2013年10月29日火曜日

第43回「鹿鳴館の華」

明治14年の政変によって政界からの追放を余儀なくされた大隈さんですが、明治15年(1882)、東京専門学校を開設します。
今の早稲田大学の前身です。
ちなみに政界にもこれより16年後に返り咲いて、薩長出身以外の初めての内閣総理大臣になります。
しかし、相変わらずこのドラマは立憲改進党やら尾崎紅葉やら犬養毅に、単語ですら触れない・・・(苦笑)。
いやでも触れ出してしまったら、それこそ話の大筋逸れてドラマの行く先が昏迷まっしぐらになりますか。

大隈さんの学校開設を追い駆けるように、襄さんも同志社大学設立に向け、準備をしていました。
襄さんが書いてたのは、おそらく蘇峰さんの協力もあって完成した「同志社大学設立の旨意」だと思いますが、これが完成するのはまだまだ先の明治21年です。
これには、同志社英学校設立や私立大学設立運動の経緯を時間順に整理し、何故、どのような私立大学を設立しようとしているのかの目的が謳い上げられています。
以前の記事でも書きましたが、もう一度書きます。
襄さんは教育を通じて国家秩序を回転させ、新しい日本を創出することを目論む、国家論的視野に立つスケール雄大な教育事業家なのです。
ドラマではそう言う風に見えませんが、その辺りは頭の中で補足しましょう。
そんな襄さん、蒲柳の質なのに蕎麦の大食い対決なんてするからなのか何なのか、体調が優れないご様子。
アメリカから帰ったデイヴィスさんも襄さんの体調を慮りますが、襄さんはそんなデイヴィスさんから、捨松さんが彼と一緒の船で帰国したことを知ります。
その頃当の捨松さんと言えば、津田梅子さんと一緒に文部省を訪ね、自分達の働き口を求めますが、10年の留学期間を経て日本語の読み書きがかなり危うくなってる二人に、お役人の態度は冷たく、そして硬いものでした。
まあ確かに、「日本語の読み書きが出来なくて、誰に何を教えると言うのだ」というお役人の言い分は筋が通ってます。
いくら生物学や物理が得意と言っても、フランス語やドイツ語が出来るバイリンガルでも、それを教える相手(日本人)はそれらのこと何にも知らないのですから、仮に教壇に立てたとしても、生徒とやりとり出来ないのですよ。
が、しかし「女は嫁に行って男子を産むのが国家への最上のご奉公」というのは、先進国を目指していながら、それらしからぬ発言です。
前回の記事でも触れましたが、捨松さんはヴァッサー大学を大学を3番目の成績で卒業してる才女です。
その才女を受け入れる体制が整っていなかったのが、この頃の明治日本というのを良く表している遣り取りではありますが、しかし日露戦争ではこの捨松さんがアメリカの大学を卒業しているという経歴が、大いに光ることになります。
先の話はさて置き、国費で留学させておきながら自分に仕事をさせないなんて、文部省は馬鹿、と家族の前でストレートな発言をしてしまう捨松さん。
ストレートすぎる発言は日本では疎まれるから、と健次郎さんから窘められてますが、文部省うんぬんより、帰国後の捨松さんや梅子さんの受け皿がないのは、捨松さんらを留学させた黒田清隆さんが、2週間くらい前にドラマで触れられた開拓使官有物払下げ事件で政界去ってるからというのが一番の原因です。
しょんぼりする妹に、日本では女が身を立てるのは難しい、と操さん。
ちなみにモクスワに留学した経験のある操さんは、後にこの経歴を活かして昭憲皇太后(明治天皇の皇后)付きの女官になります。
二葉さんは今や東京女子師範学校の寄宿舎長ですし、健次郎さんは東京大学教授、浩さんは陸軍少将ですから、山川家の皆様は本当凄い御方ばかりです。
そんな兄姉に囲まれたら、捨松さんじゃなくても肩身狭く感じるんじゃないかと(苦笑)。
妹のことを案じた浩さんは、京都の八重さんを訪ね、捨松さんを同志社女学校で教員として雇って欲しいと願い出ます。
襄さんも八重さんもそれを快く承諾しますが、先ほど役人が指摘してた部分についてはこのふたりはどう考えていたのでしょうか(汗)。
そんな浩さん、覚馬さんとも15年ぶりの再会を果たし、その覚馬さんから尚之助さんの遺した『会津戦記』を手渡されます・・・やっぱりここに繋げて来ましたか・・・。
大方今度はこれを、『京都守護職始末』執筆動機にまで繋げるんでしょうが、正直『会津戦記』が完全架空の産物なので、そこまでしゃしゃり出て欲しくないなあ、と複雑な心地がします。

さてここから先は、後に鹿鳴館の華と呼ばれる開花を見せる捨松さんと、その伴侶となった大山さんの結婚までの経緯が描かれるわけですが・・・。
正直茶番以外の何物でもない締め括り方や浅い心中の描き方に、感想や考察というよりは、最近すっかり定番と化してしまった文句つらつらな文章が以下は続きます。
捨松さんと大山さんとのことを詳しく知りたい方は、捨松さんの曾孫に当たる方が書かれたこちらの書物(amazonさんへ飛びます)をお手に取ってみて下さい。
ちなみに捨松さんと大山さんのことは有名ですが、実はそれよりずっと前の明治5年に、ユキさんは薩摩藩士の内藤兼備さんと結婚しています。
津村節子さんの『流星雨』は、そんなユキさんがモデルの小説です。
明治期に八重さんとユキさんは再会してるので、その辺りのことは(ドラマで描かれるのであれば)その時に触れることにしましょう。
話を捨松さん達に戻して、ふたりが最初に出逢ったのは、永井繁子さんと瓜生外吉さんの結婚パーティーで、「ベニスの商人」を演じた時のようです。
捨松さんは大山さんの薩摩弁が分からなかったらしく(同じ日本人でも分からないですよね)、捨松さんは「あなたの日本語はよく理解できないので、フランス語か英語でお話し下さい」と申し出たそうです。
これにさらっと対応して、流暢な英語で捨松さんと会話出来るのが大山さんの凄いところです。
で、これってさり気無いことですが、物凄く重要なことなんですよ。
捨松さんが日本語に不自由してると言うことは、日本人同士でコミュニケーションが取れないと言うこと=集団では孤立する、ということになります。
でもそこで、捨松さんとコミュニケーションを取る手段を持ってる人間(=英語が分かる・喋れる)が現れると言うのは、孤独からの解放ですよね。
大山さんって、捨松さんとの年齢差が18ですし、男やもめで先妻との間には4人の娘がいて、ガマとあだ名されるほど恰幅良くて・・・と、外見だけで見ると捨松さんも魅力を見つけるのが苦しい男性だったでしょうが、そういうところ(外見だけではなく中の部分)に惹かれて・・・となったのではないでしょうか。
実際捨松さんは、「閣下のお人柄を知らない内は(求婚の)お返事も出来ません」と言って大山さんとデートしていたみたいですし。
そういうところ、如何して描いて行けないのだろうか・・・このドラマは本当に人の心の動きっていうのが描けなくなってますね。
ドラマでは捨松さんに大山さんがアプローチしていましたが、実際は間に西郷従道さんが入ってます。
と言いますのも、山川家側が「自分達は賊軍の一族ですから」と大山さんをお断りしたのを、「それなら西郷隆盛を身内に持つ自分達も賊軍です」と切り返したのが従道さんなんですよ。
なので薩摩と会津という、怨恨関係の深い立場の人間同士の大山さんと捨松さんではありますが、そういった立場で考えたら似通ってる部分もある。
脚本的には「海外に出れば同じ日本人」と言う言葉で、薩摩も会津も関係ないよ、と表したかったのでしょうが、あんな言葉にすり替えないで欲しかった。
恨み辛みを越えた関係、と綺麗事で飾って締め括ってしまうのではなく、そういう風なところを丁寧に描いてくれた方が、人間の心情をドラマの展開として視聴者も追って行きやすかったんじゃないかなと。
どうにも見ていて、捨松さんが大山さんとの結婚に応じたきっかけといますか、惹かれた理由が全く見えてこない。
そして挙句の果てには、別に登場しなくても話の進行上全く問題のない八重さんがしゃしゃり出て、大山さんと腕相撲して話を纏めようじゃないかという、場の空気をややごり押しで持っていくと言う、面白くも何ともない展開。
あらゆることの主導権は常に主人公である八重さんになかったら駄目なんですか?
八重さんって、そんな無理矢理創作を付属させなきゃネタがいないような人生歩んでましたっけ?
ああいう風な八重さん、ハンサムウーマンでしょう?って制作者側からすればしたいのでしょうが、ハンサムどころか鬱陶しい女に成り下がってるだけですよ、あれじゃあ。
別に大河ドラマに創作要素は一切禁止!何事も史実に忠実に!と言いたいわけでも、それを求めてるわけでもありません。
「ドラマ」と銘打ってる以上、創作要素は寧ろ入っていて当然だと思います。
でも、その根底に歴史上の人物や出来事への敬意や思いやりというのはあって欲しいと思います。
実際に生きていた人を、題材という形でお借りしているわけですから。
そう考えた時に、今のドラマの八重さん像を見ているとハンサムウーマンと呼ばれた八重さんに対する敬意というのが欠片も感じられないのです。
(これは八重さんに限らず、作中のほぼ全員の登場人物にも言えることですが)
折角「新島八重」という、どういう風にも面白く描ける人物を主人公に据えたのですから、それを活かした良い作品を作って欲しいのですけどね・・・。
というより、作ってくれると最初の方は期待していたのですけどね。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年10月23日水曜日

第42回「襄と行く会津」

結構多くの人が、板垣さんは明治15年に起きた岐阜事件で、「吾死スルトモ自由ハ死セン」といって亡くなった、と勘違いしているようです。
が、実際はその後も彼は生きております。
いつまで生きたのかというと、事件の37年後までご存命でした。
ちなみに岐阜事件の際に、板垣さんを刺した犯人は後日板垣さんに謝罪していますし、板垣さんも板垣さんで、それを笑って許した、などというエピソードなんかも残っております。
教科書的な歴史の流れで捉えるなら、板垣さんといえば自由民権運動と自由党、というキーワードに連結させるのですが、「八重の桜」で言いますと、板垣さんは会津攻めの総司令官なのですよね。

日本で初めての、私立大学です。官立の大学は、ともすれば国の都合で人を型に嵌め込みます。人民の力を育てるには、民間の大学が必要なんです

大学設立の協力を得るために板垣さんの静養所を訪ねた襄さんは、そう話します。
民の力、というのは、会津攻めで総司令の立場にあった板垣さんも重々承知です。

会津の武士はよう戦うた。けんど、領民の多くは戦を傍観するばっかりで、なんちゃあらんかった。これを日本という国に置き換えてみたとき、わしはぞっとしたがやき。・・・武士だけが戦うても、人民がそっぽ向いちょったら、国は亡びるろう。人民に上下の区別があっては、日本は強い国になれんがやき。領民挙って力を合わせちょったら、会津も焦土にならんかったかもしれん

会津戦争の折、会津の領民らが薩長連合軍の道案内を買って出たりした・・・などなどというのは、会津戦争の部分も記事で既に触れました。
その彼らが、しかし合力したところで会津の焦土化が防げたのかと言われれば、非常に微妙なところですが(苦笑)。
しかし何だかんだ言っても、江戸期を通じて日本の人口の割合で一番を置くを占めているのは武士階級ではなく、農工商などの民階級ですからね。
何たって国を作っているのは民ですから、そこにそっぽを向かれたら日本という国が立ち行かなくなる。
会津の時は敵方の問題だったそれを、今度は日本という枠組みに当て嵌めて考えるこの流れ、良いなと思いました。

さて、今回のタイトルにもなっている、襄さんと八重さんの会津紀行。
ドラマでは8月となっていましたが、正確には明治15年(1882)7月27日に安中を経てふたりは会津に来ています。
新婚のみねさんがこれに付いて行ったのかどうか、確かなところは知りませんが、時雄さんが同行したのは間違いないので、もしかするとドラマのような四人旅だったのかもしれませんね。
先に八重さんが海路を使って横浜から安中に着いており、7月3日に京都を出た襄さんが中山海道を経て安中に着いたのは7月11日。
その道中の7月7日、襄さんは信州にあった「寝覚の床」と言う蕎麦屋で、猪一郎さんと蕎麦の大食い対決をしました。
実は蕎麦は襄さんの大大大好物で、「先生は食物には頗る趣味があった。特に蕎麦となれば命さへ打込む程であった」と後に猪一郎さんが『蘇峰自伝』に記すほどですから、相当なものです。
気になる勝敗の結果と言えば、ドラマでは襄さんが12杯に対し、猪一郎さん11杯なので襄さんの勝ちとなっていました。
ところが猪一郎さんは、後に回顧の中で「先生が九杯の時に、更に半杯を加へた為に予の勝となって、蕎麦代を先生に払はしめた」と書いています。
どっちが本当なのでしょうかね(笑)。
ともあれ、猪一郎さんは自分で新聞社を作る抱負を襄さん達に打ち明けます。

誰からも縛られんと、自由に記事の書ける新聞ば、この手で作りたか

これは襄さんの大学設立の抱負に通じるものがありますね。
猪一郎さんはキリスト教を異教してしまっていますが、流石「自分はずっと新島先生の信者たい」と公言しただけあって、向いている方向は同じなようです。

会津の鶴ヶ城は、籠城戦での破損が酷かったこともあり、保存の動きがありましたが福島県側が取り壊しを上申、明治7年(1874)に取り壊されました。
現存する八重さんの持ち物の中に、名刺サイズの鶴ヶ城の古写真を始めとする会津の風景が写されたものがあるのですが、それはまだ取り壊される前の鶴ヶ城が写っていたので、土産か何かとして売られていたものだったのでしょうか。
まあ、それで、ひょっとしたらうらさんに会えるかもしれないという淡い希望も抱きつつ、かつての城下を訪れた八重さん達。
八重さん、みねさんにしてみれば、約13年ぶりの故郷の土です。
当然ながら色々去来する思いもあるでしょうし、実際回想シーンが続き、嗚呼史実の八重さんもこんな気持ちで襄さんと会津に来たのだろうな・・・というのは伝わりました。
が、です。
いえ、たまには文句を言わずに大人しくドラマ観ましょうよって話ですが、やっぱり感じたことを素直に綴らせて頂きたいと思います。
正直、会津編以降の京都編で、しっかり重みをつけて、きっちりきっちり八重さんのことを描けてたら・・・つまり薩長への憎悪や尚之助さんのことなどなど、丁寧に追って描写していってくれて、それでこの会津時代回想があるのなら、嗚呼って見ている此方の心にも響くものがあると思うんですよ。
でも八重さんをはじめ、登場人物の心情とか全く掘り下げて来なかった状態でいきなり会津時代の回想を出されたので、正直萎えてしまいました。
以前の記事で私は、八重さんから「会津」を感じられない、と書きました。
あれ以降の話でも、八重さんは会津を感じさせるどころか什の掟は平気で破るわ、薩摩藩士の娘に土下座して聖人君子化してるわ、優雅にジンジャークッキー焼いてお金持ち校長夫人として何不自由なく暮らしてるわ・・・で、八重さんの中にはひと欠片も会津を見出せる要素はなかった。
なのに今回いきなり会津にやって来た八重さんが「変わっつまった」と呆然と呟いてても、視聴者からすれば回想の中に出てくる八重さんと現在の八重さんの変化ぶりに、正に「変わっつまった」なと突っ込みたくなるのですよ(勿論悪い方向に)。
一番変わったのはあなたですよ、と言いたい。
もっと言うのなら、山本八重と新島八重の別人説が浮上しても良いくらいです。
更に捻くれたものの見方をさせて頂くのなら、「私は故郷会津を忘れてません」という無言のアピールにも見えたんですよね。
いや、違いますやん、すっかり忘れてましたやん八重さん。
よしんばそうなら、第一話から見てる視聴者から「八重さんから「会津」を感じられない」何て感想飛び出てくるはずないじゃないですか。
いつそんなに変わってしまったの?どうしてそんなに変わってしまったの?脚本や制作陣は八重さんを如何したいわけ?と、もやっとしたものばかりが胸中に広がりまして・・・。
そしてそんなところへ、うらさん再登場ですよ。
尚之助さんの時に続く、綺麗に終わったと思ったものを蛇足としてまた持って来たわけですね。
実際のうらさんは、山本家と別れた後に仙台に行ったとも言われていて、その後どう暮らしたのか、再婚はしたのか、詳しいことは分かっていません。
が、山本家も山本家で離縁した彼女のことを特に探したということも伝わってはおらず・・・資料を見る限りではうらさんは離縁したので赤の他人です、な状態でして。
しかし伝わっていないだけで、実際は探したりもしたのかもしれませんし、うらさんは仙台ではなく会津にいたのかもしれない、八重さん達が会津に来たときに再会したのかもしれない。
なのでドラマでの再会を、全否定するわけではありません。
「あったかもしれない」範囲の創作は、大河ドラマの常套手段です。
ただし、「それが上手く作れていたら」の大前提がつきますけれど!
で、今回それが上手く作れていたらの大前提をクリアしてたのかというと、クリアどころか掠りもしていなかった。
うらさんを探して、うらさんに会って、その次どうしたいのか、全員子供じゃないんですからちゃんと考えておきましょうよ。
同居申し出るとか、それを断られたらせめて支援だけでもとか、本当にうらさんのことを考えて心配してたのなら、もっとあるでしょう。
それを、その場で思いついたように同居を申し出、断られたらすごすご引き下がるって、それって如何なんですか。
余計なことをしたんだべか」ってしょげるんじゃなくて、考えなしの行動すぎるよ八重さん。
その辺り、お涙頂戴シーンなのに何にも伝わってこない。
離縁は自分で決めたこと、という台詞をうらさんの口から引っ張り出して、覚馬さんとうらさんとのことは双方納得した上でのことだったんですよ、と無駄な念押しをされたようにも映る。
総じて言わせて頂いて、このシーンはやっぱり要らなかったです。
強いてこのシーンの意味(うらさん再登場)を見出すのなら、八重さん達がうらさんと会津で再会したと手紙を通じて知った覚馬さんと、それを聞かせる佐久さんの会話を聞いていた時栄さんが、「山本家」の輪の中に入って行けない疎外感のようなものを感じていた、ということでしょうか。
以前から薄らとそう言う描写はあって、それが積み重なって時栄さんの今後の展開に繋げられていくのだろうなとは思います。
でも、それならうらさんのこと抜きに、純粋に故郷トークで盛り上がる山本家に入って行けない時栄さん、の図式でも良かった。
もし覚馬さんの心にまだうらさんの存在が色濃く残っている、という風に描いて、時栄さんの寂しさに繋げて行きたいのであれば、ここはもう少し覚馬さんの心中を掘り下げるか何かするべきですよね。
そういう描写や演出が、相も変わらず悉く足りてないです。

この会津紀行の後日談と言いますか、8月1日に襄さんは時雄さんを連れて山形に行き、八重さんは彼らとは別れて会津に残ります。
山形に行った襄さん達は、甘粕三郎さんと言う人を訪ねているのですが、この三郎さんの姪の甘粕初子さんは、襄さんの死後、八重さんに養女として迎えられています。
八重さんに繋がる重要なエピソードの欠片ですので、少しは触れられると思ったのですが・・・見事にスルーでした。
ちなみにこの初子さんの母方の祖父は、会津藩公用方の手代木直右衛門さんですから、初子さんは会津藩士の血を引いているのですね。

さて、北海道開拓使次官だった黒田さんの肝煎りで始まった女子留学の企画の元に、アメリカ留学をしていた捨松さんが、十年を超える年月を経て無事に日本に帰国しました。
彼女と共にアメリカに渡った女子学生は五名でしたが、内年長者の二人は馴染めずに帰国、永井しげさん、津田梅子さん、そして捨松さんの三人が異文化圏に順応し、特に捨松さんはヴァッサー大学を三番目の優秀な成績で卒業し、卒業論文(『英国の対日外交政策』)の講演は地元の新聞に掲載されて称賛されるほどだったと言います。
そうした輝かしい実績を修めた捨松さんが、11年ぶりに家族と再会しましたが、日本の風習や日本語は忘れてしまったようで、土足で家に上がってしまうわ、自分が話しているのが英語なことにも気付いていない様子。
捨松さんとの再会を心待ちにしてた山川家の皆様も、これには吃驚です。
史実でも帰国した捨松さんは、日本語の読み書き会話がすっかり怪しくなってしまっていたようです。
それだけならまだしも、この他にも沢山の試練が帰国した彼女の前に立ちはだかるのですが・・・その辺りは次回に筆を譲ることにしましょう。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年10月15日火曜日

第41回「覚馬の娘」

有名な「吾死スルトモ自由ハ死セン(板垣死すとも自由は死せず)」は明治15年の出来事なので(そう言って息絶えたわけじゃないけど・・・)、時間軸としてはもう少し先の話ですが、この頃日本で自由民権運動の熱がうねりを上げていました。
要は民の声を政に反映させようという動きです。
二十歳になれば当たり前のように男女に平等に選挙権というものが与えられている時代に生まれた我々からすれば、民権獲得のための時代というのは少し想像しにくいかもしれません。
国会と議会の開設が明治政府の急ぐべき課題としてある、というのは以前の記事で触れた通りです。
それをしなければ、先進国として諸外国から認めて貰えない、つまりそんな状態では不平等条約解消何て叶いっこない、という事情が背景にあるのも、同じく前回の記事で触れた通りです。
そうでありながら、何故政府はいつまで経ってもそうしないのか、ということについて、少し触れたいと思います。
まず単純な構図から行くと、選挙をする=人気のない者は当選しない、ということですので、今のポストから自分が蹴落とされるかもしれない、というしがみ付きが挙げられます。
が、まあしがみ付く彼らにも彼らなりの正当な理由(?)がありまして、選挙で素人が政界に出て来ちゃったら、日本のかじ取りが危うくなるという心配があったからなんですね。
政治のせの字もよく分からない人が、でも選挙で当選してしまいました、でもやっぱり何して良いのか分かりません、な描写は、先週の京都府会の選挙で描かれていた通りです。
京都の場合は、議長の座に就いた覚馬さんが指導係のような形で彼らを教え導いていましたが、あれがそのまんま日本という国のトップで行われるとなると、確かにちょっと問題ですよね。
覚馬さんみたいな人がいっぱい政府にいるのならまだしも、ですが、そんな都合の良いようには世の中出来てません(笑)。
と、いうのが政府が国会の開設にすぐに踏み切れないざっくりとした事情のようなものです。
ただ、民衆にはやっぱり藩閥による専制政治に見えたんでしょうね。
徳川幕府が、戊辰戦争勝ち組の藩に変わっただけで、これじゃあ何も変わってないじゃないか、と。
民権派と政府との対立は、色んな事情も相俟って複雑な様相となっているのですが・・・ドラマの描かれ方ですと、完全に明治政府側が悪者みたいでしたね。
悪者にも悪者なりの事情というのは、いつの時代もちゃんとあるとは思うのですけどね~。
何だかんだ言って国会の開設は、明治14年に明治天皇が国会開設の詔を発して、それからまだ10年ほど待たなくちゃいけないのですが、それでも「早すぎた」と批判していた人とかもいますからね(某べらんめえ口調の方とか)。
まあ日本の上がそんな感じで、その縮小版と言わんばかりに地方(京都)も覚馬さん率いる議会と、槇村知事が衝突します。
国庫の引き継ぎをうっかり忘れていた明治政府は、始まったその瞬間から財政的に苦しい政府でしたが、それに加えて西南戦争の大動員もあったので、非常にお金に困っていました。
予算が足りないのなら、他から搾り取ればいいと考えるのはいつの時代も発想が同じなのでしょうか、このときは地方の負担を増やすことになります。
そういうわけで京都では、税の追加徴収が槇村さん(知事)から通達されます。
が、それがすんなり通る筈もなく、それを通さぬために覚馬さん達議会が壁となってそれを阻みます。

府の予算はまず議会で審議する決まりです。税の追加徴収を独断で決められでは困る
知事が足らん金を集めて、何が悪い
知事と言えど、人民の財産を勝手に奪うごどは許されません

ご尤もな正論です。
ちなみに府会(覚馬さん達)には、議案の提案権や決算の審査権はありませんでした。
逆に知事には議事の停止権がありましたが、府会は地方税の審議権は持っていたので、槇村さんの独断に掣肘を食らわす権利を彼らはちゃんと有しています。
知事の独断を防ぐための府会で、知事が独断で何もかもしてしまったら、府会の存在意味ってなくなりますよね。
知事には府会に反対されても議案を通せる権利は持ってはいますが、府会は府会で審議権を持っていますから。
この槇村さんの横暴を弾劾する上申書を覚馬さんは政府に送りますが、返事はありません。
知事独断による府民への増税を暗黙の了解として捉えている、とありますが、政府側としては「それしか方法がない」「むしろ文句があるのなら他の方法教えてよ、そっち採用するから」という状態なのでしょう。
明治13年度(第二回)通常府会が行われたのは、5月7日でした。
知事である槇村さんも出席し、会期は85日、7月30日の閉会でしたが、この最中に地方税追徴布達について審議され、この件は同年10月6日開会の臨時府会まで持ち越すことになります。
この臨時府会は10月16日に閉会し、この増税についてを討議可決して槇村さんを屈服させる・・・というのが今回のこの事件の顛末になるのですが、その過程をドラマの内容を突きつつ追って行きましょう。
まず開会中に、槇村さんは地租と戸数割について各12銭1厘7毛の追徴を布達し、府会(覚馬さん達)に事後承諾を求めますが、府会は審議の結果、これを不当とします。
覚馬さんは議長として、追徴の旨を取り消すよう伺書を槇村さんに提出しますが、槇村さんの回答は「施行候儀と可心得事」と高圧的です。
これが6月10日時点。
そこで覚馬さんら府会は槇村さんを非難し、内務卿の松方正義さんに実情を具申、伺書を提出します。
作中の上申書はこれのことですね。
これが6月14日の出来事ですが、これに返事が来たのが6月30日と、かなりの時間を経過してのことでした。
しかも回答電報の内容は、「地方税追徴の儀には、差出したる伺書は建議と認め、其侭留置き指令に及ばず」というもの。
覚馬さんは、自分達が出した伺書を建議というのなら理由を示すよう(法律上の明文がなかったので)に内務省に要求します。
対して内務省は沈黙を貫き、そうこうしている内に府会は閉会してしまいます。
けれどもこのまま押し切られて増税になるかと思いきや、覚馬さんが「知事よりもっと大きな力を味方につける」と、新聞という媒介を通じて世論に槇村さんのやり口を訴え、世論を味方に付ける、と言った方法を取ったのが効を成したのか、10月16日に開かれた臨時府会で「詮議の次第有之、本年当府第二百十一号布達(註:地方税追徴布達のこと)は一旦取消候事」という旨を発表し、府会は主張を貫き、槇村さんは屈服させられたことになります。
槇村さんは改めて府会に地方税追徴の議案を提出し、府会は原案を可決、執行となります。
つまり府会を無視せず、議会の審議権を尊重した正式な手順を踏んでの、改めての増税案を提出し直したわけですね。

私は、本日を以って職を辞します。戦いに負げで、私は議会を去る。あなたは勝って、知事の面目を保った。勇退なされば、元老院に迎えられるでしょう。・・・よい花道ではありませんか?

と、こんな具合にドラマでは覚馬さんが刺し違える形で、槇村政権の幕を下ろさせていました。
実際の覚馬さんはこれらの事の顛末を見届けた後、議長と議員を辞職して府会を去り、しかしご隠居になったわけではなく、京都商工会議所会頭に就任して、経済面で京都をサポートする立場に転じます。
槇村さんはその責任を問われる形で、翌明治14年に元老院議官へ転出しました。
刺し違えではなかったような気がするのですが・・・まあ個々の捉え方がありますよね。

色々順番が前後してますが、京都の自由自治攻防戦はさておき、今週のタイトルにも掲げられているメインの部分に触れましょう。
文久2年(1862)の生まれですので、今は18歳、数えで19歳になるみねさん。
来年には女学校の卒業を控えているらしいのですが、そのみねさんに婿取りの話が持ち上がります。

何と言っても、みねは山本家の跡取りだから。みねにはしっかりした婿を取って、家を継がせねばなんねぇよ。うらがみねを手放した気持ぢ・・・忘れだらなんねぇがら

まあ山本家を継ぐ男児がいないので、みねさんが必然的に嫡子にはなりますからね。
八重さんと襄さんの間に男児が、あるいは尚之助さんとの間に男児がいたら事情は変わって来ていたでしょうが、生憎と八重さんに御子はいません。
うらさんも、直接口に出したことこそなかったけれど、そういう方針で(つまり嫡子として)みねさんを育ててたんだろうな、と思います。
しかし冒頭で初子さんとみや子さんと叫びながら、「結婚のけの字は汚れのけ」と言っていた辺り、彼女には結婚に対して抵抗があるのでしょうか。
けれども今治にいる時雄さんに手編みの靴下を送ったり、文通をしたり・・・と淡い思いを抱いているのも確か。
そんな折、京都で同志社演説会が開かれることになり、卒業後各地に散っていた金森さんや海老名さん、時雄さん達が京都に集まります。
新島邸でその準備に励む最中、覚馬さんも襄さんも八重さんも全員揃っているからということで、時雄さんはみねさんを伴侶にしたい旨を告白します。
取り敢えず時雄さんのその一世一代の決心の下の告白は、一旦保留にされたらしく、覚馬さんと八重さんはみねさんの気持ちの確認をします。

いい青年だ。悪ぐねぇ縁だど思うげんじょな

覚馬さんが時雄さんを「いい青年」という背景理由の一つに、以前の記事でも触れた、尊敬していた横井小楠さんの息子だから、という理由も大いにあると思います。
ですが、小楠さんの存在をスルーし続けて来たこの大河ですので、今更その事実にも触れるわけにはいかないとでも思ったのでしょうか。
何処までもスルーされ続ける小楠さんの存在です。
まあ、今はそれはさて置き。
覚馬さんからのOKサインが出て、みねさん自身も時雄さんのことを憎からず思っているのに、どどーんと時雄さんの胸に飛び込んでいけないのは、伊勢さんが長男だから山本家の婿にはなれないという問題があるからなんですね。
得に覚馬さんはその辺り気にしている節がないのですが、みねさんは目茶苦茶気にしていました。
寧ろ、あっさりOKサインを出す父親に、それで良いのか、と逆に問い掛けるほど。

子供の頃がら、ずっと言われでだ。・・・みねは山本覚馬の娘だ。おとっつぁまの名を汚してはなんねぇ。婿を取って家を継がねばなんねぇど・・・いづも、おっかさまに言われでだ。顔も知らないおとっつぁまの話、毎日聞かされでだ。・・・おっかさまは、おとっつぁまのごどをずっと思っていだんです。それなのに・・・おとっつぁまは、おっかさまを捨てだ!・・・うぢには久栄がいっから、もう私がいなくでもいいんだべ!おとっつぁまは、今度は私を放り出すのがし!?

嫡子としての立場に縛られ、母親を捨てた前科のある父親だから、今度は自分を捨てるのか!?という娘としての複雑な気持ちもあり・・・と、みねさんの中はもうぐっちゃぐちゃだったかと思います。
その葛藤描写がもう少し欲しかったところですが。
八重さんに「姉様は家のためにみねを手放したのではなく、どうしたらみねが幸せになれるのかを考えてた」と、つまり嫡子としての考えに縛られず、自分の幸せの方向に歩いて行けば、それがうらさんの願いだったと言われます。
でもそれならみねさんは家族三人で一緒に暮らしたかったんですよね。
それに、戦で家族が別れ別れになって・・・、と八重さんは言いますが、うらさんと覚馬さんのことに関しては戦はほぼ関係ない。
更に、みねさんの説得役は、八重さんでなかったら駄目か?という疑問も浮かびました。
いえ、こうしなければ、今回も主人公でありながら蚊帳の外に置かれてる感になってしまうかと思いますので、そうしないための措置なのでしょうが・・・。
個人的には覚馬さんがみねさんに、「お前の思う道を行け。跡取りのことを気にしてるんだったら、気にするな。お前が産んだ子を一人、山本家の跡取りとして迎えればいい」くらい言うのが、一番綺麗にまとまる(実際みねさんの子供がそうなるわけですし)形だったのではと。
何だかこう、いまいちタイトルに「父娘」を漂わせているにしては、父娘が強く感じられないなと。
そもそもこのみねさんの結婚も、大切でないとまでは言いませんが、それは覚馬さんと小楠さんの関係をちゃんと描けた上で「意味」が浮き出てくるものでありまして、そこがごっそりないのに、話の半分くらい使ってやられてもなぁ、と。
それよりも、東京や薩長中心の明治ではなく、京都という一地方(京都を地方とするのには違和感がありますが、中央ではないという意味で)の一府会の出来事にちゃんを腰を据えて描いたら、ホームドラマの嘲笑を受けずにいいドラマになると思うのですが。
これはまあ、あくまで私の主観と好みの問題ですので、余りお気になさらず(ただのぼやきです)。

明治14年(1881)、北海道開拓使を巡る汚職疑惑、いわゆる開拓使官有物払下げ事件が起こります。
北海道開拓使長官の黒田清隆さんは、明治4年から10年間の開拓計画の満期を終えた後、つまりこの明治14年、開拓使を廃止する方針を固めました。
でも開拓使は廃止しても、開拓事業ははいそこでおしまい、ということにはなりませんよね。
というわけで、開拓事業そのものは今後も継続という方向になりますが、そのために黒田さんは部下の官吏を退職させて起業させ(関西貿易商会)、自分達が使っていた施設や設備を、これに安価(当時の38万円)で払い下げることにしたのです。
黒田さん達が使っていた施設や設備、たとえば船を停めるところや倉庫、炭鉱、工場、農園もろもろは、民間のものではなく国有物です。
これらを作るのには勿論大金(当時の1400万円)がかかってますし、その大金はといえば国民の税も含まれているわけですよ。
黒田さんはこれらが「赤字だったから」という理由でそうしたのですが、これに政府内部からも、そしてこれを報じた東京日日新聞によって民衆からも非難が浴びせられます。
特に政府内では、この民間への払い下げを認める規約を作った大隈重信さんがこれを非難しますが、これが巡りに巡って大隈さんが仕掛けたことでは?とう疑惑が生じ、明治14年の政変へと発展して行くことになります。
薩摩出身の黒田さんに対して大隈さんは非薩長の方ですので、陥れられたのか何なのか、東京を離れた隙に伊藤さんらによって政界を追われることになります。
それが明治14年10月12日の出来事。
ですがその一方で、民衆から政府に向けられる非難への収拾策として、明治天皇の勅許を頂き、国会開設の勅諭が出され、事の発端となった払い下げは中止と発表しました。
しかし昨日の今日で選挙を行ってすぐに国会を開設したら、折角政界から追放した大隈さん(薩長閥で凝り固まった明治政府を非難したので、民衆からの支持があった)が復活してきて政権を奪われかねません。
なので、国会開設の勅諭は出されましたが、実際に開設されるのはこれより九年後の明治23年(1890)と定められました。

世論を抑えるには、国会の開設を進めるしかありません

という伊藤さんの言葉の通りに事は進んでいるように見えて、本当の開設まで年月を設ける辺り、本当民権って難しいのだなと思います。
ドラマの流れですと、岩倉さんや伊藤さんが物凄く今の地位に執着してる悪者に見えますが、悪者にも悪者なりの事情があるというのは、既に今回の記事の冒頭あたりで触れた通りです。

何はともあれ、明治政府は国会開設と議会制度の確立を国民に約束しました。
新聞記事でそのことを知り、世の中とともに国が変わって行くことを確かに実感する八重さんに、襄さんは同志社英学校を大学に作り変えると言います。

人民が国の舵取りをする時代が来るのです。一国の良心となる人物を大勢育てねばなりません。そのためには大学が必要です。国の権力に左右されずに、自由自治の精神を貫く私立の大学が

私立の大学と言えば、同志社大学もそうですが、政界を追われた大隈さんも東京専門学校(現在の早稲田大学)を明治15年に作りますよね。
明治14年の政変後、明治政府は天皇制国家・天皇制教育の形成に向かって行ってしまいました。
そんな中、襄さんは大学設立のために明治政府要人らを利用しつつ、教育を通じて国家秩序を回転させ、新しい日本を創出することを目論んでいました。
あまりドラマではそう言う風に描かれませんが、襄さんは国家論的視野に立つスケール雄大な教育事業家(何と言っても明治六大教育家に名を連ねてますので)なのです。
覚馬さんの設定も大概削られてますが、襄さんの国家観や政府観もごっそり削られてますよね、このドラマ。
何と言いましょうか、一つ一つの出来事の掘り下げが浅く、登場人物の心情に踏み込まず、エピソードだけをぼんぼんぼん、と進めて行くので、歴史版サザエさんを見させられているような気にならなくもないです。
今回でいうと、「みね、嫁ぐ」「知事VS議長」「明治14年の政変」の三本立てで!という感じで。
そして次回はうらさんが出てくるようで・・・どうして尚之助さんの時と言い、綺麗に終わらせたエピソードを蛇足的にまた持ってくるのか・・・(謎)。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年10月8日火曜日

第40回「妻のはったり」

ドラマの年代的には、自由民権運動の動きが活発になり始めた砌ですが、相変わらずその辺りはソフトタッチで行くようなので、私もいちいち解説は加えません。
前回ドラマの感想・考察を、呆れ返って(あるいは大きく失望して)白紙で更新するということをしましたが、正直ごり押しと、過程を書き込まないスタイルと、「適当に察して下さい」と視聴者に放り投げるような作りの浅さと、詰め込みすぎて毎回ダイジェストを見せられているような話の展開には、ほとほと嫌気がさしております。
なので、解説いちいち加えたり・・・という姿勢にも、正直疲れて来たというのが私の本音です。
それでもまあ、あと残すところ10回を考えたら、適当でも良いから頑張るかという気もしなくもないです。
そういう気分を漂わせながら書いているので、以降に更新される記事にも行間からそう言う感じがにおって来てしまうやもしれません。
要らない、と思った場面・部分も容赦なくすっ飛ばして行きます。
ただ、このブログを読む読まないは皆様の自己判断ですので、読後の責任諸々は負いかねます。
ここのブログは私のブログですし、私は私が思うこと、感じたことを吐き出しているまでです。

前置きが長くなりました。
まずは府県会の設立やら何やらの話ですね。
京都ではなく、日本全体を見るに、このころ日本は「我国は西欧諸国に並ぶ先進国です」とアピールするために、国会・議会の設立を必死に目指してました。
一刻も早く先進国になりたい理由は色々あったでしょうが、第一として考えられるのが幕末にじゃんじゃん結ばれた不平等条約を解消し、平等条約を締結し直したかったからでしょう。
非先進国のままだと、西欧諸国と並んだ時にやはり格下扱いされ、いつまで経っても「平等」にはなれないのです。
では、その先進国とは何ぞやというので、出てくるのが「民権」です。
まあつまり、かなりざっくり申し上げますと、アメリカの南北戦争後、リンカーンさんのゲティスバーグ演説で出て来た「人民の、人民による、人民のための政府」が行われている国、とでも申しましょうか。
伊藤さんら国のトップ層は、外交では「日本は封建制を脱却し、民権を遵守する先進的な国になりつつあります」とはアピールしていたものの、実際には槇村さんに言っていたように、選挙で民衆の代表を選ぶような真似はさせるまい、という姿勢はありましたが。
まあ、そんな具合で、明治11年に国は府県会を設立します。
今の地方議会ですね。
その流れで、明治12年3月25日に京都府会が開設され、第一回府会議員選挙が行われます。
これの当選の報せを受けた覚馬さんが、まるで身に覚えのないような顔をしていましたが、当時の選挙は立候補制ではなかったので、無理もありません。
選挙候補者は、高額納税者の25歳以上の男子、有権者は高額納税者の内20歳以上の男子に制限されていました。
明治22年に行われた衆議院議員選挙のときに、高額納税というのは15円以上を納めている人をと定められていましたが、この時の高額納税者は一体いくらくらい納税してる人だったのでしょうか。
ともあれはっきりと分かるのが、覚馬さんが高額納税者だったということですが、まあ彼の顧問時代の月給が抜群に高かったのは以前触れた通りですからね。
さて、「目も見えぬ、足も立たぬ俺に、まだ働けと京都の人たちは言ってくれた」と言った覚馬さんと同時期に選出されたのが、上京組ですと山鹿九郎兵衛さん、吉田安寧さん、山中平兵衛さん、山中小兵衛さん。
下京組は杉本新右衛門さん、田中善八さん、柴田彌兵衛さん、井上治郎兵衛さん、安村吉兵衛さん。
その中で覚馬さんは初代議長となりますが、まあまあ、槇村さんの慌てぶりと言ったら・・・多少、やりすぎかもしれません(苦笑)。
ところで、京都府会というと、かつて京都守護職上屋敷があった京都府庁旧本館を思い浮かべる人も多いかもし入れませんが、覚馬さんが当選した時点であの建物はまだ存在しませんので、府会は中学校の講堂で開かれていました。
なので容保桜の咲くあの場所に、覚馬さんが勤めていたということはありません。
ちなみに覚馬さん、ご存知足が不自由なので、議会の彼の席には巨大座布団が敷かれていたそうです。
そしてご存知、覚馬さんは両目も不自由なされてるので、今回は時栄さんが寄り添ってましたが、以降は府会の書記に任命された丹羽圭介さんが介助を務めます。

これまで日本では、世の中の仕組みを変えるために人を殺め、町を焼き戦が繰り返されて来ました。だが、今日がらは違う。武器を持だぬ者が議論によって政治に関われる場所が、この府会なのです!議員諸君にはm府民の代表としてお覚悟を持ってお勤め頂く事を、切にお願い申し上げます

と覚馬さんは第一声を発しますが、肝心の議員の皆様は、自覚と覚悟があっても何をして良いのか分からないご様子。
そこで覚馬さんが「予算を審議すれば、府がどのような事業をするのか自ずど見えで来ます。これによって府政を監視するごどが出来ます」と、さながら教師のように議員を先導していきます。
第一回府会は、開会日数が37日で、その時に副議長選挙と、経営費としての警察費支出の件、その他徴税の件を議決し、5月5日に閉会となったそうです。
覚馬さんが議長となって動き始めた京都府議会ですが、その先には覚馬さんを徐々に煙たがるようになりつつあった槇村さんとの衝突が待っていました。
それは次回触れられるようですね。

さて、何だかんだで開校四年目を迎えた同志社英学校ですが、相変わらず問題は山積みでした。
秘密結社「同心交社」などは、それとなく匂わすだけで触れられてなかったので、私も割愛しますが、表立っての一番の問題はアメリカンボードとの確執でしょうか。
否、正確に言えばアメリカンボードと政府との間に板挟みになってた、という方が日本語表現正しいかもしれません。
冒頭で、外務省の寺島さんから襄さんにお手紙が来ていましたが、このとき政府側から見た同志社英学校の問題点としては、アメリカンボードからの多額の資金援助の下に成り立っているということで、「経済的植民地化」とも取れない状態になるんじゃないのか、という部分。
逆に、アメリカンボード側からの同志社英学校の問題点としては、多額の資金援助をしているにも拘らず、そこで育成された生徒が牧師にならないという現状についてです。
実際同志社英学校第一期卒業生の15人の内、牧師の道を志したのは6人だけです。
アメリカンボード的には、15人全員が、とまでは言わないでしょうが、それでもやはり支援してる以上10人以上は牧師の道を志して欲しかったと思うんですよね。
しかし襄さんが「生徒が医者、商人、政治家、いかなる道を選ぼうと自由です」と仰ってたように、人の行く道を強要する権利何てその人以外の誰にもないんですよ。
この場合、襄さんの言い分が一番正論ですが、でも金銭的な援助を受けてる以上、少なくともアメリカンボードに対してその正論は通りませんし、金銭的な援助を受けてる事実が無くならない限り、同志社英学校は政府から睨まれ続けることになります。
まあ、先に将来的な結論から言いますと、同志社英学校は襄さんの次の代の時に、アメリカンボードから金銭的に手を切って独立します。
でなければ廃校は目に見えていたので、これは賢明な判断だったと思います。
が、それは先の話で、現時点での襄さんはまだそこまで決断を踏み切れなかったんですね。
そのせいか、校長に向いてないだの何だの、散々に言われてしまう襄さん。
何と言うか、胃が擦り切れそうな毎日を送っておられるなぁ・・・と、同情を禁じ得ません。

何はともあれその年の6月12日、同志社英学校から一期卒業生が巣立っていくことになりました。
以前の記事でも触れましたが、第一期卒業生15人には、熊本バンド以外は存在しません。
転入当初はあれだけ学校内を引っ掻き回した彼らですが(いえ在校生の中にも熊本バンドはまだ残ってますが)、それも今はいい思い出なのか何なのか、襄さんは彼らへの餞にこんな言葉を差し出しました。

皆さんにとって、私がよい教師であったのか分かりません。10年後20年後の皆さんの生きる姿が、私がどのような教師であったのかを教えてくれるのだろうと思っています。この国は多くの尊い命を犠牲にして、今まさに生まれ変わろうとする道の半ばです。この先もきっと予想もつかない困難が皆さんを待ち受けているでしょう。Go,Go,Go in peace.同志諸君!己の信じる道を歩んで行きましょう

校長辞めろとまで言ってきた生徒に対して、こう言える襄さん本当人格者ですな。
そして・・・覚馬さんが尊敬してやまない横井小楠さんの息子、伊勢時雄さんもまた、同志社英学校を卒業して伝道者として今治に行きます。
そんな時雄さんにみねさんが贈ったのは・・・何故か靴下。
プレゼントのチョイスはさて置き、初々しい二人ですが、ゆくゆくは夫婦になる二人だからな~と思ってたらどうやらその様子はもう来週に描かれるようです(苦笑)。

さて、ドラマでは「この頃」と実しやかにナレーションがかかっていたのに驚きのあまり目を剥きましたが、ここで襄さんのご両親のご登場です。
上洛して来たのはお父さんの民治さんと、お母さんの登美さんだけのように描かれてましたが、実際は襄さんのお姉さんの美代さんなども一緒に来てるはずです。
新島一家の上洛は、「この頃」ではなくもっと以前の話で、襄さんと八重さんが結婚した明治9年の春にはもう京都に来られてたかと思います。
ちなみに民治さんは安中藩のご祐筆でした。
つまり襄さんの育った新島家は下士ですが、、限りなく上士に近い下士という、経済的に裕福なお家だったのです。
そういう家庭なので、襄さんも本来ならば松籟祐筆になる道が敷かれていましたが、皆様も知っての通り襄さんは国禁を犯してアメリカに密航して現在に至っております。
民治さんはそんな襄さんを「あれの考えることはよく分からん」と言いますが、これ、少しおかしな発言だなと思いました。
民治さんって上洛後の明治10年3月4日に受洗してるんですよ。
おそらく洗礼を授けたのは襄さんでしょうが、まだキリスト教の風当たりが強い時代に洗礼を受けるということは、民治さん自身がキリスト教に理解を示したわけで。
で、安中藩のご祐筆だった彼が何を通じてキリスト教を知ったかといえば、襄さんだろうなと考えるのが一番自然なルートなわけですよ。
なので、そういった経緯を考えると、民治さんが襄さんのことを「考えてることはよく分からない」というのは、何かがおかしいと感じるのです。
「まさか学校を作るとはな」くらいで良かったのではないでしょうか。
ところで、この襄さんのご両親もあの新島邸に住まわれていたのかというと、そうであるような、ないような、というのが本当のところです。
現在も残る新島邸に行くと、大体皆様あの洋風な建物にしか目を向けませんが、附属家という名で同敷地内(入ってすぐ左)にある日本家屋は、襄さんが呼び寄せたご両親の隠居のために建てたものです。
洋風だと落ち着かないからだろうと、江戸藩邸にあった住居を模して作られています。

さて、民治さんの口から明らかになった、襄さんの額の傷の歴史。
と言っても、木から落ちて出来たものらしいですが(笑)。
実はこの話には続きがあって、この傷を恥じた襄さんは、その後2か月間部屋に引きこもって、引き籠りを辞めた時には勉学に打ち込むようになったんだとか。
というのが新島襄額の傷の歴史なのですが、八重さんは「新島先生も情けなか」と言った生徒に、「あれは箱館がらアメリカの船で密航するとぎに、役人と戦って出来だ傷だ!」と口走ってしまいます。
とどのつまりは、「襄は信念のためなら断固として戦う強い人」と言いたかったようなのですが、そのためにとんでもないはったり・・・といいますか、嘘ですね、これ。
会津の什の掟に、「虚言を言ふ事はなりませぬ」というのがありますが、見事に破っていますね。
後々の展開を見るに、このはったり、本当に必要だったか?とかなり疑問に思いましたし、タイトルに仕立て上げるほどのものでもない。
こうでもしなきゃ、今回の話に八重さんが入って行けなかったのでしょうが、会津人に什の掟破らせるようなことしてまで話に突っ込むなよと言いたくなります。
前回の土下座も酷かったですが、今回のこれも酷かったかと思います。
このドラマは史実の新島八重という女性に対する敬意が、本当に欠けていますね・・・。

まあ今回の話の趣旨として押さえておくべきは、八重さんのはったりどうこうよりも、襄さんがアメリカンボードと政府との板挟みになっているということです。
この件について襄さんは物凄く思い悩んでおり、同志社英学校の校長の座を捨てて、北海道で農業を始めようかと考えていたほどだったそうで。
もしこれが実現(?)すれば、今頃北海道には新島農場とか新島牧場なるものが存在していたのかもなんですね。
まあそれで、そこでゴードンさん達は伝道師育成クラスを設けることにし、そのために上級クラスと下級クラスを合併させて伝道師育成クラスの枠を作ることにしました。
が、これを話し合っている最中に肝心の襄さんは愛媛に宣教活動に行っていて不在、彼が戻って来たときには、もう合併は決定事項となっていました。
けれどもこの決定事項は完全にアメリカンボード都合、教師陣(宣教師陣)都合の考え方で、生徒のことなんてまるで置いてけぼりです。
だから、生徒らは反発します。
当たり前です、学校の主役は先生たちではなくそこで学ぶ生徒なのですから、主役の意向を無視して主役が黙っているはずがない。
この決定に、襄さんは最後まで意思を通す(=牧師は強要されてなるものではない)と思っていた生徒らは、授業を放棄して寮に立て籠もります。
猪一郎さんは自作の新聞で生徒たちの不満を煽る煽る・・・将来の片鱗が既にこんなところに見え隠れしていますが、生徒たちの心境をもう少し深く突っ込ませて頂きましょうか。
上級クラスと下級クラスを合併させるということは、上級生からすれば試験などもせずにいきなりレベル↓の下級生と一緒になって授業しましょう、ということです。
物凄く簡単なたとえをしますと、掛け算を習ってる小学校2年生(=上級クラス)が、簡単な足し算引き算しか出来ない小学校1年生(=下級クラス)と一緒に勉強することになりました、1年生はまだ掛け算習ってないから、授業は1年生のレベルに合わせたもので進めて行く形になります、と言われることのようなものでして。
何故学校側の大人の事情で自分達の授業の質が落とされなくてはならないのか、何故自分達が下級生に合わせなくならないのか、勉学欲の人一倍強かった熊本バンドたちがそう思うのも無理のない話です。
欲を言えば、あれだけ勉強欲丸出しで熊本バンドを登場させたのだから、その辺りの心の機微もちゃんと描いてあげて欲しかったなと。
あの演出じゃ、何故生徒が不満を抱いているのか、いまいち視聴者には伝わらないです。

生徒たちのストライキに対して、襄さんを除く教師陣は授業を無断欠席することは重大な罪だと、罰則を与えるべきと進言します。
明治13年4月13日、襄さんは生徒を講堂に集め、学校存続のためにクラスの合併はやむを得ない旨を言います。
しかしそれに伴っての生徒への説明が不十分だったことを詫び、「過ちを犯した罰は受けねばなりません。全ての過ちの責任は校長の私にあります。よって、私が罰を受けます」と右手に持っていた杖で、自らの左手を杖が折れるまで何度も激しく打ち付けました。
所謂「自責の杖」事件と呼ばれるもので、本来は「吉野山花待つころの朝な朝な心にかかる峰の白雲」という、佐川田昌俊さんの和歌が前置きがあって、杖の打ち付け、という流れでした。
この和歌は襄さんの特にお気に入りで、死の間際にも何度も何度も詠んでいます。
歌意は「吉野山に桜が咲くのを待つ頃になると、毎朝毎朝、桜ではないかと気に掛かる、峰に掛かっている白雲であることよ」というので、「自責の杖」の際にこれを出して来たときの襄さんの心境としては、いつも同志社(含むそこで学ぶ生徒)のことを気にかけています、ということだったのではないかなと。
しかし生徒ではなく自分を罰したのも、他者の罪は自分が背負う、という襄さんは、生徒の声に耳をまるで傾けないあの場にいた宣教師ズよりも、よっぽどキリスト教信者だよなと思いました。
余談ですがこのときの杖、八重の桜紀行でも映ってましたが、現存してます。
同志社大学が所有しているのですが、同志社大学の新島襄遺品庫からの検索で、現物の写真を見ることが出来ます。
本物見たことありますが、最初見た時は「何でこれを捨てなかったのだろう?」とはてなマークを浮かべたものですが、自戒か何かの意味を込めて置いておいたのでしょうか。
それはさておき、事情は如何あれ自分の杖で自分の手を打ち付けるほどに夫が追い詰められていたというのに(ドラマの流れだと、原因の一端は八重さんのはったりにもある)、襄さんの手を手当てする八重さんの態度がちょっとなぁ・・・と感じました(苦笑)。
何だか今回は、八重さんはどの場面にいても、何をしていても、違和感と異物感がない雑じったような感じになるというか、はっきり言って八重さんいなくても良いんじゃない?とう感じがして。
もう少し彼女に対して、どうにか上手いことならないものですかね。

さて、それから約ひと月経った5月24日、猪一郎さんが同志社英学校を卒業目前にして中退します。
「自責の杖」事件の後遺症(責任をとって)というのが理由ですが、猪一郎さんの中でキリスト教への関心が薄れたのに反比例して新聞への関心が高まったことも大きな理由でしょう。
西南戦争を報道した諸新聞の影響も大きく作用してたと思います。
後の自伝で、猪一郎さんは学校の読書室にあった『日日新聞』『報知新聞』『朝野新聞』『大阪日報』などを読んで新聞への興味を高め、ジャーナリストという人生目標を見出したと綴っています。
襄さんは猪一郎さんを、新日本という国家を支える活躍を期待していたほどに彼の才能を認めていましたが、同時にその才能が暴走しないかの危惧もしていました。
送別の辞の「大人とならんと欲すれば、自ら大人と思ふ勿れ」というのには、そういったものも含んでのものかと。
そう言ったわけで同志社英学校を中退した猪一郎さんでしたが、実は1875年~1891年前の同志社の退学率は83.3%でした。
脱落という意味での退学もこの数字には含まれているでしょうが、彼の他にも卒業を目前にしてアクションを起こして行った生徒がいたとも捉えられます。
しかし上京を目指した猪一郎さんでしたが、その前途はなかなかに多難で、まず書籍諸々を処分しても旅費の工面が出来ないので、襄さんにそれを無心したら「私の学校辞めるとか言っておきながら、何を虫のいいこと言ってるんですか?」と断られ。
上京出来たら出来た出で、東京日日新聞社に就職活動しますが、福地さんへ17回訪問して全部門前払い食らったり・・・と。
その後も他の名士を当たりましたが全滅し、故郷熊本に引き上げて行きます。
ですが、これでじゃあ猪一郎さんさようなら、では決してありません。
折に触れて、この方は八重さんの人生に関わってくるのですが・・・そのあたりドラマが触れるのかどうかは、現時点では望み薄です(汗)。
そもそも彼の弟が、とっくに同志社英学校に入学しているはずなのに見当たらないのも気になります・・・こちらもなかなか重要人物(久栄さんに関わってくる人物なので)だとは思うのですが・・・。

ではでは、此度はこのあたりで。


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2013年10月1日火曜日

第39回「私たちの子ども」

今回は、感想や考察を起こす気には到底なれない話でしたので、これにて失礼させて頂きます。
尚、今回の様な調子の話が続くようであれば、私は今後も筆を執ろうとは思いません。