2013年3月21日木曜日

第11回「守護職を討て!」

ならぬものはならぬ!

また少しお久しぶりな気がするこの一言から始まりました、第11回。
この上なく険しい顔で座っているのは権八さんと、それに向かい合わせで座っている三郎さん。
ただならぬ雰囲気に、八重さんも佐久さんもやって来て、ふたりの様子を見守ります。
一体何を言い争っていたのかと思いきや、先週西郷さんが官兵衛さんに言っていた「藩士の次男三男の中から腕に覚えのあるものを選んで都に連れて行け」の、その選抜についてのようです。
いわゆる別選組に、三郎さんが志願したと言うことみたいです。
仲間の尻馬に乗ってその気になったんだろう、と権八さんは八重さんに言いますが、これまでの山本家を見ていると、必ずしもそうとは言えないのではないかと思います。
思い出して頂きたいのが、第3回の時に覚馬さんが禁足処分を言い渡されていた時のこと。
あの時権八さんは、「これがらは三郎を厳しく仕込まねばなんめい。家を潰すわげにはいがぬ」と言ってました。
この一言から、婿養子として山本家に入った権八さんは、山本の家を存続させることに人一倍心を砕いていると伺うことが出来ます。
普通に考えれば、権八さんの後を継ぐのは覚馬さんです。
その覚馬さんは、いま何が起こるのかさっぱり分からない、遠い遠い京にいます。
権八さんにとっては、長男がそんな状況下に身を置いてるので、三郎さんはその長男に何かあった時の後継者スペア、と考えていた節があるのではないでしょうか。
それもあるから、行かせるわけにはいかない。
今回、権八さんが何故三郎さんの志願に反対していたのかは結局最後の最後まで明確には描かれませんでしたが、そこなんじゃないのかなと。
まあ、私の憶測ですけどね。
さてその三郎さん。
お姉さんの八重さんに、「早く手柄を立てたい気持ちは分かるけど」という言葉を「姉上に何が分がんべ」と弾き返します。
志願の理由は手柄を求めてのことではないようで、ならば一体何なのでしょうね。

元治元年7月11日(1864年8月12日)。
ということは、明保野亭事件はスルーですか・・・余力があったらまたこちらも後日補足しますね。
前回同様、洋装鞍の白馬に堂々たる風情で跨り、それをかっぽかっぽとさせて都の通りを往く象山先生。
以前の記事で触れた象山先生の愛馬の名前の推移ですが、この日、この馬は都路から王庭へと、再び改名されています。
良い声で歌まで歌いながら、かなり上機嫌な象山先生ですが、その理由は山階宮晃親王にお目通り適ったからでしょう。
ですが、その象山先生に兇刃が。
ずらりと現れた十人ほどの浪人達の内のひとりが、まず象山先生の腰を突き刺し、バランスを崩した象山先生が落馬したところで背中に太刀を浴びせる・・・という流れでした。
曰く、「邪謀を巡らし帝を奪い去る国賊」。
対して象山先生は「馬鹿者!天下のためになるのが分からぬか」。
互いの主張と主張がぶつかってる感じですね。
そうして象山先生は命を落とし、首は三条河原に晒されました。
しかし、襲撃するのなら何故先に馬を狙わなかったのだろうかとか、河上彦斎さんや松浦虎太郎さんのことはスルーなのだろうかとか、細々とした疑問が残りました(笑)。
演出は相変わらず細かくて、女の子が吹いていたぽっぺんは、ぽっぺん=西洋のもの=象山先生、で、それが割れた=死、という意味ですよね。
象山先生襲撃のことは、すぐに京都会津藩洋学所にいる覚馬さんのところへもたらされました。
轡を取っていた従者も一緒で、覚馬さんが事情を聴きますが、混乱しているためあまり参考にならず。
代わりに広沢さんが事情を説明します。
下手人は分かっていないようですが、代わりに広沢さんは、祇園社西門(今の八坂神社)に貼られていた斬奸状を覚馬さんに差し出します。
以下がその全文です。
松代藩  佐久間修理
此者元来西洋学を唱ひ交易開港之説を主張し枢機之方へ立入御国是を誤候大罪難捨置候処剰□□賊会津彦根二藩ニ与同し中川宮と事を諮り恐多くも 九重御動座彦根城へ奉移候義企昨今頻ニ其機会越窮候大□無道不可容天地国賊ニ付即今日於三条木屋町加天誅畢但斬首可懸梟木ニ之処白晝不能其義もの也
元治元年七月十一日 皇国忠義士
斬奸状の現物は真田宝物館に所蔵されています。
「この者西洋学を唱え、開国を主張して国是を誤らせ、奸賊の会津、彦根両藩、中川宮(=朝彦親王)と共に、畏れ多くも帝を彦根城に移し奉ろうとしたため天誅を加えた」という内容が書かれています。

朝廷に開国を説いだごど、帝の彦根連座を計ったごどが断罪されでいます。会津藩士がそれに手を貸しているども

広沢さんの言葉に、自分たちの動きが筒抜けになっていることに気付き、斬奸状の末尾に「皇国忠義士」とあるのを見て、何が忠義の士だと憤りを隠せない覚馬さん。
下手人は尊王攘夷過激派浪士ですが、会津を奸賊と罵り、彦根遷都を弾劾するのは彼らの主張そのものでした。
それと見落としてはならないのが、この日が幕府が長州藩に対し、京周辺から滞京するように伝えていた期限の日だったことです。
少し前の8日にも既に通告がされていますが、長州はこれを無視、二度目の通告にも無視を貫き、代わりに起こったのが象山先生の暗殺事件でした。
象山先生は松陰さんの師に当たるお方ですので、長州藩士がどの程度までこの事件に関与していたのかは謎ですが、少なくとも長州への二度目の通告の日と暗殺日が同日なのは、単なる偶然ではないのではないかと個人的には思います。

会津では相変わらず、官兵衛さんの隊の話でもちきりのようです。
尚之助さんの言う通り、確かに武家の次男三男はこういうことがなければ世に出る機会がありませんもんね。
一応補足しておきますと、悌次郎さんは次男坊なので、例外も一応ありますよ。
八重さんは、三郎さんはまだ16だし、槍も弓も未熟だから志願してもまともに働けるはずがないと尚之助さんに言います。
姉なりに三郎さんを色々と思うところもあるのでしょう。

三郎さん、独り立ちするのは大変だな。何しろ上のおふたりがあまりにお勇ましい

本当、尚之介さんの言葉の通りだと思います。
今回はこの尚之助さんが、この山本家内の問題で、非常に重要な役割を無意識の内に果たすことになります。

京では容保様のお体の具合が芳しくないようです。
そんな容保様に、国許の照姫様が案じて、咳止めの薬効がある松の葉のお酒を作って送ったそうです。
松のお酒何て初めて聞きましたが、松の持つ霊気のようなものが尊重されていた時代もあったらしいので、それに拠るものでしょうか。
似たようなニュアンスで、重用の節句に、お酒に菊の花びらを浮かべて飲むというのがありますね。
その容保様の元へ、国許に持病のために戻る横山さんが挨拶に来ていますが・・・私の知る限り、横山さんが帰国したのはこれより少し前の5月だったような・・・。
横山さんは帰国後の8月7日にお亡くなりになられて、このシーンは象山先生暗殺後なので7月11日以降禁門の変が起こった7月18日以前ということが推察出来ます。
8月7日に病没する人が、7月11日~18日の間に京から会津への旅に出るかな、とちょっと疑問に感じました。
それはさておき、この横山さんが京からいなくなるというのは、横山さんによって取り立てられた悌次郎さんや広沢さんが庇護者を失うということになり、それも関係して悌次郎さんの左遷、という流れに繋がっていくのです。
延いては都での会津の外交力が大きく削がれるということに繋がります。

長州勢六百、新だに洛外に着いたようだ。激徒を鎮撫するためどいう触れ込みだが、その実は援軍に違いねぇ

左遷の決まった悌次郎さんは、訪ねて来た覚馬さんにそう言います。
既に長州勢は2000で、会津1600を上回っているにも拘らず、動こうとしない禁裏御守衛総督の慶喜さん。
京都守護職の会津だけで単独で動けないのは、禁裏御守衛総督は京都守護職よりも上に当たるポストだからです。
その上、この慶喜さんが困ったちゃんなのです。
だから覚馬さんもじれったく感じているのです。

あのお方は事を構えたぐないのだ。因州、備前、芸州、筑前・・・都の中にも、長州に味方する藩は多い故の。このままでは会津が孤立して、長州がまた力を盛り返す

幕末史を眺めていると、慶喜さんひとりに引っ掻き回されたりした部分も結構あるんじゃないのかなという感じが私はするのですが・・・皆様はいかがでしょうか。
そんな時、広沢さんがやって来て、佐久間家の改易が決まったと知らせます。
象山先生にはお妾さんとの間に恪二郎さんという嫡男がいまして、この恪二郎さんが相続を願い出ましたが、松代藩は遺体に後ろ傷があったことを揚げ足にとって、佐久間家の断絶を言い渡します。

象山先生は国のために働いでいだのだ。家を潰される落ち度が何処にあっか!先生は覚悟を決めておられだ。時が来れば桜は散るど仰せだった。まだその時ではねがったのに・・・
後ろ傷など口実です。松代藩は攘夷激派に睨まれるごどを怖れでいるのでしょう
もどもど、象山先生の働ぎを面白ぐ思わぬ人だぢがご家中にいたのだろう

これは確かに松代藩の処分どうこうの前に頭に入れておくべきことだと思います。
面白く思わない人たちが家中にいたどころか、象山先生は大多数の人に嫌われていたと言っても過言ではありません。
言い方は悪いですが、傲岸不遜を絵に描いたような人ですし、頭は良かったでしょうし開明的ではあったでしょうが、多分自分以外の周りの人が馬鹿に見えて仕方がないような感じだったのではないでしょうか。
松代藩が、攘夷派に睨まれることを怖れていた部分も勿論あるでしょうが、それ以上に象山先生の生前の仁徳が足りてなかったというのも、佐久間家改易の外せない理由だと思います。

先生は二度殺されだ・・・。最初は刺客に、二度目は藩の愚かさに・・・。松代のことばっかりは言えねぇ・・・。会津も秋月さんを引きずり下ろした。池田屋がどうのど言っちゃいるが・・・本当のどごろはやっかみだ。・・・公用方が重用されるのが気に入らねぇ人だぢの因循姑息さだ。わがっていで、俺にはなじょするごども出来ねぇ

覚馬さんは松代藩か象山先生かと言えば、限りなく象山先生寄りで物事を見られる人間ですよね。
第3回で「井の中の蛙」発言で禁足処分にされたときもそうでしたが、開明的でない旧弊的なものに何処か否定的です。
ですが象山先生を受け容れられなかった松代藩の方々が頭の固いとかそういうわけではなく、これについての私の見解は以前の記事で述べた通りです。
体面や旧弊的な体制にじれったさを覚える覚馬さんは、そう眺めるとあんまり第3回のあの時から7年経った今でも内面的な成長があまり出来てないようにも見えます(苦笑)。

一方御所では、未だに本復しない容保様と、通告しても兵を退かせない長州の軍に落ち着かない様子。

中将は病やし、一橋はぐずぐずと腰が定まらん。お蔭で長州派の公家達がまた勢い付いてまいりましたんや

先の八月十八日の政変で、都落ちを余儀なくされた実美さんら七卿もまた、数千の軍勢を率いて同月14日に三田尻を発しています。
懲りないなと思いつつも、朝廷が保持している軍というのはないので、忠煕さん達が不安に思うのも無理ないことでしょう。
ここで都に入られたら形成が覆るかもしれない、という中川宮の言葉はご尤もです。
だからこそ、早く腰を上げて!慶喜さん!となるのですがね。

黒河内道場で、志願のために官兵衛さんに槍の稽古を挑み、文字通り満身創痍の状態にされてしまった三郎さん。
親に黙って入隊を願い出たことが権八さんにばれてしまい、手を挙げられた三郎さんは夕餉の席にも姿を現しません。
きっとこういう時に欲しいのは、異性の兄弟(八重さん)ではなく同性の兄弟なのでしょうが、生憎と覚馬さんは遠い遠い京にいます。
その覚馬さんの代わりのように、尚之介さんがそんな三郎さんに声をかけます。
角場にあった新式銃を見て、三郎さんは前置きなしに尚之助さんに謝罪します。

会津のために苦心して作られだのに、上の方々はろぐに御評議もしねぇで・・・。その銃が優れでいるごどはよぐわがっておりやす。んだけんじょ、俺では何処にも、誰にも、意見ひとづ言わんにえい
それで志願したのですか?隊士になれば一人前の藩士だ。新式銃のことを上に願い出ることも出来る。そう考えて?
若輩者が上に物を言うのに、他にどんな手があんべが?無茶でもやんねえど、道は開げねぇ
覚馬さんと同じことを・・・。その気持ちを話せば、お父上も手は挙げなかったでしょうに
父上には言えねぇ・・・。んだけんじょ、俺は見で来たから・・・鉄砲の家は一段低ぐ見られで、上に物申してもながなが取り上げでもらわんにぇい。・・・父上のご苦労、俺はずっと見で来たから・・・

このやり取りを聞いて、三郎さんの本音を預けられる相手がいて良かったなと思いました。
それが兄でも姉でもなく、第三者で且つ会津藩に属してない立場にいる尚之助さんだったからこそ言えたのでしょうし、反対に尚之助さんは、家族でもなければ会津藩士でもないから、八重さんや権八さんとは違う視点を設けて三郎さんに接することが出来た。
仮に覚馬さんがここにいて、三郎さんの本音を受け止めても、こうはならなかったでしょうし、或いは三郎さんがそもそも本音を出さなかったかもしれない。
そう言った意味でも、尚之助さんは絶妙な立ち位置にいるな、と思いました。
もしかしたら後の八重さんとのことでの伏線も孕んでいるのかもしれませんが、この持って行き方は良いと思います。
部外者の尚之助さんでなければ出来なかったのですし。
その三郎さんが、志願しても官兵衛さんの隊への入隊が適わなかった理由は、翌朝八重さんを訪ねてきた官兵衛さん自身の口から語られます。

十六の子に、命を捨てろどは言えぬ故な

ご存知の方も多いでしょうが、後の会津戦争で出てくる白虎隊は16~17の少年隊士によって構成されていた隊でした。
今は確かに、「捨てろどは言えぬ」時なのでしょうが、それがやがて「捨てろ」と言わざるを得ない日が来る・・・そして本当に捨ててしまった少年たちがいる・・・。
そう遠くない未来の背景が、この台詞には含まれているような気がしました。
都にいる覚馬さん視点とは違って、会津にいる八重さん視点は基本的にほのぼのとしているのですが、要所要所できっちり伏線張って行ってますよね。
八重さんから官兵衛さんの言葉を聞いた権八さんは、角場の竈の灰を掻き出していた三郎さんい言います。

何かを変えんのは容易いごどでねぇ。いっぺんでは上手ぐいがねぇ。そんじも、それが正しいごどなら何度でも何度でも願い出で、ちっとずつでも変えでいぐ。ずっとそうやって来た。親をみぐびんなよ

何度でも何度でも・・・と、これは山本家の家訓か何かでしょうか。
先週、八重さんも同じようなことを尚之助さんに言っていた気がします。
思えば山本家の三兄弟は、今回の三郎さんのことも含め、皆仲良く「一回では上手くいかない」壁にぶち当たってますよね。
それでも覚馬さんも八重さんも、何度でも何度でも・・・と、少しずつ齧り付いてきた。
次は三郎さんの番なのですね。
そうしようとしている我が子に、権八さんは「もう立派な会津の男だ」と、きっと三郎さんからすればこの上なく嬉しい言葉を言います。
結局このタイミングでの三郎さんの上洛は叶いませんでしたが、三郎さんとしても今は権八さんのその言葉だけで良いということでしょうか。

場所は変わって、山崎天王山近くの男山八幡宮。
石清水八幡宮の呼び名の方が皆様の耳には親しいでしょうか、そこは伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟で、清和源氏の守護神、八幡神を祀っています。
そういう関係もあってでしょうか、軍装に身を包んだ長州藩士がそこに集結しています。
本殿では真木さんが必勝祈願の祝詞と唱え、久坂さんが戦勝祈願の矢を奉納し・・・と、既に合戦モードです。
祈願を終えたら、次は社務所で軍議です。
総司令官ともいえる益田右衛門親施さん、天龍寺に兵を布陣させている遊撃軍総督の来島又兵衛さん、そして桂さんもそれに列席します。
遊撃隊というのは、高杉晋作さんの奇兵隊に触発されて結成された戦闘部隊です。
来島さんは兵力が揃ったので、すぐにでも攻め入るべしと主張します。
ですが留まるように制したのは桂さん。

敵は会津だけじゃありゃーせん。既に薩摩も入京しちょります。じゃが、因幡や備前と組めば戦をせずとも都での復権が叶います

久坂さんは、一戦交えるべきだと言いますが、ただし攻め入るのは若殿(=毛利定広さん)が到着してからだと言います。
その到着まで後十日足らず、今はまだ時期尚早ということですね。
少し補足説明を加えますと、長州の挙兵の理由は会津妥当ではなく、八月十八日の政変以降被ることになった藩主父子(=毛利慶親さん・定広さん)の冤罪を帝に訴えることです。
軍略的に考えると、今この状況で御所に兵を進めても、後詰の兵がないので勝ったとしてもそれは一時的な勝利だと思うのです。
・・・と、まあそんな議論の最中に、不審人人物が三人発見されます。
変装をして、敵地であるこの場所へ潜入捜査をしに来ていた覚馬さん、大蔵さん、平馬さんです。
この覚馬さんの敵地潜入視察、一見ドラマならではに見えますが、実は史実なんです。
覚馬さんは豪胆なお人でしたので。
ただ、お供が大蔵さんと平馬さんなのはさすがにドラマならではの脚色ですが。
喋ると会津弁で会津藩の人間だとばれてしまうので、口を開くにも開けなくて、挙句の果てには切り捨てられる一歩手前になる三人ですが、平馬さんの似非京言葉のお蔭で何とかその場をしのぎます。
無事にその場から脱出出来た三人は、そのまま会津本陣に行き、見聞きしたことを土佐さんにそのまま伝えます。
ただ、長州本体到着まで十日足らずということは判明していても、軍議を最後まで聞けないままの切り上げでしたので、あの軍議がその後どうまとまったのかは分からないという状況。
しかし長州が攻めて来たときに狙うのは容保様の首だと知った土佐さんと神保内蔵助さん(修理さんのお父さんです)は、これは猶予がないと、慶喜さんの尻を蹴り上げてでも決断してもらわねばと二条城に向かいます。
しかし慶喜さんは煮え切らず、長州征伐の号令をなかなか出してくれません。

もう一度揺さぶってみてからじゃ。一両日中に兵を引かねば、総攻めをかけると使者を出す。本体到着まではまだ間がある
事こごに及んで・・・
在京諸侯には長州に心を寄せる者も多い。都を二分する戦となっては困る。昨年八月、会津と薩摩が手を組んで長州を追い落としたのも、果たしてご叡慮に沿うことであったのか・・・

いや、本当慶喜さんというのは腰の定まらない政治家を体現していると言いますか、何と言いますか(苦笑)。
八月十八日の政変のことを今更出してくるの?と思われてしまうかもしれませんが、それは視聴者の我々が、会津が孝明天皇の勅命を受けていたこと、及び受けていたその場面を見ていたからなんですね。
あの場に居合わせていなかった慶喜さんからすれば、容保様と孝明天皇の間でのみ交わされたものには、何ら意味が見出せないのです。
容保様個人から会津藩に、ではなく、幕府に対してもっと公な勅旨を、というのが慶喜さんの欲しいところだったのです。
それさえ貰えれば、それを大義名分に掲げて堂々と戦が出来ると、慶喜さんの中ではそういう感じなのでしょうが、如何せん分かりにくすぎる思考回路故、誰にも付いて来て貰えない。
それが徳川慶喜という人間だと思います。
言いがかりをつけられた土佐さんと内蔵助さんからすればいい迷惑でしょうし、会津にしてみればこんなこと言われたら堪ったものではないですよね。
結果、会津本陣には動かない慶喜さんに対して藩士の怒りが爆発、怒号が飛び交って手が付けられないことになります。
自分のところの殿様の命が危険に冒されているのに、動く気配がなかったら誰だってこうなりますよね。
そこへ広沢さんが、慶喜さんが参内して朝議が始まることを伝えます。
その頃御所には容保様を始め、定敬さん、慶喜さん、そして在京の藩主たちが参内して御前に控えていました。
中川宮が、孝明天皇の叡慮は八月の政変以来変わっていないこと、長州が勅命を奉ずる意のないことを朗々と一同に申し伝えた後、御簾が上がって孝明天皇が告げます。

長州の軍勢、速やかに掃討せよ

元治元年7月18日(1864年8月19日)、いよいよ長州征伐の勅が下されます。
そして翌日、太平の世に久しくなかった戦が、京を舞台に勃発します。

ではでは、此度はこのあたりで。


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