2013年6月26日水曜日

第25回「白虎隊出陣」

慶応4年6月、奥州街道に兵を進めた薩長連合軍は白河を攻略、続く7月には二本松藩を制し、敗戦を重ねる奥羽越列藩同盟は崩壊寸前にまで追い込まれていました。
そして将棋の駒をひとつずつ進めるように、刻一刻と会津に王手の手が迫って来ます。
その王手に向けて慶応4年8月19日(1868年10月4日)、二本松城に入った板垣さん、大山さん、伊地知さんの三人は会津を何処の峠から攻めるかの軍議を開きます。
彼らが気にしているのは、もう間もなくやって来る冬のこと。
既に触れましたように、この時点で今の暦ですと既に10月です。
冬が来たら、西国ならさて置き、会津周辺奥羽諸国は寒さが厳しいし雪が降って行く手を阻むし・・・と、攻める方からすれば厄介なことこの上ないのです。
なので薩長連合軍からすれば、雪が降る前に決着をつけてしまいたいのですね。
しかしながら、ドラマでは触れられていませんでしたが、会津を攻める軍隊の中で、長州があまり積極的に出て来ていないのにお気付きでしょうか?
二本松の城下での戦闘で少し出てきた程度で、どちらかといえば会津を攻めているメインは伊地知さん・大山さん達薩摩と、板垣さんの土佐という印象が強いと思います。
長州の影が薄い理由として、ドラマではざっくり省かれた北越方面の情勢が関わってきます。
そちらを語り出すとまた長くなってしまうのですが、要は越後から会津に攻め入る筈の長州の奇兵隊は、長岡で大苦戦を強いられ、会津へ侵攻する目途が立っていなかったのです。
また、越後口参謀の黒田清隆さん(薩摩藩)と山縣有朋さん(長州藩)のふたりが反目しがちで、足並みが揃ってないのも北越で時間を食う原因だったかと思われます。
そういうわけで、会津攻めは主に薩摩と土佐の二藩が主力となって行われるという状況になっていたのです。
板垣さんからすれば、土佐藩が手柄を上げる好機なのでそれとしては問題なかったと思うのですが、板垣さんも伊地知さんと相性がいまいちだったようで・・・(苦笑)。
ドラマでは「この峠から攻めもうせば」と大山さんが中山口辺りを指して言っていましたが、実際はここで板垣さんと伊地知さんとで意見が割れたそうです。
板垣さんは中山峠を越えた正面攻撃を主張していたのですが、伊地知さんは最難関でもあった石筵からと主張しました。
しかし伊地知さんには、白河城を攻め落とした時と同様、現地の情報をしっかり集め、且つ彼にはそれによって白河城を落とした実績があるのですから、板垣さんはこれに主張を譲らざるを得なくなります。
さて、ここで伊地知さんが集めた情報とは一体何だったのか、ということになりますが、会津軍はしばしば郡山を襲って放火し、周辺の民から怨まれていました。
会津が何で放火していたのかというと、敵の野営地を奪うためです。
伊地知さんはこれを利用することにしたのです。
石筵村の農民たちは、名主を先頭に積極的に薩長連合軍の教導に当たりました。
後に明治政府から、恩賞として金五十両が下されています。
石筵村は母成峠のすぐ麓の村ですから、薩長は母成峠を越えて会津へと攻め入ってくるのです。
会津側としては、敵の野営地にしないために焼き払ったのに、それが完全に裏目に出てしまったのですね。
後述します母成峠の戦いに、こうした流れで繋がって行きます。
ともあれ薩長連合軍は、中山口を攻撃すると言い触らして陽動部隊を送り込んで会津を欺き、主力2000人は母成峠に向かった、ということです。
攻撃日は8月21日(1868年10月6日)と決められました。

戦の足音が迫る山本家では、権八さんが皆を集めて、言います。

皆も知っての通り、二本松が落ちた
仙台藩も、米沢藩も、早々に奥州街道から兵を退き始めています
事によれば、ご城下での戦になるかもしんねぇ。何があっても、殿ど御家を第一に考えで動けば、会津の人間として道を誤るこどはねぇ。見苦しい真似は、決してすんな

これに、誰よりも先にみねちゃんが返事をするのが何とも・・・。
ちなみに尚之助さんが言っていた仙台藩と米沢藩の動向について、仙台藩についてはちょっと勉強不足なので何とも言えないのですが、米沢藩が薩長連合軍に正式に恭順するのは24日(1868年10月9日)です。
ですがそれより前の時点で、既に薩長連合軍は米沢藩に降伏を求める動きも活発にありました。
そう言う周囲の状況を鑑みると、薩長連合軍は米沢藩が動かないと見て(しかもほぼ確信に近い形で)、会津に攻め入ったのだろうなと。
憶測はさて置き、権八さんの言葉を黙って聞いている八重さんのとある表情に気付く、佐久さんと尚之助さん。
一体あの表情の下に何を押し込んでいたのか・・・というのは、後半部分で明らかになります。
家族への言い渡しが終わった尚之助さんと権八さんは、城からのお召しに備えて余分なものは埋めようとします。
そんな作業中、視聴者にも見覚えのある懐かしいものが出て来ました。

それは?
ああ、・・・八重のだ

第2回の時に出て来た、幼き八重さんが描いた銃の絵。
権八さんはそっとそれを懐に入れます。
その絵を描いた八重ちゃんは、成長した今、仏壇に手を合わせ、弟遺品の軍服を手に何を思うのか。
というわけで、前振りが随分と長くなりましたが、始まりました第25回。
オープニングまでの前置きが3分は、「八重の桜」史上最長でしたね。

黒河内先生は足と目のお加減が宜しく無いようで、こんな時に情けないと嘆きます。
実際この頃、黒河内先生は眼病を患っておられます。
後に幕末最強の剣豪とまで言われたお方ですから、有事に自分が満足に動けないことは、さぞや居た堪れなかったでしょう。
そして道場では、竹子さんたちが凄い気合で長刀を稽古に励んでおり、おなご達で薙刀隊を作ることにしたのだと八重さんに言います。

私たちが盾となって、照姫様をお守しましょう

八重さんがいれば心強いと周りのおなごたちからも言われますが、八重さんは「わだすは・・・ご一緒出来ねぇがら」と、薙刀隊への参加を断ります。
戦う気がないのかと、そんな八重さんを非難するおなごもいましたが、「八重様には、別の考えがおありなのでしょう」と察した竹子さんがそれとなく庇ってくれます。
どうして作中で八重さんと竹子さんを、やや無理矢理に接点持たそうとするのかな~と思っていたところもあるのですが、女性グループのリーダー格の竹子さんが八重さんを庇うことで、薙刀隊で照姫様をお守りしますと言う意欲に燃えている彼女達との間に生じかねない不和を、上手に緩和させたのかなと。
しかしそれには、八重さんが何故薙刀隊を断ったのかの背景事情、つまり八重さんの武器は薙刀ではなく鉄砲だということを竹子さんがよく理解していなければ出来ないわけでして。
あの接点の積み重ねは、こういうところに繋がって来てるのかなと。
単純なライバルだとか、そう言うのではなくてね。

んだげんじょ、・・・薙刀では、薩長は倒せねぇ。薙刀ではねぇ、お城を守れんのは・・・

道場を後にした八重さんは、ユキさんにそう漏らします。
ただ、万一屋内の城内戦になったら、薙刀は有効的な武器のひとつでもあると思いますけどね。

8月20日(1868年10月5日)、城の広間では重臣ら一同と容保様が、頭を悩ませていました。

列藩同盟の結束さえもっと強ければ・・・。それがしの失態に御座います
仕方ねぇ。・・・それより、敵がどっがら来るがだ

冒頭で触れたことですが、薩長連合軍は会津を欺くために中山峠を越えるという虚報をばらまき、ご丁寧に少数の兵も見せかけのようにそちらに動かしています。
本体は石筵に向かったのですが、この伊地知さんの作戦に見事なまでに会津は翻弄されています。
果たして敵は。猪苗代湖の北から来るのか南から来るのか・・・どちらにせよ悩ましいのが、会津の手勢が少ないことです。

主力部隊が四方に出払った上に、まだあぢごちに振り分けねばなんねぇが
なれども、西国の兵達は、寒さに弱く、冬は使い物になりませぬ。雪さえ降れば、我が方が俄然有利
雪が、我らの味方が
冬まであと僅が・・・。今が、踏ん張りどころにごぜいます

そんな官兵衛さん、こんな状況下で・・・否、こんな状況下だからでしょうか、大蔵さん共々大抜擢されて家老に昇進します。

危急の折を乗り切るには、にしらの、若い力がいる

内蔵助さんはそう言いますが、長州とかでしたらこういった人事が5年以上早く行われていますね。
若くて且つ才ある人物を埋没させない、と。
こういう人事になかなか踏み切れなかったのは、会津の厳格な身分の上下とそれに絡見つくような朱子学が原因でしょうね。
いえ、他の藩が身分の上下に厳格でなかったわけではありませんが。
容保様は万が一峠を越えられたら、その時は触れを出して藩士を城に集めるように命じます。
また会津は、領内への敵の進行を何としてでも阻むべく、城下に至る道を全て封鎖する作戦に出ました。
上湯峠、安達太良山、母成峠、中山峠、御霊櫃峠 、諏訪峠、勢至堂峠・・・と防衛線を張りますが、ただでさえ手勢不足なのに、防衛線を拡大させ過ぎるのも問題です。
その問題が、母成峠の戦いでも生じてくるのですが、もう少し後で触れることにします。

京の薩摩藩邸では、中村半次郎さんが西郷どんを訪ねます。
半次郎さんは天保9年12月(1838年)のお生まれですから、このとき30歳、数えで31歳。
「いつ薩摩から戻りやったとごわすか」と言われていますが、西郷どんは白河口の戦いの応援部隊で出発しようとしたところを大村益次郎さんに止められ、それから(ちなみにそのことは大久保さんに手紙で愚痴っています)何となく積極性に欠けたような行動を取っていたのですね。
6月に薩摩にいったん戻り、何と次に薩摩を発ったのが8月6日で、その間温泉治療と称して湯治場でのんびりしていたのだと言いますから、相当だと思います。

半次郎どん、早速じゃっとん、兵を率いて日光口まで行ってくいや。攻めあぐねて、難儀しちょるそうじゃって、残るは会津じゃっとん
会津はなかなか落ちもはんそ。意地にかけても、最後の一兵まで戦い抜くとが、士風でごわんで
じゃっどん、はよう片付けんことには、双方の兵が無駄に死ぬ
総督府は、会津を根こそぎ滅ぼすおつもりでは
私怨で始めた戦じゃなんか。おさむっ道を探らんなならん

まあしかし、長州からすれば私怨の部分も誤魔化してはいるけどあるでしょうね、この間春嶽さんが木戸さんに指摘してたみたいに。
そして西郷さんは話してみるか、と牢の覚馬さんを訪ねます。
「双方の兵が無駄に死ぬ」ということは、覚馬さんの建白書でも指摘されていたことですので、ではその意見を唱えた会津人に、会津相手のこの戦は如何納めるべきか、意見を求めに行ったという流れでしょうか。
しかし当の覚馬さんは獄中で流行り病を得、体が弱っている状態でした。
死なすには惜しいと、西郷どんは直ちに医者に見せて牢から覚馬さんを出すように命じます。
覚馬さんの獄中の扱いがこんなに粗末ではなかったことは、前々からずっと指摘し続けていることですが、次から漸く史実通りの待遇に改善されるのでしょうかね。

薩長連合軍の攻撃予定日だった、8月21日(1868年10月6日)。
濃霧だったらしいこの日、伊地知さんは会津藩境の母成峠を一気に突破すべく、兵を進めました。
母成峠は二本松から西に17キロ、猪苗代からは東北東に12キロの場所にあり、薩長連合軍はここを石筵村の猟師に会津の兵力と三つの砲台の状況を探らせ、会津軍に奇襲を仕掛けました。
このときここを守っていたのは旧幕府歩兵奉行の大鳥さん率いる伝習隊達でしたが、地元の地理を知り尽くした猟師の先導の下に奇襲をされては一溜りもありません。
大鳥さんは勝岩で防戦しましたが、その内に背後に敵に取られてしまい、苦戦を知られ味方が散乱する中、猪苗代城への撤退を余儀なくされました。
この敗戦の後、大鳥さんは裏磐梯の山中をさ迷い、米沢に向かいましたが米沢藩守備隊に冷たくあしらわれ(おそらく米沢藩がこの時点で薩長連合軍への恭順の姿勢を決めていたからでしょう)、その後は皆さまもご存知の通り、榎本さんと一緒に蝦夷地へと転戦していきます。
ちなみに母成峠が突破されたのは21日の昼頃ですが、会津藩にその報が届いたのは翌22日の早朝です。
母成峠で敗れた兵が山中をさ迷ったので、連絡が遅れたというのも大きな理由の一つですが、そもそもの会津の連絡体制に不備があったことも問題でしょう。
戦をしているのですから、情報は自分達の状況を左右する大切なものです。
それの伝達ルートを疎かにしていたということは、この後に及んで会津の危機管理がひどく欠如していたと指摘されてしまっても、言い逃れが出来ないと思います。
遅々とした敗戦の報が会津に届けられた22日(1868年10月7日)、会津の城下に登城を促す「家並みのお触れ」が出されます。
母成峠を突破した薩長連合軍は猪苗代城に迫っており、15歳から60歳までの男子は皆、城に入るよう命が下りました。
該当の会津男児は戦支度を整え、速やかに登城せねばなりません。
14歳、数えで15歳の健次郎さんもその例外ではなく、出陣前に、お母さんの艶さんから「天下 とどろく名をば 上げずとも 遅れなとりそ もののふの道」という歌を渡されます。

「手柄は、挙げずとも良い。んだげんじょ、命を惜しんで遅れを取っではなりませぬ

余談ですが、同じく白虎隊士、飯沼貞吉さんのお母さんが貞吉さんに贈った歌は、「梓弓 むかふ矢先は しげくとも ひきなかへしそ 武士の道」。
こちらの歌意は、戦場で退いてはなりませぬ、と言うような意味合いが強いですね。
一方山本家でも、権八さんと尚之助さんの出陣祝をします。
普通出陣祝の「三献の儀」といえば「打ち鮑」「勝栗」「昆布」を思い浮かべますが、会津代々はどうやらこれと違うようです。

勝って、まめで、来る身を待つ

ということで、乗せられているのは「栗」「大豆」「胡桃」。
それに祝いの杯を乾して、権八さんが仏壇に静かに手を合わせて立ち上がろうとしたその時です。

おとっつぁま、私も、お供させでくなんしょ

堪えていた何かを吐き出すように、八重さんは言いました。
きっとこう言い出すことは、薄々感付いていたであろう佐久さんが、声を厳しくして咎めますが、八重さんは聞きません。

鉄砲の腕は人には負げねぇ!大砲の事も、西洋戦術の事も、全て分かっておりやす。私を、戦に連れて行ってくなんしょ
馬鹿言うでねぇ。鉄砲持って戦場に行くおなごが何処にいんだ
会津を守るためです。お城を、お殿様を守るためです。私の腕は、必ずお役に立ぢます!
にしゃ武士ではねぇ!
武士の娘だなし!二本松では、小さな子供まで戦っだ。敵が目前にまで迫っていんのに、ただ黙って見ではいられねぇ

鉄砲持って戦場に行くおなご・・・鉄砲じゃないかもしれませんが、武器を携えて戦場に赴く女性は、少なくとも江戸時代以前はそう珍しくもなかったですよね。
それはさておき、暫く八重さんと権八さんの間で押し問答が続きます。
武士ではない、八重さんはおなご、というのは、何気に大きいと言いますか、女子供まで戦場に巻き込んだとなると、会津武士としては恥なんですよ。
勿論、権八さんが駄目というのは、そう言ったことよりももっと大きい理由がきちんとありますが。

私は三郎の仇を討ぢでぇ!私は、鉄砲で戦いやす!
八重!お許しも無ぐ、おなごを戦に連れていげる訳がねぇべ!余計なこどを言って、大切なご出陣の邪魔をしてはなんねぇ!

八重さんの中では、会津を守ることよりも、容保様を守ることよりも、感情的に先行してるのは「三郎さんの仇討ち」なのだなということが、この最後の一言でよく分かりました。
きっと、権八さんも、何打かんだ言いながら八重さんが望んでるのはとどのつまりは復讐だということに気付いていたのでしょうね。
だから「三郎の仇は、わしが討づ」と言ったのではないかと。
ちなみに権八さんはこのとき59歳、数えで60歳ですので、後1年生まれるのが遅かったら、年齢的に弾かれてたのですよね。

馬鹿者が・・・

権八さんはそう呟きます。
鉄砲を撃ちたいと切望した幼い八重ちゃん、それに「鉄砲は武器だ。殺生する道具だ。戦になれば、人さ撃ぢ殺す」と、実際に撃ち殺した鳥の死体を抱かせて教えた権八さん。
権八さんは砲術の家の人間が背負う重み(=命の重み)を八重ちゃんに背負わせたくなかったのでは、というのは既に以前の記事で触れたことですが、角場で撃ってる分ならまだいいです。
それだと誰も殺しませんから。
娘の銃の才覚は、父親である権八さんが誰よりも早くから認めていました。
なので、その娘の銃は、必ず戦場で命中し、人の命を奪うことも分かっていたはずです。
でも戦場に出て、実際に八重さんが「撃って」しまうと、今まで権八さんが「背負わせたくない」と思ってたものを背負わせることになります。
これは、女子供を巻き込むことが云々より、権八さんの親心ですよね。
結果的に八重さんはその親心を見事に踏み倒して行ってしまうことになるわけですが、それは、「やむにやまれぬ心」なのでしょう。

敵が城下に侵攻するのを絶対に阻止したい会津軍は、残り少ない兵力の投入を余儀なくさました。
家老に復帰した西郷さんは背焙山、萱野さんは大寺、官兵衛さんは強清水に、それぞれ布陣します。
そして母成峠を越えた先にある猪苗代城に場面は移りましたが・・・個人的に、突っ込みたいことが多々・・・。

もうここはいけねぇ。城に火をかけて退却するぞ。仙台でもうひと戦だ。まだ、榎本艦隊がある。俺達は仙台で待つぞ

と土方さんが言っていて、さながら猪苗代城の放火犯のようにされていますが、実際に猪苗代城に火を放ったのは城代の高橋権太輔さんという方です。
彼は母成峠が突破されたと知るや否や、城に火を放って鶴ヶ城へ撤退して行ったのです。
また猪苗代は、母成峠に兵力を出していたため手薄だったようで、薩長連合軍が猪苗代に差し掛かった時には既に城は燃えていたとか燃えていないとか。
と言う背景事情を知っていれば、この土方さんと斎藤さんのやり取りが何となくとって付けたような、或いは無理矢理捻じ込んだような感を覚えるのにも、何となくですが納得出来ます(笑)。
土方さんが榎本艦隊、と言っていますが、江戸城無血開城後に品川沖を脱した榎本艦隊が仙台湾に到来したのは、8月26日(1868年10月11日)のことです。
先程の大鳥さん同様、彼もこれに合流して北へと転戦していくことになります。
ですが斎藤さんは、そんな土方さんに付いて行かず、自分は会津に戻ると言います。

馬鹿な!こんなんじゃ二日か三日で城下まで攻め込まれるぞ!
それでも会津は戦うでしょう!ならば新撰組も、共に戦うまで
この戦、待ってるのは籠城戦だ。援軍が来る当てもねぇ!死にに帰るようなもんだ。・・・良いから一緒に来い。斎藤!
いま会津を!・・・いま会津を見捨てるのは、義にあらず。生死を共にした仲間を捨てるのは、士道に背きます

『谷口四郎兵衛日記』には、斎藤さんがこのとき言ったという「ひとたび会津へ来たりたれば、今、落城せんとするを見て志を捨て去る、誠義にあらず」の記述が残されています。
多分、斎藤さんにこの台詞を言わせたいがための猪苗代城シーンだったんだろうな、と思いました。
その後のやり取りが・・・主に土方さんの発言がまあまあ、下種といいますか、会ったことないので存じ上げませんが、少なくともこういうことは言う人じゃないでしょ?と言うような感がして、あまり見ていて気持ちの良いものではなかったです。

猪苗代城落城の報せを齎された会津ですが、十六橋はどうしたのだと土佐さんは言います。
十六橋というのは猪苗代湖の水が泣かれる日橋川に架かっている石の橋のことで、母成峠を越えて会津城下に入ろうとすれば、必ず渡らなくてはいけない橋です。

逆に言えば、会津としてはその橋さえ落とせば、薩長連合軍の進路を立てることになります。
橋を使わずに普通に川を渡れば・・・と思う方もおられるでしょうが、このとき台風の影響で日橋川の水位は上がっており、且つ今の暦で言うなら10月の東北地方の川の水です、冷たくないはずがありません。
なので十六橋を使わないで日橋川を渡るというのは非常に難しいことでした。
会津はここを壊そうと必死になりますが、ここを渡るために薩長連合軍も必死です。
長くなるので引用は控えますが、薩長連合軍側の必死さについては長州兵の藤井浅次郎さんの証言などを見て頂くとよく分かります。
先程も触れましたが、このとき折からの台風で、石の橋を壊すのには火薬は必須ですから、なかなか爆破に上手く行きません。
結局会津は橋桁一枚だけしか落とせず、薩長連合軍に橋を突破されてしまいます。

此度こそ、わしは・・・皆と共に戦わねばならぬ

滝沢本陣にて指揮を執るべく、容保様が御出陣なされたのは十六橋が突破される少し前のことです。
城内には最早精鋭部隊が残っていないので、前線へと向かう容保様の護衛は、白虎隊の歳若い兵たちに命じられます。
時尾さんの弟の盛之輔さんは伝令役として追従し、案じるように時尾さんがその出陣を見守ります。

大殿が、ご出陣あそばしました。城を守るわたくしたちも、油断せず、それぞれの立場で、精一杯努めましょうぞ。梶原殿にお伝え下さい。傷を負うて戻られる方々は、城の女達がご快方にあたります、と。それから、塩の蓄えが十分かどうか、今の内に確かめておきなさい

そう言って懐剣を引き寄せる照姫様。
万が一の時は・・・と、勿論考えておられるでしょうね、照姫様も武家の姫様ですから。
出陣する白虎隊を、沿道で藩士の家族たちが見送ります。
八重さんもそれに駆け付けますが、彼らの装備がヤーゲル銃なのを見て、思わず人を押し退けながら前に出ます。

敵の銃はヤーゲル銃より遠くまで撃でる。遠間で撃ぢ合わず、引き付げでがら!皆も聞いてくなんしょ、銃のことは悌次郎さんに教えてあっから、よぐ聞くように!まどもに撃ち合って、無駄に死んではなんねぇ!

ヤーゲル銃の射程距離は300メートルくらいでしょうか(ちょっと曖昧なのですが)。
性能はゲーベル銃に少し改良を加えたという程度なので、完全に旧式の部類に入る銃です。
白虎隊の装備がそれだったのは、「予備兵力」として、出陣させる予定がなかったからです。
よーぐ引きづげで撃ぢなんしょ」と八重さんは言いますが、この頃の戦闘記録を見ると、300~500メートルの距離で銃撃戦になることが多かったようです。
敵の銃は様々ですが、スナイドルやエンフィールドが主流と言っても良いでしょう。
このふたつの最大射程距離は800メートルなので、300~500メートルの距離で銃撃戦になることが多かったとはいえ、引き付けてる間に相手側の射程距離圏内に入って狙撃される、というのも十分あり得ます。
その辺りのことも、言葉ぶりから察するに八重さんは悌次郎さんに教えているようですが、実際に15歳の子供に実戦でそれを考えながら戦えって、なかなかの無茶ぶりですよ・・・。

容保様が滝沢村に到着した直後、十六橋が破られたという報告が来ました。
次の防衛の要所の戸ノ口原が破られては、一気に城下に攻め込まれます。
しかし戸ノ口原の守備の手勢が足りず、容保様は苦渋の決断・・・即ち、白虎隊の半数を戸ノ口原の援軍として出陣させることにします。

白虎士中二番隊に、出陣の命が下りだ!

白虎隊には、袖印として黄色い木綿の布が配られていきます。
ちなみに母成峠から十六橋までの進軍速度と言い、全体的に薩長連合軍の進攻速度が速いのは、 西洋の軽装で身軽であったためでしょうね。
昔の戦国武者(それこそ権八さんが出陣の際に着て行ったような)のように重たい鎧甲冑をがちゃがちゃさせての進軍は、こうも早くはいかないでしょう。
逆にそれ故に、会津も敵の進攻速度の目算を見誤ったのかもしれません。

にしらは若年なれど、本軍の兵だ。怯まずに、戦って参れ!
皆の、武運を祈る!

このとき向かわせた白虎隊がどういう末路を辿るのか、何て知る筈もなく。
出陣した白虎隊は、その夜戸ノ口原で野営となります。
しかしこの日は夕方から雨が降り、強い風も出て肌寒い夜となりました。
一説によれば、この日は嵐だったとも言われてます。
食べ物を調達してくるからここで待っておれ、と隊頭の日向内記さんが篠田儀三郎に隊を任せてその場を離れますが、雨具も食糧もない状態で、冷たい雨の中の野営が初陣というのは、彼らの精神力を大きく削って行ったことでしょう。
固まってくっ付けば暖が取れるということで、押しくら饅頭を始める白虎隊ですが、普通に考えたらこんなことして声を上げて騒いでたら敵に見つかるぞ、と言いたくなりますが、反面初陣の少年らの「戦」というものの慣れていなさなどがよく表れている演出だったなと。

戸ノ口原が破れた時に備え、籠城の構えを取らせるように命じた容保様。
敵軍が迫ったときには半鐘を鳴らすから、藩士家族はそれを合図にお城に入り、町方たちは城下を出よとの達しが山本家にも回って来ます。
佐久さんは、長年奉公して山本家に尽くしてくれた女中のお吉さんと下男の徳造さんに、当面の金子を渡して、自分たちの村に帰れと暇を言い渡します。
嫌だと言いつつ、会津のおなごは敵が来たら恥にならないように皆自害するのでは・・・と、佐久さんたちもそうするつもりではと危ぶんだお吉さんの言葉を、佐久さんは静かに否定します。

登城のお触れが回った。おなごも子供も力を合わせて、お城を守ると言うことだ。皆で、会津を守るんだ

結局ぎりぎりまでお吉さんと徳造さんは山本家に残って、登城の支度の手伝いをすると申し出ます。
こういうお吉さんや徳造さんのような方が、会津戦争後、家も何もかも失って困窮した会津藩士やその家族を自分の村に連れて行って、日々の生活をささやかながらも助けてくれました。
しかしその一方で、農民たちの中には戦局の動向によって薩長連合軍の人夫として働き、薩長連合軍の道案内や武器弾薬食糧の調達などに奔走するという人も少なくありませんでした。
戦というと、お武家さん同士のもの、或いはそちらにばかり目が行ってしまいがちですが、会津戦争は民草まで巻き込んで、複雑多岐な戦いでもあったのです。

8月23日(1868年10月8日)、城下に半鐘が鳴り響きます。
この日、容保様のおられた滝沢本陣にも薩長連合軍が攻め込んで来て、容保様は定敬さんに「そちはここを去れ」と別れを告げ、ご自身は城へと向かわれました。
定敬さんは再起を決して米沢へと向かい、その後大鳥さんや土方さんと共に、北へと転戦していくことになります。
山本家は割合落ち着いていて、準備もしっかり出来ているように見えましたが、実際は城下は大混乱でしたし。
戦に備えての疎開も始まっていましたが、誰もこんなに早く敵が城下までやって来るだ何て思ってなかったのです。
滝沢村から戻る容保様でさえ、乗っていた馬に敵の銃弾が命中し、駆け足で甲賀町通りを通って入城するという際どさでしたので。
そう考えると、山本家の落ち着き用はちょっと異様にも見えるのですが、それは今は置いておくとして、先日角場に別れを告げた八重さんは作業場で三郎さんの軍服に袖を通します。
軍服に八重さんが刺繍した南天を、八重さんは何の躊躇いもなく引き千切りました。
動くのに邪魔になるからという合理的な考えに基づいて・・・とも見えますが、「当てにしてたものに悉く裏切られ続けて来てるから、もう当てにしない」という意思表示かなと私は思いました。
お雪さんと一緒にやった石投げとか、二本松藩の少年に贈った達磨とか、三郎さんの軍服に縫った南天とか、八重さんは今まで願いを託したものにことごとく裏切られ続けています。
なので、そんなもの(神様も南天もダルマといった、心の拠り所的なもの)はもう当てにしない!という八重さんの中の心境変化だと。
同時に、それらを全て振り払って、八重さん自身を守るのも生かすのも、八重さん自身(彼女の場合だと銃の腕前)だけになる=信じられるものは自分の力のみ、となったのかと。
そんな八重さんが、明治になってキリスト教の洗礼を受けるっていうのは、これまた変化としては大きいと思うのですが、それはその時が来たら触れることにしましょう。
「私は着物も袴も總て男装して麻の草履を穿き両刀を佩んて元籠七連發銃を肩に擔いでまゐりました」というのが後年の八重さんの回想ですが、その言葉の通り八重さんはスペンサー銃(元籠七連發銃)を手に取り、佐久さんに言います。

私は、三郎と一緒にお城にあがりやす。今がら、私が三郎だ。逆賊の汚名を着せで、会津を滅ぼしに来る者達を、私は許さねぇ。私は・・・戦う

幕末のジャンヌ・ダルク、万全を期しての登場です。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年6月18日火曜日

第24回「二本松少年隊の悲劇」

前回の手痛い白河の敗戦から始まりました、第24回。
同じ頃、覚馬さんは獄舎の中で、野沢さんに口述筆記を頼み、新国家への意見書を纏めようとしていました。

無用の古書を廃し、国家有用の用うべし、学問の書には四種ある、その一は建国術。・・・ここまで、読んでみでくれ

しかし獄番から「毎日毎日うるさい」と咎められ、上野が落ちたことを嫌味のように知らされます。
あまり覚馬さんが動じてないところを見ると、悟りきっているというか、分かっていたというか。
獄内で何も出来ない自分の立場を分かっているので、足掻くよりは何よりもまず目の前のことを、という心境なのでしょうかね
しかしその目の前のこと、もとい意見書も、また薩長連合軍の悪口を書いていたのかとぐちゃぐちゃにされます。
書く度に破られてしまうことを悲観する野沢さんですが、それでも覚馬さんは動じません。

言葉は皆ここにある。ここにあるもんは、誰にも奪えねぇ

そう言って、左の胸に手を当てる覚馬さん。
暴力で踏み躙られても、折れないものがあるということですな。

さて、山本家の角場にて 「この玉なら丸い弾よりずっと遠くに飛びます」と言いながら、硝石の量が爆発の威力を決めることを健次郎さんに教えていた八重さん。
学問ばかりやっているという健次郎さんには、実践的な武芸の鍛錬積むより、こういった調合や配合などと言った頭を使う方面の方が性に合ってそうですね。
ちなみにこのとき健次郎さん14歳、数えで15歳。
更にそこに登場しました、マントルの良く似合う悌次郎さん、盛之輔さんと同い年ですね。
同い年ですが、銃の上達の速かった悌次郎さんはお父さんが隊長に掛け合ってくれたこともあり、白虎隊への入隊を許されました。
(白虎隊は16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊)
白虎隊隊士として猪苗代湖を視察する藩主の喜徳さんに同行することになった悌次郎さんと、お城に上がって若殿様の護衛に加わることになった盛之輔さんに、追い越されたと溜息を吐く健次郎さん。

んだら、体創りの秘訣をさずけやしょう

と、八重さんはそんな健次郎さんに俵上げをするように言います(笑)。
健次郎さんがうんうん唸っても持ち上がらなかった俵を、ひょいと担ぐ八重さんの怪力っぷりは相変わらずです(ちなみに一俵は60kg)。
これが足腰の鍛錬になると八重さんは言いますが、下手したら腰を痛めかねないですね。
妻が怪力なことについて尚之助さんが如何思っているのかさて置き、今週からどうやら髭を生やし始めた尚之助さん。
八重さんは白河が薩長連合軍に奪われたことについて、背炙峠を越えて、福良、白河、二本松を尚之助さんと一緒に回ったことを思い出します。

・・・白河は、やはり取り返すのが難しいのでしょうが?
難しいようです。やはり、銃や大砲の力の差は大きい。福良で話したこと、まだ何も出来ていない。反射炉も、銃の刷新も、間に合わないまま戦が始まってしまいました

前回の白河口の戦いがさらっと流されたので、作中白河が、白河が、と言って登場人物の中で募る危機感と、視聴者側の危機感にかなり温度差が生じている、ないしは白河の重要度がドラマの描かれ方だけですと、いまいちピンとこないのですが・・・。
ともあれ、先週から何度も繰り返しているように、白河を奪われたのは痛恨の出来事です。
この発言から、尚之助さんは「会津に戦が来る」ことは確定未来として分かっていたけれども、まさかこんなに早くだとは思ってなかったのでしょうね。

あの子だち、戦場に行ぐごとになんだべか?
いや、白虎隊は飽く迄備え部隊です。まだ、戦場に立つ歳ではありません

尚之助さんの言うように、白虎隊は飽く迄この時点では「予備兵力」的な意味であって、主力兵力とは見做されていません。
しかしその予備兵力までもが、止むを得ず前線にまで駆り出される事態になってしまうのが、この後の会津戦争です。

一方、落とされた白河城には、板垣さんが300人の兵を率いて合流し、既に白河にいた伊地知さん、大山さんを交えて、早速軍議が行われます。

先にこの辺りを崩す。奥州街道を断ったら、兵は城下に戻れんき、補給路も断てる
越後口も程なく政府軍が手中に納めれば、会津への武器の流れも断てもす
棚倉、守山、三春、二本松まで進んだら、会津は目の前じゃき

越後口を断たれたら会津への武器の流れが止まる、というのは、会津にはご存知、海がないので、越後の新潟港経由で武器を補給していたのです。
官兵衛さんがそちらの方面の守備に当たっているのは先週触れられた通りです。
さて、北上して日光口を突破して会津に向かうつもりが、どうにもこうにも突破出来なかった薩長連合軍。

板垣さぁほどの御方がおって、日光口が破れんかったとは、ないごとでごわすか
会津から、山川大蔵っちゅうこれがまっこと手強かったがやき
会津の山川・・・

ちなみに前にも触れましたが、大蔵さんは後に大山さんにとって義理のお兄さんになります(大蔵さんの妹と結婚するので)。
縁とは本当、奇妙なものでして、何処で誰と繋がるのか分からないものですね。
で、その大山さんの未来のお義兄さんこと大蔵さんの活躍は、「大蔵が敵の進軍を完璧に封じていた」のナレーションの一言で済まされていますが、あまりに不憫ですので軽く補足しますね。
会津藩が国境の日光口、越後口、白河口にそれぞれ人をやって戦線を構築していたのは皆さま記憶にまだ新しいと思うのですが、そもそも会津一国の軍力で国境に兵を配備するには、とてもじゃないですが人手不足になるんですね。
そこで、日光国には旧幕の大鳥圭介さん率いる幕府伝習歩兵が戦線に参加してました。
実際には、大蔵さんが指揮権を持っていながら、大鳥さんの隊の傘下に大蔵さんたちが入る、というちょっと不思議な図式になっていたようです。
大蔵さんは日光で軍を動かす上で、身分に拘らないという姿勢を持っていて(この点が白河を守っていた西郷さんとの大きな違いかと)、国許から猟師を連れてきていてそれで隊を結成させ、それが功績をあげたり・・・と、板垣さんを散々手古摺らせます。
ドラマでは「今市付近」となっていましたが、今市というのは日光にある地名のことで、最初大蔵さんたちはここに侵攻せんとしていたのですが、相次ぐ周囲の味方の敗戦により、そちらに兵力を回さなくてはならなくなったので、今市侵攻のための兵力が不足します。
なので大蔵さんたちは侵攻を諦め、防御に徹するという姿勢に切り替わります。
攻めから守りに転じられた板垣さんは、後続としてやって来た佐賀藩にその場を任せ、自身は白河方面へと向かいます。
そういう流れを経て、板垣さんは日光から白河へやって来たのです。
結果的に大蔵さんは、この日光口を守りきり、薩長連合軍に突破させませんでした。
しかし本陣ともいうべき鶴ヶ城が包囲されたのを聞き、急遽軍を返すことになるのですが、それはもう少し先の展開ですね。

6月3日(1868年7月22日)、猪苗代湖の南に位置する福良に、白虎隊市中一番隊と二番隊は藩主喜徳の警護のため、新選組と共に出陣していました。
その夜、陣内で白虎隊隊士らに、御所から長州を追い出した時の話などを目を輝かせてせがまれる土方さん。
彼らからすれば、会津藩お預かりという立場で都にいて、しかも死線を潜り抜けて来た新選組は、ヒーローとまではいきませんが、憧れを募らせる対象なのでしょうね。
今の会津の立場が立場なだけ、余計に。
しかし、「新選組というのは、会津に古くからある隊名のひとつと聞いておりやす」と言われて、初耳だと言わんばかりの顔して「そうか」って言う土方さんに、そうかじゃないでしょ!と突っ込みたくなりました。
彼が新選組の名前が会津の古い隊名って知らなかったってこと、なかったと思うんですが・・・まあ断言はしませんけど。
翌日白河城の奪還のために出陣する土方さん達を慮って、今夜はこれでお開きとなった白虎隊と土方さん達。
そんな彼らを見て、土方さんがぽつりと零します。

子供といえども、会津武士は違うもんだな。俺があの年の頃は、石投げの喧嘩ばかりしていた
私も似たようなものです。・・・会津の古い隊名だったのか、新選組は
おらぁな、会津の飼い犬になるなんざまっぴら御免だった。出し抜いてやる気もあった。だが、会津の殿様は存外、俺達を信用していたのかもしれねぇな

そう言いながら、聞こえてくる子供の声に微笑む土方さん。
容保様は存外どころか、新選組のことも大切に思っていたように感じます。
・・・というか、その辺りも土方さんならちゃんと分かっていたでしょうに・・・うーん、何だかこのドラマの土方さんは野心に溢れすぎているというか、従来と違うという意味では良いかもしれませんが、それが却ってズレを作っている部分もあるように見受けられます(苦笑)。

6月24日(1868年8月12日)、板垣さんら薩長連合軍は棚倉に侵攻し、翌日には棚倉城を落城させます。
そもそも棚倉城がたった一日で落ちたのは、同盟軍が白河の方に兵力を集中させ、棚倉には援兵を向けなかったからです。
しかしその結果が棚倉を落城させ、それが白河を取り戻したい同盟側の首を一層締める結果を招きます。

上図を見て頂けたら分かるように、棚倉から白河までは一本道で、且つ白河が押さえられれば奥州街道が押さえられることになり、白河奪還が絶望的になります。
白河の奪還が望めない以上、会津形勢不利の立場は揺るがず、且つ奥州越列藩同盟にもこの時点では綻び始めており、周囲諸藩は薩長連合軍によって攻略あるいは同盟を裏切るということになっていました。
このままでは会津が孤立無援になると思ったのでしょう、西郷さんは鶴ヶ城に駆け戻り、容保様に停戦を申し上げます。
しかし土佐さんは、謝罪恭順の道はとっくに断たれているではないかと言います。
それでも戦を止めなければならないという西郷さんに、一体何と引き換えに和睦に持ち込むのかと問う平馬さん。

それがし、西郷頼母は無論、ここにいる家老一同、腹切って首を差し出す

一語一語噛み締めるように西郷さんは言いますが、家老一同はあまり耳を傾けません。
確かに第一次長州征伐の時に、長州側が家老の首三つを差し出したことを考えれば、本気で会津が謝罪恭順するためにはそれくらいの首が必要です。
(そしてこれが会津戦争後で現実となる・・・西郷さんの首は入ってませんが)
謝罪恭順を申し出る西郷さんに、薩長連合軍のこれ以上の進軍を防ぐのが白河軍総督の役目ではないのかと攻める土佐さん。

敗戦の失策は幾重にもお詫び申し上げます。んだげんじょ、鉄砲、大砲の力の差は、明らか
奥羽諸藩が、一丸となってで御座るぞ
恭順などと言い出すのは、列藩同盟の信義にもとります

会津の誇りと列藩同盟の信義に囚われ続け、その手段を選べない会津藩家老の主戦派。
気持ちは分かりますが、信義や信念で勝てるものではないのが戦争というやつです。
気合で銃弾や砲弾は跳ね返せません。
それに囚われてる人はそれで良いかもしれない、でも囚われてない人からすれば巻き込まれて火の粉が降りかかるのですよ。
その火の粉が降りかかった一番の被害者が、もう間もなく起こる会津城下での戦争での、民衆でしょう。
そこが全く見えていなかったのが、このときの会津藩上層部。
しかし大蔵さんは立派にまとめ上げているということを鑑みれば、「武器、また戦い方も違う諸藩の兵が、戦場にて一丸となんのは、これはこれは難しゅうござる」が泣き言にしか聞こえないと言われてしまっても、西郷さんに弁護出来ません。
だって、実際大蔵さんはきちんと出来てますし、白河だって西郷さん達が前線に到着してないままで行われた緒戦は大勝利だったわけですし。
となれば、敗戦の責任の多くは、西郷さんの力量不足になります。
もしここで西郷さんが白河を守れていたら、ここでの発言力は大きく変わっていたでしょうが、歴史にもしは禁句ですね。
戦うより道はない、という姿勢を崩さない主戦派に、ならばと西郷さんは声を張り上げます

ならば!ならば殿!鉄を!大砲の補強を!何としてもすぐに!
銃には、限りがある。日光や越後にも分配せねばならぬのです
ならば梶原!反射炉を!反射炉を今すぐ作れねぇが!寺の鐘鋳潰して、大砲を作れば
出来るならやってらぁ!今はその、金も時もねぇ
土佐ぁ!んだがら、あんとき一時でも早ぐ、都を出てれば!

これが本当に家老の集まりの場での会話なのかと耳を疑いたくなりますが、最後の最後で言ってはいけないことが飛び出しました。
いつでも正論を言っていいわけではありませんよね、正論だって控えなければいけない時はある。
特に、内蔵助さんが指摘したように、西郷さんはつい最近まで謹慎していた身。
外部からとやかく言うのは簡単かもしれませんが、在京組は在京組なりに必死だったんです。
内蔵助さんなんて、その結果が積もりに積もって、息子の修理さんが切腹までさせられた。
何も知らないぬしが、出過ぎた口を聞くな」の台詞は、だから内蔵助さんの口から出て来た。
容保様が静かな視線を西郷さんに向けるのも、内蔵助さんと同じような心境だったからでしょう。
けれどもまあ、どちらの言い分も正論ですよね。
会津が引き際を見誤ったのは事実ですので、西郷さんの言うことも正論。
しかし今そのことを反省点に取り上げても、何も変わらない。
それまで沈黙を貫いていた容保様は、西郷さんの総督の任を解き、代わりに内藤介右衛門信順さん(平馬さんの実父)が白河総督の任にあたります。
それを言い渡された時の、くしゃりと潰れた西郷さんの表情・・・この人、本当会津を戦場にしたくない、という思いがずっと根底にあるのだなと感じました。
前にも触れたことですが、藩祖の保科の血筋には西郷さんの方が容保様より近いですので、そういうのも関係してるのかもしれません。

日新館では、戦で壊れた銃が次々と運ばれて来ており、雷管だけでも作り変えたら戦力の足しになるから、と八重さんや尚之助さん、権八さんとお手伝いの健次郎さんが懸命に働きます。
お金をかけないで、でも出来ることはどんどんやって欲しいと萱野さんは言いますが、八重さんは目の前に運ばれて来たゲーベル銃や火縄銃を見て、これではあまりに古すぎると言います。

敵は、スナイドルや臼砲を使っているのに
それを目の当たりにされたから、頼母様も停戦を言い出されたのでしょう

そこへふと、火薬を調べていた健次郎さんが、木炭が多すぎて硝石が少ないのではないかと言うことに気付きます。
後に東京帝国大学の総長になり、同大学で物理学を教えることになる健次郎さんの片鱗が垣間見えた!と思いますが、よくよく考えてみればこのころの健次郎さん、まだ九九すら出来ないのですよね。
いや、でも「出来ない」だけで、豊かな土壌は持っていたということですかね。
それはさて置き、どれどれと尚之助さんが見てみると、何でも使われていた火薬は関ヶ原の頃の調合のもののようで、それだと煙ばかりが上がって爆発の威力が弱いと指摘します。
それなら、火薬を今の調合のものに作り直すだけでも銃や大砲の威力が変わるのではないかと公明を見出した八重さんですが、権八さんがそうなると問題は硝石だと言います。
硝石は雨の多くて湿度の高い日本では国産が難しく、ほぼ唯一国産に成功していたのが加賀藩(五箇山)だったのですが、これも藩の極秘のような扱いをされていましたし、そんなに大量に生産出来ているわけでもありません。
そういう供給状態ですので、権八さんの言うように、硝石は何処の藩にもあまり蓄えがないのです。
ちなみにこの硝石は、火薬を作る上で欠かすことの出来ない材料です。
だから戦国時代、硝石をやり取り出来る港の堺を押さえた織田信長軍は、銃器が他の大名よりも優れていたのだと思います(違ったらごめんなさい)。
まあ、その割には八重さんが角場でじゃんじゃん無駄玉を撃ってるのが気になりますが(苦笑)。
その時、萱野さんのもとに、秋田藩が薩長連合軍に降ったという知らせが飛び込んできます。

この秋田藩が同盟離脱したことは、ドラマでは「何故?」という部分に触れられないまま次に展開が移りましたので、折角ですのでまたまた少し補足したいと思います。
そもそも、秋田藩が何故薩長連合軍に下ったのか、元を糺せば原因は仙台藩にあります。
九条道孝さんと言う方がおられたのを、皆様覚えておいででしょうか?
あの世良さんと共に仙台へやって来た、奥羽鎮撫総督です。
彼が仙台の地を踏んだ時は、まだ先代は薩長と戦闘状態に入ってませんでしたが、世良さんの暗殺などを経て、すっかり仙台は薩長と敵対する構えを見せるようになりました。
つまり、道孝さんは奥羽鎮撫総督でありながら、敵地とも言うべき場所(仙台)で孤立するという状態になってしまったのです。
薩長側としては自分達の総督が敵の手中にあるわけですから、これを見過ごすわけには行きません。
なので救出のため、佐賀藩と小倉藩の兵を派遣させるのですが、仙台藩藩士の若生文十郎さんと玉虫左太夫さんは彼らの入国を断固として拒否します。
まあ、敵なのですから当たり前ですよね。
それに敵軍の総督が仙台藩の手の中にあるとなれば、薩長への圧力にもなりますし、薩長としても仙台に乱暴は働けません。
要は「人質」です。
なのに仙台藩の主席奉行、但木土佐さんは佐賀・小倉藩兵の入国を認め、あろうこともか道孝さんを会わせるという、大失態を通り越して、耄碌したのかと突っ込みたくなるようなことをします。
画して仙台から解放された道孝さんは、盛岡を経由して秋田藩に逃れます。
この逃れた先の秋田藩は、まだこのころ同盟軍だったので道孝さんからすれば敵国になるのですが、秋田藩も列藩同盟に加盟してはいるものの、一枚岩ではないという内情を秘めていました。
それ故、奥羽鎮撫総督の身柄の引き受けについて、藩論はもめます。
元々秋田藩は佐幕色の濃い藩でして、そういうわけもあって家老や奉行でこのとき色々ありまして(キリがないので割愛します)、薩長連合軍の参謀の大山格之助さんが藩内の尊王攘夷派・勤王派を焚きつけて、藩内改革を起こさせて・・・と、新政府側に降るまでそう言う経緯がキチンとありました。
何だかナレーションで淡白に済まされると、あっさり鞍替えしたみたいに感じたので・・・最低限の補足をさせて頂きました。

さてさて、東北の空気もなかなか穏やかではありませんが、京都太政官の空気も負けていません。

ほう、貴公もここにおいでか。なるほどのう

と、岩倉さんと木戸さんを待っていたのは春嶽さん。
言葉に滲む嫌味を隠そうともしません。

御用じゃったら、こちらから御伺致します
いや、木戸殿もご政務にお忙しい。万事公論で決するはずの政策が、悉くこの辺りで決められているのでな

この辺り、というのは言うまでもなく岩倉さん周辺の公家と、薩長土の人間たちのことですね。

越前殿には、内国事務総督という御役目をお任せしてるやないか
ところが、国事に関わるご相談は一向に耳に入りませぬ。そればかりか、会津討伐取りやめの建白書、幾度願い出ても御取り上げがないのは、なにゆえに御座いましょう
会津は朝敵や。討伐は、お上のご意向にあらしゃいます
会津殿が朝敵とは、誰かのでっち上げでは御座いませんか
禁旗に向こうて発砲したのやぞぉ
太政官の中には、かつて御所に向かって発砲した御方もおられる。会津から謝罪恭順の願い書が幾度も届いたはず。それを握りつぶした結果、奥羽一円は戦乱の地となっております。罪なきものを罰し、内乱を起こすことが、王政復古にございまするか
大政を一新すべき時に、甘い処断はしちょられん。会津の帰順を受け容れるなぞ以ての外

痛烈な皮肉と、さぞやこのふたりの耳に痛かろう正論をざくざくと並びたてていく春嶽さん。
視聴者からすればこの上なく痛快ですが、会津が現状に至った遠因の、京都守護職の話を容保様に持って来たのはこの春嶽さんなんだよな、と思うとやや複雑。
ですが、一方で春嶽さんは「慶喜さんが謹慎を受け入れたのなら、東征軍を速やかに停止すべき」という建白書を三条さんや岩倉さんに送っています。
ですのでまあ、春嶽さんの中ではそれ(京都守護職のこと)はそれ、これ(会津救済)はこれ、なのでしょう。
岩倉さんも春嶽さんのことを、春嶽さんが薩摩と力を合わせて朝廷の補佐をしてくれたら天下のことは八割九割方成る、と言うくらいに買ってたのですが、そんな春嶽さんの会津救済嘆願は聞き入れないご様子。
春嶽さんは、一体何を恐れているのかと岩倉さんと木戸さんに言います。

会津討伐は、かつての長州討伐の裏返し。官軍と賊軍と、いつ入れ替わるか分からぬという
じゃから、二度とそげなことが起きんよう、禍の種は、絶たんにゃならん。そのために僕の仲間たちが血を流して来たんじゃ
だからと言って、政権を私して良いと言うことにはならん
何?
越前殿、全てはご叡慮や

卑怯な切り札ですね、ご叡慮って。
その卑怯な切り札をさらりと使う岩倉さんも、本当腹黒いです(余談ですがこの腹黒い御仁が後に吃驚キューピッドと化するんですよ・・・信じられますか)。
木戸さんだって、血を流したのは仰る通り本当に木戸さんのお仲間であって、木戸さん自身は逃げ回って都を離れて出石に潜伏して、そこで現地妻作って宜しくしてただけじゃないの、と。
馬鹿にする気はないのですが、何でしょうか、台詞のせいか何のせいか、物凄くこの場面の木戸さんから小物臭がします(苦笑)。
そんなふたりに、最後の一撃といわんばかりの指摘を春嶽さんは残して行きます。

歪んでおる。あなた方の作る新しい国は、踏み出したその一歩から既に歪んでおる。誰のための国作りぞ。とくとお考えあれ


慶応4年6月、「慶応4年戊辰、山本覚馬」の一言を最後に、漸く『管見』が書き上がります。
ちなみに前々からちょくちょく指摘していますが、『管見』執筆時の覚馬さんの待遇はこんな劣悪ではないです。
なのでこのドラマの演出は、話半分で捉えておくとして・・・。

ちっぽげなひどりごとだ、狭い見識だ。だげんじょ、十年後、百年後のために、考えに考え抜いだ、新しい国の見取り図だ

覚馬さんが言うように、管見というのは「細い管を通して見ているような、狭い見聞に基づいて申し上げます」というような意味を持つ謙譲語です。
言葉の意味の上に胡座かいて、本当に狭い見聞だったら勿論駄目ですけどね。
覚馬さんはこれを、いつかの時が来たら、然るべき人に渡して欲しいと、時栄さんに預けます。

破れても、・・・滅んでも・・・残るものはある

そう語る覚馬さんの脳裏をよぎるのは、故郷会津の桜、そして妹の八重さんの朗らかに笑った顔。
これは、ドラマのテーマに帰結した部分だなと思いました。
第8回で大蔵さんが八重さんに、「あなたは会津そのもの」と言っていましたが、「八重さん=会津」の図式で、あの「大地にしっかり根を張って咲く桜の樹=八重さん」なんですよね。
ちょっとこの辺りのニュアンスを、言葉で説明するのはこの間の時と同様難しいのですが・・・。
代わりに、何故この状況下で、近代日本のグランドデザインを覚馬さんは書いたのか(口述だけど)について、少し触れさせて頂きます。
場面場面で区切ってしまうと伝わりにくいのですが、先程の春嶽さんの場面と流れが繋がっているのですよ。
要は薩長連合軍に対して、あなた達が徳川幕府を踏んづけて立ち上げた新国家というのは、国家としての基本方針を何処に定めて行くのか?というニュアンスも含んでると思うのです。
で、「国家」という方針で見たとき、会津を攻めようとしてるあなた方のやり口は間違ってないか?どうですか?と、言う辺りが、先々週に出て来た「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」の部分。
そんなこんなで、「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」と『管見』を切り離して考えては駄目です。
単独で捉えてしまったら、万国公法に則って会津助命の嘆願を叫んでいた覚馬さんが、何故そのすぐ後にグランドデザインを提唱?会津何処行ったの?という風に映ってしまいます。
なのでこのふたつは併せて考えないと、覚馬さんのことは見えて来にくいと思います。

7月29日(1868年9月15日)、二本松へ板垣軍を始めとする薩長連合軍が侵攻してきます。
この時点で既に奥州街道は薩長連合軍の手に落ちており、三春藩が列藩同盟裏切ってるので、薩長連合軍は棚倉から三春、二本松に兵を進めることが出来たのです。
薩長連合軍2000に対し、守る二本松藩は約300。
何故こんなにも二本松の兵力が少ないのかというと、二本松の主力は郡山にいて、二本松城に帰れなくなっている状態だったのです。
なので二本松藩は、少しでも兵力を掻き集めるために老人や、そして少年たちも駆り出します。
とは言いましても、未成年の少年たちの徴兵は飽く迄有志で、「入れ年」制度(歳のさばを読むことを黙認すること)を使って出陣していきました。
そんな少年兵が所謂「二本松少年隊」と呼ばれるそれなのですが、彼らは緊急構成・配属された為(27日にされたので)、当時は正式名称はありませんでした。
1917年になって、大壇口に出陣していた少年隊の生き残りの水野好之さん(当時は進さん)が『二本松戊辰少年隊記』という回想記述を作り、そこから二本松少年隊の名前が出てきました。
その少年らを率いる銃太郎さんは、「二本松は、敵に寝返って生き延びるより、死すとも、同盟の信義を貫く道を選んだ。誇りを持って戦え!」と、大壇口(二本松城の南)に布陣した少年らを鼓舞します。
いよいよ戦が始まって、畳を重ねて作った防柵を楯に懸命に銃を討つ少年たちですが、ドラマではかなり一方的にやられていたように描かれていましたが、実際は彼らの射撃は正確で、薩長連合軍はなかなか前進出来ませんでした。
薩長連合軍は辛うじて左右から回り込んで挟撃し、そこを突破したのであって、少なくとも少年たちの撤退はあんな風ではなかったと思いますし、もっと善戦してました。
退却の最中、銃太郎さんが少年たちを逃がすために身を盾にして、さながら弁慶の最期を彷彿させるお見事な最期を遂げておられましたが、これも誤りです。
実際は退却の太鼓を鳴らして、「この深手では城に戻れない」からと、副隊長の二階堂さんに首を斬り落として貰ったのです。
首は少年達が持って行き、胴はその場に埋められました。
その後、何とか城下にまで引き返して来た少年たちですが、そこで薩摩兵に遭遇します。
薩摩兵も敵だと思って銃を構えますが、相手が子供だと知って驚きを隠せません。
そこへ登場した弥助さんが、ひと言。

銃を下ろせ。もうよか。よう戦うたな。早よ家せえ帰いやんせ

帰る家が現在進行形で燃えてる可能性があるのですが、という突っ込みはさて置き、子供まで無闇に殺しはしないという意味ですかね。
しかし彼らは子供としてではなく、まだ前髪ですけど「入れ年」制度を使って出陣したことから、心は既に「二本松藩士」なのだと思います。
なので、弥助さんの言葉はこの上なく優しいですが、少年たちにとっては「子供扱い」という侮辱に近いものになったのではないかと。
そして薩摩兵の後に現れた長州兵に、二階堂さんは射殺され、「敵を見たら斬ってはならぬ、ただ一筋に突くのだぞ」と教えられていた才次郎さんはその教えに従い、才次郎の大刀は馬上の長州藩の白井小四郎さんの脇腹を一突きにします。
しかし、どよめく周りの長州兵に対して、「殺すな、殺すな」を繰り返す小四郎さん。
戊辰戦争に於いて、薩長の兵のやることなすこと鬼のように語られていますが(二本松の少年たちの首が斬られて盃に飾られ、酒の肴にされる、という話など)、一方で歴史を丁寧に紐解いていくと、そうではない一面も見えてきます。
実際この小四郎さんは、二本松に今も眠っています。
そしてこの日、藩内の重臣らが最後まで踏み留まって、城楼に火をかけて自刃して国難に殉じたことで二本松城は落城します。
同日、越後の長岡城もついに陥落し、新潟港は薩長連合軍に占領されます。
つまり、会津に薩長連合軍が踏み込むのはもう秒読み段階です。
西郷さんは死を覚悟しつつ、戦場に赴くことを千恵さんに告げると、千恵さんも武家の女ですからその辺りの勝手はよく理解しておられて、「おなごばっかりでも、旦那様の名を辱めるような真似は致しません」と応じます。
後に西郷一族の有名なあの惨事への伏線ですね・・・。
女子供、老人は戦力外になるので城方の荷物になる、籠城時は兵糧を人数分食い潰すだけ、ということが、彼女たちにあの道を取らせることになるのです。
一方で着物の裾が絡げるのも気にせず、一心不乱に走っていた八重さんが日新館に行くと、そこには二本松から逃れて来た少年たちの姿が。
八重さんが鉄砲を撃つときに目を瞑らずに的を見ていられるように、と達磨をあげた篤次郎さんも、瀕死の重体で、最期は八重さんに看取られるのですが、篤次郎さんが亡くなったのは、本町称念寺の仮設野戦病院です。
銃弾が腹部貫通してる状態で、会津の日新館と思しき場所まで行けるわけないでしょうに。
と、あまりの捏造ぶりに、涙を流すべきシーンなのでしょうが、やや興ざめしてしまって・・・。
何だろう、今週はそういう意味でちょっと雑っぽさが目立った回だったような気がします。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年6月14日金曜日

第23回「会津を救え」

三郎さんの戦死と覚馬さんの消息不明の報がもたらされ、あの桜の大樹に上って思い出をなぞる八重さんから始まりました、第23回。
やがては八重さんもあの桜に背中を向けて故郷を去る日が来るのですが、三郎さんや覚馬さんと違って、八重さんは会津に永訣するのではありませんけどね。

慶応4年4月11日(1868年5月3日)、江戸城の明け渡しが平和的に行われ、東征軍の矛先はいよいよ会津へと向いていくことになります。
会津には会津五街道というのが御座いまして、白河を経て江戸に向かう「白河街道」、猪苗代を経由して二本松へ向かう「二本松街道」、喜多方経由で米沢に向かう「米沢街道」、新発田に抜ける「越後街道」、大内・田島経由で下野国に向かう「下野街道」がそれに当たります。

薩長連合軍は、白河口・日光口・越後口の三方から会津に迫ります。
大蔵さんは日光口の守備を命ぜられていたのですが、3月18日(1868年4月10日)、奥羽鎮撫総督九条道孝さんら一行が大坂から仙台上陸したとの報せを受け、急遽城下に引き返します。
荒天で当初の予定だった松島には入港出来ず、その隣の東名浜への上陸となりました。
道孝さんの他には、副総督の沢為量さん、参謀の醍醐忠敬さん、下参謀の世良修蔵さん(長州藩士)、大山綱良さん(薩摩藩士)、その他薩長と筑前の兵が五百余り。
京を発つ前は、総督が沢為量さん、副総督が醍醐忠敬さん、参謀が品川弥二郎(長州藩士)でしたが、2月26日に総督が道孝さんに変更されたことにより、副総督と参謀が上記のようになりました。
その時点で下参謀は弥二郎さんと黒田清隆さん(薩摩藩)だったのですが、下参謀の方も世良さんと綱良さんに変更となったのです。
彼らを出迎えたのは仙台藩重臣三好監物さんで、京で薩長幹部と面識を持っていたこともあり、仙台藩の中では薩長寄りの人物でした。
「仙台藩一手で会津を落とす」と豪語したのも、この人あたりじゃないのかなぁ・・・という憶測はさて置き、21日に松島を見学した奥羽鎮撫使一行を、仙台藩主伊達慶邦さんが観瀾亭で出迎えます。
宿舎は仙台藩藩校の養賢堂。

奥羽の賊徒は奥羽に討たせる。それが大総督府のお考えじゃ

不敵に笑ってそういう世良さんは、天保6年7月14日(1835年8月8日)のお生まれですのでこのとき33歳、数えで34歳。
新選組副長の土方さんや、容保様、生きてたら坂本龍馬さんらと同い年です(天保6年生まれって凄いメンバー・・・)。
話が逸れました。
言われた慶邦さんは、困惑しつつもそれを受け容れます。
ですが、仙台が会津を討つ理由はありません。
仙台だけでなく、奥州諸藩何処にもそんな理由を持ってる藩はありません。
自分たちの手を汚さずして会津を討伐させようとする奥羽鎮撫使の言い分に不快を感じる方もおられるかもしれませんが、これは第一次長州征伐で幕府が長州に、長州の家老首三つ差し出させたのと同じ指針ですね。
決断に迫られる仙台藩を余所に、世良さんは杯に桜の花びらが降ってきたことに気付き、何もかんも遅れた土地よ、とぼやきます。
季節も、改革も、ということでしょう。
そもそも「陸奥」という言葉からして、本当都視点の物の見方だよなぁ、と思わずにはいれないのですが・・・。
しかし、弁護させて頂くなら仙台藩は軍制改革に慶応年間には着手していました。
江戸屋敷では足軽に銃式訓練を行うなど洋式部隊の育成は行われていましたし、ミニエー銃の購入だけでなくライフル導入の動きもあったそうです。
軍艦揃えに関しては、東北諸藩随一でした。
けれども先立つものが無くなって中断してしまっていたのです(確か。支払いは国産の生糸でされていたような・・・)。
そう言う事情はあるのです、結果が着いて来てないだけで、動きそのものはあったのです。

陸奥に桜かりして思うかな桜散らぬ間に軍せばやと

と、世良さんは得意げに戦を嗾けるような歌を詠みます(ちなみにこの歌を世良さんが詠んだのは宿舎ではなく、城下の「梅林亭」というところです)。
ドラマでは触れられませんが、世良さんがこれを詠むと、同席した兵士も「竹に雀を袋に入れて後においらのものとする」と詠んだそうです。
言わずもがな、「竹に雀」は伊達家の家紋です。
世良さんについては傲慢で傍若無人を気取った悪人、という評価が抜けず、しかし一方で再検討の余地ありとされていますが、少なくともこの歌のやり取りからは従来の悪人イメージしか浮かんでこないですね。
こんな歌を目の前でやりとりされちゃあ、仙台藩士もそりゃ黙っていられませんよ。
しかし、そんな世良さんを「地獄の使者」と公式で言ってしまうのは如何なものかと思わなくもないのですが・・・。

三郎さんが亡くなった悲しみを、少しずつ乗り越えようとする八重さんに対して、うらさんは覚馬さんの消息不明の報から未だ立ち直れません。
そこで八重さんはうらさんを、黒河内道場に引っ張って行きます。
そこでは先頃江戸から戻った竹子さんの妹の優子さんたちも加わって、いつも通り薙刀の稽古がされていました。

みねも、そろそろ薙刀を始める頃だ。家で手解きすんのは姉様の役目だなし。それまでに腕を磨いておがねぇと。思いっきり振ってみなんしょ。体が動けば、心も一緒に動ぎ出しやす。縮こまっていでも良いごどは何もねぇ

そこへ、「毛巻」という未亡人の髪型をしたお雪さんが姿を現します。
喪は明けてないが、何もせずにいては修理さんに申し訳がないと。
消息不明の覚馬さんと、無実の罪で腹を斬った修理さんとでは温度差はあるでしょうが、それでもそんな風にして夫を亡くしたお雪さんの姿勢に、うらさんも励まされたように気力を取り戻します。

やってみんべ・・・みねは、旦那様がらの大事な預がりものだ。強い会津のおなごに育てねぇど、後で旦那様に叱られっつまう

うらさんが、覚馬さんを「死んだ」ものだと思っているのなら、この「後で」は「自分もあの世に行ったときに」という意味になりますね。
悲しみと向き合うことが出来たうらさんですが、さらっと言ってる言葉の意味は深いです・・・。
しかし八重さんは、覚馬さんはきっと生きていて、いつかまた会えるからと希望を囁きます。
確かに生きてはいますが、会えるのは八重さん達だけで、うらさんとは・・・と思うと、この励ましの言葉は途轍もなく切ないものに聞こえます。

4月11日(1868年5月3日)、勝さんは上野寛永寺の慶喜さんを訪ねます。
この日、慶喜さんは江戸を離れ、水戸へ退隠することになっていました。
暫く見収めになる江戸を見て、慶喜さんが思うのは「徳川十五代将軍慶喜」のこと。

わしの将軍職は、都で始まり都で終わった。幕府を潰した汚名と共に

確かに「汚名」ではあるでしょうが、そのまま変に慶喜さんが幕府やら将軍職やらに固執してしまっていては、それこそ日本中を戦場にしかねない大規模な戦に発展しかねず、それが終結しても戦後の弱体化した隙に西洋諸国に付け入れられ、日本の国力は弱体どころか、何処かの国の属国扱いになる可能性もなきにしも非ずであったわけでして。
そういう長い目で慶喜さんのいう「汚名」を見ると、「汚名」でもないんですよね。
寧ろ慶喜さんが退いてくれたからこそ、どうにかなった部分も大いにあると言えなくもなく。
だからといって、日本全土での戦の代わりに東北諸藩が犠牲になって良かったのだという気は勿論ありませんよ。
ともあれ、慶喜さんにはいま「汚名」が重くのしかかってるんですよね。
264年続いていたものを終わらせてしまったこと、終わらせたが故に、色んな問題が生じていること。
何より慶喜さんが辛いのは、その汚名の苦しみを吐き出して分かち合える人が、自分の傍にいないことではないでしょうか。
勝さんに「そなた、これまで誰に仕えて来た?」という問いかけも、そういう孤独感の部分から生じたものではないかと感じました。
しかも勝さんは、先代の家茂さんには仕えていましたが、慶喜さんには「仕えていた」と言うよりは、「幕臣として徳川幕府に仕えていた」部分が大きい。
口では「上様に」と答えてくれても、本音は違う。
それが分かっていてもなお、口からぽろりと零れてしまった言葉ですね。

大勢の者が幕府に仕えていた。・・・だが、わしに家臣がいたろうか。会津のように、君臣一体となる家臣が・・・

元々一橋家には譜代の家臣はいませんし(人材が徳川家から出ているような家ですので)、慶喜さんの側近は次々に暗殺されて行ってます。
だからこそ一会桑政権という名のもと、容保様や定敬さんを傍に置いてたのでしょうね。
大切にしていたかどうかは兎に角(そこで大切にしないから、慶喜さんは色々と言われちゃうんでしょうね)。
でも今、幕府がなくなって、汚名は着せられましたが同時に慶喜さんは孤高からも解放されたことになる。
後に駿府に隠居した彼が、カメラなり自転車なり釣りなり、悠々自適な生活を送るのは、孤高から解放された反動部分だろうなと思います。
そんなこんなしている内に、慶喜さんの出立時刻になります。

これで徳川は残り、江戸も戦火を免れた・・・では、会津はどうなる・・・。いや・・・良い・・・

そもそも会津が今の立場に追い込まれてしまった諸々の原因の、半分くらいを作り出してしまったのはこのお方なわけですが、薩長の矛先を江戸・徳川から会津・奥州方面へ向けさせたのは慶喜さんの指示によるものではなく、勝さん達なので、罵倒はしないで上げましょう。
矛先が自分達から逸れたことで、会津がどうなるのか、慶喜さんも馬鹿ではないので分かってはいたでしょうが、分かっていたところで退隠する彼には何も出来ない。
逆に「前徳川将軍」の自分が下手に動けば、折角の無血開城も、それに骨を折ってくれた人の努力も、全て水泡に帰す事態を呼び起こしかねません。
だから、黙ってることしか選択肢がなかった。
しかしそんな慶喜さんの代わりに黙ってなかったのが、旧幕府軍歩兵や榎本さん率いる旧幕府海軍の皆様です。
歩兵は開城直前に江戸を脱走しますし、ご存知、榎本さんは戦闘力にならない船は引き渡しに応じましたが、残る軍艦を率いて北上します。
此処から先約一か月間は、江戸周辺から北関東エリアで、旧幕府軍歩兵と東征軍の攻防が繰り広げられることになります。
上野戦争も、有名な伊庭八郎さんが、三枚橋で左手首の皮一枚残して斬られたのも、宇都宮城の戦いも、全てその期間に起こった出来事です。
江戸城無血開城の「無血」が、如何に限られたエリアでしかない「無血」だったのか、お分かり頂けるでしょうか。

さて、会津を攻めるか、理由なき戦は避けるか、決断に迫られた仙台藩。
(実は世良さん達が来る前に仙台藩は会津に使者(玉虫左太夫さんと若生文十郎さん)を送って容保様と対面させ、「会津は降伏するべし」と言う意見を述べさせていたような・・・)
そこで主席家老の但木土佐さんは、世良さん達の意向に沿って会津国境に出兵しました。
ただこれは「会津を攻める」という意味ではなく、仙台の意思表示ですね。
会津を討ちたくない、でも出兵だけでもする振りをしなければ自分たちが睨まれる、戦も避けたい、だから降伏してくれよ会津、といったものでしょうか。
その証拠に、向かった兵は1000人くらいだったのですが超スロー行軍で、戦意何てまるでなし。
藩主の慶邦さんも直々に白石城にまで入ってますが、体裁のみの出陣だということがよく分かります。
通称「八百長戦争」と呼ばれるこの会津VS仙台の戦は、「空砲を撃つから貴藩も空砲で」と真面目に空砲を撃ち合って戦の真似事をしてたのですが、その内どちらも実弾を使うようになって、でもお互い狙いを明後日の方角にしていたのでひとりの死傷者もなかったのです。
この部分が、会津に訪れていた但木土佐さんの「国境まで兵は出すたが、仙台に会津と戦うつもりは御座らん」ということだと。
その場には米沢藩の木滑要人さんもいます。
平馬さんいわく、容保様は恭順第一の考えであるとのことですが、実際の会津藩を見るとどうにもそうだったようには見えないのですよね(苦笑)。
但木土佐さんに、鳥羽伏見の首謀者の首を三つほど差し出すほどの覚悟で臨まなければいけないと言われても、それは曲げられないと言いますし。
妥協点がなかなか一致しなかったのですね。
しかしそうなれば、仙台藩は今度こそ八百長戦争などではなく、殺し合いの覚悟での戦を仕掛けなければなりません。

その時は全藩挙げて、死を以って国を守るのみ!・・・どうしても首がご入り用ならば

そういって平馬さんは、着物の前を肌蹴させ、自分の首を総督府に届けてくれと脇差を抜きます。
そんな平馬さんを宥めるように、自分達だって会津を助けたいし、会津に討たれる理由も罪もないことは奥州諸藩承知の事実だと但木土佐さんは言います。

総督府の意のままになっては、奥羽の血は踏み躙られまする。これは決して、会津一国のことでは御座りませぬ

取り成しを願う悌次郎さんに続いて、尚之助さんもそう頭を下げます。
会津征伐は、何も会津個人の問題ではなく、奥州全体の問題ではないか、と言ったのですね。
まあ、黙って会津だけが攻撃されているのを見過ごすというのは、奥州諸藩のプライドの問題としては関わって来るでしょうが、実害的な面で見る限り決してこれは奥州全体の問題でもない気がするのですが・・・。

一丸となれば、総督府も無理強いは出来ぬものと存じます

尚之助さんはそう言いますが、逆です。
結果論からになりますが、一丸となったら薩長連合軍に警戒心持たれて当然なんですよ、「あ、こいつら反抗心満々だ」って。
会津を焼かないためには、周囲の諸藩と同盟など結ばず、会津単独で交渉を続けなければならなかった。
それこそ江戸城がそうしたように、只管恭順恭順恭順と、その姿勢を貫き通さねばかなわぬことです。
後は諸外国の目を一応気にしてる新政府の状況を逆手にとって、勝さんが「新政府ってこんなに国際法無視したことしてるんですよ」と耳打ちしたように、会津もそうした手段をひとつの方法として取るべきでした。
まあ結果論からの意見ですので、当事者の会津からすれば「こんな仕打ちを受けて黙っていられるか」となるのは人間の感情的に当然の流れです。

一方で会津は薩長連合軍の侵攻に備え、国境に兵を置くことにします。
白河方面総督には西郷さん、越後口には官兵衛さん、日光口には再び大蔵さんがそれぞれ命ぜられます(先程の図を参照)。
新選組もまた、西郷さんに従って白河への出陣を命ぜられます
このとき新選組の局長、、近藤勇さんは既に薩長連合軍に捕らわれていて、板橋で斬首されています。
よって率いていたのは副長である土方さんなのですが、彼もまた宇都宮の戦いで足の爪先を負傷し、白河での新選組の指揮は斎藤さんに任されます。
それはさておき、この白河方面への人選は大問題です。
会津藩単独ではなく、仙台藩なども含めた連合軍として白河防衛に当たるので、総督はそれなりの家格が必要だったのは分かりますが、西郷さんは戦場経験に全く乏しいを通り越して皆無です。
「家格がなければ纏められない」という配慮の元、容保様のこの人選采配だったのでしょうが、洋式調練に着手しても会津の国教である朱子学がそれを阻んでいた感じでしょうか。
(それにしたって、恭順派だった西郷さんが何故選ばれたのか諸々、謎なのですが)
現場(この場合は戦場)のことを何ひとつ知らない人間に任せるとロクでもないことが起こるのは、今もそうですがこのときだって同じです。
で、ロクでもない事どころか痛恨の出来事が起こってしまうのですが、それは後に筆を譲るとして、退室した土方さんは斎藤さんと、薩長連合軍に出頭した近藤さんのことを話します。

奥羽でもう一戦出来たというのに・・・敵陣に出頭するなぞ、馬鹿なことをした・・・

近藤さんが流山で出頭したのは慶応4年4月3日(1868年4月25日)、板橋で斬首されたのは4月25日(1868年5月17日)です。
容保様は土方さんに、領内に近藤さんのお墓を建てて供養してやれと言います。
会津若松市に現在もある天寧寺がそれですね。
鳥羽伏見で惨敗し、共に歩んできた近藤さんを喪って、土方さんはひとつのことを悟ります。

斎藤
はい
刀の時代は、終わったな

そう零す土方さんは、すっかり洋装に身を包んでおります。
現在残っている有名なお写真そのままのお姿なのですが、何故か髪はまだ総髪のままという絶妙な中途半端さ・・・(スカーフは百歩譲りますが)。
徹底的に洋装化土方さんにさせなかったのは、何か意味があるのかな?と暫く考えてみましたが、意図が掴めませんでした(苦笑)。
去って行く土方さんの背中をじっと見送っていた斎藤さんは、ふと鈴の音のようなものを聞き、音のする方へ歩いて行きます。
するとそこにいたのは、三郎さんの月命日のために花と香を手向けていた時尾さん。
ちなみに時尾さんは、照姫様の侍女22人中8番目の地位なので、結構上位侍女だったんですね。

一緒に、供養させて貰えぬか。・・・俺にも、弔いたい人がいるのだ

そう声を掛けた斎藤さんですが、これは・・・近藤さんのことでしょうね。
もしかしたら、鳥羽伏見で亡くなった他の隊士たちのことも含まれていたのかもしれませんが。
暗い展開が続きますし、これからも暫く暗い展開は避けられませんが、その暗さを抜けた時にこの並んで手を合わせた二人が夫婦になるのだなと思うと、少しだけ救われる心地がします。

薩長連合軍の討伐の対象は、実は会津だけでなく、庄内藩もまたその的に絞られていました。
4月7日(1868年4月29日)には、薩長連合軍は秋田藩に対して庄内征伐を申し渡しており、討伐の理由も関東へ落ちた慶喜さんの恢復を主張したことと薩摩藩邸への砲撃及び焼き払いの二点が罪状として取り上げられたのです。
しかし徳川家譜代随一の御家である庄内藩が、慶喜さんの弁護に入るのは罪状に挙げられるような程の事でもない気がしますし、薩摩藩邸のことに至っては完全に薩摩だけの物事の考え方です。
要は一方的且つ不十分な理由での罪状を庄内藩は着せられたのですね。
そういった流れから、必然的に会津は奥州のどの藩よりもまず最初に庄内藩と連携を取ることになります。
4月10日(1868年5月2日)には会庄同盟が結ばれています。
庄内藩はそこで、まず米沢を説得しようと会津に持ちかけます。
奥州雄藩二藩の内のひとつである米沢を同盟の輪の中に入れられれば、残りのひとつである仙台もこれに加わり、そうなれば奥州諸藩の同盟も成立し、軍事的提携を図って薩長連合軍に対抗出来る、と。

白石に奥羽二十五藩のご重役が集まって、会津救済の嘆願書に署名されたようだ

と権八さんの言葉に至るまでの背景には、実は会津と庄内のそういった動きがあったんですね。
白石に奥州諸藩が集められた、所謂白石会議が行われたのは閏4月11日(1868年6月1日)のこと。
翌12日、仙台藩主の伊達慶邦さんと米沢藩主上杉斉憲さんは岩沼で奥羽鎮撫総督の道孝さんに拝謁し、容保様の伏罪と寛典を望む嘆願書を提出します。
奥州諸藩のこの動きは、奥州列藩同盟と呼ばれるものです。
これまた結果論になりますが、会津と庄内の連携が戊辰戦争の拡大を決定づけることになってしまったのですよね。
権八さんが言うように、「そもそも会津には、何も何も非はねぇんだ」というのは事実ですが、その事実を守ろうとしたが故に戦火が拡がってしまったのもまた事実。
しかし八重さん達にすれば、自分たちの藩の受けた理不尽さを理解して、協力してくれる人たちがいるというのはこの上ない喜びでしょう。
まあ、歴史の当事者と、歴史の結果を知る人間の間に生じる温度差というものですね。
ちなみに奥州列藩同盟の盟約書は、決して総督府を否定しているのではなく、総督府の下に列藩集議の同盟を位置づけています。
総督府と対抗する形で同盟を起こした、のではなく、総督府の下で同盟を維持し、大義を天下に訴えていくことが奥州列藩同盟の趣旨です。

同盟軍となった米沢から会津に、米沢藩士43名が砲術修行としてやってきます。
米沢は洋式銃の導入は早かったものの、大砲の導入は遅れていたので、会津の山本家を頼って来たのです。
その中の一人に内藤新一郎さんという方がいるのですが、彼は会津戦争が終わった後、八重さんや山本家一家と縁のある人なので、記憶の片隅に留めておきましょう。
それはさておき、近代化が遅れていたとはいえ、いざという時に共に戦う同盟軍が新式銃の扱い方を全く判っていないというの、尚之助さん表情には出してませんが肝が冷えるものもあったのではないでしょうか(苦笑)。
角場が賑やかなのは久し振りと、八重さんは懐かしさに表情を和らげておりますが、その辺りの危機感の欠如は相変わらず・・・。
奥州列藩同盟が安心感を与えているのでしょうか。
・・・しかしその奥州列藩同盟による嘆願書は、総督の道孝さんは列藩同盟の正義を認めていた節はあるのですが、閏4月17日(1868年6月7日)に却下されます。
ドラマでは世良さんが正しく聞き耳を持たないという感じでしたが、実際には秋田にいた大山格之助さんが「仙台と米沢の藩主を京または江戸に呼び寄せて、奥羽事情が沈静化するまで現地から切り離してはどうか」という提案があり、世良さんも考えを変えたのです。
世良さんは嘆願書を京へ送り、自らも上京して太政官の判断を受けるという手紙を大山さんに宛てたのですが、この内容が暴露されて奥羽諸藩の怒りを買うことになります。
「奥羽の情実を篤と申し入れ、奥羽皆敵と見て、逆襲の大策に致したく」というような一文が、怒りの原因となったのでしょう。
しかしもう少し手紙は続いてまして、「嘆願を認めてしまっては、奥羽は二、三年の内に朝廷のためによからぬことになる」という内容もあったのです。
折角慶喜さんがあっさり引いてくれて、国を真っ二つに割るようなことをせずに済もうかという矢先に、奥州に決起されたら困るのです。
なので、見過ごすわけにはいかない、割るつもりなら割らせないために新政府としても武力を以って平定する、という新政府側の事情がすっぽり抜け落ちた描かれ方でしたね(汗)。
閏4月19日(1868年6月9日)、白河から福島に戻った世良さんは、宿の「金沢屋」に入り、福島藩御用人の鈴木六太郎さんに大山さん宛ての手紙を「送っといてくれ」と渡します。
そこから、暴露となったわけですので、世良さんも不用心と言えば不用心でしたね。
上記でも触れましたが、手紙の内容は奥州諸藩の怒りを買う内容でしたので、福島藩もその例外に漏れず、その夜に世良さんは仙台藩と福島藩の兵に襲われ、阿武隈川の河原で斬首されました。
世良さんが斬られたことで、最早薩長連合軍と奥州との戦は避けられない事態となります。
西郷さんは、総督府が奥羽を討つ口実が出来た、と呟きます。
世良さんの暗殺とそれに至る経緯については、私もこのブログを書くためにあれこれ書物に目を通すまでは世間一般で流布されている世良さん像を思い描いていたのですが、どうやら書物などで調べてみると、様々な議論がなされているようです。
つまり、「殺されて当然の振る舞いをした人物」「薩長連合軍からすれば口実づくりの捨て駒だった」などなどではない世良さん像というのも提唱されておりまして。
その辺り、現時点で勉強不足と時間不足なので深く追求出来ておらず、あれこれとご紹介出来ないのが心苦しいのですが、あのドラマの描かれ方の世良さんだけではない、ということは伝えておきたいなと思います。

薩長連合軍に宣戦布告をした奥州越列藩同盟は、白河城を会津と仙台兵が占領し、守りを固めさせます。
会津は大平口、勢至堂口に派遣していた軍勢を再編成し、仙台も会津との国境に布陣させていた兵を再編成し、合計2500人ほどの軍勢が白河に布陣しました。
総督は西郷さん、副総督は横山常守さん。
戦略の何も知らない、実戦経験皆無のこのふたりが指揮采配を振るう位置にいるというのは、先ほども少し触れましたが非常に宜しくないことです。
本気で白河を守って、勝とうとするなら、色々と無理を承知で大蔵さんか官兵衛さんを呼び寄せるべきでした。
気力や家格じゃどうにもならないことがあるんです、戦は水物なので。
まま、それで白河口の戦い。
ドラマではあまりにあっさり描かれていましたが、実際は約百日に及んでこの場所での攻防が繰り広げられていました。
薩長連合軍は閏4月18日から20日にかけて、白河攻撃のために大田原に集結します(下図の白坂)。
その数約700。
味方の目印として、薩摩は左に赤い布を、長州は白い布を身に着けていたようです。
まず戦闘が起こったのは閏4月24日(1868年6月14日)。
この時点では総督の西郷さんも、副総督の横山さんもまだ現地に到着しておらず、迎撃は新選組の斎藤さんを先鋒に行われ、この初戦は敵を撃破するという、負け戦どころか大戦果を挙げました。
参戦していた長州兵の証言によりますと、寄せ手の長州の武器は前装式だったのに対し、迎え撃つ仙台兵の一部は新潟から届いたばかりの後装式の銃をしようしていたそうです。
よく言われている「長州側は最新銃、列藩同盟側は旧式銃」というのは、つまり嘘だということですね。
勿論初戦で大勝利を挙げたのですから、白河を守る同盟軍の士気は高いです。
しかし次に薩長連合軍に寄せられた時、同盟軍は大惨敗を喫します(この部分がドラマで描かれてた部分ですね)。
何が起こったのか、初戦勝利で油断したのかと言えば、そういうわけでもなく、どうやら初戦勝利後に総督の西郷さんが前線入りしたことが原因の一つだったみたいです。
斎藤さんは「兵力を分散させて機動性を持たせるべきだ」というのに対し、西郷さんは「兵は白河に集中させて迎え撃つ」と主張します。
現実と照らし合わせて考えれば、つまり白河城の構造や規模を鑑みると、砲撃してくる相手に対して耐え得る城でないことは一目瞭然です。
だって、周りに小高い山が多いので、そこから撃ち込まれたら集中砲火を食らいます(実際食らいました)。
鳥羽伏見の死線を掻い潜って来た斎藤さんには、その辺りのことが経験として分かっていたのでしょうね。
しかし、これが通らないのですよ。
何せ西郷さんは総督で、会津藩のご家老です。
ここに人事の致命的さが出て来ます。
一方、一度目に手痛い大敗北を喫した薩長連合軍が、次なる攻撃に備えて何をしていたのかと言えば、司令官の伊地知さんは綿密に白河の地形を調査し、図面に書き起こして作戦を練っていました。
あらゆる情報を集めた伊地知さんは、「同盟軍の連携は不十分で、機動力に欠ける」という結論を出し、白河を包囲して攻めるという手段に出ます。
攻め手を三隊に分け、左右の二隊は間道を進むので地元民を道案内に採用したそうです。

(扇アイコン=大砲の数、赤は薩長連合軍、青は同盟軍)
「機動性に欠けるから」という結論の下に実行されたこの包囲作戦ですが、斎藤さんの「同盟軍に機動性を持たすべき」の意見が通っていたら・・・と思わずにはいられません(たらればで歴史を語ってもどうしようもないですが)。
5月1日(1868年6月20日)早朝、右翼隊、左翼隊、中央隊の順番で、それぞれ白坂から出陣していきます。
中央隊が一番最後に出たのは、一番時間のかからないルートを通って行くからでしょうね。
ここで薩長連合軍の包囲作戦の成否は、同盟軍に気付かれないかどうかです。
気付かれてしまったら包囲出来ませんから。
しかしながら、5月1日は新暦で考えれば分かり易いのですが、梅雨の真っ最中。
折しもこの日も土砂降りの雨という悪天候で、しかも同盟軍は斥候も何も出していませんでしたので、薩長連合軍の進軍は順調でした。

まず右翼隊が同盟軍に遭遇することなく合戦坂に到着し、ここで同盟軍と遭遇したのですがこれを撃破し、雷神山方面へ進軍を続けます。
雷神山を守っていたのは会津藩二小隊と仙台藩瀬上主膳さんの大隊でしたが、守りを手薄にしていたことからあっさり占拠されてしまいます。
ドラマでも「西の雷神山が敵に奪われました」と西郷さんのところへ伝令が走っていましたよね。
左翼隊も進軍も順調で、会津藩の日向茂太郎さんら二小隊が立石山を砲二門据えて守っていたのですが、じりじりと押されてここも落とされてしまいます。
立石山には七つの堡塁があり、そう簡単に落とせる場所ではなかったのですが、日向さんが狙い撃ちにされたところに薩摩五番隊の野津鎮雄さんが斬り込んで来たのが混乱を呼んだそうです。
中央隊が迫った稲荷山には、斎藤さんたち新選組や、会津と仙台の精鋭兵が布陣していましたが、大砲と小銃を乱射され、且つ十二ドイム臼砲の榴弾も撃ち込まれるので、屍の山を築いて同盟軍は撤退します。
会津の横山さんが命を落とされたのは、この稲荷山での戦いの最中です。
こうして二度目の白河攻防戦は、同盟軍の大敗北という結果に終わりました。
伊地知さんのやっていたことを見るに、銃器の装備が云々というよりは、如何に戦術・戦略がものを言うか、ですね。
孫子曰く「彼を知り、己を知れば、勝、乃ち殆うからず。天を知りて地を知れば、勝、乃ち窮まらず」、は偽りではないのです。
さて、白河が薩長連合軍の手に落ちた後も、暫く白河での同盟軍による奪還戦が、実に七回以上も続いたのですが、一度も成功しませんでした。
こうなると同盟してくれている仙台藩兵に厭戦気分が漂い、厭戦気分が起こると気持ちがばらばらになり、会津は追い込まれる立場になります。
つまり、ドラマではあっさり流されてしまった感のある白河での敗戦は、会津にとっての痛恨の出来事だったのです。
また、それだけ長い間奪還戦を繰り返していたので、周辺の農民への被害も大きく、中には田植えも満足に出来なければ家も巻き添えで燃え、或いは薩長連合軍に家を占領されてしまったなどという証言も残っています。

その頃、官兵衛さんは長岡藩の家老、河合継之助さんを訪ねていました。
継之助さんは文政10年1月1日(1827年1月27日)のお生まれですので、このとき41歳、数えで42歳。
そしてご存知、代名詞といいますか、彼と言えばガトリング砲です。
彼は慶応3年(1867)に長岡藩江戸屋敷引き払いの際、藩主の家宝などを売却してお金を作り、そのお金でファーブル・ブラントさんからガトリング砲を二門買いました。
合計6千両と言いますから、ガトリング砲ひとつは千両箱三つ分の価値ということですね・・・。
ちなみに継之助さんが購入したガトリング砲は口径1インチの6銃身。
この頃は日本に三門しかなく、その内の二門を長岡藩が所持していたことになるのですが、当時世界的に製造されていたガトリング砲の口径は0.5インチの10銃身だったので、旧型みたいなのだったということになるのでしょうかね。
継之助さんは、「越後五藩と共に奥羽同盟に加わりますがいや」と仰ってましたが、ちょっとこういわれると違います。
米沢藩が北越の諸藩にも同盟一致を求め、新発田・村上・黒川・三日市・村松の五藩は総督府に嘆願書を出すのですが、総督府の出頭には応じず、なし崩し的に同盟の一員となって行ったのです。
ともあれ、これら奥州北越諸藩31藩による「奥州越列藩同盟」が5月6日(1868年6月25日)、新たに締結されます。
奥州列藩同盟が、会津・庄内両藩の嘆願目的の同盟なら、奥州越列藩同盟は、嘆願を受け入れなかった薩長連合軍に対する軍事同盟です。
奥羽越列藩同盟の名目的な盟主は、上野戦争を逃れてきた輪王寺宮さん(明治天皇の叔父)は、以下のような令旨を述べています。
薩摩は先帝の遺訓に背き、幼帝を欺瞞し、摂関幕府を廃し、表に王政復古をとなえながら陰で私欲逆威を逞しうしている。しかも百方工作をし、幕府及び忠良十余藩に冤罪を負わせ、軍を起こした。ために世情騒然、道義は墜ち、大逆無道、千古これに比すものはない。よって匡正の任を同盟諸藩に託す。宜しく大義を明らかにし、兇逆の主魁を殄し、幼帝の憂悩を解き、下は百姓の塗炭の苦しみを救うべし。(星亮一、1995、奥州越列藩同盟、中公新書)

しかし、既に会庄同盟締結の時点から新政府への武力抵抗の姿勢をチラつかせていた会津と庄内、そしてそれを救解しようとした(そしてそれぞれに目論見は持っていた)仙台と米沢、嘆願同盟のつもりで加盟したのにいつの間にか同盟が攻守同盟になっていたといういくつかの諸藩。
その他、色んな藩がこの奥州越列藩同盟に名を連ねているのですが、読んで頂いてお分かり頂けるように、スタートの時点からして同盟に対する認識や立場(意欲的な藩もあればなし崩し的な藩もある)にばらつきがみられるのです。
つまり纏めますと、奥州越列藩同盟は色んな不安定なものを含んだ上で結集された同盟だということです。

白河が薩長連合軍の手に落ちたという方は、会津に暗い影を落とします。
尚之助さんの下には、戦場から戻ってきた故障した銃がいくつも運ばれてきますが、どれもこれも旧式の銃ばかり。
同盟は良いとして、中身が完全に着いて来てない現状を悟ったのでしょうか、尚之助さんの表情も冴えません。
何より白河を敵に取られたということは、会津の喉元に刃を突き付けられているも同然。
刃はそこに迫っているのに、迎撃体制が今の会津では整っていません。
この後いよいよ会津城下に戦火が迫った時、会津が籠城するのは皆さまよくご存知のことだと思うのですが、白河にまで刃を突き付けられていながら、何故城下の民草への対処をこの時点からでもいいから打っておかなかったのか、その辺りはちょっと謎といいますか、いくら何でも動作が遅すぎると言いたいのですけどねぇ。
これは結果論からの物の見方ではなく、会津が城下の危険予知が出来たか出来なかったかの観点からの意見です。

その頃、獄舎内の覚馬さんは戦火に晒された鶴ヶ城と城下の悪夢に魘されます。
これが会津では確定未来として間もなく用意されているのですが、少なくとも覚馬さんには薩長の牙が会津に向けられたらどうなるのか分かっていただけに、会津は、自分は、一体何処で間違ったのだと自問し始める覚馬さん。

象山塾で、都で、長崎で・・・世界を見ようどして来た。十年後、百年後に続ぐ豊かな道を探すはずだった・・・それが、会津はいま滅びる道を進んでる・・・

一体何をして、何をしないべきだったのか。
結果論から物事を語れる後世の人間でない限り、神様でもない歴史の当事者の覚馬さんがいくら自問してもそんな答えが出てくるはずがありません。
使い古された表現を使うのなら、それが「時代」というものなんですよね。
ですが、それが「時代」というやつだと言われて、覚馬さんが納得出来るはずもなく・・・。
なまじ物事が見えていただけに、傍観者サイドから動けない覚馬さんは本当もどかしかったことでしょう。

俺には何も出来ねぇ。こんな時に、何も

そんな風にして無力感に苛まれる覚馬さんの耳に、九年前にこの世を去った寅次郎さんの声が響きます。

天朝も、幕府も藩もいらん。ただ身ひとつで立ち上がれば良い!立ち上がれっ!

当たり前ですが、覚馬さんは寅次郎さんの今わの際に立ち会っていないので、これは寅次郎さんが覚馬さんに呼びかけている(?)と言った図式になるのですね。
寅次郎さんに濃く影響を受けた人たちが会津を攻めようとしているのに、その寅次郎さんに覚馬さんは鼓舞される・・・何だか不思議です。

立ち上がれ・・・そうが・・・まだある・・・俺に出来るごどが、まだ、一づだけ・・・

覚馬さんの目に再び生気が宿ります。
出来ることがあると、その「たった一つ」を見出してアクションを起こそうとする覚馬さんと、傷病兵の手当や看護など、現状で自分に出来ることをやって行こうとする八重さん。
遠く離れていても、兄妹似ているなと思いました。
しかし八重さんの場合は、出来ることをひとつずつこなして行ったその先に戦が口を開けて待っていて、自分もそこに飛び込む形で巻き込まれていくわけですが・・・。
そして来週の戦場は、二本松ですね。

追記と言いますか、以下は懺悔文(?)なのですが・・・。
今週のメインともいえる「奥州列藩同盟」と「奥州越列藩同盟」について、正直大河ドラマを観た感じ、で色んな部分削られ過ぎてるので、ブログでも何処から着手して良いのか分からない状況でした。
正直、列藩同盟だけでも本一冊が書き上がる情報量を有してます。
寧ろ、丁寧に説明し出したらそれくらいの文章量が必要なのです。
それでも割愛しつつ、唸りながら何とか粘って冗長ながらも記事に仕上げましたが、自分で読み返しても「分かり難いなぁ」と苦笑いを禁じ得ないものになってしまってます。
なので、分かり難いと思ったそこな御仁、図書館でも本屋さんでも良いです、いっぱい本が出てるので、そちらに目を通して下さい。
素人のブログ何ぞよりもずっと分かり易く書いてくれてますので!

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年6月7日金曜日

取捨選択という方法

坂本龍馬さんの背中に、馬の鬣のような毛が生えていたことは有名です。
ですが、例えば龍馬さん主人公のドラマを作るときに(過去に山のように作られていますが)この設定が絶対に必要かと言えば、別段触れても触れられなくても問題ないと思います。
(史実を知るファンとしては物足りないというのはさて置き)
しかしこの「馬の鬣のような毛が生えていた」設定が、ちょっと突拍子でもない譬えで申し訳ないですが、慶応2年1月23日に伏見寺小屋で襲撃された折、薩摩藩に救出されたときに
「こやつ本当に坂本龍馬か?」
「龍馬なら背中に馬の鬣のような毛があると言うが・・・」
「おぬし、背中を見せてみよ」
「とくとみるぜよ!この背中の鬣を!」
「おお、その背中の毛!おぬし、確かに坂本龍馬だな」
と言う流れで坂本龍馬さんを坂本龍馬さんだと足らしめる証明になったのだとすれば、これは「触れても触れなくても大局に影響がない」設定から、「触れられるべき設定」へと重みが変わります。
前置きが長くなりましたが、何が言いたいのかと申しますと、歴史ドラマで人物を描くとき、その対象人物の史実の情報(ここではあえて以下「設定」と表現させて頂きます)に取捨選択の必要も出てくるということです。
例に挙げました龍馬さんの背中の毛のように、龍馬さんの大局に影響しない設定ならば省いても問題ないです。
だって、その設定はなくても大局に影響を来さないのですから。
ですが、たとえば「龍馬さんは土佐脱藩浪士」という設定は、もし削ったら問題が生じることになりますよね。

そんな分かり切ったことを何故今になってこんなところでグダグダと言っているのかといいますと、設定を削られ過ぎて支障ないしは問題が出ている人物が「八重の桜」に出ているからです。
言わずもがな、それは覚馬さんのことです。
覚馬さんの設定に、「酒好き」「趣味は刀剣観賞」などがあるのですが、これは龍馬さんの背中の毛同様、削られても(多分)大局には影響を来さない設定に分類されると思います。
しかしながら、西周さんや横井小楠さんとの接点が、白く塗り潰したかのように削られているのは、覚馬さんの大局に支障どころか、視聴者の皆様の頭に上に「?」を乱舞させない事態まで引き起こしております。
第22回「弟のかたき」の中で、獄舎内の覚馬さんの口から「万国公法」と言う単語が飛び出しました。
正直視聴者さんの中には、「万国公法って何?」と言う人も少なくなかったでしょうし、それが何なのかを漠然と理解している人でも、あのドラマの中の覚馬さんが何故いきなりそんな言葉を使っているのか、ちょっとちぐはぐに映ったかもしれません。
以前の記事でも触れましたが、万国公法というのは「国際社会が遵守すべき法的規則と、理念として世界中の国家が平等である権利を有する」と説いた国際法律書です。
覚馬さんが西洋のものに接点があったのはドラマ内でも触れられていましたが、国際的な観念を持つ視点を設けるに至るには、あの描かれ方では溜めが弱すぎます。
後に覚馬さんは「近代日本のグランドデザイン」となったとまで言わしめる『管見』というものを提出するのですが、佐久間象山塾に言って、洋式調練を会津藩の中で推奨し続けて、上洛後は洋学所を開いて、長崎に短期間滞在して・・・というドラマの流れの中で培った経験値だけでは、『管見』は到底書けません。
以前の記事で、私は少しずつ『管見』を書ける覚馬さんに近づいては行っているものを、「弱い溜めのままで行くと、『管見』を書ける覚馬さんには到らないでしょう」と危惧しました。
その危惧が、どうやら弱い溜めを引き摺り続けられたことで現実味を帯びて来ています。
既に以前の記事でも指摘したことですが、山本覚馬という人物を描くのに、『管見』を出せばいいわけではありません。
どういう過程と経験を経て覚馬さんが『管見』に至ったのかに触れて行かなければ、山本覚馬という人物が不透明になってしまいます。
で、その過程と経験とは何ぞやとなった時に、挙げればきりがないのですが、何を差し置いてもこれは差し置いてはいけないというのが、西周さんと横井小楠さんの存在だと私は思います。
そして削られて問題が起こっている設定は『管見』に繋がることに限ったことではなく、明治の世になった時に繋がる人間関係や付き合いも、現時点では悉く抜け落ちています。

大河ドラマ50話という尺度の中で、設定の取捨選択は必須だということは理解しています。
それでも、大局にまで問題が出てくるようなところまで削ってしまうのは如何なものか、如何にかならなかったのかと、一視聴者のぼやきです。ひとりごとです。
折角スポットが当たったんですから、中途半端にぼやかしたまま終わらせて欲しくないという願望もありますがね。
50話すべてが無事に放送されたときに、覚馬さんのことを知らなかった人に、「良く分かんないけど覚馬さんって凄いことした人・・・なのかな?」ではなく、「覚馬さんって、こんな人だったんだ!」という感動が残って欲しいものですが、はてさて・・・。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年6月6日木曜日

第22回「弟のかたき」

京都守護職の任に就いてから五年ぶりに会津への帰路へ就く容保様から始まりました、第22回。

皆を置いて大坂を出たこと、今でも只々恥じ入るばかり

実際容保様は、自分だけが先に江戸に戻って来てしまったことを深く悔いておられて、修理さんが切腹する前に藩士に頭を下げて謝罪したようです。
そんな容保様の江戸引き上げは慶応4年2月16日(1868年3月9日)。
文久2年12月9日(1863年1月28日)に江戸藩邸を出て京へ向かった時には、自分たちの立場がこんな風になってしまうだ何て誰も思わなかったでしょうし、誰もこんな目まぐるしいスピードで世が動いて行くだ何て思ってなかったでしょう。
あの時いた人の中で、今はいなくなってしまった人もいます。
幕末の5年と言う時間は、普通の時間の流れよりもずっと速くて濃密なものに思えます。
容保様の江戸引き上げに伴い、江戸にいた藩士やその家族たちも江戸を離れることになります。
照姫様はこのときに容保様と共に会津に行き、それが初めてのお国入りだったという説もあるのですが、このドラマではその説は採用されていませんね(照姫様とっくに会津におられますので)。
その藩士家族たちの帰国を、出迎えの家族たちは息を詰めて見守ります。
敗戦の報や、賊軍の汚名を着せられていることは既に会津の方にも届いてますので、空気がどうしようもなく重い・・・。
竹子さんの妹、優子さんとお母さんのこうさん、二葉さんが家族と再会を果たすのを八重さんが見守る中、待てど暮らせど列の中に覚馬さんと三郎さんの姿は見つかりません。
そんな八重さんに、江戸で最新の戦術を学び出ていた尚之助さんが声を掛けます。
視聴者の皆様は一足先に事実を知っているのですが、まだ何も知らない八重さんからすれば、覚馬さんと尚之助さんの仲だから二人は一緒に江戸から帰ってくるのだろう、そこに三郎もくっ付いてるのだろう、と思っていたのでしょう。
ですが、尚之助さんはひとりでした。
そのまま山本家に戻った尚之助さんは、持っていた風呂敷を静かに広げます。
中に包まれていたのは、戦塵に汚れた軍服でした

一月六日は、鳥羽伏見、最後の戦でした。・・・三郎さんは果敢に敵陣に向かって行き、銃弾を浴びて命を落とされたようです。最期は・・・大蔵殿が看取られました

慎重に言葉を選ぶように、訥々と尚之助さんが三郎さんの死を伝えます。
権八さんや佐久さんが悲報に打ち震える中、八重さんははっきりとした口調で「人違いだし」と切り捨てます。

三郎は、江戸で修業の身だがら。都には行ってねぇ
志願して参戦し、佐川様と共に戦ったと・・・
いいえ、人違いです。何処にでもある、こった軍服が、三郎の物のはずはねぇ

そういって手に取って広げた軍服に、南天の刺繍が施されているのを八重さんは見つけてしまいます。
この瞬間、この場の他の誰よりも八重さんはこの軍服が三郎であることを認識させられるのですが、この流れ、どうしようもなく脚本が残酷ですね。

覚馬は・・・?
開戦の日、京で薩摩兵に捕らえられました
戦場にはいながったのが?
御所の戦で負傷され、目を患っておいでだったそうです・・・都から引き揚げて来た人の話では・・・四条河原で・・・処刑されたと
嘘だし・・・あんつぁまが死ぬはずはねぇ。尚之助様は、なしてそった嘘を言うんだべ!

八重さんは尚之助さんに食って掛かりますが、権八さんがそれを厳しく制します。

討死は、武士の本懐。・・・未熟者だけども、お役に立ったならば三郎は本望だべ。覚馬は・・・無念であったべ、目を傷めだのが戦ゆえならやむを得ねぇ

そう言って権八さんは涙ひとつ零さず、息子たちの死を確かめてくれた尚之助さんに礼を言います。
そしてふたりの死は、山本家の男としては恥じるところではなかったと。
無念や悲しみは胸中に渦巻いてるでしょうが、それを表に出さないのもまた「武士」なのです。
ですがそんな武士の建前などを良くも悪くも壊したのが、みねちゃんの登場。
形式や面子に囚われないからこそ出来た役割でしょう、お蔭で権八さんは武士の建前通りに涙を我慢し続けなければいけない場から、「竈の火を見てくる」とその場から離れることが出来ました。
うらさんも、あれだけ典型的な武家の嫁であるなら、涙ひとつ零さないのが武家の嫁の心構えというものでしょうが、みねちゃんが来た途端堰が切れたように廊下の奥に駆け込んで泣き崩れましたよね。
そんな風にして誰もが涙ぐむ中、三郎さんと違って覚馬さんに関しては遺髪も何もないので死んでいない、と八重さんは現実を受け入れようとしません。
きっとそれを受け入れてしまったら、自分の中で生きている覚馬さんを殺してしまうことにもなるからでしょうね。

尚之助様、教えでくなんしょ。三郎の仇を討づには、なじょしたらよがんべ。江戸で洋式調練を見て来たんだべ、私に教えでくなんしょ!

兄と弟を失ったという現実が受け入れられないのでしょうね。
世界でたった三人の兄弟だったのが、急にひとりになってしまったのですから無理もない話です。

仇は、私が討づ!

復讐心に燃える八重さんですが、会津の視点から会津戦争のことを書くって言うのはこういうことなんだと思います。
あのお転婆八重さんの日常が、ある日を境に蹂躙されるようにぐっちゃぐちゃにされていくと言うこと。
そしてそこから這い上がって、桜のようにまた美しい花を咲かせて春を言祝ぐ、それが今年の大河の大きな流れではないかと。
しかしそうとは分かっていても、角場の竈の前でがっくりと肩を落とす権八さんの背中に漂う悲壮感とか、見ていて心が痛いです。
今では思い出と、息子二人と一緒に絶やさないように守って来た火と、権八さんだけが角場に取り残された。
辛い現実を癒してくれるのは思い出ですが、喪ったばかりの時に心を痛めてくれるのもまた、思い出なんですよね。

徳川家の京での宿所だった二条城は、以前の記事でも触れましたように1月5日時点で薩長側に接収されています(接収を命じられたのは尾張藩)。
その二条城に今いるのは、王政復古を経て晴れて表舞台への復帰が叶った実美さんと岩倉さん。
同席するのは西郷どんや大久保さん、木戸さんや乾さんと言った、歴史の教科書の「明治維新」でお馴染みの顔ぶれです。

慶喜は城を出て、上野寛永寺で謹慎しているとはいえ、関東は未だに徳川方の巣窟にございもす

大久保さんはそう言いますが、謹慎する前にフランス公使のロッシュさんは3回も江戸城に行って慶喜さんに抗戦を説きました。
ロッシュさんだけでなく、勘定奉行の小栗忠順さんや海軍副総裁の榎本さん、歩兵奉行の大鳥圭介さんも抗戦を進言していました。
慶喜さんは薩長と和解の方針に心を固めていましたので、勝さんや大久保忠寛さんの説いた「徳川家を存続させたいなら恭順を」と言う方を聞き入れたんですね。
(ちなみに勝さんが陸軍総裁になったのはこのときです)
そうして慶喜さんは鳥羽伏見の戦いの責任者を一斉処分(松平正質さんと竹中重固さんと塚原昌義さんは罷免、その後逼塞。滝川具知さんや永井尚志さんも罷免)し、江戸城を出て、朝廷との執り成しは松平春嶽さんにお願いして、自身は上野寛永寺の大慈院で謹慎しました。
以上が江戸へ戻ってきた後から謹慎までの慶喜さんの行動です。
孝明天皇の異母妹である和宮さんや、上野輪王寺宮さんが薩長に東征中止の嘆願をし、天璋院さんが西郷さんに嘆願書を送ったのもこの時です。
この辺りのやり取りは、数年前の『篤姫』で既に描かれたことですね。
しかしこの嘆願は聞き届けられず、西郷どんは慶喜さんに「切腹」を、大久保さんは「厳刑」と主張して譲りませんでした。
そんな薩長連合軍が東征の歩みを止めるはずもなく、甲州に攻め込むために、ご先祖様に武田家重臣・板垣信方さんを持つ乾さんに、これから板垣姓を名乗るようにと岩倉さんは指示します。
甲州攻めの参謀が信玄さん所縁の人間となれば、甲斐の人々も道の支持も得られるだろうというところにこの人は着眼したのですね。
乾さんからしても、土佐藩は容堂さんの意向で鳥羽伏見の戦いでは対して功績を残せてませんので、甲州攻めはその挽回のチャンスになります。
(ただ、乾さんが板垣信方さんの末裔というのには諸説あるようです・・・まあ突っ込むだけ野暮ですけど。あ、でも効果は抜群だったようです)
そう言う経緯で姓を「板垣」と改めた板垣さんは、薩摩の主力部隊である迅衝隊を率いて甲州へと向かいます。
この板垣さんの部隊と甲州で衝突することになるのが、名を「甲陽鎮撫隊」と改めた近藤さん達率いる新選組です(甲州勝沼の戦い)。

会津へ帰国された容保様は、家督を養子の喜徳さんに譲り、ご自身は御薬園で謹慎の日々を過ごされていました。
照姫様が容保様を案じまずが、容保様が何も話して下さらないことに、辛そうな容保様を見ている照姫様もお心を痛めておいでの御様子で。
口を閉ざす容保様に変わって、萱野さんが容保様の心境を照姫様に代弁します。

それがし、殿はご自身を厳しぐ律しておいでど推察いだしまする
どういうことじゃ?
神保修理の自刃のごど、お聞き及びでしょうが。我らも当初は思い違いをしておりましたが・・・鳥羽伏見の敗戦は、まったぐ修理の罪に非ず。・・・何もがも呑み込んで、腹を切ったのでごぜいます。殿はおひとりで堪えでおられまする。それが、修理の死を償うたった一づの道と、お考えなのでしょう

萱野さんからそれらを聞いた照姫様は、容保様が背負ったものを分けて頂きたいと涙を零すのでした。
しかし軽く謎なのですが、このとき喜徳さんって一体何をしてたんでしょうね。
実質的な藩主はもう彼なわけですから、賊軍の汚名を着せられた自藩の状況踏まえて、何かしらアクション起こしてたのでしょうか。
その辺り、まだ勉強不足で存じ上げませんが、とりあえず現時点の容保様は「藩主」ではなく「前藩主」だということは忘れてはいけないポイントですね(何故か最後の会津藩主と言われがちなので)。

相変わらず獄舎生活を強いられている覚馬さんと野沢さんですが、そこに酒に黄金の饅頭をそっと乗せて(いつの時代のどんな場面でも本当これって効果覿面ですね)見張り番に便宜を図ってもらった大垣屋さんと時栄さんがやってきます。

会津は朝敵に非ず!万国公法に則り、会津・桑名に公明正大なお取り扱いを願いあげる!

と、叫んでいる覚馬さん。
ここで万国公法とは何ぞやと思う方も多くおられたでしょうが、難しく考えないでざっくり「国際法律書」とでも捉えて頂ければ問題ないと思います。
あるいは万国公法何て何処から出て来たんだと思われるかもしれませんが、西周さんと言う方が翻刻してまして、覚馬さんはその西さんと接点があったんですね。
西さんは啓蒙家ですので、接点通じて色々と影響も受けていたのでしょう。
その辺りの繋がりをがっつり大河ドラマでは削ってしまっているので、一体覚馬さんが何処で万国公法なんて言葉拾ってきたんだろうという疑問が視聴者には残るor万国公法って何だと視聴者を置いていってしまう、という事態が起こってますが(苦笑)。

戦になったら、会津は滅びるまで戦う・・・。なんとがして、東征軍を止めねぇど・・・西郷を止めねぇど!

時栄さんに筆と紙を持ってくるように頼んだ覚馬さんは、その嘆願書をどうやら認めるお積もりのようです。
獄舎内の覚馬さんのアクションがどんなことに繋がって行くのか、それはここで書かずともすぐに明らかになりますので、まだ触れないでおきますが、それよりも気になるのが獄舎内の環境。
いえ、「こんな劣悪なところに覚馬さんを入れるな!」というのではなく、「こんな劣悪な環境ではなかったよ」と言いたいのです。
薩摩の対応は粗略ではなく、監視も厳しくなかったので獄舎内で読書や将棋を楽しむことも自由でした。
覚馬さんに至っては脊髄を傷めた身を案じられてか、畳の部屋に収納されていました。
あと、覚馬さんが酒を所望したら(この設定も削られてましたが、史実の覚馬さんはお酒大好きさんなのです)お酒を持ってきてくれたですとか。
そういう獄舎内エピソードがあるので、少なくともあのドラマのような環境ではなかったと思います。
もしかしたら覚馬さんが薩摩に好意的に思われていた(これもドラマでは削られていましたが、覚馬さんは会津内にあって薩摩との融和の道を模索し続け、藩内で結構孤立してました)のも、その待遇の大きな理由の一つかもしれませんね。

戦の気配が確実に会津に迫る中、それでは会津はどう動くべきかについて、家臣一同が登城し、容保様もまた喜徳さんを補佐するために城に上がります。
会津は恭順の姿勢を今現在では取っているようですが、それらは悉く薩長に取り潰されています。

新政府など、一皮剥けば正体は薩摩と長州。恭順などど、腸が煮えぐり返りまする
んだげんじょ、朝敵と名指しされた今、戦えば我が藩の立場はますます悪ぐなる
奥羽鎮撫は、朝廷のご本意では御座らぬ。薩長の者どもの私怨に過ぎませぬ
そんじも、新政府に弓引けば賊軍と決めつけられんぞ
勝でば良いのです!朝敵の長州が今では新政府に一味しているでは御座らぬが。勝でば即ち官軍!

恭順か抗戦か、どちらも譲りません。
しかし長州はこの時点では藩主父子の罪も赦されているので、官兵衛さんのいうような朝敵ではないんですよね。
この入り乱れた議論は、まだ年若い喜徳さんでは到底納められません。
まだ13歳、数えで14歳の彼に、この難局で舵を取って行くのはまだ無理でしょう。
となれば容保様に自然意見を仰ぐ形となり、延いては場の決定権を委ねることになります。
隠居とは名ばかり・・・だから、印象としては「最後の会津藩主」というのが強いんですかね(実際には違っても)。
そんな中、息子に鳥羽伏見の責めを負わされて腹を切らされた内蔵助さんは、敗戦のままでは武士の一分は立たず、朝敵の汚名を着せらて恭順したままでは会津の面目が立たないと言います。

皆の考え、よく分かった。わしの存念を述べる。会津は飽く迄恭順を貫く。もとより朝廷に刃向う心はない。そのこと、頭を低くして幾度でも訴える・・・ただし!それでもなお攻めてくるならば、武門の習い、全藩を挙げてこれと戦う!薩摩、長州の謀略のすさまじさ、わしはこの身を以って知っている。全ての武器を捨て、あの者たちを迎え入れることなどは到底出来ぬ!

容保様が選んだのは、恭順の姿勢を見せつつ、戦に備えて軍備を整えるという選択肢。
容保様には、慶喜さんみたいに全ての武器を捨てて(とはいっても慶喜さん個人から切り離されてただけで、武装が解かれてたわけじゃないですが)恭順の姿勢を貫いて、城明け渡すということが出来なかった。
何故かと言えば、内蔵助さんの言葉にあった「武士の一分」がそれを拒んだのですね。
それが会津の気質で、それがよく分かっていたから覚馬さんは「戦になったら、会津は滅びるまで戦う」と言っていた。
自分達の殿様は慶喜さんのようには立ち回ることは出来ない、と。
それが容保様で、そういう気質が会津なので、覚馬さんも「否定」はしていない。
でもそういう容保様が、そういう気質が、この状況下でどういった事態を引き起こすことになるのかは分かってる。
だから、否定はしないけど、覚馬さんにとって大切だから守りたいんですよね。
正しさばかりでは生きて行けない世の中で、それでも正しさを貫いた、貫こうとした会津の姿勢と容保様の選択をどう捉えるか。
それは、個々によって異なってくると思いますので、ここで「私はこう思います」というのは敢えて控えておこうかと思います。

一方京では、奥羽鎮撫使が出陣しようとしていました。
総督の九条道孝さんは、討伐する前に会津が降伏して来たらどうするのだと言います。
ですが薩長連合軍の面々は、降伏するしないなど関係なく、「会津を討つ」ことのみに意味を見出しているご様子。
彼らが出す会津の降伏の条件は、容保様の首。
ですが誰がどう考えたってそんな条件が通る筈もないので、断られること前提の条件を提示して断って来たのを口実に、「鎮撫使」の名の下に討伐するということですね。
無体というか、本当形振り構ってないといいますか。

最早会津で戦が起こることは確定未来。
軍制改革にも漸く着手して、天明(1781年~1789年)以来の長沼流軍楽を捨てて洋式調練に切り替えることになりました。
八重さんの下でも、悌次郎さんや大蔵さんの弟の健次郎さん、盛之輔さんたちが一層熱心に銃の鍛錬に励みます。
ですが、指導する声がいつになく鋭く、表情も険しい八重さん。
「随分と荒っぽいな」と尚之助さんが様子を見ていると、八重さんはふとした拍子に、悌次郎さんに向かって「三郎」と言ってしまいます。
困惑したように悌次郎さんが「自分は三郎ではない」というと、八重さんは一瞬呆然として、その後銃を抱えて角場から飛び出してしまいます。
慌てて尚之助さんが後を追いますが、尚之助さんを訪ねて来た大蔵さんが、尋常ではない八重さんの様子に、行く手を阻みます。
三郎の仇を討つのだと走り出そうとする八重さんに、追い付いた尚之助さんが言います。

何処に行く気です!誰を撃つのですか!

見ていて非常に辛いシーンでした。
八重さんみたいな性格の女性には、泣きたいときに泣かせてくれる人が必要なんですよ。
でも普段強い人だから、絶対に表にそれを出そうとしない。
それを「出してもいい」と思えるような人が、八重さんのような性格の女性には必要なのですよ。
尚之助さんはまさにそれ。
二人目の夫となる彼は、果たしてその役目が果たせるのでしょうかね。
そして、尚之助さんという存在がいてくれたから感情を爆発させられた八重さんと、照姫様という存在がいても感情を爆発させられない容保様という、さり気無い対比になってますね。。

慶応4年3月5日(1868年3月28日)、東征大総督は一戦も交えることなく駿府城に入り、江戸総攻撃を3月15日(1868年4月7日)に行うと定めました。
しかし江戸城攻撃となれば、徳川家滅亡だけでなく、江戸も戦火に焼かれることになります。
そうさせないために、旧幕府方で動いたのが勝さんと大久保忠寛さん。
このとき勝さんがやったことのひとつに、山岡鉄太郎さん(鉄舟)に自分の手紙を預け、西郷どんに届けさせるというのがあります。
山岡さんは9日にその役目を果たし、危険を顧みない山岡さんを称えて、西郷どんは後年『南州翁遺訓』で以下のように残しています。
 命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は始末に困るものなり。この始末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり。
そして同月11日に池上本門寺に西郷どんが入って、13日に江戸高輪の薩摩藩邸で勝さんと会見、そして江戸城無血開城へ・・・というのが史実の流れです。
ところがところが、ドラマではこの山岡さんの役目や行動が、そっくりそのまま勝さんに入れ替わってましたね(苦笑)。
そのせいか、場所も駿府城ではなく江戸の薩摩藩邸、山岡鉄太郎さんのての字も出て来ません。

陸軍総裁ともあろうお方が、兵も連れずにおいでにないもしたか
単身乗り込むくらいの腹がなきゃ、総督府参謀とは渡り合えぬと思いましてね。危ないのは寧ろ城に帰る道です。勝は徳川を薩長に売る気だと、私の命を狙う者も大勢いる
物騒にごわすな
そりゃあ、アンタ方が、明日には江戸城を攻め落とそうというのだからね

そんな勝さんが西郷どんに出した、江戸城総攻撃取り止めの条件は以下の通りです。
  •  慶喜は隠居して水戸で謹慎する
  •  江戸城は明け渡し、その後田安家に預ける
  •  慶喜の寛大な処分が決まりさえすれば、軍艦武器弾薬は必要数以外官軍に差し出す
  •  江戸城内に居住している者は、城外に居を移させて謹慎させる
  •  慶喜の妄動を助けたものは寛大に処分し、命に関わるような処罰は下さない
  •  土民暴発が徳川の手に負えなくなったら、官軍にも鎮圧の助力願いたい
対して、西郷どんの提示した条件は以下の通りです。
ちょっと比べてみましょうか。
  •  慶喜を備前岡山藩に預ける
  •  江戸城を官軍に明け渡す
  •  軍艦一切を官軍に引き渡す
  •  武器一切を官軍に引き渡す
  •  城内に居住する家臣は向島に移り、謹慎する
  •  慶喜の妄挙を助けたものを謝罪させる
  •  旗本の中で、徳川の力で鎮撫し切れずに暴挙に出るものがあれば、それを官軍が鎮圧する

西郷サン、諄くは言わぬ。・・・ただ、アンタと私、立場を入れ替えて考えて貰いたい。もし薩摩が敗れていたら、アンタは御主君の首を討って差し出せるか。・・・武士の誇りを捨てて、丸腰になれるのか

この台詞も、本当なら山岡さんが言ったことですね。
西郷どんはこれに対して「朝命である」と譲らず、激論になったそうなのですが、ドラマでは「万国公法では、恭順した敗者に死罪を申し付ける道理はありませんぞ!」と、万国公法を引っ張り出してきました。

嘆願、お聞き届け頂けるなら、一新に代えて江戸城は無事に引き渡す。だが・・・攻められればこちらも応戦する他はない。そのときは、この江戸市中は火の海になる。考えてみてくれ。・・・あの屋根の一つ一つの下には、人間が住んでいるんだぜ。戦とは関わりのない無辜の民だ。西郷サン、アンタが作ろうとしている新国家は、そんな人たちから家や命を奪うのか。それがアンタの目指す国作りか!

先程もちらりと触れました万国公法は、無茶苦茶簡単に言うなら国際法律書。
もう少し説明を加えますと、国際社会が遵守すべき法的規則と、理念として世界中の国家が平等である権利を有すると説いた、ヘンリー・ホイートンさんの著作です。
で、ここで万国公法を出してくるのは流れとしては凄く上手いと思います。
と言いますのも、西郷どんたち新政府は、これから先「国際社会の中での日本」の立ち位置みたいなのも模索していく必要がありました。
もう国を閉ざしてる時代は終わったのです。
で、日本が国を閉ざしている間に、海の向こうの国々では「国際社会」という漠然としたものが築かれていた。
日本も国を開いた以上、その国際社会に参加していかなければならないのです。
つまり、外国の目も気にしなくてはいけないということで、万国公法を無視したりしていると「日本は非国際的社会の国」という目で世界から見られることにもなりかねないのです。
そう言ったことが分かっていた勝さんは、実はこっそり薩長連合軍のやり口の汚さを諸外国の公使に漏らしたりとしています(笑)。
実際西郷どんは、「もし江戸城総攻撃になったら、自軍の負傷者は横浜のイギリス軍病院で治療してほしい」とパークスさんに言ったら、パークスさんに「徳川慶喜は恭順しているのに、恭順している相手に戦争を仕掛けるのは如何なものか」と言われたようです。
つまり江戸城無血開城に着いては、官軍側が国際的な外聞を気にして、というのが働いた部分もあったでしょうね。
ちなみに勝さんは「江戸城は明け渡しの後、田安家にお預けにして欲しい」というのに対して、西郷どんは「官軍に明け渡すように」と言っていることについて、これの違いが何かと言いますと、田安家に預けるということは、官軍に江戸城は渡しません、という意味なのです(田安家は徳川宗家16代家達さんの生家)。
しかし西郷どんからすれば、まずは徳川の本拠地である江戸城をこちらの手中に納めないことには話になりません。
そういうわけで話し合いの結果、江戸城は田安家ではなく尾張藩に引き渡すことになります(尾張藩は既に官軍側でした)。
慶喜さんの命も奪わないと約束してくれた西郷どん。
しかし、最後にひとつ意味深い言葉を零します。

さて、どげんなれば、振り上げた拳をばどけ下ろすかじゃな・・・

拳が下ろされる先何て、皆様とっくにご存知ですよね。
そんなこんなで江戸城と江戸の町は戦火から守られたのですが(上野戦争であの辺り燃えましたが)、勝さんが江戸城無血開城したこと大手柄的に持ち上げる人いますけど、先程も触れたように前もって山岡さんが作った下地があってからこそ実現したことで、決して勝さんひとりでやり遂げたことではありません。
では何故現在、江戸城無血開城は勝さんひとりの手柄みたいになっているのかというと、明治になったときに維新の手柄を各々自己申告せよみたいなのがあって(確か)、そこで勝さんが全部自分がやったように申告したからだったと思います。
その話については記憶あやふやなので、話半分に聞いておいて欲しいのですが、しかしそれを除いても正直勝さんは江戸を守ったとは言い難いです。
彰義隊のこともありますし、結局彼に出来たのは薩長の矛先を、江戸と徳川家ではないところに向けることだけだったかと。
勝さんなりの事情は理解しますが、言葉を飾らずいえば会津をスケープゴートにしたとも言えます。

会津では尚之助さんの指揮のもと、フランス式の調練が始まっていました。
駆け足したり、後ろ向きに走ったり・・・と、西郷さんに言わせて見れば「子供の遊びのよう」な調練ですが、尚之助さん非常に優秀なご様子で、皆がきびきび動いています。
指揮を執る尚之助さんに、日光口へ向かうことが決まっている大蔵さんが声を掛けて来ます。
日光口は、江戸から会津に攻めようと思ったら最短ルートに面する国境で、大蔵さんはそこで奮戦して薩長連合軍を通さないことに成功するのですが、それはまたその戦いの時に触れることにします。
八重さんはどうしているのかと案じる大蔵さんに、「泣くことが出来ただけ、良かったのです。悲しみに蓋をしているより、いくらかは楽になれる」と尚之助さん。
良い夫婦だな、と何度目かになる再認識をしました。
さて、では悲しみに蓋をしなくなった八重さんは、今度どう悲しみを昇華させていくのでしょうね。

このころの西郷どんというのは非常に忙しく、江戸にいたかと思えば京にいて、行ったり来たり・・・と。
で、先ほどまで江戸で勝さんと会談していたかと思いきや、次は京にいました。
そこで大久保さんと話していた西郷どんが、ふと目に留めた「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」という嘆願書。
その内容に驚愕を隠せないまま、西郷どんは覚馬さんのいる牢に下りて来ます。
獄中で会津の嘆願を叫び続けていたと思われる覚馬さんの声は既に掠れ掠れ・・・そんな覚馬さんに西郷どんは呼びかけます。

万国公法を知っちょっとか
敗者が恭順を示している時、これを殺すごどは世界の方に背ぎます。薩摩のお方にお願い申し上げる。何卒、奥州討伐はお留まり下され。会津に朝廷に刃向う心はごぜいませぬ

「時勢之儀ニ付拙見申上候書付」の内容は、会津の立場の弁明です。
安藤優一郎さん著の『山本覚馬』(PHP文庫)に分かり易く書かれてましたので、以下に引用させて頂きます。
会津が薩摩藩に反感を抱いて鳥羽・伏見の戦いに突入したのは、国事を憂慮した余りのことである。薩摩藩に対して、何か他意があったわけではない。国の行く末を憂慮したがゆえに、結果的に薩摩藩と行き違いが生じた。そうした事情を御賢察いただき、会津藩に憎悪の念を持たないで欲しい。会津藩にとっては戦友である桑名藩の場合も、そうした事情は同じである。いずれにせと、会津・桑名藩の処置については国際法に基づき公明正大な取り扱いをお願いしたい。(前掲188p)

これは、西郷さん苦悩するところですよね。
江戸城を討たなかったのは、万国公法によるところもあった。
でも、それで会津まで許してしまえないのが微妙なところなんですよね・・・万国公法に反することになるとはいえ、何処か一か所は犠牲にしないと収集が付けられない状況なのでしょう。
けれども正しいのは覚馬さんの言い分。
討たないで済む道もあるかもしれないと、一瞬模索しようとする西郷どんではありましたが、 「甲州の戦で敗れた新選組の残党らが、続々と会津に向かっておいもす。薩長連合軍に不満をば抱く者たちが会津に集結し、奥州諸藩が荷担すれば、こいは一大勢力とないもす」と大久保さんの報告を聞いて、奥州制圧やむなしとなります。

西郷!頼む、会津を助けでくれ!討づな!会津を滅ぼすな!俺の首を斬れ!俺を斬って、会津を助けでくれ!

正しいことを叫び続けていた覚馬さんの声は、さぞや西郷どんの耳に痛かったでしょうねぇ。
覚馬さんの処刑を取りやめて、医者に診せるように指示したのは、万国公法なんてものを理解してる人間が少なくて且つこれからそういう人間が必要になる中、彼を殺すのは惜しいと思ったのもあったでしょうが、あのシーンを見ると、どうもそれだけじゃなくて、正しいことを叫び続ける覚馬さんにせめて最低限の手を差し伸べることで、自分の間違いの罪悪感を少し軽くしていたんじゃないのかなと。
実際(史実)は如何か知りませんが、ドラマではそう感じました。
そもそも実際、西郷どんは忙しかったので覚馬さんの嘆願書に目を通したのか、はっきりとはしてないんですよね。

さて、会津には旧幕府軍の兵士が着々と集結しているようで、その中には北上して来た新選組の姿もありました。
角場で鉄砲を扱う時、怪我とは無縁でいられなかったのもあってか、手当に慣れている八重さん。
そんな八重さんを、何を以って春英さんが「似ている」と言ったのかは少しこの流れでは掴めませんでしたが、「覚馬さん」という言葉にその場にいた新選組のひとりが反応しました、斎藤さんです。
このとき新選組(一部ですが)は、斎藤さん(この時点ではおそらく山口二郎というお名前なのですが、混乱を避けるために敢えてこちらの表記を継続して使わせて頂きます)が指揮を執っています。
京で何度か覚馬さんと接点を持っていたという斎藤さんに、八重さんは薩摩に捕まったという覚馬さんの消息を尋ねます。
ですが覚馬さんの行方は、同時刻戦場で死線を掻い潜っていた斎藤さんが知る筈もなく。

兄上は都で洋学所を開いておられた。他藩の者も受け入れていたから、中には薩摩もいたかもしれぬが
んだら、薩摩の誰かがあんつぁまを助けでくっちゃがもしんねぇなし
それはどうかな。戦の最中さ。大勢が殺し合った。捕らえた敵を生かしておくとは思えぬ。生死の程は知れぬが、余計な望みは持たぬ方が良い

斎藤さんが八重さんの淡い希望にしっかり釘を刺しますが、これは紛れもない正論ですよね。
戦場を実際目の当たりにしてきた斎藤さんと、戦争に接したことのない平和な世界で生きて来た八重さんの温度差がくっきり表れているような気がしました。
でも、八重さんはいつものように「諦めない」んですよね。
三郎さんと違って、死んだと決まったわけではない覚馬さんの生の望みを捨てることはないと。
でもこれは、希望を抱いてると言うよりは、必死に自分に言い聞かせて最低限の自分を保っているように見えます・・・。

ではでは、此度はこのあたりで。


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