2013年11月25日月曜日

第47回「残された時間」

明治政府にとって、不平等条約の改正は「早急に何とかしなければいけない」問題として、常に纏わりついているものでした。
そのためには、諸外国と「平等」な立場に立たなければいけない=そういったような国に作り変えて行かねばならない、というので国会議会を開設し、憲法を設けるなどして、先進国らしい国に一歩一歩近付こうと歩んで来たのが明治時代の半分といっても過言ではないと思います。
鹿鳴館などはその計画の一環として建てられたものですが、これは皆様歴史の教科書でもお馴染みのビゴーの風刺絵(「鹿鳴館の月曜日 ダンスの練習」)でも分かるように、諸外国からは喜劇としか映ってなかったようです。
そうして、条約改正に向けての外交の場として設けたはずの鹿鳴館は、猿真似と嘲られて成果を上げず。
さて、明治20年(1887)7月、条約改正案が挫折したことによって、外務大臣であった井上馨さんが辞任に追い込まれました。
そこで伊藤さんと井上さんは、黒田さんと謀って大隈さんに外務大臣就任を要請します。
ですが北海道の官有物払下げ事件の件で、大隈さんを政府から追った伊藤さんからのこの要請を、大隈さんは受け入れられなかったのか何なのか(まあそうでしょうね)、また伊藤内閣内でも大隈さん入閣を反対する声があり、この打診は不調に終わります。
しかしこの年の暮れに保安条例発布後の内閣強化策のため、再び大隈さんのところへ伊藤内閣への入閣打診が来ます。
とうとう折れた大隈さんは、明治21年(1888)2月1日、伊藤内閣に外務大臣として入閣します。
前置きが随分と長くなりましたが、それが今回のドラマの冒頭シーンです。

・・・あんたとは、政策が違っとるばい

という大隈さんですが、それでも伊藤内閣入閣を決めたのは、お互い潰し合ったり「嫌いだから協力しません」と言ってたりしては、何も出来ないし何も進まないって分かってたからでしょうね。
死ぬ程嫌いだけど、政策も違うけど、向いてる方角は一緒だから協力しましょう、っていう姿勢は幕末の薩長とかと似た感じだと思います。
ちなみに政策が違う、というのはお互いの憲法観ですとか、大隈さんは英国式の政党内閣制を主張していたのに対して、伊藤さんは天皇の大権に仕える内閣制を推した、とものとかの事でしょうか。
その辺り、勉強不足なので曖昧なのですが・・・。
何はともあれ、大隈さんも入閣して不平等条約改正の交渉に向けてまだまだ頑張る明治政府ですが、残念なことに(?)不平等条約を改正するのは、乞われて入閣した大隈さんではなく、剃刀大臣こと陸奥宗光さんなんですよね。
この陸奥さんが尽力した「日米通商航海条約」(明治27年調印、明治32年発行)では、領事裁判権は撤廃されたものの、関税自主権は一部しか回復しておらず、条約完全改正の余地がありました。
陸奥さんの後にそれを頑張ったのが小村寿太郎さんで、彼の尽力によって明治44年(1911)2月21日、日米通商航海条約が調印され、4月4日に発効されました。
これにより、関税自主権も完全に回復しました。
明治は45年までですから、ほぼ明治丸々の時間が費やされたということですか。
条約改正の道はかくも長き、です。

山本家では、先頃生まれた平馬君が覚馬さんの養嗣子となり、79歳、数えで80歳の佐久さんは初孫の相手に・・・と、久し振りに山本家に和やかな時間が流れているように見えました。
憑き物が取れたように晴れやかな顔をされている久栄さんも、神戸英和女学校(現在の神戸女学院大学)への進学を決めているようで。
久栄さんはそこを卒業後、京都にある傍仏語英学校(現在の京都府中学校のことでしょうか?詳細不明)で働きます。
色んな事が起こった山本家だけど、これでようやく落ち着くのか・・・と思いきや、襄さんの体の調子が宜しく無いようで。
自分を労わらずに無理をする襄さんに、八重さんの心配は尽きませんが

今は立ち止まっている時ではありません。来年は、いよいよ憲法が発布されます。立憲国家が道を誤らないためには、それを支える人材が必要だ・・・。国会が始まるまでに大学を作らなければ・・・

という襄さんを止めることが出来ません。
使命感に駆られる姿は、さながら尚之助さんを彷彿させるのですが、やはり意図的でしょうか。
そんな新島邸に、ある日猪一郎改め蘇峰さんと、市原さんが訪ねて来ます。
蘇峰さんの民友社が作っている「国民之友」は売れ行き好調のため、この頃毎月2回、第一第三金曜日定期刊行になりました。
ちなみに定価は1冊金8銭、半年12冊前金90銭、全国無逓送料で広告料は一行金10銭。
その「国民之友」に、襄さんと諭吉さんの記事が掲載されたのは、明治21年3月2日号。
曰く、「何となれば二君は実に明治年間教育の二大主義を代表する人たればなり、即ち物質的智識の教育は、福沢君に依つて代表せられ、精神的道徳の教育は、新島君に依つて代表せらる」。
他にも「福沢君の事業は噴水の如し」に対して、襄さんを「宛も木の葉を潜る精水の如し」と書いていたりと、この記事は評判を呼んだようで、「国民之友」というメディア媒介を通じて襄さんは有名になります。
寧ろ無名でありたい、と襄さんは功名心が低いのですが、

ばってん、名声が高まれば、大学設立に力ば貸してくれる人が増えっとです

という蘇峰さんの指摘はまさにその通りですね。
後ろ盾らしい後ろ盾がない独立状態なので、使えるコネクションは最大限に活用していきましょうということですよ、要は。
この蘆花さんの記事によって、大隈さんがいたく共感を覚えて募金を呼びかける集会を開いては、というとろこまで話が発展したようですが、ここで懸念されるのはやっぱり襄さんの身体の具合。
八重さんが「大警視」と呼ばれていましたが、実際に彼女が過度な心配性みたいなのになったのは、襄さんの余命宣告を受けてから以降だそうですね。
しかしまあ、大隈さんも大臣就任でまだばたばたしてるだろうからと、襄さんの上京は気候が良くなったら、と繰り越されます。
4月、上京した襄さんと八重さんは、九段にある大隈さんのお邸にて募金集めの会を開きます。

大学設立の目的は、一国の精神となり、柱となる人々を育成することにあります。まず文学専門部を創設し、歴史、哲学、経済学などを教え、更に理学部、医学部と広げる計画です。しかしながら後者の建築や教員の招聘には、莫大な金がかかります。どうか、援助をお願い致します!

錚々たるメンバーの前でそう演説する襄さんですが、正直なところ、もっとこの演説内容濃くして欲しかったなと(苦笑)。
現代では大学がポコポコ出来てますが、この時代で大学作るのって簡単じゃないんです。
それをこんな風に演出されたら、その重みが全く感じられないものになってしまうだけでなく、この程度で多額貰えるの?という印象を抱いてしまいます。
大切なところなので、頑張って欲しかった・・・。
まあドラマでの演説内容はさて置き、この集会は大変手ごたえがあったようで、襄さんは「大いにその賛成を得たり」と「同志社大学設立の旨意」で書いています。
ちなみに寄付金額は、青木周蔵さん500円、大隈さんと井上さんが1000円、益田孝さん、大倉喜八郎さん、田中平八さんが2000円、平沼八太郎さんが2500円、岩崎久弥さんが3000円、岩崎弥之助さんが5000円、 渋沢栄一さんと原六郎さんが6000円、と「同志社大学設立の旨意」には書かれています。
他にも勝さんですとか、榎本さん、後藤象二郎さん、あと福沢諭吉さんも寄付してくれたみたいですね。
因みに気になるのが、この頃の金額を今の価値に直すとどのくらいになるのか、ということでして。
これはこの時代に限ったことではないんですが、当時の金額を今の金額に改めるのって、実はすごく難しいことなんです。
いえね、大体この頃の1円=現在の1万円って考えればいいんですが、物の価値が違うので同じ1万円だと考えない方が良いんです。
例えば、100円で鉛筆1本買える時代と、100円で鉛筆10本帰る時代だと、文字の上では同じ100円なのに、そこで意味されてる100円の価値って同じじゃないですよね?
分かり易い比較対象として、明治23年時の伊藤さんの年棒が5000円ということから見て行けば、皆様ぽーんと凄い額を寄付したんだなぁ・・・ということを漠然と掴んで頂けるかと。

集会を終えた襄さんが次に向かったのは、赤坂の氷川にある勝さんのお宅。

今まで会った人間で、本当に恐ろしいと思ったのはふたりだ。一人は薩摩の西郷、もう一人は横井小楠先生・・・

と、ここでようやく小楠さんがご登場です(名前だけですけどね)。
満を持して何てもうすっかり通り越して、何で今更出すんだ、という突っ込みを思わずしてしまいたくなりました。
勝さんのこの言葉は有名ですが、横井小楠という人にことごとく触れて来なかったので、「誰それ?恐ろしい人なんだ」程度の認識しか与えられないのが非常に惜しい。
積み重ねの甘さのつけが、こんなところにも回って来てしまっているようです。
(ちなみに小楠さんのことについては、此方の記事で既に書いております)
勝さんは襄さんの大学設立について、お金が必要なのも分かるし、そのために寄付を募ったというのも理解した上で、でも彼らが同志社に投資するのは「キリスト教の大学は、西欧化の象徴に使えると踏んだんだ」と鋭い指摘をします。

折角の大学を、紐付きにする気かい?官からの独立、自由教育を謳っている新島さんが・・・。政府のためでなく、人民のために作る大学だろう?だったら、その志を全国に訴え、国民の力を借りて作っちゃどうだい。一人から貰う千円も、千人から一円集めるのも、同じ千円だ
でも襄の体は一づです。日本中を説いで回ることは出来ません
徳富がいるじゃねぇか。国民之友には数万人の読者がいる。これを載せて読んでもらえば、数万人相手に集会を開くようなもんだ

ここで物を言うのが、ペンの力ですね。
ペンは剣よりも強し、とはよく言ったもの。
最後の方でも描かれましたが、襄さんはこの「国民之友」を始め、全国二十あまりの主要新聞に「同志社大学設立の旨意」を掲載して貰いました。
(因みに該当文書はこちらで読むことが出来ます)
こういうスタイルは明治時代ですよね、やっぱり。
先程の「国民之友」の号でも、襄さんと福沢さんは「二君素より其志す所に於て一も同じき所あらず、然れども独立独行、政府の力を假らず、身に燦爛たる勲章を佩びず、純乎たる日本の一市民を以て、斯の如き絶大の事業を為し、且つ為さんとするに至つては、則ち其揆を一にせずんばあらず」と、はっきりと「独立独行」の仁だと書かれていることですし、紐付きにならないよう襄さんには頑張って貰わねばなりませんね。
それに体の方が付いて行かないのが、襄さんの切ないところではあるのですが・・・。
そんな襄さんのために、勝さんが鎌倉の静養所を紹介しれました。
(鎌倉って大磯のすぐ近くじゃないかと、不覚にもどきりとしてしまいましたが・・・これも狙っての事なのでしょうか)
町の射的で遊んだ八重さんの腕は今も劣らず、襄さんは駄目駄目で・・・。
このやり取りも良いですが、個人的には襄さんの猟銃のエピソードが見たかったなぁ、と。
「あなたは鳥を打ちに行くのではなくて、鳥を追いに行くんだ」って八重さんに言って欲しかったですし、「もしもし、うちの鳩を打ってはいけませんよ」って注意される襄さんが見たかった(笑)。

良いものですね、こんな風に二人だけでゆっくり過ごすのは

というのも束の間、宿の部屋には何故か槇村さんが我が物顔で寛いでいて、これには襄さんも八重さんも吃驚です。
「いわば同志社の生みの親」と自負しているらしい彼は、募金集会のことを聞いて襄さんに寄付してくれるのですが、生みの親は飛躍して物事考えすぎでしょうに(笑)。
しかしながら一切問題、槇村さんも寄付していたという話はあるのでしょうかね?
手元の資料を探る限りでは、彼の名前は見当たらないのですが。
でなければここでの彼の再登場は、視聴者へのサービスとしか考えられないのですが、兎にも角にも相変わらずでしたね(男爵になっているはずなのに)。

京都に戻った八重さんは、明石さん(京都舎密局に出仕していたあの明石さんです。覚えておられる方少ないのでは・・・)から襄さんの病気は治る見込みがないことを告げられます。
心臓が偉く弱っていて、次に発作が起きたら破れるかもしれないと。
実際にはドクターは明石さんではなく、ベルツさんと難波一両さんの合診だったように記憶していますが、さしもの八重さんも襄さんの余命宣告に平静ではいられません。
そのまま真っ直ぐに家には帰らず、買い物をして気を落ち着けて帰宅した姿がドラマで描かれていましたが、実際の八重さんもそうしたそうです。
襄さんの書いた『漫遊記』には、夫の余命を知った八重さんを「八重ノ愁歎一片ナラス、大ニ予ノ心ヲ痛メシメタリ」と記されています。
余命宣告のことを本人には隠そうとする八重さんでしたが、

私には、やることがあるんです!その日が近いなら、準備をしなければならない!死を恐れるような男だと思っているのですか!怖いのは死ぬことではない、覚悟を決めず、支度も出来ぬままに突然命を断たれることです

と言われ、心臓がいつ破れてもおかしくない状態にあることを告白します。
自分の体がそんな状態だというのに、襄さんときたら「可哀想に・・・驚いたでしょうね。一人で、そんな話を聞いて」とか、本当に泣きそうになりましたよ。
聖人君子過ぎる・・・と思ったら、そうでもないという部分がこの後描かれていて、今回のこの演出は好きだなと思いました。
寝ている襄さんの口元に、心配した八重さんが手を持って行って呼吸を確認したのは、八重さんの手記『亡愛夫襄発病の覚』で触れられているエピソードですね。
妾は、日夜の看病に疲労し、或時は亡夫の目覚め居れるを知らずして、寝息を伺はんと手を出せば、其手を捕へ八重さん未だ死なぬよ、安心して寝よ。余りに心配をなして寝ないと、我より先に汝が死すかも知れず。左様なれば我が大困りだから安眠せよ。と度々申したり。

襄さんは自分の死後の八重さんを殊の外案じていたようで、明治22年5月には「大和の山林王」と呼ばれる吉野の土倉庄三郎さんに手紙を書き、300円を預けるから、「マッチ樹木植付のコンバネーとなし下され(マッチ棒用の植林の共同出資)」と依頼しています。
まあこの背景には、お金遣いの荒い八重さんの、自分の死後の身持ちを案じて・・・というのも大いに含まれているのですが。
で、ここで初登場時から視聴者に「天使」とあだ名され、さながら聖人君子を絵に描いたような人であった襄さんの、人間らしい心中吐露が見られます。

何一つ、容易く出来たことはない・・・邪魔され、罵られ・・・全ては主の思し召しだと思えば、試練も喜びに変えられた。でも・・・耐えられない!ここまで来て、大学が出来るのを見届けられない何て・・・こんなところで死ぬ何て。・・・主は何故、もう少し時を与えて下さらないのだ!・・・死が、私に追い付いてしまう・・・

要は言葉の装飾全部取っ払ってストレートに言うと、「死にたくない」んですね。
死ぬことを恐れてるわけじゃない人間の「死にたくない」。
何故か、それはここで逝ってしまったら、未練が残るからです。
その未練とは言わずもがな、大学を作ること。
うんうん、と頷きながらそんな襄さんを見守っていたのですが、その後八重さんの口からとんでもない台詞が飛び出て、一視聴者としても目玉が飛び出そうになりました。

もういい!もうやめでくなんしょ!ジョーの心臓が破れてしまう!大学なんかいらねぇ!襄が命を削るぐらいなら、大学なんか出来なくていい!

この嫁は夫の夢を全否定した挙句、「大学は他の人でも作れる。ジョーでなくても」とトドメの言葉までご丁寧に・・・。
いえね、八重さんの夫を失いたくないっていう気持ちは分かるんですよ。
襄さんの夢は知ってるけど、それと命とを天秤にかけたら、やっぱり命の方に傾いたからもっと我が身を大事にして欲しい、って気持ちから飛び出た言葉なんだろうなというのも分かるんですよ。
でもそう思わせるだけの夫婦描写が、果たして今までありましたか?
小楠さんの時と同じく、積み重ねの甘さのつけが、ここでも回って来てしまっていますね。
「ジョーのライフは私のライフ」の一言で全部集約出来てたと思ったら大間違いですよ。
しかしまあ、嫁に面と向かって今までやって来たことを全否定されたのに、襄さんは怒りもせずに言います。

私がいなくなっても、きっと後に続く人たちが自由の砦を作り上げてくれる。私もそう信じます。・・・けれど、そのためにはまず誰かが種を蒔かなければならない・・・一粒の麦が、地に落ちなければ・・・

これは新約聖書『ヨハネによる福音書』第12章24節「一粒の麦もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし」ですね。
襄さんの使命感とか、国家に対する思いというのはドラマでは最低限にしか触れられていないので、この台詞も最低限の規模でしか響きませんが、それでも良い台詞だと思いました。
ただやっぱりというか、その言葉を受けた八重さんが、「そうでした、これはジョーの戦でした」と納得する思考回路が、少し謎でして。
そんなに簡単に納得出来るなら、最初から全否定してあげなさんなや、って思わずにはいられない。
まあ全ての原因は、積み重ねの浅さでしょうけどね。
だから台詞同士が全く共鳴し合わず、中身の詰まってないものに聞こえてしまう。
ともあれ次回で襄さんご退場ですね。
脚本は相変わらずですが、今回の心中吐露の場面と言い、部分部分はオダギリさんの熱演ぶりが光っているので、臨終の場面も期待したいと思います。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年11月20日水曜日

第46回「駆け落ち」

今回のタイトル、当初は「明治の青春」だったのが変更されたそうで・・・しかしドラマを見てみると、どうも変更前のタイトルの方が良かったような気がしてなりません。
まま、そんなボヤキはさて置き、本編の内容に早速踏み込みましょう。
明治20年(1887)1月、みねさんは長男、平馬さんを出産します。
父方の横井平四郎(小楠)さんから「平」を、母方の覚馬さんから「馬」を取った名前です。
作中では第一子出産後の数日、産後の容態芳しからず、儚くなってしまった・・・とありまして、実際もその通りなのですが、実は平馬さんの前に悦子という女児をみねさんが時雄さんとの間に儲けていたという話もありまして。
しかしこの、みねさんから見れば長女に当たる悦子さんのことはあまりよく分かっていません。
ともあれ平馬さんは後に山本家の養嗣子となり、昭和19年(1944年)57歳で没します。
25歳の若さでこの世を去ったみねさんは、覚馬さん達とは違って南禅寺の天授庵に眠っています。
みねさんには舅にあたる横井小楠さんと同じ場所に埋葬されたのですね。
また今回亡くなられた襄さんのお父さん、民治さんも改葬されるまで天授庵に埋葬されていたようで、襄さんも葬儀の直前まではここに埋葬される予定だったそうです。

さて、最終回まであと少しということろで、またもや新しい登場人物、猪一郎さんの弟の健次郎さんの参入です。
・・・とは言っても、ずっと前から同志社の生徒でしたので、今になってやっと出して貰えるのか・・・という感が拭えませんが(苦笑)。
ちなみに健次郎さんは同志社を再入学してこの場にいます。
一時は熊本の実家に帰っていたのですが、猪一郎さんが実家に戻って来て且つ結婚したものだから居辛くなり、家を離れます。
その後今治で牧師活動をしていた時雄さんを頼り(親戚関係なので)、そこで教会活動を手伝って、明治19年(1886)6月に京都へ移って同年秋に編入試験を受けて同志社に再入学したのです。
再入学した同志社で、彼が出会ったのは久栄さん。
このふたりのことは、先週の記事でもご紹介しました健次郎さんの自伝的小説『黒い眼と茶色の目』で有名ですが、まあ折角ですので内容に沿った形で筆を進めていくことにしましょう。
何やら本の貸し借りを通じて親交を深めている様子の二人ですが、そんな健次郎さんが次に久栄さんに勧めたのが坪内逍遥さんの『当世書生気質』。
近代デジタルライブラリーでも読むことの出来るこの作品、平たく言えば当時好評を得ていた小説です。
以前放映されていた「坂の上の雲」でも、確か正岡子規さんが読んでいたように記憶しています。

帝大生が小説など!こんな低俗な娯楽にうつつを抜かしている場合が!東京大学は今や帝国大学となった!お前達には日本を正しぐ導く重責があるごどを忘れるな!

と、山川さん家の方の健次郎さんが帝大生に怒鳴り散らしておりましたが、明治のこの時期、小説がどういう物だったのかについて少し補足したいと思います。
言わずもがな、現代の我々が捉えている「小説」とは、物は一緒でも社会的捉えられ方が全く違います。
あんまり深くメスを入れ過ぎると文学史の話になってしまうので極力避けますが、そもそも「小説」という言葉は「小人(つまらない人のこと)の説」という意味でして、お隣の中国では賤民的な存在であって、伝統的な観念では文学以外のものと考えられていました。
ええ、そうです、かの有名な『三国志演義』も『水滸伝』も『西遊記』も、小説であるが故に文学だとは見做されてなかったのです!
これは儒教的な観念なのですが、転じて、日本にもそういった傾向がありまして、要は健次郎さんの台詞にあるように「小説は低俗な娯楽」と位置付けられていたのですね。
へーそうなんですか~という感じでしょうが、儒学を尊しとした江戸時代の武家の人間として、少なからずその価値観が植え付けられてる健次郎さんからすれば、小説なんてものは差別の対象になってしまうわけですよ。
逆に生徒諸君は、きっと江戸時代が瓦解した明治のお生まれでしょうから、そういった価値観ががっつり植えられてないので、健次郎さんとの間には温度差が生じてる。
きっと彼らは、小説の何が駄目なんですか?という感じだと思います。
それはそっくり八重さんと健次郎さん(以下、ややこしいので蘆花さんと表記します)にも当てはまることでして。
八重さんも江戸期の人間だから小説は差別の対象(=「小説何て絵空事の話」発言)、対して蘆花さん(=「小説は絵空事じゃなか。小説には人間の本当が書いてあっと」と八重さんに反論)は明治の生まれだから小説を差別するだけの価値観を持ち合わせていない。
価値観の違う者同士が言い合っても、平行線を辿るのはいつの時代も同じこと。
近頃の若い者は」と八重さんがぼやいておられましたが、ここに明治という時代の区切りを境にして、前に生まれたか後に生まれたかの温度差のようなものがくっきり浮かび上がっていますね。
ちなみに「帝大生が小説など!」と健次郎さんに言われていましたが、ご存知明治を代表する小説家、夏目漱石やその他文学士を彩る数々の文豪も帝大卒、或いは帝大中退です。
しかしまあ、漱石からして生まれたのが江戸時代が間もなく幕を閉じようとしている慶応3年(1867)ですから、彼にもきっと小説に対する儒教の先入観はなかったのでしょう。
そう考えたら、安政6年(1859)というがっつり江戸時代生まれの坪内逍遥さんが小説に取り組んでいたのは、なかなか開明的というか、先進的というか、価値観に捕らわれない人だったのかなと。
小説というものが、人間の内側に向き合うルーツとして出て来たのは、封建制の時代が壊れた明治という時代ならではの新風。
封建制が終わったということで、「身分や家柄も構いなしになった」一方、「己の才覚だげで生ぎで行ぐ自由もまた、恐ろしかろう」というように、明治という新時代を生きる若者には、明治という新しい時代を生きるための生き方みたいなのがあるのです。
江戸と明治は全く違いますから、それこそ江戸の生き方が明治でそのまま通じるはずもなく。
そう言った意味での生き方の模索の中に、「個人」や「人間の内面」というのが登場してくるのですが、江戸時代という旧時代の人間からすればそんなものが「軟弱」に見えるのですね、八重さんみたいに。
覚馬さんのように開明的だと、明治という新し次代を生きることの難しさに理解を示せるのですが。

話を戻しましょう、覚馬さんの言葉を借りるなら「明治の生まれか」な蘆花さんと久栄さん。
『当世書生気質』の次に蘆花さんが彼女に貸したのは『レ・ミゼラブル』。
曰く「ある罪深い男が娼婦の娘のために一生ば捧げる話たい。何が罪で、何が愛か・・・」というこのお話、現代の我々の知るあの『レ・ミゼラブル』なのですが、この頃既に日本でも読まれていました。
正岡子規さんがこれを読んで感動した、という逸話は有名です。
ここで蘆花さんは、小説家を目指す抱負を久栄さんに打ち明けます。

ペンで人間ば解剖するように、人間の本当を書きたか

とはいうものを、その解剖の犠牲になるのが目の前の久栄さんであり、後年ですと捨松さん(『不如帰』にて大迷惑を被りました)なのですね。
小説を馬鹿にするわけでは決してありませんが、小説は飽く迄小説であって、それ以上のものにはなれない。
神様でもない人間が書いたものなので、絶対に視点や考えに偏りが生じますので、そう言った意味では「本当」何てものは誰にも書けないのです。
そんな蘆花さんのペンネームの由来がここで紹介されます。

徳富蘆花。蘆の花は見どころとてもなく
清少納言?
兄に比べれば俺は取るに足らん蘆の花たい。ばってん、俺はそぎゃん花の方がよか

蘆花、という号は久栄さんが指摘した通り、清少納言の『枕草子』(能因本)七十段に由来するもののようです。

ちょっと話を蘆花さんから、お兄さんの猪一郎さんに映しまして、同志社を中退した彼は、押しも押されぬ新進言論人として全国にその名を知られていました。
そのきっかけとなったのが『新日本之青年』であり、襄さんが第三版の序文を寄せていた『将来之日本』です。
襄さんはこの『将来之日本』の最も優れた理解者で、「御近著之将来之日本御送付被下鳴謝之至ニ不堪候」と、子弟でもある猪一郎さんの開花を喜んでいます。
猪一郎さんは自伝で、「予は当時専らスペンサーの進化説や、ミルの功利説や、抑々又たコブデン、ブライト等のマンチエスター派の非干渉主義や、自由放任主義や、若しくは横井小楠の世界平和思想や、それ等のものに依って、予一個の見識を打ち建てるものであった」と書いています。
自由時間を使って自分の勉強を積みつつ(インプット)、自分の塾で学んだことを講義してアウトプットする傍ら、鋭い現実政治批判の論評を磨いて行ったのでしょう。
そういう背景から『将来之日本』や、あるいは『新日本之青年』が生み出された。
仮に猪一郎さんが上京後に東京の新聞社への就職が成功していて、新聞作りに追われる日々を過ごしていたら、これらの作品は生まれて来なかったとも言えるかもしれません。
襄さんは「同志社大学設立の旨意」を猪一郎さんに委託しますが、その背景理由として、襄さんの持つ文明論的国家観と蘇峰さんが意気投合していたから、というのもあると思います。

話を再び弟の方に戻しまして・・・。

叔母様の力を借りるつもりはありません。母を追い出した人に頼るわけにはいかへん

と、久栄さんの母親代わりになろうと努めるのに、全身拒絶を食らう八重さん。
親ならば子は思う通りには行かぬと心得ておくと良い、と民治さんは言いましたが、母親追い出しておいて母親面するのは流石にどうかと思うという点で、この態度は全面的に久栄さんに賛成です。
それはさておき、ふたりの交際が噂になり、八重さんが真偽を質したところ、久栄さんは寧ろ開き直って噂を肯定します。
そこで読み上げたのは、蘆花さんから送られた恋文。
全能至大ノ父、十字架ニ鮮血ヲ流シ玉ヘル子、永久ニ生キテ働ク聖霊、三位ニシテ一体ナル神ノ御前ニ於テ、肯テ御身ト将来偕老ノ約ヲ結バンコトヲ誓ヒ、未来永劫或ハ渝ルコトナカランコトヲ跪イテ神ノ御前ニ祈ル。艱難の山、苦痛の谷も手を挈えて渡らん。
君が将来の夫
吾が未来の妻
これは『黒い眼と茶色の目』の中にある恋文の全文なので、実際蘆花さんがどんな恋文を送っていたのかは知りませんが、とにかく送ってくれた本人を前にして恋文を音読するとか、久栄さんは八重さんに反抗的なのは判りますが、余りにあれじゃあ蘆花さんが不憫です(苦笑)。

うちら、今から結婚するつもりや
何を馬鹿なごどを
健次郎さんは、同志社辞めて東京で小説家になるというてます。うちも東京に着いて行く
学生の身で結婚など許せるはずがねぇ!
山本家から追い出した女の娘や。厄介払い出来てええやないの。うちも追い出して下さい
厄介者な訳ねえ!家族だがら反対すんだ。そんな結婚、久栄のためにならねえ
叔母様にうちの結婚を反対される謂れはないわ。母親にでもなったつもり何か!レ・ミゼラブルいう小説。ここには我が子のために命をかける母の愛が書いてあります。いっぺん読んでみたら叔母さんにも分かるやろ

個人的に、この発言をしている久栄さんが『レ・ミゼラブル』の内容をちゃんと汲み取れてないような気がしてならない・・・。
コゼットのことを自分に都合よく解釈しちゃっただけなんですかね。
・・・あれ、自己の都合よく何かを解釈するそういうところ、蘆花さんと似てますね。
もしかしてそういうさり気無い演出をにおわせてるのですか?(そんな訳ない)
小説で食べて行けるのか、いうことについて、この頃の日本で小説だけで食べて行こうとして失敗した例が樋口一葉さん。
その失敗を繰り返さないように、小説家をサラリーマン的にして、小説家を食べて行ける職業にしたのが夏目漱石さんです。
きっとこのまま蘆花さんが上京しても、小説家として一本立ちになれず、樋口さんルートを辿ってただろうなぁ、と感じずにはいられませんが、どうなってたでしょうね。

明治19年(1886)6月、襄さんと八重さんは仙台の東華学校開校式の出席を経て、函館から札幌に避暑に向かいます。
冒頭のみねさんの出産が明治20年なので、また時系列がおかしなことになっていますが、もうあまり深く考えないことにしましょう。
個人的には、北の大地に渡った八重さんが、斗南のこととかは脳裏を掠めもしないのね・・・と・・・(苦笑)。
このとき八重さんと再会したユキさんの、薩摩藩士との結婚のことは、このブログでも何度も触れてきたことですので、もう書かないでおきます。

気になる久栄さんと健次郎さんの恋路の行方ですが、結果論から言ってしまうと成就しません。
ただその結果に至るまで、一体どんな道程を辿ったのかについては、やっぱりよく分かっていないのです。
前回の時栄さんの時と同様、『黒い眼と茶色の目』に書かれていることが事実のように捉えている人もいますが、繰り返します、『黒い眼と茶色の目』は小説です
なのでそれを鵜呑みにするのはかなり危険なことですので、少し違った角度から蘆花さんと久栄さんを見て行きましょう。
ドラマでは一方的に、蘆花さんが久栄さんを捨てて上京した形になっていました。
ところがところが、『黒い眼と茶色の目』では寄って集って自分の恋を諦めさせに掛かった挙句、黒い眼(=襄さん)が恋愛というプライバシー問題に介入して自分達の関係にとどめを刺した、と、まるで蘆花さんが被害者のように描かれています(まあ一度読んでみて下さいませ)。
実際に分かっている情報を辿ると、蘆花さんは明治20年12月17日に襄さん宛てに決別の書簡を出して同志社を飛び出して失踪、その後翌年2月に水俣に現れるまでの二か月間については何も書き残していません。
この空白の時間、蘆花さんが久栄さんとのことで心が荒れていたのは想像に難くありません。
気になるのが、後年(大正3年)『蘆花日記』にて、蘆花さんが

久栄は余が離縁した妻ではない、皆が離縁さした妻である。
細君は余が親迎した妻ではない、皆が結婚さした妻である。
故に余は満足しなかった。
と書いていること。
ここから読み取れる蘆花さんの言い分は、久栄さんとのことも奥さんとのことも、自分ではなく外から不本意な決定を迫られた、ということです。
女性が見たら激怒しそうな、自分のことを棚に上げた無責任発言ですね(笑)。
まあ、蘆花さんは「自分の書いた痕跡で見れば、余は従来常に他動的で、自発的に動いたことはない」と自分で言ってしまってるので、こういう風な言い方をするのはよくあったのでしょう。
しかしこう言っておきながら、蘆花さんは久栄さんとの出来事を実に三度も叙述します。
言わずもがな、それが『黒い眼と茶色の目』という作品です。
一回目の起稿は、久栄さんと別れてから日の浅い明治21年(1888)~明治22年春頃、日久奈温泉の泉屋で書き上げました。
二回目の執筆は上京後、兄の猪一郎さんの民友社で翻訳の仕事に従事していた明治25年(1892)頃。
そして明治26年(1893)7月20日に久栄さんが亡くなり、三回目は大正3年(1914)9月~10月17日に綴られました。
このとき蘆花さん、妻の愛子さんと結婚して二十一年目です。
何故三度も綴ったのか、ということについては、年月の段階を踏んで自分の中にあるものを「書く」ことによって昇華させていっているように私には見えます。
第一回目は、久栄さんとのことがあってからまだ日も浅かったので、久栄さんへの復讐などの気持ち、遣る瀬無い鬱憤の放出などの意味合いが強く(愛憎)、第二回目もそういった感じで筆を動かし、第三回目には今いる自分の妻と、後遺症として残る久栄さんと、そして自分の関係や距離感の整理、という意味合いがあったのではないかな~、と私などは捉えています。
その証拠に・・・というには少しおかしな表現ですが、大正3年の日記で、蘆花さんは「余は『茶色』で潔く彼女を永久に葬る」と言っています。
これは書くことによって、自分の中にいる久栄さんとのようやくの決別が出来たと取っても良いのではないでしょうか。
第一回と第二回の原稿が残っているわけではないので、比較も出来ないままの推論で大変申し訳ないのですが。
勿論過去の記録文学として仕上がっているこの小説が、ふしだらな女(=久栄さん)に弄ばれた被害者(=蘆花さん)、ということで、蘆花さんの自己を正当化し、合理化するために書かれた作品とも受け取ることも出来ます。
もう少し興味深い記述を、同じく大正3年に蘆花さんが残しているので、如何に引用させて頂きますね。
十月三日
何故に「茶色の」を書く乎。要するに自己肯定の結果である。真実の自己を押し出す勇気がやっと出たからである。斯くて久栄は大ぴらに世の肉縁薄かった先妻となり、細君は後妻となるのである。久栄が隠し妻である間は、細君は世の真の妻ではない。余が久栄を公表し、細君が久栄を包容するに至って、余と細君の結婚は成立するのだ。「茶色の」表面に細君の片影もないが、背景には確固とした根強い細君が居る。細君が十分に入って来たから、久栄は出るのだ。
十月六日
「久栄さんは十六七の子供なのに、あなたが今日まで引っ張って育てゝ居なさる」と細君曰ふ。
十月十日
余は細君を自分流儀に愛した。然し過去の幽霊に対する愛も終始動いた。二つの愛は終始絶間ない葛藤を起こした。細君が来て今日に到るまでの廿一年間は其二つの勢力の消長史である。・・・・・・余は長い長い内諍の後やっと細君を専愛する心になった。ついに此三週間以内の事と云ってもよい。父の死が余を解放したとも云へる。最後の試験に細君が及第したからとも云へる。・・・・・・過去一切を久栄にやって、はじめて余と細君の真の結婚は成就するのだ。
十一月一日
細君曰く、久栄さんがあなたの心の最奥を占め、私が其外を占めていたと。厳密な定義に於いて、最奥が細君で、中層が久栄で、上層がまた細君だったのだ。余曰く、実は今日まで久栄を愛して居た、「黒い眼」を出すのも一は久栄の心の最後の在処を探らん為であった、久栄が余を捨てたや否やまだ余の安心はついていなかったのだ。
(徳富蘆花1928、蘆花全集10、蘆花全集刊行会)
以上の抜粋部分を読んで汲み取れるのが、『黒い眼と茶色の目』は蘆花さんの中で久栄さんという存在をぐるぐる回して、それを昇華ないしは決別させるための作品だったということで。
なのでただの「久栄への復讐作品」と終わらせるのも、「蘆花の被害妄想小説」という言葉で片付けてしまうのも、間違いではないのですが、それだけじゃ片付けられないものが含まれていると思うのですよね。
故に軽々しく、あの二人の間に起きたことは『黒い眼と茶色の目』に書かれていることが全てです、とも言って欲しくないなと。
何だかまとまりのない記事になっていますが、結局のところ、歴史の真実や当人同士が何をどう思ってただ何て、当人ら以外の誰にも分からないんですよねぇ・・・と、無理矢理まとめさせて頂きます(着地点見失った!)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年11月12日火曜日

第45回「不義の噂」

琵琶湖疏水、と言われてピンと来る方は少ないと思いますが、南禅寺にある水路閣(写真)は見たことのある方が多いのではないでしょうか。

これは明治18年(1885)に、当時の京都府年間予算の十数倍の額を投入して行われた事業で、この事業があったからこそ、京都の人は今でも清浄水を絶やすことなく使うことが出来ているのです。
更にこれは明治28年(1895)~大正15年(1928)には疎水から引いた水で、蹴上に日本初の営業用水力発電が設置され、伝記による機械製工業の発展など、京都の近代化をますます担うことになります。
覚馬さんは京都商工会議所の会長としてこれにも関わっており、ここにも京都の近代化と復興を担った山本覚馬という人物の功績が見られます。
覚馬さんこのとき57歳、数えで58歳なのですが、まだまだ現役を退く気配はない様子です。

一方、舅の民治さんと姑の登美さんにワッフルを振るう八重さん。
「西洋の大判焼きか?」と民治さんは言ってましたが、この時代の言葉に「大判焼き」は存在しません(1950年代に出来た名称ですので)。
いうのなら「今川焼き」が一番妥当な表現です、時代考証さん今週もしっかりしましょう。
まあ、突っ込みはこのくらいにしておいて、ワッフルが「ジョーの大好物で、棚に隠してもすぐに見つけんですよ」というのは有名な逸話ですよね。
食べられないように、八重さんは棚に鍵まで付けたのですが、何処で覚えたのか襄さんはそれをピッキングして食べていたようです(笑)。
逸話を見るに、襄さんは甘いものを沢山食べているように見受けられるのですが、残っている写真を見ると襄さんってスマートなんですよね。
一体カロリー何処に吸収されて行ったのでしょうか・・・謎です。
それはさておき、呑気にワッフル作ってる状況ではなくなった同志社女学校。
以前から雲行きの怪しかった宣教師との対立が表面化し、日本宣教団体(ジャパン・ミッション)と女子宣教師が同志社女学校から撤退し、運営の後ろ盾のなくなった女学校は廃校の危機に立たされます。
そこで、宣教師らの影響力を受けない学校に女学校を作り変えようと画策する八重さんですが、言うのは簡単、でもそのためには多額の資金が必要になります。
何と言っても、宣教師達と手を切るということは、大学運用の資金源とも手を切るということと同意ですから。
そういうわけで八重さんは覚馬さんに、商工会議所の人たちを紹介して貰って資金繰りに奔走します。
しかし商工会議所の人たちは、冒頭の琵琶湖疏水に出費したばかりで、そう易々と女学校の方にまでまたお金を出すのは出来ないというタイミングの悪さで、それでも女学校で参観日を開いて「出資する価値はある」とアピールするなど、なかなかの手際の良さを見せる八重さん。
結局これらが効を成し、大垣屋さんの養子、大沢善助さん達の支援によって同志社女学校は廃校を免れます。
同志社英学校の時もそうでしたが、要は他人(明治政府なり宣教師達)に頼らず自分でやれ、という雰囲気が明治編にはありますよね。

さて、今週の見どころは、初代伊藤内閣設立をさらっと流してまで描いた時栄さんの不義騒動ですね。
蘆花さんの自伝的小説『黒い眼と茶色の目』にも、この一件のことは描写されています。
蘆花さんというのは猪一郎さん(蘇峰さん)の弟で、どうやら来週本編に登場するようです。
彼についてはまたその時に触れるとして、小説での該当箇所を引用してみましょうか。
時代さんはもともと鴨東に撥をとって媚を賣つて居た女の一人であった。幕末から明治にかけて、政治運動の中心であった京都に続出した悲劇喜劇に、地方出の名士に絡むで京美人はさまざまの色彩を添へた。其あつ者は、契つた男の立身につれて眼ざましい光を放つた。眼こそ潰れたれ、新政府にときめく薩長土肥の出でこそなけれ、人々の尊敬も浅からぬ山下さんを、時代さんは一心にかしづいて、二十一の年壽代さんを生むだ。壽代さんが生まれた翌年山下さんは跛になつた。時代さんはますます貢意を見せて、寝起きも不自由の夫によく仕へた。總領のお稻さんが叉雄さんに嫁いで、家督ときまった壽代さんが十四の年、山下家では養嗣子にするつもりで會津の士人の家から秋月隆四郎と云ふ十八になる青年を迎へた。青年は協志社に寄宿して、時々山下家に寝泊りした。時代さんはまだ三十五で、山下さんは最早六十が近かつた。時代さんはわたしが十七の年生むだ子に當ると云つて、養子の隆四郎さんを可愛がつた。其内時代さんは病氣になつた。ドクトル・ペリーの來診を受けたら、思ひがけなく姙娠であつた。一旦歸りかけたペリーさんは、中途で引かへして來て、上り框から聲高に、おめでたう、最早五月です、と云つた。聲が山下さんの耳に入つて、山下さんは覺えがない、と言ひ出した。山下家は大騒ぎになつた。飯島家と能勢家は其虜分に苦心した。相手は直直養子の青年と知れた。時代さんは最初養子を庇つて中々自白しなかつた。鴨の夕涼にうたゝ寝して、見も知らぬ男に犯されたと云つた。其口責が立たなくなると、今度は非を養子に投げかけた。最後に自身養子を誘惑した一切の始末を自白して、涙と共に宥免を乞ふた。永年の介抱をしみじみ嬉しく思つた山下さんは、宥して問はぬ心ではあつたが、飯島のお多恵さんと伊豫から駈けつけたお稻さんとで否慮なしに宥免を追出してしまつた。時代さんは離別となつて山下家を去つた。養子は協志社を退學して郷里に歸つた。離別ときまると、時代さんは自分のものはもとより壽代さんの衣服まで目ぼしいものは皆持て出た。金盥、洗濯盥の様なものまで持て出て往つた。
ちなみにこの小説、全文は近代デジタルライブラリーで読むことが出来ます。
(※山下家=山本家、山下=覚馬さん、時代=時栄さん、協志社=同志社、稻=峰さん、飯島=新島、多恵=八重さん、壽代=久栄さん)
未読の方は、来週の予習として目を通しておくと、来週の話が一層楽しめるかと思います。
話を戻しまして、引用箇所を読まれた方、ドラマの内容と比べて「あれ?」と感じた方もおられるやもしれません。
ですが、飽く迄『黒い眼と茶色の目』は「小説」ですので、ここに書かれていることを史実と捉えることは出来ませんし、そうするのは非常に危険だと思います。
実際問題時栄さんと青木さんの間に何があったのか、間違いはあったのか、時栄さんは妊娠していたのか・・・などなど、真相は全て歴史の中に埋もれております。
分かっているのは、時栄さんが何か間違いを起こし、覚馬さんはそれを許したが八重さんが「臭いものには蓋をしてはなりません」と「ならぬことはならぬ」でそれを譲らず、時栄さんを家から追い出した、という流れのみ。
ただ、火のないところに噂は立たないとも言いますので、『黒い眼と茶色の目』という創作物の中に、もしかしたら真実の欠片が紛れ込んでいるとも言えます。
しかしこの事件を大河ドラマで描くとき、一体何処まで突っ込んでやる気だろうかと(一歩間違えれば大河史上に名を刻む昼ドラシーンになりかねないので)思っていたのですが、その辺りは当たり障りなく描けていましたね。
ただ気になったのが、今に始まったことではありませんが、登場人物の心境の演出が杜撰。
台詞と、それを口にしてる役者さんたちのさり気無い演技で持っていたような部分が見受けられまして、たとえば今回のことですと時栄さんが結局覚馬さんをどう思っていたのか、覚馬さんが時栄さんをどう思っていたのか、その辺りは結局触れないままふたりの関係が終了しましたよね。
登場人物を丁寧に話の中で創って来なかったツケが積もりに積もって、やっつけ感が漂ってたなと。
何より気になるのが、現在45話目ですが、残り5話しかないのにこれに1話丸々割いて良いのかということでして。
特に今回は顕著でしたが、全く「歴史ドラマ」じゃないんですよ。
時間軸がほとんど動いてなくて、しかも空間的距離が山本家の屋根の下のみになってるので、奥行きが全く感じられない。
これじゃあ「朝ドラ」と言われても、反論出来ないでしょう。
否、作品にもよるけど、朝ドラよりも酷いかも知れないです。
何だか、回を重ねるごとに最終回が不安になるこの頃でした。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年11月11日月曜日

会津藩最後の姫

「八重の桜」第44回での照姫様の描かれ方が、私的にかなり釈然としないものでしたので、これを機にあまり知られていない「鶴ヶ城開城後の照姫様」について、私の知る限りをご紹介したいと思います。
鶴ヶ城を出た照姫様は、妙国寺で謹慎し始めて間もなく髪を下ろし、照桂院と名を改められました。
あれはてし 野寺のかねも つくづくと 身にしみ増る よあらしのこゑ
と詠んだのは、自身の儚い境涯を哀傷していたからでしょうか。
その後容保様には東京への出頭命令が下され、10月17日に照姫様はそれを見送りました。
容保様は芝赤羽橋の久留米藩邸に永預けとされ、12月7日には詔によって死一等を宥されたものを、この容保の代わりに旧会津藩は誰かを罪に服すべき叛逆首謀の臣三名を差し出さなくてはいけませんでした。
旧会津藩は、やむなく家老職の田中土佐さん、神保内蔵助さん、萱野権兵衛さんら三人を出したのですが、この内田中・神保の二人は籠城戦で既に命を落としており、実の所は萱野さん一人が一身に罪を背負うことになったのは、既にドラマで描かれた通りです。
照姫様は明治2年(1869)3月に東京に護送されており、青山の紀州藩邸に預けられていました。
そこで一死を以て容保の罪を贖ってくれる萱野さんの事を聞き、彼に
夢うつつ 思ひも分かず 惜むぞよ まことある名は 世に残れども
と言う歌を寄せ、切なくも苦しい胸の内を伝えました。
皮肉なことに、執行を言い渡されたのが飯野藩主、保科正益さん、つまり照姫様の血の繋がった実の弟でもあったので、彼女の悲しみは一入だったことでしょう。
萱野さんが麻布広尾の保科家別邸にて死を賜ったのは、同年5月18日。
表向きは斬首ながら密かに切腹の形を取ることを許され、萱野さんは武士としての対面を全う出来ました。
その翌月、容保様側室の佐久さん(田代孫兵衛さんの娘)が容保様の嫡男、容大さんを出産し、11月にはその容大さんに旧会津松平家の家督相続が認められ、旧会津藩は下北斗南三万石として再興されました。
それに伴い照姫様も、12月の内には紀州藩から飯野藩へ預け替えとなり、27年ぶりに生家へ戻ることが出来ました。
明治5年(1872)には容保様も漸くお預け御免となり、その時に喜びの歌として照姫様は
いくかへり むすべる霜の うちとけし うたげうれしき けふにも有哉
と詠んでいます。
照姫様は以後、保科家からの援助で暮らすことになります。
明治12年(1879)には、旅先の東山温泉で
岩くだく 滝のひびきに 哀その むかしの事も おもひ出つつ
との歌を詠んでいます。
「むかしの事」とは一体如何なることかは、照姫様自身が語っていないので、謎のままです。
照姫様は明治17年(1884)2月28日、東京小石川の保科邸でその生涯を閉じました。
享年55歳。
同年の3月15日付の読売新聞では、
奇特 此のほど旧會津藩主松平容大君の伯母君照桂院殿が卒去せられ内藤新宿の正受院へ葬送せられし時在京の旧藩士は勿論郷里の人々も数名出京して会葬せられしが葬式は旧格に依旧臣の頃の順序に一同行列せし中にも当今在京にて顕職に在る人々も旧例に依りて自身に□れしは奇特の至りと会葬者一同感服せしといふ

と報道しました。
照姫様が旧藩士達に慕われ、大切にされていたと言うことが窺える記事ですね。
現在、照姫様は会津若松の松平家の墓所に眠っておられます。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年11月6日水曜日

第44回「襄の遺言」

孝明天皇から容保様に遣わされた御宸翰(と御製)を、容保様が竹筒の中に入れ、生涯誰にも見せることなく、また入浴時以外は肌身離さなかった・・・云々の話については、3月に書いた記事で既に触れた通りです。
夏に京都文化博物館で催されていた「2013年NHK大河ドラマ 特別展 八重の桜」にて、この御宸翰の実物を拝見して来たのですが(既に催しは終了しております)、この御宸翰、私が想像しているものよりずっと大きかったです。
いえ、容保様が「肌身離さなかった」というので、アクセサリー以上の大きさではあろうとは思ってましたが、まさか縦47cm×横7cm(錦袋の大きさ)だとは思いませんでした。
正直申し上げるに、あんなものを肌身離さず持っていたら日常生活に於いて邪魔で仕方がないと思うのですが、そこには敢えて触れないことにして・・・。
あの御宸翰は会津が決して逆賊ではなかったと証明する物品であり、だからこそ山縣さんなどはその存在を知った時にそれを買収して、それを闇に葬ろうと(おそらく)したのですよ。
それほどのものなので、会津(というより容保様)にとってはこれは決して軽いものではなく、また軽々しく扱ってはいけないものだと思うのですよ、ええ。
罷り間違っても、今回のドラマのように、たとえ相手が照姫様であっても容保様がそれを余人に見せるようなことは、断じてなかったと思うんですよ
家族でさえ竹筒の存在は知っていても、中には何が入ってるのか知らなかった程ですから、容保様は生涯それを秘して来られたはず。
いえね、ドラマですから、ええそうですこれはドラマですから、今にも儚くなりそうな義姉上に、亡くなる前に彼女には真実(御宸翰)を知っておいて欲しかった、というのがあったんでしょうね。
容保様にとっては照姫様は精神的支柱だったのは、「八重の桜」冒頭から描かれてきた紛れもない事実です。
しかも、かつては夫婦になる予定があったふたりですから(そのことについては此方の記事で)、淡い感情のようなものが通っていなかったとは断言しませんよ、実際どうだったのか分からないのですから。
でも、あの抱擁はないでしょう、あの抱擁は。
「あったかもしれないこと」を創作するのと、「絶対なかったであろうこと」を創作するのとじゃあ、創作物として出された時の意味合いが全然違いますよね?
容保様と照姫様を、プラトニックラブ的に描くのならまだ許容の範囲内でしょうが、あれは完全にアウトでしょう。
何よりあんな陳腐な抱擁のシーンに繋げるために、御宸翰を出汁のように使ったことに(少なくとも私の目にはそう映りました)怒りを覚えます。
以前の記事で「歴史上の人物や出来事への敬意や思いやりというのはあって欲しい」と書きましたが、本当いい加減にして下さい、ここ数週間の大河ドラマ。
ドラマだからって、やって良いことと悪いことがある。
況してや歴史を題材にした大河ドラマが、歴史を蔑ろにして如何するって話ですよね。
で、容保様のお子様群と側室方の存在は一体何処へ行ったのでしょうかね?
そこ出さないと、勢津子妃にまで繋がらないんですよ。
勢津子妃まで繋がらないと、本当の意味で「会津は逆賊ではねぇ」が果たせないというのに・・・。
そもそも「八重の桜」って、薩長史観ではなく、朝敵逆賊扱いされた会津の立場から幕末を描くのもコンセプトのひとつではなかったですっけ?
幕末が終わって時代が明治になったらそれで全部終了ですか?
違いますよ、勢津子妃のことがあるまで、少なくとも朝廷賊軍扱いされてきた会津の中ではずっと幕末って続いてたんですよ。

・・・と、今回の記事も冒頭からそこそこ荒れていますが、ぼちぼち次の場面に着手しましょうか(既に意欲低迷してますのでさらっと行きます)。
話の主軸としてあったのは、同志社英学校を同志社大学にするための奔走と、私学の学校から徴兵令免除が撤廃されたことについてですね。
後はアメリカンボードとの確執もでしょうが、当ブログでも折に触れて補足してきた通り、正直これって今に始まったことじゃないんですよね。
アメリカンボード側としては、自分達が資金を提供するスポンサーなのだから、襄さんは所詮雇われ校長にしか過ぎない。
でも八重さんは違う、八重さんは襄さんが作った学校だから、同志社の権利の全ては校長の彼にあると主張。
どう考えたって噛み合うわけがないのですが、今更この問題に八重さんが直面してるってことは、八重さんはにこにこ笑って綺麗なお洋服着て、紅茶を淹れることしかしてなくて、夫の立場や苦境何て全然理解してなかったってことになりませんか?
それが、アメリカンボードとの現状を知った途端に、変な使命感に駆られつつも「ジョーのライフは私のライフ」なんて言われても、この八重さん説得力皆無ですよ。
で、この噛み合うわけないのを理解していないのか、宣教師の教師陣と真っ向からぶつかり合う八重さん。
襄の留守に勝手なごどはさせねぇ」と本人言い張りますが、平行線をたどる事が見えている両者に折り合いをつけたのは佐久さん。
敵を作る方法でしか喚けない八重さんに対し、佐久さんの我が身を切ってでも一歩退くお裁き加減は本当にお見事でした。
ハンサムウーマンって、こういうことを言うんじゃないでしょうかね。
ドラマの八重さんもいい加減佐久さんからこの辺りのノウハウ学びましょうよ(苦笑)。

順番が前後しました。
明治17年4月、襄さんはイタリア・スイスなどを巡ってアメリカへ行く旅に出ます。
大学設立資金集めのためとドラマでは銘打たれていましたが、実際の旅の目的は激務からの解放という目的の方が色濃かったようです(事実上不可能に終わりますが)。
襄さんは外遊に出て日本を離れる前に、同志社大学設立のための発起人会を発足させます。
京都商工会議所にて二日間に亘り発起人会を設立させた後、彼は京都を発ち(4月5日午前9時半発)、大阪を経て神戸から船に乗ります(4月6日発)。
まずそこから長崎に行って(4月8日着)、香港(4月12日着)、シンガポール(4月20日着)、コロンボ、スエズ(5月13日着)、ブリンディージ(5月17日着)、ナポリ(5月18日着)、ローマ(5月23日着)、トリノを経てワルデンシアン渓谷(6月21日着)でひと夏を過ごします。
8月5日にアイロロに着いた襄さんは、ホテル・オーベルアルプに部屋を確保し、翌6日の午後にアンデルマットからホスペンタールの方へ散歩に出掛けます。
マックス・カメラーさんというドイツの紳士がこの時一緒だったようで、サン・ゴタール峠を目指したのですが、次第に襄さんは呼吸困難になり、50メートル歩いては休み・・・と言うのを繰り返し、とうとう砦には辿り着けなかったようです。
その後ホテル・プローザにて夕食を終わらせた襄さんは益々気分が悪くなり、その翌日の午後、画用紙に英文で遺書を認めました。
ドラマでもその様子は描かれていましたね。
折角なのでその遺書の内容の日本語訳を、ブログの参考文献としても挙げている岩波文庫『新島襄自伝』から引用してみようと思います。
 一枚目 私は日本人で、母国に派遣された宣教師である。健康を損ねたので、やむを得ず、健康を求めて国から離れた。昨日ミラノからアンデルマットに到着し、ホテル・オーベルアルプに宿泊した。今朝ドイツの紳士と一緒にサンゴタール峠へと旅立った。私の容態が悪くなったので、彼は私をここに残してアイロロへ進んでいった。呼吸が苦しい。これは心臓の故障に違いない。
 私の所持品は僅かなお金とともにホテル・オーベルアルプに預けてある。私がここで死んだ場合には、どうかミラノ市トリノ通り五十一のチュリーノ牧師あてに電報を打ち、私の遺体の処置をお願いして頂きたい。どうか天の御父が私の魂をみ胸に受け入れてくださいますように!
 一八八四年八月六日 ジョゼフ H・ニイジマ
 これを読んだ人は誰でも、私の愛する祖国日本のために祈って下さい!

 二枚目 私はチュリーノ牧師に対し、遺体をミラノに葬って頂くようお願いする。そしてこの文書を、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストン市ジョイ通り四のアルフィーアス・ハーディー氏あてに送って頂きたい。同氏とその夫人は、ここ二十年にわたり私の恩人であった。主がお二人に、十分な酬いをお与え下さいますように。同氏にあてて直ちに電報を打って下さい。
 どうか私の頭髪を少し切り取り、それを日本の京都にいる愛する妻あてに、キリストにあって分かちがたく結ばれているしるしとして送って下さい。日本に対する私の計画は挫折するであろう。しかし有難いことに、主はすでに私たちのためにこれだけ多くのことを成し遂げて下さった。主が日本において、引き続きさらに素晴らしいことをして下さると私は信じている。願わくは主がわが愛する祖国のために、数多くの真のキリスト者と気高い愛国者を生みだして下さいますように!アーメン、アーメン。
この後続く自伝によれば、襄さんは胸の圧迫感を抑えるために胸に芥子を貼り付けたんだとか。
と、一時は遺書を綴るほどだった襄さんの容体ですが、夕方になると多少楽になり始め、翌日には馬車でアンデルマットに移動しています。
10日にルツェルンのワイセン・クロイツ・ホテルに到着した襄さんは、翌11日にようやく医師の診察を受け、心臓の左の部分が悪く、弁膜がきちんと閉まらなくなっていることを教えられます
しかし一命を取り留めた襄さんは、そのまま帰国せず、体調が良好なのを良いことに更に旅を継続、イングランドを経てアメリカに向かいます。
当時7歳のヘルマン・ヘッセと会ったり、クラーク博士と接点持ったりなどしているのですが、その話はさて置き、9月23日にニューヨーク港に着いた襄さんは、翌年の12月に帰国するまでアメリカに滞在します。

さて、もう順番かなりごちゃごちゃになってますが、今週の新たな登場人物で特記すべきは青木栄次郎さんでしょうか。
先の展開を知る人からすれば、広沢さん何て人間を連れ込んでくれたんだ!と突っ込みたくなりますが、まあ青木さんだって最初から問題抱えた人だったわけじゃないですからね。
・・・演出は全開でそう言う感じになってましたが(苦笑)。
まあ青木さんのことは次回に取り上げられるので、その時に触れるとして、今回はお久し振りの再登場となった広沢さんについて触れることにしましょう。
(ちなみに青木さんは広沢さんの縁戚ということにされてましたが、それについてはドラマの創作だと思います)
廃藩置県後の明治5年5月27日、広沢さんはイギリス人二人を雇って「開牧社」という牧場を拓いており、現在でいう青森県三沢市に昭和の終わりまで存続していたそうです。
洋式農法による未墾地開拓、洋種を基とした日本家畜の品種改良、肉食と牛乳による日本人の食生活を改善を掲げた牧場は、スタートは八戸藩大参事の太田広城さんとの共同経営でした。
一頭の西洋馬から始まったともいえるこの牧場なのですが、覚馬さんも指摘していた通り、開牧社のお蔭で暮らしが立った会津人も大勢いまして、広沢さんを買った大久保さんが政府要職にスカウトしても、首を縦に振らなかったそうです。
本人からすれば、政府に仕えない位置からお国を支える、という意思があったからでしょうが、政府の人間になると、自分の牧場があることによって日々生活出来ている会津人はどうなるのか、というのもやっぱりあったと思います。
少しでも世の中の役に立たねば、死んだ者だぢに叱られっつまう」というのは、本当にそんな広沢さんらしい台詞だなと。
そんな立派な広沢さんが、青木さんの縁戚という位置に勝手にされて、青木さんを登場させるための出汁に使われていたように見えたのも、これまた眉を顰めたくなる作り方なのですが・・・。
駄目ですね、最早何処を突いても、文句しか出なくなってきてます(苦笑)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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