2013年9月25日水曜日

第38回「西南戦争」

明治9年(1876)、相国寺門前の地所5800坪を覚馬さんから500円で譲り受けた襄さんは、そこに同志社英学校を移転させます。

真新しい木の匂いがする
私達の新しい学び舎です。若者たちがここに集い、研鑽を重ね、やがて世界をよりよく変えて行く。わくわくしますね
おめでとう、襄

新築の校舎を見渡して、そういう八重さん。
そこへ、前回の灰汁の強さは何処へやら、熊本バンドの皆様が荷物を運び入れたり・・・と、「自分達の学校だから、自分達が大きくしないと」と言います。
同志社英学校は基本的には寄宿舎学校でしたので、彼らにとってはここは学校であると同時に生活空間の場所でもあるのですよね。
そこへ猪一郎さんが新聞を持って駆け込んで来て、西郷どんの挙兵の報を持って来ます。
(以下、ずらずらと記述が続くので、政府側の人間はこの色で、薩摩軍側の人間はこの色で表記させて頂きます)

明治10年(1877)2月15日、西郷どんは「拙者儀、今般政府へ尋問の廉これあり」と、熊本鎮台司令長官の谷干城さんに対して状況の趣意書を送り、薩摩軍の先発隊が鹿児島を出発します。
その数は17日にかけて総員1万3000人ほどになり、彼らは鹿児島では珍しい大雪の中の進発となりました。
しかしこの装備は、軍隊が平時に刑軍する程度の者でしたので、戦にしては無謀無策な様相だったと言われています。
出兵の大義名分は、「政府に尋問することがある」、つまりドラマ内で言われていた「政府の不正を糾弾し、大義を天下に問うべし」と同じですね。
薩摩軍はまず熊本の政府軍を鎮圧すべく、熊本へ向かいましたが、このとき熊本鎮台兵は3300人しかおらず、その内の3分の2は徴募兵だったので、薩摩軍は熊本城はすぐに攻略出来るだろうと楽観視していた節があります。
しかし、加藤清正さんが渾身の技術を込めて作り上げた熊本城が、そんな楽観視を見事に打ち砕き、結果熊本城はこの実戦を経て「難攻不落」が実証されることになります。
それについてはまた後ほど触れることにして、殆どスルーされた西郷どんの挙兵に至るまでの出来事を、いつものことながら拙い補足させて頂きます。
西郷どんが鹿児島に設けた私学校については、以前の記事で既に触れました。
その私学校、徐々に鹿児島で大きくなったは良いのですが、関係者が鹿児島県の区長や副区長の席をほとんど占めてしまったり、警察を牛耳ったり・・・と、鹿児島は木戸さんに「独立国の如し」と言われるような場所になってしまうのです。
何より地租改正に従わず、よって鹿児島の税金は国庫に納められることはありませんでした。
これは明治政府としても放っておくわけにはいきません。
何より明治9年からこっち、全国各地で不平士族の反乱が相次ぎ、不平士族らに決起を期待されている西郷どんと、明治政府の関係は非常に不安定とも言えました。
その不安定が揺らぎ、西郷どん挙兵に至ってしまった理由が、槇村さんの言ってた「内務卿の大久保さんが、鹿児島に密偵を送り込んで様子を探らせちょった。で、その密偵が西郷暗殺を企んじょると、私学校の者らが騒ぎ出したんじゃ」です。
大久保さん警視庁大警視の川路利長さんに命じて、23名の密偵を鹿児島に送り込みました。
目的は鹿児島の視察と、私学校党の内部分裂工作です。
私学校も一枚岩だったわけではなく、旧藩時代の城下士と外城士(郷士)の対立が残っていたので、薩摩出身の大久保さんはそこを巧みに突いたのでしょう。
けれどもこの密偵の動きはすぐに私学校党に察知され、私学校党谷口登山太さんを逆スパイとして密偵団内に潜入させます。
その逆スパイの谷口さんから、密偵団は「ボウズヲ、シサツセヨ」という密命を帯びていることを知った私学校党は、「シサツ=刺殺」とし、政府ボウズ(密偵団の暗号で、西郷どんを指す)の暗殺計画を立てているのだと騒ぎ出します。
実は本当か嘘かは分かりませんが、この「シサツ」は「刺殺」ではなく「視察」という意味の「シサツ」で明治政府は言ったのですが、どうもこれが取り違えられてしまったようです。
それに加えて、三菱商会の赤竜丸という汽船が、明治政府の依頼を受けて集成館や陸軍省の草牟田の火薬庫から武器弾薬を運び出したのですが、これが鹿児島県庁に何の連絡もないことだったので、密偵団のこともあって私学校の生徒たちは穏やかにおれません。
私学校の生徒たちの緊張が極度に高まるそんな中、1月29日に松永高美さんら二十数名が草牟田の火薬庫を襲い、運び出されようとした火薬を略奪、翌日には1000人以上の私学校生徒が再び火薬庫を襲撃し、これが2月2日まで続きました。
私学校の幹部らには無断で行われたこの襲撃でしたが、幹部らも彼らを咎めず、寧ろこれを契機に政府との全面対決の姿勢を取ります。
陸軍省の火薬庫を襲うということは、立派な明治政府への反逆です。
(追記:後日、政府軍が運び出そうとしたのは「弾薬」ではなく、プレス加工の薬莢の製造設備ではというご指摘を受けました。当時その設備は薩摩にしか存在せず、故にこれは戦争を想定しているあの局面で、確保必須の物資だったと。仰る通りだと思います。ご指摘とご教授、ありがとうございます)
結果から見ると、赤竜丸が火薬から武器弾薬を運び出したのは、明治政府私学校への挑発だったのでしょうね。
何せ私学校側が火薬庫を襲った報を受けた大久保さんは、「密かに心中には笑を生じ候くらいにこれ有り候」と伊藤さんに手紙を書いていますから。
挑発でなくても、口実を待ち望んでいたと考えて良いと思います。
ドラマでは、西郷どんと戦うことに苦悩しているようにも見受けられましたけどね(苦笑)。
当の西郷どんといえば、この火薬庫襲撃は予期していなかったようで、また望んだことでもない。
どころか、その時は狩猟に出掛けていたようで、事態を知った時には私学校生を叱責したそうです。
けれども私学校の生徒の身柄を、火薬庫襲撃犯として明治政府に差し出せるかと言われれば、それも出来ない。
苦悩の末に、西郷どんは「私学校の生徒に自分の命と体をやる」という決断を下し、西郷どんが旗頭となる形で西南戦争へと繋がって行きます。

2月5日、薩摩軍で募兵が開始され、この日だけで3000人が志願してきます。
作戦会議も設けられまして、西郷小兵衛さん(西郷どんの末弟)は「一軍は熊本へ、一軍は日向路から豊前・豊後に、一軍は海路長崎を襲い、長崎・熊本を押さえて全国の反政府派の放棄を促す」「長崎を奇襲して政府の軍艦を奪い、海路で神戸と横浜に向かうべし」という戦略を述べます。
これに対して、野村忍助さんは「海路長崎から東上」「土佐の反政府派と連携し上阪」「熊本から福岡を制する」の三方面戦略を提案しました。
しかしこの二つの案は結局採用されず、採用されたのは桐野さんの、正攻法ともいえる熊本攻めでした。
天下に大義を問う戦で、奇襲は義戦の名を辱めると彼は考えたのです。
何より神風連の乱で熊本鎮台200名足らずの不平士族に占拠された先例があり、それが説得力のある前歴と、過剰な自信となっていたのです。
桐野さんは「百将兵を叩くには、青竹一本で十分。此の丈が折れる前に東京に着くだろう」と言っていたほど。
が、しかしいざ彼らが熊本県下に入ると、鎮台兵は開戦に備え熊本城に籠城の構えをみせていました。
鎮台の司令長官の谷さんは、熊本城の天守閣や城下を焼いてと背水の陣としていたのです。
城下を焼いたのは、会津戦争の時に会津が鶴ヶ城かを焼いたのと同じ理由、即ち遮蔽物を無くすためです。
のみならず、砲台は増設され、地中には地雷が埋められ・・・と、言うならば「掛かって来るならどこからでもどうぞ」な状態ですね。
そんなこんなで明治10年2月22日、52日にも及ぶ熊本城籠城戦の幕が遂に切って落とされたわけですが。
熊本城って、今でこそ「天下の名城」だの「難攻不落」だの言われてますが、加藤清正さんが築城した時から薩摩軍が攻め寄せるこの瞬間まで、じゃあ誰かが攻め寄せてその防御の高さを実感したのかって言われたら、多分誰もしてないのですよ。
つまり、さっきも似たようなことをチラッと書きましたが、彼らが攻め寄せたからこそ、熊本城は防御力の高さを立証出来たのです。
肝心の熊本城の戦いですが、薩摩軍は攻撃部隊を二つに分け、城の南東面と西北面から進攻しました。
が、熊本城はなかなか落ちません。
熊本城の堅城っぷりをここで話し出しますと、熊本城が大好きなので大きく脱線してしまいそうなので割愛させて頂きますが、苦戦を強いられた薩摩軍は熊本城を全軍で総攻撃するか、包囲戦に持ち込むかで作戦会議を開きます。
一旦は全軍総攻撃に作戦が固まりかけましたが、熊本城で時間を費やしている内に政府の軍勢が整って四方から攻められればどうしようもなくなると、3000人の兵を熊本城の抑えに残し、他の兵は上京すべしという意見が出ます。
実際遡ること2月19日、有栖川宮熾仁親王を総督として西郷軍追討が発令されており、追討軍は九州へと向かっておりました。
戦況を見た西郷どんは、総攻撃ではなく包囲策の方を採り、坪井川と井斧川を堰き止めて熊本城下を水没させ、主力部隊は田原坂へと北上して行きました。
しかし包囲ではなく、全軍総攻撃にするべしと、伊地知さんたち西郷どんを批判しました。
彼らは、熊本城の陥落は自軍の勝利を意味し、逆にその攻略失敗は自軍の敗北を意味していると感じていたのでしょう。

さて、田原坂の戦いに移る前に、西南戦争に明治政府側の征討軍として参加した会津藩士について触れたいと思います。
「ただひとつ、無念なのはな、会津が、逆賊の汚名を晴らす日を、見届けずに死ぬことだ。戦で奪われたものは、戦で取り返すのが武士の倣い。頼むぞ!そうでねぇと、そうでねぇと、死んだ者たちの無念が晴れぬ!」と、切腹直前の萱野さんはそう浩さんに言いました。
その言葉を思い出すような素振りは見せてませんでしたが(きっと心の中では思い出してくれていたと勝手に解釈しています)、萱野さんの言葉にあった、「戦で奪われたものを戦で取り返す」ための戦がやって来ました。

薩摩人見よや東の丈夫が提げ佩く太刀の鋭きか鈍きか

この浩さんの対処、本物は5m程の掛け軸で、現存しております。

会津の戦から10年、やっと正々堂々薩摩軍と戦える時が来た
薩摩に一矢報いねぇと、地下の仲間たちに顔向け出来ねぇって皆勇みだっている
それは?
殿より賜った正宗だ。大失態を挽回する折が、とうとう巡って来た
会津の名誉を、この戦で取り返す!

この会話のやり取りからも察して頂けるように、西南戦争は、戊辰の折に「逆賊」の汚名を着せられて「官軍」を名乗る薩摩に負けた会津が、その鬱憤やら積年の恨みを晴らす場でもあったのです。
なので、後に八重さんが戦の経緯を聞いて「日本人同士がまた銃を撃ぢ合う何て・・・」など悲観するのは、間違ってないけど少しずれてる気がするのですよね。
鶴ヶ城開城の時、容保様に「会津は逆賊ではねぇ」と言っていたのは何処の誰ですか、別人さんですか、と突っ込みたくなります。
つまりドラマの八重さん、逆賊の汚名を着せられていた会津藩士が、官軍として戦に臨めることの意味が本当に分かってないんですよ。
その点、山川さん達の活躍を聞いて「お手柄だなし」と無邪気に喜び、いずれ逆賊の汚名も晴れるだろうという佐久さんやみねさんの反応が「正解」というわけではありませんが、会津人としては自然な反応ではないかと。
八重さんってそんな、聖人君子じゃないんですよ。
後々に同志社に薩摩の生徒が入って来たときには、やっぱり薩摩出身でない生徒と目に見えて贔屓してしまって、襄さんに窘められたというエピソードもあります。
なので、あんまりこういう言い方は好きではありませんが、会津人がこのときまだ持っていたであろう薩長への恨み辛みは、八重さんの中にも少なからずあったはずです。
なのにあまりにも無関心というか、他人事というか、「あ、そう、戦が起きてるのね。何で戦何てするんだろう?」って言ってる感がひしひしと八重さんから伝わってきてしまうのですよ。
で、そんな八重さんに、いやあんた会津人だったらもっと違う反応が来るんじゃないの?そもそも知ってる人大勢出陣してるのに、何でそんなに達観したような態度取れるの?と。
うん、要は八重さんから温度を感じないんですね。
会津あっての八重さんであって、八重さんあっての会津じゃないはずなのに、何故あんなに八重さんの中から「会津」がすっぽり抜け落ちてしまっているように見える(八重さんから会津を感じられない)のか・・・何か、不思議と違和感がない混ざったような、平たく言えばドラマの中の「八重さん」を私が完全に見失った瞬間でした。
あんなに八重さんから「会津」を感じられなくして、ドラマは彼女をどうしたいのでしょうね。

まあ私のドラマの八重さん考察は脇へ置いておくとして、新聞が西南戦争を報じる頃、襄さんが女学校設立の許可を取って来ます。
この女学校が、現在の同志社女学校の前衛になることは語るまでもないことだとは思いますが、八重さんは自分の考える女学校の方針を襄さんに伝えます。

女紅場は女学校を作るための参考になると言ってくれたげんじょ・・・私は、もっと違う学校を作って貰いたい。女紅場は良き妻、良き母となるため、女子の仕事を学ぶところです。それも大切だけんじょ・・・それだけでは探している答えは見つからねえ
答え?
また、戦が始まった。会津を滅ぼし尽くしてまで新しい国を作ったはずなのに、戦をしなければならぬ訳がまことにあんのか・・・。答えを探すには、学問がいると思うのです。だから女子も学ばねばなんねぇ

しかし襄さんも同じ思いを抱いていたようで、女学校の時間割は万国通史、代数学、日本通史、化学・・・などなど、同志社英学校とほぼ同じです。

私はね、八重さん。知性と品性を磨いた女性には、男子以上にこの世の中を変える力があると信じてるんですよ

ちなみにこの襄さんが作ろうとしている女学校について、補足させて頂きます。
明治9年(1876)の5月から6月頃、京都御所の北側にあった公家屋敷・柳原邸(現在の京都迎賓館)のデイヴィス方同居の アリス・スタークウェザーさんの部屋で、京都府農齊藤某さんの女の子(8歳くらい)と、丹波綾部旧藩主九鬼隆備さんの二女に、スタークウェザーさんが勉強を教えていたのが、事の始まり。
そこに高松センさん、下村智喜さん、下村末さん、伊勢ミヤさん、本間春さんらが加わり、八重さんもスタークウェザーさんと共に英語のスペリングや小笠原流の礼儀作法を教える側に加わりました。
つまり女子塾が開始されたのです。
デイヴィスさんと、旧三田藩主の九鬼隆義さんの関係については以前の記事で触れましたが、隆備さんはこの隆義さんの御兄弟ですから、そう言った関係で姪御さんがこの女子塾の生徒の一人にいたと考えられます。
やがてその女子塾に通学生と寄宿生が増え、教師陣にはH.F.パーメリーさんも加えられることになり、明治10年4月22日に襄さんが京都府へ女学校の開校許可を願い出、28日に許可されます。
つまりこの新島夫婦のやり取りのシーンは、明治10年の4月から5月頃にかけてのものと推測出来ます。
同志社女学校が、開校当初は「同志社分校女紅場」でしたは、9月に「同志社女学校」と改称されました。

熊本城籠城戦の幕が落とされた2月22日の夜、北上して来た薩摩軍を、政府軍は植木で迎え撃ちます(植木の戦い)。
最初は政府軍の乃木希典隊200に対し、薩摩軍も村田さん(シルクハットにフロックコートという格好+アコーディオンを手放さなかったという伝説的歴史をこの戦で刻むことになる、あの村田さんです)率いる小隊200ほどでしたので兵力互角でしたが、途中から薩摩軍の伊東直二さんの部隊が合流し、乃木さんは敗走してしまいます。
翌日、増員して兵力を1800に増やした薩摩軍に対し、乃木さんも他の隊を合流させて700人ほどでそれを迎え撃ちますが、乃木隊は再び敗走します(木葉の戦い)。
しかもこのとき、薩摩軍乃木隊の退路を先回りして塞いでいたので、乃木さんは命からがら、部下に身を挺され庇って貰いながら九死に一生を得ました。
南東方面で敗走した政府軍ですが、翌日から反撃し始めます(高瀬の戦い)。
乃木隊は木葉から田原坂まで進軍し、田原坂を確保します。
政府軍4000に対し、薩摩軍は2800政府軍が要地である稲荷山を占拠したことから形成が政府軍有利となり、弾薬が尽きた篠原国幹隊が無断で撤退したことから村田さんの部隊も撤退を余儀なくされ、戦場に取り残される形となった桐野隊は全滅の危機に瀕しますが結露を見出し山鹿まで撤退します。
木葉の戦いでは敗北を喫しましたが、高瀬の戦いで巻き返した政府軍
その政府軍の進撃を食い止めるべく、薩摩軍が待ち構えたのが田原坂です
田原坂は加藤清正さんが、熊本城防衛の北の要地として切り拓かせた、1.5kmほどの坂道で、熊本城に通じる道で唯一大砲を引いて通れるだけの道幅がありました。
薩摩軍はここを防衛ラインとし、政府軍との17日間の激戦を繰り広げることになる「田原坂の戦い」が3月4日、始まります。
ところで、先ほど田原坂は乃木隊が確保したということについて触れました。
なのに何故そこに、薩摩軍が防衛ラインを築いているのか・・・については、実は政府軍、何故か確保したはずの田原坂から撤兵するように命令を下したのですよね。
後から見ればこれが如何に失策だったか・・・というか、誰がこんな命令を下したのか・・・謎です(汗)。
そう言うわけで、一度は確保していたのに撤兵した田原坂に、今度は薩摩軍に防衛ラインを築かれ、政府軍は苦戦することになります。
民謡にも「雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂」とある通り、両軍はここで一進一退の攻防戦を繰り広げ、夥しい死者を出します。

たかが坂一つ、何で破れんのじゃ!何が足りん!小銃か!?この坂を越えん事には熊本城の救援には行けん。どねぇしたもんか・・・

そう福岡の政府軍本営山縣有朋さんが荒れておられましたが、かく言う山縣さんだって、戊辰の折、北越で榎峠がなかなか突破出来なかったじゃないですか(笑)。
とまあ冗談はさておき、逃した魚は大きかった、改め、撤兵した田原坂は重要地点だった、と言ったところでしょうか(本当撤兵の命令出したの誰よ・・・)。
田原坂は守るに易く、攻めるに難い地形(人工的にくり抜かれた凹道で、道の両側に5~6メートルの高い土手があるので、通ろうとすると頭上より攻撃される)で、政府軍は一日平均32万発の小銃弾、1000発の大砲弾を撃ち込みました。
地の利は守る薩摩軍にありましたが、薩摩軍は弾薬不足に悩まされ、現地の農民を雇って政府軍の撃った弾丸を拾わせていたりしたそうです。
何だか会津戦争の折、鶴ヶ城で行われていたのと同じことを、あの時攻め手だった薩摩が行っていた何て、少し不思議ですよね
しかし火器に頼る政府軍が、17日間もここで激闘を繰り広げることになったのは、兵の訓練不足を火器に頼っていたところに原因があります。
そんな彼らは、白兵戦で頭上から斬りかかってくる薩摩兵に震え上がってしまい、号令が出ても進めない、なんて状態もあったようで。
これじゃあ駄目だということで、政府軍はこれの対処として警視隊巡査抜刀隊を結成します。

諸君らの中に命を捨てて敵軍の土塁に斬り込む者はおるか!?

と人を募る大山さんの台詞は、そういった背景から出て来たものです。
官兵衛さん斎藤さんがそれに志願してましたが、この抜刀隊は士族出身者で組織された警視庁巡査の中から100人を抜粋したもので、非常に勇敢に戦いました。
その中にいた官兵衛さんが元会津藩士だと知ると、「まさか会津と手をば組んで、あにさあと戦するこつになっとはな」と大山さん。
まあそうでしょうな、と視聴者の我々でも思うのですから、当時の彼らは世の中って分からないものだな~、とかなりしみじみ(?)思っていたのではなかろうかと・・・もしかしたら我々が想像するほど気にしてなかったのかも知れませんが。
そうして結成された抜刀隊として、容保様から賜った正宗を佩いて薩摩軍に斬り込む官兵衛さんでしたが、3月18日に被弾し、戦死します。

10年前、賊軍として追われた俺達が、今は官軍だ。官だの賊だの・・・時の勢い。武士はただ・・・死に物狂いで戦うばかり望みが叶った。戦場で斬り死に出来る。あ・・・ありがてえ

死に場所を求めていた、という言い方は少し違うような気がします。
(ちなみにドラマではどうしてもそう言う風に見えましたが、官兵衛さんが亡くなられたのは田原坂ではありません)
そんな暗い感情が似合うような人ではありませんよね。
辞世にある「君がため都の空を打ちいでて阿蘇山麓に身は露となる」からも察せるように、一に容保様(=君)と会津のため、と思ってこの戦に臨んだのだろうと。
そして官兵衛さん戦死の二日後、政府軍は遂に田原坂を制します。
田原坂の戦いは雨が多く、「薩軍に困るもの三つあり、一つに雨、二つに赤帽、三つに大砲」と謳われました(赤帽は近衛兵のこと)。
このとき薩摩軍の主力銃はエンフィールド銃で、先込め式の子の銃は雨に弱かったのです。
対して政府軍の主力銃はスナイドル銃なので雨に強く、そういったところも勝敗に影響を及ぼしたと考えられます。

一方で熊本城です。
薩摩軍によって包囲されていた熊本城ですが、政府軍応援部隊を八代南方の日奈久海岸に上陸させ、包囲軍に迫ります。
そんな中、浩さん救援部隊を率いて熊本城に入城(軍律違反の独断専行)を果たすという、会津戦争の折の彼岸獅子入城を彷彿させるようなことをまた遣って退けるのですが、本編では「4月12日、部隊を指揮して西郷軍の熊本城包囲網を突破した」のナレーションだけで片付けられてしまったのが、かなり寂しかったです・・・。
そういえば、有名すぎる「自分達は官軍に負けたのではなく、清正公に負けたのだ」の台詞もなかったですね・・・。
で、その熊本城に入城する前に、浩さんは不審人物に出くわします。
曰く、「犬を捜しちよお。見かけもはんやったな?」。
それで何故この不審人物が西郷どんだと浩さんが分かったのかは物凄く謎でしたが、西郷どんの犬好きっぷりを彼が知っていたということで無理矢理納得したいと思います。
殺気立つ浩さんですが、匕首一本持ってない戦意のない西郷さんを前に抜くわけにも行かず、代わりに問いをぶつけます。

西郷、訊くことがある。戊辰の折、会津は幾度も恭順を示した。それでもにしらは会津を朝敵に落とした。女子供も籠る城に大軍を以って襲いかかった!何でそこまで会津を追い詰めた!?
旧勢力が会津に結集してはいつまで経っても戦は終わらん
会津は人柱か!今のこの国は会津人が・・・会津人が流した血の上に出来上がっている!
そいを忘れたこつはなか。じゃっどん、もう収めんなならん。内乱は二度とは起こさん。おいが、皆抱いてゆく

会津は恭順はしてましたけど、恭順しつつも武装解除はしませんでしたし、奥羽越列藩同盟が結成されて刃向う気満々だったし・・・というのは敢えて触れないでおきましょう。
このやり取りの場面、要るか要らないのかは視聴者で分かれるだろうなと思いました。
要は西郷どんの「おいが、皆抱いてゆく」の台詞で括ってしまいたいんだろうな、ということなんでしょうが、その言葉に至るまでの浩さんとのやりとりが何とも言えない微妙さで・・・。
これ以上深く突っ込むと色々言われそうなので、ここで控えさせて頂きます。

西南戦争の最中、木戸さんは京都にいたのですが、ある日覚馬さんが襄さんと共にその木戸さんを訪ねます。

木戸さん、どうか停戦の勧告をお出し下さい。戦が続けば両軍に多くの戦死者が出るでしょう
内乱は田畑を荒し、人々を困窮させます
いや、最早行き着くところまで行かんとならんのじゃ。膿は出し尽くす。これは維新の総仕上げじゃ。さあ、もう行ってくれ

木戸さんはそう言いますが、史実ですとこの木戸さんの言葉は、実は覚馬さんの言葉でした。
政府軍と薩摩軍の勝敗の行方について尋ねられたとき、「是で維新の統一も出来、甚だ結構です」と覚馬さんは言ったのです。
「明治維新」の終わりを何処で区切るのかは、戦国時代の終わりを何処で区切るのかということと同じくらい、人によって様々です。
大きく分けますと、「大政奉還時」「江戸城無血開城時」「鶴ヶ城開城時」「五稜郭降伏時」「西南戦争終結時」、中には「日露戦争集結時」という声もあります。
覚馬さんにとっての「維新の完了」は、中央集権国家の樹立が完全なる意味で果たされた時であり、その妨げとなっている薩摩軍が排除された時、と言うことなんですね。
ちなみに覚馬さんは西南戦争の見通しを、こう述べています。
戦争は晩くとも本年十一月まで続かない、その故は、九州地方昨年の産米は何万石、その中本年二月までに大阪の蔵屋敷へ送米せられた分何千石残米何程、九州の総人口何程、薩軍の総数凡そ何程、兵を動かす糧食を考へねばならぬ。薩軍如何に決死の健児でも、食はずして戦へない

加えて史実の覚馬さんは、自分が薩摩に赴き西郷どんに投降するよう説得したい、と木戸さんに申し出ました。
戦争は憂えるが、大人物の西郷どんを失うのは惜しい、と考えていたようです。
木戸さんは有名な 「西郷・・・大概にしちょけ!」の言葉を遺し、西南戦争の終結を待たず、5月26日に世を去ります。

かつて薩摩藩邸のあった土地に、君らは学校を作った。西郷の蒔いた種は、君らの学校で芽吹くかもしれんな

この言葉は、「教育」という、今の時代に何が必要か考えて見出したものは同じだったのに、捉え方が違ったのか何だったのか、結局同志社と私学校が異なった道を言ってしまったことを示しているのでしょうか。
でも「教育」という、見出したものは西郷どんも襄さん達も同じだから・・・と。
ドラマの明治編の軸を「教育」に据えれば、もう少しこの辺り具体的な肉付け諸々が出来たでしょうに・・・何だか惜しいです。

薩摩軍が熊本城の攻略に失敗したということは、敗北を意味しているに等しいことでした。
しかしそれでも薩摩軍は降伏せず、保田窪、健軍で政府軍と有利に戦いを進めましたが御船で大敗してしまい、人吉まで退いて再起を図ろうとします。
が、政府軍に七方面から攻め立てられて敗走し、都城に再結集しましたが、政府軍に包囲網を敷かれ、7月24日には都城を放棄して佐土原~高鍋~美々津と敗戦を重ね、本営の延岡に行きます。
しかしその延岡も陥落し、それを奪還しようと薩摩軍は和田越に陣を展開しますが、ここで初めて西郷どんが陣頭指揮を執ります(和田越の戦い)。
けれども西郷どんの向こうにいるのは、政府軍5万の大軍・・・西郷どんの陣頭指揮で薩摩軍の指揮は上がりますが、それでもやはり人数と火器の差に押され、西郷どんは8月16日に全軍解散令を発します。
ここで薩摩軍に呼応する形で従軍していた各地の士族は次々と政府軍に投降しますが、私学校党の生徒ら600人西郷どんと運命を共にすることを決意してました。

ようやった。きばいやったな。皆、こいまでよう戦うた。じゃっどん、勝負はついた。降ろうち思う者は降ってよか

という西郷どんの言葉と、別府さんが、ここに至って卑怯未練を言うものはいない、皆西郷さんと共に死ぬ覚悟だと言うやりとりは、この辺りのことを意識してのものだと。
そうはいっても周りの山はぐるりと厳重に政府軍に包囲されている形でしたので、運命を共にすることを決断しても、彼らは袋のネズミの状態です。
そこでその状況から抜け出すために、辺見十郎さんは断崖絶壁の天嶮でもあった可愛岳を突破することを提案します。
8月17日午後10時、山越えを開始した薩摩軍は、翌朝4時に頂上付近に到着し、油断していた政府軍に突撃をしかけます。
まさかあの断崖絶壁の天嶮を越えては来ないだろう、という油断が政府軍にはあったのですね。
その隙を突かれて政府軍は退却するのですが、その際に放棄していった食料や武器弾薬などは、薩摩軍によって奪取されました。
その後も薩摩軍は苦しい行軍を続け、7か月ぶりに彼らは故郷の鹿児島に戻ります。
やがて城山に追い詰められて立て籠もった薩摩軍372名は、5万の政府軍に厳戒態勢で包囲されます。
このとき、山縣さん西郷どんに自決を勧告する文書を送ったそうです(正確に言えば、山縣さんが福地桜痴さんに頼んで書かせたものですが)。
薩摩軍に向けて総攻撃が開始されたのは、9月24日午前4時のことでした。
激しい総攻撃の前に、寡兵である薩摩軍の部隊は壊滅させらていきます。
午前6時頃、岩崎谷の洞窟の前に西郷どんを始めとする桐野さん村田さん別府さんら40数名が全員斬り死にに覚悟で集結します。
しかし島津應吉邸の前で西郷どんが腹部と股部に銃弾を受け、「晋どん・・・頼む」と別府さんに介錯を頼み、ごめんやったもんせ、と別府さんが刃を振り下ろします。
西郷どん、約50年の人生でした。
武士は自刃の際、西を向くものですが、西郷どんは朝日に向かっていたことからも分かるように、東を向いて手を合わせていました。
これはどういうことかと言いますと、つまり東=東京で、明治天皇のおられるところ、だったんですね。
明治天皇にとって西郷どんは、信頼の篤い師傅のような存在で、西郷どんの死を深く悼んだと言います。
彼の死後も、「かような折には西郷がかうした」などという言葉を度々零されています。
西郷どんの介錯を務めた別府さんも、足に重傷を負っており、その後銃弾に倒れた、あるいは辺見さんと刺し違えて最期を迎えています。
村田さんも戦死、桐野さんは右の額を貫かれて戦士、こうして両軍合わせて1万3000人の戦死者を出した西南戦争は、その日の午前9時頃には銃撃が止み、幕を閉じました。
説明文が多くなったので、薩摩軍の動き諸々を簡単に下図にまとめましたので、また何かの参考にして頂けたら幸いです。

(多少のズレ、誤差はありますが、目を瞑って頂けるとありがたいです)

翌年、紀尾井坂の変によって大久保さんは凶刃に倒れ、所謂「維新の三傑」が相次いで世を去って行きます。
大久保さんだけ、やけにあっさりとした描かれ方じゃない?と感じるような演出方法でしたが・・・いえ、歴史の授業などでちゃんと習うので、あの描かれ方でも分かりますけど。
でも何だか、この大久保さんの最期に関わらず、最近の八重の桜は「後は適当に察して下さい」と視聴者に丸投げにしてる部分が多くて、雑だなという感が否めない。
まあ、何はともあれ西南戦争終結を以って、覚馬さんの考えに則れば「維新の統一も出来」ました。
ということで、いよいよドラマの視点も同志社と同支社女子に絞られてくるのでしょうか?(伊勢みや子さんや徳富初子さんが出て来てましたし)
主人公は八重さんなので、それは流れ的に分からなくもないのですが、八重さんと共に会津の大地で育った皆様も、余り蔑ろにしないで上げて欲しいなぁ、という一視聴者としての我儘な願望があったりもします。
・・・何だか今回は、文句の多い記事になってしまいましたね(苦笑)。
(好きだし大切にして欲しいからこそ文句も出るのですよ)

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年9月18日水曜日

熊本バンドはこうして生まれた

前回から同志社英学校にやって来て、熊本旋風を巻き起こしている「熊本バンド」。
ドラマ内での彼らの「行き過ぎた」部分への補足は、以前の記事でさせて頂きました。
今日はもう一息補足と言う形で、熊本バンドがどのようにして生まれたのか、出来事の年表をあっちこっちに飛ぶ形で、至らないながらも書かせて頂きたいと思います。

まず熊本バンドを育んだ、熊本洋学校。
ここにアメリカの退役軍人リロイ・ランシング・ジェーンズさんを教師として招かれ、その教えを受けた生徒35人がキリスト教に入信し、それが原因となって廃校になったのですが、廃校はさて置きこの学校が建てられた経緯のようなものを見て行きましょう。
熊本洋学校は明治3年(1870年)、熊本実学党によって、西洋の文物技術を取り入れるために創設された学校です。
とだけ書くと、「へー」で終わってしまうのですが、その前に「熊本実学党」って何?と思われる方もいると思います。
熊本実学党を説明するために、まず熊本藩主細川重賢さんの時代まで時間軸を巻き戻したいと思います。
この重賢さんの時代に、「宝暦の改革」と呼ばれる藩財政の改善と、藩教育の革新に力を注いだ試みが行われます。
このとき、宝暦5年(1755年)に時習館という藩校と、翌年には再春館という藩の医学校が作られました。
時習館は、江戸時代の藩校によくある文武両道は勿論のことでしたが、一方で非常に開明的な藩校でもありまして、干拓などをやっていて、そこで収穫されたもので藩校経営を回していました。
つまり藩校側としては、生徒から授業料を取らなくてもやっていける経営状態が成り立っていたということになります。
だから武家の子供じゃなくても、私塾などで推薦された人も通えるという気風を持った藩校でした。
授業料がかからないから、身分関係なく、優秀な人が学べるよ、という意味でオープンな藩校だったのです。
それでもまあ、生徒には武士階級が多数を占めていましたが、それでも少数には非武士階級の生徒がおりまして、この非武士階級の人たちが藩校で優秀な人材になったりすると、やっぱりそこは身分というものの悪い性格でしょうか、武士階級の人間はそれが面白くないんですよね。
それで身分風を吹かせるようになるのですが、そんなことをすれば折角のオープンな藩校は台無しです。
時習館が出来て数十年経って、そういう武士階級の身分に固執するような形で組を作るのは如何なのかと批判したのが、このブログでも時折名前が出ていた横井小楠さんです。
ちなみにそんな彼らのことを、後に「学校党」とあだ名されるのですが、小楠さんはそんな彼らに対して、そんな学問の学び方では駄目だろう、という姿勢を取りました。
今学んでいるで学問が現実に対応していないと意味がない、現実世界の変化も見なければならない、と。
先の「学校党」に対して、小楠さんは「実学」を提唱したわけです。
実学、と書くと、漢字の意味をそのまま拾ってしまって「実用的な学問」と捉えてしまいそうになりますが、そうでなく、現実に対して能動的な学問であれ、と言う意味での「実学」です。
要は「経世致用の学」でしょうかね。
そういった具合で、「学校党」と小楠さんの提唱する実学を実践する「実学党」、このふたつが熊本藩内で対立します。
まあこのふたつの対立は、家老をも巻き込んだ藩内の権力闘争にまで発展し、学校党がそれを制したかと思えば今度は勤王党というのが出てきて、三派鼎立・・・ということになり、それぞれの顛末を迎えて行くことになるのですが。
その後の実学党は、分裂もしましたし、何より小楠さんが福井の松平春嶽さんのところへ行ってしまったため(政治顧問として招かれたのもありますが、春嶽さんの奥さんが熊本のお殿様のお姫様だったので無下に断れなかったというのもあります)、熊本藩内で力は弱くなります。
ですが維新後、勤王党学校党諸々が失速してくれまして、その隙に実学党が熊本の政権を握るに至りました。
政権を握った「現実に対して能動的な学問」を掲げる熊本実学党が、明治になって「西洋の文物技術を取り入れる」ために、それを学ぶ場を設けた、それが熊本洋学校です(かなり割愛の説明を経ての結論になりますが)。
分裂してようが、実学党が「現実に対して能動的な学問」を掲げている限りは、小楠さんの弟子と言えるのではないかと思いますし、そういう意味では、熊本洋学校から輩出された熊本バンドの皆様も、そういう位置づけになるのではと思います。

まま、それで。
熊本実学党が何かはぼんやりと伝わったが、さっきから無駄に連呼してる小楠さんとは誰ぞや、という追撃突込みが来そうなので、もう少し記事を続けます。
このブログでも何度か触れて来てますが、「八重の桜」的に解説するなら、小楠さんは覚馬さんに『管見』を書かせた(直接的にではなく、影響的にという意味で)人物です。
坂本龍馬さん何かも影響を受けてまして、正直なところ「八重の桜」で「何でこの人出て来てないんだろう?」と思う人物はそこそこにいるのですが、その最たる人物が小楠さんだと言っても過言ではないと私は思っております。
龍馬さんの『船中八策』、及び覚馬さんの『管見』には、口論を国政に取り入れるという構想が反映されていますが、これは小楠さんが春嶽さんに提出した「国是七条」の中で説いた考えです。
春嶽さんが「共和政治」と言っていたのも、小楠さんのこの考えを受け入れたからです。
またこの共和政治論は、春嶽さんに受け入れられ、『船中八策』や『管見』の構想の取り入れられただけでなく、勝さんや西郷さんにも影響を与えましたし、明治期の議会開設の際にも取り入れられます。
明治に入って覚馬さんが京都で殖産興業を実践していますが、これも小楠さんの「国是三論」に影響されたからでしょう。
あまり書くと、戻って来られないくらい脱線しそうですので、小楠さんについてさらに詳しく知りたい方はご自分で追及して頂くことにして・・・。
覚馬さんにとって小楠さんは、影響を受けたどころか、それを通り越して大尊敬の対象となっております。
なので、小楠さんの熊本実学党から出た熊本バンドを同志社に受け入れる時、本当はドラマ見たいに難色は示さず、むしろ即答でOK出す勢いだったんじゃないかなとも思わなくもなくて。
覚馬さんがどれだけ小楠さんを尊敬していたのかについては、小楠さんの嫡男、時雄さんをみねさんの婿に迎えている辺りからも、お察し頂けるかと思います。
(ちなみにその時雄さんも、熊本バンドとして同志社に入学します)

相変わらず着地点の見えにくい論理を展開しておりますが。
要は熊本バンドは、覚馬さんの尊敬する人の弟子にあたる「実学党」から出たものですよ、と。
その関連性だけ、補足としてご紹介させて頂きます。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年9月17日火曜日

第37回「過激な転校生」

新婚ほやほや(といっても八重さんは再婚ですが)の新島夫婦。
尚之助さんと夫婦になった時、こんなにお嫁さんお嫁さんしてただろうかと、若干の苦笑を零したくなるほどちゃんと「お嫁さん」をやってる八重さん。
朝にお肉を食べると力が湧くらしいと聞いて、一体何処から入手して来たのか、七輪でベーコンを焼き加減分からずに丸焦げ寸前まで焼いて、洋食風の朝食を整えてあげる辺り、吃驚するほど完璧なお嫁さんです。
襄さんはそんな八重さんに、夫婦の間には上下がなく、平等であり対等だと言い、自分のことを「ジョー」と呼ぶように求めます。
しかし襄さんがこの対等さ、平等さを求めて「ジョー」と呼ぶように、と言ったことが、後々で周りに波紋を呼んでしまう結果になります。

さて、以前の記事でも触れましたが、同志社英学校が最初に建てられたのは現在の旧新島邸がある場所で、明治9年のこの年に、覚馬さんが寄付した旧薩摩藩邸跡、すなわち現在の同志社大学のある場所に建ちます。
同志社英学校が旧薩摩藩邸に移った後、襄さんはその土地を買い取って新居と、襄さんのご両親の隠居所を建てます。
その建設工事の相談を請け負ってくれるのは、やっぱりといいますか、人足派遣業者を請け負ってる大垣屋さん。
図面を広げてあれこれ相談している内に、襄さんが新居のお手洗いについて解説し始めます。
流石に八重さんが、厠の話を人前でするものではない、と咎めますが、会話の中にあった新島邸のお手洗いはこんな感じです(旧新島邸に現存)。

一応和式風にも洋式風にも用が足せると言った風になっているのかな、という感じです。
八重さんの生活の洋式化は、主に襄さんによって齎されたと言っても過言ではないと思いますが、次に襄さんが八重さんに持って来たのはベッド。
これも同じく旧新島邸に現存していますが、これは直接見ることは出来ないので写真は割愛します。
襄さんは、お手洗いの件について大垣屋さんの前であってもはっきりと自分に物を言った八重さんを、改めて褒め(?)ます。

八重さん。私はあなたが・・・怖い妻で良かった。夫の私を平気で怒る。日本にこんな女性がいるとは思いませんでした

所謂当時の日本人の妻の典型である「夫の影を踏まない」妻ではなく、襄さんは自分の隣を歩き、時には導いてくれる妻が欲しかったのは、「東を向けといわれたら~」の下りで、皆様ご承知のこと。
夫だって時には迷い、間違いもします。だから私が間違ってるときは遠慮なく怒って下さい」というのは、非常に理に適ってますよね。
戦国時代の大名夫人などは夫と対等でしたが、江戸時代に入るとどうも「夫の影を踏まない」女性が美徳というか、テンプレートされてきた節が日本にはありまして。
ジェンダーや女性の人権諸々については話が脱線するので避けますけど、私は襄さんの求める女性観に飽く迄も賛成だなと思います。
しかしこれは現代人の私だから気軽に言えてしまうことで、当時はまだまだその観点が浸透しません。
そのことは、襄さんのことを「ジョー」と呼び捨てにしている八重さんに対して、生徒たちが驚きと「非常識だ」と言わんばかりの視線を向けているのを見て頂いても良くお分かり頂けるかと。
後でもまた触れようと思いますが、「変えて行く」というのは難しいことですね。

さて、明治のこの頃になると、洋学校と言わず、学校がぽこぽこ設立されました。
ナレーションでは「身分から解放された人々の~」とはありましたが、厳密に言えば身分から解放されたとは断言しにくい世の中でした。
いえ、身分からは解放されたのかもしれませんが、出身藩(廃藩置県が施行されたので藩なんて実質存在しませんが)という柵は人々に重く圧し掛かってましてですね。
賊藩(という言い方はあんまり好きではありませんが)出身者は、官僚にはなり難いなどの背景が確かにこの時代、存在しました。
では賊藩出身者がどう明治の世で身を立てて行くのかと言えば、軍人になるか、学問を修めることです。
(『坂の上の雲』の秋山兄弟は、正にこれを地で行った形ですね)
学問が出来れば、身分や出身はどうあれ国が雇ってくれました。
明治5年8月2日に学制が発布されたのも、勿論国全体に「教育」というものに意識が向いた理由として見過ごしてはならないことだとは思います。
しかしこの強制的な学制も、修学することによって子供の働き手が奪われるので、反発していた庶民がいたのも事実です。
まあ、そんな背景の中で、襄さんのところへ、熊本洋学校から生徒受入れ依頼の手紙が来ます。
熊本洋学校というのは明治4年(1871)9月1日に開校した官費の学校でして、授業は全て英語で行われているという先進的な学校でした。
リロイ・ランシング・ジェーンズさんというアメリカの退役軍人さんがひとりで教鞭を取っていたのですが、明治7年ころからジェーンズさんは自宅で聖書研究会を開くようになり、それに感化を受けた生徒が出て来てしまいます。
その生徒たちの中で、35人はやがて熊本城下にある花岡山で集会を開催し、賛美歌を歌い黙祷と聖書朗読を捧げた後、「奉教趣意書」に誓約(=集団でキリスト教に入信)します。
キリスト教への入信自体は、風当たりは強かったですが禁止は解かれてるので、問題ないと言えば問題ありませんでした。
ですがこの趣意書の内容が、「神の国を創る」というような宗教国家樹立を宣言したようなものですから、行き過ぎた信仰心が危険視されます。
これが問題視され、まずジェーンズさんは解任され、熊本洋学校は閉鎖となりました。
その彼らを、同志社に受け入れてはもらえないか、という打診が襄さんのところに来た手紙の趣旨です。
八重さんは教師がふたりしかいないことを理由に、覚馬さんは彼らの信心深さを理由に、それぞれ受け入れに難色を示しますが、襄さんは「救いを求める声を無視しては何のために学校を作ったのか分かりません」と、熊本からの生徒を受け入れることを決めます。

明治9年3月28日、帯刀禁止令が発布されます。
廃刀令、と言った方が馴染みがあるでしょうか、これによって大礼服着用者、軍人、警察官以外の一切の帯刀が禁じられます。
ちなみに庶民の帯刀は既にこれより6年前の明治3年時点で禁止されています。
明治4年に発布された散髪脱刀令は、「刀を持っても持たなくても、好きにして良い」という内容のものでしたが、この帯刀禁止令によって、明確にそれも禁止ということになります。
明治維新で封建制度が崩壊し、廃藩置県で所属すべき藩を失い、秩禄処分で俸禄を奪われ、最後に刀まで取り上げられた武士階級がこれに黙っているはずはなく。
浩さんの幼馴染の竹村幸之進さんは帯刀禁止令を厳しく批判した記事を新聞に載せます。
この竹村さん、実は1話時点からずっと出演していて、浩さんの周りにいたようなのですが、不覚にも全く気付きませんでした・・・。
そんな竹村さんの行動を、浩さんは「こんな記事を出していだら、お前の命が危ねえど言ってんだ」と危惧します。
これだけではなく、竹村さんは新聞社で度々政府を鋭く批判する記事を書いては、発禁を食らっていました。
しかしそんな浩さんに、それでも会津の武士かと竹村さんは怒鳴り返します。
竹村さんの目には、唯々諾々と新政府に仕官してる浩さんが、薩長の手下になったと映るのでしょう。
そのまま、幼馴染の二人は袂を分かちます。
勝手な憶測になりますが、時代が変わって刀の時代が終わって、でもその終わりを受け容れられなかった人ってのは竹村さんに限らず、大勢いたと思うんですよね。
竹村さんのように、やるせない気持ちをぶつけたりしたり、噛み付いた人もたくさんいたはずで。
別にそういう人達が馬鹿とか柔軟じゃないとか、そういうのじゃなくて、そう簡単には人間変われませんよ、ってことの現れなんじゃないかなと個人的には思ってます。
武士という職業階級が日本に誕生してどれだけの年月が経ってるか考えれば、その根がすぐに抜けないほど深いのも道理かと。
逆に浩さんみたいに、歯を食い縛って新しい時代を受け容れんとしてた人もいると思うんですよ。
武士の世を壊したのは武士階級(と一部の公家階級)の人で、それによって新時代で困る武士階級の人々。
そんな難しさも含みつつ、危うい調整をして(結果的には西南戦争が起こりますが)、近代国家を目指そうとしてたのが「明治時代」という性格の一面だと、私はそう考えてます。
学制を始めれば、子供を労働力として考えていた人々から反発を食い、近代国家を目指すために封建制度の名残を払拭しようとしたら、武士階級諸々から反発を食らう。
それでも一生懸命一生懸命、国家を築こうとしてたんですよ、明治政府は。

不穏な空気が日本中に漂う中、その夏、山本家に熊本から金森通倫さんがやって来ます。
物凄く苦労して京都にやって来たこの金森さん、石破茂さんの曾お祖父さんに当たる方なのですが、熊本洋学校の例の35人の現状を襄さんに伝え、自分達を同志社英学校に入学させてくれるよう懇願します。
襄さんはそれを歓迎し、9月、後に「熊本バンド」と呼ばれる熊本からの転校生が同志社英学校にやって来ます。
熊本バンドのツワモノ達が、初期生徒8人を追いやり、同志社大一期卒業生は初期生徒ではなく全員熊本バンドメンバーになるという事態を引き起こしますが、それは結果論。
今はその過程を、物語の進行と共になぞって行きましょう。
遥々熊本からやって来たというのに、何処か頑なな態度を崩さない熊本バンド。
「牧師になる覚悟」で同志社英学校にまで来たのに、校長の襄先生が教師一年生であり、聖書の授業がないことなどなど、色々彼らなりの不満があるようです。
ただひとり、牧師にはならず、他に夢があるという徳富猪一郎さん(後の徳富蘇峰)は、八重さんを「鵺」呼ばわり。
英語の授業にも不満を募らせ、構内で喫煙・飲酒する生徒からそれらを取り上げ、他を圧倒する始末。
・・・と、これだけズラズラと書いたら、熊本バンドがどうしようもない集団に思えますが、少し弁護させて頂きたいと思います。
要はドラマの演出の仕方が極端すぎるのでありまして、何故彼らがこんなに高い水準の教育を必死になって求めているのか、その理由は「こぎゃんところにおったら、我らん学問は遅るっばかりたい」「俺達にゃもう戻る場所はなか。今はここで学ぶしかなか」と、作中出て来たこの二つの台詞がキーワードとなっています。
まず、彼らがキリスト教に深い(行き過ぎた、とも言えます)信仰心を持つ理由。
逆を言えば、彼らが何故そこまでキリスト教を依拠としたか、ですね。
理由は簡単、今まで依拠していたものが解体されて、霧散してしまったからです。
つまり彼らにとって依拠とも言えた藩が無くなってしまい、忠義(=心)を捧げる対象が無くなってしまったわけです。
そんな彼らの前に、図らずも新しい対象として現れたのがジェーンズさんの熊本洋学校であり、キリスト教の精神だったのです。
次に、何故彼らがこんなに高い水準の教育を必死になって求めているのか、の部分の補足をば。
作中でも台詞で語られました通り、熊本洋学校が閉鎖になった今、彼らには同志社英学校の他に戻る場所はありません。
まあそれならそれで、もっと妥協も出来ないかなとも思わなくもないですが、もう少し彼らの事情に耳を傾けたいと思います。
平たく言いますと、「同志社英学校の他に行く場所のない熊本バンド」は、「同志社英学校を卒業することで食べて行かねばならない」のです。
その卒業時に、ぬるま湯に浸かったような学問を修めてるようでは彼らは困るのです(就職出来ないから)。
何より、何のために郷里を追われて来たのか、ということになります。
そういう危機感が彼らを追い立て、より高い教育水準を求める動きへと変わって行きました。
こういう背景事情にほとんど触れずに熊本バンドを描くから、ドラマの熊本バンドは「鼻持ちならない連中」として視聴者の目に映りますが、台詞の端々から彼らの事情を察すると、このようなことになります。
ただ、熊本バンドと在学生の間に生じる学力差には同志社側も困ったようで。
後にみねさんの旦那様になる横井時雄さんや、山崎為徳さん何かは東京開成学校を中退して同志社に来てますから、基礎学力が在校生とは差があり過ぎるのです。
学力差についてはドラマでも明確に描かれていましたが、熊本バンドは熊本洋学校の1~5期生が来ていましたが、3期生までは英語力も堪能でした。
4~5期生の蘇峰さん達は普通科でも問題なかったので、大学レベルの授業内容を求めていたのは主に3期生までの生徒ということになります。
同志社教師陣もそのあたりは配慮し、大学レベルを求める彼らのために「余科」という通称「バイブルクラス」を設けます。
ドラマでは熊本バンドから改革要求を突き付けられていましたが、それについて授業の見直しをした結果ということになるのでしょうか。
余談ですが、襄さんが熊本バンドに涙ながらに語りかけた

私の目指す学校は、学問を教えるだけでなく心を育てる学校です。私は、日本のために奉仕することの出来る、国を愛する人間を育てたくてこの学校を作りました。国とは国家のことではありません。国とはピープル、人々のことです。国を愛する心とは、自分を愛するように目の前にいる他者を愛することだと私は信じています。主は言われた、『自分自身を愛するように、汝の隣人を愛せよ』と。型通りでなくても良い、歩みが遅くても良い、気骨ある者も大いに結構。良いものは良い。しかし、己のために他者を排除する者は断じて許さない!

というのは、所謂「愛神愛隣」の精神ですね、マタイ伝22章34節~40節に書かれてあります。
ちなみに、大学レベルの、と言っていることからもお分かり頂けるでしょうが、この時点で同志社英学校は「大学」ではありません。
彼が大学設立運動を起こすのはもう少し後のことになります。

明治9年10月29日、東京の思案橋にて、十数名の会津藩士が警官を惨殺する事件が起こります。
いわゆる「思案橋事件」です。
この前日に起こった萩の乱に呼応する形で起こったこの一件には、竹村さんも実行犯として関与しておりまして、彼らの目的は千葉県庁を襲撃した後、佐倉鎮台を襲い、日光付近で同志を募って会津で挙兵、というものでした。
その千葉に渡るために船を出そうとしていたところ、警官に見咎められ、挙兵は未然に防がれ竹村さん達は逮捕された、という次第です。
政府が士族を追い詰めすぎてしまった結果、爆発してしまったのもあるでしょうが、最後にもうひとつ大きい爆弾が残ってるのですよね。
その爆発が描かれるのは次回なので、詳しいことは次回に筆を送りますが、実はこの思案橋事件と萩の乱の連動、前者の実行が旧会津藩士に対して、萩の乱は旧長州藩士実行なのですよね。
つまり昨日の敵は今日の何とやら・・・とは言いませんが、会津と長州が連動していたという奇妙さを持った一連の出来事でもありまして。
普通なら会津戦争からまだ間もないですし、あり得ないことのように思えますが、そんな怨嗟も一時休戦となるほどに、士族の不満が高まっていたと捉えて頂ければと思います。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年9月11日水曜日

第36回「同志の誓い」

「東を向いてろと言われたら、三年でも東を向いてるような婦人はごめんなのです」という襄さんと、八重さんの仲人を槇村さんは快く引き受けてくれました。
明治8年10月15日時点で、ふたりの婚約は確認されていますから、出会って数カ月で「この人と結婚しよう」とお互い思ったのですね、素敵です。
しかし喜びも束の間、八重さんの思いも寄らぬところでキリスト教である襄さんとの婚約の波紋は広がって行きます。
それが顕著に現れたのが、八重さんの勤務先でもある女紅場。
女子生徒のぬいさんは、明らかに八重さんから目を逸らし、口を利かないでおこうとする態度を取りました。
そんな時、八重さんは学校に来た役人に呼び出され、女紅場の解雇を告げられます。
記録によると、副舎長兼教導試補に任命されていた八重さんが、女紅場を解雇されたのは11月18日のようです。
キリスト教の宣教師である襄さんと婚約したためだ、と自己分析する八重さんに、同僚の方々も、「結婚はめでたいけど耶蘇は・・・」と言うような態度。
解禁になったとはいえ、世間ではまだまだキリスト教への風当たりが強かったということですね。
一方、京都府庁で商人相手に講義を行っていた覚馬さんにも、その風は吹き付けます。

日本海と琵琶湖を結ぶ。そして、琵琶湖と京都と結ぶ。運河を造って、他の土地から必要な資源を運ぶんです

交易ルートの説明に、流石は山本先生だと誉めそやす商人たちでしたが、「先生は耶蘇なんかいな?」と投げ掛けられた問いに、場はざわつきます。

先程申し上げた運河は、云わば器です。この京都どいう新しい器には、それに似つかわしい中身が必要です。私は洋学や英語を教える学校を創って、中身も新しくしたい。西洋の進んだ文明を学ばねぇと、東京においてけぼりを食らいます。いや・・・日本がおいてけぼりを食らうんです
山本先生。この京は戦で深く傷付きました。器を新しくして貰えんのはえろうありがたいことどす。せやけど、中身は何でもかんでも放り込んだらええってものやない。この京には積み重ねがあります。それを育んで来た矜持もあります。この町の者は皆そう思うと思います。もうちょっと、上手いことでけしまへんやろか

覚馬さんの言うことは尤もですが、それでも耶蘇は・・・となるその場でただ一人、大垣屋さんがそう反論します。
ちなみに、マタイではありませんが、マタイと同じく新約聖書のルカ5章36節には

そして、イエスはたとえを話された。「だれも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい服も破れるし、新しい服から取った継ぎ切れも古いものには合わないだろう。また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。『古いものの方がよい』と言うのである。」

と書かれてあります。
「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない」「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」という部分は、覚馬さんのいう「器」に通じているように思えます。
ですが、新しさばかりを求めて古いものの中に在る大切な何かを置いて行ってしまうという部分も、忘れないでいて欲しいですよね。
ともあれその場は、槇村さんが覚馬さんの創った学校では耶蘇は絶対に教えさせません、と宣言することで、何となく納まりをみせましたが、何かあったら槇村さんの進退も問わないといけないようになることなだけに、槇村さんも穏やかにはいられません。
だからでしょうか、実は八重さんの解雇を指示したのも槇村さんでした。
それについて掛け合いに来た八重さんに、槇村さんは一般的な正論を述べます。

年頃の女生徒たちを預ける親の身になってみい。耶蘇に近付く人間が危険じゃとみなされるんは仕方なかろう
でも、日本ではもうキリスト教は禁止されていないはずです
そんなもんは建前にすぎん

そして槇村さんは、女紅場を辞めたくないのなら、襄さんと結婚しても自分は耶蘇にはならないと生徒の前で宣言することが条件だと言います。
ですが、夫となる襄さんの信じるものを自分が蔑ろにすることは出来ない八重さん。
しかしそれは「建前」だと槇村さんは指摘します。
心の中では何を信じてようが構わない、しかし表向きだけは耶蘇ではないと取り繕ってくれれば万事丸く収まるのだと言いますが、京都ならではの「本音と建前を使い分けろ」と言うことでしょうか。
正直、会津人が一番苦手とするのがこの「本音」と「建前」の使い分けな気がするんですが(苦笑)。
これが会津に出来ていたら、幕末史は色々と変わったかと思います(使い分けが出来なかった会津を悪いと言っているのではありませんよ)。
槇村さんは、明日にそれが出来なければ八重さんは解雇で、それ以上は自分も庇い切れないと言います。
襄さんを裏切ることは出来ない、でも生徒を見捨てるわけには行かないと、迷う八重さんですが、今一つ八重さんにとっての女紅場、という部分が強く描けていないので、迷うほどに女紅場に思い入れがあったのか?と少し感じなくもないんですよね(汗)。
少し明治編に入ってから、早送りな感じで物事の展開が進んで行ってる感が拭えませんが、早送りされると、そう言った思いの丈の深さとかがどうしても表現し辛くなる点、要注意だと思います。

襄さんと同じアメリカン・ボードの宣教師に、ジェローム・ディーン・デイヴィスさんと言う方がおられます。
デイヴィスさんは襄さんより4年早く日本にやって来て、神戸や三田を中心に布教活動を行い、成功を収めていました。
外国に向けて開港されていた神戸は勿論、内陸部の三田で布教の成果があったのは、旧三田藩主の九鬼隆義さんが、西洋文化への関心も高く、英語を学ぶための手段として聖書を欲していたからです。
明治5年(1872)に、デイヴィスさんが避暑のため有馬温泉に滞在していた時に、隆義さんと出会い、そこから交遊が始まったとされています。
キリスト教への風当たりが強かった当時、元藩主自らが積極的にキリスト教と関わろうとしたのは、元家臣らに大きな影響を与えました。
明治8年(1875)に日本で三番目に古いプロテスタント教会が三田に建つのですが、献堂式の際にデイヴィスさんが説教を、襄さんが司会を務めたのも、そういった伝道活動の成果によるものでしょう。
そのデイヴィスさんが、襄さんが学校を作るにあたって色々と協力してくれるために上京します。
学校の仮校舎の物件については、大垣屋さんが奔走してくれたそうで、早速襄さんはデイヴィスさんと八重さんを連れて、その視察に向かいます。
向かった先は、見事なまでのボロ屋敷。
住所で言えば、現在の京都市上京区寺町通丸太町上ル、ですね。
元々は禁裡幕府の御用大工棟梁中井家の屋敷がありましたが、明治期になると堂上華族、高松保実さんが所有していました。
ここに高松さんは住んでいなかったということになるのでしょう(きっと東京に移住した)・・・しかし、いくら耶蘇が嫌いでも、堂上華族のお屋敷に石を投げ込む京都の人って、少しおかしな絵図ではないかと思うのですが(苦笑)。
しかし目の前の惨状に、襄さん拍手を送りたくなるような素晴らしいポジティブシンキングを発揮します。

八重さん、ここにいくつ机が置けるでしょう。何人の生徒がここで学ぶことが出来るでしょう。幾人の生徒がここから巣立っていくでしょうか。大事なのは何処で学ぶかではない。何を学ぶかです。何かを始めるにはこれぐらいが丁度良い。見かけばかり立派な校舎なんていらない。私達で修繕しましょう

主の名の下に受ける苦しみは、喜び、と以前襄さんは公言していましたが、基本宣教師の姿勢ってそうですよね。
どれだけ苦難に阻まれても、自分達にとっての戦いだと思ってるから苦ではない、と。
そこへ、殺気を纏わせながら町民たちが入って来ます。
皆さんと共にここで歩みたいと言う襄さんの申し出を、町民たちは一蹴します。
キリスト教への嫌悪を隠さない彼らですが、思えば明治のこのとき、廃仏毀釈が全国的に行使されていて、寺社の立場も絶対ではなかったですし、酷い目にも遭っていたでしょう。
ですから、そんな状況の中へ異教が混じろうとするのに、寺社だけでなく民も、強い抵抗を覚えずにはいられなかったのでしょう。
(そもそもどうして廃仏毀釈が、ドラマ中でひと言も触れられていないのか謎)
成り行きを見ていた大垣屋さんは、そっと口を開きます。

私も耶蘇のことはようわからしまへん。せやけどこの方達のご覚悟が全くの偽物とも思えなくなりました。遷都以来、この京はどうもぱっとせえへん。このままでは廃れていくばっかりや・・・。それじゃああんまり悔しいやおへんか。この方達は皆さん方が見向きもしなかったこの家に、大きな望みを託してくれはった。それで十分や。私たちはこの町を愛おしく思うてます。皆様のご覚悟がこれきりでないかどうか、ずうっと見続けさせて貰います

鶴の一声ならぬ、大垣屋さんの言葉でその場は納まりますが、まあ表面上は穏やかに見えますが大垣屋さんは任侠の親分みたいな顔もお持ちでしたからね。
なので覚馬さんの講義の時の言葉と言い、今のこの場をまとめたことと言い、他の町民とは少し違う重みがあるのはそういう設定があるからでして。
しかし気になったのが、これほどまでに京都愛な京都人である大垣屋さんが、「遷都以来」と言ってしまっていること。
事実上は遷都だけど、誰も遷都とは口に出してないのに・・・いうことはこのブログでも何度か触れましたが、他らなぬ京都の人が言っちゃって良いのだろうかと。
細部の粗を、揚げ足取るようにいうのもアレですが、気になったので。

一方で八重さんは、襄さんか生徒たちか、自分の中の迷いに踏ん切りをつけました。

私は、宣教師の男性と夫婦になる契りを交わしました。私は妻として、夫の考えを認め、支えなければなりません。なぜなら、これは自分で決めだ結婚だからです。私が自分で決めだ道です。人は誰でも自由に自分の考えを持づ事が出来る。これが私の信念です。だから、私は皆さんに、嘘を吐けと教える事は出来ません。だから、皆さんも自分を偽るごとなく、自分のドリームを・・・自分の心に従って、自分の道を進んで・・・

役人に阻まれ、最後まで言葉を続けられず、教室から引き摺り出されるような形の八重さんを、女生徒たちは「Beautiful dreamer」の歌で送り出します。
「美しき夢見る人よ、我が為に目覚めよ」という言葉で送り出してくれたということは、八重さんの「皆さんも自分を偽るごとなく、自分のドリームを」と言う言葉を、女生徒たちはきちんとキャッチしましたよ、という表れでもあったのでしょう。
欲を言えば、ここで字幕か何か出て欲しかったのですが・・・後、もう少し感動したかったので、八重さんと女紅場のシーンが沢山あったら良かったのですが・・・まあそれはさておき。
この会津者が、と毒づく役人への八重さんの切り返しが、お見事でした。

会津の者は、大人しく恭順しねぇのです。お忘れでしたか?

毅然と言い放つ八重さん、カッコいいですね。
まあ、この台詞も振り返って見れば少し突っ込みどころがないわけではないのですが、突くのは野暮でしょう。
女紅場を出た八重さんに、八重さんが解雇を迫られていることを覚馬さんから聞きつけて、必死に走って来た襄さんがやって来ます。
気遣わしげな顔をする襄さんに、しかし八重さんはにっこり笑って「グッドニュースです」と言います。

たった今、女紅場を辞めて参りました。これで却って、聖書を学ぶ時間が増やせます。だからグッドニュースでしょう?これがらは、あなたの行く道が、私の行く道です。あなたと同じ志を持って生ぎて行きたいのです
ひとつだけ約束して下さい。あなたの苦しみは私の苦しみです。全てを打ち明けて欲しい。必ずです、必ず言って下さい

八重さんは尚之助さんに、意地を張って言えなかったことがありましたよね。
最後の再会の時に全て吐露して、「私は馬鹿だ」って自責してましたが、少なくとも襄さんにはその意地を張る必要がないと言うことで。
そう言った意味では、同じ轍はもう踏まないのでしょうね。

少し時はこの時点から遡りまして明治7年(1874)6月、薩摩に戻っていた西郷どんが、県令の大山綱良さんの協力を仰いで私学校を創設します。

おいに付いて来てしもた若か者達を放っておくわけにはいかん。あん連中にも教育は必要じゃ

と、訪ねて来た大山さんにそういう西郷どんですが、そもそもどうしていきなり西郷どんが教育を必要と思ったのか、私学校を創設するに至ったのか、少し補足させて頂きます。
西郷どんの下野と共に、彼を慕って多くの軍人や文官も下野したことは、既にこのブログでも触れました。
それに加えて、西郷どんの下野より少し時期を前にして、近衛兵を満期退役して帰郷していた1352人がいまして。
下野組は仕事もなく、徒な日々を送るわ、帰郷組はさながら凱旋兵士のようにふるまって、酒は飲むわ我が物顔で町を闊歩するわ・・・だったので、彼らのために学校を作って欲しいと渋谷精一さんが西郷どんに頼みました。
そうして篠原国幹さんが監督する銃隊学校と、村田新八さんが監督する砲隊学校を本校とする学校が創られました。
これが先程も触れたように、明治7年(1874)6月のこと。
明治8年の春には分校も建設され、城下に12、県下に136の学校が作られ、軍事訓練や漢文の素読などが行われていました。
学校を作った目的は、西洋列強のアジア進出に危機感を感じて外国との紛争を想定し、国難に当たる兵士の養育でした。
襄さんや覚馬さんの学校設立目的とはまた少し異なっていますが、「日本のために」という根本では両者は共通していると言えるのではないでしょうか。
しかしこの私学校は次第に勢力を拡大させ、鹿児島県はさながら私学校王国と化します。
木戸さんにして「独立国の如し」とまで言われた鹿児島で、やがて私学校の生徒が暴発し、政府の挑発に乗せられた挙句、西南戦争へと続いて行きます。
作中で不平士族の反乱とかがソフトタッチだから、うっかり忘れてしまいそうになりますが、何気に西南戦争カウントダウン段階に入ってました。
「枯葉には枯葉の役目がある」と言っていた西郷どんですが、まさか私学校の生徒が暴発して、それが戦争を巻き起こす事態になるなどとは、少しも思っていなかったでしょう。

さて、学校の建物も確保した襄さんは、後は学校で教える授業内容を詰める必要がありました。
ですが、聖書の授業を科目として据えることが出来ない、でも聖書の授業は外せない。
どうしたものかと気を揉むデイヴィスさん達に、襄さんは、今は学校を開校することが一番大切だと言います。

やがて時代は変わります。聖書を自由に教えられるときも来るでしょう。その時に教える場所が無かったら意味がない

と、そこへデイヴィスさんのボーイの杉田勇次郎さんと言う方がやって来ます。
勇次郎さんは摂津国三田藩士杉田泰の次男として生まれたので、三田に伝道活動を行っていたデイヴィスさんとはそこで知り合ったのでしょう。
初めての生徒に喜ぶ八重さん達に、聖書の件について、良いことを思いつきました、と覚馬さんがちょっと悪い笑みを浮かべます。
後日、槇村さんに授業のカリキュラムを提出した際、聖書の授業は省いており、「新島さんは話が分かる」と快く受理されます。
覚馬さんの思いついた良いこととは一体何なのだろうかと思いつつ、ここでようやく学校名が定められます。

新しい日本を作りたいという同志が集まる学校だ
同志社・・・
いい名前です。同じ志を持つ者、ですね

こういった経緯を経て、明治8年11月29日、同志社英学校が開校します。
最初の生徒8人は、同志社の資料によれば上野栄三郎さん、中島力造さん、本間重慶さん、二階堂円造さん、田中助三郎さん、須田明忠さん、元良勇次郎さん、それに高橋何某さん。
ちなみにこの8人は、明治12年6月に行われた同志社初の卒業式の卒業生に、誰一人として顔ぶれが被っていません。
修学期間を全うせずに中退したり、仮卒業して世間に飛び出して行ったり・・・と、色んな事情があったようです。
ともあれ8人でスタートしたこの学校も、一か月後には28人まで増えてます。
東京開成学校への入学には、英語の出来のみが重きを置かれてたので、英語教育の質の良かった同志社はこの後も拡大を続けます。
先のことはさて置き、早速聖書を使って授業を始めると、見張ってたのですかと言わんばかりの早さで槇村さんが怒り顔で乗り込んで来ます。
聖書は禁止と言ったのに、何故使っているのだという槇村さんに、これはリーダーの授業で、聖書は読み書きの教材に過ぎないと襄さんは言います。

何じゃと、屁理屈じゃ
いいえ、建前です。建前が大事だと仰ったのは槇村さんではねぇですか。槇村さんだって、西洋から学ばなければならないと思っておいでだから、学校を許可して下さったのですよね?この子たちの学ぶことの大切さを、槇村さんが分からねぇはずがありません

八重さんに見事言いくるめられて、ぐうの音も出ない槇村さん。
逆に当時の日本のことを学ぼうと思って、神道や仏教のことを学ばずして学べますかと言われれば、結構な無茶ぶりですよね。
だから西洋の学問は学びたいけどキリスト教は駄目って言うのも、結構な無茶ぶりなんですよ。
立場逆に考えたらすぐ分かることですが、まあ実際の槇村さんは、聖書全部駄目!と言っていたのではなく、修身の授業でのみなら使用を許可していました。
なのでドラマで描かれてるほど極端な人でもありませんでした、と一応ここで擁護。
そんな槇村さんが立ち去ろうとすると、廊下に覚馬さんがいました。

山本先生、あれはあんたの入れ知恵か
生徒に西洋の文明を伝えながら、それを作り上げだキリスト教の考えだげは伝えない何てどだい無理な話だ。今は開かれた世、技術も思想も全て入ってくる。その中がら、我々が自分で選び取るのです。形だげ真似でも、西洋を追い越すごどは出来ません
山本先生、あんたには東京で獄に繋がれちょった時、駆け付けてくれた恩義がある。今回はあんたに免じて良しとしよう。じゃが、これっきりじゃ

同志社英学校の開校辺りを境目に、こうして覚馬さんと槇村さんの蜜月は終わりを告げます。
その後の二人は、今後の展開に任せるとして、折角なので同志社英学校設立時の、生徒募集の要項をご紹介していきたいと思います。
まず授業料ですが、通常の授業料は一科につき25銭。
二科以上は授業料が毎期1円10銭と、毎週食費が5銭。
入学資格は小学校卒業、もしくはその程度の者。
学科は、英学、綴学、正音、読本、文法、支那学、史類(本朝史、支那史)、文章学、復文、訳文、散文、算術、点算、三角法、地理、天文、物理学、人心窮理、化学、地質学、万国歴史、万国公法、文理学、経済学、性理学、修身学、講説、演説、でした。
科目を見ただけでも分かる通り、物凄く本格的です。
生徒募集の刷物に、覚馬さんは設立の趣意を以下のように書いています(一部読みやすくしました)。

一、我輩同志の徒我国に於て文学の隆興せんことを望ミ明治八年新に一社を設け英学校を開き之を名けて同志社と曰ひ米国宣教師ジェー・デー・デヴィス理学士、ドワイト・ダブリウ・レールネッド等を招し普通学科を教授せしめ且内外教師数名を雇ひ其の足らざる処を補はしむ

一、学校は上京第十区相国寺寺門前町に在り、此の地広豁大気の流通頗る好く市中とは雖も鬧熱の地に遠ざかり閑静にして読書に宜し且塾舎を清潔にし飲食を注意し務めて健康に益あらしむるを以て学業を修むるには実に佳適なりと謂ふべし有志の諸君左の概則を一覧して子弟の来学を促さんことを深く希望するところなり

そんなこんなで発足することになった同志社英学校。
襄さんは、それを陰ながら支えてくれることとなった八重さんのことを、アメリカで世話になったハーディ婦人宛てに、結婚報告も兼ねて、こう書き送りました。

彼女は幾分、目の不自由な兄上に似ています。あることを為すのが自分の務めだと一旦確信すると、もう誰をも恐れません。私の目には、彼女はただただ生き方がハンサムな方です。私にはそれで十分です

本当はこの文章、私の目には、の前に、「ほんの数日前に撮った彼女の写真を同封します。ごらんになるとおわかりのように、彼女についてなんらかのご批評がいただけるものと思います。もちろん彼女は、けっして美人ではありません」というのが入ってるのですが、八重さん役の女優さんに「美人ではありません」が当てはまらないためか、割愛されていましたね。
原文ですと、「She is not handsome at all She is a person who does handsome」という風になっており、後々に八重さんの代名詞となる「ハンサムウーマン」はここから来ています。
結婚式前夜の明治9年1月2日、八重さんは京都御苑内のジェローム・ディーン・デイヴィスさんの家で、デヴィスさんから洗礼を受けます。
そんな八重さんに、佐久さんはウェディングドレスを差し出します。

小せえ頃がら八重にはいづも驚かされでばっかりだった。鉄砲を始めだ時も、お城で戦った時も・・・それが今度はキリスト教の方ど結婚して西洋のお式をするっていうんだから魂消た。他の人が思いもつかないことをやんのが、八重だ。それを私は誇りに思ってんぞ。信じたように生ぎでみなんしょ。私は、ずうっと八重を見守ってっから。おめでとう

しかしあの覚馬さんと、この八重さんをお腹痛めて産んだのは紛れもなくこの佐久さんなわけで、育てたのもそうなのですから、そう考えれば佐久さんって物凄くゴットマザーですよね。
ちなみにこう話している佐久さんが洗礼を受けたのは明治9年12月3日なので、もう少し先のことになります。
覚馬さんが洗礼を受けるのは、更に先の明治18年(1885)5月17日です。
公職に就いていたため、洗礼を憚っていたのでしょうかね。

そして明治9年1月3日、八重さんと襄さんはデヴィスさんの家で挙式しました。
日本で初めてのプロテスタント式の結婚式でしたが、残念ながらウェディングドレスは初ではないのです。
非常に質素な式で、かかった費用といえば、ふたりが乗った人力車の10銭程度だったそうです。
列席者は30~40人で、彼らには八重さんのお手製クッキーとお茶が振る舞われました。
安中にいる襄さんのご家族は式に出席することは出来ませんでしたが、この年の4月26日には一家総出で京都に転居してきます。
式で「My pleasure」と襄さんに微笑んだ八重さんの行く先は、まだまだ穏やかにはなりませんが・・・今は、八重さん、ご結婚おめでとうございます、と祝福だけ送っておきましょう。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年9月5日木曜日

第35回「襄のプロポーズ」

先週、散歩に誘うような自然さと気軽さで八重さんにプロポーズした襄さん。
それについて考え事をしていて、夜中に庭を散歩していたらみねさんに不審者と思われたのか何なのか、悲鳴をあげられる始末。
まあ、夜中に庭にぼんやりと白い服着た人影がいたら、悲鳴のひとつでもあげたくなりますよね。
寧ろ、あそこに八重さんがいたら薙刀か何か持って来て撃退されてたと思うので、八重さんが女紅場にいて良かったねと思ってしまいました。
それはさておき、朝食の席でさらっと「八重さんにプロポーズしました」という襄さん。
案の定プロポーズの意味が分からず、「ぷろぽー?」と小首を傾げる佐久さんが、何とも無邪気で微笑ましいです。
朝食後、台所に立って女性と同じように片付けに勤しみつつ「台所が好きです」と当時の日本男児からは考えられない発言を憚らない襄さんを見て、「明るくて、正直で、良い御方だなし。西洋の男は、皆ああだべか?」と佐久さんは覚馬さんに言いますが、襄さんはアメリカ帰りとはいえ少々規格外な気もします(笑)。

新島さんのお人柄でしょう。気取ったところが一つもねぇ。人の心にすっと入って来る
んだげんじょ、魂消た。・・・八重を嫁に欲しいっつのは、本心だべか
悪い縁ではねぇと思います。ただ、八重がどうか・・・

尚之助さんとのことが、まだ引っ掛かりとなって残っているのもありますよね。
いつ離縁したのか、何故離縁したのか、それについても史実でははっきりとしたことが明示されていないので、正直襄さんと再婚するまで、八重さんが何をどう思っていたのか等々は、もしかしたら見つかってないだけかもしれませんが、八重さん自身もそれについて触れた記述などを残してませんので、八重さんのみぞ知るところとなっています。

一方、女紅場にいる八重さんのところへ、時尾さんが訪ねて来ます。
開城の日以来の再会ですので、およそ7年ぶりの再会です。
離れていた7年の間に、時尾さんは元新選組三番隊組長と結婚しております。
その旦那様もご一緒の登場に、八重さんは「あなたは確か新選組の・・・」と言ってしまい、女子生徒は色めき立ちますが、維新間もない京都で新選組というのはかなり嫌われ者でしたので、これは八重さんも少々迂闊な発言でしたし、女子生徒が色めき立つのも不自然な反応ですね(苦笑)。
ちなみに現代でも、京都では(よく誤解されていますが)新選組は、一部地域を除いてあまり好かれてはおりません。
それはさて置き、時尾さんと斎藤さんがいつ結婚したのか、という正確な年月日は不明(あるいは私の情報収集不足)なのですが、祝言の仲人は、容保様が上仲人、官兵衛さんと浩さんと倉沢平治右衛門さんが下仲人を務めるといった、錚々たる顔ぶれの下に執り行われました。
それ以上の詳細は分かりかねますが、時尾さんは照姫様の侍女の中でもそこそこ上位にいたので、きっと照姫様からも祝辞などはあったのでしょうね。
ちなみに斎藤さんは時尾さんの前に、既に一度結婚をしていた経験があるので、初婚ではなく再婚でした(一人目の奥様は篠田やそさん)。
時尾さんとの間には3人の男の子を儲け、その血は現代にもちゃんと繋げられています。

最後まで会津に尽してくれた者達に、いつか報いたいと願っていた。それが、ようやく一つ・・・報いることが出来た。幸せに暮らせよ

祝言の席で、容保様はそんな言葉を二人に贈っていました。
常(徳川時代)ならば、大殿が一藩士の娘の祝言に直々に赴いて、仲人務める・・・何てことは、まず考えられない光景でした。
良くも悪くも、徳川時代にあった身分の決定的な上下の距離が縮まったのが、明治という世の中なのだなと、改めて時代の変遷を思い知らされる場面でもあります。

場面が多少前後しましたが、学校開設に向けて生き生きと必要書類を取り揃えた襄さんでしたが、槇村さんからそれらは受け取れないどころか、外国人教師の雇用は罷りならん、と、学校建設を許可した時の態度とは打って変わった態度に襄さんも戸惑いを覚えます。
官立学校にも外国人教師は大勢いる、と襄さん。
所謂「お雇い外国人」的な人たちのことでしょうね。
例えば、この翌年には「Boys, be ambitious」で有名なウィリアム・スミス・クラークさんが札幌農学校に赴任しています。

ここは京都じゃ。開港地でもなきゃ、異人の居留地でもない。坊主たちが嘆願に押し掛けて来て、うるそうて敵わんのじゃ

と、つまり他で罷り通っているのに、ここで罷り通らないのは、ここが京都だから。

耶蘇の宣教師が学校で教えるなど、以ての外じゃと

そう言って槇村さんが襄さんの目の前にわさりと積んだのは、大量の嘆願書。
言うまでもなく、京都の各寺院からのものですね。

西洋の学問、大いに結構。じゃが、耶蘇教を教えるなら許可は出せん。京都で坊主を敵に回しては、府政が立ち行かん
槇村さん、それでは話が違います。私が作りたいのはキリスト教に根差した学校で・・・
そんじゃあ、自分で寺を回って口説いてみるんじゃな

一度受け入れておきながら、且つ襄さんが西洋の学問もそうですが、その学問所はキリスト教に根差したものであるものを目指していることを知っておきながら、この態度はあんまりだな・・・と思わなくもないです。
ですが、府立病院建設について補足解説を加えさせて頂いた時にも書かせて頂きましたが、槇村さんは槇村さんなりに、現在京都の寺院と仲良く・・・というかバランスを取っているのですよ。
そのバランスが崩れたら、府政が立ち行かないのが重々分かっているから、扱いに慎重にならなければいけないのでありまして。
じゃあ襄さんの学校設立のためだけに、府政のバランス崩す危険も顧みずに協力出来ますかと言われると、府政を担う人間からすればそんなの出来るはずありません。
なので、冷たく突き放してるように確かに見えますが、槇村さんが府知事である以上、これはある意味当然の態度なのですよね。
(それならほいほい襄さんに学校建設の許可出すなって突っ込みはしたくなりますが)
余談ですが、本当に自分で寺を回る襄さんに、とある僧が「日本古来は仏教」みたいに言ってましたが、訂正も込めて突っ込ませて頂くなら日本古来は神道でしょう(苦笑)。
仏教も仏も、海の向こうから6世紀半ばに天皇制の正当性を植え付けるために(その他もろもろ諸説あり)仕入れた輸入品です。
まあ訪ねた先が、たまたま神様ではなく仏様を拝んでるところだったのでしょうが。

一方、京都滞在中、山本家に厄介になることになったらしい時尾さんと斎藤さんの新婚夫婦。
時尾さんが八重さんに、尚之助さんのことを尋ねると、八重さんは二年前に東京で一度だけ再会したと答えます。

斗南での訴訟のことは?
聞いた。訴訟が片付くまで、東京から動けねぇことも。お傍にいたかったのに、京都に戻れと言われて、それっきりだ。もう夫婦ではねぇ。何度か文も書いたげんじょ、返事は一度も来ねぇ
・・・斗南の暮らしは、苦しかった。飢えと寒さに怯えて、みじめな思いして、死んでった人が大勢いる。尚之助様は、今も自分を責めておいでなんだべ。あの時、米の買い付けさえ上手く行ってればと。だから・・・何もかも一人で背負って、言い訳もせず、助けも拒んで・・・
わがってる。そんじも、私は力になりたかった
もし八重さんが尚之助様の立場なら、なじょした?きっと、自分のことは忘れて欲しいと言うんでねぇべか。大切な人を辛い境遇に巻き込みたくねぇもの

多分このタイミングで、八重さんにこういうこと言える立場の人が、時尾さんしかいないから、今回「八重さんの幼馴染で親友」の時尾さんが出て来たんじゃなかろうかと感じました。
おそらく時尾さんの言う通り、八重さんが尚之助さんの立場だったらそうしてたでしょう。
そこは八重さんも自分のことですから、自分がそう言ってただろうなということはきっと理解してるはず。
でも立場を入れ替えた仮定の話ではなく、現段階の状態だと、八重さんは納得がいかないんですよね。
前回井戸のところで襄さんにもはっきり言い渡していたように、八重さんには「自分は人(男性)に守られる女ではない」という強い自負があります。
だから、庇って貰ったり、巻き込みたくないからと気遣われるのには、「何で?」という反応を示してしまう。
何より会津時代、八重さんのそういうところを誰よりも理解していたのが尚之助さんだったから、猶更でしょうね。
ただ、この流れで行くと、尚之助さんと再会した2年前に「尚之助様に甘えで・・・意地張って・・・私は馬鹿だ」と言っていた八重さんとの辻褄が、微妙に合わないのです。
八重さんの自負って、要は意地ですよね。
なので、八重さんの意地とそれによって生じる「何で?」は、少なくともあの再会の時に謝罪を交わしたことによって一区切りついてるんじゃないのかな、と思わなくもないです。
あの再会は、「自分も意地を張ってました」と言う八重さんと、「自分もあなたの誇りを知っていながら踏み躙りました」という尚之助さんによって、開城の日から八重さんの中に続いていた「なじょして」を解決したものだったのではないかなと、個人的には捉えていたので。
自分が何が言いたいのか段々分からなくなってきましたが、要はここに及んでまだ八重さんが納得しかねてるというのは、可笑しいとまでは言いませんが、じゃああの再会の時のやり取りは一体なんだったのか、という疑問が生じるなと思いました。

一方、覚馬さんから八重さんの「過去」を聞いていた襄さんは、彼なりにそれをどうにかしてあげたいと、常々思っていたのでしょうか。
そんな襄さん、初対面なのにすっかり打ち解けた斎藤さんとの会話から、何かを掴みます。

俺がいた頃、都は酷く殺伐としていた。幾度も斬り合い、血を浴びた。・・・だが、今は妙に懐かしい。おかしなもんだな。良い時ばかりではなかったのに。近頃は、よく京都の夢を見る
それだけ、激しく、熱い日々だったのですね
皆、命がけだった。時尾に一度見せたくて、連れて来た。俺達が会津と出会い、共に戦った場所を。良いところも、嫌な思い出しかないところも


明治8年3月20日午後3時、東京下谷和泉橋にあった東京医学校医院にて尚之助さんが亡くなります。
享年39歳、死因は慢性肺炎でした。
遺体は何処かの墓地に埋葬されたそうですが、現在に至るまでその場所は特定されていません。
あるいは無縁仏に入ったのでは、とされています。
それでも、歴史研究者のあさくらゆう先生のお蔭で、尚之助さんが生家の出石の川崎家に、同一没年月日の戒名が記された墓碑があったことが判明しました。
曰く、尚之助さんの戒名は「川光院清嵜静友居士」。
そんな尚之助さんの訃報が、ドラマで覚馬さん達の下にその報が伝えられたのは、蝉時雨の聞こえる明治8年の夏。

・・・これが、残されていた。守護職を拝命してから、会津に何が起きたか、国許にいた尚さんの目に映ったことが皆書いてある。籠城戦の途中で、終わっている

覚馬さんが八重さんの前に置いたのは、「会津戦記」と題された紙の束。
前々から尚之助さんが、咳込みながらも書いていたものの正体が、どうやらこれのようです。
尚之助さんの死を聞いて、八重さんは「また置いて行かれた」と家から出て行ってしまいます。

都を旅立つ前、俺は尚之助に家を託し、会津を託した。あの男は律義に俺との約束を果たして、どうしたら会津を守れるか、家を、八重を守れるか、それを考え、やり続けた。戦に敗れ、斗南で辛酸舐めても・・・まだ考えていた。なじょして、会津が滅びねばならなかったのか・・・それを書き記したのが、これだ。何一つ、報いてやれなかった。尚之助は、病に倒れたんじゃねぇ。あの戦で死んだんだ。ゆっくりと、時を掛けた戦死だ・・・

事情を把握しかねる襄さんに、覚馬さんはそう話します。
何一つ、報いてやれなかった」は、容保様の「ようやく一つ・・・報いることが出来た」の対になっていますね。
ただこの台詞、前半部分では「自分が尚之助を会津に縛り付けた」という自覚が滲み出てるのに、締めくくりが「ゆっくりと、時を掛けた戦死だ」というのは、最初見た時は「時を掛けた戦死って斬新な表現だな~」と思ってたのですが、咀嚼するとちょっとおかしくないかなと。
この切り出し方ですと、自分が会津に縛り付けたせいで尚之助は死んだんだ、と言わないと、何だか整理すると「尚之助を会津に縛り付けたのは自分ですが、尚之助が死んだのは自分のせいじゃありません」と聞こえなくもない。
それと、「何一つ、報いてやれなかった」についてですが、報いる気があったのか、と。
正直、覚馬さんは尚之助さんをほったらかしにしてた感が拭えないのですよ。
なのでこの台詞、咀嚼すればするほど空虚なものに聞こえてしまって・・・私がひねくれてるのもあるでしょうが。

さて、ここで少し、尚之助さんの遺した『会津戦記』について、感想とも私情とも何ともつかないことを、以下ずらずらと綴らせて頂きます。
まず最初に釘を刺しておきますと、史実で尚之助さんはそう言ったものを書き残してはいませんし、『会津戦記』なるものも存在しません。
ただ、小道具として登場したにしては、妙に内容がしっかり書き込まれていたり・・・と出来過ぎていたので、原文は絶対に何処かにあるだろうと思っていましたが、私ではその原文の出所が分からずじまいでした。
ですがTwitterで見つけて下さった方がいて(情報提供、深く感謝します)、原文の出所は『会津戊辰戦史』という書物だそうです(近代デジタルライブラリーで見ることが出来ます)。
『会津戊辰戦史』というのは昭和6年に完成した、慶応3年10月の大政奉還からこっちの会津のことについて書かれたものです。
会津の、京都守護職時代から鳥羽伏見の戦いの直前までの様子を書いたものに、浩さんと健次郎さんの『京都守護職始末』というのがあるのはあまりに有名です。
最初『会津戦記』を尚之助さんが書き遺した、とドラマで描かれた時、この『京都守護職始末』(や『七年史』)の立つ瀬がなくなるので、正直「物凄く要らない創作の嘘だ」と思いました。
この先の話で『京都守護職始末』が出て来ても、『会津戦記』の二番煎じのように見えてしまうではないか・・・とも思いました。
『京都守護職始末』が実在の書物であり、対して『会津戦記』が架空のものであるから、一層そう感じてしまいました。
何より、『京都守護職始末』が出版されるまでの苦労もろもろを知っているだけに、憤りにも似たもやっとしたものも抱きました。
すみません、賛否両論色んな意見はあるでしょうが、そう感じたことは素直にここに書かせて頂きます。
作中、出石藩浪人だった尚之助さんが、会津で生きて、会津生まれではない身ながらも会津藩士になろうとしてたのは分かるんですよ。
籠城戦の最後の、下手な会津弁にその思いは十分現れてました。
だから会津(=斗南)のために奔走して、の行動原理にも繋がります。
「出石の浪人だけど心は会津藩士」な尚之助さんが、『会津戦記』というものを書き残すのも、そう考えると一応筋は通ってるんですよ。
そんなものは勿論現実には存在しませんけど、ドラマ上の尚之助さんが、そういうものを書こうという執筆動機みたいなのは十分にあります。
そこは否定しません。
『京都守護職始末』に繋げて行きたいんだろうなとか、あるいは「こういう、後世に名は残らなかったが、藩士それぞれにそれぞれの戦記がありました」とか、そういう好意的な解釈も出来ますが、それでもこの創作の嘘が本当に要ったかと思うと、やはり不要だったのではないでしょうか。
これは『京都守護職始末』を脅かしかねないとか、『会津戦記』が架空のものだからと言うわけではなくてですね。
他の部分も十分に描けてて、それでも余裕があったからそこを尚之助さんに回して、の『会津戦記』となったのなら、まだ作品としての配分の上で納得出来るんですよ。
でも他の部分、全くと言って良いほど十分描けてませんよね。
十分描けているのなら、明治編からこっち、当ブログでの補足はもっと軽度で済んだと思いますし、もっと色々と明治時代という時代が視聴者に伝わっていたと思います。
どころか、主人公の八重さんであっても足りない部分ばっかりが目立つのに、その中で尚之助さんがひとり設定を特別枠で盛られているわけですから、配分とバランスと優先させるものを間違ってるよね、と視聴者としては一言物申したくなるわけです。
山本家にその訃報が届く、で止めて置いて良かったのではないかと。
『会津戦記』の存在については、一応もやっとしたものが薄まるくらいにはなったのですが、バランスや配分の面では納得しかねています。

そんな私のケチはさて置きまして。
尚之助さんの訃報を受け、ゴードンさんに「心が何処かに飛んで行ってしまったようだ」と言われる八重さんを、襄さんはピクニックに誘います。
しかし一体何処へ連れて行くのかと思いきや、行先は三郎さんが戦った富野森・・・。
表情が険しくなる八重さんですが、そんな八重さんに「向き合った方が良い」と襄さんは言います。

辛くても、三郎さんや会津の大切な人たちが亡くなったことを、あなたがしっかりと受け入れなければ、死んだ人たちは安らかに眠れない。あなたの心の中の、戦も終わりません
あなたに、何が分かるのですか!
分かりません。私は、三郎さんも会津も・・・尚之助さんのことも知らない。あなたに代わって悲しむことは出来ません。出来るのはただ・・・悲しむあなたの傍にいることだけです

八重さんの傷は、八重さん自身で何とかするしかない。
前回覚馬さんも「乗り越えで行ぐ道は、八重が自分で探すしかねぇ」と仰ってましたね。
良いこと言うな~と感心していたのも束の間、何処かに三郎さんの気配が残っていないか、何か聞こえないか、地面やら石やらに触れ出した襄さんの行動は、奇行以外の何物でもありませんでした(笑)。
その奇行に対して、何も残っているはずがない、何も聞こえるはずがない、と八重さんは声を荒げます。
ですが襄さんは、「亡くなった人たちに語りかければきっと何か応えてくれる」と言います。

亡くなった人は、もう何処にも行きません。あなたの傍にいて、あなたを支えてくれます。あなたが幸せであるように、強くなるように。誰よりも尚之助さんが、それを願っている

これは、死んだ人の魂は輪廻転生しないものだと考えてるキリスト教視点からの発言ですね。
日本の他の宗教は知りませんが、仏教は輪廻転生があるので、死んでしまった魂は転生してしまうから傍にはいられない。
仏教観にどっぷり浸かっていたであろう八重さんにとって、このキリスト教的視点からの言葉は、思いもよらない考え方だったのではないかなと思います。
で、少なくともその考え方(人は死んでも、いなくなるけではなく、自分の傍にいるという)は、八重さんの心の傷の痛みを、このとき確かに和らげたのでしょうね。
実際の八重さんが、何を以ってキリスト教に改宗したのかは分かっていませんが、襄さんの奇行を除けばこれは良いキリスト教と八重さんの結び付け方だなと。
前回の記事でも触れましたが、人間の内面に深く立ち入る宗教の助けが必要なときも、あるのですね。

八重さんの心の傷の回復がどうにか上向きになったのですが、襄さんの学校設立は事態が好転しないまま月日が経過していました。
直接槇村さんのところに赴いた覚馬さんは、木戸さんの後押しがあるから政府に働きかけて認めさせることも出来るはずだと、一見理詰めに見える、法令違反を言います。
槇村さんは拒否します。
当たり前です、そんなことで襄さんの学校の設立を通してしまえば、政府の要人に縋れば法令も何も飛び越えて、何でも出来てしまう先例を作ってしまうことになります。
京都のためだ、京都の発展だ、何だ、と覚馬さんは仰ってますが、ご自身が言ってることの意味が分かってるのかなと。

槇村さん、あなたは誰のために政を行っているのですか?京都のためか、それともここでの成果を手土産に、政府に取り入るためか
そねーなこと、会津の者に話しても、仕方なかろう。あんたは所詮、日の目を見ない側の人間じゃ。坊主と宣教師のことが解決せん内は、学校設立は認められん

この会津者に対する貶めは流石に覚馬さんもかちんと来たでしょうが、要人の権力に縋って法令無視した先例を作るように詰め寄った覚馬さんも覚馬さんです。
そう考えればどっちもどっちな場面なのですが、ともあれあれだけ手際よく物事を捌いて京都の復興と発展に力を注いでいた槇村さんと覚馬さんですが、その蜜月は、終わりに近付いておりました。
槇村さんとの蜜月終了間近ということで、では覚馬さんはどうするか。
その次の行動指針として、「天朝も、幕府も藩もいらん。ただ身ひとつで立ち上がれば良い」 の、あのお言葉が出てくるのではと。
つまり政府や槇村さん云々に頼らず、身一つでやろう、ということになるのですが、その経過は今後の展開を見守ることにしましょう。

相変わらず辛抱強く寺院を回り続け、寺で門前払いを食らって路上に突き飛ばされた襄さんですが、今度はその姿を八重さんにばっちり目撃されてしまいます。
襄さんの、格好悪いところ見せたな、あはは、と言わんばかりの表情が何とも言えなかったのはさて置き、家に帰って擦りむけた手の怪我を八重さんに手当てしてもらう襄さん。
籠城戦で大勢の人の手当をして来た八重さんには、襄さんの怪我の手当などお茶の子さいさいです。
襄さんはそんな八重さんの手を、銃で戦ってきた手であると同時に、大勢の人を癒した手でもあるのだなと言って、改めて妻になって下さいと申し出ます。
尚之助さんのことが忘れられない八重さんのことも、それで良いと。

寧ろ、忘れないでいて欲しい。私は、川崎さんに喜んで頂けるような夫婦になりたいのです。私の伴侶となる人は、あなた一人しかいない。あなたとなら、共に歩んで行ける。素晴らしいホームを築ける。どうか、お願いします
新島様は、本当に面白い・・・。私、あなたと一緒に、ホームを作ってみます

微笑んで八重さんが受け入れたというのに、「はい」と言われた瞬間の襄さんの驚きようと言ったらもう・・・(笑)。
しかしこのふたりの結婚そのものに問題はなかったのですが、それによって生じる波紋が再び八重さんを悩ませます。
その辺りのことは、次回描かれるようですね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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