の利を生かしていたはずの旧幕府軍ですが、津藩の裏切りによって戦況は一変、防戦と苦戦を強いられることになります。
実際は、築いた土塁が頑丈だったこともあり、動揺はそんなになかったようなのですが、後方に布陣していた八幡の部隊が後方を遮断されることを恐れて総崩れになってしまい、薩長がその八幡から側面を突く形で旧幕府軍に攻撃して来たのが痛手でした。
ちなみに元新選組八番隊組長の藤堂平助さんが津藩のお殿様のご落胤で、平助さんが新選組に油小路で殺されたからそれを恨みに思って津藩はこのとき裏切った、という流れを小説やら何やらで見かけますが、それは創作の中だけにしておいて下さい(お願いですから)。
津藩は5日に勅旨を迎え、重臣藤堂采女さん達が帰順を迫られていることからも、それが創作の域から出してはいけないことだというのはお分かり頂けるかとかと。
新選組と言えば、この1月6日で諸士調役兼監察の山崎亟さんが重症、『壬生義士伝』で有名な吉村貫一郎さん消息不明となっています。
初戦同様、西郷どんはこの6日の戦を戦地に赴いて見学していたようですが、前線に出たことを島津忠義さんからお咎めを受けています。
その西郷どんが眺めていた戦場で、三郎さんは被弾します。
三郎さんの被弾と同時に、虫の報せのような形で会津の八重さんはガラスを割り、破片で指を怪我します。
嫌な予感、的中です。
その日、慶喜さんは全軍に撤退命令を出し、旧幕府軍は大坂城へ引き揚げとなります。
怪我人の収容は大坂城三の丸に置かれた雁木病院にされますが、怪我人が大量に運び込まれ、被弾した三郎さんは大蔵さんによってそこに運び込まれます。
何発か被弾してましたが、一番の致命傷は腹部への一発でしょうか。
大蔵さんが懸命に呼びかけますが、完全に三郎さんの顔からは血の気という血の気が失せています。
朦朧とする意識の中、大蔵さんを覚馬さんと間違えた三郎さんでしたが、大蔵さんは覚馬さんが今この場に居れば三郎さんに言ったであろう「よぐ戦ったな」と言い、その言葉を受けとって三郎さんは息を引き取ります。
正確に言えば、三郎さんが亡くなるのは1月29日(1868年2月22日)、江戸の会津藩中屋敷なのですが・・・ともあれ21年の若い人生でした。
この鳥羽伏見の戦い(1月3~6日)のおおよその死者数は、会津藩129、新選組24、桑名藩12。
これは飽く迄「死者数」なので、負傷者はもっといたと思います。

取り敢えずドラマの流れに沿いつつ、ここまで鳥羽伏見の戦い四日間をここまで書いてきましたが、分かり易さを目指していたはずなのに冗長且つ解り難くなってしまってて申し訳ないです。
鳥羽伏見の戦いについて、その流れを非常に咀嚼して書いて下さってる方がおられますので、「結局鳥羽伏見ってどういう流れの戦いだったの?」と言う方は是非、こちらのブログ記事様まで足をお運び下さいませ。
本当に分かり易いですので!
権中納言様、リンクお世話になります。

さて、そういった次第で大坂城に撤退して来た官兵衛さん達ですが、慶喜さんに撤退命令を出すよう仕向けたのは修理さんだという噂に憤りを隠せません。

貴公、ご宗家に何を吹き込んだ?大坂で戦い抜ぐお覚悟が、貴公の進言で撤退に変わったど聞いだぞ!
戦を続けでは、無駄に兵が失われると申し上げたのでごぜいます
んだら、先に死んだ者の命は、無駄になってもいいっつうのが!

度々冷静さに事欠く官兵衛さんではありましたが、鳥羽伏見の戦いで会津軍全軍の指揮を実質担っていたと言っても過言でない官兵衛さんからすれば、これぐらいの憤りが出るのは当然ですね。
こういった人の観点が戦を泥沼化させる一因にもなり得るのですが、組長者は部外者だからそういう風に冷静に分析出来ても、官兵衛さんは歴史の当事者ですから。
官兵衛さんは、総大将の慶喜さんが出陣すれば兵の士気が上がって形成が一気に逆転したはずだと言います。
総大将が前線に出陣しなかったというのは、宛ら関ケ原の戦い、あるいは大坂夏の陣のようですね。
しかし関ケ原の戦いで西軍総大将の毛利輝元さんが出馬せずに西軍が負けたように、大坂夏の陣で豊臣秀頼さんが出馬せずに豊臣方が負けたように・・・と繰り返しているのを見たら、官兵衛さん達もこれになぞらえて・・・となってしまうのが歴史の妙。
そこへ、開陽丸を率いて来た軍艦頭の榎本さんが、さらりと黒絨のイギリス式フロック形軍服を着こなして登場します。
全く触れられてませんが、榎本さんは開陽丸と蟠龍を率いて、江戸で騒ぎを起こした薩摩藩士たち(鳥羽伏見の火種となったあの一件です)を乗せて鹿児島に向かっていた平運丸に兵庫沖で発砲し、兵庫港に逃げ込んだ同船を出港させないように封鎖させています。
サンチャゴ・デ・キューバ海戦の海上封鎖、とまでは行きませんが、榎本さん流石のひと言に尽きません。
結局この後平運丸がどうなったのかと申しますと、隙をついて瀬戸内海を通って脱出し、色々ありましたが結局最後はノット数の差で逃げられてしまっています。
・・・と、そんな日本初の海上戦をしてきたのに全力スルーされてしまうのは、会津視点ドラマですので仕方がないとして、慶喜さんに目通りを願った榎本さんは「明朝早々に」と言われてしまいます。
榎本さんは幕府の指揮官にはもう何も見出しておらず、この戦で共に戦うべきは会津と見做しているようです。

一方、榎本さんの面会を断った慶喜さんは、容保様に「江戸に戻る」などと信じられないことを言い出します。

そなたも桑名殿と共に付いて参れ
兵達が引き揚げている途中に御座ります。出立の支度が整いませぬ
兵は置いて行く。我らが城を出ること、家臣たちにも口外無用。榎本の軍艦が天保山沖に停泊している。今宵の内に乗り込み、江戸に向かうのだ
兵達を見捨てて?それはなりませぬ!最後の一騎となるまで戦い抜くと仰せになったではありませぬか
あれは、皆の動揺を鎮める方便だ。一旦江戸に戻り、再起を図るぞ
では尚のこと、全軍を率いて戻るべきにござりまする
馬鹿を申すな。それでは江戸に着くまでにまた戦となる。そなたひとりで余と共に来るのじゃ
いいえ、それがしは藩士と共に残りまする!
ならぬ!そなたがここにいては、会津兵がいつまでも戦をやめぬ。偽物であろうと、錦旗が挙がった上は、兵を退かねば徳川は朝敵となるのだぞ。・・・会津の御家訓に、徳川を朝敵にせよとの一条があるのか!

それをいうなら会津の御家訓に、敵前逃亡の供をせよという一条もありません。
しかも慶喜さんは、事ここに至って江戸に帰るのは修理さんの進言だと言います。
よくもまあぬけぬけと・・・と、流石にちょっと苦笑いを禁じ得ませんでしたね。
修理さんは、「兵を置いて」江戸に帰れとは一言も言っていません、「兵達を率いて一旦江戸に戻り」と言ったのです。
自分の都合の良いように言葉を切り貼りした挙句、責任が自分にはないと回避しようとするのは、どうしようもなく卑怯な振る舞いです。
まあ、ひとつだけ慶喜さんが卑怯な振る舞いをしてでも江戸に逃げ帰って、朝敵の汚名だけは避けたいと思ってる心理について弁護するのなら、それは慶喜さんの体内に流れてる水戸の血が故でしょうね。
勤王思想の殊の外強い水戸家に生まれ育った慶喜さんは、偽物であろうが何であろうが、錦の御旗が掲げられた時点で降参なんですよ。
慶喜さんの体を構築してる水戸DNAが総動員で降参する感じでしょうか。
長州などが尊王攘夷尊王攘夷と熱に浮かされたように叫んでましたが、その尊王攘夷の大本は水戸にありますから。
そう考えて頂ければ、慶喜さんのこの錦の御旗に対する及び腰、朝敵の汚名だけは避けたいとなりふり構わずになる、という辺りも、理解出来ます。
理解は出来ても、決して賛同は致しかねますが。
そうして慶喜さんはその晩の内に大坂城を脱出し、アメリカ公私に仲介を依頼してアメリカ艦イロクォスに搭乗、翌朝に開陽丸に移乗して海路江戸に向かいます。
同行したのは容保様、定敬さん、板倉勝静さん、酒井忠惇さんなど主だった側近たちのみ。
他は全員、何も知らされずに置いて行かれました。
その置いて行かれた組のひとりである桑名藩士の中村武雄さんは、この慶喜さんの敵前逃亡を「天魔の所為」と日記に記しています。
この慶喜さんの大坂城脱出劇について、大坂城を出る時に門番や番兵に気付かれなかったのかと思うかもしれませんが、「お小姓の交替です」と言って通ったそうです。
番兵も番兵でうっかり騙されちゃ駄目だよと言いたくなりますが、番兵にとっては慶喜さんは雲の上の人も同然、顔なんて見たことなかったでしょうから、気付こうにも気付けなかったのでしょう。
容保様の姿が見えないことはすぐに修理さんにも伝えられ、部屋にはただご宸翰がぽつりとあるのみでした。
・・・正直、容保様が亡くなられるまで入浴時以外は放さずに持っていたというこのご宸翰を、置いて行くかな・・・と少し小首を傾げたくなる演出でしたが。

鳥羽伏見での敗戦と、容保様が兵を置いて江戸に戻ったという話は、会津にも程無く届けられました。
長い蟄居が解け、家老に復職した西郷さんは登城して、家老たちと早速話し合います。
そこで内蔵助さんから、会津は第二等の朝敵だという裁定が下されていると聞き、低く唸ります。

会津が、朝敵・・・

諌めて諌めて、早く国に帰れ、守護職辞めろ、会津が恨まれるなどなど耳の痛いことを散々言って来て、挙句蟄居になった西郷さん。
桜が枯れぬように災いの元を取り除きたかったと言っていた西郷さん。
その西郷さんが、会津が朝敵の烙印を押されたのだと知った時の心境を考えると、本当何も言えなくなります。
結果論になりますが、西郷さんの言っていたことは耳には決して心地良くなかったのかもしれませんが、全部正しかったんですよね。
会津は怨まれましたし、ご宗家に振り回されて一番とばっちりの受ける立ち位置に立ってしまってる。
でも今しか生きることの出来ない人が先のことなんて分かる筈もないので、西郷さんの言葉に従わなかったのが間違いだったと一括りには出来ないのも事実です。
歴史にifが、あるいはたらればが禁止と言われるのは、そう言った所以ではないでしょうかね。

捕らわれた覚馬さんは、京都二本松の薩藩邸の、稽古所を改造した獄舎に弟子の野沢さんと一緒に押し込められていました。
賊徒として扱われているので、覚馬さんを待っているのは打ち首です。
覚馬さんはどうやら背中から下半身に唸るような痛みを抱えているようでしたが、この獄中で覚馬さんは脊髄を痛め、歩くこともままならなくなってしまいます。
視力も薄れ、歩くこともままならないどころか外がどうなっているのかもさっぱり分からない狭い獄中で、「蹴散らして前へ進め」るようになるには今しばらく時を待たねばなりません。

捕らわれの身ではありますが、覚馬さんは取り敢えず無事なわけですが、その消息も三郎さんの安否も、まだ会津には届いていませんでした。
尚之助さんは、徳川家が朝敵とされている現状を冷静に受け止め、賊軍とならないように一旦恭順すべきだというと、権八さんから「にしゃ、腰抜げがっ!ならぬことはならぬ!」と怒鳴られてしまいます。

すまねぇなし。・・・んだげんじょ、私もおとっつぁまの言うごどが正しいと思いやす。何年も都をお守りして来た会津が、朝敵なはずはねぇ
でっち上げでも、今は新政府が徳川に取って代わったのです
んだがら、取り返さねばなんねぇのです!敗れたままでは・・・殿がお城がら逃げたままでは、会津の誇りは・・・。江戸には、あんつぁまも、三郎もいる。大蔵様も、佐川様も・・・。皆で戦えばきっと勝でっから。負げたままでは終わんねぇ。ならぬことは、ならぬのです!
やり直すための恭順です。まず会津の無実を訴える。その一方で戦に備えて軍略を立てます

このやりとりから、八重さん(と権八さん)と尚之助さんが少しすれ違ってるなと感じました。
「ならぬことはならぬ」姿勢一貫の八重さんと、柔軟に立ち回ろうとする尚之助さん。
物の道理が通ってるという意味での正論は、勿論八重さん達の言い分です。
ですが今回、「ならぬことはならぬ」が何だか思考停止のワードとして連呼されていたようで、もう少し上手な使い方なかったのかな・・・と思ったり思わなかったり。
こんなさびしい言い方は嫌なのですが、会津人でない尚之助さんは「ならぬことはならぬ」精神ではなく、朝敵にされた憤りはあるでしょうが理屈で感情を割り切れるのでしょうね。
八重さんの主張が一本の木だとすると、尚之助さんの主張は差し詰め柳でしょうか。
真っ直ぐな木は折れやすい、柳は折れにくい。
まあ、結局のところ何が正しいのかなんて、人によって価値観が違いますから、これ以上の言及は控えることにしておきます。
でもこの夫婦間のずれが、後々に辿った八重さんと尚之助さんの岐路にも繋がっていくのではないかなと、ふとそんな考えが過りましたが、それはその時が来てから掘り下げて触れることにします。

置いて行かれた会津兵が、海路で江戸に到着したのは1月15日(1868年2月8日)。
容保様はこのとき、下屋敷や負傷兵を見舞い、自分の落度(兵を置いて行って江戸に戻ったこと)を率直に詫びています。
ですが、それだけではすまないのがこの問題。
会津藩氏たちの中には少なからず、自分達を置いて行った容保様に不満を感じたものもいるわけでして、それを敏感に察知した修理さんが、容保様の罪を肩代わりする形になって、幽閉されてしまっています。

上様に従って江戸にも戻ったのは、わしの過ち。責めはわしが負うべきものを・・・修理が代わって、恨みを受けることになってしまった
あの時は誰にも修理様が殿を連れ出したように見えました故・・・停戦を進言したごども、上様に逃亡を唆したど、受け取られているのでごぜいます
出してはやれぬか、あの部屋から
幽閉を解げば、命を狙われましょう。・・・修理殿の死罪を望む者も多うごぜいます
その怒り・・・まことは、わしが引き受けるべきもの

容保様を始めこの場にいる誰もは、修理さんが無実なことは百も承知ですが、最早修理さんが無実かそうでないかの問題ではないのですね。
自分達を置き去りにして江戸に帰ったという、一部の会津藩士が容保様に向けて抱いてしまっているものを、誰かが代わりに背負って処理しなければ、会津は真っ二つに割れてしまいます。
誰かがやらなければならない。
その「誰か」が修理さんなのであり、修理さん自身も己のその役目を重々承知している。
だから、理不尽を呑み込ませて彼に全てを背負わせることが、辛いのですよね。
それだけでも辛くて心苦しいのに、江戸城から戻った土佐さんが更に残酷なことを容保様に伝えます。

登城を禁じられました。今後登城するごど、罷りならぬ。会津は江戸から立ぢ退けどの、ご命令にごぜいました

何年も連れ添って、振り回して、離れて行こうとすれば御家訓持ち出して繋ぎ止めて置いて・・・と会津に散々好き勝手なことしていたにも拘らず、自分の勝手都合ですっぱり捨てるとか本当弁護の言葉が見つからないくらい酷いですよね、慶喜さん。
基本的に「偏ってない史観で歴史を見つめて行きたい」と思っている私ですが、この辺りの慶喜さんについては本当「こういう事情があったんだよ」と庇ってあげることも庇う気さえも起きてこないです(苦笑)。
後年、慶喜さんが「鳥羽伏見の戦いは会津が勝手に起こした」といけしゃあしゃあと語ったことも相まって、余計に・・・。
容保様が呆然と御家訓を口ずさんでおられましたが、徳川から捨てられた場合、あのご家訓はどう解釈するべきなんでしょうね。
そう考えた時、御家訓って縛るためのものではなく、「おかしいと思ったら自分達で随時直して行け」というニュアンスも含んで正之公は作ったのじゃないかなと思ったりもします。
ただ、そのニュアンスの部分が伝わらず、御家訓そのものだけが鉄の掟のように会津藩藩主に受け継がれていった、と。
まあ、全ては正之公のみぞ知る、なのですけどね。

その深夜、容保様は悌次郎さんと一緒に修理さんが幽閉されている部屋に行きます。
容保様は自分の代わりとなって怒りと理不尽を背負う修理さんに、そのような境遇に落としたことや、名誉を取り戻してやることが出来ないことを深く詫び、切腹を申し付けます。
思えば容保様は、会津戦争後も責任取って切腹する家老の時も同じように心痛めることになるんですよね・・・これから先は、只管容保様は心を痛め続けることになるのですね。
修理さんは「ありがだぐ、承りまする」と静かに切腹の命を受け入れます。
容保様が立ち去った後、悌次郎さんは遠回しに「逃げて生きろ」と修理さんに言います。
張り番がいないのも、屋敷の警固が緩いのも、全て容保様の計らいで、そうかそこを汲んで欲しいと。

殿は全てを分がっていで下さる・・・それで、十分ではないが・・・

全てに対する修理さんの答えはそれでした。
一度背負うと決めた覚悟は、そう簡単には揺るがないのですね。
静かな修理さんが、とても切なく映りました。
慶応4年2月22日(1868年3月15日)、修理さんは作法通りに切腹しました。
(切腹するのに髭剃ってなかったのはちょっとおかしいですが)
修理さんが切腹に使った刀は悌次郎さん経由で容保様の手に渡ります。
辞世は「帰り来ん時よと親のおもうころはかなき便りきくべかりけり」。
一方で幽閉中、修理さんは以下のような絶命詩を勝さんに残しています。
 一死元甘雖(一死元より甘んず)
 然向後奸得時忠良失志剛(然りと雖も向後、奸、時を得、忠良、志剛を失ひ)
 我国再興泣難期(我国再興期し難きを泣く)
 君等努力報国家真僕所願也(君等、努力、国家に報ずるは真に僕の願ふ所なり)
 生死報君何足愁(生死君に報ず何ぞ愁うに足らん)
 人臣節義斃而休(人臣の節義は斃れて休む)
 遺言後世弔吾者(後世に吾を弔ふ者に遺言す)
 請看岳飛有罪不(請う看よ岳飛に罪の有りやなしや)
 囚中絶命 長輝
容保様の代わりに、全てを一身に受けて切腹した修理さん。
やがてはこの時代わりになってもらった容保様(と会津)が、今度は徳川家に向けられるはずの薩長の鬱憤的なものを一身に受けることになる。
宇治の川瀬の水車なんととうき世を巡るろう、とは本当よく言ったものです。


ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年5月22日水曜日

第20回「開戦!鳥羽伏見」

前回からの王政復古の流れで始まりました、第20回。
まあしかしですね、執政権は兎に角、徳川家の領地は朝廷から貰ったものじゃないです。
なので正直、岩倉さんが言っているような朝廷に徳川の領地を召し上げる名分名義は立ってないんですよ。
その辺りひと言触れて欲しいなと・・・いえ指摘した中根雪江さんという越前藩士の方がおられるのですが、出て来ませんでしたね。
ともあれ道理の通らないこの薩摩と一部公家のやり方に業を煮やした会津の面々は、下坂するという慶喜さんに出陣を迫ります。

こごで逃げでは、都落ぢにごぜいます!
これは薩摩を討つための策じゃ。余に考えがあってのこと
いがなる策にござりましょうや!
秘策故、今は語れぬ

嘘と思われるのも無理ない話ですが、慶喜さんにも新政府内の公議政体派(容堂さんやら春嶽さん)と連携を取って巻き返しを計るという策がちゃんとありました。
結果的にこの策は功を成して、情勢は慶喜さん優位になります。
けれどもその優勢状況を華麗にぶち壊したのが、大目付の滝川具挙さんが江戸から大坂に持ってきた「江戸で薩摩藩邸と佐土原藩邸を攻撃しました。開戦です」という報せ。
これによって「江戸の次の戦場は京」と旧幕府軍の軍勢1万5千が都に向かい、慶喜さんの意図せぬところで戦モードが高まってしまうということになってしまいます。
これについてはまた後々で触れることにして、しかしこの大蔵さんや官兵衛さん、慶喜さんに対して少々無礼が過ぎないかい、と苦笑いしてしまいます。
あと慶喜さんに信用がないのは百も承知ですが、慶喜さんからすれば理性を失っている彼らに、策を言えるはずがないだろうという気持ちもあったのではないでしょうかね。

お鎮まりあれ。四年前のごどをお忘れが。早まっては長州の二の舞。殿に、朝敵の汚名を着せるごどになりまするぞ!

修理さんがそう言って、漸く一同しぶしぶと黙ります。
朝敵になる、というのは長年京都守護職を司り、先帝のご信頼殊の外篤かった会津の立場からすれば考えられないことでもあり、そんなことなった日には恥辱の極みだったからでしょう。
会津にとっての「朝敵の汚名を着せられる」というのは、単に「朝敵になることを恐れて」、というだけではない気がします。
しかしご存知、後々で会津は朝敵の烙印を押されることになります。
これは同情とか贔屓目抜いてもやっぱり筋が通らないおかしな話ですよね。
禁裏に発砲した長州とかに朝敵の烙印が押されるのは筋が通ってるから、弁解も弁護もしようと思わないのですが・・・。
話が大きく逸れました。
慶応3年12月12日(1868年1月6日)、慶喜さんは二条城の裏門から出て大坂城へ向かいます。

ご宗家には、まごどに薩摩討伐の策があるのでしょうか
わがんねぇ。いづもの舌先三寸かもしれねぇが、今御所に攻め入れば、それごそ薩摩の思う壺だ

相変わらず会津内での慶喜さんへの不信感は拭えてませんね(苦笑)。
慶喜さんのこの下坂について、以前の記事でも評価が分かれると触れましたが、仮に慶喜さんの頭の中に「戦をすることになるかも」という考えがチラリとでもあったのだとしたら、都を離れるのは正解だったと思います。
京は「攻めるに易く、守るに難い」場所ですから。
慶喜さんが大坂へ行くのとあれば、会津藩や新選組も大坂に向かうことになります。
そんな中、覚馬さんはひとり都に残ることにします。
都にいればレーマンさんに注文したチュントナーデル銃の受け渡し役を担うことも、洋学所で教えることも出来るから、と。
実際は、銃の受け渡しのためというのもあったでしょうが、ドラマで削られている人脈や人間関係を頼りに、会津のために動くのが目的で留まったんだと思います。
「洋学所で教える」はこの状況下、ちょっとちぐはぐだなぁ・・・という感が否めませんが、人脈や人間関係がごっそり削られている以上、そういうしかないのでしょうかね。
しかしこうやって改めて見るに、覚馬さんの設定と言うか人間関係削り過ぎのボロがこの辺りになって出て来ましたね。
酒好きとかは削っても大局に問題ないでしょうが、今のままの覚馬さんだと明治期になってどうしてあれだけ重宝されたのかいまいち見えて来ず、明治編で厳しくなる部分がかなりあるんじゃないかと。
何となく『管見(山本覚馬建白書)』だけ出せば、それで良いと言う流れになりそうで怖いのですが、『管見』を出せば良いというわけではないし、『管見』だけが覚馬さんの全部じゃない・・・んですけど・・・ねぇ。
先の展開の心配より、今は目の前の展開を追って行きましょう。
会津が都を出た以上、都にいた藩士の家族も荷を纏めて都を出ることになります。
二葉さんも家を引き払って、今は江戸にいる平馬のところへ行くご様子。
御所人形、平馬さんから貰った時は、色々あったけどまだ平和だったな・・・と思わずにはいられません。
思えばあれはもう、ドラマの中では3年前の出来事となっているのですね。

会津の国許にも政変のことは伝えられたようで、権八さんと尚之助さんも表情を硬くして登城します。
尚之助さんの紐、花色でしたね。
覚馬さんと同じです・・・ということは、川崎家は会津藩の中では山本家と同じ、第四級の地位に就いているということになるのですね。

わがんねぇ。なじょして、会津が都を追われねばなんねぇんだ
おそらく、薩摩の策略です

都で何が起こったかさっぱり、という権八さんの意見は、会津の国許の殆どの人共通の感覚だと思います。
この感覚が、やがては「何が起こったか分からない内に自分たちの殿様に朝敵の烙印を押された」という風になっていくのでしょう。
なので、ここでまたもや優秀すぎる尚之助さんが、さらっと「おそらく薩摩」の正解を言い当ててしまうのは、ちょっとなと。
この人の感覚が、如何に権八さんたち会津国許の人と比べてぶっ飛んでいるのか、よく分かる遣り取りでもあったのではないでしょうか。
一方会津の女性たちは、諏訪神社に幟を奉納すべく、集まってその作業をしていました。
以前はこういう公の場で、「遠慮して下さい」と言われていた千恵さんと、そう言った艶さんではありましたが、以前照姫様が介入して下さったからでしょうか、非常に思いやりに溢れた遣り取りがされていましたね。
若奥様方はといえば、慶喜さんが下坂したことについて疑問に思いながら、夫からの情報を交換中・・・といっても、誰もその「情報」は得ていないご様子。
そこへ照姫様がやって来て、手ずから縫った何枚もの幟を差し出します。
ちなみに会津の諏訪神社は、葦名盛宗さん(鎌倉時代の人です)が諏訪大社に戦勝祈願をしたところ、不戦勝利したことからご神体を会津にお迎えして奉ったのが始まりだそうです。
そういう由来があるから、戦の前に幟の奉納するのもここなのでしょう。

都のこと、皆もさぞ気がかりであろうが・・・徳川家をお守りするため、多くの方々がご尽力されていると伺っています。会津に落ち度がないことも、じきに明らかとなるでしょう

照姫様は本当、清涼剤というか空気清浄機と言いますか・・・これがカリスマというものなのでしょうか。
いつも何だか聞いてて、心が穏やかになっていくんですよね。
視聴者の私でこれですから、八重さん達の心には本当に染み込んでいくのだろうな。
と、そこへ遅刻組の竹子さんが入ってきます。
大事の折に遅刻してきたことを咎められますが、日課の薙刀の稽古をしてきたのだという竹子さん。

言葉に偽りがないなら、その思いを歌に詠んでみよ。これにお書きなさい

そう言って照姫様が幟を差し出し、しばしの沈黙の後に竹子さんは「もののふの猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも」と書きます。
有名すぎる竹子さんの辞世ですね。
この歌をこの状況下で起用するのは場に即してて上手いとは思いますけど、これは竹子さんが戦死したときに薙刀に結び付けられてたものです。
このとき詠んだのをずっと己の心に刻みつつ、会津戦争時には薙刀に結び付ける…という感じになるのでしょうかね。
ちなみにこの頃竹子さんは師の赤岡先生の養女になっています。
赤岡先生は実兄の息子を養子にして竹子さんと縁組させようとしましたが、竹子様が「この藩の非常時に縁組どころじゃありませぬ!」と突っぱね挙句赤岡先生とも養子縁組を解消したそうな。
本当、名前の通り竹を割ったような性格ですね・・・。
さて、そんな竹子さんの歌を見て、照姫様の提案で皆も歌を幟と共に奉納することになります。
そもそも日本は言霊の国ですので、三十一音に込めた心を神様に奉納するのは間違いではないです。
祝詞だって、そういう意味(言霊として)で上げられているのですし。
そんな中、八重さんが詠んだ歌は「父兄のをしへたまひし筒弓に会津心の弾や込めなん」。
直情的すぎますね・・・多分他の八重さんのいくつかの和歌と比べてみても、これは史実じゃないと思います。

慶応3年12月16日(1868年1月10日)、大坂城に入った慶喜さんは、イギリス、フランス、アメリカ、イタリア、プロイセン、オランダの外交代表と引見し、諸外国の面々に「外交は徳川がやります」と印象付けます。
且つ、王政復古がどれだけ不法なものであるのかを諸外国に強調して伝えるのですが、これは実に効果的ですね。
岩倉さん達が提唱した「神武創業の初めに戻す」という王政復古は、国内に向けて発せられたものです。
対して慶喜さんは、諸外国という「外」に向けて、日本を代表する徳川家を発信している。
諸外国からすれば、「王政復古?神武創業の初めっていつですか?そんな昔に自分の国まだ存在してないんですけど」な混乱もあったでしょうし。
ともあれ、何度かこのブログでも触れて来ましたが、幕末を見るときは日本国内のことだけでなく、「世界から見た日本」の視点も欠かせないのですよ。
そこを慶喜さんはちゃんと押さえられてた辺り、凄いと思います。
ですがこれを薩摩が見過ごすはずもなく、諸外国へ王政復古もろもろを布告しますが、慶勝さん、春嶽さん、容堂さんの三人が異議を唱え、副署押印を拒否します。
その真意は、慶喜さんに新政権の中に席を用意するようにというところにありまして、この御三方は本当慶喜さんのために奔走してくれていました。
彼らや、冒頭で触れた中根雪江さんたちの声もあって、徳川家の辞官納地は暫く形式的なものとなり、慶喜さんも前内大臣として議定に任命され、新政府の朝議に参加することが出来るはずでした
実際、朝廷から慶喜さんに上洛の下命が、12月28日(1868年1月22日)に下されています。
大久保さんが、会津と桑名の兵を帰国させた後じゃないと入京を認めないという無茶ぶりな主張をしますが、慶勝さん、春嶽さん、容堂さんの御三方がやはり反対し、これが議決されることもありませんでした。
しかし大久保さんを始めとする新政府内の討幕派(厳密に言えばもう幕府はないのですが、敢えて春嶽さん達と区別するためにこう呼ばせて頂きます)は、どうにかして慶喜さんの復権をそしして新政府を確立させたいのです。
要は慶喜さんが物凄く邪魔で脅威なのですよ。
都からいなくなったと思えば、大坂で諸外国の面々で「自分が日本代表ですから」というような顔するし、何だかんだでまだ絶大な領地有してますし。
ちょっと時系列先取りしますが、慶応4年1月2日(1868年1月26日)、大久保さんから西郷さんに宛てた手紙の中に、「若、其の儀無く上京相成り候得ば、戦は窮して出来申さず、今日に相成候ては戦に及び候得ば、皇国の事は夫限水泡と相成申すべし」という一文があります。
其の儀、というのは会津と桑名の兵を帰国させる、という意味なのですが、何かしら開戦の名目を大久保さん達が探っていたのはこの手紙からも明らかです。
少し先走った話をしましたが、岩倉さんが「二百六十年の眠りから国を揺り起こすには、余程のことをばせんなならん」と言っていたのもそういう意思が強くあったからに相違ないでしょう。
しかし西郷どんが、そのために江戸で導火線をばらまく、と言ってましたが、西郷どんが導火線をばらまいたわけでもない気がしますが・・・。

まあ、その「導火線」について。
江戸に遥々戻ってきた二葉さんは、不逞浪士に遭遇したところを、ひとりの女性に助けられ事なきを得ます。
この人もしかして・・・という正解は後にしておくとして、まずこの不逞浪士を追いかけていたのは同心(それか新徴組?)だと思うのですが、彼らには藩邸に入る権利は持ってないので藩邸に逃げ込まれたら終わりです。
都で京都守護職や新選組が、長州藩邸とかに踏み込めなかったのも同じ理由ですよね。
えっと、導火線をばらまいたのは如何にも西郷どんな感じがしていましたが、実際江戸で旧幕府に対する攪乱と挑発行動を繰り返していたのは薩摩藩士の井牟田尚平さん達です。
江戸の三田薩摩藩邸に約300人の浪士を集め、後に赤報隊の悲劇で知られる相良総三さんと、落合直亮さんがこれを統括し、陣屋に軍資金の提供を求める強盗紛いのことなどなどをしていました。
幕府としては、お膝元でそう勝手に振る舞われて何もしないはずもなく、前橋藩、佐倉藩、壬生藩、庄内藩に支柱の取り締まりを命じました。
江戸の会津藩上屋敷に平馬さんを訪ねて来た勝さんは、彼らの挑発には決して乗ってくれるなと釘を刺します。
ここで、この攪乱は西郷どんの策略によるもの・・・と先程の西郷どんの台詞から思いがちですが、実際は西郷どんは挑発行為は止めるようにと、彼らを押し止める姿勢を文で見せています。
ということは、江戸でのこれは井牟田さんとの連携(連絡)が上手くなっていなかったのか、それとも井牟田さんが独断に近い形でやっていたのか・・・と言う可能性も見えてくるわけでして。
なので必ずしも「西郷どんの腹黒い遠隔策略」というわけでもないのです。
まあそれで、挑発に乗るなという勝さんに、でもこんなものが一石橋に貼られていたという平馬さん。
そこには「幕府、再び政権を盗まんと欲する処、天兵を挙げ江戸城を焼き、市中放火して幕府を誅す」という江戸焼き払いの予告文が書かれていました。

最早強盗、打ち壊しの類いに非ず。これは戦にごぜいます。会津も戦は避けたい。なれど、斯様なごどが続いでは・・・
だから頼むのだ!会津の強さが、戦の火種を大きくする。そうなって、もしも敗れた時には、徳川は根絶やしにされる。・・・慶喜公には煮え湯も飲まされてきた。だが、俺は幕臣だ。徳川は滅ぼせねぇ。・・・西郷という化け物に、火を着けちまったのは・・・俺の失策だ

徳川は滅せないから会津をスケープゴートにするわけですね、という突っ込みがすらっと口を付きましたが、それはもう少し先の話でした。
しかし、言うのは簡単ですが、この挑発モードを撥ね退けて皆を鎮めることが出来るって、余程のカリスマ性がないと不可能ですね。
旧幕府側の人間としては既に湯の沸いた薬缶状態になっているので、下手に触れてもこっちが火傷させられますし。
平馬さんもさぞ悩ましく、難しいところでしょう・・・。
そんな平馬さんが帰宅すると、遥々都から旅をしてきた二葉さんと虎千代が出迎えます。
先程二葉さんを助けてくれた女性は、やっぱり水野貞さんだったようです。
曰く、出入りの能楽師の娘さんだそうで、後々(明治11年)に二葉さんと離婚した平馬さんの後妻になります。
つまりあの一瞬の対面は、平馬さんの人物史的に見れば先妻と後妻の顔合わせたシーンでもあったと。
しかし「おめぇだちが無事ならそれで良い」と言った平馬さんと、絶妙なツンデレ具合を発揮していた二葉さんの、不器用ながらも微笑ましい夫婦の姿が、どんなに会津が暗くてどん底で報われなくても、視聴者としては心の拠り所の一つであったのに・・・後のことを思えば辛い・・・後妻に当たる人が出て来たから余計に辛い・・・。
しかし穏やかな家族の時間も、庄内藩が薩摩藩邸の討伐に向かっているという知らせによって、敢え無く終わりを迎えることになります。

朝廷から慶喜さんに、上洛の下命があったのは、先ほど触れた通り12月28日(1868年1月22日)のこと。
しかしその数日前の12月25日早朝、江戸で薩摩藩邸と、薩摩藩の支藩である佐土原藩の藩邸に、庄内藩と出羽松山藩が砲撃を開始しました。

しまった。火種は、江戸にあったか・・・

数日を経てこの知らせを齎された慶喜さんは、討幕派に戦を仕掛けられる口実を与えてしまったことに愕然とします。
25日に起こったことが、3日後にはもう大坂に伝わってるのは、報知するための人が蒸気船で江戸から大坂にやって来たからです。
海路だから陸路よりも断然早かったんです。
ちなみにフランス軍事顧問団のブリュネさんが、事前に四斤砲の市街戦での用い方を庄内藩藩士らにレクチャーしています。
薩摩藩邸は四方から砲撃されたようで、最早「攻撃」のレベルを通り越してる気が・・・徹底破壊の方が、表現しっくりするかもです。
さて、江戸で上がった火の粉が、大坂にも飛び火しました。
というより、江戸での薩摩藩邸襲撃で勢いを得たと言うべきでしょうか、完全に感情的な暴走ですね。
大坂城には狂気ともいえるその兵らの怒りが渦巻いています。

これはもう・・・兵を挙げねばならぬ
薩摩の挑発に乗ってはなりませぬ!会津の者はそれがしが抑えまする
あの声を聞け。一万五千の猛り立つ兵を、どうやって鎮めるのだ。薩摩を討たねば、あの怒りはわしに向かってくる。主君のわしが、殺されるやもしれぬ。最早戦うしかない

嗚呼お可哀想に・・・と場の雰囲気にころっと騙されて慶喜さんに同情してしまいそうになりますが、同時にここは慶喜さんの器不足が露呈した&自分で認めたという事実にも繋がります。
難題だとは思いますが、慶喜さんに器があったのなら挙兵じゃなくて、宥めるなり何なり、戦勃発でない方向へ持っていくことも可能だったはずですから。
とはいえ、家康さんの再来と謳われてはいるものを慶喜さんも人間なので、あまり責めるのはいけませんね。
偉そうなこと言うけど、じゃあアンタ出来るのかよって言われたら、やっぱり出来ませんし。

会津では竹子さんが八重さんの家の角場を訪ねて来ていました。
スペンサー銃を披露する八重さんですが、手元に届いた時点で弾丸200発しかないのにばんばん撃つのはちょっと・・・そうしないと八重さんがキャラクターとしての「八重」として機能しにくい事情は重々承知ですが、この時点でバンバン撃ってたら、会津籠城戦になったときに「弾切れでスペンサー銃が使えなくなりました」となったときに、「そりゃあれだけ無駄玉撃ってたら・・・」と突っ込み入るんじゃないかなと(苦笑)。
ともあれ銃と薙刀、使う道具こそ違うけれど、何故それを手に取るのかという心は一緒だということで打ち解け合った八重さんと竹子さんではありますが、正直八重さんと竹子さんに接点を持たせようとする意味が未だに分からないです。
いえ、幕末会津の有名女子×2という絵図なのでしょうが、竹子さんに鉄砲を受け容れてもらう意味は何か?とか、私の頭じゃ理解出来ないのですよ。
会津戦争始まるまではどう考えても少ない八重さんの出番を、少しでも増やそうとしているのだというのは分かりますけど・・・・

慶応4年(1868)の年が明けました。
慶喜さんは薩摩討伐を宣言し、1月2日(1868年1月26日)には旧幕府方の兵が鳥羽と伏見の街道に布陣しました。
鳥羽と伏見の二か所に布陣が分かれてたのは、両所とも湿地帯に挟まれて大規模な兵力展開が難しい地形だったというのもあるでしょうね。
しかし鳥羽と伏見にしか布陣していないことに、会津は納得いかないご様子。
3日午前には鳥羽街道に薩摩藩参謀伊地知正治が率いる軍勢が到着し、旧幕府軍見廻組と遭遇して通せ、通さないの談判の末に見廻組は小枝橋の南方まで後退しました。
その後伊地知さんは一部の隊を鴨川左岸の藪に、一部の隊を鳥羽街道の東側の藪に待機させます。
戦の機運が高まる中、会津の陣営に三郎さんが江戸から到着します。
・・・何となくこの陣中で、覚馬さんと三郎さんの兄弟再会を夢見てた自分がいました。
でも、良く考えれば覚馬さんこの場にいないんですもんね。
後に八重さんは覚馬さんとの再会が叶うんだけれども・・・と思うと、三兄弟の中での三郎さんの置いて行かれ感が何とも言えないです。
いつか、歳が足りないせいで連れて行ってもらうことの適わなかった別撰隊隊長の官兵衛さんから、直々に「立派に働け」と言われやや緊張しつつもしっかりと返事をする三郎さん。
八重さんの南天、どうか三郎さんを守って下さい(ええ、知ってますけれども今だけ言わせて下さいよ)。
さて、先ほど触れました伊地知さんの部隊。
彼らの初弾が幕府陸軍砲兵の大砲に命中し爆発したのが、伏見での戦いのスタートの合図となります。
伏見にいた林さん達が聞いたドーンは多分それですね。
そして鳥羽でのスタートは、伊地知さんの部隊に後退させられた見廻組が強行突破しようとしてきたところを迎撃したことになります。
雑学になりますが、この戦いで桑名藩兵の指揮を執っていた人の名前は服部半蔵さんですが、勿論桑名藩は忍術集団では御座いません(笑)。
伏見方面で指揮を執っていたのは陸軍奉行の竹中重固さんといって、戦国時代の竹中半兵衛さんの子孫にあたる人ですが、この方は初戦で何を臆したのは淀まで後退してるのですから、残念ながら優秀なDNAは受け継いでいなかったようです。

その頃覚馬さんはレーマンさんに、今あるだけでも良いから銃を送って欲しいと催促の手紙を書いていました。
実は薩摩は、慶応2年12月17日(1866年1月22日)にレーマンさんから100挺鉄砲を注文してます。
薩摩がその時注文したのは戊辰戦争までに届いてたようなので、薩摩が買ったのはチュントナデール銃じゃなかったということですかね。
その時外から砲声が聞こえて来て、戦が始まったことを瞬時に悟った覚馬さんは飛び出して、戦を止めに行こうとします。

やめろ・・・。この戦の行ぎ着ぐ先は、地獄だぞ!

悲痛な叫びは天にも誰にも届かず、本当にこの戦は地獄の様相と化していきます。
薩摩兵に遭遇した覚馬さんは、目がほとんど見えてないこともあって反撃らしい反撃も出来ないまま、薩摩兵に殴られ蹴られをされ放題。
この後京都二本松の薩藩邸の、稽古所を改造した獄舎に拘禁されることになるのですが、捕らえられた場所は蹴上だとか別の場所だったとか、捕らえられた日についても諸説あるようです。

さて、会津の戦っていた伏見での戦の情況を、拙いながらもご説明させて頂きます。
そしてご用意させて頂いた図も拙いです、申し訳ないですがこれが私の精一杯です(苦笑)。

図中の説明をさせて頂きますと、土佐藩(100人)薩摩藩(800人)会津藩新選組です。
〓は大砲を設置していた場所です。
図中には書いてませんが、長州藩(125人)も参戦しています。
大きさの事情あって入れられませんでしたが、御香宮神社には四門、薩摩方が大砲を据えていました。
東御堂は会津藩屯所。
中央付近にある、の縦線は右から新町通両替町通京町通
鳥羽での戦闘が午後5時頃に展開されると、ここ伏見でも戦端が開かれました。
薩摩吉井友実さんの指揮の元、御香宮神社から伏見奉行所に向けて一斉に砲撃を開始し、龍雲寺に陣を展開していた大山さんもそれに続きます。
(元々龍雲寺には彦根藩が陣取っていましたが、薩摩に追い立てられて退去しました)
迎え撃つ旧幕府軍会津藩別撰隊新選組遊撃隊
敵との距離約四、五十間まで白兵突撃で接近した旧幕府軍ですが、薩摩の大砲(炸裂弾。ちなみに幕府方の砲弾は鉄の塊でしかない)、銃によって撃退されたので一旦後退し、畳を並べた胸壁に隠れてと突撃の機会を窺いつつ応戦したようです。
土佐藩はと言いますと、この戦いは飽く迄も私闘とし、朝廷は無関係だという立場を貫く容堂さんの意向によって戦闘参加を禁じられていました。
それでも藩内の強硬派の一部は戦線に出てましたが。
新選組の土方さんと斎藤さんが、側面攻撃に出ていましたが、実際あれを行使したのは新選組二番隊を率いていた永倉さんです。
堀を乗り越えて京町通(図中)を通り、敵の背後を突いて斬り込むという作戦でしたが、途中で薩摩の隊と衝突し、銃撃に阻まれ撤退を余儀なくされました。
新選組ファンに有名な、「君鉄砲ヲ持土塀ノ上カラ是縋可申ト永倉江申聞ルコエ永倉是幸イト足ヲカケ鉄砲ニツカマリ嶋田コレヲ引揚ル(『浪士組文久報国記事』)」はこのときのものです。
会津藩白井隊は土佐藩の隊を大きく迂回し、薩摩藩邸を焼き討ちにするなどしましたが、夜半に伏見奉行所が炎上し、前衛拠点を失った幕府軍は退却を余儀なくされます。
町の南部を焼き払われ、ただでさえ大きな兵力を活かせない市街地での戦闘で、幕府軍がより形勢不利となったのもあります。
伏見の町にあまり古い建物が残っていないのは、このときの戦火によるものみたいです。
勝敗を何が分けたのかと言いますと、色々理由はあるでしょうし私は戦術的なことは詳しくないので説明できませんが、そんな私でも分かるのは薩摩が高所を抑え、そこに大砲を据えていたことが途轍もなく有利に働いたということです。
これは個人的に調べた、しかも2013年5月時点での数値ですが、
  • 龍雲寺(北緯34度56分7秒/東経135度46分12秒)、標高約58.2m
  • 御香宮神社(北緯34度56分5秒/東経135度45分58秒)、標高約32.8m
  • 伏見奉行所跡(北緯34度55分54秒/東経135度45分59秒)、標高約24.3m
となっております。
多少の誤差はあるでしょうが、龍雲寺─伏見奉行所の高低差なんて約33.9m、直線距離542mですから、この距離感と高低差は致命的だと思います。
そんな砲弾が雨のように一方的に降らされる不利の中で、それでも長州藩第二中隊参謀の後藤正則さんを討ち取ったり、湿地で奇襲をしかけたりなど、出来る範囲での善戦はしていた会津のことを、後年薩摩は評価する形で書き記しています。
散々たる戦の中、権助さんが、弁慶の立往生を思わせる壮絶な最期を遂げていましたが、権助さんが亡くなったのは鳥羽伏見から撤退して江戸行きの船の中でだったと思います・・・日にちで言えば1月10日(1868年2月3日)。
ちなみに第3回の時の記事でも触れたことですが、この戦いで権助さんの隊の死傷率は約80%、薩摩藩邸を焼き打ちにした白井さんの隊は約85%です。

燃える伏見奉行所を眺めて、伏見まで戦況の視察に来ていた西郷どんがぽつりと一言。

勝ったな・・・

ですが、初戦勝利を大久保さんに手紙で書き送り、幕府追討将軍の出馬要請をしているので、大久保さんは一緒にいなかったと思われます。
大久保さんは初戦の勝利を聞いたときほど快心を覚えたことはなく、「百万の援兵を得たような気持ちだった」と後に語っています。
西郷どんは西郷どんで、開戦時の時の心境を「鳥羽一発の砲声は、百万の味方を得たるよりも嬉しかりし」と語っています。
何だかもう・・・戦になって嬉しくてたまらないんですね、このふたり、という感想しか抱けないですね。
そして都では、岩倉さんと戻ってきた三条さんが悪い笑顔を浮かべて、偽の錦の御旗を広げていました。
岩倉さん達の手によって作られた錦の御旗が掲げられたのは、1月4日(1868年1月28日)の午後、伏見方面の戦場にてです。

今回はドラマの展開になるべく沿う形で、伏見での戦いのみを掘り下げました(と言っても上辺をなぞった程度ですが)が、鳥羽伏見の戦いの大局を地図に書き込むと上図のようになります。
真ん中のあたりに巨椋池、というのがありますが、これは現在綺麗に埋められてしまっているので、今の地図では存在しない、湖と言った方が良い大きな池です。
伏見から撤退した会津藩は、中書島から淀方面に戦線を下げ、徐々に大坂へと追い詰められていきます。
しかしこの敗戦は、会津にとって悪夢の序章でしかありませんでした・・・。

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2013年5月15日水曜日

第19回「慶喜の誤算」

大政奉還を将軍家の英断だと受け入れた容保様のお言葉から始まりました、第19回。
寸暇を置かずにOPのクレジットに「慶喜の誤算」と出るのは、些か皮肉すぎるような気もしますが・・・。
そんなこんなで状況が目まぐるしく変わり混乱する都とは違い、遠く離れた会津では、いつか出て来た伊東悌次郎少年と高木盛之輔少年がすっかり大きくなって再登場です。
八重さんに鉄砲を教わっているお二人ですが、的に弾が当たったことを子供のように嬉しがる二人に、空かさず八重さんの「的撃ぢは遊びではねぇ」と叱責が飛びます。

鉄砲は命のやりどりをする道具だ。形だげ真似でも、胆が出来でねぇど使いこなすごどは出来ねぇ

剣士・島田虎之助が「剣は心なり。心正しからざれば、剣また正しからず。剣を学ばんと欲すれば、先ず心より学ぶべし」という言葉を遺していますが、鉄砲も剣と同じ心構え(八重さんの言葉を借りるなら胆)が必要なようです。
思えば幼い頃、八重さんは権八さんに鉄砲で撃たれて死んだ鳥を抱っこさせられて、「鉄砲は命を奪う道具」であることを心に刻みつけられました。
幼い八重さんが教わったことを、今度は成長した八重さんが次の世代に繋いでいくのですね。
そこでふと、悌次郎さんの前髪が視界にちらちらして邪魔な長さになっていることに気付いた八重さんは、「切ってあげやしょう」と、悌次郎さんの前髪をむんずと掴んで小刀でばっさり切ってしまいます。
物凄く脚色めいたように見えますが、これは数少ない八重さんの、会津戦争以前のエピソードのひとつだったりします(笑)。
切られた悌次郎さんや、じゃあ自分もお願いします、という盛之輔さんとは違って、仰天したのはその場を通りかかった佐久さん。
あんな頭になって、悌次郎さんが人に笑われだらなじょする」と佐久さんは八重さんを叱っていましたが、前髪を落すということは、武家の男の子にとっては元服を意味するんですよね。
前髪を落として髷を結う、という武士のその通過儀礼は、通常親や一族の長などと言った人によって施してもらうものです。
なので近所とはいえ、赤の他人の、しかも女の八重さんが、悌次郎さんのご両親にお伺いも立てずにいきなり前髪を切り落とすということは、とんでもなさすぎることなのです。
ドラマでは描かれてませんでしたが、これは八重さんが史実としてやってしまったことなので、本当は伊東家に頭を地面に擦り付けんばかりの勢いで謝りに行ったはずです。
「つい三郎といるような気になって」などと言ってる場合じゃないのよ、八重さん!
・・・と、その辺りの説明がごそっと抜けていたので、この行動がどれだけのものかは少し視聴者に伝わりにくかったのではないでしょうか。
さて、悌次郎さん達に銃を教えるのはまだ早いのではないかという佐久さんに、何かあったときのためにと八重さんは答えます。
しかし佐久さんは、会津で一体何が起きるというのだという状態。
けれども佐久さんが普通の反応だと思います。
都で戦が起こるかも・・・、という不穏な噂は、10月10日(1867年11月5日)時点には既に都内で囁かれていました。
ですがここは都より遠く離れた会津です、都とほとんどタイミングを同じくして噂が入ってくることはあり得ない土地です。
なのであまり八重さんや尚之助さんが、会津で戦を起こること前提に喋ってたり行動してたりすると、物凄く違和感を覚えるのですよね・・・これは以前の記事でも触れた、優秀すぎる尚之助さん論にも通じると思います。

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜さんは大政を朝廷に奉還し、翌日それが認められます。

また慶喜に先を越された。土佐の建白からたった十日で政権を投げ出すとは思いもよらんかったわ
朝廷からは、当分これまで通り諸政を見よとのお言葉があったそうです
これで討幕の勅は使えんようになった。正に証文の出し遅れやな

たとえ大政を司る権利を失っても、徳川家は日本一の大大名であることに変わりはありません。
それに以前も触れましたが、この時点ではまだ慶喜さんは征夷大将軍を辞してないので、日本中の武家の棟梁としての資格も失っていません。
大政を奉還してしまったことが、慶喜さんの行動の汚点のように捉えられがちですが、実は違うんですね。
逆に、岩倉さん達との頭脳戦に於いて、岩倉さん達の「討幕の密勅」を無効化させる、難いほど絶妙なタイミングでの先手だったのです。
ということは、次に岩倉さん達が考えるのは当然、慶喜さんをその座から引きずり下ろし、大大名としての力を取り上げるのか、ということですよね。
その算段が既に頭の中に描かれてるからでしょうか、西郷どんは先手を打たれても何のその、慶喜さん討伐の勅は既に頂いてるとしれっとしてるもんです。
ですがそれは以前の記事でも触れたように偽勅なので、公になっては勅を捏造した岩倉さん達の立場が危うくなります。

偽勅でん、構いもはん。・・・某、この勅をば頂いて薩摩に戻り、出陣の手筈を取りもす。こいで薩摩は挙兵討幕に一丸となりもんそ。勅の役目はそいで十分
そこまで腹を括ったか・・・
やり抜かんなならん勝負ごわんで。・・・一蔵どん、戦支度にかかろうかい

ちなみに事実上では無効となったあの倒幕の密勅について、中山忠能さんが中断させる沙汰書を10月21日に出したのですが、両藩の人心に疑惑を抱かすことを恐れたためか、直接本国には渡っていなかったようです。
撤回が出されたのに撤回されないまま一人歩きを始めてしまったあの偽勅の密勅は、西郷どんの言う通り、薩摩を纏めるのにこれ以上ない打ってつけの物になりました。
その西郷どんが薩摩に戻る間、自分は王政復古の根回しを進めるか、と岩倉さんは言います。

日本を神武創業の初めに戻す。鎌倉幕府も大化の改新も飛び越して、二千五百年も遡ればたかが三百年の徳川幕府など、一息に吹き飛ぶわ。皇国を、一旦更地にして、一から作り直すのや

朝廷の下に天下が纏まるなどという発想を飛び越えての「更地」宣言。
更地に・・・と言うことは、日本の歴史が築いてきた政権のあれこれを全部壊すということにも繋がります。
成程、維新が「一新」と言われるはずですよね。

10月15日、朝廷は10万石以上の大名に上洛を命じ、21日は10万石以下の大名にも上洛を命じました。
上洛期限は11月中と定められましたが、どの大名も時勢の様子見ばかりをしており、実際に従った大名は少なかったようです。
ちなみに15日時点で特に朝廷が上洛を命じたのは、前名古屋藩主の徳川慶勝さん、前福井藩主の松平春嶽さん、前佐賀藩主の鍋島直正さん、前土佐藩主の山内容堂さん、前宇和島藩主の伊達宗城さん、芸州藩主の浅野茂長さん、薩摩藩主国父の島津久光さんら8人。
ここに容保様や、定敬さんの名前がないことに、朝廷の含みを感じられます。
それを察知しつつ、容保様の立場を案じられた異母兄の慶勝さんは、容保様に引退して帰国してはどうかと、親書を送っています。
しかし容保様も、会津の重臣方も、その新書の言を受け入れませんでした。
もし異母兄からの言葉を受け入れていたら、後の幕末史の様相は大きく変わっていたでしょうに・・・いえいえ、歴史に「もし」は禁句でした。

このまま幕府が力を失えば、いずれ長州が復権し、都に上ってくる。再び戦となれば、今度は薩摩とも戦わねばならぬ。都を奪われてはならぬ。そうなっては徳川家も、会津も共に倒れる。・・・一同、心してかかれ

会津に帰らない以上、後手後手に回ってしまっている会津藩に出来るのは、それぐらいですよね。
敵の先手には決してもう回れないのですし。
それでもここで多少無理してでも都を離れようとしないところが、容保様の「藩主」として(つまり会津23万石に生きる民を統治する為政者として)の駄目なところではないのかと。
逆に、自分を差し置いてでも相手に尽くそうとする情の深い人格者としての評価のされどころだとも思います。
厳しいことを言うようですけどね。
上っ面だけで歴史を眺めてても、通り一遍な評価しか出て来ません。
容保様は京都守護職であると同時に、会津23万石にい生きる全ての人の生活をその背に背負っている立場であったということも、忘れてはいけないと思うのです。

その会津にも、大政奉還のことが伝わって来ていました。
八重さん達は女子だからでしょうか、幕府が朝廷から諸政を委任されていたことなど、さっぱり知らなかったご様子。
権八さんの説明を尚之助さんで補いつつ、取り敢えず「凄いことが起こった」というのは山本家の女子にも理解出来たみたいです。
そして大政奉還の報は、栖雲亭の西郷さんの元にももたらされました。
そこで内蔵助さんから、万一の時は容保様が藩を上げて出陣するつもりだということを知り、思わず声を荒げます。

戦わずに済む道があんぞお!長州が戻ってくる前に、都を引き上げんだ
辞職のごどは、これまで幾度も願い出で、その度に退げられだ。こった切迫した折に、お許しが出るはずはねぇ
いや、今だがらこそ。殿を守護職に就げだのは幕府、その幕府が政権を放り出したなら、お役目も消えんのが道理よ、一日も早ぐ引き上げんだ。・・・薩摩も長州もこごまで追って来ねぇ

その道理が通らないばっかりか、薩摩と長州が会津まで追ってくるんですよね・・・。

一方覚馬さんは、目のことを案じた権助さんに、自分の宿所に移って来ないかと誘われますが、それを丁寧に断ります。

いぐらが見えでるうぢは、洋学所は休めねぇ。教えるごどが山のようにありやす。・・・この目では、もう銃は撃でねぇ。んだげんじょ、教えるごどならまだ出来る。幾らがは会津のお役に立でる

今の覚馬さんに畑を耕すことは難しいかもしれませんが、種を蒔くことは出来るのですね。
「自分は何も出来ない、何の役にも立たない」と思ってしまうことは、自分の存在否定にも繋がりますし。
覚馬さんもその存在否定に足を踏み入れかけていましたが、長崎で修理さんが存在理由を気付かせてくれたから、またこうして今の自分に出来る精一杯のことに取り組めてるのでしょう。
権助さんの「焦んなよ」は、精一杯な覚馬さんの心境をよく酌んだ、温かみのある言葉だと思いました。
数日後に、覚馬さんは目薬を貰った帰り道で新選組隊士と薩摩藩士が一触発の状態になってる場に遭遇します。
癇癪玉のようなこの情勢下で、下手な揉め事を起こすわけには行かないと覚馬さんはそれを止めようとしますが、敢え無く突き飛ばされ、代わりに場を制したのは新選組の永倉さんと斎藤さん。
お蔭でその場は何とか納まりました。

おい、小競り合いは抑えでくれ。市中警固が新選組の役目だぞ
承知している。だが、抑え切れるかな。政権返上で皆激している。これまで我らが浴びて来た血は何のためだったかと。・・・武家の棟梁など、当てにならぬものだな

覚馬さんの言葉に返された斎藤さんの言葉を、少し掘り下げつつ補足させて頂きますと、新選組というのは皆様ご存知、「会津藩お預かり」と言う立場でした。
つまり今風に言えば、隊士たちは「物凄く給料と待遇の良い、でも危険なお仕事の非正規社員」です。
それが過日6月10日(1867年7月11日)に幕臣(正社員)に取り立てられることになったのです。
まあその幕臣に取り立てられるにあたって隊内で色々と思いのすれ違いが起こったりもするのですが、折角幕臣に取り立てられたのに、その喜びも束の間、幕府が霧散してしまったのですから、「当てにならない」と思うのも、少し不機嫌そうに見えるのも、無理のない話です。
何か苦いものを呑み込んだような顔をした覚馬さんが、そのまま洋学所へ戻ると、赤い鹿の子がよく似合った客人が来ているとのこと。
思い当たる節のないまま覚馬さんが自室に戻ると、そこにはひとりの女性が。
大垣屋さんから斡旋された、小田時栄さんです。
諸説はありますが、嘉永7年(1854)のお生まれですので、このとき14歳、数えで15歳。
ちなみに覚馬さんはこのとき40歳、数えで41歳でして、後のこのふたりの関係を考える時に、ちょっとこの年齢差は頭の片隅に留めて置いても良いかも知れません。
さて、時栄さんが大垣屋さんから言いつかわった仕事は、覚馬さんの身の回りの世話。
目が不自由な覚馬さんを慮っての大垣屋さんのこの行動でしょうが、覚馬さんは女子の手は要らないと断ろうとします。
そこへ、先ほどの騒ぎを見ていた不貞浪士二人が学問所に踏み込んできます。
万全の状態なら、傘で刀と渡り合ったこともある覚馬さんなので何の問題もなかったでしょうが、今は兎に角目がはっきりと見えていません。
が、追い込まれた覚馬さんを救ったのは、覚馬さんの短銃を構えた時栄さんでした。
これは流石に創作部分でしょうが、桂さんの幾松さんと言い、龍馬さんのお龍さんといい、幕末の女子は皆一様に勇ましいですね。

おい、一発や二発、外しても構わねぇぞ。弾は六発入ってんかんな
一発も外しまへん!
右の男を撃で。もう一人は俺が斬る!
はいっ!

出会って間もないのに、何と言う阿吽の呼吸でしょうか(笑)。
脅しが効いたようで、不貞浪士たちは走り去っていきますが、どうやら時栄さんも気を張っていたようで、握り締めたままの指を一本一本覚馬さんに銃から外して貰う始末。
しかし実際その銃には弾が一発も入ってなかったらしく、覚馬さんは気付かれなくて良かったと笑って、時栄さんを採用することにします。
思えば覚馬さん、会津に在りし頃はうらさんに体張って守ってもらって、その時のいざこざでうらさんは流産してしまったんですよね・・・。
時を経て同じように自分のことを体を張って守ってくれた時栄さんを、うらさんに重ねた部分もあったのでしょうが、うらさんのことを思い出して欲しかったなと思うのは視聴者の贅沢な望みなんでしょうかねぇ。
覚馬さんが会津を離れて彼是5年、覚馬さんうらさん夫婦に限らず夫が長い間都に留まっているので、国許の会津でも色々と問題は起こってたみたいです。
当たり前ですけど、5年と言う歳月は長いですね。

さて、会津の国許から、大政奉還を機に京都守護職を辞するべしとの嘆願が届いているとのことですが、都在中の会津藩士の様子について、当時容保様の小姓だった北原雅長さんが「一藩の熱血肥後守をして此忠告に従う暇なからしめけり」と『七年史』で回想しています。
国許からは辞職の嘆願が来ていたのかどうかは分かりませんが、少なくとも都在中の藩士たちは「帰らない、辞さない」の姿勢で一致していたことが伺えます。
悌次郎さんは、西郷どんが都から姿を消したので、国許に帰って挙兵の画策をしているのではないかと言いますが、政権を返上した以上幕府を倒す大義は彼らも失っているはずだという容保様。
ですが、大義がなければ大義を作り出すのがテロリストという存在でして、芸州藩なんぞは王室守衛の名目で兵力500を上京させてます。
西郷どんは、薩摩に帰国する途中で長州に立ち寄って藩主父子に謁見し、11月13日(1867年12月8日)には藩兵1000人を軍艦4隻(三邦丸、春日、翔凰、平運)に分乗させて海路で薩摩から三田尻を経て大坂へ向かいます。
薩摩の入京は同月23日で、これにより薩摩の在京兵力は2800となりました。
長州は11月25日(1867年12月20日)に三田尻を発ち、軍艦7隻で11月28日に摂津打出浜に上陸し、その後しばらく西宮に滞陣して12月9日に光明寺で入京許可を貰い、翌日に相国寺に移ります。
この兵数が1600ほど、更に山陽道の兵が合流し(ドラマの会話の流れから、桂さんはこちらの組だったようですね)、そちらの兵数が1300ほどなので、長州の在京兵力は2900ほどということですね。
幕府も直属兵力の上京を急がせていまして、江戸では歩兵6000人が新規雇用され、どちらかと言えば薩長組に比べて慌ただしく戦闘態勢を整えているように思えます。
情勢に戦雲が掛かり始める中、11月15日(1867年12月10日)には薩長同盟に貢献した中岡慎太郎さんと龍馬さんが襲撃され、龍馬さんはその日の内に、中岡さんはその2日後に息を引き取りました。
討幕の動きが日に日に濃厚になってくる中、土佐だけは兵を出していませんでしたが、ふたりの悲報に接して乾さんは「それでも兵を出さぬか!」と憤ってます。
ふたりを襲撃した組織は未だ諸説あり、確定にはまだどれも至っていませんが、このドラマの流れだと「幕府側の人間に殺された」という解釈を取っているようですね。
ちなみにこの龍馬暗殺の罪を着せられて、新選組局長の近藤勇さんは後に斬首されることになるのですが、龍馬さんが襲われた日に近藤さんにはアリバイがありまして、その時一緒に飲んでいたのが実は覚馬さんという。
「八重の桜」では覚馬さんと新選組の接点を悉く省かれているので、触れられることないだろうなとは思っていましたが、本当に触れられませんでした・・・。

竹子さんが会津に帰って来てからそろそろ一年は経とうとしているように思うのですが、未だに入門したにも拘らず胴着が皆と違う竹子さん・・・(笑)。
八重さんはそんな竹子さんに、初めて稽古で黒星を上げたようです。
八重さんは竹子さんに、思い切って今度角場に来るようにお誘いします。
鉄砲を竹子様にも理解してもらいたいという気持ちからのものでしょうが、正直私にはどうして八重さんがそこまで竹子さんに鉄砲を認めて欲しいのか、少々理解に苦しみます。
竹子さんから見たら、八重さんの行動は観念の押し付けにも映るのではないでしょうか。
何だかその辺り、19回話を重ねて創り上げて来た八重さんらしくないと言いますか、八重さんなら「竹子様には鉄砲は受け入れて貰えてないけど、誰に何を言われても!」tなる方がまだ自然な風かと・・・。
いえいえ、まあこれ以上は言いませんけどね。

12月8日(1868年1月2日)、長州に対する寛大な処置が朝議によって決定されました。
毛利敬親父子の入京が許され、官位が回復したのです。
しかしこの朝議に慶喜さんは感冒(風邪)の仮病を使って欠席、容保様にも同じく欠席するよう申し伝え、ふたりのいない席でこのことは決められました。
ですが、それだけで終わらなかったのが幕末のこの12月8日です。
事が実行されたのは翌9日のことですが、王政復古という名のクーデターが行われました。
二条摂政や朝彦親王などは参内を禁止され、赦免されたばかりの岩倉さんが参内し、明治天皇が「王政復古の大号令」を下します。
その内容をざっくり箇条書きしますと、以下のようになります。
  • 慶喜さんの征夷大将軍職辞職を許す
  • 京都所司代、京都守護職の廃止
  • 江戸幕府の廃止
  • 摂政・関白の廃止
  • 総裁・議定・参与の三職を新設する
将軍慶喜さんも、徳川幕府も、容保様や定敬さんも、皆一様にこれによってお払い箱にされました。
代わりに発足した、総裁、議定、参与の三職を中心とした新政府の構成は以下の通り。
総裁
有栖川宮熾仁親王(14代将軍家茂さん正室、和宮さんの元婚約者)
議定
仁和寺宮嘉彰親王、山階宮晃親王、中山忠能(明治天皇外祖父)、正親町三条実愛、中御門経之(岩倉具視の姉婿)、島津忠義(薩摩藩主)、徳川慶勝(尾張藩主)、浅野長勲(芸州広島藩主)、松平春嶽(前越前福井藩主)、山内容堂(前土佐藩主)
参与
大原重徳、岩倉具視、万里小路博房、橋本実梁、長谷信篤、西郷隆盛、大久保利通、岩下方平、辻将曹、桜井与四郎、久保田平司、後藤象二郎、神山左多衛、福岡孝弟、中根雪江、酒井十之丞、毛受洪、丹羽賢、田中不二麿、荒川甚作
何と言っても会津が一番衝撃的だったのは、何と言っても御所の警固を解かれ参内停止、事実上御所から追い払われたことでしょう。

会津は朝命により禁裏の警固を解がれだ、即刻立ち去るようにど迫られ、門前で睨み合いどなっているどのごど!蛤御門の守備兵は、お下知があり次第打って出るど申しておりまする

しかし容保様は禁裏での戦は絶対にならぬと、直ちに兵を退いて門を明け渡すように命じます。
容保様も憤る藩士たちと一緒に声を荒げて憤りたかったでしょうが、「朝命」と言う言葉で辛うじてそれを押さえこんでいるように見えました。
そして御所へ駆け付けた悌次郎さん達が見たものは、昨日まで会津が守っていた門を守る別の藩兵の姿。
御所に通じる九つの門は全て、「朝命」に従う倒幕派の軍勢に固められています。

四年前の八月、我らが長州を追っ払った時どそっくり同じだ・・・門の内外が、入れ替わった・・・

愕然とする悌次郎さんですが、一緒なようで一緒じゃありませんよね。
今回のクーデターは、同じクーデターである八月十八日の政変と比べて、贔屓目や同情を差し引いても卑怯の一言に尽きません。

ですがここで一息吐かせないのが幕末の情勢です。
王政復古の大号令が発せられた同日の夜、新政府での初めての会議が行われます。
小御所会議です(小御所の写真は此方の記事で)。
と言いますのも、倒幕派はまんまと幕府を廃し、会津と桑名もお役御免に出来たわけですが、幕府が無くなっても「徳川家」はなくなっていません。
将軍ではもうありませんが、それでも慶喜さんは徳川家宗家を継ぐ者として、事実上日本一の石高を持った大名ということになります。
これが厄介な倒幕派は、次にそれを剥奪するために慶喜さんへ辞官納地を迫ることにします。
9月21日(1867年10月18日)に内大臣になっており、それを辞職することと、未だに有している徳川領400万石の返上を求めてるのですから、要は慶喜さんを丸裸にしようという魂胆が見え透いてます。
しかしこれに異議を唱えたのが、容堂さんです。

なんで慶喜公をここに呼ばん!進んで政権を返上したがは朝廷への忠心の表れではないかえ!
慶喜の心底には尚も疑わしいとこがあり、長年の失政の罪も重い。慶喜に誠意があるなら、官位を辞し、領地は朝廷に返上すべきやと存じます
領地返上?何を愚かな!朝議の場から外し、断罪するがは陰険至極!大体これは帝が幼うておわすがを良いことに、政権を我が物にする企みではないかえ!
不敬やろう!此度の拳は、悉く帝のご叡慮に御座りますぞ!
容堂公のお言葉は失言なれど、それがしも徳川への過酷な処遇は不適当と存ずる

揚げ足と論点のすり替えをしようとした岩倉さんを、見事に元の起動に戻した春嶽さん、流石です。
慶勝さん、春嶽さん、そして容堂さんは日本が三百年近く泰平であれたのは徳川幕府のお蔭であるとして譲らず、慶喜さんの会議参加をしきりに求めました。
これに対して岩倉さんは、黒船来航以降の失政を攻めているのですね。
「長年の失政」というのは、その時将軍だった家定さんや、その後将軍だった家茂さんの年月も含まれてると思います。
だって、慶喜さん将軍就任してからまだ1年ほどですし・・・「日本の舵を取っていた家の代表としての責任」を問われているんですね。
そんなこんなで会議は紛糾し、一旦休憩が挟まれます。
慶喜さんの辞官納地を認めさせたい倒幕派にとって、容堂さんのこの主張は邪魔なものでしかありません。
しかも筋は通ってるので、堂々と言われるとやっぱりやり難いのでしょうね。
しかしそれを薩摩藩詰所の西郷どんに伝えると、西郷どんは有名なあのひとことを放ちます。

ないも難しかこつはなか。短刀一本あれば片の付っこっじゃなかか

本当なら大久保さんではなく、薩摩藩家老の岩下方平さんが西郷どんに「会議が上手く進まない」と相談し、「匕首一本あれば片が付く」と答えたそうです。
匕首は鍔のない短刀のことですから、反論を唱える容堂さんを刺殺せば丸く会議は収まるではないか、ということですね。
容堂さんはそのことを後藤象二郎さんから知らされ、流石に閉口した容堂さんは休憩後再び始まった会議では沈黙していました。
反論が黙り込んだので、小御所会議は慶喜さんの官位を一等下げることと、領地の半分の200万石召し上げという結論で終わります。
勿論慶喜さん本人はこの場に居合わせていないので、後日慶勝さんと春嶽さんから小御所会議の結果を知らされることになります。
だまし討ちのような形であっという間に何もかも奪って行かれた幕府側がこれで怒らないわけなく、彼らは慶喜のいる二条城に集結しました。
ですが、慶喜さんは激昂した勢力を二条城から一歩も外に出しませんでした。

朝議を欠席したのは失策であった。だが、まだ手はある。ここからどう巻き返すか・・・

慶喜さんも色々と回転が速い頭で打つ手を講じていたでしょうが、よく指摘されるように徳川慶勝さんや松平春嶽さんの巻き返しに期待していた部分もあったでしょうね。
木村武仁さんは以下のように述べています。
しかしその後、松平春嶽、山内容堂、後藤象二郎らが巻き返し、早急に慶喜を参内させ、議定の席を与えて新政府の一員にしようと必死の朝廷工作を行った。その結果、新政府の費用は徳川家だけに負担させず、各藩に割り当てようという動きが活発となり、慶喜の辞官納地も有名無実と化される寸前となった。それに対して西郷は江戸の三田藩邸に浪士を集め、江戸市中を攪乱させ、旧幕府軍の暴発を誘発させる作戦に出た。(木村武仁、2008、図解で迫る西郷隆盛、淡交社)

慶喜さんはさて置き、周りは必死になって動いていたということですね。
そんな中、慶喜さんは兵を率いて大坂城に向かうとの報せが飛び込んで来ます。
都で戦をするという危険回避もあったでしょうが、この状況下で朝廷から距離を置くというこの行為は、なかなか評価が難しいところですね。
そして局面はいよいよ最悪の舞台へと突入していきます。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年5月8日水曜日

第18回「尚之助との旅」

前回からの流れで川崎夫婦の新婚旅行(?)から始まりました、第18回。
八重さんの足で峠をいくつも越えられるかと案じていた尚之助さんですが、寧ろその尚之助さんの方がばてていて、八重さんはすたすたと前を行くと言う、予想通りの展開になっていました(笑)。
しかし背炙山に差し掛かると、先ほどまでの駄目っぷりは何処へやら、きりっとして地図を開きながら「ここは覚馬さんと約束した場所なんです」と言う尚之助さん。
第7回で、都へ発つ前に覚馬さんと温泉で交わした、有事の際には背炙山に反射炉を作って、お寺の鐘を鋳潰して大砲を作るという、あの約束ですね。
そこから白河街道に沿う形で猪苗代湖を眺めつつ進んで、福良に一泊。

明日は三代を通って白河だなし。・・・何を考えでいだんですか?湖を見ながら難しい顔をして
背炙山で作る大砲を、舟で何処まで運べるかと。日橋川を下れば、阿賀川に出て越後まで行けそうだ
なして、そったどごまで?
長州攻めでは都から遥か遠い名もない村が戦場となりました。もし次に戦が起きたら・・・
会津で何があんだべが?

どう見たってここ最近の尚之助さんの頭の中には、既に「会津で戦が起こるかもしれない」という仮定が、濃厚な現実味を帯びたものとしてあるんですよね。
だから白河までわざわざ視察に足を運んだ。
でも先のことが見えすぎているというか、以前の記事でも触れましたが最近の尚之助さん優秀すぎるんですよね。
都から遥か遠く離れた会津で、どうやってそんな新鮮且つ正確な情報を仕入れて、薩摩や長州に比べて閉塞的な会津に居ながらどうしてそんなに視界が啓けているのか、突っ込みだしたらきりがないくらい尚之助さんの優秀さは首を傾げたくなります。
何より、そんな風に戦が会津にやって来るという確信に近いものがあるのなら、視察も大切でしょうが、後の城下の民まで巻き込んだ会津戦争の惨状を考えると、そっちの方をまず何とかして下さい!と思ってしまったりですとか。
視聴者は「歴史の経過を既に知っている身」であるのに対して、尚之助さんは「歴史の流れに身を置いてる歴史の当事者」ですよね。
その当事者であるはずの尚之助さんが、何だか我々の立っている場所にも曖昧に足を突っ込んで来てやしないかい、と違和感が拭えません。
大河ドラマでスポットが当たり、尚之助さんについての研究もここ数年でずっとされるようになって、分かって来たことも多いとは思いますが、それでもまだ創作に頼らなければいけない部分はたくさんあると思います。
それでもこの創られ方はちょっとなぁ、と・・・まあ、個人的感想ですけどね。

どうしても創作部分に頼らざるを得ない尚之助さんとは違い、がっつり史実通りを貫く姿勢を崩さない京都パート。
まず悌次郎さんが蝦夷地から呼び戻され、再び京で起用されます。
本当なら慶応3年(1867)3月下旬の時点で戻って来てるはずなのですが・・・まあ深い追及は避けておきましょうか。
悌次郎さんは蝦夷地から、北国船に乗って新潟経由で京へ戻って来たと思われます。
しかし遅すぎましたね・・・今となってはもう薩摩もがっちり長州と手を結んでますし、水を差すようですが悌次郎さんを投入してもどうにもならない事態になってます。
そしてもうひとり、大蔵さんもロシアから戻ってきました。
渡航先で雇った人足が大蔵さんを馬鹿にして言うこと全然聞かないのにカチンと来て、ぼっこぼっこにしたというエピソードはスルーされましたね(笑)。
覚馬さんたちは「頼母様の案じられていだ通り」になったと言い、西郷さんこそ骨の髄まで会津の武士だと誉めそやしますが、そこは誉めそやすのではなく危機感を持つところではないのだろうか・・・。
何だか、ぽけっとしてるのかしてないのか、よく分からないです、覚馬さん達。
でもまあ、蝦夷に行っていた悌次郎さんと、ロシアに行っていた大蔵さんが色んな経験を積んで、前向きに可能性を求めていく姿勢が覚馬さんの周りに出来上がりつつあるのは、いつかのことを思えば喜ばしいことなのでしょう。
しかしその時、薩摩兵仙人が大坂に入ったとの報せを広沢さんが持ってきて、その場に緊張が走ります。

一方新婚旅行続行中の川崎夫婦は、白河小峰城の城下のとある店で白河ダルマを購入します。
お店の方曰く、眉は鶴、髭は亀、顎髭は松、鬢は梅、顔の下には・・・と、目出度い物尽くしだそうです。
それをひとつ買い求め、安達太良山には鬼婆がいるんですよ~、などと道中仲良くお喋りをして、ひょんなことから後の二本松少年隊に当たる子供たちと出会う八重さん達。
少年者たちの指導者は木村銃太郎さんは、江川太郎左衛門さんに師事して高島流砲術を修めた方です。
弘化3年(1847年)のお生まれですので、このとき20歳、数えで21歳。
八重さんよりふたつお若いのですね。
そういえば八重さんが初めて尚之助さんと出会ったときに、桜の樹の上で読んでいたのは高島流砲術の書物『砲術言葉図説』でしたね。
しかし少年たち、八重さんの鉄砲の腕前に驚いてますが、寧ろ私は少年たちが平気な顔してゲーベル銃撃ってるのが驚きです。
反動で肩付近の骨砕けますよ?子供は骨が折れやすいのよ?
そんなこと言ったら幼少期の八重さんどうなるんだって話ですが、八重さんは史実では13歳で米俵担げるくらい体形がしっかりしていたから、綾瀬はるかさんの外見にだまされながらも問題はないと思ってます。
それに「撃ったはずみでひっくり返っぺ」と言ってましたが、たじろぎもせずに直立のまま撃ってた少年たちの足腰の強靭さも謎です。
ところで、あの少年たちの中に銃太郎さんの門下生第一号、岡山篤次郎クンはいたのでしょうかね。
成田才次郎クンは名前出て来てたので分かりましたが・・・。
その才次郎クンは、八重さんから撃つときに目を閉じる癖を治す方法を教えるのですが、かつて八重さんに「目を閉じるな」と言い続けた覚馬さんの目が、今遠い都では光を失おうとしてるんだよな・・・と思ったら何となく切なくなりました。
切ないと言えば、ここで八重さん達が出会った少年たちも、少しあとには壮絶すぎる最期を遂げる子ばかりなのですよね・・・。

今回は江川太郎左衛門さんの教えを受けた人物としてもう一人、大山弥助さん、後の大山巌さんが登場しました。
天保13年10月10日(1842年11月12日)のお生まれですので、このとき25歳、数えで26歳。
従兄弟の西郷どんを訪ねて来た大山さんは、銃を安く買い付けて、傷物は修理すれば良いという史実通りの実務奔走をしていたご様子。
以前放送された『坂の上の雲』時点では既に「陸の大山」と言われる貫録を醸し出している大山さんですが、若い頃のこういう積み重ねあってのあの「陸の大山」だということが伺えます。
それより大山さんの関心事は、土佐藩が兵を出さないということ。
以前の記事でも少し触れましたが、土佐は前藩主の山内容堂さんを始め上層部は公武一和派なので、幕府を倒す気などないので当然倒幕のための兵を出す気もありません。

大政奉還は土佐と同盟を結んだ折に決めたこつにごわはんか。慶喜を将軍の座から引きずり下ろすために兵を挙げ幕府を脅す約束にごわした
武力を見せんな、慶喜は政権を手放しもはん

容堂公は大政をば奉還させた後も、慶喜をば議員の長に据え、政権の中軸に残すおつもりじゃ
そげな!そいでは、公武合体の焼き直しにしかないもはん!

日本史の授業でも必ず触れられる大政奉還のことはもう今更筆を割きません。
要はここで大山さんが言っているのは、日本の政を執り行う権利を朝廷に返還しても、慶喜さんがその後に出来た議員の長のポストに納まるのなら、それは徳川幕府から名を変えた徳川議会になるに過ぎないということです。
それに、大山さん達にはのうのうと構えている時間はありませんでした。
と言いますのも、この年の12月7日(1868年1月1日)に兵庫港が開港する予定でした。
開港と書くと、字の意味のままを取ってしまって「港を開く」ということでしょ?と捉えられがちですが、港ではなく町そのもの(今回の場合該当する町は神戸村)を外国に開く、というニュアンスも含んでいます。
だからこれまで兵庫に先立って開港された港には、全て外国人居留地が建てられているのです。
ちなみに開かれた港(=開港場)は「兵庫」で、その開かれた港のために設けられた市場(=開市場)が「神戸」です。
神戸村に港が置かれたわけではないのでご注意。
で、話を戻して、どうして兵庫港開港が重要になって来るのかと申しますと、その開港の非には各国の行使が訪れるからです。
実際、当日はアメリカからはファン・ファルケンブルグさん、フランスからはレオン・ロッシュ公使さん、イギリスからはハリー・パークスさん、イタリアからはデ・ラ・トゥールさん、ロシアからはフォン・ブラントさん、、オランダからはファン・ポルスブロックさんが訪れましたし、沖には英国艦12隻とアメリカ艦5隻、フランス艦1隻が停泊していました。
要は「外国の目」が集まっている、国際社会的な中で執り行われようとしてる開港とでも申しましょうか。
そんな中で、慶喜さんがその儀式の中に加わると、各国の目には「ヨシノブが日本の長」のように映り、薩摩や長州からすれば望ましくないことになるのです。
国際社会的に「日本の長」と認められた慶喜さんを蔑ろにするのは、流石に宜しくないことですので。
なのでそうさせないために、けれども薩摩一藩だけでは事の規模が規模なだけにどうしようもないので、西郷どんは朝廷の力を借りることにします。

その頃覚馬さんは、自分は銃の買い付けに失敗したのだろうかと言います。
薩摩の動きが速いので、銃が必要になる時は思った以上に早く近付いているから、いつ到着するのか分からないチュントナーデル銃よりも、他の銃を買ってまずは数を揃えておくべきだったかということでしょう。
口煩く言ってますチュントナーデル銃の扱い難さから思うに、まったくまったくその通りで見事にしくじってますよ、覚馬さん、と言いたくなりますが、近い内とはいえ半年以内に戦が勃発するなんて誰にも分かってなかったことですから責めるのも無粋でしょうか。
そんな中、通りの向こうから「ええじゃないか」の集団がやってきます。
鉦や太鼓や笛を賑やかに打ち鳴らし、真っ白に塗りたくった顔の人や、ほっかむりの人、男なのに女物の着物を身に着けている人が、ええじゃないかええじゃないか、節をつけて歌ってるあれです。
一緒にいた広沢さんは、またいつもの騒ぎかと苦り顔ですが、覚馬さんは群集の中に女物の着物を羽織っている西郷どんと大山さんを見つけ、人込みを掻き分けるようにして後を追います。
しかし人の波に阻まれもがいている内に、西郷さんは群集の中に消え、どころか覚馬さんは匕首を持った視覚に襲われます。
その覚馬さんを助けたのが大垣屋さん。
煙管で匕首を払ってましたが、余りに松方さんの殺陣がお見事なせいか、十手に見えました(笑)。
覚馬さんは広沢さんに西郷どんがいたことを告げ、すぐに追うように言う一方で、大垣屋さんはそんな覚馬さんの目の様子がおかしいことに気付きます。
結局西郷どんたちを見失った覚馬さん達はひとまず洋学所に戻ることになりますが、そこで語られた先程の「ええじゃないか」に対する大垣屋さんの見解が、また深いです。

あれは誰が音頭取りと言うこともない、自ずと沸き起こったもんのように見えます。長州攻めの折に何処の藩も米や溝をようけ買わはった。お蔭で物の物価はどんどん高うなって、暮らし向きは悪うなるばっかりや。その鬱憤、踊りで晴らしているのと違いますやろか

薩長の陰謀と決めつけている会津藩氏の広沢さんに対し、限りなく庶民側に立っている大垣屋さんだからこその見解ですね。
またお金の話になりますが、何をするにもお金と食料は必要ですが、戦をするにはその両方が大量に必要になります。
ただでさえ黒船来航からこっち、殆どの藩は財政困窮の状態で、藩でそれなのですから庶民の暮らしが良いわけがない。

毎日が苦しゅうて苦しゅうて、みなジリジリしているのどす。世の中ガラリとようならんもんか。日本の世直し、ええじゃないか、と

会津視点ではほとんど触れられることのない全ての庶民の代弁が、この大垣屋さんの一言に込められているような気がしました。
同時に、この言葉を会津藩士である覚馬さん達に向けるということは、前回同様相変わらずの容赦ない皮肉とも取れますね。
折に触れて出て来ては覚馬さんに刺激を与えていく大垣屋さんの立ち位置、地味でさり気無くはありますが重要です。

長州では、土佐と手を組む薩摩に対して、桂さんが些か不信感を募らせていました。
そろそろ時期的に桂さん、ではなく木戸さん、とお呼びした方が良いのですが、ややこしくなるのでまだ「桂さん」とさせて頂きますね。
そんな桂さんに対し、大久保さんは、自分たちは土佐を取り込む方が得策と踏んだのだと言います。
そして再びここでも論争の核になってくるのが、大政奉還。

もし慶喜が容堂公の献策を容れて、政権を返上したらどねえします?挙兵の大義が失われてしまうが
大政を奉還するとは、幕府を無くすことです。そう簡単には承知せんでしょう。じゃっどん、こっちも土佐より早く算段を付けねばなりません。朝廷のお力を借ります
密勅か・・・
大義のため、邪魔もんは除かねばないもはん

自分達の大義を掲げれば何でも押し通ると思ってるあたり、本当彼らはテロリストと一緒ですよね。
ちなみに朝廷の力を借りようとする彼らが、そのためにまず手の内に留めておかなければならないのが帝の存在です。
自分達の作戦の実行のために、玉を奪われないようにするためには、今現在御所にいる人達が邪魔な存在になるのは必須なわけで、それを排除する動きに出るのも流れとしては必然になるわけですね。
そんな無茶苦茶な理論の大義のために、後に御所を追われることになった会津や桑名の立場が本当憐れです・・・。

その秋、尚之助さんが日新館砲術師範、十三人扶持で会津藩に召し抱えられました。
今まで日新館で教鞭をとる役料は貰っていましたが、今回尚之助さんにとっては藩に召し抱えられた=会津藩士になった、ということでしょう。
正確にいつ藩士として抱えられたのかは不明ですが、会津戦争よりは前ですから、時期としては妥当でしょう。
おまけに銃火器の一新と必要性の認識が以前に比べて格段に高くなった会津なので、尚之助さんの知識も技術もお家のために尽くせます。
ですが早速上層部に、反射炉のことなどを言っても、必要性こそ認められていますが、予てからの財政問題の関係で、すぐに着手は出来ないと言われてしまいます。
ない袖は振れないということですね・・・。

八重さん、次は日光口と越後口を回りましょう。ひとつ駄目なら、また次の手を打つまでです。金がなくても出来ることはあるはずだ

以前改良した銃が禄に評議もされないで御取下げになったときは荒れに荒れていた尚之助さんではありましたが、今回は必要性は認められているという点まだ救いがあったのか、案外冷静でした。
それとも以前、「諦めではなりませぬ」と八重さんに言われた言葉がまだ尚之助さんの中で響いてるのかな。
あの時「お手伝いします」といった八重さんも、今は妻として傍にいてくれてるわけですし。

ひとつ駄目なら、また次の手を打つ。
尚之助さんの言葉に倣ってるわけではないでしょうが、薩摩ではどうしようも出来ないことを朝廷の力を借りてどうにかしようと思った薩摩は、大久保さんを岩倉さんの元へやります。
こんな都の片隅の村で、300年近く続いてる徳川幕府を瓦解させようとする企みが進められてただ何て、きっと誰も考えなかったでしょうね。
岩倉さんは大久保さんに一枚の紙を見せます。
曰く、慶喜さんを殺せと言う詔書だとかで、近日中に薩摩と長州に下されるようです。
世に有名な「倒幕の密勅」ですね。

(画像:Wikipediaより拝借)
宛名が「左近衛中将源久光」「左近衛少将源茂久」とされているので、これは薩摩藩に下された方の書面ですね。
ちなみに長州藩主父子にこれが下されたのは、薩摩よりも1日遅れた翌10月14日のことでして、このタイムラグは13日にふたりが官位復旧の宣旨を受けたことによるものでしょう。
原文は見ての通り漢文ですが、書き下し文は色んなところで掲載されてます。
それでも読みにくい方のために、素人の私がざっっっくり意訳(?)させて頂きました。
源慶喜(徳川慶喜)は代々続いた徳川幕府一門の力を恃み、みだりに忠良を殺傷し、しばしば天皇の命令を聞かず、遂には孝明天皇のお言葉を偽って恐れない。万民の生活の道を失わせ、路傍で倒れ死なすことを顧みず、その罪は神国日本が覆るところにまで至る。朕(=明治天皇)は万民の父母であるので、この賊を討たなければ、何を以って先帝の霊にお詫び申し上げ、万民の深い恨みを報じられましょうか。これは朕の心に積もった怒りなので、今が天皇没後の喪服期間であることを顧みないのは、やむを得ないことである。汝(=勅を下した人。薩摩藩主父子と長州藩主父子)、朕の心をよく理解して賊臣慶喜を皆殺しにし、速やかに時勢を一変させる偉勲を立て、生霊を山嶽の安に措きなさい。これは朕の願いであるので、少しも怠ることのないように。

えーっと、拙い訳文で大変恐縮なのですが、慶喜さんを殄戮(皆殺しの意味)せよ、と書かれているあたり、かなり過激な内容だということを酌んで頂ければ幸いです。

これくらい激しく煽らんと、誰も本気でやらんやろ。守護職松平容保と所司代を討つ勅旨も、同し時に出る。勅が下り次第、すぐに動くのやぞ。土佐が大政奉還を建白する前に。慶喜は知恵者や、どっちが得か秤にかけて、政権を投げ出すかもしれん。そうなったら慶喜を奸賊としたこの詔書が嘘になる、天下を覆すのやからな、そなたらも覚悟は出来てるやろうの

詔書が嘘になるならない以前に、この詔は今や明治天皇の知るところではないところで発せられたもの(偽勅)であることが明らかになっています。
つまり岩倉さんって、帝の言葉を偽った大罪を犯したのに、何故か今でも悪く言われないのが歴史の評価の不思議で、ちょっと不公平なんじゃないかなと思います。
そんなお腹の中まで真っ黒な岩倉さんが、次に大久保さんに差し出したのは日月紋と菊花紋の、官軍の象徴でもある錦の御旗の図案です。

錦の御旗か・・・。何処にあるのです?
あほなことを。作るのや。大和錦と紅白の緞子で立派に仕立てるのやで。大久保、ここからはちょっとの油断が命取りや。一歩間違うたら、こっちが逆賊となって真っ逆様やぞ・・・

ちなみにこの旗の材料を調達したのか、作るまでやったのかは忘れましたが、大久保さんの愛人のおゆうさんが協力したと記憶しています。
しかし真っ逆さまと仰ってますが、岩倉さんは既に明治天皇の外祖父を抱き込んでおいて(倒幕の密勅の末尾に書かれた藤原忠能と言う名前は中山忠能さんのことで、明治天皇の外祖父です)、何を仰いますやらと言いたくなりますが…(苦笑)。

慶応3年10月14日(1867年11月9日)、慶喜さんは264年間幕府が執り行ってきた政を、朝廷に返上しました。
その時の慶喜さんの上表文は以下の通りです(書き下し文)。
臣慶喜、謹んで皇國時運の沿革を考へ候に、昔、王綱紐を解き、相家權を執り、保平の亂、政權武門に移りてより、祖宗に至り、更に寵眷を蒙り、二百餘年子孫相承、臣其の職を奉ずと雖も、政刑當を失ふこと少なからず、今日の形勢に至り候も、畢竟、薄德の致す所、慚懼に堪へず候。況んや當今、外國の交際日に盛んなるにより、愈々朝權一途に出で申さず候ひては、綱紀立ち難く候間、從來の舊習を改め、政權を朝廷に歸し奉り、廣く天下の公議を盡くし、聖斷を仰ぎ、同心協力、共に皇國を保護仕り候得ば、必ず海外萬國と並び立つ可く候。臣慶喜、國家に盡くす所、是に過ぎずと存じ奉り候。去り乍ら、猶見込みの儀も之れ有り候得ば、申し聞く可き旨、諸侯へ相達し置き候。之れに依りて此の段、謹んで奏聞仕り候。以上 (参考:近代デジタルライブラリー)

大政奉還したから徳川幕府が終わったというイメージ持ってる人が多いようですが、実際大政奉還後もしばらくは幕府が外交に応対してます。
ちなみに大政を奉還しても、同時に慶喜さんが征夷大将軍を辞職したわけではなく、辞職は12月9日になります。
しかし幕府がなくなっては意味がないではないかと詰め寄る容保様に、慶喜さんは言います

いや、寧ろこの策を用いてこそ、徳川の地位を守ることが出来るはず・・・。朝廷には政を行う人材も、戦をする兵もない。政権を返されたとて何も出来ぬわ。暫くは従来通り、我らが国を動かすこととなろう。建白書には上院、下院の制を敷くとある。なれどそのようなものが動き出すには時がかかる。その間に、徳川の威信を保つための手を打てば良い

仮にこのまま慶喜さんが大政奉還を受け入れないでいたら、かならず幕府と薩長の戦争が起こり、国内で日本人同士が殺し合っている間に日本の国力は消耗され、それこそ外国勢力の思う壺です。
ですが、大政奉還を受け入れれば薩長の標的たる幕府が霧散することになり、内乱も回避される。
そういう風に、国外の勢力も視野に入れて慶喜さんの決断を見つめると、幕府の存続に固執するのではなく、諸外国に付け入る隙を与えないための大胆な決断とも言えます。
ついでに言いますと、内乱が回避されれば徳川家も安泰ですしね。
ケロッと平気な顔をしているように見えた慶喜さんですが、カステラとワインを飲んで暫くして嘔吐する辺り、この選択の重圧感は半端ないものだったのでしょう。
状況を鑑みればそれが最善と頭では理解していても、何と言っても慶喜さんの背中には徳川14人の将軍の歴史と、幕府264年の歴史がずっしりのしかかってるのですから。

たとえ、将軍の名を失っても、徳川家が、天下一の大大名であることは変わらぬ。・・・すぐにやらねばならぬ。薩摩が動き出す前に伸るか反るか、ここが勝負どころよ。捨て身で行かねば、道は開けぬわ

そもそも討幕派にとって、大政奉還を慶喜さん受けれたのは予想外だったと思います。
今回でも桂さんの台詞からそれは触れられてました。
だから同時進行として、きっちり慶喜さん達の息の根を止められるように、岩倉さん達は大政奉還と同日に討幕の密勅を用意してたんじゃないかと。
大政奉還の下に隠された不穏な刃に気付けず、それをかわせなかったのが慶喜さん最大の誤算となり、この後幕末の天地がひっくり返ることになります。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年5月2日木曜日

第17回「長崎からの贈り物」

孝明天皇崩御から始まりました、第17回。
容保様の動揺もご尤もで、孝明天皇の死因は疱瘡なのですが、病気回復の見込みありと言われていた中で急死されたために、毒殺説は当時からありました。
ともあれこれ以降、武力討伐論が急激に発展します。
いくら薩摩や長州が幕府を見限り、倒幕論を提唱しようとも、幕府を倒す気など更々ない孝明天皇がいる限り、彼らは倒幕運動に本腰を入れられませんでしたから。
要は孝明天皇の存在が、一種の防波堤のようになっていたのですね

さて、その報せをまだ知らぬままに長崎に赴いた覚馬さんは、春英さんに連れられて長崎小島村にある医学書、精得館を訪れます。
そこで覚馬さんはオランダ人医師のアントニウス・フランシスカス・ボードウィンさんに目の診察をしてもらいます。
ボードウィンさんは文久2年(1862)に任期満了となったヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトさんの後任として同年10月に長崎に来日し、長崎養成所の教官に就任しました。
当時のヨーロッパで高名だった眼科専門医、フランス・コルネリス・ドンデルスさんに教えを受けていたボードウィンさんの専門は勿論眼科。
というわけで、覚馬さんの目を診て貰うのにこれ以上ない人物なのですが、そのボードウィンさんの下した診断結果も「失明」。
しかも一年二年先の話ではなく、もっと早い時期に覚馬さんの目は光を失うとのこと。
覚馬さんだけでなく、江戸時代目を病んでいる人は日本には多かったそうです。
ボードウィンさんの前任のポンぺさんが日本に来たときに、日本ほど盲人の多い国はないと吃驚したんだとか。
ちゃんと治療すれば治るのに、眼科医が治療方法を知らないから失明に至ってる人が多かったということですね。
思えば覚馬さんも、貝殻に入った軟膏のようなものを手渡されてましたよね・・・目の何処に塗るの?という気がしてましたが(苦笑)。
おそらく現在日本で一番の眼科医にはっきり失明宣言された覚馬さんは、診察後に精得館の中を見て回り、膨大な書物や舎密術の実験をしている生徒たちを見て、自分が象山塾で学んでいた在りし日のことを思い出していたのでしょうか。
覚馬さんが江戸遊学から戻って来てから、実に10年ほどの歳月が経っております。
現在38歳、数えで39歳の覚馬さんにとっては、佐久間塾時代で過ごした日々は多感な青春時代と言っても過言ではないでしょう。
でも、余命ならぬ「余明」いくばもない覚馬さんには、目の前に積み上がっているあらゆる書物を読むだけの時間が残っていません。

誰だって、出来ることには限りがあります。世界中の書物を読み尽くせる人はいません

春英さんの言葉は事実ですが、それは春英さんが視力を失わない側にいる人間であるからこそ言えたことで、覚馬さんの慰めにはなりません。
そこへ修理さんが駆け込んで来て(ちなみにこの長崎滞在中、修理さんは坂本龍馬さんと接点を持っています)、孝明天皇の崩御を伝えます。

都の要石が外れだ・・・。鎮めでいだものだぢが湧き出てくる・・・。銃の調達、急ぎましょう

そう言って覚馬さん達が訪れたのはグラバー邸。
今でも長崎の観光地として有名ですよね。
当時の長崎の最大武器商人であるトーマス・ブレーク・グラバーさんに、覚馬さんも商談を持ちかけようと思っていたようですが、グラバー邸の庭園で見覚えのある男を見つけます。
ひとりは後の日本の初代総理大臣、長州の伊藤俊輔さん。
天保12年9月2日(1841年10月16日)のお生まれですので、このとき26歳、数えで27歳。
もうひとりは薩摩の村田経満さん通称新八さん。
後に起こる西南戦争で、シルクハットにフロックコートという格好で戦ってアコーディオンを手放さなかったという伝説的歴史を刻むことになる、あの村田さんです。
覚馬さん達はふたりが親しげな様子で話していることから、薩摩と長州が手を組んでいたという憶測を事実として受け止めます。
まあ、確かにこの時点で薩長同盟は成立してますが、伊藤さんと村田さんが親しげなのは一緒に上海訪問したからというのもあるんじゃないんでしょうかとも思ったり。
ともあれ、グラバー商会が薩摩と長州御用達になっている以上、会津はグラバー商会を使えません。
グラバーさんだって商人なのですから、顧客情報は守るでしょうが、グラバーさんが守ったって、その周りから確実に会津の動きは漏れますからね。
そういうわけで、春英さんが目を付けていたもうひとりの武器商人に覚馬さん達は頼ることにします。

プロイセンから来たカール・レーマン。元は製鉄所の船大工です。果たして、信用のおげる者がどうが

一行が不安を拭い切れないまま尋ねたカール・ウィルヘルム・ハインリヒ・レーマンさんは、維新後も覚馬さんと関係を持つ方になります。
ルイーズ、と呼ばれるお嬢さん(ちなみにこのとき2~3歳)が作中にも登場してましたが、レーマンさんの奥さんは日本人ですので、彼女はハーフですね。
さてさて、レーマンさんが薦めるのはゲーベル銃。
一挺五両でどうでしょうかと商談が始まりますが、覚馬さんはゲーベル銃が売れ残り且つ旧式であることを知っているので、きっぱりとそれを撥ね退けます。
きっと知識のない人は、ここで粗悪あるいは旧式の銃を掴まされてしまうのでしょうね。

お望みはミニエーですか?
いや、もっと新しいのだ。元込め式で銃身に溝が切ってあるライフルが欲しい
スナイデル銃は人気がありますが、うちでは扱ってません

欲を言うなら一番欲しかったであろう銃が取り扱ってないと言われ、もっと他に銃はないのかと言わんばかりに勝手に店内を歩き始めた覚馬さんが見つけたのが、視聴者の皆様には第1回冒頭以来のお目見えになる銃です。
即ち、スペンサー銃。
ですがスペンサー銃は抜群に値が張るので(ゲーベル銃の7~8倍します)、流石の覚馬さんも整える気になれず、代わりに目を付けたのがチュントナデール銃。
世界最初のボルトアクション式元込め銃で、最大射程距離はスナイドル銃とほぼ同等です。

よし、これを1000挺調えでくれ
1000挺ですって?馬鹿馬鹿しい。プロイセン軍が第一線で使う銃です。長崎ではそうそう手に入らない
んだら、プロイセンまで行って、買い付けで来てくれ
博打を打てというのですか?そこまでして、もし破談になったらどうします?私は大損です。私は商人ですから、危ない橋は渡れません。お望みの品がないなら、お引き取り願います。銃の買い手はいくらでもいる

歴史的な結果論からまず言いますと、会津とレーマンさんの商談は、破談にはなりませんが、契約した会津藩が支払いを終えない内に会津藩解体となります。
だから彼は斗南藩に未払い分の訴訟を起こすことになります(それを破談というのかな?)。
しかしツンナール銃は撃針が壊れやすいので、それを忘れてるのか知らないのか、事情は如何あれいきなりどーんと1000挺も注文するのは、ちょっと手痛いミスかも知れませんね。
ゲーベル銃などと比べて飛距離があっても、戦場で扱い辛いのなら、飛距離がやや劣っても扱いやすいものを揃える方が良いんじゃないかと思うのは私だけでしょうか・・・いえ、そう言ったことには不勉強なので断言は避けますが。
そんなこんなで、覚馬さんはレーマンさんに噛み付いてしまい、商談はそこで終了。
どうやら売れ残りのゲーベル銃を買わせようとしたことや、会津の命運のかかった買い物を博打呼ばわりしたことが、覚馬さんの怒りを買ってしまったようです。
元々血の気が多い覚馬さんでしたが、冷静さを失ってしまった一番の原因は、覚馬さんの失明が徐々に近付いて来ていることによる、焦りだったと思います。

もうじき見えなぐなる。さっきは銃身の溝も見えながった。せめでその前に薩摩や長州に劣らぬ銃を買いでぇ。そうでねえど・・・俺はただの足手纏いだ
目だけしか、ないのですか?会津のために仕えるものは。綿者五体全てをかげで殿にお仕えしている。・・・覚馬さんも、同じはずだ。たどえ光を失っても、銃を知るこの手がある。学んだ知識や身に沁み込んだ魂を、会津のために使えば良い。覚馬さん、しっかりしっせぇ!

先程の春英さんの慰めの言葉とは違って、修理さんのこの叱咤激励は、がつんと覚馬さんの心に届いたのも無理ないと思います。
目が見えなくてもやれることがある、などと漠然とした言葉でぼかすのではなく、覚馬さんには誰よりも銃を知った手もあるし、頭の中には知識だって入ってる。
培った人脈だってありますし、今までにインプットしたものをアウトプット出来る頭だってあります。
目が光を失っても、それらは決して失われるものではない。
ちゃんと言葉に出して、修理さんは示したのですね。
通り一遍のぼかしたうわべだけの言葉が如何に人を追い込み、そうでない言葉が如何に人を救うのか、このやり取りでよく分かる心地がします。
悲観に暮れるばかりではなく、残された時間い慌てるでもなく、いつ何時でも自分に出来ることを見つめ直せた覚馬さんは、レーマンさんに深々と頭を下げ、レーマンさんはそれに応じてようやく会津との取引の話が始まります。
画して覚馬さんは銃の発注に成功するのですが、このとき注文した銃は明治2年6月29日(1869年8月6日)に神戸港に着きます。
会津が降伏したのは明治元年9月22日(1868年11月6日)。
ええ、そうです、全てが終わってから届いたのです・・・。

慶応3年(1867)、孝明天皇の大喪が行われ、皇位はその子、睦仁親王が継ぎます。
睦仁親王は嘉永5年9月22日(1852年11月3日)のお生まれですので、このとき14歳、数えで16歳。
拠り所としていた孝明天皇を喪った容保様の悲しみは如何ばかりかは察せませんが、ともあれ以前から願い出ていた容保様の会津への帰国の件が、漸く幕府から許可が下りたようです。
といっても京都守護職の辞任が適ったのではなく、飽く迄一年限りの帰国を許す、というものでした。
文久3年(1862)に容保様が上洛してから彼是五年、なのに暇はたったの一年だけとは本当割に合いませんよね。

そんじも、国許にお戻りになれば、ちっとはご養生になるでしょう。余九麿様が殿の名代として残られるごどになりました
お世継ぎのねえ殿が、ご養子を迎えられだのは目出てぇ。んだげんじょ、余九麿様は水戸のお方、将軍家の弟君だ。わしは、あの御方がどうにも信用出来ぬ
養子縁組のごどは前から決まっていだごどです。それに、余九麿様はご気性も素直でいらっしゃる

容保様が御正室の敏姫さんと死別し、以後正室どころか女性をお傍に置かなかった(置いている暇がなかった)ので、容保様には後継ぎがいませんでした。
なので慶応2年12月1日(1867年1月6日)に斉昭さんの十九男で、慶喜さんの異母弟にあたる余九麿さんを養子に迎えました。
安政2年10月22日(1855年12月1日)のお生まれですので、養子になったときは11歳、数えで13歳ですね。
よく容保様のことを「会津藩最後の藩主」と表現しますが、実際は養子になった翌年に余九麿さんが藩主となっているので、実質的には余九麿さんが「会津藩最後の藩主」です。
しかし自分で最後になるだ何て思いもしていない余九麿さんは、その頃容保様と一緒に上座に着いて、銃身の皆様と膝を突き合わせていました。
余九磨さんが入京したのは2月12日(1867年3月17日)なので、この場面はそれ以降の出来事ですね。
身振り手振りを加えて、覚馬さん達が長崎で買い付ける予定のチュントナデール銃のことを話す土佐さんに、まるで見てきたように言う、と容保様。

実は・・・見で参りました。武器商人のカール・レーマンなる者が、見本を携えで神戸まで出て参ったのです
神戸じゃと?あの地はまだ異人の立ち入りは許されておらぬが・・・
危険は承知の上で銃を見せに来ました。会津に紛い物は売らぬと。異人にも義というものがあるのでごぜいますな。プロイセンまで銃を買い付げに行くど申しております。高い買い物なれど、信じて良い相手ど存じまする。国禁を犯すごどに手を貸し、面目次第も御座いませぬ。お叱りは覚悟の上・・・

しかし平伏する土佐さんに、容保様は「よくやってくれた」と言います。
この返しに、容保様の成長というのは変ですが、孝明天皇がおられた頃の容保様との違いが見受けられるように感じました。
孝明天皇存命時、容保様は「それでも主上なら分かって下さる」という一種の思考停止状態ともいえるものに陥ってる時がしばしばありました。
勿論容保様の立場が非常に難しいものだったのは百も承知ですが、孝明天皇という絶対的な存在が、容保様の視野を狭める一因になっていたのも事実でしょう。
仮に孝明天皇がこのとき生きておられたとして、異人の立ち入りが許されていない神戸に天皇の大嫌いな異人(しかも都と神戸は至近距離)が来たのだったら、容保様の口から「よくやってくれた」の一言は逆様にして振っても出なかったと思います。
変な言い方になりますが、孝明天皇という視野を翳らせていた大きなものがなくなったおかげで、会津もようやく外の世界に目を向けることに着手していけるようになるんですね。
それが、歴史の流れで見れば遅すぎたというのは否めませんが、遅すぎたと言えるのは歴史の展開を知っている私たちだからですよね。
孝明天皇の崩御は、当の会津にしてみれば最大の後ろ盾を無くしたと共に、大きな一歩だったとも言えるのかもしれません。

さて、そのころ会津の山本家では、洋式調練修行を願い出ていた三郎さんが、江戸の修業生に選ばれていました。
お父さんの権八さん、お兄さんの覚馬さんが通った道を、三郎さんもまた通るのですね。
触れられてはいませんでしたが、三郎さんもまた覚馬さんのように、日新館では非常に優秀な成績を修めていました。

しばらぐ戻れねぇがら、今日は江戸に行ぐ仲間ど小田山に登って来た。あそこがらは、お城が良ぐ見える

笑いながらいう三郎さんの言葉に、そうかそうかと頷く山本家一同の中、尚之助さんだけは何か引っかかったような反応を示します。
会津戦争のこと知っている人は、三郎さんの何気ない発言に対しての尚之助さんの反応の意味が分かると思います。
まあ会津戦争の経緯を知っておらずとも、単純に考えたら「城が良く見える」=「敵に何処に陣を張られたら、城に直接攻撃される」ということですよね。
しかしそんなことに気付けてしまう尚之助さんが、些か優秀すぎるようにも見えなくもないのですが・・・(苦笑)。

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ちなみに小田山とお城とはこの近さです。
もう間もなく戦端が開かれることになる会津戦争では、ここの奪い合いが会津軍と薩長連合軍の間で繰り広げられます。
仲間と一緒に小田山に上り、城や城下を臨んだ三郎さんが何を思ったのでしょうね・・・。
彼が別撰隊に志願して、命を捨てるには16では若すぎると言われたことはまだ記憶に新しいですが、でもその志だけは一人前と認めて貰えた三郎さんが、ようやくあの時悔しい思いをしてなりたかった自分に、大きく一歩近づけたのですね。
八重さんも姉として、そう言ったことをきっと三郎さんに感じていたのでしょう。
その晩から三郎さんの着物を仕立て、襟先の裏側に南天(難を転じるものとして、古来より人に親しまれてきた植物です)の刺繍をしてあげます。
そしてその年の5月、三郎さんは八重さんの南天の刺繍の入った着物に袖を通し、江戸へと旅立っていきます。
見送られた三郎さんが、八重さんの声に一度振り返って、襟元の南天を見せるのが何とも兄弟愛に満ちた涙ぐましい場面なのですが、彼が二度とこの故郷の土を踏むことはないと思うと、あれ以上に胸を締め付けられるシーンはありません。
三郎さんは戻って来ず、あの手づからの南天だけが八重さんの元に戻ってくるんですよね。
そのとき、八重さんのこの明るい笑顔が崩壊するんだろうなと思うと、暗い気持ちになります。

長崎に出向いた覚馬さん達は、暫くそこに滞在したようで、気付けば覚馬さんの月代の毛が伸び切って総髪になるほどに月日は経過していました。
覚馬さんは精得館で、皐月塾にいた時のように異国の文化や書物や見解に触れ、充実した日々を送っていたのでしょうね。
先程も触れたことですが、覚馬さんのこの長崎出張、結果的にみれば肝心の買い付けた銃は肝心な時(会津戦争)に間に合いません。
目は治療どころか、失明宣告されました。
でもじゃあ、覚馬さんにとって長崎での日々に何の収穫があったかって、新聞とか、そういうものに触れたってことですよね。
それがまた覚馬さんの中にインプットされて、『管見』にも大なり小なり反映されていく。
長崎に行く前の覚馬さんでは、到底あの『管見』は書けないと思っていたのですが、回を重ねるごとに少しずつですが、「『管見』を書ける覚馬さん」に近付いて行っているような気がします。
(いえそれでもまだかなり溜めが弱くって、これから先期待したいところですが。この弱い溜めのままで行くと、『管見』を書ける覚馬さんには到らないでしょう)
その覚馬さんの去り際、ルイーズちゃんを伴ったレーマンさんが駆け寄って来ます。
先程も触れましたが、覚馬さんとレーマンさんの交友はここで終わりではなく、明治になっても続いて行きます。
そんな覚馬さんに、レーマンさんはスペンサー銃を差し出します。

んだげんじょ、生憎買うだげの持ち合わせはねぇ
贈り物です。会津への信頼の証に。銃をよく知る人に使って貰って下さい

そしてルイーズちゃんからは、ぽっぺんを貰う覚馬さん。
このスペンサー銃が、覚馬さんにとっての銃をよく知る人=八重さんの手元に届けられるのは自明の理ですが、スペンサー銃って銃弾輸入しなくちゃいけないので、弾の補給ルートを確実に押さえてなきゃ弾切れの鉄の筒に成り果てるのですよね。
水を差すようで申し訳ないですが、事実、八重さんは会津戦争中鉄の筒状態になったこれを途中から使いませんから(というか使えませんから)。

時代が進むにつれて、明治維新の顔ぶれも着々と登場してきます。
慶応3年5月21日(1867年6月23日)、京の小松帯刀邸にて、この度新たに登場したのは土佐藩の乾退助さん。
天保8年4月17日(1837年5月21日)のお生まれですので、このとき30歳、数えで31歳。
待ち人は西郷どんです。
乾さんは単刀直入に、薩摩と長州で行う倒幕運動に、自分達土佐も加えて欲しいと申し出ます。
薩長同盟に比べるとネームバリューがやや劣りますが、所謂これが「薩土密約」ですね。

慶喜公が幕府を作り変えゆう。総裁を置き、陸軍をフランス式に改めゆうが。このままでは幕府はまた強ぉなりますろう
都においながら、あいだけんことをばしてのっくとは、大した腕にごわすな
幕府が強ぉなったら、薩摩と長州だけで倒すがは難しいですき。土佐と組むがは、悪い話じゃないと思いますけんど

確かに悪い話ではありませんが、はいそうですかとすぐに頷かないのが西郷どんです。
と言いますのも、乾さんはこう言いますが、土佐は前藩主の山内容堂さんを始め上層部は公武一和派だったんですね。
まあ容堂さんとしては、自分の藩主就任までの経緯で幕府に恩義を感じている節もあったでしょうし。
土佐藩にスポットが当たった話としては、『龍馬伝』を見直すなり何なりして頂くとして、乾さんはひと月で藩の意見を幕府打倒に変えて見せるから待って欲しいと言います。
出来なかったら腹を斬ると。
脅しじゃなく、乾さんの性格ですと本当に腹を斬ります。
しかし乾さんにしてみても、このまま反論を倒幕路線に乗せられなかったら、幕府という船と共に一緒に沈むことは分かっていたでしょうから、必死になってやったでしょうね。
ちなみに乾さんの行動は早く、この翌日には四侯会議のために上京していた容堂さんに密約の内容を報告しています。
余談ですが、幕末の土佐と言えば抜群の知名度を誇る龍馬さんですが、彼は何かと戦を避けようとしていた平和主義者のように思われていますが、幕府との開戦となったら、薩摩、長州、土佐の軍艦を纏めて幕府海軍に対抗しようという思想を持っていたことが、三吉慎蔵さんに宛てた手紙から分かります。
つまり龍馬さんも、物の考え方的には非常に乾さんと近い位置にいたというわけですね。
この薩土密約のひと月後に、武力倒幕ではなく大政奉還による王政復古を掲げた「薩土盟約」と言うのが両藩の間で結ばれるのですが、結局これがすぐに瓦解して、残った薩土密約に重きが置かれるようになり、薩摩の反論は倒幕路線に傾いて行きます。

いつかは定かではありませんが、おそらく6月9日(1867年7月8日)でしょうか、二条城で余九麿さんの元服式が行われ、慶喜さんから一字貰って名を「喜徳」と改めます。
養嗣子の元服も終わったので、後は彼を名代にして容保様は国元へご帰国・・・と思いきや、それに待ったをかけたのが慶喜さんです。
しかし、待ったと言われても待てない事情が容保様にもあります。
昨年に起こった孫右衛門焼けの影響もあって、ただでさえ赤字だった会津の財政は、瀕死寸前の状態でした。
何より容保様が藩主になってから殆ど間を置かずに国許を離れたため、容保様も藩の政務に当たらなければ、領民に示しどころか藩主としての認識すら危ういのではないでしょうか。

そこを曲げて、頼みたい。・・・会津殿は都を放り出されるのか?薩摩や土佐が長州藩主親子の官位復旧を、公家達に説いて回っていること、存じておろう?我らをご信頼下さった先の帝とは違って、新帝の祖父、中山忠能卿は薩摩に同調しておいでだ。このような折に会津殿が都を去れば、薩摩が朝廷を操り、騒乱を起こすやもしれぬ
その抑えのために、藩兵千人を残しておきまする。都に事ある時は、それがしも直ちに会津より馳せ上りますゆえ
それでは間に合わぬ!朝廷にすり寄る者どもが何を企んでいると思う?・・・あの者どもの真の狙いは、幕府を倒し、取って代わることにある。そうなっては、公武一和を願われた先の帝のお志はどうなる。尊い詔が無に帰してしまうのだぞ。それを許しては我らを篤くご信任下された先帝に対し、あまりに不忠ではないか

言葉の揚げ足取るようですが、亡き孝明天皇が容保様を篤く信頼していたのは間違いないでしょうが、慶喜さんとの間にそう言った関係があったのは甚だ謎です(苦笑)。
ですが、慶喜さんは容保様の泣き所を上手く捉えてますね。
孝明天皇のことを出されては、容保様が固辞出来るわけないのを知っててやってるのですから、本当に性が悪い。
いえ、政治家っていうのはこういうのが出来てこそなのでしょうが、容保様にそう言った面がない分、余計に慶喜さんの性質の悪さが浮き上がってます。
こうまで来ると、実弟を容保様の養子に宛がったのも、容保様を繋ぎ止めておくためだったんだろうな、と思えて仕方がありません。
ちなみに、2年後にお生まれになる容保様の実子、容大様の御正室の鞆子さんは、斉昭さんの孫娘、つまり慶喜さんの姪っ子です。
何処までも慶喜さんは容保様の家系図に介入したいのですね・・・いえ、まあ水戸と会津の関係からしてもうこのふたりより前に繋がってはいるのですが。
話が脱線しましたが、容保様を引き留めていたのは、何も慶喜さんだけではなく、幕府側の公家達も同様に容保様に都を去られては困ると言っていました。
4月23日(1867年5月26日)に容保様が参議に補任されたのは、そう言った公家達の工作(高い官職を餌に与えようという)だと思います。
そんな公家達と、慶喜さんと、そして孝明天皇の話を出されてしまえば、沢山の柵に捕らわれた容保様が帰国出来るはずもなく、結局話は流れてしまいます。
そして覚馬さんもまた、容保様が国許に戻られない内に自分が都を離れるわけにはいかないと、残留を決めます。
余談ですが6月26日(1867年7月27日)、容保様は加賀藩主前田慶寧さんの長女の礼子さんを娶ることを約し、結納を贈っていますが、後の起こる会津戦争の影響からこの婚約は解消されてしまいます。

帰国出来ない覚馬さんの代わりに、会津の山本家には覚馬さんからの荷が届きます。
中にはたくさんの長崎土産と、そして木箱にはあのレーマンさんからプレゼントされたスペンサー銃が入っていました。
手に取ってみて、軽いと八重さんは喜んでますが、ゲーベル銃の方がスペンサー銃よりも軽かったような気がするのですが違いましたかな。
添えられていた覚馬さんの手紙の字は、随分を乱れているようで、「余程慌てて書いたのか」なんて言われてるので覚馬さんは目のことをまだ家族には知らせていないのですね。
きっと、明治になって京都で再会するまで、ずっとこのことは伏せられたままなのでしょう。
さて、八重さんとスペンサー銃。
元々射撃の腕前は抜群だったのですから、撃ちやすくてよく当たるスペンサー銃が加われば、鬼に金棒とでも言いましょうか。
しかし如何せん、銃弾の補給ルートが整っていませんので、これが会津戦争で八重さんのスペンサー銃が存分に力を発揮出来なかった痛恨の理由になります。
おまけに銃一挺が高けりゃ銃弾一発もものすごく高い。
なので八重さんが角場でばんばん撃ってるのをみると、思わず「おーい、そういう事情があるんだから弾一発でも無駄にしちゃ駄目だよぉー」と言いたくなるのです。
けれども八重さんの手元にスペンサー銃が来たということは、そろそろこの会津にも戦がやって来るということで・・・。

覚馬さんが戻れないはずだ。こうした銃を西国諸藩が大量に買い入れているなら・・・戦の火種は、最早長州だけではない

スペンサー銃の構造を丹念に調べながら、尚之助さんはそう言います。
何だか、都にいる覚馬さんよりも、都から遠く離れた尚之助さんの方が的確に情勢を捉えてるんじゃないのかと、ときどきふとそのように感じるのですが・・・ともあれ尚之助さん、優秀すぎます。
そんな尚之助さんは、三郎さんが出立前に言っていた「小田山から城を見た」ことの意味を八重さんに説明します。

良い眺めだべ。ご城下が見渡せで
つまり、敵から城が丸見えということです
敵?誰かが攻めでくんですか?
万が一の話です。会津は奥州への入り口だ。守りを固めるに越したことはない。白河、越後、日光、米沢、二本松。大きな街道が五つ・・・一番の要所は、やはりここか・・・

尚之助さんが示したのは白河。
冬が近付いてからでは峠越えは難しいので、すぐに行くかと決断する尚之助さん。
何をしには言わずもがな、戦に備えての視察ですね。
本当、何処までも優秀すぎる感じがここへきてますます磨きがかかったように思えますが、その白河までの旅に、八重さんも同行します。
18里の山道で、険しい峠をいくつも越えるのに・・・と尚之助さんは苦り切った表情で言いますが、後に覚馬さんをおんぶして江戸に行く八重さんですから、18里程度の山道なんて勿論へっちゃらです。
画して、川崎夫婦の新婚旅行(?)は白河となったのでした(笑)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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